影武者華琳様   作:柚子餅

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33.『群雄、反董卓連合軍を結成するのこと』

 

 隊列を崩さず整然と行軍を続けて二日。曹操軍の進路上に見渡す限りの陣、陣、陣が現れる。ひしめく近衛らしき兵たちの鎧の意匠は様々で、その種類の数だけ群雄がこの場に集まっていることが知れた。十万を優に超える人数が集められている為だろう、未だ数里離れた地で馬を走らせている拓実にもざわついた空気が感じ取れる。

 

「陣の設営を終え次第、麗羽のところへ向かうわ。春蘭、秋蘭。それと拓実はついてきなさい」

「はっ」

「御意」

 

 金色にきらめく『袁』の旗が目視できる位置まで近づくと、並んで馬を走らせる臣下らに華琳が声をかけた。春蘭、秋蘭が間も置かずに承知の言を返す中、その旗印を確認した拓実は上下に振れる馬上にて華琳に向かって頭を下げる。

 

「華琳様。それはもしや、袁紹の陣ということでしょうか。桂花によると、かつて荀攸と名乗っていた荀諶が彼の者に任官していると聞きます。私がお供については要らぬ嫌疑をかけられぬとも……」

「いくら隠そうとも、荀攸なる者が我が麾下にいることはいずれ知れることよ。この戦に参加した諸侯の名は大陸に知れ渡ることとなるでしょうしね。まぁ、あの麗羽ならそんなこと気づきはしないでしょうし、そもそも気にかけることすらもないでしょう」

「しかし……」

「あなたの役割を念頭に置いたならば、各地の群雄が集まる場に同行をさせない理由には足らないわね。もっとも、許定がいるならば何事もなく済んだのでしょうけど。荀攸が駄目だからといって許定を同行させることができないのは誰の責任なのかしら」

「も、申し訳ございません」

 

 華琳がちらりと拓実の左足を見たので、拓実はまたも深く頭を下げる。普段荀攸に扮している時は薄い茶の色のなめした皮の靴を履いている拓実であるが、今日はその足首部分が布で巻かれて固定されていた。

 見てのとおりの捻挫である。骨にはまったく異常はないものの、腫れと痛みで立って歩くのがやっとのところ。踏ん張りが利かないために、走ることができないほどには具合が悪い。こうして馬に乗っているだけでも振動で痛んでくる。

 

 これをこしらえたのは、遠征の二日前のこと。拓実は許定として警備の仕事を終え、駐屯地に戻る最中に暴れまわる賊十名と遭遇した。偶然その場に居合わせた警備兵たちが制圧にかかったが、頭数が足りていない為に駐屯所から応援が来るまで拓実も彼らに加勢することになったのである。

 賊らは腕力のない拓実でさえ余裕を持って相手できる程度の腕前だったが、問題はその人数。相手方の方が多かったために他の警備兵たちもまた一対一で相手しなければならなかった。警備隊は基本、暴漢を取り押さえる際は一人に対して数人で当たることになっている。一対一に慣れない警備兵では旗色は悪く、拓実は自身の実力以上に相手を引き受けなければならなかった。

 結果、凪たちが来るまでの時間を稼ぐことは出来たものの、一人で三人を相手に受け持った無理が祟ったのか左足首を痛めてしまったのである。そのことで華琳からお叱りの言葉も貰っている。そもそもからしてこれから戦に向かうというのに、作戦を立案し采配を振るうならともかく戦働きのまったく出来ぬ荀攸の姿をしている理由であった。本来ならば武将の一人として随行せねばならない許定は、止むを得ず郷里で怪我の療養中ということになっている。

 

「……まったく、仕方がない子ね。その名と姿で不都合だというのであれば、とりあえず見た目と名だけでも別の人物に仕立てましょう」

 

 華琳は馬を止めて周囲を陣営地と定めると、春蘭と秋蘭に陣の設営の指揮を任せた。桂花には他の諸侯の情報収集、季衣、流琉、凪たちには春蘭と秋蘭の補助をするようにと指示を下す。

