影武者華琳様   作:柚子餅

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41.『影武者、洛陽にて動き出すのこと』

 

 

 総大将の袁紹の宣言により、洛陽の制圧と董卓に痛打を与えることで目的達成とした反董卓連合軍は即日に解散することとなった。当然、連合軍が解散となればこれまでのように諸侯が足並みを揃える必要も無く、それ以後の行動はそれぞれで異なってくる。

 

 まず総大将の袁紹であるが、先の軍議の発言どおりに翌日にでも領地へと向かって発つとのことである。ただ、彼女の物言いでは壊滅状態の洛陽を放置していくものと思われたのだが、そうではないようだ。

 なんと二万人の兵を数日も賄える大量の糧食を、ちょっとお気に入りらしい劉備にくれてやったのである。連合軍内で唯一、袁紹の命令を素直に聞いていた為に印象がよかったのだろう。それだけの大量の物資を提供して尚、袁紹軍にはまだまだ余裕があるというのだから驚きである。連合に参加した名立たる諸侯の中でも、資金力という面では他の追随を許さない。

 「領地へ帰るだけですのに荷物が重たくて仕方ありませんもの、いっそ高貴なる者として下々に恵んでやりますわ」という袁紹の発言は本心からのものか、それとも彼女なりの照れ隠しなのか。これについては、劉備から話を聞いただけの拓実には判断がつかない。

 ともかく悠々と領地へと帰還していった袁紹。その彼女の援助により、自軍を維持するにも苦慮するほどに貧窮していた劉備は十数日と炊き出ししても尚余りあるほどの物資を得たのである。

 

 袁紹軍と同じく、すぐさま領地へと帰還していったのは袁術軍である。しかし、こちらは袁紹とは対照的に食糧の計算違いでもしていたのか切羽詰っていたようで、解散を言い渡されたその日のうちに洛陽を発ち、領地へと向かっていった。

 軍議での張勲の言葉は確かに袁術軍の窮状を表していたようで、洛陽での物資補充をかなり当てにしていたようである。けれども洛陽の有様はこの通りで、いくら金を持っていても食糧が買えない状態にある。そうなると袁術軍は一刻も早く領地へと帰還する他にない。兵たちの食糧も少なく、それ故に日数を掛ける訳にもいかないために碌な休息も取れない。疲労から解消されないまま空腹に鞭打たれ、帰還を命令された袁術軍の兵たちはかなり消耗しているようだった。

 

 劉備軍に関してはやはりというか、持ち込んだ物資と袁紹から譲られた食糧を配り終えるまでは洛陽に駐在するようである。

 袁紹軍から三千、曹操軍から三千の兵を借りていた劉備軍は、それらを返してしまえば道中で加わった義勇兵を合わせても一千程度の少勢である。いくら劉備たちが頑張って洛陽を立て直そうにも圧倒的に人手が足りない。そこまでする義理も無いだろうに、あちこちの領主に頭を下げて洛陽への援助してもらえるようにお願いして回っているようだ。

 

 公孫賛、馬超といった残る領主たちは劉備に言われたからというわけでもないのだろうが、それぞれ城下復興の手伝いと飢え細った民たちへ炊き出しを行う方針のようである。

 劉備たちと違うのは、配給する物資はあくまで予定していた進軍速度よりも早く到着したことで過剰となった分だけ。領地の経営もあるということで、洛陽への滞在も数日に留めて帰還するようだ。

 

 

 さて、拓実属する曹操軍の動きであるが、概ね華琳の発案の通りに進めることとなった。

 影武者である拓実が五千の兵を指揮して洛陽の援助、諸侯らと動きを同じくして協調路線を取る。その一方で目的を知られぬよう伏せたまま、華琳が残る五千の兵を率いて長安に向けて進軍し、連れ去られた帝を救出するのである。

 

 袁紹の解散宣言を受けて、まず影武者である拓実が洛陽での陣頭指揮を取ることとなった。拓実は五千の兵たちを四つに分け、一つに休息をとらせ、一つには曹操軍が寝泊りする陣の設営、一つに洛陽の民が夜風をしのげる程度の簡易的な家屋の修繕、そして最後の一つには民への炊き出しの命を出した。

 積極的に曹操として民の前に姿を現しては過不足なく指揮をし、他の領主たちの率いている兵たちには真似出来ない規律だった動きを見せつけることで、見事諸侯と民たちの目を惹いて見せた。そして注目を影武者の拓実へと集めているうちに、華琳と曹仁、曹洪と五千の兵は、周辺残党の掃討、長安の偵察を表向きとして洛陽より発っていったのである。

 

 ここまでで拓実と華琳が最も注意せねばならなかったのは他の諸侯が放つ間諜の存在である。華琳たちが出陣するまでの間、曹操軍には領主が二人存在することになる。今この瞬間においてそれを他の領主たちに知られれば、まず曹操軍は窮地に立たされる。

 その対策として華琳は洛陽にいる間は荀攸の姿に扮装し、さらに表向き長安への出陣は曹仁を大将、曹洪を副将、その二人の補佐に荀攸という体裁を取っている。また華琳は(いたずら)に家臣の動揺を誘わないよう、追撃隊が無事に出陣を終えるまで洛陽に残る曹操が影武者であることを春蘭と秋蘭の二人以外には伝えないようにと指示を出していった。

