影武者華琳様   作:柚子餅

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38.『荀諶、その本性を表すのこと』

 

 

 遠く見える山の輪郭だけが赤く染まり、辺りが薄暗くなり始めた頃。まだ日が落ちきるには幾ばくかを要するだろう時間帯。兵士たちがかがり火の準備を始めている間を抜けて、連れ添って歩く拓実と桂花の姿があった。

 拓実は足首の捻挫により左足を引き摺り、同じく肘を捻挫した右腕は首から下げた布で吊られ、骨折したらしい右手部分は添え木で固定されている。自力で歩行することが困難なほどには怪我人であり、もし転倒したとして受身も満足に取れない為に桂花の肩を借りていた。

 

 二人は選抜軍の兵たちへの野営準備の通達を終えるや、軍師たちが詰めている陣の外れへとゆっくりゆっくりと足を進め、そうして普段の二倍近くの時間かけて指示された場所に辿り着く。そこには、既に上下を暗い赤色の衣服で揃えた細身の少女が立っていた。

 彼女は頭の上にある衣服と同じ色のベレー帽の位置を直し、着ている服の裾を手で払っては髪型をいじり、おかしなところがないかと忙しなく確認していたようだったが、桂花に肩を借りながらひょこひょこと歩く拓実を見つけるなりにニコニコと笑みを浮かべている。

 見る限りでは無害で他意のなさそうな柔らかい物腰の彼女を前に、拓実は警戒の段階を一つ引き上げた。

 

 袁紹らに呼ばれて荀諶と顔を合わせる破目となった先の軍議が終わるなり、拓実は桂花から荀諶の人となりを聞いていた。桂花曰く「アレはとんでもない変態よ。加えて頭も回るとあって始末に負えないわ」ということであるが、それはつまり、桂花が手を焼くほどには荀諶の頭脳を認めていることが窺えた。その上、あのぎりぎりのところを生きている桂花をして変態と言わしめる荀諶は、常識の範囲内に収まらない危険人物ということになる。

 

 そんな彼女はこれから軍議で弁を交わす相手でもあり、また荀攸である拓実の正体に強く疑念を覚えているだろう人物だ。しかし、拓実はどうにも釈然としないでいた。相対しても荀諶からは全くというほどに害意を感じないのである。荀諶にとって、荀攸である拓実は警戒して然るべき人物の筈。少なくとも表立って好意を向けるような相手ではない。

 だというのに、彼女はその相手を前にして何故泰然としていられるのか。だからこそ拓実は彼女の内面が見えずに警戒を緩めることができない。拓実には荀諶の心理が理解出来ずにいた。

 

「ご足労いただきありがとうございます。来てくださったんですね」

「それはいいけど……なんで、わざわざ外で。天幕の中でもよかったんじゃないの?」

 

 拓実がきょろきょろと辺りを見回して、そんな質問を荀諶へと投げかける。彼女に指定された場所は軍師たちが駐屯している陣の外れではあるが、屋外である。当然、少し離れたところには夜番の兵が複数人見つけられるし、流石にお互いの話し声までは届かないものの、兵たちからも時折ちらちらと視線を向けられるのを感じていた。

 これからするだろう話の内容を思えば、軍師たちのみが立ち入りを許されている天幕の中であることが常識的には好ましいだろう。そこであれば腰を下ろして落ち着ける上に、周囲からの人目を気にする必要もない。意図的に聞き耳を立てられていなければ、話が他へ漏れることもない。

 そんな拓実の発言を聞いて呆れ返った様子を見せたのは隣に立つ桂花だった。

 

「馬鹿ね。少しは自分の立場で物を考えなさいよ。この面子で他の誰の目もないところで密会なんてしてごらんなさい。その気はなくても情報の漏洩だなんだと逆によからぬ噂を立てられるわ」

「そうですね。一族の者同士だからこそ、他勢力の者に仕えているのであれば気をつけなければなりません。足に怪我をなされている荀攸殿にお付き合いいただいている身としては申し訳ないのですけれど」

「ち、ちょっと疑問に思っただけなんだから、二人して言うことはないじゃない」

 