 配下が各方面に声を張り上げ始めるのを見届けると、華琳は軽やかな身のこなしで愛馬絶影から跳び下りた。

 

「一応ということで文官服を支給してあったでしょう。ひとまずあれに着替えなさい。すぐに兵を呼んで目隠しの天幕を用意させるから、少しばかり……」

「いえ、華琳様。それには及びません」

 

 拓実も捻挫している左足に気をつけながら馬から下り、鞍の両脇にくくりつけてあった袋を下ろして中を漁る。

 数日前に最終試験を終えたことで、拓実が遠征などに同行する際には必ず曹操の衣装に、華琳の得物である【倚天の剣】の対となる【青釭の剣】、その他にも種類の違う衣服と化粧用品、ウィッグや香水などを持ち歩くようにと華琳より指示されていた。それらを詰め込んでいる麻袋の中から、折りたたまれた長い布を探し出してその端一辺に通された紐を手に取る。

 

「それは?」

「急な着替えをせねばならない状況に使えるかと思い立ち、昨夜に縫い合わせまして」

 

 兵たちに注目されていないことを確認してから、拓実は傍に立っていた木の陰に隠れる。布を肩に回して、布に通された紐を首元を結んで留めると、膝下まで隠れるポンチョのような姿になった。現代で言うところの水着の着替えに使うラップタオル、それの丈を長くしたようなものだ。

 拓実は手慣れた様子で着替えを終える。三十秒も経つか経たないかといったところで首に巻いた布が取り払われると、その下から灰と小豆色の地味な配色の文官服が現れた。ちなみに、この早着替えも演劇の舞台で必要に迫られて身についた特技であったりする。

 

「へえ。そう使う機会もないでしょうけど、面白いものを作ったわね。それにしても木陰であれば他に見ている者など私以外にいないのだから、いまさら隠すこともないでしょうに」

「華琳様、誤解を招きかねないお言葉はどうかお控えくださるよう……」

「誤解? 一晩を共にしたというのに、いつまで経ってもつれないわね」

「ち、ちが……」

 

 華琳のからかうような言葉を受けて、途端に拓実の顔が真っ赤に染まった。羞恥に赤面する拓実を見て、華琳が微笑む。

 

「ですから、その、そのようなこと、なかったではございませんか!」

「そうね。決定的なことはなかった。まぁ、それは次の機会にすればいいことだわ」

「ぅ、あ……次の機会なんて」

 

 そこから先は思い出してはいけない記憶であった。自然と『あの日の夜』を思い起こそうとし始めた思考を強制的に止め、別のことを考えるようにと努める。

 

 やっぱり慣れない。演技の上であれば例え異性と抱擁しても意識すらしない拓実であるが、役柄を飛び越えて『南雲拓実』を対象にそういった話を振られると、そこそこには回るはずの頭脳が停止してしまう。普段通りの演技をしようにも条件反射のように気恥ずかしくなってしまって、こればかりはどうにもならない。

 拓実はそうして距離を置こうとしているが、『南雲拓実』自身に異性への興味がない訳ではない。何も演技していない拓実であれば誰某が可愛いという考えになることもある。けれども華琳の言うような行為は、お互いが好き合ってなければしてはいけないことだ。少なくとも拓実はそういうものだと考えている。

 だから、自身を異性として好いていない女の子を抱くことなんて拓実には出来ない。もしも拓実を異性として好いてくれる子がいたとして、その相手を心から好きでなければ手を出したくない。この陣営の女性陣とは気心が知れているし、みな女性として魅力的な為に少なからず惹かれている部分はある。だが反面、彼女らに異性として好かれていないだろうという確信があった。普段の拓実を見てどこに男を感じろというのだ。四六時中女装している男を恋愛対象にするだなんて、きっと考えられないことだろう。

 

 さんざんになじられた上に、椅子にされた拓実が泣いて謝りつつも華琳にそんな心情を伝えたところ、「この陣営の誰よりも生娘みたいなことを言うのね」などと哂われることになった。その後もめげずに謝り倒したことで行為自体は避けることができたが、地面に転がされて足でぐにぐにと踏まれたり、そのたおやかな手で弄られたり、犬のようにはいつくばって色々と舐めさせられた。それでストレスの発散が出来てしまう華琳は紛うことなくドSである。

