影武者華琳様   作:柚子餅

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29.『華蝶、陳留に舞い降りるのこと』

 

 後ろへと流した金髪をなびかせて、拓実は街中を駆けていた。無駄なく路地を選んで進み、人ごみの中をまるでねずみのようにするすると抜けていく。

 そんな拓実の後ろを、銀髪をおさげにした傷痕だらけの少女――凪が少し遅れてついてきている。肉体的な疲労はしていないようだが、街中を被害を出さないようにして駆けるのには慣れていないらしく、ついていくのにやっとという様子である。

 拓実は前方を走っていた男の背中に追いつき、風のように追い越していく。そこでばっと振り向くと、背負っていたトンファーを抜き放っては構え、男の前方に立ちふさがった。

 

「止まれーーっ!!」

 

 拓実より上げられた声。男はそれにまったく構わない。足を止めずにそのまま突進していく。駆けていた勢いを削がず、手に持った成人男性の太腿ほどの太さの棍棒を振りかぶり、拓実へと向けて振り下ろした。

 

「ぬううう、あああああっ!」

「ぐぅっ!」

 

 鉄のハンマーを木に叩きつけたような、そんな鈍い音が路地に響いた。拓実は右手のトンファーで受け流そうとしたものの、勢いは殺しきれない。拓実の体は衝撃により後ろへと押しやられてしまった。

 男からは間髪をいれずに前蹴りが飛んでくる。体勢を立て直した拓実は、ぴょんと後退して何とかそれをかわした。

 

「うわ、わっと!」

 

 よたよたと体勢を崩すも持ち直し、若干痺れの残る右手を一度振って、無事な左手を男へと向ける。拓実は緊張感のなさそうな言葉を声に出しながらも、油断なく男を観察し続けている。

 

「うおおおおおっ!」

 

 小柄な少女が屈強な己に何するものぞ、と男は棍棒を振り回し始めた。

 先ほどは逃亡する男の前へで立ち塞がって一撃を受けてでも足を止めさせなければならなかったが、一度立ち止まってくれれば拓実にその制約はなくなる。乱雑に振り回されるそれを、かがみ、跳び、後ろへ退いてはあるいは距離を縮めて、全て避けてみせる。ひらり、ひらりとキュロットスカートの裾を翻させて、跳ね回る。

 そうしながらも視線は常に男を射続けている。男の筋肉の動き、あるいは体勢を見、目線などから振るわれるだろう軌道を読んでいる。今拓実は、華琳をして天性と言わしめるだけの動体視力を十二分に発揮していた。

 

 しかし、一向に拓実は拳を、その手にあるトンファーを振るわない。拓実の身のこなしは中々のもので、速度も目を見張るものがある。鈍重な武器を振るっている男の隙に、一撃、二撃と打撃を与え離脱することは十分に可能だろう。だがそれをしようとする様子を一切見せず、ただひたすらに回避に徹していた。

 

「拓実、代わるぞ!」

 

 そうこうしているうちに凪が追いついて、男と拓実の間に割り込むとその右手の手甲を振り回されている棍棒へと叩き付けた。得物の重量で言うならば間違いなく棍棒が勝り、そして体格にしても男と凪では男が勝る。ならば必然男が勝つかと思えば、しかし結果は違った。

 

「だああああああ!」

 

 凪の果敢な声と重たい打撃音が響いて、次の瞬間には二人は共に等距離弾かれた。今の一撃はどうやら互角か。拓実が凪を援護すべきかと目を見張る。

 だが、その必要はなかったようである。どういった原理か、男の棍棒だけが一方的にばらばらに砕けてしまったのだ。改めて拓実が凪を見れば、右腕が淡い光に包まれている。それを拓実は、羨望を込めた目で眺めた。

 ――凪の筋力を大柄な男と拮抗させるほどに増強させたのも、相手の棍棒を砕いたのも、同じものだ。その違いは内か外かに働きかけているかというだけ。それは、体内で練り上げる『気』という力によるものである。