 華琳と共に出陣した曹仁と曹洪には洛陽の地を充分に離れてから、現在荀攸に扮している華琳の正体、影武者である拓実の存在、そして今回の出陣目的を知らせることとなる。

 

 連合軍で最も諜報に長けた孫策隊が既に袁術軍と共に洛陽を発っていたことは、拓実や華琳にとって有利に働いた。味方にも情報を秘匿した甲斐あってか、(つい)ぞ他の領主たちに『二人の華琳』を気取られることはなかったのである。

 

 

 

 無事に華琳を送り出し、一夜を明けての翌日。洛陽に残った拓実たちのすべきことは基本的に前日と変わらない。

 ただし、華琳が戻ってくるまで曹操軍は否応なしに洛陽から動けない。あるいは長期の滞在になることも考えられる為、曹操の立場にある拓実は先んじていくつか手を打っておく必要があった。

 

 拓実はまだ日も昇り始めたばかりの早朝に、曹操軍でも中枢となる面子を軍議の場へと呼び出した。

 集まったのは春蘭、秋蘭、桂花、季衣、流琉、凪、真桜、沙和という、すっかり馴染みとなった八人である。戦続きで気を抜けなかったこの一ヶ月の疲労が出てきたのか、春蘭と秋蘭以外はまだ眠気が抜け切らないようだ。

 例外である二人が背筋を伸ばして眉根を寄せ、気を張ってどこか焦れた様子でいるのは、言うまでもなく今も主君である華琳が戦に赴いていることを知っているからである。

 

「それでは改めて、洛陽においての我々の方針を話しておくわ。全軍に告知した長安の偵察部隊に、秘密裏に董卓追撃の任務を課していることは昨夜に私が話したとおりよ。やんごとない方々の救出に向かわせた五千の兵が戻ってくるまでの間、我らは洛陽復興の手伝いをすることとなるのだけど、同時に不測の事態に備えて物資の補給をしておく必要があるわ」

 

 流石にこうも朝が早いと気温も低い。話すたび、口から漏れる呼気が白くなる。拓実もいつもの華琳扮装用の服装だけでは肌寒い為、上に膝まで隠れる外套を纏っている。他の者も上に一枚多く羽織っていて、厚着をしていないのは春蘭と季衣ぐらいのものだ。

 

「では、桂花。現在、我々の備蓄量はどうなっているかしら?」

「はっ。まず、これより消費するだろう糧食の試算を提示させていただきます。追撃隊が向かう洛陽から長安までの道のりですが、片道で三日から四日かかる計算になります。追撃部隊が道中で董卓を捕捉し目的を達成するとして、長安付近で追いついた場合を想定すると十日を要するとの試算が出ました。洛陽での食糧配給を差し引き、加えて兵五千が無傷で帰還したと想定して、そこから兵一万の(エン)州までの糧食が必要となります。一万の兵を二十と二日養えるだけあれば事足りるかと。それならば現在の備蓄で何とか間に合う計算にはなりますが……」

「それでは追撃隊が追いつくことが叶わなかった場合、長安に篭った董卓へ手出しも出来ずに(エン)州へと退却することしか出来ないでしょう。董卓が既に長安に逃げ延びていることを想定し、その防備によっては洛陽に駐在する我ら五千が追撃部隊と合流して長安に攻め入るという選択肢を作っておきたいところね。桂花、現時点でそれは可能かしら?」

「……洛陽の民への食糧の配給を、本日から取り止めることをお許しいただけるのでしたら」

「他の領主が援助の為に洛陽に滞在している中、我が軍だけがただ無為に日を過ごすと? 考える必要も無く許可できることではないわ。――と、いうことよ。手持ちで足りないのならば、余所より持ってくる他ないでしょう。あなたたちには、洛陽復興作業と同時に物資の調達を命ずるわ」

 

 拓実が新たに方針を告げると、軍議に出席した面々からは揃って『応』と芯の通った声が返ってきた。主君より戦となる可能性を示唆されたことで、洛陽制圧で気が緩んでいた面々も目が覚めたようである。

 

「まず、桂花。この軍議が終わり次第、陳留に物資輸送隊を寄越すよう伝令を出して頂戴。道中に行く手を阻む関もないのだから、途中で早馬三頭ほどを乗り換えて走らせれば、十日で物資が届くよう手配できるでしょう。加えて、民へ配給する食糧の配分と休息させる兵の持ち回りの管理をあなたに一任するわ」

「はっ、確かに拝命いたしました」

 

 桂花は椅子に座る拓実の前に一歩出ると、(うやうや)しく跪いて頭を下げた。

 

「季衣、凪、沙和。あなたたちにはそれぞれ二百の兵を預けましょう。情報収集も兼ねて、多少高値でも構わないから近隣の邑や町から食糧を調達してくるように。その際、強引な交渉は控えなさい。金と食料を引き換えとして問題がない程度に余裕があるところからだけで構わないわ」

「わっかりましたー!」

「はっ!」

「了解しましたなのー」

 

 通達を受けた三人が膝をつき、椅子に座る主君に礼を取る。拓実はそれを僅かに口角を上げて満足げに見届けると、次に隣に立つ真桜へと視線を向ける。

 

「真桜。あなたは引き続き、夜風をしのげる程度で構わないから家屋の簡易修繕を兵たちに指示をなさい。同時に、兵を使って河より水の運搬をさせておくように。汲んできた水は煮沸してやってから民へ配付し、体を清めるように指導すること。どうやらここ洛陽では、餓死者の他にも病死者が目立つ程度には出ているようね。根本の解決にはならなくとも、衛生面を改善させれば病魔の拡大を抑えられるかもしれないわ」