 なんて二人に浅慮を指摘されてわかりやすく狼狽してみせる拓実だが、本当に失念していた訳ではなくあくまでも荀諶から反応を引き出す為の意図的な発言である。

 荀攸である拓実と荀彧である桂花、そして荀諶の三人は荀家の人間ということになっている。勿論その内の拓実に限ってはあくまで対外的なものでしかないのだが、荀諶は本当に名を騙っている拓実の立場を考えてくれているらしい。先の軍議から一貫して協力的な姿勢を見せてくれてはいたが、今の彼女の返答でようやく確証を持つことが出来た。

 

 しかし荀諶がそう振舞うことで、彼女にとっても何かしら利となるものがある筈である。中には親切に一切の見返りを求めないお人よしがいない訳でもないが、『荀攸』ではそんな楽観的に物事を考えることはできない。

 だとするならば、荀諶が荀攸を一族の者と認めることによって得られる利とはなんだろうか。まず順当に考えれば、恩を売った桂花と拓実に対して何らかの要求があるといったところか。

 

「――で? 結局あんたは何が目的なのよ。弁解するからって文を送っても返してこなかったのに、ご丁寧にこいつの身元の保障までしてくれちゃって」

 

 などと拓実が荀諶の思惑を推察しているうちに、一足先に同じ結論へと辿り着いていたらしい桂花が彼女へと疑問を投げかけていた。荀諶はそれが予想外の発言であったかのようにぱちくりとまばたきした後、柔らかく目を細める。

 

「もう、荀彧殿は相変わらず疑り深いですね」

「はんっ。『身内』しかいないんだから、いい加減にその話し方はやめてくれない? なんだか苛々してくるから」

「んー」

 

 意趣返しだろうか、桂花が身内という言葉を妙に強調させて言う。明らかに不機嫌そうな声色を気にした様子もなく、荀諶は口を尖らせて宙を仰いだ。そうして間をおいた後に、荀諶の表情がにへらとだらしなく崩れる。

 

「そうね、桂花ちゃんと会うのも数年ぶりだもの。それにしても、あーあ残念。桂花ちゃん身長、伸びちゃったねぇ。もう私と同じくらい?」

 

 物静かで、正しく才女といった風情であった彼女はもう見る影もない。毅然としていた張りの有った声色も、いくらか間延びしている甘ったるいものへと変わっている。

 

「……やっぱり、さっきの口調の方がまだよかったわね」

 

 荀諶がおもむろに近づいて頭に手を伸ばしてくるのを、桂花は舌打ちしながらも乱暴に手で払いのける。鳥肌立ってるわ、と忌々しげな表情で腕をさすって、荀諶から距離を取った。

 

「変に敬語を使うなといったからって馴れ馴れしくしていいって言ったつもりはないわ。あんたみたいなのに触られて変態が移ったらどうしてくれるのよ」

「そうは言うけど、桂花ちゃんだって曹操さんに随分とお熱じゃない。曹操さんもちっちゃくてかなりの美少女だったしー」

「はぁっ? 一緒にしないでくれる! あんたと違って顔立ちがいい年若の女だったら誰でもいい訳じゃないの! 私がお慕いしているのは華琳様だけなんだから!」

「桂花ちゃんってばここ数年はずっとそうよね。(むら)にいた頃から私が遊びに行くと、普段は出不精な癖にすぐどこかへいなくなっちゃうんだから。ちっちゃい頃から随分と可愛がってあげてたのに、どうして私に懐いてくれないかなあ」

 

 その言葉を聞いた桂花の表情がこれ以上ないほどに歪んだ。荀諶にとって微笑ましくも美しい思い出は、桂花にとっては思い出したくもない記憶であったらしい。

 はたかれた手をこれ見よがしにふーふーと吹いていた荀諶だったが、突然の豹変を目の当たりにしてしまって呆然としている拓実を見るなりにその口元が弧を描く。

 

「それにしても、ふふ。顔つきは結構違うみたいなのに、本当に桂花ちゃんそっくり。二、三年前ぐらいの桂花ちゃんの身長しかないし、私的に大正解!」

「ねぇ、ちょっと桂花。こいつ、どうすればいいわけ?」

 

