影武者華琳様   作:柚子餅

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34.『荀攸、劉備軍にて兵を率いるのこと』

 

 華琳からの援兵の申し出は願ってもないとのことで、劉備や北郷一刀にはすぐさま受け入れられることとなった。荀攸の衣装に着替えなおしていた拓実はすぐさまに陣へと取って返し、三千の援兵を引き連れて滞りなく劉備軍に監督役として合流を終える。

 しかし拓実には、今自身が置かれている現状がどうにも不可解極まりない。本来は他軍から遣わされた監督役などは機密から中核に置くことも出来ず、かといって『お客様』であるから下手に危険に晒すわけにもいかない、その上で監督させてやらねばならないうっとおしいことこの上ない存在であろう。てっきり劉備軍全体を見渡せる後方に置かれて、諸葛亮や鳳統、劉備、一刀らが軍を差配しているのを発言権もなくただ黙って見ているものと思っていたのだが、しかし現実としてそうはなっていないのである。

 きっと、華琳が劉備に向けてしたためた書状に余計なことでも書いてあったのだろう。そうでもなければ劉備が華琳からの書状を確認するなりに、監督役の拓実に向かって「頼りにしてますね!」と期待に満ちた言葉を告げるのはいくらなんでもおかしい。劉備軍に加わっている拓実は猫耳フードを目深に被って、諸葛亮や鳳統と一緒に戦闘要員である兵を率いながらもそんなことを考えていた。

 

 当座の議題を消化した後、拓実は華琳と共に軍議の場から去ってしまった為に知る由もなかったが、北郷一刀が上手く言いくるめて袁紹から三千の兵を引き出していたらしい。曹操軍からも三千の兵を借り受けた結果、劉備軍は総兵数六千と八百を数えるという、都市の太守でもなければ有することの出来ない規模の大軍となった。

 その配置は、先鋒から関羽・張飛の三千。その後ろに後詰・遊撃を任されている趙雲が率いる一千。中盤には二陣である諸葛亮・鳳統、荀攸の二千。後方には劉備・一刀の本隊八百が続いている。

 袁紹軍からの援兵三千はそっくりそのまま先陣を切ることになる関羽・張飛隊に。曹操軍からの援兵三千の内、二千が二陣の軍師隊。残った一千は趙雲隊、本隊に五百ずつ割り振られ、監督役の拓実の立場を慮ってか劉備軍の八百と混成されている。

 曹操軍からの援兵が最前線に配されてはいなかったのでそれに関しての文句はないが、問題は荀攸が劉備軍の軍師の一人として数えられている上に実戦部隊指揮にまで組み込まれてしまっていることだ。諸葛亮・鳳統に同行させての補佐を期待してのことだろうが、この二千にもしっかりと役割が割り振られていて一時(いっとき)のこととはいえ軍師隊が前線に出る予定もあるのだった。

 

 また、編成表には以前に陳留を訪れていた趙雲の名が連なっていたが、歴史を知っている拓実は事実として納得するばかりで驚くことはなかった。知らぬ仲ではないが、そも趙雲と意気投合していたのは許定である。荀攸となっている今の自分とはこれといって相性がよくないだろうこともあり、同じ軍にいることに対して何の感慨も浮かんではこない。

 

「それにしても他に選択肢がないからって、敵将が挑発に乗って関から出てくれるかどうかに汜水関攻略の成否がかかっているだなんて」

 

 ぼそりと呟いたその言葉に、女性としても小柄な拓実より尚背の低い諸葛亮と鳳統の二人がぱっと振り向き、左右から視線を向けてくる。かなり人見知りする鳳統は元より、諸葛亮も緊張しているようだ。「はわわ」「あわわ」と焦った声が左右からステレオで聞こえてくる。

 

「あの、その、公孫賛さんも共に攻略に当たってくれるとはいえ、合わせても一万八千と八百ですから。放った細作によれば周辺に防衛隊が約一万。こちらに関しては『雄雄しく、勇ましく、華麗に前進』している袁紹さんが蹴散らしてくれるとのことなので気にせずともいいのですが、それでも汜水関には現段階で二万以上の兵が詰めている上、交戦するとなれば周辺で散開している防衛隊が加わり三万にも四万にも膨れ上がるでしょう。加えて敵将が勇将と謳われている華雄さんとあっては、ただでさえ兵数が少ない我らが守勢の相手に攻め寄ったとしても不利は否めません」