「はぁ。なんやようわからんですけども、湯を沸かして片っ端から体を洗わせとけってことですかね? そんなんでええなら、うちに任せたってください!」

 

 命じられた真桜は清潔を保つことと病気の伝染抑制のどこに関係があるのかというように首を捻っていたが、わからないことを考えても仕方ないと思ったか、無駄に自信満々に自身の胸をこぶしで叩いてから他の四人と同じく跪いた。

 他の面子でも会得がいった様子でいるのは、秋蘭と桂花、あとは料理人である流琉の三人ぐらいである。この時代、衛生観念は周知されているような知識ではないらしいが、知っている者もいるならば問題はないだろう。

 

「春蘭、あなたは洛陽警邏の指揮を。略奪や暴行があるようならあなたの判断で鎮圧してもらって構わないわ。ただし、他の諸侯の兵も復興作業に駆り出されていることでしょう。兵士間で衝突しないようにしっかりと手綱を握っておきなさい」

「はっ、この春蘭めにお任せください!」

「秋蘭と流琉の二人には民への炊き出し準備を指揮。実施しているうちは監督をしてもらうわ。秋蘭、近場で炊き出しをしている領主と連絡を取り、可能なら共同で行うように。昨日に引き続き、飢えた民が殺到し混乱することでしょう。整列させ、横入りの禁止を徹底。(いさか)いを起こす者があれば遠慮なしに列から叩き出しなさい」

「御意に」

「わ、わかりましたっ!」

「今、私から改めて通達すべきはこんなところかしらね。では……。……桂花?」

 

 一通りの通達を出し終えると椅子に座る拓実の目の前には、軍議に呼んだ八人全てが跪いている。

 拓実がそれを見渡し、軍議の終了を告げようと声を上げたところで、一人が再び深く頭を下げた。浮かぬ表情をしている桂花である。

 

「華琳様。厳密には今回の件についてのものではないのですが、ひとつ、ご質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「構わないわ。何かあるのならば言って御覧なさい」

「はっ。では失礼します。追撃隊に補佐役として参加した拓実のことなのですが。その、華琳様の決定に異を唱えるという訳ではないのですが、アレを追撃部隊に置いたのはどのような意図があってのことなのでしょうか? 移動に支障がない程度には回復しているとはいえ、右手が使えない状態で戦場に立つのは危険ではないかと。諸侯らの目を欺く為に春蘭と秋蘭の二人が華琳様のお傍を動けないのはわかりますが、負傷した拓実を加えるのならば私が随行したほうが良かったのでは……」

「……そう、ね」

 

 桂花の尤もな疑問に、その負傷している当人である拓実は口元に左手を当て、足を組み替えて目を伏せた。そうしながらも余裕の表情を僅かにも崩さず、ただひたすらに思考を回し続ける。

 

 跪く八人の目の前にいる華琳が実は影武者であることは、春蘭と秋蘭以外は未だに知らない。勿論、桂花にも知らされてはいない華琳よりの密命だ。

 ただ、洛陽に残るのが影武者であることを伏せるように指示を受けているのは、追撃隊が洛陽を出るまでの事である。既に追撃隊が洛陽を離れて一夜が明けた今、影武者の存在を知るこの場の者に打ち明けること自体は問題ない。

 だが、話すこと自体に問題はなくとも、組織として十全の働きができなくなる可能性はある。それを打ち明けることはここにいる六人に確実に小さくない混乱を与えることだろう。臣下の誰にとっても、華琳は心の拠り所となっている存在であるからだ。

 いくら拓実が華琳を完璧に演じたところで、事情を知ってしまえば不安と戸惑いを覚えることだろう。現に腹心の春蘭と秋蘭でさえ、事実を知っているというだけで明らかに焦れてしまっている。

 しかし真実を伝えずに事を進め、後に影武者であることを何らかの事情で勘付かれるという事態に陥ってしまった場合を考えると、その影響はより深刻なものとなるのはわかりきったことでもある。

 

 今話すべきか、それとも華琳が戻るまで隠し通すべきなのか。

 この洛陽における曹操軍の舵取りを任されているのは拓実である。華琳からは復興作業によるイメージアップと他の諸侯と面識を深めておくことを指示されただけで、他の事については全て拓実の判断に任せて発って行った。今回は、これまでのように与えられた命令をただこなすだけではいけない。主君として将を導いては兵を率い、あらゆる事態を想定する必要がある。

 

「んー。桂花の言うとおり、この前にようやく一人で歩けるようになったばっかりなのに心配だよね。……あれ? でも桂花って、なんでかは知らないけど拓実のこと怒ってたんじゃないの?」

 

 桂花の問いかけに対して内心で逡巡している間に、季衣が思い出したようにぼんやり声を上げていた。そんな疑問の声が返ってきたことに、何故だか桂花が心外とでもいう風に顔をしかめている。

 

「季衣。自分がそうだからって私もあの馬鹿を心配しているだなんて決め付けるのはやめてちょうだい。誰が心配なんかしてやるもんですか。それに怒ってるですって? 十日以上も前のことをいつまでも怒ったりなんてしないわよ。女々しいったらないじゃない」

 

 拓実の記憶が正しければ、四日前――桂花が怒りのあまり失神した日から一週間経ったあたりで何度目かになる謝罪をおこなったのだが、その時にも許しはもらえず、口を利いてくれなかった。