 おいでおいでとばかりに手招きする荀諶に、拓実は困り果てる。あまりに軍議の時とは印象が変わってしまっていてどう応対していいものかわからない。

 今も「こいつ」とぞんざいに呼びかけたことに反応してなのか、妙に熱のこもった目で見つめられている。

 

「放っておきなさい。いい? こういう輩は反応すると増長させるだけよ」

「そ、そう」

 

 経験則だろうその言葉に従って、拓実は一歩分距離を取り、よたよたと桂花の傍に寄り添った。

 どうやら彼女は公私の区別をしっかりとつけているらしく、軍議の時とはまるっきり印象が違う。どうやら桂花が言っていた「とんでもない変態」とは今の彼女を指してのことなのだろう。

 

 お陰で彼女がおおよそどういった人物かを掴みかけているのだが、相手を知るほどに拓実の中では違った意味で警戒が強まっている。というのも、事前に桂花に聞いて半ば予想していたことではあったが、拓実もまた『可愛らしい小さな少女を好む』荀諶の標的にされているらしい。奇しくも、拓実の知る西新井会長と同じ嗜好をお持ちなのである。その顔つきが似通っていることもあって、本格的に血の繋がりか生まれ変わりかを疑わずにいられない。

 

「も~、ひどい。子猫とか見ると力いっぱい撫で回して、もみくちゃにしたくなるのと同じなのに」

「こっちはそれで充分に迷惑を被っているのよ! ……はぁ、もういいわ。話を戻すわよ。時間がもったいないから率直に訊くけど、あんたの狙いは何なの?」

「別にぃ。可愛い可愛い桂花ちゃんに無理に何かしてもらおうだなんて思ってないよ。あ、偶然、今思い出しちゃったけど、私が朝廷に仕官してからも欠かさず年二回は送ってる文に桂花ちゃんが一度も返書してくれないことに私は文句言ったりしないし、『あんた』とかばっかりで預けた私の真名をほとんど呼んでくれないとか、こんな可愛い子がどういうわけか私の名前を名乗ってることを教えてくれなかったのは薄情通り越して不義理よねー、なんて思ったりもしたんだけど、私はそこまで気にしてないし」

「なんなのこいつ、めんどくさい」

「……よくわかったでしょ。だからこの変態とは関わりあいたくないのよ」

 

 反射的に出てしまった嘘偽りない拓実の本心からの発言。相槌をうった桂花の顔もまた苦々しく歪められている。間違いなく拓実も同じような表情をしている筈だ。

 よほど荀諶の相手をすることを苦手にしているらしい。その彼女はと言えば頬を膨らませ、拗ねた表情を作って桂花のことをちらちらと伺っている。

 

「わかったわよ! あんたの送ってくる年二回の文には返書するようにすればいいのね!?」

「も~、『あんた』じゃないでしょう? 私の真名は?」

「ちっ……楠花(ナンファ)。これでいいんでしょ!」

「む、可愛いことは可愛いんだけど、身長が私と同じくらいになっちゃうとどうしても破壊力が落ちちゃうねー。桂花ちゃん、上目遣いでもいっかいお願い」

「お断りよ、死ね!」

「あらら、桂花ちゃんってばそんなこと言っちゃってもいいのかな? 私にお願い事しにきたんじゃないの?」

 

 怒鳴りつける桂花に、荀諶はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべてみせる。見る間見る間にコロコロと表情が入れ替わっている。見ていて楽しくなるぐらい感情表現が大げさで、いくらかは意図的にやっている部分はあるのだろうがどうにも憎めない。

 

「まさかとは思うけどこの私の弱みにつけこむなんて性根の腐った真似、するつもりじゃないわよね? そんな下種人間の真名を、私が呼ぶと思う?」

「あは、あはは。そんなまさかー。だから、ね? 桂花ちゃん謝るから、そんな寂しいこと言わないでよ」

 

 そして流石は親族というところか、毒舌桂花の苛烈な言葉も荀諶には通用しない。彼女にとっては威嚇する子猫ぐらいにしか見えていないのかもしれない。手の平の上で遊ばせているというか、どうにも堪えた様子は見えない。