 そうしてまたあの夜、具体的に何が起こったのかを思い出しそうになって、拓実は頭を振っては記憶を払い飛ばす。貞操こそ守りきったが、どうしようもないぐらいに汚されてしまった気がしてならない。初めこそ一人の男として屈辱を感じていたが、終盤には奉仕することに対して抵抗がなくなっていたように思う。果たして次の機会なんてものがあったら、拓実はどうなってしまうのだろうか。疑問には思えど、知りたくはない。実際にその疑問が晴れる時には、今の拓実の価値観が既に存在していないだろう予感だけがあった。

 

「……拓実? 顔を真っ赤にして物思いに耽るのは結構だけれど、私の話はしっかりと聞いているのかしら?」

「あっ、も、申し訳ございません」

「まったく。本当にそういった話は駄目なようね。まぁ、いいわ。とりあえず髪を纏めたらこれを被りなさい。流石にその金髪は衆目を集め過ぎる」

 

 拓実が言われるがままに髪を縛って纏め上げるのを見計らって、華琳が袋の中からかつらを取り出しそのままその頭に被せた。前髪が鼻先あたりでまっすぐに切り揃えられていて、横も同じく肩辺りで揃えられている黒髪のかつらだ。全体的に梳いてあるらしく、目が隠れてしまう程の長さの割りには重たい感じにはなっていない。見たところ、長めにしたおかっぱのようだ。

 かつらの位置と向きを直しながら顔の半分を隠している前髪を分け、その隙間から覗くようにして見ると、華琳が口元を手で隠してすっかり印象の変わった拓実を見つめて何事かを考えている。

 

「名は、そうね。この前に城へ興行に来た芸人一団が皆同じ邑出身の卞姓を名乗っていたかしら。とりあえず当座は『卞氏(べんし)』とでも名乗っておきなさい。特別に珍しい名でもないし、私の右筆とでも言っておけば問題はないでしょう。ああ、役柄を作って背景作りをしている余裕もないことだし、卞氏については誰かの演技はしなくてもいいわ。南雲拓実として、演技せずに息抜きできる立場も必要でしょう」

「あ、はい。ありがとうございます。え、でも、本当に演技しなくていいんですか?」

 

 そう問い返す拓実だったが、演技をしなくてもいいという言葉に加え、直前にからかわれていたこともあって既にその仮面は剥がれ落ちてきている。華琳は暫時笑みを湛えると、わざとらしく息を吐いて仕方がないという風に目を瞑った。

 

「構わないわ。そこまでの演技力を身に着けたことに対する褒美とでもしましょう。元の拓実も、桂花に負けず劣らず弄り甲斐があるようだし……」

「えと、そう? 弄り甲斐はともかくだけど、演技の方は華琳にそこまで言って貰えると俺も嬉しい、かな」

 

 演技をしなくてもよいとのことのことで、肩から力を抜く。一緒に「ふぅ」と肺の中から大きく息を吐き出した。

 拓実自身演技は好むものではあるが、それにしたって限度があった。数日前に華琳の私室に呼ばれた時を除いたら、一年以上ほとんどの期間を演技し通しだったのだ。『俺』という呼称も随分と懐かしい。いや、そもそも自身は以前からこんな口調をしていただろうか。年単位で女言葉を使っていた為にそんなことすら自信がない。

 

「やはり、その容姿で『俺』はあまりにそぐわないわね。前言を撤回しましょう。拓実、卞氏である間は自身のことを『あたし』とでも呼ぶようになさい」

「うぇぁっ?」

 

 顔をしかめた華琳が舌も乾かぬうちに突如そんなことを言い出した。久方ぶりの開放感に胸を撫で下ろしている拓実は、あまりに短かった飾らぬ自分を曝け出せた時間に目を剥いた。

 