 

「おお、いってえ。聞いちゃいたけどこりゃあ強烈だ」

 

 男が棍棒の柄を放り投げて手を一度二度ぷらぷらと振ると、今度は拳を握り締め、構えを取った。半身になって、凪と拓実に向かって拳を突き出している。素手になってもまだ抵抗する気なのかと、拓実と凪もそれぞれ武器を握り直した。

 

「拓実も、凪も、早すぎる、っちゅーの」

「同感、なのー! あっという間に、見えなくなっちゃうしー」

 

 ひぃひぃと息を切らした真桜と沙和が、ようやく現場となっている路地裏に追いついた。すぐさまに凪や拓実に加わり、対峙している男を取り囲んだ。

 

「うわ、四人相手じゃ流石にもうどうにもならねえなあ」

 

 四方に囲まれて流石に諦めたのか、男は両手を上げて降参の意思を示す。髭面をしかめて、「あー、ちくしょう! 捕まっちまったかー」などとぶちぶち声を漏らしている。

 

「暴漢、于禁が召し取ったなのー!」

「いやいや。沙和、流石にそれは無理あるわ。うちら二人は取り囲んだだけやし」

 

 にこにこと笑って手を挙げた沙和に、真桜が苦笑いしている。そんな二人に向かって、両手を上げていた男が深々と頭を下げた。

 

「李典隊長も于禁隊長もお疲れ様っす」

「あの、王忠さんも今日はせっかくのお休みだったのに、ごめんね?」

 

 追われていた男は顔をがばっと上げて、拓実へと向き直るとにこにこと顔を(とろ)けさせた。いい歳した男が浮かべる顔ではないのが、だが不思議といやらしくはない。

 彼、王忠は戦に赴く際、拓実の部隊に配されている部下である。拓実が見上げるほどに背は高く、全身は筋肉の鎧で覆われていて力自慢。性格は豪放で、桂花が毛嫌いしそうな男臭い男である。

 この男、無精髭を生やしている為に見た目にはそこそこ歳のいった男性にしか見えない。拓実と歳が一回り離れていそうな風貌なのだが、実年齢は拓実のたったの二個上らしい。もっとも、拓実にしても実年齢から三つ四つ若く見られてしまうので、並べば余計に王忠が老けて見えてしまうのは仕方ないことではあるが。

 

「いやいや! うわっはっは! どうかお気になさらずに。俺の力量を見込んでと許将軍に直々に頼まれたとあっちゃあ、断るわけにはいきません!」

「いやー……、うん」

 

 拓実は苦笑いを浮かべた。その顔には珍しくどう応対していいものかといった戸惑いに溢れている。今回のことは、拓実が彼を見込んで頼んだわけではなかった。犯人役を拓実の部隊の兵の中から募った際、立候補した他の数名を王忠が蹴散らしたが為にここにいるのだった。

 

「王忠といったか。荒くはあったが、気迫は中々だった。見れば地力もある。もしかしたなら、将として通用するかもしれんぞ」

「うむ。ご苦労だったな。四人を相手にしてこの地点まで逃げ延びたのも評価できる。許定に妙な視線を送っているのは気になるが……まぁいい。休暇も残るは半日となってしまったが、ゆっくり休んでくれ」

 

 遅れて路地の奥から春蘭と秋蘭が現れる。秋蘭の手には竹簡があり、筆で何事かを書き込んでいた。今回の逃走劇は、もし彼女らの元まで王忠が逃げ延びていたなら拓実らの負けと決まっていたのである。

 

「はっ。失礼します、元譲将軍、妙才将軍。では、許隊長! また明日にでも!」

 

 きびきびと春蘭、秋蘭に向けて折り目正しく礼を取った男は、人肌ほどに温まった視線を向けながらも拓実に別れを告げ、路地から出て行った。拓実は生温かいそれに背筋を寒くさせ、小さく身震いする。