 このままでは三国志で頻発する『憤死』してしまうのではないかという程に、会話を重ねる桂花の顔が怒りで真っ赤になっていく。見かねた拓実は、呆れた様子で二人の会話に割り込んだ。

 

「ねぇ。そろそろ完全に日が暮れるんだけど。このままあんたら二人で旧交を温めているようなら、あんまり調子もよくないから私は先に休ませてもらえない?」

「あ、ごめんね。それじゃ本題に入りましょう。ええっと、キミのことを聞きたくて呼ばせてもらったのだけれど、まず私はキミをなんて呼べばいいのかな?」

 

 にこにこと笑みを浮かべて問いかけてくる荀諶を前に、拓実は少しの時間押し黙った。荀諶をじっと見つめて悩む様子を見せてから、ゆっくりと口を開く。

 

「拓実、とでも呼んでくれたらいいわ」

「拓実!? こんな変態に真名を預けるつもりなの!? 絶対後悔するわ、考え直しなさい!」

「既に捨てた名とはいえ、荀攸の名を名乗って要らぬ迷惑を掛けているのは私じゃない。まぁ癖はありそうだけど見る限りそんなに悪い人間ではないようだし、どういう意図があったにせよ私の身元を保証してくれたみたいだし。勝手に姓名を預かった私を彼女が許してくれるというのなら、私から彼女に名を預けるのが道理でしょうが」

「ぐ……」

 

 感情的に声を上げた桂花を静かに嗜める。何かを言い募ろうとした桂花も拓実の正論を前に言葉を飲み込んだ。

 勿論、額面通りの理由で名を預けた訳ではない。流石に本人を前に『荀攸』と呼べと言うほど傲慢にはなれないというところが大きいのだが、そうなった理由を説明出来ない為に後付けしたに過ぎない。

 加えて、反りの合わない桂花と荀諶でさえ真名で呼び合っていることからわかるように一族の者同士が真名を預けていない事例は少ないだろうという打算もあれば、礼に(あつ)いという印象を荀諶に刷り込むことの出来る機会でもある。

 

「ふふ、ありがと。それじゃキミのことは拓実ちゃんって呼ばせてもらうね。拓実ちゃんも私のことも真名の『楠花』って呼んでね? あ、『楠花お姉ちゃん』って抱きつきながら呼んでくれるとお姉ちゃん嬉しいんだけど」

「で、楠花? 私のことを聞きたいってことだけど、自己紹介でもすればいいの?」

「もう、そういうそっけないところも本当に桂花ちゃんそっくり! ギュってしてもいい? 駄目かな?」

 

 そっけない拓実の応対に何を感じたのか頬を染めて身をよじっている荀諶。それを目の当たりにして拓実と桂花が汚い物を見るような目で見てくるのがまた堪らないようである。

 拓実たちが嫌がっているのを見て喜んでいるのだから一々反応しなければいいのだが、あまりに明け透けに変態的な反応をするものだから、荀攸としても胸の内から湧いて出てくる嫌悪感をどうにも抑えられない。

 

「あんたに付き合ってると本当に話が進まないじゃない! もう私が説明するから口を挟まないで黙って聞いてなさいよ!」

「桂花ちゃんがそういうなら黙って聞いてまーす」

 

 悪びれもせず、目を輝かせて子供のように手を挙げる荀諶の姿に、拓実は酷い疲労感を覚えた。

 小細工を弄しても大した手応えは感じられない。のらりくらりとしている様は正に暖簾に腕押し、糠に釘。おまけにどこか達観しているような雰囲気から、心を見通されている錯覚を覚えてしまってやりにくい。常人に通じる話術が通用しにくいとなれば、桂花が苦手にするわけである。

 

 

 

 

「拓実ちゃん、その若さで随分と波乱万丈な人生を送ってきたんだねぇ……」

 

 桂花より一通りの説明を、言われたとおり黙って聞いていた荀諶は驚きやら痛ましさやらが混在した視線を拓実へと送っていた。

 

