影武者華琳様   作:柚子餅

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35.『荀攸、敵将と一騎討ちするのこと』

 

 凄まじい怒号が、絶えず拓実の背を押している。胸から上へ上へと押し上げられる感覚。体中がいきり立ってしまって熱の排出口を求めて暴れまわり、爆発しそうなそれをぎりぎりと抑え付けて必死に封じ込めている。

 ――まだだ。開放するには、まだ早い。

 

「走れ、走れ、走れェ! 軍師さまに遅れるなッ! このまま一番槍を持っていかれでもしたら、帰ってから元譲将軍に一人残らずぶっ飛ばされるぞ!」

「オオオォッ!」

「歩兵どもォ! 離されずに、しっかりついてこいよ!」

 

 この昂揚感はどうしたものだろうか。先頭を走る拓実に騎兵が追いつき並んだのを横目で確認し、そんなことを思う。

 体が羽のように軽い。先ほどまで疼いていた左足首の痛みも、気がつけば消えていた。まるで、体重がなくなってしまったかのようだ。恐怖にぐるぐると回っていた頭の中からは雑念が消え去って、考えることも億劫となって透き通り、正面に見える董卓軍しか見えなくなっていく。

 しかし、拓実にはその敵兵が随分と小さく見えている。こんな小人らに負ける筈がない。これでは、笑ってしまいそうだ。

 

「荀攸さま、敵方は連戦し疲弊していましょう! ここは我ら騎兵隊が敵前衛を崩し、敵将までの道を拓きます!」

「任せたぞッ!」

 

 左右を走っていた数十の騎兵が拓実を追い抜き、その前方を埋めていく。頭を屈めて、速度を更に上げながらも並びは崩さない。

 追撃に進軍速度を上げていた華雄隊は士気こそ高いが、関羽・張飛隊、趙雲隊との連戦で動きが鈍くなってきている。対してこちらはこれが初戦で疲れもなく、加えて士気は劉備軍の中で最高といっていい。

 そうして間もなく、拓実率いる荀攸隊が敵部隊に衝突した。

 

 

 荀攸隊・敵の華雄隊の陣形は、共に鋒矢の陣である。矢印の形に兵を配置し、頂点を敵方へと向けて突進。敵陣を突破することを目的とした陣形であり、正面からの攻撃に強い反面、横や後ろといったそれ以外の方向から攻撃を受けると滅法弱い。大将は中央列の後方にて指揮をとる為、先行している前衛へ咄嗟に命令を下せないという欠点もあり、一度突進を始めたら進路を変えることも容易ではない。

 荀攸隊は先行しすぎた拓実を守る為、矢の先端部分に当たる矢尻の前にもう一つ矢尻が組まれている。士気の高さに任せた進軍速度により自然と矢尻の部分を騎馬隊が、そこから縦に伸びる中央列に歩兵隊が構成する形になった。また、大将である拓実が二枚目の矢尻の頂点にて馬を駆っているという変則型となっている。常識的に考えるなら玉砕目的の決死隊であるか、そうでないなら大将の武力が一騎当千と謳われるほどに並外れていなければ出来ない布陣となる。

 

 華雄隊は正面の趙雲隊を突き破ったまま進路を変えず、後退している関羽・張飛隊、及びその後続である諸葛亮・鳳統隊、劉備・北郷本隊を狙って直進を進めていた。

 対して、右辺へと移動をしているところから突撃をかけた荀攸隊は、図らずも華雄隊の真正面からではなく斜め方向から突き刺さる形になる。

 

『オオオォォォッ!』

 

 雄叫びが、前方から拓実を通り過ぎる。怒号を上げた騎兵隊が、槍を構える敵兵を物ともせずに蹴散らしていく。敵の前衛が拓実の目の前で突き破られた。恐らく将からの指示が遅れているだろう華雄隊は体勢を立て直しきれていない。

 

「今だ、続け! 敵将の下まで突っ切るぞ!」

 

 一時的に華雄隊に空いた穴を、拓実の率いる二つ目の矢尻が押し拡げていく。初撃でずたずたに荒らされて(まば)らとなった敵の前衛に、間髪入れずの進攻を止められる者はいない。運良く傷無くして立っている兵は列を成して迫ってくる騎馬に対して何も出来ず、嵐が過ぎ去るのを待つかのように己の身を守ることしか出来ない。

 

「敵将はどこだ! どこにいる!」

 

 声を荒らげた拓実は背を向け逃げ惑う敵兵を馬で撥ね倒し、転んで這い蹲る者を蹄で踏み殺しながら駆け抜ける。その双眼は、前方の敵の旗へ向けられて離れない。

 

 

 そうして荀攸隊の先鋒たちが華雄隊の中程まで傷口を広げた時、拓実の目の前でそれは起こった。

 

「調子に乗るな! この、雑兵どもがァ!!」

「があああっ!!」

「ぎゃああっ!?」

 

 他より頭抜けて士気高く、これまで敵の槍衾を物ともせずに荀攸隊の先陣を担っていた精鋭が突如に悲鳴を残して姿を消した。

 旗印に向かって突き進んで到達した途端に、或る者は馬ごと弾き飛ばされ、或る者はぐらりと体をよろめかせて落馬していく。密集陣形で突き進んでいた五人が、瞬く間に薙ぎ払われていった。

 

「貴様がこの部隊の将か!? よくも好き放題にやってくれたな!」

「っ!! お前が華雄かっ!!」

 

 今しがたまで拓実を守っていた五人がいたそこには馬に乗った一人の女性。気炎を上げて、拓実の前方に立ち塞がっている。その手には無骨な、西洋で言うところのハルバードのような形状の長柄の戦斧。どうやらその一振りによって、五人を馬上から引きずり下ろしては討ち取ったようだ。

