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董卓軍最強の将である呂布を撃退したことで、反董卓連合軍は野戦における優位を公にしてみせた。
とはいえ、その勝ち戦は兵数も将の数も圧倒的に連合軍に有利な状態でのことである。具体的には兵はおおよそ三倍の数で当たり、将に至っては呂布一人を抑える為に虎牢関攻略部隊に選抜された大半を結集させている。
そんな過剰ともいえる戦力で呂布一人を封じたのは、連合軍はあの呂布であっても崩せぬほどに手強いという印象を敵方に与える必要があったからだ。
呂布の武は、強者
連合側としてそれは避けたい事態である。だがそれを逆手に取り初戦で呂布を封じてみせてさえしまえば、いくら最強の呂布であっても不用意に動かせば或いは討ち取られるかもしれないという懸念を相手に与えることが出来る。そうなれば要所要所での野戦はあれども、退路を確保する為にも副将に腕の立つ張遼を伴ってとなるだろう。強固な虎牢関といえど、守る将が出払ってしまえばやりようはいくらでもある。
討って出て万が一があるとなると、董卓軍は地の利がある虎牢関に篭っての防衛戦こそ良策とする。あちらの立場からすれば、先の汜水関が搦め手で取られたことを踏まえたならそう落ち着くのは見えている。
連合軍側としてもいつ万夫不当の呂布が討って出て来るかわからないとなっては、疲弊の度合いも違えば休むべき時にも満足に休めない。それを避ける為、戦闘における優位を得る為に軍師たちが打った布石であった。
反董卓連合にとっての最悪は、呂布が好きに討って出ては暴れまわり、張遼が虎牢関を堅実に守って手も足も出なくなることである。そうなるぐらいなら虎牢関に引きこもらせてひとまず戦線を膠着させたほうがやりやすい、とは潜入や調査に長けた兵を保有する袁術軍の周瑜の言である。
少なくとも本日中に董卓軍が討って出てくる可能性は低いという軍師たちの予想の下、兵たちには早めの休息が言い渡されていた。
撤退していった董卓軍への追撃もそこそこに夜営していた虎牢関攻略部隊の本陣ではしかし、もう半刻を待たずに翌日を迎える頃になって事態が急転した。急遽、軍師たちには緊急召集が、将軍らには即座に動けるようにと待機が呼びかけられたのである。
「拓実、拓実? あんたもしかして、まだ寝ているんじゃないわよね? さっさと出てきなさいってば!」
あちこちに負った怪我により憔悴し、横になるなり熟睡してしまっていた拓実もまた軍師陣の一人であるから、すぐさまにその報が届いた。
覚醒しきれずにぼんやりとしていた拓実は、先に目覚めていたらしい桂花に声をかけられてようやく思考能力が戻ってくる。急いで身支度を整えて寝床になっている天幕より外に這い出ると、かがり火に赤く照らされた桂花が待ちくたびれていた。
「遅い! まったく、何だって補佐官である拓実を私が起こしてやらなきゃならないのよ。肩を貸してやっているのもそうだし、代わりに荷物を持ってやってるのもそう。本来、そういった些末事はあんたの仕事でしょう!」
「ぐ……。桂花にばっかり面倒かけているのは悪いと思ってるわよ」
顔を合わせるなりに文句をつけられて不機嫌になりかけるも、しかし非が己にあることを自覚している拓実はごにょごにょと歯切れ悪く言葉を返す。
桂花も夜中に呼び出されていらついていたのだろう、今の発言が半ば八つ当たりだと気づいてか決まり悪そうにそっぽを向いた。
「ふん。別に短い付き合いでもなければ私だって鬼じゃないから、頼まれれば手を貸してやるぐらいは構わないわ。でも、貸しは貸し。陳留に戻った時に返済はしっかりとしてもらうからちゃんと覚えておきなさいよ。あーあ、あんた今回の遠征で私に貸しをいくつ作ったのかしらね」
「わかってる、感謝してるってば。それで? 何かしらがあったようだけど、計略担当の荀諶や諸葛亮、桂花の三人で対処しなかったということは結構な大事って認識でいいのよね?」