 拓実と桂花はこの場に呼び出される前に打ち合わせて荀攸の『カヴァー・ストーリー』を仕立ててきていた。その内容はこうである。

 ――平和な故国で不自由なく暮らしていた拓実は、ある日に人身売買目的で拉致されてしまう。そこはなんとか持ち前の知恵と機転で奴隷商人を出し抜いて逃げ出すことに成功した拓実であったが、不本意にも異国である大陸に放り出されてしまう。

 仕方なしに食い扶持を稼ぐためにも職を求めて放浪していたところ、容姿が似ていることで桂花の目に留まり、その要領の良さを見込んで補佐官として雇われた。大陸の名前を持っていない拓実に、桂花が自身に似た容姿をしているからと荀家一族である荀攸の名を与えてやり、働かせているうちに華琳の目にも留まって軍師としても働くようになった――。

 と、簡単に纏めると以上が桂花と共に作り上げた『拓実が荀攸と呼ばれるようになった経緯』であるのだが、南雲拓実の境遇から見ても当たらずとも遠からずといった経歴である。

 桂花曰く「一から十まで嘘をつくより、真実に一部嘘を混ぜたほうが信憑性があるでしょう」とのこと。確かに拓実としても、その方が感情移入しやすく演じやすい。

 

「でも、桂花ちゃんとそっくりな性格や口調、それにわざわざ同じ服装にまでしているのはまたどうして?」

「あの下劣で汚らわしい、品性なんて概念があるのかも疑わしい男どもに襲われて異国に攫われてきたのよ!? 拓実が男という生物に見限りをつけて当然じゃない! まあ、だから、男嫌いの私を真似ていれば男は好んで近づかないだろうってことで、そう振舞わせているのよ。どうも、数年の間もやらせていたら思った以上に私の真似が板に付いちゃったようだけれど……」

「確かに、桂花ちゃんの男嫌いは隣の邑にも周知になるほどだったもの。美少女にはうるさい私から見ても余裕の合格点あげられる、名家出身才色兼備のお嬢様だっていうのに、男連中は声も掛けなければ近寄りもしてなかったし。そういえば桂花ちゃんぐらいの歳なら許婚はもちろん旦那様がいても全然おかしくないのに、浮いた話の一つすらも聞いたことがなかったものねー」

「許婚だの旦那だの、あんまり怖気を覚えるようなことばかり言わないでよ!」

 

 荀攸の経歴の中で、桂花そっくりの服装と性格、口調の理由付けが一番苦しいと思っていたのだが、当の荀諶は会得がいった風に頷いている。

 拓実はもう慣れてしまっていたが、改めて桂花の根深い男嫌いを再認識する。周辺の村にまで周知徹底されているほどの男嫌いなんて筋金入りなんてものではない。もっとも今現在、当の桂花は男である拓実に寄りかかられて、抱きつくような形で肩を貸している状態なのではあるが。

 

「それに何を人事みたいに言ってんのよ。男嫌いはあんたも同じでしょうが。広まってたのだって、『荀家は女系一族なのに揃って女好き』って噂だったじゃない!」

「ちょっと桂花ちゃんってば。誤解があるようだから言っておくけど、私は小柄で可愛らしい美少女の姿をしていれば例え性別が男であろうが全然構わないわよ。……まぁ、まだ私の眼鏡に適うような可愛らしい男の子なんて奇跡には今の今までお目にかかったことはないけどー」

「それ余計に性質が悪いと思うんだけど、どうなのよ?」

 

 思わず拓実も口を挟んでしまう。脳裏に浮かんだのは、美少女が好きだと言って憚らないくせに異様に拓実に構ってきていた西新井会長の姿である。

 それに聞き逃すところだったが、一族という括りで噂になっていたということは他の荀家の面子も女性なのに似たような性的嗜好を持っているらしい。何だか精神的にげんなりしてきた拓実はこほんと一つ咳払いをした。

 

「で、話を戻させてもらうとたまたま桂花にそっくりで証明できる身元がなかったから、勝手ながら荀攸と名乗らせてもらっていた訳。そのあたりの文句は発案者の桂花に言ってちょうだい。私はこの子にそうしろって言われただけだから」