「汜水関から引きずりださないことにはどうにもならないなんてことは充分わかっているわよ。確か、『攻者三倍の原則』だったかしらね。攻め手は拠点を守る兵の三倍の数がいて初めて拮抗するとのことだし、それが要塞と化している汜水関に篭るとなれば例え五倍の兵がいたとしても安心は出来ないわ」

 

 どこかで聞いた知識を引っ張り出してきた拓実の言葉に、諸葛亮と鳳統は思わずといった様子で目を見開いた。

 

「あの、そうなんですか!? 『攻者三倍の原則』……雛里ちゃんは知ってた?」

「う、ううん。えと、兵数の比率についてだったら……『十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを退く。故に小敵の堅は大敵の檎なり(*1)』って、孫子の兵法に一文があったと思うけど」

「孫子の記すところによると、敵兵の倍を以ってしていればこちらから分断策を仕掛けて攻め手を取れる。つまりは荀攸さんが言うところで拮抗するとした三倍を有していれば、まず攻め手が有利に戦況を進められるらしいのですが……。あ、でも敵が守兵であることを前提に考えれば、五倍を有していなければ決定的有利を取れず攻撃できないと考えることも出来ますし。荀攸さん、その『攻者三倍の原則』っていうのはどの兵法書に記されたものなんでしょうか?」

「……え?」

 

 熱のこもった二対の瞳に見つめられ、強く詰め寄られた拓実はうろたえる。そうして己の失敗に気がついた。

 問われてから初めて気がついたが、おそらくこの時代にはまだ存在していない、近代でしか通用しない知識だったのだ。それにしてもどこかで聞き齧っただけの、表面だけを知ったうろ覚えのものである。

 

「あー、どうだったかしら。ええと、異国での戦を集計し、戦力比と勝敗比を算出したものだったと思うけど、その、どの書物までかはちょっと覚えてない、わね。でも、これは彼我の条件を同じくしての想定で、場合によってはもっと戦力比があっても勝敗が覆ることもあるようだからあくまでも目安にしかならないらしいし……」

「そうですか……。是非とも、他の兵法書と照らし合わせて読んでみたかったのですが。でも、荀攸さんの言っていた『攻者三倍の原則』、見るべきところがありますね」

「うん。朱里ちゃんの言うとおり、です。異国での戦とのことですけれど、過去大陸でも守勢の二倍では拮抗するどころか、勢いを削がれた所を打って出られて壊滅に追いやられた戦も多々見られます。もちろん指揮官の優劣や地理、城の防衛力や兵の錬度や装備など考慮しなければならない要素が多すぎるのではっきりとは言えませんけど、攻勢は守勢の三倍で拮抗するというのはあながち間違いではないかと」

 

 ぼんやりとした拓実の回答に気にした様子もなく、諸葛亮と鳳統は顔を合わせ、その情報を吟味しては頷きあっている。二人に挟まれる形で馬を走らせている拓実はというとそんな二人の話についていけず、口を挟むことも出来ずにただただ呆然とするだけだ。

 

「……書物にある記述に満足して、攻城における兵数比率について割り出そうという考えすらありませんでした。既存の情報だけを鵜呑みにせず、実際に検討してみなければわからないこともあるんですね。荀攸さんが読んだという書物の著者は相当の識者かと。荀攸さん、もし書名を思い出すことがあったなら、是非教えてください!」

「朱里ちゃんばっかりずるい! あの、珍しい戦術書とかあったら私にもお願いします」

「わ、わかったわよ。もし思い出したなら教えてあげるから、二人とも少し落ち着きなさいよ」

「はわ、ごめんなさい」

「あ、あわわ、すいません」

 

 その後もいくつか二人で語り合っていたかと思うと急に水を向けられて、拓実は焦りを隠せない。赤面して頭を下げた諸葛亮や同じく顔を真っ赤にして魔女帽子を深く被ってしまった鳳統の姿を見て、とりあえずは話題をやり過ごせたことを確信し、拓実は密かに安堵の息を吐いた。

 

 彼女たちは荀攸を、大陸でも名家とされる荀家の人間だと認識している。以前に荀彧である桂花を叔母と紹介しているので、そうなること自体は当然の帰結である。

 そこに、今まで想定していなかったちょっとした問題があった。拓実の事情を知っている華琳や桂花を相手にするのとは違い、二人を相手にする際はこの大陸の常識に則った発言をしなければ不自然に聞こえてしまうことだ。

 諸葛亮・鳳統は大陸にある大抵の書物を網羅するほどの記憶力がある為に下手な事は言えない上、一度疑問に思えば旺盛な知識欲の為に身を乗り出して熱心に質問してくる。秘密が多い拓実からするとどうにも厄介な相手だった。