 しばらく時間を置く必要があると判断し、それ以降は触れず話しかけずで放置していたが、どうやら桂花が怒りを納めるのには七日以上十日未満の期間を必要とするらしい。つけ加えて言うなら、怒りが収まったからといってまず恨みが消えたわけではない。今も根に持っていることは間違いない。

 

「えー。だって、桂花が口も利いてくれなくなったって拓実が言うから、ボクが桂花の代わりに右手を使えない拓実にごはん食べさせてあげてたんだよ。だからてっきりボク、二人がケンカしてるのかと思ってたのに」

「別に、喧嘩なんてしてないわよ」

 

 その言葉の割に、何故なのか桂花の語気は尻つぼみに弱くなっていく。桂花がこういった態度を取る場合、自身の発言に偽りがあるか照れ隠しがあるかのどちらかである。

 思考しながら二人の会話を聞いていた拓実はそんな桂花の真意について考察することはなかったが、とりあえずの考えが纏まったことで一つ咳払いをする。

 

「で、拓実のことだったわね? 二人とも、そろそろ話していいかしら?」

「あっ、申し訳ございません!」

「ごめんなさい……」

「では、これより話すことは今後我が軍の動向に深く関わるため他言は無用よ。春蘭、秋蘭。あなたたちは天幕前の警備を親衛隊の娘たちと代わってちょうだい。付近に不審者を見つけたなら、逸早く天幕内の私に知らせなさい」

「……では、華琳様。話されるのですか?」

「ええ。全てではないけれど、追撃隊も洛陽からは充分に離れたことだからある程度は構わないでしょう」

「かしこまりました。華琳様のお心のままに」

「はっ! 周辺の警護は私と秋蘭にお任せください!」

「あ、あの?」

 

 秋蘭と春蘭が揃って拓実へと礼を取り、天幕を出て行く。何故、拓実の配置への疑問をすることで人払いの必要があるのか、思いもよらない展開に桂花が動揺を隠せずに声を漏らすも、拓実はそれを無視して聞き流す。

 拓実は二人が警備に立つのを見届け、しばらくして天幕の前からそれまで警備に当たっていた親衛隊の足音が遠くなったのを確認する。そこから更に一拍を置いて、語りかけるようにゆっくりと口を開いた。

 

「洛陽への偵察部隊。これに極秘に追撃の任を与えたとこの場の者には言ったわね? 実は、伏せていたことはそれだけではないわ」

 

 そうして拓実は一呼吸を置くと、顔を上げている六人へと視線を送る。質問をした桂花は元より、いきなりのことに凪たち三人に季衣、流琉も困惑を隠せていない。

 

「さて。話は変わるけれど、悪賊の手から帝を救い出すという機会は二度と訪れるようなものではない。それにあたり、この曹孟徳の顔と名の覚えを良くしてもらうことは非常に重要なこと。では、より効果的に帝にこの私という存在を印象付けるにはどうすればいいか? ただ配下と兵を遣わすだけでは、救出したという行為以上のものは得られないでしょう。そうね……凪。もしあなたが私の立場であれば如何にする?」

「へっ!? わ、私ですかっ? 帝さまを助けるのに、顔と名を覚えてもらうには、どうすれば、いいか……? ええと、そのあの。も、申し訳ございません。その、大きく名乗りを上げる、とか。実際に帝さまに会って話してみるということぐらいしか私には思いつきません……」

 

 急に質問を投げかけられた凪はわかりやすくうろたえた。あたふたと手を振り、目線をあちこちへとやってようやく答えるも、自分の出した回答によほど自信がないのか、そのか細く小さい声と同じように身体を縮こませている。慌てふためき、顔を真っ赤にさせている凪の姿は今の拓実にはどうにも可愛らしく見えてしまって、口の端が自然と吊り上ってしまう。

 

「ふふ。実際に会って、名乗りを上げる……そうね。ごく単純だけれど、正解と言っていいわ。もしも、領主である私自身が危険を顧みず悪賊を駆逐し、帝の出迎えをするとなれば、『曹孟徳は漢王家に対する忠義人である』という印象は計り知れないほど大きなものとなるのではないかしら?」

 

 拓実の言葉に、はっとその事実に気づいた桂花が目を見開いた。その瞳には理解の色が見える。そして軍師というより内政官でしかない荀攸を、わざわざ討伐隊に加えた理由に思い至ったに違いない。

 聡明な彼女が何故今までその可能性に気づかなかったかと言えば、極秘である『影武者』という存在を意図的に意識から慮外していたからだ。その運用の許可を下せるのが華琳だけということも多分にあるだろう。とはいえ実際には、その荀攸の中身が更に入れ替わっている状態なので限りなく正解に近い勘違いではあるのだが。

 

「しかし、この洛陽において率いる者も私でなくてはならない。英傑が揃うこの場において、『行動を共にする』というただそれだけのことが他の諸侯との関係、そして今後の大陸の動向をも左右することになるでしょう。私は、必要があったからそうしたに過ぎない。追撃部隊を率い、帝を救う者が曹孟徳であり。そして洛陽で復興を行い、民草の意を汲む者もまた曹孟徳であるということよ」

「で、では、拓実は今、追撃部隊で華琳様に……?」

「その問いに意味はないでしょう。今のこの時において、ここにいる私も、あちらにいる私もどちらも華琳であるのだから。強いて答えることがあるとすれば、あなたたちの目の前にいるのはこの私であるということだけよ」