普段五分五分に張り合っている拓実に貸しを作ってやったのが余程に嬉しいらしく、桂花はにやにやと嫌らしく哂っている。しかし当の拓実は虎牢関へと視線をやって考え事をしていて返事もおざなりなものだから、悔しがるとでも思っていたらしい桂花は拍子抜けした様子でふてくされた表情を見せた。
「……この後軍師連中と軍議をして決定することだけれど、まず陣を払って虎牢関に向けて出撃することになるわ」
「なんだってこんな時間に?」
足首の痛みに顔を顰めながら召集場所へと歩を進め始める拓実の左隣では、桂花がもはや慣れた様子で肩を貸してくれている。こんな夜中に出撃だなんて余程のことだ。何があったのかと拓実が目で問いかけると、彼女は「は」と小さく息を吐いて鼻白んだ。
「虎牢関は今、もぬけの殻よ」
虎牢関は汜水関と同じく峡谷を塞ぐように聳えている要塞であり、その防衛力は大陸でも有数である。真っ向から攻めかかって陥落させるにはあまりに連合軍に分が悪く、汜水関での勝ち戦のお陰で兵数こそ上回っているものの、その程度の有利を頼みに正攻法を取っていては歯も立たない。
それを予測していたからこそ周瑜と鳳統が知恵を絞って呂布を釣り出し、荀諶・諸葛亮・桂花の三人が綿密に段取りを組んで、撤退に追い込んだ呂布の部隊に細作を紛れ込ませたのである。
拓実は軍議では怪我の為に朦朧としていたので、攻略作戦の仔細について定かではない。しかし聞いた記憶の限りでは潜り込ませた細作による情報操作で士気を削ぎ、糧食を焼いて、内応を促しては離反を狙うといった数日の時を要するものである。少なくとも、敵兵を一夜にして退却させるといった電撃的な策ではなかった筈だった。
「つまり、今回の敵方の動きはこちらが意図して引き起こしたものではないということ?」
「そういうことになりまひゅね。はっ、はわわわ、しゅいません!」
「しゅ、朱里ちゃあん……」
「……」
軍師たちが雁首合わせている天幕の中、確かめるような拓実の質問に、表情を引き締めた諸葛亮が真摯に返答する。だが、残念ながら口がついてきていない。
ふざけている訳ではないことはこれまでの軍議でも幾度か噛んでいたことで知れている。本人とその友人の鳳統ばかりが赤面するだけで皆一様に見て見ぬ振りを決め込んだが、いささか場の緊迫感こそ薄れてしまうのは避けられないようではあった。
「はぁ。それにしてもあの虎牢関を捨ててまで退却するだなんて、いったいどのような意図があるのかしらね。虎牢関一つと比べたら洛陽までの残る十数の関を全部合わせたって、それこそ雲泥の差があるっていうのに」
拓実が桂花の言葉を聞きながらも虎牢関内部に潜入していた細作からの報告書に目を通してみれば、どうやら守将である呂布と張遼がすぐさまに動ける四千程度の兵を引き連れ、慌てて都へと撤退していったとのこと。
それに遅れて、虎牢関に置いていかれた兵士たちも取るものも取らずに退却を始めている。いくらかは悟られぬようにとは隠蔽しているのだろうが、虎牢関方面から流れてきているざわついた空気は離れたこの場にいても感じられる。まず、退却自体は偽りのないことと見てよさそうではある。状況から得られる情報を整理しても、董卓軍は洛陽への最後の防衛線とも言える虎牢関を自ら放棄していた。
「どのような意図があったとしても、退却自体が真実であるなら攻略に相応の犠牲は必至であった虎牢関を労せず得られることになります。当然、関に乗り込むにはそれなりの注意が必要ですが、間違いなく連合にとって大きな益と言えるかと。例え罠であったとしても進まない手はないでしょう」
「連合軍を釣り出す為の敵方の罠であるか、或るいはやつらの本拠である洛陽の都で何事かの不測の事態が起こったか。現時点で可能性として考えられるのはおおよそこのどちらかといったところか」