 

 しかしそれらを踏まえたとしても、そんな二人の姿は拓実の目に好ましく映っている。その理由として、拓実を見る二人の視線にしっかりとした敬意が含まれているからである。さしずめ勝手がわからない新入生が実績を残している先輩を頼るような、そんな類のものだ。

 そんな視線を向けられる理由も思い当たらず当初はたじろぐばかりだったが、以前に劉備軍の錬兵法改善の件で助言し、その後に『諸葛亮が荀攸を身近な目標として見ている』なんて話があったことを思い出して一人納得していた。おそらく助言した直後は、横から口出しされて「欠陥がある」と断じられた不満もあり、荀攸の実力に対して懐疑的な部分もあったことだろう。そうして時間を置いて改善した錬兵法が成果を見せた為に荀攸に対しての疑念が消え、諸葛亮と鳳統二人で考えても見つけられなかった欠点を一目で看破出来る、卓越した軍師としての印象だけが残ったものと見ている。

 加えて言えば、千に満たない兵数をやりくりして戦ってきた諸葛亮・鳳統にとって、今回諸侯が集まる大舞台で指揮する六千八百という兵数は文字通りに桁が違う。一万以上の兵を動員している曹操軍の軍師である荀攸が同行することで、無様な姿を見せられないという緊張やら、また助言してくれるのではないかという期待やらが混ぜこぜになっていると拓実は推察していた。

 とはいえ、拓実にしても軍師として兵を差配するのは初めてであり、軍事を専門にしていた許定にしても任され率いていたのは精々が三百程度である。二人の期待は見当外れもいいところではあったのだが、拓実はそれを言わずに黙っていた。元より拓実より能力の高い二人だ。いるだけで精神の安定に役立てると言うのなら、いたずらに動揺させる必要もない。そんな考えからの配慮だったがどうやら無駄になっているらしい。

 

「あの、荀攸さん。と、ところで、その。噂によると、曹操さんって同性との情事を好むと聞いたのですけど、実際のところは……?」

「その、星さんも、曹操さんのところは百合百合しい、とか言っていましたし。女の人同士でばっかり一緒になっちゃうと、男の人だけ残ってしまいますよね……? そうなると必然的に男の人同士で、へ、へぅぅ……」

「はわわ、雛里ちゃん! 駄目だよ! その聞き方はちょっと直接的すぎるよぅ!」

 

 このようにまったく気負いしている様子が見えないでいる。わざわざ拓実がそんな気遣いをする必要などなかったようだ。

 それより、先日の華琳とのこともあってどうにもこの世界の人は特殊性癖を持つ人が多い気がしてならない。何だかかげんなりしてしまった拓実は、仲良く顔を真っ赤にさせている少女二人に挟まれて肩を落とした。

 

 

 

 

「どうやら愛紗さんと鈴々ちゃんは敵将を汜水関から誘き出せたようです!」

「多少なり知っている曹操さんの兵とは違い、袁紹さんから借り受けた三千の錬度が心配でしたがお二人の指揮もあり互角に戦えています。星さんもお二人が捌き切れず溢れた部分を上手く押し返してくれてます!」

 

 前方から轟いてくる凄まじい喊声の中、鋭くも甲高い声が届いてくる。二人ともにおとなしい印象の諸葛亮と鳳統のこんな声は、おそらく戦場でしか聞けないのだろう。

 許定としての経験がある拓実でさえ、こうして前線に配備されると言い知れない圧迫感と死に対する恐怖から背に冷たい汗が溢れているのを感じているというのに、見るからに自衛手段を持たない二人は震えはあれど表面上は気丈に振舞っている。

 

「策の第一段階は突破したようね」

 

 視界に広がる万を超える軍勢。汜水関の関門から躍り出た『華』の旗印は土煙を上げつつ、『関』・『張』の旗印に向かって吶喊してくる。足を怪我している為、許定の時にしていたように馬の背に立って戦況を確認することは出来ないが、見る限りでは鳳統の言うように戦線を下げずに保てている。

 

 拓実は改めて攻略目標を眺め見る。連合軍が進むのは左右が切り立った崖に挟まれた一本道、それを塞ぐように(そび)えているのが難関とされる、汜水関だ。

 なるほど、とてもじゃないが正攻法では陥落させられる気がしない。金属で補強された大きな関門は堅く閉ざされており、石壁は見るからに厚く、高い。上には弓を構えた兵が余すところなく並んでいる。ここに数万も籠もられて専守防衛されたならば長期戦となり、先鋒となった劉備軍の壊滅は必至。そして長期戦になり月を跨ぐようなことになっては、遠征組の多い連合軍の糧食が先に尽きてしまう。