 

 拓実は特に言葉を強調させた訳ではない。ただいつも華琳がしているようなもったいぶった言い回しをしただけである。そのことに一人を除いて、特に違和感を覚えた者はいない。

 しかし唯一桂花だけは、信じられないものを見てしまったような愕然とした表情で、落雷に打たれたが如く体を震わせている。

 

「まっ、まさかっ!? そんな、ではもしや、追撃部隊を率いているのは……!」

「桂花。私に、同じ言葉を二度も言わせないでちょうだい」

「……ぁっ、はっ!」

 

 どこに違和感を覚えたのかはわからない。だが、桂花がある種の疑念を覚えて問いかけようとするのを、拓実は鋭くたしなめた。

 それ以上を言わせまいとしたことで確信を得たのだろう、口から出掛かった言葉をいくつも呑み込んで、桂花は一歩下がっては跪き、臣下の礼を取った。しかし、いまだにその体の震えは収まっていない。

 普通に会話をしているうちに急に声を荒らげ、かといえば主君を目の前に恐れ震えだした桂花を、不思議そうな顔で見ているのは残りの面々である。

 

「ええと、華琳さま? なんや桂花が一人で盛り上がっとるようやけど、どないしたんですかね? うちらには、いまいちようわからんのですけど」

 

 真桜が、二人の会話から完全に置いてけぼりとなっている面々を代表するように声を上げた。拓実は座っていた椅子から立ち上がり、困惑した表情を浮かべた六人を見渡す。

 

「いいのよ。桂花のように無駄に難しく考える必要は無いわ。ただ私が二人いる必要があったこと。そして荀攸を遣わせた追撃部隊には今、もう一人私がいるということだけを理解していれば」

「……追撃部隊に、試験の時の姿をした拓実が? あの試験からすぐに遠征に出てしまったから拓実とは……。荀攸さまの姿の拓実さまが政務に携わっていて、町の警備にはほとんど参加していなかったから」

「まあなぁ、いきなりあの姿で戻ってきたりしようもんなら、驚く、じゃあ済まへんし。拓実の元気っ娘と、ネコ実とがいまだにうちの中では同一人物とは思えへん。その上で華琳さまそっくりとかなぁ……」

「うぅ~~! 華琳さまも桂花ちゃんも何を言ってるのか、沙和には全然まったく訳がわかんないのー! 華琳さまがここにいて、怪我してるネコ実ちゃんが長安に向かって、そこで華琳さまになってるってことでしょ? だよねぇ、流琉ちゃん?」

「ええと、私も混乱しちゃってて……」

 

 凪、真桜、沙和と流琉。四人はそれぞれ拓実という存在に対して戸惑いを抱えたまま、この遠征に参加している。今困惑している四人は、荀攸と許定とを別個の人間として付き合ってきたのだ。

 片やいつでも笑顔で街中を駆け回り、知り合いと会えばぴょんぴょん跳ねて喜んでいる見る限り純朴な少女であり、片や澄ました顔の毒舌家、曹操軍きっての知恵者である桂花と弁で五分に争える少女。荀攸の人付き合いの悪さと計算高さが知れているだけに、許定の裏表のなさそうな人懐っこさが余計に得体の知れないものと映ってしまう。出会って早々に正体を知らされた春蘭や秋蘭、桂花や季衣の四人とは違って、残る四人の中には荀攸と許定にそれぞれ人物像が出来上がってしまっている。

 つまりは、拓実という人間の本性がどこにあるのか理解できないのである。それだけに拓実が華琳の姿をしていると聞くと、影武者の最終試験で見た三人の性格を代わる代わる使い分けていたことを思い出してしまって、どう反応していいものかわからないのだろう。

 

 拓実はその四人の様子を見て、やはり全てを打ち明けずにいたことは正解であったのだと確信する。影武者である拓実の話題が出ただけでうろたえているようでは、洛陽に残ってるのが本当の華琳ではないと知った場合、春蘭や秋蘭とは比とならない不安と動揺とを与えることとなっていただろう。

 思いの外に桂花の勘が良かったお陰で露骨に匂わす必要もなく、隠し通しておきたい流琉・凪・真桜・沙和は目の前の主君の姿をした者が拓実だとは気づいていない。そして四人の反応から、敢えてそれに気づかせる必要もないと知れた。

 

「あなたたち言ったでしょう、思い悩む必要などないと。曹孟徳は、あなたたちの目の前にこうして確かに立っているのだから。そして追撃隊の方も、あちらの曹孟徳が指揮を執る以上は悪い結果は出さないでしょう――軍議は終わりよ。各自、己の為すべきことをなさい」

 

 それだけを言うと拓実は涼やかな笑みを浮かべて立ち上がり、颯爽と歩き出す。そのまま見張りをしていた春蘭と秋蘭と二言三言を交わし、春蘭を引き連れて歩み去っていった。

 

 

 

 

 天幕前を警護していた秋蘭は、拓実が姉である春蘭を引き連れて歩み去っていったのを見送ると、他の者が一向に退出してこない軍議の場を覗き込む。

 置いていかれる形になった面々は混乱から覚めやらぬままに呆然と拓実を見送っていた。しかしその自信に満ち溢れた主君の後姿に、落ち着きを取り戻していくのが見て取れた。一人、事情を知った反応を見せていた桂花でさえもだ。

