影武者華琳様   作:柚子餅

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31.『曹操、荀攸と入れ替わるのこと』

 

 ――おかしい。

 

「荀攸。少しばかり落ち着きなさい。そうも忙しなくされては、隣にいる私の方が気になってしまって仕方がないでしょう」

「も、申し訳ございません」

 

 これは、明らかにおかしい。華琳はいつもの執務室にて、その不可解さに苛つきを覚えていた。今朝方からずっと、そんな思いが華琳について回っている。

 

「それにしても、あなたが髪の毛を下ろしているのは初めて見るけれど街にいる年頃の少女のようで中々に可愛らしいじゃない。その姿が今回限りというのは残念だわ。本当に」

「……曹孟徳様、止めてください。正午までに処理せねばならない書簡が残っていますわ」

 

 無造作にフードの中、耳の後ろあたりに手を伸ばされて髪を弄ばれた。華琳は反射的に肩を押して距離をとる。

 急に近づいてきた見慣れている筈の曹孟徳の顔に不覚にも僅かに赤面してしまう。どくどくと、心臓がいつもより強く拍動しているのがわかった。

 

「あら、珍しいことね。照れているのかしら? 荀攸・華琳のどちらだとしても、口調が奇妙なことになっているわよ」

「拓実! いい加減になさい!」

 

 図星だった。だからこそ上手く受け流せない。自覚しているからこそ、二の句が継げずにいる。

 こんな無様を晒していては、今しがたに言われたように市井の少女と変わらないではないか。

 

「まったく。あなたは人の事を好んでからかう割には、からかわれることへの耐性はないのね。それに仕事に関しての心配はいらないわよ。御覧なさい、あなたと戯れていてもしっかりと仕事はこなしているわ」

 

 言われ華琳が見れば、自身に扮した拓実が、ちょうど九つ目の書簡の末尾に署名を終えたところだった。それを奪うように手にして、内容を確かめる。

 その署名も毎夜、半年にも渡って筆跡を真似させていた甲斐があったか、ぱっと見では華琳でさえも自身が書いたものと見間違えるほどの精度。肝心の内容にも目に見える誤りはない。

 

 処理する書簡も次で十、確かに政務の進捗状況は悪くない。いや、それどころか前倒ししているぐらいだ。

 華琳は、内政に偏っている荀攸よりは流石に一段劣ると想定して書簡を用意しておいた。もちろん普段華琳が処理している量とは比べるまでもないが、それでも並の文官に任せている量は軽く超えている。いつもとは勝手が違う領主としての仕事をこの速度でこなすのでは、それこそ荀攸時にも劣っていない。

 理解しがたい事態にこれはいったいどういうわけなのかと拓実へと目をやれば、当人は薄く笑みを浮かべている。

 

「曹孟徳であればこの程度、朝食の前にでも終える仕事でしょう。であれば、この私が午前の間にこなせない方がよほど道理が立たない。まぁ、仕事の最中にあなたをからかう以上は手抜かりがあってはならないと、普段より力を注いだことは否定できないわね」

 

 常人以上の仕事振りを事も無げに言い、くすくすと笑ってみせる目の前の拓実の姿に、華琳は自身の姿が重なって見えた。もちろん、華琳は自身の姿など鏡の中にしか見たことはない。

 華琳が見知ったのは、他人から見た自身の姿。華琳が唯一、直接見ることすら叶わない人物が、こうして目の前で動き、自身に向かって話しかけている。あの謁見の時のやり取りが、拓実の立ち振る舞いが華琳の脳裏を過ぎった。

 

「ともかく、これで納得したでしょう。残りも半刻もあれば充分に処理できる。むしろ私が心配なのはこれから凪ら三人と共に周辺の豪族へ顔見せに行く上で、荀攸、あなたの正体が三人に露見せずに済むのかどうかよ」

「ぐっ、そう言われるのも尤もだけれど、荀攸との面識なんてそうなかったでしょう。多少の不自然であればあの子たちには……」

「荀攸。言っている傍からその口調」

 

 その指摘に歯噛みする。少し気を抜けばこれだ。苛立ちから頭を振り、目を瞑って一つ息を吐く。僅かなりとも頭を冷やし、笑みを浮かべている拓実をきっと睨みつける。

 