 

 そうさせない為の策。その賽は既に投げられていたが、どうやら一度目にしてその目は見事に的中したようだ。はっきり言って、ここが一番の博打であった。一応振り直しの為の賽の用意はしてあったが、そうなれば要らぬ借りを作ることになっていただろう。一発で上手く行くかは正しく丁半といったところだった。

 

「さあて、関羽と張飛が華雄を引き付けてからが私たち軍師の腕の見せ所よ」

 

 にやりと笑みを浮かべる拓実は、傍から見たならこれから始まる戦を楽しみにしているような不敵さである。同行している拓実にしても劉備軍が壊滅でもしようものなら命はない。そんな内心の緊張を表には一切見せることなく、前方の交戦状況を見据えている。

 

「だ、大丈夫です。私たちが率いる二千は全部曹操さんのところから借りた兵ですので、星さんの率いる混成隊みたいに兵たちに錬度の差が出ませんから。袁紹さんのところの兵より反応も早く動きも機敏ですし、私たちさえ機を読み間違えずに指揮ができれば難しいことではないと思います!」

「曹操さんの兵は多くから選抜されて過酷な訓練を乗り越えてます。華雄さんの突撃を受けても持ち堪えてくれる筈です。だからきっと、この作戦、上手くいきます。いってくれます」

 

 拓実に続いた二人だったが、お互いに言い聞かすように呟いている。先ほどまでとは違って節々に固さが見て取れる。発言に後ろ向きな意図が混ざっているのがその証左であった。

 いざ接敵してしまえばこの二人のこと緊張なんてあっという間に解れてしまうのだろうが、今回に限って言えばその初動が肝心となる。ならば幾分余裕のある拓実が不安要素を潰しておかねばなるまい。

 

「はぁ……あー、もう。仕方がないわね! この兵数差に加えてあの勇将と名高い華雄が相手だっていうのに、あんたたちみたいに簡単に『難しくない』『上手くいける』なんて言える軍師がどれだけいるのかしらね!」

「あ、あう、その、簡単に言ったつもりは……」

「そうです! 決して、私も雛里ちゃんも華雄さんを侮っているわけではなくて……」

「何ですって? 鳳統も諸葛亮も、まさか一度口にしたことを撤回するつもりじゃないでしょうね?」

 

 そう言って拓実が睨むように見れば、二人はどうしていいものかと視線を惑わせた。己を奮い立たせる為の虚勢に過ぎない言葉を指摘されるとは思っていなかったようで、叱られる子供のように小さくなっている。

 拓実にちょっと言われたぐらいで揺らぐということは、つまり二人は本心からそう思えていなかったということだ。

 

「あのね、こんなこと改めて言うまでもないけど、一応宣言しておくと私だってあんたらと一緒に楽観していられる軍師の一人なんだから」

「へっ?」

「あのう、荀攸さん? それはどういう……?」

「華琳様に仕える二千の精鋭に、その采配をとる私たち三人がいれば、あんな挑発に乗って出てくる猪武者が率いた兵なんて万いようとも物の数ではないってことよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らしては二人から視線を切って、遠くで一陣が交戦している様子を眺め見る。関門の広さ、戦場の余白の関係から華雄と共に打って出てきたのは一万ほどか。一万対三千、――数ではこちらが負けていると言うのに、関羽と張飛は随分と奮戦している。一歩も退いていない。

 まったく。こんな発言は荀攸のキャラじゃないとは思いつつも、元となっている人物を思い起こせば何だかんだで根は優しい桂花も似たような言葉をかけては、拓実と同じくこんな性格していないと反省をしていそうだ。

 

「あっ……! はいっ!」

「荀攸さん……そうですよね!」

 

 遅れて、拓実の言葉が二人の緊張をほぐすための発破だったことに気づいたのだろう。焦りから曇っていた二人の表情がぱあっと明るくなる。

 見事な大言壮語ではあったが、拓実の言ったそれはまったくの嘘と言うわけではない。既に策に必要な条件は整っている。後は伏龍・鳳雛と謳われる二人がいつもの調子を取り戻せば、拓実がいようがいまいが策は成る筈。情けないことだが、拓実は二人が万全の精神状況で事に当たれるようにしておけば特に率先して何かをする必要はなく、二人に丸投げでいいと気づいたのである。

 