 

「さあて。警備隊長と副隊長を決めるための試験もこれで終了だな。で、秋蘭、どうなった?」

 

 秋蘭が何事かを書き込む傍ら、春蘭が四人を見渡して修了を告げる。二日前より、拓実、凪、真桜、沙和の四人に対しての試験が行われていた。陳留の街を舞台に繰り広げられていた今回の逃走劇は、その最終試験であった。

 四人は部隊指揮の向上の為に、平時は警備隊での隊長や甲乙丙の各班長を兼任している。これまでは暫定的に凪が警備隊長を務めていたのだが、陳留に滞在しているうちに正式に隊長を決めておこうとなっていたのである。

 

「そうだな。項目毎に順位を読み上げても良いが……」

 

 その言葉に、あまり成績が芳しくなかった真桜と沙和がふるふると小さく首を振る。それを見た秋蘭は笑みを浮かべて、再び手元の竹簡に目を落とした。

 

「確認の意味もある。一から述べていこうか」

「ええぇ~」

 

 げんなりした様子で沙和と真桜が声を漏らした。あんまりいつもどおりな二人に拓実は思わず笑みをこぼしてしまう。

 ふと、二人が不真面目な態度をとる度に叱り付けている凪が静かなので見てみれば、直立不動の体勢で固まってしまっていた。どうやら春蘭、秋蘭を前に緊張しているらしい。

 

「まず、追跡や賊発見、走力の試験からだな。好成績順から言うと許定、楽進、于禁、李典の順だ。統率能力を見る試験では許定、楽進、李典。そして大きく水を開けられて于禁。武力試験では楽進が第一試験の総当り戦で全勝、第二試験の対兵士勝ち抜き戦も規定の十人抜き達成。李典、続いて于禁も十人抜きの方は達成だな。許定は総当りで全敗、勝ち抜き戦は四人抜きで最下位だ」

 

 秋蘭がそう告げると、真桜と沙和がうへぇ、と舌を出した。総合的に見ればかなり上位に食い込んでいるらしい拓実だったが、うち武力試験が最低である。勝ち抜き戦も規定数をこなせていない。能力だけを見るなら凪に決まるところなのだが、そこで横にいた春蘭がもうひとつ竹簡を取り出した。

 

「この、華琳さまがお作りになった『性格による隊長適性』って奴だと拓実が僅かな差だが一番で、ちょっと下に凪と真桜、その下に沙和らしい。ちなみに副長適性だと、凪と沙和が同じくらい、拓実と真桜はその下だが四人とも大して変わらんな」

「えっと、そーなると誰が隊長と副隊長になるんですか?」

「そうだな……」

 

 拓実の質問に、秋蘭はしばらく考え込む様子を見せる。

 

「隊長は能力的には楽進だが、姉者が述べた適性までを考えると許定も候補に挙がるか。副隊長は楽進が好ましいが、そうでないなら次点で于禁か許定といったところだな」

「ええー、何でうちだけ名前ないんですかー」

 

 頬を膨らませて不満を声に出した真桜に、秋蘭は笑みを浮かべた。

 

「言うまでもないことだが、四人ともそこらの兵士や親衛隊よりも能力は高い。だが、その中でもどうもお前は職人気質な性格だろう。平時なら責任ある仕事を任せるのもいいが、一度趣味にのめりこんだら仕事を忘れて没頭してしまいそうだ」

「う。まぁ、それはまったく否定できませんけども」

 

 自分でも同じ結果になると考えついたのか、たはは、と真桜はばつが悪いといったふうに苦笑いしてみせる。

 

「副隊長はどちらかといえば能力よりも性格的なものが大きいからな。あまり気にするな。その中でも楽進は上がり症のようだから、朝議に参加して公式の場で華琳様にご報告する必要がある隊長職より、こちらの方が向いているかもしれない」