「前者にしては今回の撤退はあまりに拙過ぎまする。加えて、もし後者であったとしても、その不測の事態とやらがこちらに利する出来事であるとは限りませぬぞ。名目上、董卓めの横暴から帝様をお救いすることを目的に連合を組んでおりまするが、董卓めが都を掌握している以上、悠長に構えていれば我ら連合はまとめて朝敵と認定されかねませぬ」
諸葛亮の失敗からは持ち直したらしい鳳統、眼鏡を正して無表情に意見を述べる周瑜、男女の比率が著しく女性に偏っているこの場で珍しく中年痩せぎすの男性である沮授。
三人がしている問答は概ね他の面子の思考をなぞっていたようで、それぞれ発言ごとに同意を示すように頷いて見せている。拓実としても特に気にかかることもなければ言うべきこともなし、その他の軍師たちから続く発言もない。あらかた意見が出尽くしたのを見た荀諶がすっと立ち上がった。
「ともかく、座して敵の出方を伺い、絶好の好機を逃す愚だけは避けねばなりません。罠があることを前提に兵を進軍させましょう」
「……ふむ。どうやら進軍意見自体に異論はないようだな。では関門の開放に潜入工作の得意な袁術隊を先行させるべきと見るがどうか?」
「そうですね。周瑜殿、お願いします」
「確かに承った。ともかく今は時が惜しい、私は一足先に細作らの指示へ向かおう。攻略部隊の指揮については各々方にお任せする」
先立って周瑜が立ち上がる。卓に着いていた他の者もまた頷き返しては席を立つ。
「今回の進軍に際しては全隊の指揮を取る者を決めている間も惜しい為、田豊殿と沮授殿に務めていただきます。とりあえず当座の分担を。荀彧殿は物資の運搬指揮。荀攸殿は我らがこれより進軍する旨、総大将の袁紹様と各諸侯への伝令手配を願います。諸葛亮殿と鳳統殿を中心に、各々方は各隊将官への指示をお任せします。私荀諶は部隊内での連絡役として動きますので、周知させる情報の伝達等ありましたら私までお願いします」
それぞれが逸早く役割を果たす為、足早に天幕より辞していくのを拓実は椅子に座ったまま見送る。荀諶は足に怪我を負っている拓実を
「それじゃ、私は行くから拓実もしっかりやんなさいよ」
「わかってるわよ。あんたもね」
ぽん、と肩を叩かれて、拓実と桂花は二人顔を見合わせてにやっと笑う。彼女がそのまま天幕より出て行くと入れ替わりに兵士が入ってきて、拓実の姿を見つけると声を掛ける前にあちらから御用伺いしてくる。どうやら桂花が行き掛けに声を掛けていってくれたようだ。
一人では天幕の外まで歩くのも億劫だったのでありがたい。これは本当に、陳留に戻ったら何かしらで恩を返した方がよさそうである。
いくらかましになってきたとはいえ片足を捻挫し、利き手の骨にヒビが入っている拓実は碌に動けもしなければ、文字を書くことも侭ならない。
書簡作成の為に筆と墨の用意、代筆の人間を呼ぶよう兵士に指示を出し終えてしまえば、基本人任せになる拓実はそれらが届くまでは暫らく手持ち無沙汰となった。何の気なしに、拓実は天幕内に残った荀諶と田豊、沮授の三人に視線を巡らせる。
「……うむ、うむ。やはり、見た目おっさんの沮授が総指揮を執って年若の女子たちを顎で使っていては体裁が悪かろ。総指揮はワシが執るから、沮授にはワシの補佐を頼もう。ま、軍師連中では、年嵩がほんの僅かばかりとはいえ上なのはワシじゃろうしな。それにワシが間に入っては、いくら背格好に見た目が
灰色をした前髪を眉の上で揃え、横や後ろを肩口ほどの長さでおかっぱにしている十ほどにしか見えない少女が、その容姿に似つかわしくない言葉遣いで中年男性の沮授に指示を飛ばしている。
彼女の名は田豊――ここに集まった軍師たちの中でも一際小柄な彼女は、聞くところによれば少なくとも齢四十後半、おそらくは五十以上であろうという噂の年齢不詳の人物である。老けて見える沮授でさえ四十半ばという話であるから、噂が真実ならば軍師たちの中での最年長はまず彼女である。