 背後に『華』の軍旗を立てていること、また戦場において尚異彩を放つその戦意からして、今拓実と相対しているこの女性こそが華雄であろう。

 

「いかにも! 寡兵を相手に良い様にしてやられた恥は、貴様の首をもって(そそ)がねばならん! 来いッ! この華雄が一撃で切り伏せてやるッッ!!」

「よくも言ったな、この荀公達を相手にやってみせろッ!!」

 

 拓実は叫び返しながらも馬の速度を緩めない。それどころか、その腹を蹴って更に加速する。

 火事場の馬鹿力というやつなのか、今までに無い力が剣を持つ右手に溢れている。先ほどまでは取り回すだけで精一杯だったこの剣が、右腕一本だというのに異様なまでに軽く感じる。

 左手で手綱を握る。捻挫していながらも痛みの感じない左足を鞍にひっかけて、体ごと右へと傾ける。

 

「オオオオォォォッッ!!」

「ああああああッッッ!!!」

 

 華雄もまた馬を走らせ、戦斧を上段に構えて拓実の鏡写しのように体を傾けている。咆哮を上げながら駆ける。彼我の距離は見る間見る間に短くなっていく。

 

 勝利を得る為に、敵将を討つ。これ以上の被害を出さずに済むよう、一撃で倒す。目の前に立ち塞がるから、目障りだから殺す。首、頭、胴体――致命傷を狙って、それぞれの得物が渾身の力で振るわれる。獰猛な笑みを浮かべる華雄に対し、拓実もまた同じ類の笑みを返した。

 そうして距離を縮める中、拓実だけが何かに気づいたように表情を変えた。視界の先に、一塊の土煙を見つけたのだ。

 

 一瞬の交差。瞬く間に勝敗は決する。

 戦場の最中でさえ一際鈍い破砕音、そして耳に残る甲高い鉄の悲鳴が響き渡る。

 

「痛ぅっ……!」

 

 それは、拓実の握った剣の刀身が半ばで砕け、折れた音だった。柄だけになった剣を手に、華雄の横を反れながら拓実が駆け抜ける。その途中で、辛うじて握っていた剣の柄もまた右手から零れ落ちていった。

 

「――貴様、荀公達と名乗ったか!」

 

 交差し、迂回させて向き直った華雄が烈火の如き怒りを声に乗せて、体をふらつかせている拓実へ叩きつけた。

 今しがたまで浮かんでいた好戦的な笑みなどは名残も見せない。強く歯を噛み締め、視線で殺さんばかりに拓実を睨みつけている。

 

「そこまでの気迫を持ちながらして、何故退いた! よもや臆したかッ!? 身を引かねば、貴様は今頃その剣と姿を同じくしていただろうに!」

 

 獰猛さだけをそのままに、そこにあるのは武による一対一に引け腰を見せた拓実への侮蔑と怒りである。華雄が詰責する通り、拓実は剣を振るいながらも傾けていた体を起こしては逆へ反らし、戦斧の軌跡から逃れ出ていた。そうしていなければ今頃、剣ごと叩き斬られていたことだろう。

 軌道が逸れて勢いこそ削がれたものの、篭められた力といい速度といい紛れもない拓実渾身の一撃である。武器の差こそあれ、一合すら持たないほどに華雄との武力差は隔絶していた。

 

「はぁ? 『臆す』だなんて見当違いも甚だしいわね! 私は武器を振り回しては前進しか出来ない猪とは違って、兵を差配し戦場を動かす軍師なの!! あんたと一緒にしないで欲しいわ!」

 

 馬上での体勢の崩れを持ち直しながら、武器が手元から消えたことで荀攸本来の性格を取り戻した拓実は怒鳴り返す。

 右肩から下はびりびりと衝撃だけが残って感覚が消えている。麻痺でもしてるのか力が入らず、動かないが痛みはない。とりあえず左手で触れられるから右腕自体がなくなっている、なんて事態ではなさそうだ。

 

 背、手のひら、額と、今頃になって拓実の全身至る箇所から冷たい汗が吹き出ていた。辛うじて命を拾えたという恐怖、また猪となって武器を振り回し、ただただ前進していた己に対して目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えている。

 単純に武力で勝負しても、拓実では華雄には勝てない。そんなことは試すまでもなくわかりきっていた。元々、敵と相対して武器を振るうことからして想定していないのである。

 士気を上げるために鼓舞だけするつもりが、その勢いのまま最前線で馬を駆っては華雄を相手に一騎打ちしているなど笑えない。どうやら、またも役になりきってしまっていたらしい。前方からの迫る質の違う空気に気づくまで、事前に諸葛亮らと打ち合わせていた策の存在まで頭の中から吹っ飛んでいたのだから本当に始末に終えない。

 

「それにあんた、なんて言ってたのかしら? 『この華雄が一撃で切り伏せてやる』だなんて大仰なこと言っておいて出来てないじゃない! 私はこうしてぴんぴんしてるわよ、まったく笑わせるわね!」

「ぐ、ぐ……武人の決闘を貶めた挙句、私の武をも侮辱するか! 将自ら先陣で兵を率いる勇猛さに、敵ながら見上げた奴などと感心していたがとんだ見込み違いだったか! もはや許さんぞ! 今度こそその首、落としてくれよう!」

「同じような言葉はさっき聞いたわ、もう忘れたのこの鳥頭! それに、出来もしないことをわざわざ二度も言わなくても良いわよ! ああ、さてはあんたの武とやらは、口先だけでしか誇れない上っ面のものなんでしょ!」