「こいつ、迷いなく私を売ったわね……。誰の為にこんなことになってると思ってるのよ。この恩知らず」

 

 拓実が荀諶に弁解するようにして肩を貸している桂花を指で指してやると、指の指した先から憎憎しげな声が返ってくる。その言葉を聞いて、拓実も反射的に眉を寄せる。

 

「何よ、売っただの恩知らずだの人聞きの悪い。私のことで骨を折ってくれたことには感謝はしてるし、日頃一緒に食べてるお菓子だって私なりに悪いと思って七割方出資してるじゃない。けど、それとこれとは話が別でしょう。あんたが指示したのは紛れもない事実でしょうが。どこか間違いでもあるなら指摘してみなさいよ、きっちり論破してあげるから」

「あー、ああ言えばこう言って! あんたやっぱり最近調子に乗ってるようね! 今回は退いてあげるけど、精々、庭を歩く時は足元に気をつけるがいいわ!」

「それで私が落とし穴に落ちるようなことがあったら、あんたこそ自分の寝台にナメクジやらカエルやらが紛れ込まないことを祈ってなさいよ。私は触りたくないけど、許定に頼めばやってくれるでしょうしね」

「ば、馬鹿じゃないのっ!? 前に読み書きを教えてる子供に二人して悪戯された時、以後この手のは禁じ手って取り決めしたでしょ!?」

「桂花、抑止力って言葉は知ってる? 強大な武力は、早々使えないとしても保有しているだけで効果があるんだから」

「ふふっ」

 

 ぎゃあぎゃあと甲高い声で醜い口論を始めた拓実と桂花。そんな二人をまさしく呆然とした様子で見ていた荀諶が笑い声をこぼした。何故笑われているのか、言い争っていた拓実と桂花は二人揃って怪訝な顔で荀諶に振り向いた。

 

「二人とも、随分と仲良しねぇ。桂花ちゃんがそんなに楽しそうに言い合いしているのなんて、初めて見たかも。変わったねぇ」

「あんたの目は節穴なの!? これのどこが楽しそうに見えるってのよ!」

「あらら? 桂花ちゃんってばもしかして自覚なし? まぁそれはそれでいいのだけれど。変えたのは曹操さんか、それとも拓実ちゃんなのかな」

 

 どうやら、喧嘩しながらも肩を貸してやるのを止めたりはしない桂花と、負い目があると言いながらも遠慮せず反論する拓実の姿が仲良しこよしに見えたようである。

 確かにこの程度の言い争いなんて日に二度三度とやっていることであるから深刻なものでもなし、ちょっとした遊びのようなものだ。よくよく目撃している華琳たち城の人間にしてもじゃれあっている程度の認識だろう。

 

「あ、ちなみに拓実ちゃんが荀攸を名乗っていることだけど、私としては別に捨てた名前だしね。拓実ちゃんの事情を聞かせてさえもらえば、特別にどうこう言うつもりはないんだけど~」

「な、何よ? 『けど』って」

 

 尚もぶちぶちと文句を垂れている桂花を放って、荀諶は自身の下唇を人差し指でうにうにと押しながら、ちらちらと拓実を見ている。

 荀諶の妙に歯切れの悪い言葉と思わせぶりな態度、期待に満ちた瞳を向けられ、関わりあいたくないのが表に出てきてしまった拓実は思わず腰が引けてしまう。

 

「折角こんなに桂花ちゃんそっくりで可愛い子と親戚になれたんだし、拓実ちゃんとは仲良しになりたいなーなんて。という訳で、文通から始めない?」

「ぶ、文通? まぁ、別にその程度のことだったら付き合ってあげないこともないけど。でも、私も忙しいし精々桂花と同じぐらいの頻度になると思うけど、それでも構わないの?」

「それは勿論。ふふ、それじゃ決まりね。桂花ちゃんに文を送る時に拓実ちゃん宛ても一緒に送るから、ちゃんと返信してね? あ、桂花ちゃんも今度は忘れちゃ駄目よ?」

「別に忘れていたわけじゃないけど、今回みたいな行き違いがあっても面倒だから今後は暇を見て返すようにするわよ。ただ、あんたのとこは知らないけどうちに届く書簡は基本的に検閲が入るようになっているんだから、前みたいにあんまり破廉恥なことやら馬鹿なこと書いてくるようなら絶縁も検討するからそのつもりでいなさい」