「えっ、本当に? 演技しなくてもいいって言ってたのに、そんなぁ……。なんで華琳は、こういう時ばっかり一度口にしたことを翻すんですか」

 

 続けて「いつも『この曹孟徳に二言はないわ』なんて偉そうに言ってるのに」と無駄に声真似を駆使してぶー垂れている拓実を華琳が鼻で笑う。

 

「ふん、当たり前でしょう。せっかく私の食指が動くほどの器量よしだというのに、その魅力を損なう要素を許すだなんて珠玉に(きず)を足すが如き愚行をこの私が犯す訳がないでしょう。それに何より、その方が面白くなりそうじゃない」

「ぐ……ああ、もう! わかりましたっ! これからこの姿の時は自分のことを『あたし』って言えば良いんですよね! いいですか、これ以上の注文は受け付けませんからね!」

 

 まったく悪びれようともしない華琳に、拓実は腰に手を当て出来る限りの威嚇してみせる。しかし華琳には子犬が吼えているようにでも見えるのか、怯むどころか口の端を吊り上げ、弧を描くような笑みを浮かべるばかり。

 

「あら、私の寝台の上とは打って変わって、今日の拓実は随分と強気ね。ふふ。もう私には逆らわないって泣いていたのに、いけない子ね。遠征が終わったらまた躾け直さなければならないのかしら」

「ひっ! ごめんなさい! あ、あたしってば、ちょっとだけ調子に乗っちゃいました! ごめんなさい!」

 

 華琳に少しばかり凄まれただけで、一方的に狩られる立場にある拓実は逃げることしか出来ない。目にも留まらぬ速度でそばにある木の陰に体を隠し、顔を青ざめさせながらおどおどした様子で必死に許しを乞う。言いたくなかった筈の『あたし』という一人称も自然と口から出ていた。あまりに卑屈な態度であるのだが、それも仕方あるまい。

 小動物の如き拓実の様子は華琳の情動をこれでもかとかりたてるようで、拓実を捉えて離さないその双眸は一層怪しい色を灯し、その顔はうっすらと上気していた。視覚的には艶かしく色っぽいものだったが、拓実からすれば獲物を前にして舌なめずりする肉食獣にしか見えない。

 どうやらあの夜以降、良くも悪くも二人の距離は縮まっているようだった。

 

 

 ――変わったのは華琳との関係だけではない。影武者の最終試験を終えてから、拓実を取り巻くその他の環境もまた変化を見せていた。それというのも、凪たちや流琉の拓実への態度が固くなってしまっていることである。許定・荀攸を問わず、拓実とどう応対していいものかといったぎこちなさが見て取れる。

 好奇心を顕に根掘り葉掘り聞いてくる真桜や沙和はまだよかったが、問題は二人より融通の利かない凪であった。会話などは普通通りを心がけてくれているようなのだが、警備の仕事の上で何事か決定することがある度、まるで上官を相手するかのように拓実に確認を取るようになってしまった。残る流琉に至っては拓実に対して敬語になってしまい、以前のように「拓実」と呼び捨てすることができなくなっていた。そのうちの呼称についてはいきなり『様』づけで呼び始めるわけにもいかない為、多少不自然ながらも『姉さま』という呼称で落ち着いたようである。

 加えて言えばあの夜、閨へと誘われた際に同じ場に居合わせていた春蘭や秋蘭、桂花の三人は、拓実と華琳が既に契ったものと見て疑っていないようである。翌朝に憔悴しきった拓実と生気溢れる華琳の二人を見ては勘違いするのも当然かもしれない。尤も、完全に勘違いとは言えそうにないので拓実は弁解すらもままならないでいるのだが、三人が三人不自然に熱のこもった視線で見つめてくるのは勘弁して欲しかった。

 

 

 何とか華琳の口撃から逃れきった拓実は指示を出し終えた春蘭や秋蘭と合流し、袁紹配下の武将、顔良に先導されて大胆不敵に余所様の陣を突き進む華琳の後ろに続いていた。

 しかし、拓実が今着ている文官服はどうにも裾の広がりが小さい。おかげで歩幅が制限されるために、拓実が華琳についていくには常に小走りにならなければならない。そこに左足首の捻挫である。痛みから左足を遅らせている拓実のことを後ろから眺めていた秋蘭が、囁く様に声を上げた。