 

 馬の腹を蹴り、華雄から距離を取り始める。表面上こそ減らず口を叩いて見せているが、状況的にも精神的にも拓実にそれほどの余裕はない。

 結果的にだが、当初の目的である足止めは成功した。そして策の成就の為には、無様であろうが今しばらくの時間を稼がねばならない。今にも爆発しそうな華雄に背を向け、明後日の方向へ再び加速していく。

 

「お、おお、おのれぇ!!」

 

 どうやら語彙が少ないらしく碌に言い返せない華雄は顔を怒りで真っ赤にして、斧を振り回しながら逃げる拓実を追ってくる。拓実の手の内に武器はない為に矢を射掛けられでもしたらそれだけで討たれてしまうのだが、幸いなことに華雄の手には戦斧しかなさそうである。

 もし仮に武器があったとしても、右腕に力が入らない状態では受けることすらも出来やしないだろう。捕まったらその時が最期、拓実は首と胴体は永遠に別たれることになる。それを先の一合によって否応なしに理解させられたが故、拓実は一心不乱に馬を駆る。

 

「荀攸さまぁー!」

 

 左腕一本で四苦八苦しながら馬を走らせる拓実に、刃物というよりはむしろ鈍器に近い無骨な大剣を手に下げた騎馬が一騎、近づいてくる。

 見れば乗り手は長い黒髪をひとくくりのポニーテールにした、色白の肌のふくよかな女性。拓実より頭一つ分は高い長身の胸部では、脳みそに向かう栄養を持っていかれているとしか思えない脂肪の塊を揺らしている。

 拓実の後ろを追っていた筈の牛金である。どうして斜め前方という方向から出てきたのかはわからないが、進路を変えて合流し、併走を始めた彼女に向かって拓実は声を荒らげた。

 

「あんたっ! な、何のろのろしていたのよ、この愚図牛! ちゃんと護衛しなさいって言ったでしょう!? 中々来ないから、危うく私が死んじゃうところだったじゃない!」

「すいません! って、先頭を走っていってしまった荀攸さまが気づけば誰かと一騎討ちしていたので、代わりに兵の進路を修正してたんですよ!」

 

 つい命の危機に頭ごなしに怒鳴ってしまったが、言われて見てみれば突撃を命じたきり放置してしまっていた兵たちは華雄隊に一当てした後、大きく迂回を始めている。

 一騎討ちを始めた拓実と十数名ほどの護衛を残して、どうやら諸葛亮・鳳統隊を目指して進んでいるようだった。華雄に狙われて指揮している余裕など拓実にはなかったので、牛金が指揮していなければ兵たちは行き止まりに突き当たるまで直進しっぱなしだっただろう。

 

「ああ……そう。そうね。そういうことなら、まぁ許してあげてもいいわ。あんたがいなきゃ大変なことになっていただろうし、褒美に手柄を譲ってあげる。馬鹿そうな女が後ろから追ってきてるから、ちょっといってやっつけてきていいわよ。一応は大将首のようだから、名を上げるいい機会じゃない?」

「えっ!? ……って、あれ、と、と、董卓軍の華雄じゃないですか! 一対一じゃ無茶です! 時間稼ぎぐらいなら私でも何とかなるかもですけど、あんなのやっつけるなんて夏侯惇将軍や夏侯淵将軍でもなければ無理ですよっ! あの人、色んなところの武将を片っ端から討ち取ってるって聞いてますよ!」

「うるさいわね! いいから私の身代わりに時間稼ぎにでも何でもなって死んできなさいよ! それに何よ、打ち合いもせずに情けない。軍師の私が一合だけとはいえ、やりあってきたっていうのに」

「え、えぇ? もしかして、荀攸さまの一騎討ちの相手って、華雄だったんですか!?」

「そうよ! だから死んじゃうって言ったんじゃない! 二度も同じこと言わせないでよ、この鈍牛っ!」

「……あれ?」

 

 驚愕に目を見開いて、まじまじと拓実を見つめていた牛金だったが、ふと、眉をひそめて拓実を凝視し始めた。不思議に思って拓実から声をかけようとしたところで、後ろから怒声が届いてくる。

 

「このっ、貴様っ! 私から逃げつつ話し込むとは、どこまで虚仮(こけ)にするつもりだ!!」

 

 後ろを見れば、華雄が頭上でぶんぶんと斧を振り回している。怒り心頭、誰であろうと寄らば斬るといった様子である。

 

「あの、あの人何だかえらい怒ってませんかっ」

「だってアレって、思っていたより馬鹿なんだもの。うちの春蘭といい勝負なものだからついつい本音が口をついて出ちゃったのよね」

 

 飾らない拓実の言葉を聞いて、牛金がぎょっと目を見開いた。

 

「夏侯惇将軍のことをそんな風に言えるの、荀彧さまか荀攸さまぐらいですよっ」

「ふん。口に出しているのが私たち二人ってだけで、大小あれ、ほとんどが同じように思ってる癖に」

「う……その、まぁ。でも、そういうところも夏侯惇将軍の魅力な訳ですし! 多少の足りないところは補って余りあるほど、勇猛な方じゃないですか!」

「多少で済むような頭の出来だとは思えないのだけど。まったく、これだから『強ければ偉い』なんて考えている武官連中とは価値観が合わなくて嫌なのよ」

「先程まで一千の兵の先頭で剣を振り回していた人の言葉とは思えないですね!」

「……あんた、結構言うわね」

 

 二人して随分と余裕のある会話をしているが、決してそんなことはない。背後から迫る華雄の怒気と殺気から、拓実も牛金も会話で誤魔化しながら必死で目を逸らしているだけである。