 そして拓実という理解の及ばない不可思議な存在に不信を感じていた筈の四人も、主君とまったく違わぬ姿と声色、気風を持つ者がもう一人いるということに今は妙な安心感すら覚えているようであった。

 

 文武両道であり、大陸有数の教養人。規律を重視し他者に厳しいが、それ以上に自身を厳しく戒めている少女。肌がひりつくような威圧を纏う怜悧な美貌は、その異常なまでの求心力の一つともなっている。

 その華琳の麾下にある者は武官・文官に関わらず、そんな彼女がふと微笑むだけで心の迷いが晴れていく。小柄な体躯で気丈に立つその姿を支え、彼女が見据える覇道を為してやりたいと思えてしまう。

 秋蘭もそのうちの一人であり、だから日々の研鑽を絶やさない。春蘭も、桂花も、他の者たちもだ。少しでも彼女の負担を受け持ちたいのである。

 

 しかし彼女はあまりに有能すぎた。たった一人で大抵のことを為せてしまう。だからこそ、曹操軍の頂点でただ一人となってしまっている。

 周りは主君より指示を受けては君命をこなし、意見を求められることはあれどもそれとて彼女の思惑の範疇。その考えはいつも的確であり、思想は揺るがない。陳言することもままならない。曹操軍は、正しく彼女なくしては成り立たない集団となっている。周りに人は居れど、その誰もが彼女の一段下で跪く。

 劉備が義姉妹の二人に、そして天の御使いに助けられているように。孫策が孫家の一族とそれに連なる者に支えられているように。真の意味で彼女の負担を受け持てる者が華琳の周囲にはいないのだ。

 

 その種類は違えど才覚において華琳に勝り、同じ姿を持ち華琳本人より名を名乗ることを許された者が、今はこの陣営において唯一独自に判断をも任されている。

 あるいは拓実であれば、孤高の少女と肩を並べることが出来るのではないか。かつては曹操陣営を二分することを危惧していた存在に、いつしか曹操軍を双頭となって率いてくれることを期待している。

 

「おい。お前たち、既に華琳様より命は下っているぞ。いつまでそこで立ち尽くしているつもりだ」

 

 秋蘭が呆れた様子で声をかけると残っていた者たちが自失していたことに気づき、慌てた様子で天幕から駆け出していく。命じられた仕事をこなすべく動き出した面々を見送り、秋蘭もまた流琉と共に備蓄の下へと歩き出した。

 

 

 

 

 その日の昼。行軍により疲弊していた兵たちに休息を与え、町の復興と炊き出しに兵を割り当てる桂花を陣へ置いた。拓実も自身の姿を衆目に晒す為、親衛隊をつれて秋蘭と流琉が監督している炊き出しの様子を見に来ていた。

 やはり食料はほぼ枯渇している状態であり、多くの洛陽の民が群がっている。暴動と略奪が起きてもおかしくないそこは、しかし秋蘭と流琉に厳命していたようにしっかりと四つの列を作らせて順番を守らせている。

 親衛隊の少女を侍らせてその光景を満足げに眺めていると、拓実に声をかける者がいた。見れば、関羽を連れた劉備が申し訳なさそうに体を小さくしていた。

 

 話を聞いてみれば、どうやら袁紹より譲り受けた膨大な食糧を捌ききれずに持て余していて、一緒に配給をしてくれないかと(よしみ)のある領主に要請して回っているようである(実際には要請というほど堅苦しいものではなく、ただのお願いであったが)。

 しかし僅か一千の軍団を率いて此度の遠征で名を挙げた劉備が自ら出向いて回るものだから、逆に何か企んでいるのではないかと警戒されてしまって断られてばかりらしい。他の領主と顔を合わせる機会ならと拓実も応じたのだが、曹操軍を除くと快諾してくれたのは公孫賛と馬超しかいなかったようである。

 

「慌てなくても大丈夫ですよ~! ちゃんと、みなさんに行き渡る量を用意してますから!」

 

 そんなこんなで、洛陽の町の一角。広場を利用して行われている共同の炊き出しには、錚々(そうそう)たる顔ぶれが揃っていた。

 人員の少ない劉備軍からは旗頭である劉備、北郷一刀が自ら参加していて、他に護衛も兼ねて関羽、そして鳳統。

 馬超軍(馬超は馬騰の名代としての参加である為、正確には涼州軍となるのだろうが)からは、領主の娘だというのに政務処理では役に立たないからと馬超。そして従姉妹の馬岱の二人が送り出されたようである。

 そして曹操軍からは交友を広げる名目で曹操である拓実が立ち合っている。しかし立ち会っているだけで実際に働いているのは秋蘭、流琉の二人だ。

 残る公孫賛軍はというと、当初は公孫賛の従姉妹である公孫越が指揮をとっていたのだが、劉備に北郷一刀、曹操、馬超と軍団の総大将といえる者たちが軒並み参加していることを伝え聞いたらしく、慌てて公孫賛本人が飛んできた。

 

「ふーっ。ようやく一段落つきましたね。もっと余裕があれば炊き出しも一日に二回できるんですけど、でもこうして喜んでもらえるのは嬉しいですよね」

「確かに、ああも喜んで感謝してもらえるとこっちも配り甲斐はあるよな」

「そうだな。こんなことなら、あたしたちももっと用意してくればよかったよ」

 