 

「その左足の怪我……随分と見慣れない姿をしているが、拓実なのか?」

「あ、うん。さっきも言ったけど、荀攸が公の場に出てくるのはあんまりよくないから。今回は華琳の右筆として、卞氏って名前でついていくからよろしくね」

 

 振り返った拓実は、演技をせずに済むことによる開放感で笑顔であったが、しかし絶えず左足が痛みを訴えている為に声が震えている。秋蘭は会得がいったという様子で眉を開き、「ほお」と感嘆の声を漏らした。

 

「なるほどな。どうするのかと思っていたが、新しい役を作ったのか。それで、今回はいったい誰の真似をしているんだ? 私はどうにも見当がつかないのだが、姉者はわかるか?」

「いや、さっぱりわからん。ただ間違いなく、こんな見るからに女女したやつは武官連中にはいない」

「ふむ、姉者もか。かといって文官にも思い当たる娘はいないな。物腰の柔らかさから街に住む貴族の娘かと思ったが、名門である丁家の息女はこうまで気安くもない。となると、下流の劉家息女か、この前に興行に来ていた踊り子の……」

 

 問われた訳でもないのにクイズのように人物当てをしている秋蘭と、拓実を見たまま首を捻って「むう」と唸っている春蘭。必死に思考を巡らせる二人に、何の落ち度もないのに申し訳なくなってしまった拓実はおどおどと、蚊の鳴くような声を上げる。

 

「いや、その、演技とかじゃなくて、ただの南雲拓実なんです、けど」

「…………あ、ああ。すまん、そうだったか」

 

 彼女からするとまったく思いもよらなかった人物だったらしく、どうにも歯切れの悪い言葉が返ってきた。拓実にしてもどう反応すればいいかわからない。

 そうしてしばらくの気まずい沈黙。前に向き直って速度を上げようとひょこひょこと小走りしている拓実の不規則な足音が妙に響く。

 

「……見ていられんな。姉者、頼んでいいか?」

「仕方ない」

「えっ! わっ!? へっ? 何、何何っ、しゅんらん!? いきなり何するの!?」

「その足では華琳さまについていくのも一苦労だろう。仕方がないから私が抱えていってやる。ほら、首に手を回せ。流石にお前を抱えたまま諸侯が集う軍議に顔を出すわけにも行かないから、精々入り口までだが……しかし、お前は随分と軽いな」

 

 一所懸命に華琳に追随しようとしている拓実を見かねたのか、姉妹で一言二言交わした後に春蘭が拓実を横抱きに抱え上げて歩き出す。人を一人抱えているというのにその速度は先ほどまでと変わらない。

 お姫様抱っこされた拓実はというと、抱えられて高くなった視界から周囲の兵士の視線を集めていることを知るも、有無を言わさない春蘭の様子に下ろしてもらうことも出来ない。言われるがまま春蘭の首に手を回して、その腕の中で顔を真っ赤にして小さくなる。

 

 その異性には見えない容姿からついつい春蘭・秋蘭の二人はいつもどおりに接しているが、こうして演技を止めている拓実の意識は普通の男子と変わらない。

 横抱きに抱えられて首に手を回すと小さな拓実の体躯は春蘭の胸にすっぽりと収まってしまう。実は、顔が真っ赤になっているのも女性に抱き抱えられていることが情けないやら、体に触れる感触が恥ずかしいやらである。

 

「ふ。ところで、その黒髪は染めたのか? ……ああ、かつらだか、かずらとかいうやつか。しかし、その髪型は前髪が長すぎるな。目が隠れてしまっていて、見ていてどうにもうっとおしい」

「そ、それ右目がほとんど髪の毛で隠れてる秋蘭にだけは言われたくない。それにこれ、別にあたしが選んだわけじゃないし……」

 