「承知。それでは私は各方面から上がってきた情報を纏めることに注力致しまする。収集は荀諶殿に一任し、取捨選別は私めが、決断は田豊殿にお任せ致しましょうぞ」
「ええ、そうですね。他の者も老練な田豊殿が後ろに控えているとなれば安心されるでしょう」
「うむ、任せる。しかしさらっと老練だとか歳を感じさせるようなことを言うな、そこな小娘」
痩せぎすの男――沮授がいそいそと退出していく。残る荀諶と田豊は天幕に残ったまま今後の展望について話し合っているようだが、同じ陣営で気心が知れている様子だというのに荀諶は折り目正しい口調のままである。実年齢はともかく背が低く極度の童顔、幼女にしか見えない田豊は荀諶の『奇特な趣味』ど真ん中の存在であるだろうに、薄っすらと微笑を浮かべて立ち振る舞いも崩れず涼やかだ。
先刻に見せた荀諶のあの甘ったるい口調、ふわふわした得体の知れない性格の一切を決められた相手以外には見せないという桂花の言葉は、どうやら紛れもない真実であるようだった。
冷静沈着、凛とした様子の目の前の彼女と、相手をすれば面倒くさい、出来ることなら関わり合いにはなりたくない素であろう彼女との落差はあまりに酷い。まったくもって同じ人間だとは思えないもので、実は双子だったとでも言われればつい信じてしまうかもしれない。
拓実としては大抵人柄の変わりように驚かれる側だった為、荀諶の変わりようはどうにも新鮮である。街頭アンケートなどと偽って詐欺を働いていた男女を観察していたことはあれど、自然体で表裏の差がこうも激しい人物とはこれまで出会ったことはない。華琳たちも自身に対してこのような思いをしていたのかもしれないと他人事のように感心し、拓実は興味津々に二人の様子を眺め見ていた。
方針さえ決まってしまえば攻略部隊の動きは迅速である。夜半の唐突な進軍命令であっても優秀な将官の指示により隊列を崩すこともなく、すぐさまに陣を引き払って虎牢関へと乗り込んだ。
昼に攻め寄った時にあった矢の牽制もなければ守兵による抵抗もなく、関門は先行していた袁術兵によりあっけなく開かれる。どうやら事前に手に入れていた情報の通り最低限の兵すらも残さずに退却していった後であった。周瑜らが懸念していた罠の存在も確認できずじまいで、虎牢関を予想より遥かに少ない時間と犠牲とで手に入れた攻略部隊はすぐさま後続の連合軍本隊と合流する。
虎牢関の占領達成――それはつまり、攻略部隊としての役目を果たし終えたということであった。大陸屈指の人員が集められた虎牢関攻略部隊の活躍は呂布を撃退しただけの一戦に留まり、その実力を十二分に発揮することもないまま結成から僅か数日を以って解体となったのである。
部隊に参加した武将への伝達はもう終えてあった。今頃配下の二千の兵率いて、それぞれ自軍との合流に向かっていることだろう。そして、残る軍師たちは総大将の袁紹に各諸侯らの前で報告するようにと召集されていた。
それを終えて天幕より出てくると空には遠く日が昇り始めていて、山の端を明るく染めている。一仕事終えた様子で息を吐く面々を見渡した田豊が、その小柄な体躯に合わせて特別に作らせただろう文官服を正し、頭を下げた。
「すまんの、お主らには嫌な思いをさせた。うちの我侭姫はいささか思慮が足らん。再三ワシや沮授からも言っておるんだがのう」
続いて「郭図はまだしも、審配と逢紀の二人が姫を甘やかせ過ぎたわ」と一人ごちた。普段であればその童顔と小柄な体躯が手伝って女童ほどに幼く見せている白髪のおかっぱ頭が、こうして苦悩しているとくたびれた老女のようにも見せる。
彼女の言う我侭姫とは間違いなく袁紹を指していた。彼女以外に、報告に居合わせた面子で聞く者の神経を逆なでするような発言をした者はいない。夜中に起こされて夜更かしは美容の敵だのと一人憤っていた袁紹は、夜通し兵に指示を出していた軍師たちの前で「聞いてみれば碌な働きをしてませんわね。こんなことならわたくしの軍だけで何とかなりましたのに」などと言ってのけたのである。