 ようやくある程度の民に炊き出しを配り終えると、短くなった列を兵士に任せた劉備が椅子に座り、疲れを感じさせない弾んだ声を上げた。そんな彼女を見てだろう、隣に座った一刀も顔をほころばせている。同じく一段落ついて壁に身体を預けて伸びをしている馬超が、そんな二人に人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「って、言うのは簡単だけどさー。お姉さま、涼州の方だって結構かつかつだって。馬騰叔母さまが珍しく政務の仕事してたぐらいだったじゃん!」

「いや、うちの幽州だってそうだぞ。今回の連合軍参加は伸るか反るかの大博打だったんだ。失敗すれば反逆者になってもおかしくなかったんだから、そうならない為にもどこも出来る限りの物資と兵を揃えてきたと思うしな。曹操のところだってそうだろ?」

 

 馬超、馬岱、公孫賛と気性が似通っている部分があるからか、それともお互い馬術を得意としているからか、もう気の合った友のように振舞っている。そんな四人が会話している中、話題を振られたことで拓実がちらと四人に目をやった。

 

「そうね。今回の遠征で居城に蓄えた物資のほとんどを吐き出すことになるでしょう。例外があるとすれば、豊富な資金を有している麗羽のところぐらいのものね。――とはいえ、この大陸の現状を見れば『地の利』を除いた『天の時』『人の和』が揃っていたから、成否についてはそこまでの心配はしていなかったけれど」

「地の利、天の時と人の和……。えっと、朱里ちゃんと雛里ちゃんから教わった奴だよね?」

「はい。公孫丑章句上の一文、孟子の言葉です。事を為すべき機、地勢の有利、人心の一致を得られれば、自然と成功を得られるだろうという訓辞です」

 

 不思議そうに首を傾げた劉備に、疲労から地面にへたり込んでいた鳳統がよたよたと立ち上がって補足する。それでも疑問が拭えない様子なのは公孫賛である。

 

「えっと、天の時ってのは今回の虎牢関からの撤退を見れば何となくわかるけど、人の和もか? 連合軍に連携なんてほとんどあってなかったようなものだし、こうして和やかに話せるのだって連合が解散したからだと思うんだけど」

「連合に参加した諸侯を指してのものではないわ。大陸に住む民草のことよ。董卓軍――つまりは官軍に対し、見方によれば反乱軍と相違ない私たちが充分な私兵や物資を集めることが出来た理由を考えれば自ずとわかる筈よ」

 

 他の総大将三人がそれぞれ炊き出しの指示を行い、あるいは実際に手伝っている中、拓実だけは薄く笑みを湛えてただ、民の様子を、洛陽の町を眺めていた。

 華琳は特に規律を重んじる。秋蘭と季衣に監督を任せておいて、拓実が頭越しに兵たちに指示を出しては徒に混乱を招くだけである。だから、あえて手を出すことをしなかったのである。

 だというのに、立っているだけの拓実は洛陽の民から感謝の言葉をこぞって送られ、老人たちには拝まれ、若い男には兵の志願をと申し出られるのだから、曹操の名声はここ洛陽でも高まっていたようだ。

 

「ああ、なるほど。そういう見方もあるのか」

 

 敬うべき帝の統治下にあるはずの洛陽でさえ、一領主が神や救世主かのように扱われるという現状。つまりは、公権力である官軍より、反逆者の筈の連合軍に民が味方をしているのである。

 拓実の立ち姿に感謝を絶やさないでいる民たちの姿を見て、公孫賛が納得したように声を上げた。

 

「それにしても、まさか曹操さんにも一緒に炊き出しをしてもらえるなんて」

「あら? 私は劉備に、随分な薄情者と見られていたようね」

「い、いえいえいえっ!? 私、絶対そんなことは思ってませんよ!? 私たちも曹操さんには兵を送ってもらったり、以前から助言してもらったりと助けてもらってばかりですもん!」

 

 拓実の茶化すような物言いを真面目に受け取ったらしい劉備が、両手を顔を一生懸命になって振って否定している。劉備の焦った様子を見てくすりと笑みを浮かべた拓実は、未だにわたわたしている彼女に「冗談よ」と声をかけてやった。

 

「な、何だぁ、冗談だったんですかぁ。でも、その。昨日の曹操さんの話振りだと、てっきり私、長安に向かってしまうものだとばかり思ってたので」

「今この時だって、出来るならば連合の総力で一気にケリをつけてしまっておきたかった、そう考えているのは変わらないわ。あなたも、他の者も、配給している間に住民からここ洛陽で行われていた治世について聞いているでしょう?」

「……はい。董卓さんと賈駆さんが表立って大将軍として働いていたころは、もっと穏やかで豊かだったって聞きました。半年ほど前からその二人の姿が見えなくなって、代わりに宦官が顔を出すようになってからはずっとこんな有様だって……」

「そうね。加えて言うなら、董卓が暴政を働いているという話が大陸中に不自然に広まったのもここ半年のこと、何者かが意図して噂を広めていたとしか考えられないわ。疑問には思わないかしら。善政を敷いていた董卓が突然に乱心したとしても、わざわざ己の悪行を世間に広めて回る理由にはならないでしょう? であるなら、董卓の兵力を奪い、悪行だけをなすりつけ、私利を得て私欲を満たす者が裏にいたということ。恐らく、劉弁様と劉協様を連れ去ったのも董卓ではなくその者たちでしょう」