 ぶつぶつと拓実が呟くのを聞いて、秋蘭が奇妙そうに眉をひそめる。

 

「『あたし』? お前は最初会ったときから自分のことをそんな風に言っていたか?」

「言ってない! 華琳がそう言えって言ったんだって! 最初は真似はしなくていいって言ってたから前みたいに『俺』って言ってたのに……!」

 

 華琳の命令に対して不本意そうに喚き始めるも、春蘭が「耳元でうるさい」とがつんと頭突きを一発。額に受けた拓実は大きく仰け反り、口からは「あがっ」と奇妙な悲鳴が漏れる。

 拓実は俯いて、長すぎて袖から出ない両手で痛む額を押さえる。視界が歪んで、その中を星が飛んでいる。涙まで出てきた。

 

「いたい……! 春蘭、石頭過ぎ……」

「ふん。この程度で軟弱なやつだな」

 

 春蘭に抱えられて小さくなっているのを見て、秋蘭が微笑んでいる。拓実は生暖かい視線を向けられ、不満げに口を尖らせた。とてもじゃないがこの程度なんて衝撃じゃなかった。

 その様子がまた周りから見るとおかしいらしく、抱えている春蘭までが口元をにやつかせている。

 

「まったく、主君を放って何をしているかと思えば。春蘭、ここからは拓実を下ろして自分の足で歩かせなさい」

「あっ、華琳さま! 華琳さまの仰せのとおりに!」

「え、ちょっ、まっ」

 

 金色の鎧を纏った顔良の先導に続いていた筈の華琳が、いつの間にやら速度を落として三人に近づいては呆れた様子を隠そうともせず、抱えられている拓実を眺め見ていた。

 その言葉に即座に応じた春蘭はその場で直立不動。ぽいっと物の様に投げ捨てられた拓実は着地までの僅かな滞空時間を使って意味を成さない声を発した後、盛大に尻餅をついて「ぎにゃあ」という奇妙な悲鳴を上げた。

 

 

 

 そうして拓実は卞氏として華琳の陰に隠れて目立たないように軍議に参加したのだが、袁紹が号令し、召集したその面子は錚々(そうそう)たるものであった。

 袁紹、曹操、公孫賛、劉備、孫策と黄巾党本隊を壊滅させ、飛躍的に名を高めた面々。加えて孫策を客将として抱えている袁術、西涼からは馬超。その他にも孔由、王匡、鮑信、韓馥……といった、大陸各地の群雄、盟主たちが一同に会している。

 英傑を写し取ることを第一とさせている拓実を華琳が無理を通してでも欠席させない訳である。だがしかし、そんな名実ある群雄たちが集まったそこで行われていたのは、とても軍議と呼べるようなものではなかった。

 

「麗羽はまったく変わっていないようね。勿論、悪い意味でだけれど」

「そのようですね」

 

 袁紹が軍議の場にと用意した陣から出て、華琳が酷く疲れたようにため息を吐いた。そんな華琳に、秋蘭が小さく同意の声を返す。

 今回の連合軍の討伐目標である董卓が本拠としている洛陽、そこまでの行軍順路の確認、各諸侯の配置、中途の要塞とも言える汜水関・虎牢関の攻略にはどの軍団が当たるかが決まるや否や、華琳はすぐに陣を後にしたのだった。

 その気持ちはわからない訳ではない。同席していた面々もさっさと自陣に引き上げていたし、拓実にも華琳を苛んでいるのと同じ類の疲労が圧し掛かっている。

 

「その、華琳? さっきの袁紹や袁術って、演技してああやって振舞ってたとかじゃなくて、本気で言ってたんですか?」

「自らの愚かさを、わざわざ各地の諸侯が集まる場で宣伝することに、何かしらの利があるのかしら」

 

 機嫌の悪い華琳に、何故だか質問しただけの拓実が睨まれてしまった。酷く居心地の悪い思いをしながらも、袁紹のあの強烈なキャラクターを思い起こす。

 金髪縦ロールに、金色の鎧。その風格は確かに名門貴族のお嬢様といったものだが、どうにも気位が高すぎる。己の出自より低い生まれである周囲を低く見、自身の実力を過信しているように見えた。