肩書きこそ総大将となってはいるが、各諸侯から集められた将兵は袁紹の配下という訳ではない。本来ならば総大将として尽力した者たちには労いの言葉の一つでもかけて然るべきであって、間違っても役割を果たしてきた者たちに文句を垂れる場面ではなかった。そこに思い至らない袁紹に、腹心である田豊がここにいる軍師たちの誰よりも呆れた様子を見せている。
「何。田豊殿の手前こう言ってはなんですが、袁紹殿があのような物言いするのは予想できていたこと。彼女がなんと言おうとも、我らが呂布を退けたことも事実なら堅牢な虎牢関を両日で占領するに至ったのもまた事実。民草たちに興味を惹かせ、我らの名を噂の種とさせるには充分な働きだろう」
周瑜の取り成しに、田豊が感謝を表すようにまたも頭を下げる。その中で面白くなさそうな様子で口を開いたのは、周瑜の発言を険しい表情で聞いていた桂花である。
「ちっ、満足気な顔しちゃって。そりゃあんたたち――周瑜と鳳統の二人はいいでしょうよ。存分に知略を尽くして呂布の釣り出し役を見事に果たして見せたんだから。私と諸葛亮は虎牢関に揺さぶりをかけて兵の離反を狙う役割だったから、ようやくこれからが腕の見せ所だったっていうのに肩透かしを喰らった気分よ。ねえ、諸葛亮もそう思うでしょう?」
「あ、いえ。その、私は何事もなく虎牢関が陥とせたのであれば、それで……」
同意を求めた諸葛亮からの返答に桂花は目を見張るが、遅れて気づいた風に眉をひそめる。
「……ああ、そういえば諸葛亮も汜水関では大立ち回りしてたわ。荀諶も発案やら指揮やらで何だかんだと面目が立つ立場だし、この考えなしも軍師としては本当にありえない方法で目立ってたものね!」
私ばっかり目立った功績がなくて華琳様に顔向け出来ないじゃない、などと桂花がぶつくさと垂れた文句は何故なのか拓実にぶつけられている。面倒くさいといった風に表情を歪めた拓実はじとっと睨んでくる桂花から顔を背けた。その先では、澄ました様子で周瑜が笑みを湛えている。
「ふ。
視線を逃がした先から思わぬ方面で話題に挙げられてしまい、拓実はたじろぐこととなる。『それ』については頭を悩ませていたが、どうやら時間を経れば経るほどに困ったことになっているようであった。
「あのね。周瑜はなんか勘違いしているようだから言っておくけど、私は軍略をしっかり学んだわけじゃないのよ。また次に会うにしても、せめて穏便にして欲しいわ。文官の私が身の丈に合わない武勲なんてもらっても持て余すだけだもの」
「ほう?」と周瑜の瞼が更に開かれた。どうにも警戒されているらしく、出てきた先の言葉も世辞にはなっていたが、微笑している彼女の目だけは鋭いままだ。
華雄との一戦以来、荀攸は孫策に着目されている。周瑜は孫策に全幅の信頼を置いているが故に、荀攸に孫策が興味を示すだけの『何か』があると確信しているようだった。
実際のところ拓実は、政務関連は
では、兵の統率と合わせて軍略を学ばねばならない許定はと言えば、あろうことか根本的に勉強嫌いなのである。春蘭・秋蘭との調練を通して断片的に学ぶことはあれ、書物を開いて勉強する時間があるなら警備の手伝いをしたり、住民らとの交流に充てて陳留の町を走りまわっている。それでも一部隊を率いて効果的な立ち回りをするなら困ることはないが、敵味方の兵数・配置・地形・天候・兵站などを視野に入れての戦術的な話を周瑜たちとするとして、発言を失笑されなければまず上出来といっていい程度のものである。
「はぁ……。今後は内政官らしく後方で政務担当として養生させてもらえないかしら。前線で兵を率いてなんて真似、今回限りで勘弁願いたいわ」