 現実逃避しながらも姿勢を低くして馬を全速力で走らせているが、左腕だけで手繰っている拓実の限界は近い。どんどんと馬の蹄の音が近づいてくる。

 

「ようやく追いついたぞ! 覚悟しろっ!」

「っ、荀攸さま危ないっ!」

 

 ついに横に並ばれて、華雄の戦斧が拓実に向かって振るわれる。喰らえば、まず即死する。

 接近を警戒していた牛金が察知し、すぐさまに馬ごと間に割り込むと、見るからに切れ味の悪そうな大剣でその一撃を打ち払った。

 

「ふんっ!」

「ぐうぅ!?」

 

 戦斧と大剣はかち合い、弾け合う。二人もまたその衝撃に、同じだけ距離を空けた。華雄と牛金、初撃となる一撃の重さは同等。しかし、分けた二人の、その様子は対照的である。

 

「その膂力には見るところあれ、気概が足らんな! 気迫に限れば、そこの卑怯者に及ぶべくもない!」

 

 すぐさまに馬を手繰って寄せ始める華雄と、気迫に圧されて慌てて体勢を立て直す牛金。

 得物の重量で言えば牛金が持つ大剣が勝っている。膂力という点でも決して牛金は華雄に引けを取る訳ではない。しかし、華雄にはそれを覆すほどには、勇将の名に恥じない気骨があった。武力を誇りとして戦をする為に生きてきた、(つわもの)の風格がある。牛金は見るからに、それに呑まれていた。

 

「誰が卑怯者だっていうのよ! あんたはとんでもない馬鹿者の癖に!」

「はっ、今のうちに好き放題に言っておけ! すぐに口も利けないようにしてやる! う、おおおおおおおっ!!」

「ふっ、くううっ!」

 

 がぎん、ごぎんと、びりびり空気が震える。戦斧を振るう華雄はまるで暴風だった。振るえば振るうほどに規模やその力を増していく。

 鉄槌で金属を叩き潰すような音が三度、四度と続くたびに牛金の大剣は大きく弾かれる。初撃ではほんの僅かに劣勢という程度だった。しかしその差は更に広まり、牛金は満足に振るうだけの余力と時間を奪われていく。

 

「つ、強いっ、こんなにっ!? これ以上は……!」

「牛金っ!?」

「荀攸さまっ、何をしているんですか!? もう持ちません! 今のうちに早く退いて……ぐッ!」

 

 そうして十の音を数える前に一際大きな金属音を響かせて、牛金は乗っている馬ごと弾かれた。馬は倒れず持ち堪えたたものの、華雄の気迫に圧され速度を緩めてしまう。

 牛金は大きく遅れを取った上に体勢を崩されていて、すぐには復帰できない。しかし、華雄はよろける牛金に追撃をかけたりはしなかった。

 

「ひっ!?」

「遅い、もらったァ!!」

 

 武を貶されたのが相当に腹に据えかねたのか、華雄は牛金には目もくれずに執拗に拓実を狙っていた。もう、華雄と拓実の間に障害はない。遅れてその事実に気づいた拓実は手綱を引いて距離を取ろうと試みるも、華雄の接近の方が遥かに早い。

 

「おっと、そこまでにしてもらおうか!」

「は……えっ、え?」

 

 風を分かつ音が遅れて届いて、拓実は迫っていた戦斧が空を切ったのを知った。恐怖のあまり目を瞑ってしまっていた拓実が恐る恐る目を開いてみると、見覚えのある女性が見覚えのある槍を手に、拓実を守るようにして構えている。

 華雄との間に馬を割り込ませてきた人物を見て、拓実は呆然と目を見開いては唇をわなわなと震わせる。思考は完全に止まっていた。けれども、未だ生き長らえられている事実を前に、涙が勝手にあふれ出てくる。

 

「こちらは大事な客人であり、今は我が劉備軍の軍師殿でもある。お主のような木っ端になどやらせる訳にはいかんのでな! 趙雲隊三百、荀攸殿に合流させていただく! お主の相手は今一度この趙子龍が仕ろう!」

「あっ……う……」

 

 人前で涙をぽろぽろとこぼしているのに拓実はそれを一向に拭おうともせず、とにかく感謝の言葉を紡ごうとする。しかし、胸がいっぱいで、たったの一言が中々出てこない。

 先ほどまでは思い浮かべようとも何の感慨も浮かばなかった筈の趙雲がそこにいた。槍を構えているだけだというのに、一切乱れることのないその佇まい。今の拓実には、その彼女の姿が誰よりも頼もしく映っている。

 

「ちょ、趙子龍、殿! っ……その、助かったわ」

「いや何。気になされますな。軍師殿はまず、その涙を拭うがよろしい。下手を打った私の代わりに出張ってくださったようですからな。せめて雑魚の露払いぐらいはしておかねば、私を臣下として迎えてくださった桃香様や主に合わせる顔がなくなってしまう」

「雑魚だと!? 貴様も私を愚弄するか!」

「ふっ!」

 

 華雄が馬を寄せ、趙雲へと向けて戦斧を振るえば、轟、と凄まじいうなり音を立てる。対して趙雲は、小さく息を吐き出すと同じくして鋭く手の槍を突き出した。

 槍先を僅かに回して戦斧の刃を絡めとり、そのまま下方へと弾き落とす。拓実の渾身の一撃を剣ごと叩き切り、牛金の剛剣をも退けたとは思えないほど、華雄の戦斧は呆気なくいなされる。

 