「少々の不自然であれば、三人も見逃してしまうのではございませんか?」

「本当にあなたの言うとおりになるのであれば僥倖(ぎょうこう)と言う他ないわね。確かにあの子たちが荀攸と顔を合わせていたのは、朝議で集まる他では城ですれ違う程度。その際にしても礼を交わすだけだったもの。けれども、荀攸と荀彧がそっくりであることが周知の事実であることは変わってはいないわ。それを指しての的確な呼び名があるのだけれど、荀家の二人が城内で何て言われているのかあなたは知っているかしら?」

「……『鏡写しの反面教師』」

 

 しばし逡巡し、華琳は搾り出すようにして答える。顔をしかめている華琳を前に、拓実は僅かに目を見開いた。

 

「へぇ。このような下世話も、あなたの耳に届くものなのね。聞いたところによれば、互いを(けな)し合っているけれどそうした罵倒が全て瓜二つな自分にも当てはまっているところから名づけられたとか。誰が言い出したのかは知らないけれど、上手いことを考える者もいたものね」

 

 同じぐらいに意地が悪く、同じぐらいに口が悪く、似た声色と抑揚で、まったく同じ服装をしている桂花と荀攸の二人。流石に頭の回転や知識量は桂花が勝るが、独創力では荀攸が上回るので一概にどちらが勝るとも言い切れない。細かなところでは荀攸の方が背が低かったり、桂花には極僅かにある胸部の膨らみが皆無であったり、髪色が金と茶とで違ったりはするが、流石に罵倒するほどの要因とはならない。

 そんな二人が目の前で罵り合えば、飛び出た言葉がどちらから出てどちらに向かったかもわからない。傍から見ていれば自分をけなしているようだろう。なるほど、『鏡写し』とはよく言ったものである。

 

「あなたが知っているくらいなのだから、この呼び名はあの三人の耳にも届いていることでしょう。当然、二人の容姿から口調から、性格までがそっくりなこともね」

 

 春蘭を初めとした側近数人としか雑談をしない華琳には、そういった世間話の類は滅多なことがなければ耳に入ってこない。今回に限ってどうして華琳が知っていたのかといえば、その華琳本人が二人を揶揄してそのように呼び出したからに他ならない。城内に広まっていることまでは知らなかったが、最早後の祭り。何となしに思い浮かんで口にしたそれが今華琳の首をしめている。

 

「……」

 

 華琳は目を瞑った。つまり、華琳の演技の出来次第では凪らに影武者の存在が露見するということだ。

 人となりを見る限り、凪たちには打ち明けても大丈夫であろうとは考えているものの、己の不注意で露見するのとこちらから打ち明けるのでは大きく意味合いが違う。

 

 華琳は今、これまでの人生で覚えたことのない類の危機感を覚えている。しかし、己の不注意が招いた事態である。ならばこそ華琳がその失点を挽回出来ない筈がない。

 そうして自身に言い聞かせながらも、脳裏に片っ端から思い起こしているのは、桂花や荀攸として演じる拓実の姿、表情、口調、声色、言動、挙動。深く、深く。それこそ細かな動作、小さな癖をも頭に浮かべる。驚くことに、二人の違うところを探す方が難しかったが――大丈夫、覚えている。

 

 しかし、それをそのまま僅かにぶれることなく演じるなど、到底正気の沙汰ではない。無意識に出るから癖なのであるし、挙動や言動などは思考や感情から生まれるものだ。

 普段の思考傾向までは何となく理解できても、派生していくそれを咄嗟に反映させることなど出来はしない。特定の感情に誘導こそできるだろうが、物事に対して常に変化しているものなど一々追っていられない。もしもそんなことが出来る人物がいるとすれば、華琳が知る限りでは今は曹孟徳となっている目の前の人物だけだ。

 ならば、演技の才を持ち得ない華琳はいくつかを切り捨てる他ない。果たして荀攸に似せるに最低限必要な要素とはいったいなにか。

 

「……拓実、私に演じ方を教えなさい」

「荀攸。あなた、また口調が――」

「これから私が尋ねるのは、それを為すために必要なことよ」

 

 眉を顰めて戻った口調を嗜めようとする拓実に先んじ、華琳は言葉を続ける。揺るがぬ華琳の瞳に決意の光を見たか、拓実はそれまでの喜悦に歪んでいた口元を正し、その目つきもが鋭く変化する。

 

「そう。どうやら本気のようね。いいわ。聞きたいことがあるのなら言って御覧なさい」

「ありがとう」

 