「軍師様! 左後方から砂塵を確認致しました! 見えるは『孫』の旗印です!」

「わかりました。それでは手筈どおり、交戦している前方に向けて大銅鑼を鳴らしてください!」

「はっ!」

 

 斥候が三人の元へ駆け寄り、報告を終えるや言いつけられた次の指令をこなすためにまた駆けて行った。

 拓実が指示を下した二人を見れば既に怯えも震えもなく、しっかりと顔を上げ真剣に戦況を観察している。果たして拓実の言葉に効果があったのかはわからない。しかし、拓実が冷静に策を進めている少女二人を見ていると、先ほどの己の発言が発破をかけるための冗談などではなく、本当に数万の兵をも物ともせずに勝ててしまう予感がしてきていた。

 

 そんな拓実の人任せにした考えが悪かったのか。はたまた物事はそう上手くいく筈もないという訓辞であったのか。事態は無情に進んでいく。

 

 

 

 あの報告から間もなくして、諸葛亮・鳳統・荀攸隊から前方に向かって大銅鑼が鳴らされた。響き渡るなり、じりじりと関羽・張飛隊が後退を始める。ただし、退いているのは関羽・張飛隊のみで劉備軍全体としては前進を保ったままである。

 当然敵方も勢いをなくした前曲へむけて追撃をかけてくるが、それまで遊撃していた趙雲隊が左辺より横撃を加え、そのまま関羽・張飛隊と華雄隊との間に割り込んだ。

 

「後退する関羽・張飛隊と合流し、公孫賛軍が備えている右辺へ移動します! ここで動きを止めれば後方の袁紹軍がなだれ込み、衝突してしまいます! 我が隊の動きに全てがかかっています! 全速前進してください!」

 

 横撃を確認するや否や、諸葛亮の声が響く。事前に通達していたこともあって二千の兵が一糸乱れることなく、けれども結構な速度で移動を開始する。殿となった趙雲隊の一千を目隠しとして董卓軍の進路上から逃れ出ていく。

 しかし――

 

「敵将華雄が率いる先鋒部隊、僅かな間隙を縫って鋒矢(ほうし)の陣へ切り替え吶喊を開始いたしました! 趙雲隊が敵方の勢いに押されています! このままでは持ち堪えられません!」

「っ!? 予定していたより突撃陣形への移行が早過ぎます……お願いします。星さん、もう少しだけ……」

 

 鳳統の祈るような独白も、更なる報告によって打ち消される。

 

「趙雲隊、中央を分断されました! 撤退を開始しています!」

「あっ……」

 

 誰かの息を呑む音が拓実の元に届いた。誰かが意味なく声を漏らし、確かに一拍この場の空気が止まった。その中ですぐさまに諸葛亮が気を取り直し、声を張り上げる。

 

「孫策軍はどうですか!?」

「いまだ予定位置には到達していません!」

「趙雲隊、後続の董卓軍より追撃を受け半壊状態! このままでは壊滅の恐れあり!」

「公孫賛さんは!?」

「弓兵部隊による援護射撃で打って出ている董卓軍の進軍を抑えていますが、切り込んでいる『華』の旗印は依然に止まりません!」

「……くっ!」

 

 次々と報告が届くが、そのどれもが劉備軍の旗色が悪さを知らせるもの。中でも致命的なのが殿を受け持っていた趙雲隊が分断され、半壊してしまっていることであった。

 他に兵を任せられるほどの武将が劉備軍にいなかった為、趙雲に負担が集中してしまった結果である。加えて、編成している兵と進軍速度の関係で後詰を送ることができなかったのもある。

 このままでは諸葛亮・鳳統・荀攸隊が横撃を受けるばかりでなく、勢いからして同じく右辺へ移動中の劉備・北郷本隊にも喰らいつかれてしまう。

 

「……」

 

 諸葛亮が銅鑼を鳴らしたタイミングは完璧だった。これ以上遅れたら本隊の右辺への撤退が間に合わなくなっていたことに加え、関羽・張飛隊が退くことも出来ずに追いつかれていただろう。その上でこの結果が出てしまったのは、挑発に乗り、激昂している華雄隊の勢いが想定以上だったという他にない。

 

 どちらにしても時間稼ぎとなる別働部隊が必要不可欠である。当初の予定で進めていては、策を成すどころか劉備軍は総崩れすることだろう。

 だが、本格的に撤退を開始したばかりで持ち直しきれていない関羽・張飛隊は動けない。また、例え動けたとしても構成が袁紹軍の兵である為、殿を受け持った場合は壊滅するのを前提にしなければならない。