「はっ、はい……!」

 

 そう答えた凪は、この時点でさえ少しがちがちになっている。これまで朝議などでの華琳への報告も、緊張から頭の中が真っ白になって固まってしまい、代わりに拓実が指名されて報告を上げたりしているのである。最近はいくらか慣れたようで、華琳や春蘭、秋蘭と休日などに私用で会うならそれほどには問題はなくなっているのだが、どうにも公的な物が関わってくるとこの調子になってしまう。

 

「于禁は部隊指揮がどうにも上手くいかないようだが、逆に言えばそれさえ乗り越えれば何とかなるだろう。精進しておけ」

「はいなのー……」

 

 しょんぼりした様子の沙和。どうにも彼女は部隊指揮が苦手なようで、今日も兵に碌な鍛錬を施せずにいた。大勢を相手にした指示が苦手らしく、指示を出そうにもおどおどとしてしまったり、兵を鼓舞するような勇ましい声を出せないようだった。沙和自身もそれを懸念しているらしく、表情は浮かない。

 

「そういう点で許定は物怖じしないのはいいが、やはり武力面――特に力がないのが弱点か。しかしあの王忠から一撃でも受けられるのならば、そこそこの力はついているのだろうが」

「いえ。ボクなんてまだまだだから、もっとがんばらないと……」

 

 秋蘭の言葉に、拓実は顔を曇らせる。趙雲と出会って、つくづく自身の力不足を痛感していたのだ。奮起して鍛錬に励んでいるものの、武将たちの中からでは未だに下から数えた方が早い。

 

「確かに足らないところはいくつかあるが、お前はよく頑張っているさ。誇って良いぞ。ああ、そういえばさっきの試験で袖口と鼻に土がついているじゃないか。ほら、落としてやるからこっちへこい」

「だ、大丈夫ですってば、秋蘭さま! それぐらい、自分でできますよぉ!」

 

 にっこりと笑って手まねく秋蘭を前に、拓実は思わず凪の後ろに隠れてしまう。一度捕まってしまえば、何だかんだと理由をつけてそのまましばらくは開放してもらえないに違いない。経験則である。

 

「あー! 秋蘭さまってば、また拓実ちゃんにだけひいきしてるのー!」

「せやせやー! ずっこいでー! うちらにももっと優しくしたってくださいー」

 

 ぶーぶーと頬を膨らませて不満の声を上げる沙和と真桜に、秋蘭は手招きを止めた。きょとんとした様子だ。二人と凪の後ろに隠れている拓実とを見比べて首を傾げる。

 

「……そうか? 私としては公平に接しているつもりなのだがな」

「いや。流石にそれはどうかと思うぞ。秋蘭」

「む。姉者にまで言われてしまうとは……」

 

 間髪を容れない春蘭の発言は満場一致でこくこくと頷かれ、少しばかりしょんぼりした秋蘭は咳払いを一つ。

 

「まぁ、いい。ともかくだ。午後の予定も押しているからこちらで決めてしまうぞ。これより正式に警備隊の隊長は楽進としよう。この際だ、その上がり症もついでに治してしまうといい。副隊長の方は一応許定としておく。しかし華琳さま直々に君命を授かり不在なこともあるだろうから、李典と于禁も隊長の補佐はしてやるように。いいな?」

 

「りょ、りりょ、了解しました!」

 

 秋蘭の言葉に対して、凪はまるで入隊したての新兵のようにがちがちになって体を震わせた。声は上ずっていて、顔は真っ赤だ。額の汗も酷い。

 その様子を見て、一応は部下になる他の三人が不安に思わないわけがない。春蘭、秋蘭にしても僅かに顔を引きつらせている。

 

「……先が思いやられるな」

 

 春蘭の呟きは全員の内心を見事に代弁してくれていた。

 

 

 