「ふむ、やはり。確かにその豪腕は見事だが、それ以上ではないな。私もまだまだ未熟の身ではあるが、力で叩き潰すだけが武ではないことぐらい知り得ている」

「くっ、趙子龍といったな! 小手先の技を使って粋がるとは笑わせる! 武とは力と気迫のぶつかり合いだ! 技などは所詮、弱者が持たざる力を誤魔化すものだろう!」

「ならば、今度は貴様がいう『武』とやらでお相手致そう」

「ぬうっ!?」

 

 一転。趙雲が槍を握り直すと、攻撃の質が変わった。金属同士がぶつかり合って振動し、大気を大きく震わせる。

 槍が趙雲の手元で縦横無尽に振り回され、あらゆる方向から華雄に向かって叩きつけられていた。咄嗟に戦斧を横にして受ける華雄が、一撃を受けるごとに体勢を歪ませる。

 遠心力を利用したものだろう、肝心の槍を手繰っている趙雲も相応の力を込めているのだろうが、明らかにそれ以上の衝撃が華雄を襲っていた。

 

「ぐぅぅ!?」

「さて、どうだろう。『気迫』はわからぬが、貴様を押さえ込めるだけの『力』はあったと思うのだが」

「こ、こいつ……!」

 

 槍をぴたりと止め、趙雲はその穂先と人を食った笑みを向けた。その先にいる華雄は歯を噛み締めて低く唸り声を上げるばかりで、反論も出来ずに睨み返している。

 そうして無言で睨み合ってしばらく、ふと趙雲が目を逸らした。……根負けしたという訳ではなく、何かに気づいたように遠くに視線をやったようであった。

 

「ん……こんなところか。さて、華雄よ。戦場はこうしている間にも刻々と変化している訳だが、いつまでも我らにかまけて足止めされていても構わないのか?」

「足止めだと? 一体、何を言っている!!」

「ふ。未だに己の置かれた状況に気づかずにいたのか」

 

 趙雲がそう言った正に直後、汜水関に向かって左右から銅鑼の音が響き渡る。それは何度となく鳴らされ続けていて、反響しあっているかのようだ。

 

「な、なんだっ!? 何が起こっている!?」

 

 それを境にして、あらゆる所から喊声が上がり始めた。

 無数の矢が風を切り、空を埋め尽くして汜水関に放たれていく。地鳴りは鳴り止まず、馬の嘶きや金属音が、とめどなく聞こえ始める。まるで、音の洪水だ。

 

「……ふ、くふふふふっ! あははははっ!」

 

 戦況が動く。まるで足並みを揃えたかのように、連合軍が一丸となって董卓軍を囲んでいく。その光景を目の当たりにし、拓実は笑いが止まらない。生きてこの瞬間を迎えることが出来た安堵で、拭ったばかりの涙がまたも溢れ出る。

 華雄に追い回されて余裕がなかった為に周囲の確認が出来ずにいたが、拓実はここに至って諸葛亮・鳳統の策が形を成したこと、殿としての役目を果たしたことを知ったのだった。

 

「軍師殿、未だ状況を理解しておらぬそこの敵将にお教えしてやってはどうか? 損ねた私が言うことではないが、軍師殿は殿という最後の仕上げをこなした立役者。策の成功を謳い上げたとして、朱里や雛里も文句は言いますまい」

 

 泣き笑いする拓実を横目で見ていた趙雲が、薄く口の端を吊り上げて言った。体勢を立て直したらしい牛金も拓実の横へと並び、僅かに笑みを湛えて胸を撫で下ろしている。

 

「そうね。策の中核となり大部分を担ったのは諸葛亮と鳳統だけれど、敢えて私が宣言させて貰うわ! 我ら軍師が策、今ここに成れりっ!」

 

 拓実は涙でくぐもった声を上げながらも、馬上で手を汜水関へと向ける。

 すると、まるでそれが切っ掛けであったかのように、左方崖際から袁術軍が一心不乱に汜水関に攻めかかり始めた。それに少しばかり遅れて、右方の崖際からも烈火の如き勢いで突き進む曹操軍が汜水関に取り付いていく。それぞれが華雄隊の後続が汜水関の関門から出てこようとしているところを抑え込み、押し込み、逆に内部へと乗り込み始めた。

 

「そこの猪武者! あんたの兵は、最早この場についてきている一千あまりと知りなさい!」

「な、何だと! そんな訳があるものか! 私と共に討って出た一万の精鋭は、そう簡単には……!」

「そうね。まぁ、簡単というわけでは、なかったんじゃないかしら。知らないけれど、たぶん相当の損害が出ている筈よ。劉備軍の後方にいた袁紹軍にはね」

 

 諸葛亮・鳳統による策が順調であるならば、今こうしている間にも華雄率いる一万の兵は着々と数を減らしているだろう。事実、拓実本人の推察している通りに董卓軍一万の兵は袁紹軍の三万の兵に真っ向からぶつかって大打撃を与えつつ、しかし縦に伸びたそこを左右から挟み撃ちにされ劣勢に立たされていた。

 

 拓実が稼いだ数分により、劉備軍は董卓軍の攻撃から逃れて公孫賛軍のいる右辺へと移動を終えていた。

 大将である華雄が拓実にかかりきりだったが為、目標を失った華雄隊は進軍方向を変える余裕もなく、後続を引き連れたまま数で勝る袁紹軍に突撃せざるをえなくなったのだ。劉備軍を前衛において壁代わりにしていた袁紹軍もまた、『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』と主君に命じられている為に董卓軍と正面衝突することになる。さしもの大軍を相手に士気の高い董卓軍の足も止まり、戦線は僅かに膠着する。