 となると、満足に殿として劉備軍が動員できる兵はここにいる二千のみだが、それを指揮できるだけの将器を持つ武将がいないのが問題である。諸葛亮や鳳統であれば戦陣指揮も可能であろうが、自衛できない二人では殿は危険に過ぎる。また、この策の中核を担っている二人は仕上げの為にも離れるわけにはいかない。

 

「そうなると当然、私しかいないってことね」

 

 ぱっと顔を上げた諸葛亮と視線がぶつかり合った。諸葛亮もなるべくして考えないようにしていた案なのだろう。

 しかしここで拓実が出なければ、結果として劉備軍は壊滅状態に追いやられてしまう。三人の中で唯一上手く撤退をこなせるとしたら、曹操軍の兵の錬度をしっかりと把握している拓実である。であれば、拓実がやる他にない。

 

「荀攸さん……いえ、私が……」

「諸葛亮じゃ殿は務められても、十中八九最後は董卓軍と袁紹軍の間で磨り潰されて戦死ってところでしょ。私が今全ての差配を許されているのであれば、間違いなく私に別働隊の指揮をさせるところよ」

「けれど、曹操軍の監督役の荀攸さんが劉備軍の為に命を張る義理はありません。私がいなくても雛里ちゃんがいれば策の完成には問題ありませんから、やっぱり私が華雄隊の足止めを……」

「諸葛亮、あんた馬鹿でしょ? 生憎、私は死ぬつもりなんてないわ。私は、華琳様には戦功を立ててくるようにって仰せつかっているの。このまま何事もなく華琳様の元に帰ったらお仕置きされちゃうじゃない」

「……面目ありません、私たちの力が足らないばかりに」

「ふん。謝らなくてもいいわよ、貸しにしとくから。それに、私だって同じだけの兵を預けられていたら、諸葛亮や鳳統が編成したのと同じ軍構成にしたでしょうしね。策が成った後に多少あんたたちが厳しくなるかもしれないけど、足止めに兵を半分連れて行かせてもらうわよ」

 

 拓実は返事も聞かず、馬頭を返しながら兵に向かって通達を出し始める。

 消去法からいって、拓実が出る以外にありえない。対外的なものを気にして全滅しては元も子もない。時間を稼ぐのはたったの数分でいい。問題は的確に指揮を出し、敵兵を上手く釣り出して戦闘区域から抜け出せるかどうか。

 

「荀攸さん。どうか、ご武運を」

 

 背後に聞こえる諸葛亮の声を背に受けて、そのまま手を振って応えてみせた。

 

 

 

 拓実は考える。馬を走らせながらもひたすらに思考を回す。よもや荀攸の姿で兵を率いて戦わなければならないとは思っても見なかった。まずその腑抜けた考えからしてとんでもない思い違いだったのだろう。

 諸葛亮にはああ言って見せたが、もしも時間稼ぎが間に合わずに、拓実の元まで敵兵に接近されたりしたら碌な抵抗も出来ずに無残に殺されるだろう。兵の指揮が早過ぎても遅過ぎても、死に様は変われど結果として同じこと。正直、ここに至っては演技どころではない。戦場の機微に疎い荀攸で下手を打てば、間違いなく拓実はここで死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ。

 

「……どうすれば」

 

 とにかく、華雄率いる先鋒部隊の勢いを削がねばならない。あの勢いは生半可なものではなく、このままぶつかればまず一千の中央を貫かれて終わる。中枢を抜かれれば、どれだけ兵がいようが錬度が高かろうが、残るは烏合の衆に成り果てる。

 手っ取り早く止めることを考えれば、あれを抑え込めるだけの守備力で迎え撃つことだろうか。しかしそれは、相応の装備を事前に用意してなければ実現しない。

 常識的に考えれば足を止めて守勢に回っておくところだが、華雄隊がその勢いだけで拓実が引き連れている兵と同数の趙雲隊を食い破ったことを考えるに、同じ轍を踏まないと言えるだけの理由がない。

 あるいは、ああも猪突猛進に進んでいるのであれば罠に嵌めて足を止めるべきところだが、今は僅か数分程度の時間を得たいが為に拓実が出張る羽目になっているのである。罠を仕掛けていられるような時間は存在しない。

 

 となれば、拓実が考えうる手段は残すところ一つだけ。守勢には回らずに、同等以上の攻撃力を以ってして真っ向から打ち砕くつもりでぶつかる。最初の一当てで僅かなりとも膠着状態を作り上げるしかない。