 もう、拓実が演じられるのかという試験である筈なのに、演技指南されているのが何故華琳となっているのかなどという疑問はどうでもいい。試験中に違和感があればすぐさまに指摘してやろうと画策していたというのに、拓実に曹孟徳として不自然なところが見つからず、それどころか華琳の演技には駄目だししかされていない憤りも置いておこう。弱みを握って、ここぞとばかりにいじわるしてくる拓実は許せそうにないが、試験が終わるまでは一時忘れよう。加えて、今は頭を下げてでも教えを請うてやる。

 己が失敗を取り返すには、拓実の力を借りてでもこの窮地を乗り切る他ない――――華琳はそう決断した。

 

 華琳にもできないことは当然ある。多くにおいて高水準の能力を持ってはいるが、突出した才を持つ者には敵わない。華琳は自身のそれを認めているが故、才を持つ人物を集めたがる『人材収集家』であった。

 だが、自身の得意とする分野でなくとも、期待以下と思われるのはとてもじゃないが許せそうにない。それは、多くにおいて高水準の能力を持ち合わせているという自負でもあり、やると宣言したことをこなせていないという、己の信条に賭けてのことでもある。

 曹操陣営には春蘭や季衣、拓実に桂花と負けず嫌いは数いるが、華琳は彼女らの君主にしてその誰よりも負けず嫌いであった。

 

 

 

 それより華琳は、拓実が内務仕事をする傍らで、発声と口調の練習をし始めた。本来の監督役としての役割もそっちのけで、時折横から眺め見る程度である。

 もちろん拓実の仕事振りに別段言うべきところはないというのもあったが、それよりも今は正午に控えた、凪・真桜・沙和が同行する視察を何事もなく成功させることの方がよっぽど重要だった。

 

 華琳が最低限荀攸に似せるに必要不可欠であると考えた要素とは『容姿』『声色』『口調』の三つだった。

 思考など言わずもがな、とてもじゃないが細かな仕草など制御できないし、表情で喜怒哀楽を露骨に現すことは今後、曹孟徳に戻った時の悪癖となりかねない。幸い、容姿は拓実扮する荀攸とほぼ同一。表情は固いだろうが、それだけなら決定打とはならない。となれば、華琳が似せられるのは残る二つである。

 

 拓実が政務を終えるまでの僅かな間に学べたのは、たったの一つ。声の出し方だけであった。曰く、「喉を普段より僅かに閉めて、声が口からではなく頭から抜けていけるように高らかに」とのことだが、説明があまりに抽象的で難儀している。とにかく試行錯誤ということで、政務に励む拓実と会話しながら、声色と口調、抑揚が合っているかどうかの助言を貰ってその都度修正をかけていた。

 

 そして、程なくして拓実に与えられていた仕事が終わった。同時に、華琳の練習時間も終わりを告げることになる。

 凪らと待ち合わせしている正門へ向かう道すがら、喉の調子を必死に整えている華琳に、拓実が別段なんでもないことのように言葉を投げかけてきた。

 

「ああ、言い忘れていたのだけれど、邑長(むらおさ)との面会を終えた後は春蘭、秋蘭と食事に向かうわよ」

「…………なんですって?」

 

 急場の練習しか出来なかった為、らしくもなく緊張していた華琳は新たな事実に頭の中が真っ白になる。不意をつかれ、フードの中でぽかんとした間の抜けた顔を晒した。

 それを目の当たりにした拓実が笑みをこぼし、自身の顔がどうなっているのか気づいた華琳はすぐさまに無表情を取り繕う。

 

「最近、調練に赴いていて不在がちな春蘭とは碌に会話もしていないものね。遠征前におかしくなられても事だわ。そろそろ顔だけでも合わせておかなければならないでしょう」

「拓実、あなた……!」

「ほら。また口調が戻っているわよ」

「くっ……!」

 

 自室で待機していた為に同行できなかった早朝の朝議は、拓実曰く何事もなく無事に終わったと聞いていたのだが、終えた後に何事かを起こしていたようである。

 どうやら華琳に黙って春蘭・秋蘭と食事する約束を取り付けていたようだ。確かに拓実の言うように最近春蘭とはゆっくり話も出来ていないが、この拓実の提案は間違いなく華琳が慌てふためく様を見たいが為だ。

 

 小さくない怒りが華琳の中に渦巻くものの、深呼吸して必死に気を落ち着ける。二人が歩くそこは既に廊下である。拓実が扮している紛い物相手とはいえ、荀攸が心酔している曹操を怒鳴りつけるなどありえないことだ。