少しでも警戒が解けるよう言葉を選びながら、拓実は布を巻かれて吊られた右腕を持ち上げてみる。今回は運良くこの程度で済んでよかったが、次同じことをして生きていられる気はしない。そんな本心が多分に含まれた印象操作は、しかし横から口を挟んだ第三者によって頓挫するに終わった。
「荀攸さん、それは、その、あまりに勿体無いと言いますか」
「うむ、諸葛亮殿の言うとおりよ。ワシも荀攸殿の戦働きは此度連合軍より選抜された将らに勝るとも劣らず見事であったと聞いておる。せっかくの才、腐らすには惜しいと思うがのう」
「田豊殿!? も、もしかして袁紹軍にはそのように広まっているの?」
思わず焦りを露に声を上げてしまう。この疑問に対する答えが肯定であるなら、思ったより頭が痛い事態へと進展している。既に呂布と剣を合わせた選抜隊の武将に劣らないなどという尾ひれまでついている。完全に一人歩きを始めているこれが余所に広まっていけば、さらにひれだらけとなるに違いない。
だが田豊からの返事はさらに予想の外にあった。
「いや何、兵たちからも耳には挟んでおったが、先日に諸葛亮殿と鳳統殿がまるで己が事のように教えてくれたからのう。ちいちゃな体を使って、身振り手振りで荀攸殿の勇姿を見せてくれた二人の姿はまこと愛らしかった」
「ああっ! 田豊さん、荀攸さんには言っちゃ駄目ですって言ったのに!」
「おっ、そうだったか。すまん、すまんの」
「もうっ!」
顔を真っ赤にしてぷんすか怒ってみせる諸葛亮と鳳統を、悪びれた様子のない田豊があやすようにして宥めすかしている。拓実は、その光景を前に何としていいのか微妙な顔を浮かべた。
「……はぁ」
どうやら犯人たちは身近にいたようで、おまけに善意による犯行である。おかげで拓実は真っ向から否定する訳にもいかなくなってしまった。
もしこの場で訂正すれば、おそらく諸葛亮と鳳統のこと、素直にぺこぺこと謝り、わざわざ訂正させたことから拓実を困らせてしまっていたことに気づいて、以後しばらくはしょんぼりとするだろう。最悪は泣かれるかもしれない。
それでも噂が払拭できればまだいいのだが、きっとそうはなってくれない。この場の面子には謙遜と取られるだけで解決にはならず、何より劉備軍が大陸各地の勢力より集まる連合軍兵たちに意図的に広めた件については、最早手の施しようがない。
二人が落ち込むだろうことも後味が悪い。その上で効果は薄く、二人の面目まで潰すこととなる。こうもデメリットばかりとなれば拓実はもう閉口するしかない。
「は、ざまあみなさい」
いらつきを抱えながらもどうしようもないことを悟った拓実が肩を落として意気消沈していると、そんな拓実にだけ聞こえるように隣に立つ桂花が喜色に塗れた声色でぼそりと呟いた。
見れば、桂花はほとんど変わらない背丈でふんぞり返ってこれ見よがしに拓実を見下している。困っていた拓実に助け舟も出さずに、ずっとにやにやと笑って静観していたことに遅れて気づくと、拓実の視界が真っ赤に染まった。端的に言えば、堪忍袋の緒がぶちっと切れたのだ。
「はぁ? ざまあみろ!? 恐れ多くも華琳様の軍師を任されている身で、碌な働きも出来なかった癖によくも言ったものじゃない! 私を妬んでいる暇があるなら、あんたは華琳様にどう申し開きすればいいのか考えておいた方がいいんじゃないの?」
痛いところを突かれた桂花は瞬時に顔を真っ赤に染めた。言うまでも無く怒りで頭に血が上ってのことである。
「何ですって!? 聞き捨てならないわ、誰があんたを妬んでいるっていうのよ!」
「そうじゃないの! 『軍師が剣を取って突撃するだなんて信じられない』とかそのことにばっかりつっかかってくるじゃない! 自分でしでかした事ながらそのこと自体は同感だけれど、そんなの放って置けばいいだけのことでしょう? それとも他に理由でもあるとでも言うわけ!?」
「そんなのあんたがっ! ぐ……う、うるっさい馬鹿! 死ねっ! 勝手に呂布と一騎討ちでもして死んでしまえっ!」