 真正面からぶつかった袁紹軍にかかりきりとなった董卓軍。そこに右辺に控えていた公孫賛軍と、移動を終えて反転した劉備軍が右側面から攻めかかった。横合いからの攻撃を受けてもまともに反撃も出来ない董卓軍は、堪らずに逆方向に押しやられる。しかし、その先――左辺に控えていた孫策軍、また、袁術軍の動きに釣られて攻め上がってきた馬超軍が攻撃を加えて押し返した。

 更に、後方に残る諸侯らが我も我もと前線へと続き、董卓軍包囲の空白を埋めては攻撃を仕掛けている。董卓軍はその一斉攻撃の前に、圧し包まれるようにして規模を小さくしていく。

 

「これは、どうしたことだ!? 連合軍などといいながら、貴様らは烏合の衆ではなかったのか!」

 

 連合の旗印が周囲を取り囲んでは押し寄せ、雄叫びが津波の如く迫ってくる様子から、一方的に自軍が攻撃を受けていることを感知した華雄が堪らず怒鳴り上げる。

 そんな華雄を拓実はせせら笑う。やはり彼女は怒りに目が眩み、周囲が見えていなかった。華雄は自身の武を必要以上に過信し、それと同じだけ連合軍を侮り過ぎたのだ。

 

「ふん、自惚れが過ぎたようね。横の連携などあってないようなこの連合軍だけれど、それでも戦場を(つかさど)ってみせるのが軍師の私たちよ」

 

 銅鑼の音が鳴り響いてから経たのは、僅かばかりの時間。しかし、その僅かな時間だけで、連合軍は事前に打ち合わせでもしていたかのように見る間見る間に董卓軍の包囲網を完成させた。

 だが、こうまで見事な包囲網を演出して見せた劉備軍が汜水関の攻略に当たって連携を取り決めた相手は少ない。諸葛亮、鳳統、拓実の三人が連絡を取り合った相手は、身内同然である公孫賛を除けば僅か二人だけである。

 

 一人は孫策。袁術軍の客将である孫策からは、事前に劉備軍に協力を申し出があった。真偽はさておき、名を売りながらも領地を持たない劉備に対し、名声高くも客将に甘んじている孫策は共感する部分があったとのことである。また、どうやら形式上では主君である袁術に対していい感情を抱いていないらしく、劉備軍の軍師三人の策を聞くや袁術をおだてて煽り、汜水関攻略の抜け駆けを決めさせたようだ。加勢するにあたって孫策より一つ要望があったのだが、三人はあっさりとこれを呑んだ。劉備軍の兵力を考えれば、むしろ願ってもない申し出であった。

 もう一人は曹操――華琳。拓実は袁術軍が抜け駆けするだろうこと、同時に右方に曹操軍が攻めかかることが出来るだけの空白を作っておく旨を報告していた。その際に諸葛亮と鳳統は『用心深い曹操は言われるがままに攻めかかることはしないのではないか』と懸念していたのだが、拓実が半ば無理やりに押し通している。確かに華琳は易々と他人の思惑になど乗りはしないが、拓実が劉備軍にいる今回に限って言えば問題ないからだ。劉備軍に功績を立てさせる為に動き、同時に中核人物の情報を調べさせている拓実の申し出に華琳は乗らざるを得ない。拓実が華琳の真意を正しく理解していると確信している為に、拓実がしようとするのであればそれは曹操軍の目的にとっても必要であることだと華琳は考える。加えて、先に動く袁術軍を囮に汜水関を攻撃出来、上手く立ち回れば被害少なく名声を得る事が出来るという利もあれば、華琳が動かない理由がない。

 

 そうしたやり取りの末、袁術軍は目論見通りに抜け駆けを敢行する。その動きを確認した曹操軍も、袁術軍を隠れ蓑にしながら一拍遅れて汜水関攻略に乗り出した。連合軍の中でも大軍を擁する袁術軍・曹操軍が動くとなれば、虎視眈々と名声を得る機会を窺っていた諸侯らもまた動かないわけにいかない。

 しかし、蓋を開けてみれば袁術軍と曹操軍は討って出ている董卓軍を無視し、それぞれが独力で汜水関の攻略にかかっている。おまけに汜水関の攻略に適した地点は、その二つの軍団によって全て埋まってしまった状態である。漁夫の利を得ようとしていた諸侯は、しかし進み出てしまった為に後続に押されて後退できず、その勢いのまま交戦している戦場に加勢する他なくなってしまう。

 

「さて。あんたら董卓軍から見て、正面には数の多い袁紹軍。左は公孫賛・劉備軍、右は孫策軍と馬超軍に挟まれた。更に後方では既に曹操軍、袁術軍が汜水関に取り付いてる」

 

 開戦当初、連合軍は行軍の為に『長蛇の陣』という陣形を組んでいた。縦に長く並んで前へと進むだけの『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』することしか出来ない陣形である。

 董卓軍と劉備軍が戦端を開くと、まず公孫賛軍が列から抜けて右へ移動する。同じく打ち合わせていた孫策軍が後方から袁術軍を引き連れて上がってくる。ここで劉備軍を先頭に、左より袁術軍・袁紹軍・公孫賛軍と二段目に並んで、一時的に三角の形である『魚鱗の陣』となる。

 連合軍全体の進軍を待って先頭にいた劉備軍が右方へと逃れ出ると、釣り出された董卓軍はその真後ろの袁紹軍と交戦することになる。袁紹軍の足は董卓軍の勢いの前に止まってしまうが、左右の大外より袁術軍と曹操軍が攻め上がっていくために後続の軍は釣られて前へ前へと進軍してしまう。

 自然と中央の袁紹軍を基点として、全軍は左右斜め前方に展開して華雄隊を押し包んでいくようになる。連合軍は、まるで鶴が翼を広げたかのような三日月をかたちどる。

 