 個々の能力こそ高いものの、結果として意思の統率が取れずに寄せ集めとなっている連合軍。総兵数二十万に届くかという大軍の総大将になれば名に箔こそつくだろうが、そこばかりに固執していることからもわかるようにどうにも頭が足りていないようだ。

 しかし、実物の袁紹からはそんな人物像を見出したものの、拓実は三国志の袁紹に対して悪い印象を持っていなかった。彼は河北を収めた英雄で、曹操を最も苦戦させた最大の敵であったという認識ですらある。だからこそ今しがた見てきた袁紹が、何かしらの意図があってあのような振る舞いをしていたのではないかと拓実は考えていたのだが。

 

「ええっと……あ! わざと自分を低く見せて周りを油断させるため、とか?」

「アレが幼少の頃から周囲を欺く為に行われている演技だとしたなら、それを見抜けなかった私の目が節穴であるか、あなたをも上回る演技の才を持っているわね」

 

 肩を竦め、何を馬鹿なことを、と言わんばかりの様子で華琳は鼻を鳴らした。拓実の後ろを歩いている春蘭・秋蘭も黙って頷いている。

 質問を投げ返され睨みつけられた為に何か答えておかないとと思っての苦し紛れの言葉だったが、発言した拓実本人もそれはないかと考えていたりする。意図的にあれをやっていたとすれば相当な策士であるだろうが、得られるのが遠征失敗時の責任の一切と諸侯からの愚物という認識ではあんまりにも釣り合わない。

 

「ともかく、汜水関の攻略に当たるのは劉備と、それを決定した麗羽に食って掛かった公孫賛だったわね。秋蘭、桂花から参加諸侯の調査報告は届いているのでしょう。公孫賛軍、及び劉備軍の兵力はどれほどなのかしら?」

「はっ、暫しお待ちを。……おおよそ公孫賛軍が一万二千、劉備軍が八百というところですか」

 

 手元の竹簡を見、返した秋蘭の言葉を聞いた華琳は暫し思案する。先の軍議でも一時とはいえ紛糾したのが、汜水関の攻略である。寡兵故に劉備軍が汜水関の情報収集を申し出たのだが、袁紹は何を思ったか情報収集のついでにその攻略まで命じたのだ。

 突然の、有無を言わさぬ命令に頭を抱えている北郷一刀と目を回しておろおろしていた劉備だったが、その八百と言う兵数を鑑みれば当然の反応だったのだろう。そんな無茶に対して公孫賛が物申し、結果として袁紹の不興を買ってしまった公孫賛も汜水関の攻略を命じられることとなったのである。

 

「劉備軍の手勢で公孫賛軍と共に攻略して戦功を得ようにも、よほどの手柄がなければ埋もれてしまうわね。何らかの策を用いて敵将を関から引きずり出し、よしんば野戦に持ち込んだとしても地の利がない場で交戦すれば開戦の一当てで揉み潰される程度の数。……そうね。共同戦線を張っていた(よしみ)もあれば、荀攸を遣わし我が軍から劉備軍に三千の援兵を申し出ましょう」

「えっ、さ、三千もっ?」

「……よろしいのですか?」

 

 華琳は錬兵が終わっていない兵と領地の防衛隊を残して、最大動員できる一万五千の兵を連れてきている。その五分の一もの兵を他の者の指揮下に置くと言う華琳に、拓実は思わず聞き返し、秋蘭も目を見開いている。

 大軍を率いてきた袁紹で三万超、袁術が孫策などの客将も含め二万二千。そう考えるならこの三千がいるかいないかで、これからの戦働きが大きく変わってしまうだろう。

 

「洛陽の防衛の要と言える汜水関に虎牢関、董卓の私兵に官軍も合わせたその守勢はどんなに少なく見積もってもそれぞれ一万と五千。関自体も要塞と見紛うほどに手を加えられている。劉備軍の軍師は二人共に稀に見る、珠玉と言えるだけの才物ではあれど、こと拠点攻略戦にあってその兵数差は如何ともし難いでしょう」