「な、論点を摩り替えるのは止めなさいよ! せめて私の問いかけに答えてから言い返してもらえないかしら! ほらほら、私が納得できる理由があるなら言って御覧なさい。ないのなら功績を上げられなかった妬みと言われても仕方ないわよ」
「あんた、少しぐらい黙っていられないの? 何でもかんでも訊いたら答えるとでも思ってるんじゃないわよ! この猪軍師! 考えなし甲斐性なし胸なしの癖に! 文字通りの無い乳!」
「な、無い乳ぃっ!? 何で胸の話になるのよ、馬っ鹿じゃないの!? あんたこそ、私とほとんど変わらない癖に! 残念微乳女! 発育不良の権化!」
「~~~~発育不良の権化っ!? それに、言うに事欠いて、あっ、あああ、あんたと、変わらないですってぇ!? 比べること自体酷い侮辱だっていうのに、言っていいことと悪いことがあるでしょう!? 超えてはいけない限度ってのを考えなさいよ!」
「はっ。悔しかったら一目で見分けがつくぐらい成長してみなさいってのよ。諸葛亮、鳳統! あんたたちは私と荀彧、どっちのほうが胸が大きく見える?」
口汚く言い合いを始めた拓実と桂花を止めるべきか、しかし自分たちで止められるのかとはわあわ慌てふためいていた諸葛亮と鳳統は、急に拓実に名を呼ばれて目を回した。
背中に棒を入れたように姿勢を正すと、首を痛めそうな速度で交互に拓実と桂花を見比べ始める。まともに思考回路も働いてないのだろう、ただただ言われたとおりに両者の胸部の厚みを吟味し始めた。
「はわわっ!? えと、あ、あの、ほとんど変わらないように見えます。でも、荀彧さんの方が僅かですけど大きく見える気が……」
「えっ、私には荀攸さんのほうが背が低い分だけちょっとだけ大きいように見えますけど、服の厚みがあるので自信は……」
「ほら、聞いていたでしょ。あんたも私も所詮は五十歩百歩の範疇よ。これが偽らざる第三者の意見……って、桂花!?」
拓実の言葉を聞き届ける前に、桂花はふらりと体勢を崩す。己に向かって倒れかかってきた桂花を、拓実は怪我のない左腕で支えた。突然のことだったが桂花の体重がかなり軽かったのが幸いして、足を挫いている拓実でも一緒に倒れず何とか抱えることが出来た。
「ちっ……ほんのちょっとだけ言い過ぎたかしら」
桂花の顔面は蒼白、白目を向いて口を半開きにしている。顔立ちが整っているお陰で何とか見るに耐えないほどではないが、少なくとも年頃の少女が浮かべていい類の表情ではなかった。どうやら残酷すぎる現実を目の当たりにして精神の均衡を保てなかったらしい。
完全に全身がだらんと脱力してしまっている桂花を支えるに、怪我人の拓実では限界がある。とりあえずその場で腰を下ろして寄りかからせるが、拓実もそれ以上は身動きが取れなくなってしまった。
「あの、荀攸さん……なんで自分のことでもあるのにそんなに自信満々なんですか? あ、私も悩んでいるので……気にしないでいられるのはちょっとうらやましいです」
「あわわ、わ、私もです」
「別に、何てことはないわ。私は何をやってもちっとも大きくなりはしないものだから、開き直ってるだけよ」
ある意味では核心をついている拓実の言葉に、しかし諸葛亮と鳳統の顔に影が差した。拓実がしたのは、確かに二人が望んでいた答えではなかった。しかし、目の前で堂々と諦めの言葉を口にする拓実に対し、二人は逆に尊敬の眼差しを向けざるをえない。
「ほう、聞いておったか二人とも。荀攸殿の考えは悪いものではないぞ。思い悩んでばっかりでは育つものも育たんからのう。ワシなんて幼い時分からあれこれ詮無き事を考えてばかりおったからこの歳でこの身なり。若いうちは余計なことを考えずにおった方がよかろ。些事というクビキを逃れた荀攸殿も、きっと数年後には周瑜殿のような大粒の果実をぶら下げてるに違いないわ」