 

「……あれを相手に、私が?」

 

 劉備軍に援兵として配属され、矢面に立たされる曹操軍の兵からして士気が高いとはいえない状態である。華琳の直接の指揮下にいない為に仕方がない部分はあれど、猛り狂った華雄隊を相手にすることを考えると錬度よりも士気の部分で差が出過ぎている。

 加えて軍師である荀攸としていくら鼓舞しようにも、人間としての分野が違う為に兵たちが本当の意味でついてきてくれない。荀攸の命令自体は聞いても、兵らを奮い立たせるだけの迫力がないからだ。兵たちからすれば荀攸のような軍師は春蘭や秋蘭のような直接的な上司ではなく別系統でのエリートであり、根本的に別種の人間という認識だからだ。

 かといって今回の殿部隊の指揮は、たとえ軍事を専門にしていた許定だったとしても厳しいものがある。武力に難があったが為、剣と剣、槍と槍を打ち合わせる最前線に配されることが少なかった。戦場で上手く立ち回る指揮は出来ても、華雄の持つ爆発的な突進力を止めるだけの強みがない。

 荀攸では駄目だ。許定でも無理だ。では拓実がこの状況を乗り切るには、どうすればいい?

 

 

 思考から浮上した拓実は、ちらりと荀攸の副将として配された年若い女武将に目をやった。大男にも引けを取らない結構な膂力を持っている上に打たれ強く、許定として手合わせをしても武力ではまったく歯が立たなかった、春蘭や秋蘭からも将来有望とされている少女である。

 また、拓実に随行している三千は曹操軍の中でも鍛え上げられている方である。袁紹からも三千の兵を借り受けていることを知らなかった華琳が、派兵した三千で戦い抜けるようにと選抜してくれたのだろう。であるなら、拓実が望んだ兵らである可能性は高くなる。

 

「ねぇ! あんたの名前って牛金っていったっけ!?」

「御意ですっ! 」

 

 戦場故に拓実も怒鳴るように声を上げるのだが、様々な音が入り混じるこの場においても尚この少女の声はでかい。おまけに走らせている馬の上下によって揺れている胸も名前のとおり牛のようにでかい。

 思わず拓実は顰め面を晒した。至近距離からの馬鹿でかい声で耳は痛いし、何故なのか見ていて苛々してくる。いや決して、牛金が嫌いと言うわけではないのだが。

 

「一つ聞きたいのだけれど、私たちが率いている兵は誰からの錬兵を受けていたの!?」

「夏侯惇将軍であります!」

「へえ、あの突撃馬鹿の……」

 

 思わず、にやり、と笑みが浮かぶ。予想していた通り。今頭に浮かんでいる方法がもしかしたら上手くいってくれるかもしれない。

 いや、そもそも他の手段をとっていられるような余裕がない。この期に及んでは駄目で元々。当たってみて砕けずに済むか、試してみるだけだ。

 

「牛金、私に剣を貸しなさい」

「はっ! 私の予備でよろしければ、どうぞ!」

 

 馬の腹に括り付けられている剣を、牛金から受け取った。

 荀攸としての拓実は、春蘭と一回だけ行われた武術訓練からこれまでの間、剣を手に取ることはなかった。その上、手に持ったそれは許定として鍛錬でいつも扱っていた細剣でさえなく、男性兵が使っているような重量のある凡庸な剣である。

 しかしどうやら、許定が警備隊で鍛え続けた甲斐があってか不自由しない程度には振り回せる。胸の前で持ち替えて、その刀身をすらっと撫で上げてみる。浮かんでいた拓実の笑みは、どんどんと歪められていく。

 

「ねぇ。これから一千で万の兵を相手にする私たちって、もう形振りを構っていられるような状態じゃないわよね? だってこのままじゃ、下手したらみんな死んじゃうもの」

「は、はぁ、まぁ……」

「ふふ、そうよね。こんな状況じゃ、使えるものは使わないと仕方がないもの。何より、死んだりしたら元も子もないし」

 

 刀身に反射した顔を見てみれば、どうやら瞳が虚ろになっていたらしい。拓実の様子を伺っていた牛金の腰が引けている。若干、奇人でも見るようにされているのが、何故なのか拓実には笑えて仕方がない。

 

「牛金。これから私は、私じゃなくなるわ。とは言っても怪我しているし、あの馬鹿みたいに規格外に強くなるわけではないから、あんたは全力で私を守りなさいよ?」

「えっ? あの、荀攸さま!?」

 