「そうして気づけば、董卓軍は『鶴翼』の中ってところね。もし攻めかかれば全方位から袋叩き。あんたの逃げ場は後方のみだけれど、下手に汜水関に退却しようとしたらその瞬間に全軍がなだれ込むわよ」

「ぬ! ぐう……! どんな手を使ったかは知らんが、まんまとしてやられたということか! しかし、まだだ! 貴様らをここで討ち取り、正面の袁紹さえ撃ち破ってしまえば連合軍は瓦解する! そうなれば我らの勝ちだ!」

「あ、そ。出来るならやってみればいいんじゃない? 時間稼ぎも終わったことだし、私たちは劉備軍に戻るから。孫策! あんたの要望どおりよ。首を挙げて名を高めるなり、倒して捕縛するなり、返り討ちに遭うなり好きにすればいいわ」

「孫!? 孫策だと!?」

 

 やはり『孫』の名に因縁があるのか、華雄はその名を聞くなりに肌が粟立つほどの凄まじい戦意を溢れさせている。それに構わずに、拓実は隣の牛金に向かって左手をぷらぷらと振っていた。その手の先では、結構な兵数を削られた劉備軍が今も尚董卓軍を相手に善戦している。

 

「あら。随分とつれないわね。寡兵で突撃して、先頭の方で剣を振り回してたのって貴女なんでしょう? 華雄との決着もついてないみたいだし、何なら特別に一緒してもいいわよ」

「ふん。お断りよ。まっぴら御免だわ。改めてあんたにも言っておくけど、私は武将じゃなくて軍師なの」

 

 片手で四苦八苦しながら手綱を引いて華雄に背を向けていた拓実は、駆けて来たうら若い女性の声に僅かに動きを止め、肩越しに声を返す。顔だけで振り向いた拓実の視界には、露出の多い衣服に色黒の肌、そして綺麗な長い桃色の髪を持つ女性――孫策の姿があった。

 戦意の欠片もない返事を聞いた彼女は肩透かしを喰らったような素振りを見せて一度目線を切ったが、しかし何かに気づいた様子を見せるや改めて拓実をじっと見つめてくる。

 

「……貴女、面白いわね。突撃していた時とはまるで別人。あの時の貴女はどこにいったのかしら?」

「そんなの知らないわよ。見間違いじゃないの?」

「これでも私、目はいいほうなのよねぇ。もう随分と減っちゃっているけど、今汜水関の防壁の上にいる弓兵の数を言い当ててあげましょうか?」

 

 面倒くさい。孫策に興味津々に見つめられて、拓実はそんな様子をあからさまに見せた。精神的に余裕もなければ、突っ込まれたくない話題でもある。

 ただでさえ荀攸としての思考に戻ってからずっとそのことが頭から離れてくれないというのに。そんな筋違いの怒りだと理解しながら、拓実の機嫌はどんどんと下降していく。

 

「……悪いけど、慣れない事して疲れてるの。二度目になるけど、後は勝手にして頂戴」

「あんまりしつこくすると嫌われちゃいそうね。いいわ。確か名を荀攸と言っていたわね。覚えておくわ」

「いいわよ、覚えなくて。趙子龍殿、牛金。私たちの役目は終えたわ。戻りましょ」

「ふむ。そうですな」

「はっ!」

 

 苛つきを隠そうともしない拓実の返答にくすくすと笑い声を残して、孫策は戦斧を構えている華雄と向き直った。孫策しか眼中にない華雄は立ち去ろうとしている拓実に一瞥をくれることすらもしない。

 趙雲と牛金が馬を操り、拓実の左右を守るように横に並ぶ。剣戟の音を背後に聞きながら、拓実たちは戦場を後にした。

 

 孫策が劉備軍と連携を取る際に要望したことはたったの一つ、『華雄との決着はこちらでつけさせてほしい』ということであった。

 今は亡き孫策の母、孫堅は生前にあの華雄を相手にして打ち負かしたことがあるらしく、母親にできたことならば子である自分も出来るはずである、ということらしい。一種の世襲の為の試練であるのか、勇将を討ち果たすことで名声を得たいが為に取ってつけた理由であったのか。そこにどんな意味があるのかはわからない。しかし、拓実たちにとってはそれで構わなかった。

 

 劉備軍が命じられたことは『汜水関を攻略する』その一点のみである。関門が開き、一万もの兵を一方的に攻め立てている上に敵将である華雄が討って出ている今、攻略は時間の問題と言える。汜水関を制圧するのが華琳であろうと、敵将を討つのが孫策であろうと、兵を多く討ち取ったのが袁紹軍であろうと、劉備軍が袁紹に命じられた『汜水関攻略』は間違いなく果たされる。

 問題は劉備軍の戦功と功名であるが、思惑の絡んだ二十万もの兵を思うままに動かして見せた諸葛亮と鳳統の巧妙な用兵術一つでも充分だろう。この攻略戦を機に、軍師二人の名声も、先鋒を務めた劉備軍の名も一際大きく大陸に轟くことになるのはまず間違いない。

 

 

 

「荀攸さま、お疲れ様です!」

「お疲れ様……。あー、それにしても最悪、最悪よ。まさか、こんなことになるだなんて」

「最悪、ですか? 色々ありましたけど、でも、結果的に上手くいって良かったじゃないですか! 大金星ですよ!」

 