 性質の悪いことに、華琳が拓実を叱りつけることの出来ない状況になってから暴露している。加えて、『春蘭とあまり顔を合わせていない為』という道義さえ立たせてさえいなければ、こうして不承不承ながらも怒りを治めることはできなかった。そして今回のいたずらがその華琳にとって許せる限度ぎりぎりであることも拓実の予想の範疇なのだろう。見事に手のひらの上で踊らされている。

 

「あの子達と荀攸の四人で共に食事を摂るのは初めてだったわね。ふふっ、退屈しない食事になりそうだわ。ああ、流石に桂花までを呼んでは一目で看破されてしまうでしょうから、今回はあの子を呼ばずに置いたわよ」

 

 それだけでも憎憎しくて仕方がないというのに、華琳の歩く先には悪びれもせずに微笑みを浮かべている己に瓜二つの姿。純粋に楽しみにしているように演技する拓実の姿がまた華琳の怒りを煽っている。まるで「桂花を呼ばなかったのだから感謝しろ」と言わんばかりの口振りだ。

 

 華琳の腹の中は、これ以上ないほどに煮え繰り返っている。そんな荒れ狂うような憤怒の奥底で、彼女の怜悧な頭脳は静かに正確に、凄惨な報復を組み立てている。無事この試験を乗り越えられたならば、相応の意趣返しをしてやらねばなるまいと。

 だがやはり冷静には程遠いようで、終始自身こそが試験を受けるような心持となっていることに気づいてはいなかった。

 

 

 

 

 ぎし、ぎし、とからくり仕掛けかのように、凪はぎこちなく主君を乗せた馬の口取りしていた。視線は前方に固定、まともに顔を上げることも出来ずにいる。

 凪や真桜、沙和たちは戦時ともなれば数百人からなる軍を率いているが、平時での主な仕事は警備隊長である。城内の軍務より、街中を駆けている時間の方がよっぽど多い。肩書きこそ将である為に春蘭や秋蘭らとは兵の調練で顔を合わせることも増えてきているが、滅多に城外に出てこない華琳にここまで近づくことは早々あることではない。上がり症の凪はもちろん、沙和や真桜の顔も強張っている。

 

「さて、凪、真桜、沙和。あの邑についてはどうだったかしら。あなたたちの所見を聞かせてご覧なさい」

 

 近隣の邑への視察が終わって城へと戻る途中のこと。件の人物より馬上から問いかけられ、凪は同じく問われた筈の真桜、沙和から視線を集められる。二人の意図するところは『隊長なんだから何とかしてくれ』というものだろう。

 何故華琳と視察に向かう時に限って物怖じしない拓実がいないのか、そんな八つ当たり気味な考えが過ぎるも、とにかく問いにはすぐさま答えを返さねばならないと頭を必死に回転させる。

 

「は、ははっ! その、一応邑の周りを腰ぐらいの高さの木の柵で囲んでありましたが、それでは防備が充分ではないといいますか、防壁で周囲を囲って賊らの侵入を防ぐようにしなければと思います」

「そうね。他には?」

「えぁ? 他、他に、えと、ええと、その……」

 

 何とか答えたと思ったところで問い返され、頭の中が真っ白になった。凪は涙目で真桜と沙和に助けを求めるものの、二人にはすげなく首を振られてしまう。

 ぐるぐると視線をあちらこちらへやって考える素振りこそ見せるも、明らかに思考回路が働いていない。結局何も浮かばず、馬上の華琳へ向かって頭を深く下げる。

 

「も、申し訳ありません! 他は、思いつきません」

「仕方がないわね。近くの河から灌水用に取水すれば開墾地を増やせそうであるとか、生活用水用の井戸が足りていないとか色々と見るべきところはあったけれど、まぁいいでしょう。邑の防備については、凪の言うとおりよ」

 

 華琳を前にした緊張から慌てふためいていた凪だったが、一応の肯定が返ってきたことで今度こそほっと安堵の息を吐く。しかし、言葉とは違って当の華琳の表情は厳しいままだ。

 

「とはいえ、百にも満たない人口数の邑にいちいちしっかりとした防壁を築く訳にはいかないわ。その予算も、時間もが今は惜しい。……真桜。西にある森から木材を伐採し、人の背ほどの丸太を束ね立てた簡素な防壁を周囲に作るとしたなら、見立てでは幾日かかるかしら?」

 

 その問いを受けて真桜は目を瞑り、人差し指で蟀谷(こめかみ)をとんとんと叩く。

 