 意味もわからずに困惑したままの牛金を置いて、拓実は被っていた猫耳フードを取り払う。

 

「いいか! 私の副将を務めるというならば、遅れるなよ!」

 

 フードの中から現れたのはいつもの冷静な荀攸の顔ではなく、まなじりを吊り上げてぎらぎらと戦意を滲ませる別の誰かの顔であった。

 

 

 

 視界が開けると同時に、拓実はその猛る心に従わせて馬の腹を蹴り、全速で走らせる。どうやら後ろには、言われたとおりに副将の牛金がついてきているようだ。

 そうして隊列を駆け抜けて最前線を目指す拓実だったが、これまでに追い抜いてきた行軍しながらもどこか腑抜けた兵たちが気に食わなくてしょうがない。

 胸いっぱいに空気を吸い込む。これから戦に出ると言うのに、士気がこうまでに低いという事実に目の前が真っ赤に染まっている。怒りのあまりぐらぐらと体中が沸騰しているかのようで、今にも頭の血管が切れてしまいそうだった。

 

「聞け、貴っ様らァッッ!!!」

 

 兵たちにとって日ごろに聞いている耳慣れたような、しかし確実に違う声が突然に響き渡った。鼓膜を打った、誰かに似た、けれども聞き慣れぬ怒声。それだけで兵たちの注目を集めるに事足りた。

 その声色に対してどよめきが上がるよりも先に、拓実は歩兵たちの間を馬で駆け抜けてはその影だけを残していく。馬上にて怒鳴り上げる拓実を、数百もの視線が追っていく。

 

「いいか!! これより打倒するは、董卓軍一万! 敵方が多勢だが、それがどうした! 我らがすべきは曹操さまの名の下に、目前の敵を尽く討ち果たすだけだ!」

 

 突如人が変わってしまった上官に戸惑いつつも、武の訓練をしない文官どもには決して出せない、歴戦の武将たちが持つ迫力を受けて兵たちの目の色が一斉に変わる。

 勇猛果敢、一騎当千の、曹操軍に属する兵であれば誰もが目標としている猛将を彷彿とさせる鼓舞を受け、兵たちに熱が移る。

 

「これまでの訓練を思い出せ! お前らがこなしてきた日々の修練は、今この時の為にある! 寡兵と見て勝てると勘違いした愚か者に格の違いを見せてやれ! 思い上がった身の程知らずどもに、本当の強者の力を思い知らせてやれ!」

 

 拓実は、誰よりも速く駆け抜けていく。その周囲を行軍していた兵たちから、まばらにだがしかし伝染していくように声が広がり始めた。騎兵たちが上役に遅れてなるものかと競い、武器を携えて馬を走らせ始める。それを見た歩兵が行軍速度を上げて慌てて追っていく。

 いずれも当初は一人二人。個々は小さく、しかしそれらが合わさり三となり四となり、そうして流れと成った。いつしか拓実の鼓舞に呼応してうねりとなって、巨大な一つの生き物へと形を変えていく。

 

「真の精兵である我らが力を、我らが信奉する曹操さまの名を、これより大陸中に知らしめる! 鋒矢の陣を敷けッ! 突出している正面の部隊に突撃し、その将もろともに一息に粉砕する! 二度と立ち上がれぬよう、完膚なきまでに叩き潰す!」

『オオォッッ!』

 

 背後に兵たちの声を受け、先頭に踊り出た拓実はその手の剣を高く高く天に掲げた。そうして、声を荒げながらそれを前方へと振り下ろす。

 切っ先を向けた先には『華』の旗。僅かな手勢を引き連れる拓実などとは比ぶべくもない、勇将華雄の一団。

 

「声が小さいッ!! 行くぞ、総員突撃ィッ!! この私に、続けェーーッ!!」

『オオオオオオォォォオオオッッ!!』

 

 曹操軍一千の兵による、大地をも揺るがすような、ときの声が上がった。

 

 

 

*1
【意訳】前提として戦わずして勝つ(敵の戦意を挫いて降伏させる)ことが最上であると記されており、戦になるというのは国を疲弊させる為によろしくないとある。その上で戦闘が避けられぬ場合、敵の十倍の兵数を誇るのであれば包囲し、五倍であれば正攻法を用いて攻撃し、倍あれば敵を分断して各個撃破し、同等ならば手を尽くして有利に戦うよう努め、敵を降伏させる。敵より少なければ撤退し、その差があまりに開いていれば見つからぬよう隠れるべきである。大軍の有利は容易に揺るがない為、寡兵を率いて攻めるべきではない。


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