「その件については前向きに善処しますわ」

 

 おどけた様子で返事する荀諶。心底嬉しそうな彼女を見て、どうして拓実のことを気に掛けてくれていたのか、おぼろげながらに理解する。どうやら荀諶は桂花とじゃれあいたかったことに加えて、美少女に見える拓実との伝手を作りたかったようである。

 

「ふふふふ……」

 

 朗らかに、しかし含みのありそうな笑みを浮かべている彼女を前に、拓実と桂花は二人で重くため息をついた。

 

 

 

 

「ご愁傷様ね。あんたあの変態にかなり気に入られたみたいよ」

「……はぁっ?」

 

 そうして時間にして三十分ほどの立ち話を終え、篝火に照らされている陣の中を天幕へと戻っているその途中。拓実に肩を貸している桂花が、突然にこんなことを言い出した。

 なんとか荀諶との面会を乗り切って一息ついていた拓実は面食らい、すぐには桂花の言葉の意味が理解できなかった。数秒程遅れて、驚きの余りに目を見開く。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 気に入られたって、私が? 楠花に? 話してただけで別に何も特別なことはしてないじゃない! 『小さな少女が好き』って言っていた奴じゃないの?」

「もう、そんな生易しい段階じゃないわね。会ってすぐに、楠花の口調が『身内』用に変わったでしょう? あの気色の悪い性格、文字通りあいつが身内と認めた人間の前でしか絶対に出さないわ。袁紹のところであいつと一緒に働いていたのはほんの数ヶ月の間だったけれど、私と二人きりの時以外にあの性格を出したのを見たことがないもの」

「……そ、そうなの?」

「今回は私から促してみたけど、もしも他の面子がいたなら『いったい何を言っているのですか?』なんてそ知らぬ顔でとぼけてるところね。実際に顔良と三人でいた時に話を振ったらそんな感じだったもの。邑の女以外であの変態振りを目にしたのって実は拓実が初めてじゃない? ……ま、対外的には一応、あんたも荀家の女だから間違ってはないんだろうけど」

「ん、う~ん……?」

 

 素直に喜んでいいのか、危険人物に懐かれてしまったらしいことを悲しんでいいのか拓実には判断がつかなかった。眉根を寄せて目を瞑り、首をひねっている拓実を見ている桂花がにやりと意地悪そうに口の端を吊り上げる。

 

「ともかく、ちょっと会っただけのあんたが、私と同じくらいには気を許されてるってこと。ま、私よりも身長が低いから、そのうち拓実ばかり構うようになってくれるかしらね。今ほど背が伸びて良かったと思えたことはないわ」

 

 肩の荷が下りたと言わんばかりにいい笑顔を向けてくる桂花のことを、拓実がぶすっとした顔で睨みつける。やはり、好かれる相手は選ぶべきなようである。彼女に好かれることで何かしらの厄介事がついて回るのだろう。

 

「……ところでご愁傷様だなんて言っていたけど、楠花に好かれて何か不都合なことでも起こるわけ?」

「あんた、文通するとか気軽に言ってたでしょ。あいつは一回に竹簡で三本分は送りつけてくるのよ。中身は兵法書の解釈、大陸の世情、政治の良し悪しについて、流行の衣服や話題の甘味やらとあっちこっちに話題が飛んでてまったく統一されてないし。おまけに全部の話題に何かしらの所感を書いて返さないと、触れなかった話題についてだけで詳しく語ろうと別に書簡を送ってくるようになるのよ」

 

 続けて桂花は「ちょっとした記述試験でも受けさせられている気分になるわよ。それも特に興味もない分野のね」と吐き捨てて渋面を作った。別に筆不精というわけでもない桂花が荀諶に一切の返書をしないのはそういう理由があったようだ。安請け合いしてしまった拓実にしても既に今から億劫になっている。

 