「その条件によるんやけども、ええと、人手はどれほどになりますかね」

「知識はなくとも比較的手先の器用な者を二十。力自慢を二十。そのどちらでもない者を二十。それらをあなたが指示をすると仮定しましょう」

 

 ひの、ふの、と指折り数えていた真桜が、自身が指示をすると聞いて手を止めた。

 

「なんや。それやったら移動入れても二日あれば釣りがきますわ」

 

 出来て当然、そんな自信に溢れた真桜の言葉を聞いて、思わずといった風に華琳の顔が笑みを形取った。凪たちも幾度か見たことのある、華琳特有の歓喜の表情だ。

 驕り高ぶることなく、しかし過小に評価もせず、正しく己が才と向き合う者に対すると華琳の瞳は星が輝くように煌めく。それを知っている者からすれば、あの曹孟徳に認められるだけの才であるという賛辞に他ならない。

 

「今朝行われた朝議にて、四日後へ控えた反董卓連合への遠征が終わり次第、新しく工兵隊を結成しあなたに任せる旨を伝えたわね。実地訓練に丁度いいでしょう。人員の選別はもう終えているから結成を前倒しして、遠征に向かうまでにこの邑の防柵を完成させなさい」

 

 その声が弾んでいるよう聞こえるのも決して錯覚ではない。頬を上気させて艶かしく笑む華琳を前に、その気のない筈の真桜や沙和もまた頬を染めた。

 残る凪は先の受け答えからずっと顔を真っ赤にしている為に顔色では判別できなかったが、緊張とは違う理由で固まってしまっている。

 

「作業をすると同時に、副長と小隊長を選別しておくように。それらの者にはあなたから防柵の構築手順を教えておくといいわ。我らが留守にする間、領内の他の邑にも派遣して同じように防柵を築かせましょう。遠征から帰ってくるまでに錬度を高めておけば、あなたもやりやすくなるでしょうしね」

「ははぁ、なるほどなぁ……了解です。うちに任せたってください! こいつは、腕が鳴りますわ」

 

 華琳よりの直々の命に、打てば響くように言葉を返す真桜。すぐにでも走り出して作業に掛かりそうな意欲が全身から溢れている。

 言葉にこそ出てはいないが、華琳が真桜を評価してくれているのは態度から充分に読み取れた。主君にこうまで買われては、やる気にもなるというものである。

 

「凪、沙和。負担が増えて申し訳ないのだけれど、真桜が抜ける部分は許定と協力してあなたたちで上手く埋めて頂戴」

「はっ!」

「了解なの!」

 

 上機嫌な華琳の言葉を受けて、凪と沙和も嬉しくなってくる。二人は自然といつもより力の入った声を返していた。同僚が認められたこともそうだが、普段、感情を露にしようとしない主君が珍しくも喜色を溢れさせているのだ。自分たちも期待に応えたいと気合を入れている。

 華琳はそれらを聞いて満足そうに頷くと、馬に乗って傍にぴったり控えている荀攸へと顔を向けた。

 

「さて、荀攸。邑の位置によっては作業が数日と日を跨ぐこともあるでしょう。備蓄に、工兵隊に持たせる程度の余裕はあるのかしら?」

「問題はございません」

 

 問いかけた華琳に、静かに言葉を返す荀攸。抑揚から一切の感情の起伏が感じられない。声と同じく顔もずっと無表情だ。

 荀攸の平坦な声に、華琳から直前までの上機嫌な様子がばっさりと消えた。水を差されたように表情を曇らせる。

 

「あら。荀攸、声の調子がおかしいわよ。どうしたのかしら」

「いえ、そんなことは……」

 

 華琳より心配そうに声をかけられると、荀攸はほんの僅か眉根を寄せて、けれど先と変わりなく言葉を返す。その声色にどことなく迷惑そうなものが含まれているように凪は感じたが、桂花と同じように華琳を信奉している荀攸がそのような返答する訳がないと頭を振っている。

 真桜はすでに頭の中で計画を立て始めているようで、話半分にしか聞いていなかったようだ。残る沙和はといえば、人差し指を顎に当て、首をかしげている。

 

「華琳さまの言うとおり、ネコ実ちゃんってば、風邪でも引いてるのー? なんだか声がおかしいのー」

 

 沙和の突拍子のない呼称に、華琳や荀攸はもちろん、考え事をしていた真桜までもが沙和へと視線を集めている。

 

「……なんや、沙和。その『ネコ実ちゃん』っちゅーけったいな名前は」

「だってだって、副隊長の許定ちゃんも拓実ちゃんで、荀攸さんも拓実ちゃんでしょー。呼ぶ時わからなくなっちゃうから、荀攸さんはネコ耳の拓実ちゃんでネコ実ちゃんなのー」