 牛金が暢気な言葉を返したものだから馬の首にもたれ掛かっていた拓実は思わず渋面を作ってしまう。

 拓実たちが馬を走らせているそこは劉備軍の本隊が間近に見える、戦場より離れた後方である。包囲され防衛にかかりきりとなった董卓軍は汜水関へと撤退を始めていた為に、進路上のはぐれた敵兵を趙雲隊らが蹴散らす程度で拓実たちは無事前線から離脱していた。

 

「……劉備軍の策は成功したかもしれないけれど、私個人としてよ。あんたにはわからないでしょうけどね」

 

 劉備軍の立てた作戦に、一役を買った。曹操軍の兵によって、寡兵ながら目覚しい戦果を上げた。華琳に命じられた『劉備軍の立身の助けになれ』という任務は達成したとみていいだろう。

 結果だけを見ればその通りではあるのだが――しかし、そんな簡単な話ではないのである。

 

「ふむ。もし曹操殿に戦功を立てるようにと言いつかったという話でしたら、充分に過ぎるほどの活躍だったかと思われますが。破竹の勢いで突撃してくる敵部隊に対して、寡兵を率いて更なる勢いで突撃をかけて足止めする……軍師殿の強襲は、これ以上ないほどに注目を集めたことでしょう」

「ですよね! やっぱり趙雲さんもそう思われますか!?」

「ええ。軍師殿は見るからに文官然しているものでしたからその表層に騙されましたが、正しく人は見た目によらないと言った所ですかな。ふ。あれを見せられては、武人として奮い立たないわけにもいきますまい」

「ええ、ええ! いきなり怒鳴られた時は『この人大丈夫かな』なんて思ったりもしましたけど、あの勇ましさは正しく夏侯惇将軍みたいでした! 一騎討ちしてからはなんか元のねちねちした感じに戻っちゃいましたけど、すごかったです!」

「ううぅ……!」

「荀攸さま?」

「軍師殿、どうなされた?」

 

 趙雲や牛金が褒め称えてくれるが、やはり拓実は素直に喜べない。それどころか頭を抱えて一層、深刻に思い悩んでしまった。

 いくら命の危機が迫っていたとはいえ、華琳に無許可で別の人物の演技してしまった。桂花を基にした荀攸の姿で春蘭の内面を演技するなど、豹変にもほどがある。当然、荀攸は周囲に警戒されるだろう。華琳の影武者となった時に、勘付かれてしまいかねない要因を増やしてしまったのだ。

 先の孫策が見えていたということは、袁術軍や袁紹軍、曹操軍にも見えていたと考えた方がいい。加えて、今横を併走している趙雲から、劉備軍に伝わることだろう。牛金にしても華琳が指示していない以上は、事情を知らせていい相手ではない。

 覆水は盆に返らない。一度事態は動いてしまえば、元には戻せない。とにかく華琳に謝って、今後の指示を仰がねばならない。

 

「……ったぁ!?」

 

 そこまで考え終えて肺の空気を深く吐き出したところで、拓実の体が異常を訴え始める。思わず、駆けさせていた馬を歩かせて、馬上でうずくまってしまう。

 

「いたっ、いたいっ!? なに、これっ!!」

「荀攸さま? ど、どうしたんですか?」

「うでっ! 手も!? ぐ、ぅ~~~ッッ!?」

 

 振動が響くたびに、激痛が拓実の右腕のあちこちで暴れている。上官が突然に叫びだしたことで、前例もあってか牛金がうろたえている。

 どうやら華雄と武器を打ち合わせた時からの痺れが解けたらしいが、今度は痛みのあまり動かせない。唯一動かして痛まないのは肩ぐらいで、肘は曲げられず、手も握れない。

 

「……軍師殿、ちょっとばかり診せていただけますかな。医術というほどではありませぬが、旅をしていたこともあり、多少の心得ならばあります故」

「うぅ!? ~~~~っ!」

 

 体を丸めてはぽろぽろと涙を落としている拓実に趙雲が近寄り、その右腕をぐいとひったくる。

 予期せぬ痛みに、拓実は目を限界まで見開いて、声にならない叫び声を上げる。そんな様子を観察しながらも、趙雲は拓実の右腕を触るのをやめない。肘をぐいと曲げさせ、手を包み込んで無理やり開閉させる。拓実は歯を食いしばって耐えようとするも、その度に体を痙攣させる。

 

「……ふむ。これは」

 

 ようやく右腕から手を離される頃には、拓実は意識を朦朧とさせていた。ぐらぐらと頭を揺らしてから、体をぱたりと馬の首に預ける。

 右腕は度重なる大きな痛みによって、痛覚が一時的に麻痺しているらしい。体と馬との間に挟んでいるが、馬が歩いて生じる振動程度では痛みを感じない。

 

「ちょ、趙雲さん、荀攸さまはどうですか? なにか、わかりましたか?」

「右肘はまず捻挫でしょう。自信はありませんが、右手の甲の骨にはヒビが入ってしまっていますな。さらに左足首は以前からのものでしょうが、腫れが酷い。もしも本当に骨にヒビが入っていたなら、しっかりと繋がるまで二月といったところですか」

 

 趙雲の声が水の中でのようにくぐもって聞こえる。拓実の目の前には(もや)がかかって、ぼやけ、色と色とが混ざって物の輪郭を無くしていく。

 

(全治、二ヶ月……? ……また、華琳に怒ら、れ……)

 

 痛みと精神的な疲労で最早演技もままならならなかった拓実は、趙雲の診断を聞いて意識を手放した。力が抜けた拓実の体は、乗っている馬からずり落ちていく。

 傾いていくおぼろげな、上下に狭まっていく視界の中で牛金が慌てて近寄ってきていた。どういう訳かその声は聞こえず、無音の中で、拓実は牛金の狼狽している様子をぼんやりと眺め続けていた。

 

 


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