「えっ!? そ、曹操さん。もしかしてそこまで見越していてあんな風に言っていたんですか?」

「……。董卓に責任を被せている以上、劉弁様と劉協様を連れて逃亡している現場を押さえる以外に大義を以ってその者たちを誅する機会はないわ。もし逃げ切られて隠れられてしまえば、私たちは次にその者らが何らかの行動を起こすまで動くことは出来ない。そうなっては最後、ここ洛陽で行われていたような支配がまた別のどこかで行われるでしょうね」

「あっ……!」

「諸葛亮と鳳統あたりはそのことに気づいていたんじゃないかしら? ただ、それを言った所で、劉備軍に董卓を追う余裕がなかったから言わなかったのでしょうけど」

 

 表情を曇らせたままで鳳統は拓実の問いには答えない。だが、その態度こそが答えとなっていた。他には、なんとなく察していただろうは公孫賛。劉備と馬超は言われて初めて気づいたようで、愕然とした様子でいる。

 

「……あなたたちが気に病むことではないわ。私とてこの洛陽を捨て置けなかったのも事実なら、洛陽までと準備した物資でさらに長安までとなると心許ないもの」

「それでも! 袁紹さんから糧食を受け取った私たちなら! それに、洛陽に残ってる人達の中から一緒に手伝ってくれる人を探せば……!」

 

 縋るような劉備の言葉に、しかし鳳統は表情を曇らせる。

 

「その、確かに袁紹さんから頂いたので物資は十分すぎるほどに足りています。けれど、我らだけでは追撃するには兵が不足し過ぎています。戦闘になることを考えると、最低でも三千……いえ、五千ほどの兵がなくては。それに、他の諸侯に協力を仰ぐにも私たちの発言力は弱く、よしんば幾人から色よい返答を貰えたとしても、参加を表明してくれた方たちには袁紹さんから頂いた糧食を分け与えるわけにはいきません」

「そんな、どうしてなの雛里ちゃん!? こんなに、配っても余るぐらいいっぱいあるのに……」

「これらは、桃香さまが炊き出しの実施協力を呼び掛けていたのを見かねて、袁紹さんが譲ってくれたものだからです。総大将が帰還した後に、厚意から譲ったそれを解散した筈の連合軍の諸侯らに配り、桃香さまが先導して軍事行動を続けていたら袁紹さんはどう思うでしょうか? 桃香さまが諸侯を率いて長安へ進軍することは、反董卓連合軍の総大将である袁紹さんの面目を真っ向から潰すということです。今、連合に参加した諸侯らの旗印となって自由に動けるのは、形だけとはいえ袁紹さんから好きに参加者を募れと言われた曹操さんだけなんです」

「う……でも」

「劉備、あきらめなさい。人一人の手が届くところなんて知れているわ。分不相応な行動は己の身を滅ぼすだけよ」

 

 拓実のたしなめるような声に身を乗り出しかける劉備であるが、反論する余地がないと悟ったかそのまま消沈して腰を下ろす。その横でしばらく黙っていた人物が立ち上がり、鳳統へと向き直った。ずっと顎に手を当て思案していた一刀である。

 

「なぁ、雛里。董卓軍……いや、官軍って言った方がいいのか? その官軍を追撃するには五千の兵が必要なんだよな?」

「あ、はい。だいぶ心許ない数字ではありますが、成功が見込める兵数となるとそれぐらいは。それでも状況が味方をしてくれないことには成否の割合は半分にも届かないかもしれません」

「ええと、曹操。俺の記憶違いでなければさ、昨日けっこうな兵数を残党狩りとかで出発させてなかったか?」

 

 探るような視線を受けて、拓実は内心で驚いていた。どうやら、少しばかり話し過ぎたようである。

 けれども拓実が話題を誘導したことで、今この場の空気は『官軍を利用している何者かを早急に倒さねばならない』という方に流れている。であるなら、ここで変に隠し立てしても余計な不信感を与えるだけになるだろう。

 

「……そうね。ちょうど五千ほどの兵を回したわ。周辺の残党狩りと、長安の偵察にね」

「曹操さん!」

 

 ふ、と息を吐き、微笑を以って一刀へ言葉を返す。自分でしたことながら、よく気づいたと言わんばかりの上から目線な仕草である。

 一刀と拓実とのやり取りから事情を察したらしい劉備が、何故か我が事のように輝いた顔を見せる。どうやら彼女の目には『民の困窮を放っておけない情と仁義に厚い人物』とでも映っているらしい。彼女だけかと思えば、公孫賛や馬超たちも感心したような様子である。

 

「領主である私がここにいることからわかるでしょう? あわよくば、程度のものよ」

 

 どうも華琳は周囲からは冷徹な合理主義者と見做されていたようである。確かに今回のはイメージアップを狙っての話題誘導であったが、こうも混じりなしに好意的な視線に晒されるとは思っていなかった。不良が捨て犬云々に近いものがあるのかもしれない。

 つい、予想外の反応に拓実が視線を逸らしてしまうと、それを照れたと見られたか、にまにまと笑顔を向けられる。あろうことか流琉や秋蘭もである。拓実は今度こそ照れ隠しに、笑みを浮かべている者たちを睨みつけるのだった。

 

 

 

 それから数日、物資を配り終えた馬超と公孫賛が洛陽から発っていった翌日のこと。洛陽で支援を続けている拓実の元に、伝令が届く。

 

 ――――帝奪還の為に進軍していった追撃部隊が壊滅したという、曹仁からの知らせであった。

 

 


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