「まぁ、確かにここじゃ真名で呼び合うっちゅー決まりやから、おんなじ名前やと呼びづらいのは確かやけど。流石にそれはちっとばかりどうかと……はっきり言わしてもらうとアホっぽいなぁ」

「そうだ。沙和、そんなふざけた名前じゃ失礼だ」

「ぶー、可愛いのにー。ねぇねぇ、荀攸さん。荀攸さんのこと、ネコ実ちゃんって呼んでもいいでしょー?」

 

 その場にいるほぼ全員から駄目出しされ、沙和は頬を膨らませて荀攸へねだる様に声をかけた。当然、馴れ合いを嫌っている節のある荀攸は断るかと思いきや、何か思いついたかのように晴れやかな顔をして口を開いた。

 

「いいわよ」

「は? い、いいのですか?」

「構わないわ」

 

 荀攸からのまさかの即答に、周囲は唖然とする。何とか持ち直した凪が確かめるように声をかけるも、返答は変わらない。

 

「……荀攸。お待ちなさい。あなた、その名で呼ばれても構わないと言うの?」

「ええ、曹孟徳様。とても可愛らしくて気に入りました。今後は他の者からもその名で呼んでいただこうかと。この私、荀公達本人が言うのですから何も問題はございません」

 

 それまで一貫して無表情だった荀攸が、にっこりと華琳へ笑いかける。対して華琳は笑顔の彼女へ何事かを口にしようとするも、何かに気づいてすぐに閉じ直した。表情が苦々しいものへと変わる。

 その横では、たまたま荀攸のフードの中を覗いてしまった凪が、顔を青くして背筋を震わせている。

 荀攸が浮かべたのはとても綺麗な笑顔だった。……だったが、凪はその下に物騒なものが見え隠れしているのを感じ取っていた。一瞬ではあったが、並の武官では相手にもならない、それこそ凪でさえ敵うかというほどの威圧を荀攸が放っていたのである。

 

「ほらほらぁー、沙和の言ったとおりなのー!」

「……ぇぇぇ~」

 

 この場にいて喜んでいるのは沙和ばかりで、真桜なんかは荀攸の趣味の悪さにどん引きしている。凪に至っては荀攸に気圧されてしまってそれどころではない。華琳は何故だか不機嫌そうにしているし、当の荀攸は、そんな華琳へ向けて底冷えするような薄ら笑いを浮かべている。

 

「やはり、姿を変えていてもこの子は侮れないわね」

 

 そんな中、華琳がぼそりと呟いたのを石のように硬直していた凪だけが聞いていた。

 

 

 

 

 

「申し訳ございません、華琳さま!」

 

 視察を終えて陳留へと戻り、凪たちと別れた拓実と華琳は、城門前で出迎えた兵士に案内されて中庭へ通された。辿り着くや途端に響く春蘭の謝罪。そして、二人にとって想定外の光景がそこにあった。

 

「春蘭、秋蘭。これは……いったいどういうことかしら?」

「はっ、恥を忍んで申し開きをさせていただきますれば、今朝よりのお話では力及ばず、華琳様がお食事するに足る安全な店をご用意することが出来ませんでした。止むを得ず城内で食事をと考え、手の空いていた流琉に料理を頼んだのですが、丁度厨房で季衣が昼食が出来るのを待っていたことに加え、華琳様とのお食事という話を桂花が漏れ聞いたようでして……」

「華琳さまといっしょにご飯食べたいなーと思って待ってたんですけど、ダメですか?」

「春蘭や秋蘭、拓実ばかりずるいです! 華琳様ぁ、どうか私もご一緒させてください!」

「……といった具合に、華琳様に御相伴のご許可をいただけないかと集まってしまいまして」

 

 城の中庭に、十人掛けほどの机。一際豪華な椅子は華琳の為に用意されたものだろう。その傍でひれ伏している春蘭。そのまた横では、並んで秋蘭が申し訳なさそうに頭を下げている。さらには、お腹を押さえて悲しげにしている季衣、華琳姿の拓実が姿を見せるや必死にすがりつく桂花、せっせと料理を運ぶ流琉の姿があった。