「弱小勢力でしかない劉備に恩を売る、ということでしょうか?」

「……今大陸において、劉備は私と同じく荒廃していく大陸を憂えている同志であり、我が友といったところかしらね。その友が窮状に立たされているのであれば、私としても多少の援助は吝かではないわ」

 

 秋蘭の問いかけに対して、戯れというようにくすりと笑みを浮かべている華琳の姿は拓実の目にはあまり見慣れぬものである。華琳のこと、間違いなくその言葉のとおりに私情に流されたと言うわけではないだろう。

 

「けれど、あくまで援兵。汜水関、或いは虎牢関を攻略した後に派兵した三千の内のどれほどが戻ってくるかわからないにしても、我が軍に兵が余っているわけではない。援兵の条件としてこれだけは呑ませなさい。劉備が我が方からの援兵を受け入れるのであれば、兵を劉備軍の壁や盾代わりに使われぬよう荀攸が監督役として劉備軍に同行するとね」

「あ、なるほど」

 

 そこまで言われて、ようやく拓実は華琳の思惑を理解した。捻挫の為に許定として、武将として戦働きできない拓実は、必然的に荀攸もしくは卞氏の姿をとらねばならない。そんな拓実が曹操軍にいたところで、活躍の場は限られる。

 そこで華琳は、好意からの援軍と称して劉備軍と公孫賛軍の調査をするつもりなのだ。当然、その意図は諸葛亮や鳳統あたりには容易く看破されることだろう。彼女らからすれば、自軍の錬度や装備、攻略に用いる策といった情報を対価に差し出せば、群雄が集い名声を得る絶好の機会であるこの大舞台では喉から手が出るほど欲しいであろう三千の兵を得られる。そう考えれば裏があるとしても悪い取引ではない。いや、その程度の情報などは安いものであろう。諸葛亮、鳳統とてそう考える筈である。

 

「ああ。もし劉備が許すのであれば、采配を振るうも汜水関攻略の手助けするも構わないわ。課せられている任務さえ忘れることがないのであればね。精々、劉備の立身の助けになってくるといいわ」

「わかりました。荀攸に、すぐ向かうように伝えてきます」

 

 拓実が表情を引き締めるのを見て、華琳が笑みを湛えた。直ぐにでも荀攸へと姿を変えて劉備の返答を聞きに行かねば、汜水関の攻略を任されている彼女たちは出発してしまう。拓実はゆったり歩く華琳を抜き去って、左足を引き摺りながら小走りで駆けていく。

 

 

 ――――華琳が策謀しているのは『情報と兵の取引』を隠れ蓑にして体裁を装えた、『軍中核人物の思考の把握』である。華琳の本来の目的は目先の兵の錬度や装備などではなく、劉備や公孫賛の人格、指導者としての器を知ることだ。或いは諸葛亮、鳳統ら軍師の立案能力や思考を把握し、関羽ら武将の指揮傾向を調査することにある。

 常識的に考えれば遠征中という僅かな期間で得られる情報に信用に足る確度などはありえないのだが、そんな常識から外れている規格外の観察眼を持つ人物が拓実である。だからこそ、正常な思考からでは華琳の策謀は見破れない。

 

 もしもいつか敵対することになれば、中核人物の思考傾向などの情報は黄金よりも貴重なものとなる。劉備が今回の討伐軍に参加したことで戦功を立てて一勢力となったとしても、その躍進の助けをした華琳への恩は劉備の中でどんどんとその比重を増していくことだろう。

 また彼女らがどういった立場になろうとも、拓実が写し取る多様の思考と人間性は何らかの成長のきっかけを与えてくれる。どう転んだとしても、無駄にはならない。

 

 不利な取引を自ら持ちかけたように見せて相手に恩を売り、しかし実のところでは取引上でさえ同等以上の利を得ている。

 曹孟徳。彼女が乱世の奸雄と呼ばれるに相応しい少女であることを拓実は再認識していた。

 

 


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