「そ、そうなんでしゅか!? なら、きっと鈴々ちゃんは、将来は愛紗さんなんて目じゃないほどに……?」
「なるほど……頭を空っぽにすることにそんな重大な作用が。田豊さん! 是非詳しい話をお願いします!」
噛んだことすらも思考の外なのか、鳳統が若干張飛に失礼なことを呟いている。諸葛亮はどこに持っていたのか、すばやく覚書用の木片と筆を取り出して身を乗り出した。意識して思い悩んでいるのが良くないという話なのに、眉根を寄せて必死に思考を巡らせ情報を吟味している。どうやら二人とも根本的に考え事からは抜け出せないようである。
「おおう、童らは元気よのう……」
「ふふ、流石は『南皮の幼老婆』と城下の童たちに大人気の田豊殿ですね。お年を召した方は孫ほどの年頃の子に好かれやすいとはどうやら真実のようで」
その勢いに面食らった田豊が苦笑を浮かべていると、荀諶がほとんど背丈の変わらない田豊・諸葛亮・鳳統の三人を見て頬を緩めている。内面を知らねばただ微笑ましい光景を見ての笑顔と思えるのだろうが、拓実には獲物を前に舌なめずりしているかのような姿がちらついて見えて仕方ない。
「孫じゃと? ワシには孫はおろか子もおらんわ、阿呆め。おう小娘。先の言動も見るに、実はお主、ワシのこと嫌いなんじゃろう?」
「ええと……? 何故そう思われたかわかりませんが、決してそんなことは。袁紹様にお仕えしている理由の一つに田豊殿が筆頭軍師をされているから、ということもありますし、お人柄も気さくでお慕いしておりますけれど」
「こ、こやつ、故意に言っておった訳ではないのか。しかもいくら世辞だろうがワシが理由で袁紹軍におるとか、それはそれで気持ち悪いのう……」
荀諶の発言に何か感じるものがあったのか、田豊は苦みばしった顔でべえっと舌を出した。見てわかるぐらいには、荀諶の真摯な好意を持て余しているようだった。
一歩引いた位置でこれまでの出来事を静観していた周瑜は話が一段落したのを見て取ったか、眼鏡の位置を直しながら田豊へ向き直る。
「さて、各々方。このまま話して得難く貴重な時間を続けるのも魅力的ではあるのだが、もう半刻もすれば完全に日が昇ってしまう。攻略部隊が虎牢関占拠しているうちに日が変わってしまったが、諸侯の本隊は本日も洛陽へ向かって進軍することだろう。夜通し指揮していた我らもそろそろ解散しておかねば身体がもたんと思うがどうか?」
「ふむ……そうじゃな。では暫定だったとはいえ総指揮を務めたワシが締めさせてもらうぞ。皆、よくぞ働いてくれた。うちの我侭姫に代わって深く感謝を述べさせてもらおう」
言って、田豊は深々と頭を下げた。
「ありがとう。連合の目的はまだ先にある。また轡を並べることもあるだろう。その時を楽しみにさせてもらいたい。それまでの各々の武運を祈る」
田豊の言葉に対してそれぞれが礼や声で以って応を返し、そして挨拶もそこそこに解散していった。
難関である虎牢関を越え、日が上ってからはまた洛陽へ向けての進軍となるだろう。明け方まで働いていた軍師たちはこれから自陣に帰っても数時間と眠れないだろうが、見事に役目を果たしたことで主君の面目は施せた。眠気に目を擦りながらも晴れやかな顔で自軍へと帰っていく。
「ねえ、そこの! そう、あんたよあんた。そっちも急いでいるところ悪いんだけど、人を乗せられるぐらいの荷車かなんか手配してくれない!? このままだと私たちだけいつまで経っても華琳様のところに帰ることが出来ないじゃない。……ええ、そうよ! 私も一緒に乗れるぐらいのを大至急でお願い!」
そんな中、ぐったりした桂花を抱えて座り込んでいた拓実たちだけが取り残され、近場の兵を捕まえようと一人甲高い声を上げている。
いくらもしないうちに引き払われるだろう軍師詰所にぽつんと二人だけで置いていかれかねない拓実は必死も必死。もちろん、他の面々がしていたような晴れやかな顔とはどう見ても程遠かった。