 隣の華琳を盗み見れば、顔が引きつっている。ただでさえ難しかった試験が、いつの間にやら最高難易度となっていたらそうもなるだろう。

 致命的なことに、今の華琳にとって一番の難敵である桂花までいる。しかし、こうなっては桂花だけ同席を許可しない、ということは出来ない。ここで彼女一人を外そうものなら、いくら被虐趣味を持つ桂花といえど心に傷を残してしまう。季衣にしても、これ以上食事を我慢させては可哀想だ。一日五食、六食がざらな季衣では、こんな時間まで昼食を待つのは辛かったことだろう。

 

「仕方がないわね……集まってしまったものは仕方がないでしょう」

「華琳様っ、ありがとうございます!」

「やったーー!」

「今朝方になって急遽誘いを出した私にも非はある。春蘭と秋蘭のことも今回は大目に見ましょう。顔を上げなさい」

 

 許しが出たことで、春蘭と秋蘭が改めて謝罪をした後に立ち上がる。季衣も、笑顔を浮かべて雑談を交わし始めた。そんな中、目を見開いて注視してくる華琳を無視し、拓実は一通り料理を並べ終えたらしい流琉へと向き直った。

 

「流琉。結果的にあなたには無茶を言ってしまったわね」

「いえ、お料理を作るのは楽しいので……華琳さまのお口に合えばいいんですけど」

 

 言ってはにかむ流琉に、拓実の顔にも自然と薄く笑みが浮かぶ。押せ押せの気風が強い中、流琉の控えめな性格は充分に心の癒し足り得た。

 そうして拓実がほっこりとしている間にも、視界の端ではちょっとした騒動が起こっている。

 

「それにしても拓実。あんたねぇ、この私に華琳様とお食事することを黙っているだなんて随分と薄情じゃない。別に取り決めしていた訳じゃないけれど、それにしても一声ぐらいあってもいいでしょう? 何だか裏切られた気分よ」

「……」

「む、無視!? あんた、この期に及んでいい度胸してるじゃない! 最近仕事が上手くいっているからって調子に乗ってるんじゃないでしょうね!? 華琳様のご寵愛を戴いたこともない癖に。ほら、何とか言ってごらんなさいよ!」

「……」

「ちょ、ちょっと! そろそろ止めなさいってば! 悪かったわよ! 言いすぎたわよ! 悪口でも何でもいいから、いつもみたいに――」

 

 演技からボロが出ないよう、口を噤んだまま無表情に――けれども若干困った様子の華琳は、拓実に聞こえないよう小声で一所懸命に話しかけてくる桂花を見ていた。

 いつもならば言い合いの口喧嘩になるところを、冷たく見据えられて桂花はうろたえている。桂花が他人に無視されるとこんな反応をするのかと、こっそり聞いていた拓実は密かに驚いていた。

 

「『拓実』」

 

 未だ何事かを言い募っている桂花を放って、ちらちらとこちらに目で文句を告げてくる華琳を己の名を使って呼び寄せた。春蘭たちも同席していては、『荀攸』などと呼ぶことからして不自然に写るだろう。

 呼び慣れぬ名で呼ばれた華琳は黙って拓実へ歩み寄ってくる。そうしている間も上手く人目につかないように拓実を睨みつけているのは流石と言うべきなのか。

 

「華琳。あなたの演技では、桂花の目を誤魔化すことは出来ないのではないかしら?」

「……悔しいけれど、荀攸の『元』であるあの子を相手に欺けるとは思えないわね」

「ならば、例外措置としてあの子には先に試験内容を打ち明けましょう。桂花から連鎖して露見してしまえば、私の試験どころではなくなるもの」

「そう、ね」

 

 他には漏れ聞こえぬよう耳打ち出来るぐらいの距離まで近づいた二人は、密かに言葉を交わしながらちらちらと桂花を眺め見る。そうして拓実は華琳より許可を得たことで、仲間外れにされたような悲しい目でこちらを見ている桂花へと向き直った。

 拓実は彼女に話しかける前に、ちらりと談笑している春蘭たちを盗み見、声が届かないよう心がける。

 

「桂花、少しいいかしら」

「えっ? あ、はいっ、なんなりと」

「安心なさい。桂花のことを無視をしていた訳ではないわ。荀攸には密命の関係で、極力声を上げないようにと申し伝えてあるの。そこでなのだけれど、この子だけでは不安だからあなたに補佐を任せたいのよ」

「は、はっ! 荀文若、確かに拝命致しました。華琳様の命、命に代えましても遂行させていただきます」

「任せるわ。任務内容については本人から聞きなさい」

 