「あとは、そうね。立場柄、顔を合わせて話すことはそうあるとは思えないのだけど、相対した時はあいつとの距離も気をつけておいた方がいいわ。あの変態、気に入った女相手には積極的に触れてこようとするの。捕まったら最後、力いっぱい抱きしめられて頬擦りやら口付けしてくるから」

「完全に変質者じゃない」

「故郷の邑でも幼子を決して一人で歩かせないようにしろだなんて触れが出るほどの変質者よ。流石に今回は拓実が大怪我しているようだから自重していたようだけど、次はわからないわ」

 

 なるほど、近隣の邑々にも知れ渡る訳だ。荀家変態一族説がいよいよ濃厚になってくる。同時にその一説の何割かは今拓実の左側にいる人物に由るものであろう。

 

「まぁ後、これは妄言なのかもしれないけど、容姿の整った年若の女限定で何かしらの才の有る無しがわかるらしいわね。あんたがその対象に該当するのかわからないけど、頭に入れといた方がいいわ」

「何それ? 意味がわからないんだけど。その才の有る無しってのはなんなのよ?」

「『あの子は歩き方が綺麗だから剣を持たせてあげるとちょっと強いかも』『この子は言葉選びが上手いから、外交官として鍛えればそこそこ優秀になるかも』『臀部の引き締まり方で足が速いかを見分けられるようになった』……なんて戯言を吐いていたけど、四六時中少女を観察し続けた賜物らしいわよ。聞いた時は妄言と思って真面目に取り合わなかったけど、あいつが選抜隊で指名した面子を見るとあながち間違いでもないのかもしれないわ」

「そ、そう……。ところで、何で容姿の整った年若の女限定なのよ? 女でも不細工とか年増、それに男とかは駄目なの?」

「それ以外を事細かに観察したくないし、そもそも眺めてることが出来ないとか言ってたわね。あの変態は」

「本当に真性の変態じゃない」

「だから何度も言ったでしょ。あいつはとんでもない変態だって」

 

 ぽつぽつと脱力しながら二人で言葉を交わしている最中、ふと拓実はあることを思いつくも途端に表情が曇った。えげつない絵柄が描かれているパズルの、欠けた部分にぴったり綺麗に嵌ってしまいそうなピースを見つけてしまった、そんな面持ちである。

 

「ねぇ、もしかして華琳様が行っている人材収集にとって見れば、楠花の人物眼ってこれ以上ない才能なんじゃないの? 当人の資質だけでも、軍師や文官としては有能でしょうし」

「……滅多な事を言うのはやめなさいよ。そんなこと、とっくの昔に気づいてるんだから。あいつが華琳様に仕官でもしたらあんたと私はもちろん、季衣や流琉、最悪は華琳様までが犠牲になるのよ」

 

 考えてみれば曹操陣営の中枢にいるのはタイプは違えど皆美女、美少女である。そんな中に荀諶を放り込んだらどうなるか、拓実と桂花が同族の者ということで面倒を見させられ、苦労させられる暗い未来しか浮かんでこない。

 

「なるほど。だから華琳様には、楠花のことを推挙してないのね」

「当たり前でしょう? 今回のことで華琳様の目端に留まられたみたいだけれど、あいつばかりは推挙するつもりはないわ」

 

 その桂花の判断は恐らく正しい選択である。たったの三十分ほど話をしただけだが、拓実も桂花も疲れ果てている。これが四六時中となれば、ストレスで胃に穴が空いてもおかしくない。

 荀諶。字を友若。真名は楠花。桂花や荀攸にとっての天敵であり、ある意味では華琳よりも厄介な相手であるようだった。

 

「ま、調子に乗って色々余計なことも言ったけど、拓実はそんなに気にしなくてもいいんじゃない。偶に届く手紙に返信してやるだけだもの。あいつは袁紹のところで私たちとは陣営が別なんだし、あの変態が華琳様の下に転がり込んでくるなんて余程のことがなければありえないでしょう」

「……余程のこと、ねぇ」

 

 桂花の言葉を反復し、拓実は天を仰いだ。どうにも拓実には前振りのように聞こえてしまって嫌な予感が止まらなかった。

 

 

 


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