 一度たりとも口を利かずにいた華琳のことを、桂花はいくらか安堵した様子で見ている。無視されていた訳ではないと知ったからだろう。その華琳はというと、ついに黙っていられなくなったのか、不機嫌そうに眉を寄せて拓実へと食って掛かる。

 

「ちょっと、拓実。今回の試験は本来、あなたが受けるという趣旨のものでしょう。であるなら、私からではなくあなたから説明しておきなさい」

「はぁ? あんた、華琳様に向かっていきなりいったい何を……」

 

 今まで一言も発さず、ようやく声を上げたと思えば思いもよらぬ声色と口調。桂花は目をまん丸に見開いて華琳を見つめている。その華琳は桂花を前に不出来な演技をする気はないのか、最低限言うべきことを言うと貝のように口を噤んでしまった。

 

「私の試験だからこそ、試験官である華琳が説明すべきではないかしらね。まぁ、いいわ。華琳にしては珍しく余裕がないようだから、今回は私が骨を折っておきましょうか」

「えっ、華琳様? ちょっと、まさか、嘘……」

「嘘ではないわ、そのまさかよ。桂花は話が早いから助かるわ。今こうして、極秘任務――影武者としての最終試験を行っているのよ。私は影武者、本物はそこの『ネコ実』よ」

 

 『ネコ実』と呼ばれたことで華琳が眉根を寄せるが、拓実に「今日限りはあなたが『ネコ実』なのでしょう」と告げられ、そっぽを向いた。それを目にして肩を竦めた。言った拓実にしても内心は暗澹たる思いである。明日からは、少なくとも凪ら三人からは拓実こそが『ネコ実』と呼ばれることになるのだ。

 

「本日の宵まで私の正体がばれなければ合格ということらしいわ。その間、華琳は荀攸になりすまして試験を監督するのだけれど、正体が知れれば私に疑惑の目が向くようになるでしょう。桂花にはそうならないようにして欲しいのよ」

「そんな……」

 

 呆然と華琳と拓実との間で視線を往復させていた桂花だったが、すぐに今までの自分の応対に気づいたようで顔を真っ青にさせる。

 

「も、申し訳ございませんでした! まさか、華琳様だとは露ほどにも思わず恐れ多くも馴れ馴れしく振舞うなど。この失態、如何様にして償えば……」

 

 理解に至るや、桂花が荀攸の姿の華琳に向き直り、平伏の為に膝を折ろうとする。その桂花の腕を華琳がすんでのところで掴み、無理やりに立ち上がらせた。

 

「ならばまず、私を荀攸として扱いなさい。あなたが荀攸に対してそんな態度では、春蘭や秋蘭も不審がるでしょう」

「華琳様を荀攸として、ですか?」

「ええ。影武者の試験成功の可否には、私の矜持がかかっている。悔しいけれど、拓実の出来はこのとおり非の打ち所がない。もし露見するならば私からということになるでしょう」

「し、しかし。私が華琳様に無礼な振る舞いなんて、出来るはずが……」

 

 尚も食い下がろうとする桂花を華琳が説得しようと声をかけるのだが、どうにも芳しくない。それを眺めていた拓実は、不機嫌そうに顔をしかめていた。

 

「桂花、いい加減になさい。あなたの為にこれ以上の時間は割けないわ。本人がこう言っているのだからあなたもそのように応対するように。これは命令よ」

「はっ、華琳様の仰せのままに! ……あっ」

 

 苛立った拓実の声に対して反射的に跪き、返答をしてから気づいたのか、桂花が間の抜けた声を漏らす。いつかの春蘭と変わらない反応に、拓実はにい、と笑みを作った。

 

「ふふ。随分といい返事ね、桂花」

「う……」

 

 拓実の視線の先には猫耳フードの少女が二人。演技に慣れない華琳に、荀攸に扮した華琳にどう接していいものか戸惑う桂花。どちらも随分と弄り甲斐があって、拓実は反応を引き出すことが楽しくてしょうがない。

 そんな二人が、淀んだ空気を纏わせて並んで席に着く。見渡してみれば、季衣、流琉も既に席に着いており、秋蘭が椅子を引いて拓実の着席を待っていた。

 

「皆、待たせたわね。それでは遅くなったけれど食事としましょうか」

 

 拓実は当然のように引かれた椅子へと座り、その左右に座る春蘭と秋蘭へ声をかける。

 試験を課されている身だというのに、試験についてなど最早拓実の頭の中にはない。二度と巡ってはこないこの状況を、より面白くすることに夢中になっていた。

 

 

 


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