 正式に隊長・副隊長が決まった四人は、春蘭たちと別れるとそのまま陳留の街へと繰り出していた。

 警邏がてら、今後のことを話すべく食事処へと向かっている四人の下へ、穏やかではない声が飛んでくる。

 

「誰か、警備兵! 警備兵を呼んでくれ! 物取りだ! そいつらを捕まえてくれぇ!」

 

 四人は立ち止まり、すぐに声が聞こえてきた方へと向き直った。見れば、黄色の布を腕や頭に巻いた五人の男たちが、通行人を押し退けながら拓実たちのいる方に向かって駆けている。

 それぞれが刃物を握っていて、うち一人がむき出しのままの貨幣の束を抱えている。叫び声の『物取り』とは、間違いなくこの黄巾党の男たちだろう。

 

 偽者とはいえ張角らが孫策に討たれたことで各地で蔓延っていた黄巾党は結束を失い、勢いを落としている。孫策が意図的にその功績を宣伝したことで、張角が討たれたことはあっという間に大陸全土に広まり、天地を揺るがしたような動揺を黄巾党へともたらしたのだ。

 だが、決して根絶されたわけでもない。各地の黄巾党はそれぞれ独立し、今も地域の領主や中央から派兵された官軍と争いを続けている。未だ数万単位の黄巾の残党が変わらず略奪を続けていて、地域によっては今もその数を増している。

 

 黄巾党に参加している半数は農民。残るほとんどが山賊や追剥ぎなどのごろつき、ならず者。その者らも元を正せば農民たちである。食うに困った民らが生きていくには、他所から奪うしかない。ただ山賊となるよりも、膨大な数を誇り、大儀を掲げる黄巾党に参加することは略奪するにいい隠れ蓑なのである。

 恐らく本物の張角らはいつからか影武者らと入れ替わり、そしてその際に『影武者こそが本物の張角である』という情報の流布を徹底している。あまりに大きくなりすぎた黄巾党。もちろん少女らを信奉している者たちもいるだろうが、末端は当の参加している者たちでさえ本当の党首が少女であることを知らないに違いない。

 

「おら! さっさと道を空けろ!」

「……まったく」

「おい! 怪我したくなかったらそこをどけ、小娘ども! どかねえとたたっ斬、が、げぼぉっ!?」

 

 言葉の途中で男から悲鳴が発され、その体が宙を舞った。剣を振り回している先頭の男に、凪が静かに歩み寄って拳を腹に打ち込んだのだ。

 かなりの距離を吹っ飛び、そして地面を転がった男は腹を抱えて嘔吐している。そのまましばらくすると、体をぐったりと弛緩させた。どうやら意識を失ったようだが、気が篭められた一撃は蓄積し、そのダメージは長引く。それを腹部に受けては、しばらくの間喉を通るのは流動食ぐらいだろう。

 

「て、てめえ!」

「はいはい、オイタはそこまでにしときや」

「あんだとぉ? ぐっ、ぎっ!?」

 

 小刀を握っていた男に近づいた真桜がその持ち手を掴み、膝横にすぱんと蹴りを入れる。がくん、と力が抜けて下がった男の顔面にそのまま流れるように肘を叩き込むと、男は鼻血を噴出して前のめりに地面に倒れこんだ。

 

「隙あり、なのー」

「ひぎィ!」

 

 最後尾にいた男の背後にこっそり回りこんでいた沙和が、男の股間を容赦なく蹴り上げていた。三人目は口から泡を吹き、くるんと白目を剥いてうずくまった。ぴくぴくと体を震わせている。

 周囲で見物していた男性たちが思わず股間を押さえる。ずどん、と凄まじく残酷な音だった。

 

「ねぇねぇ」

「んだ、ガキ! 邪魔すんじゃねえ! ッ! オイ、もしかして、お前もあの女どもの仲間か!」

 

 武器も持たずに笑みを浮かべ、至って自然体で男に近寄った拓実は、青龍刀を握っているのとは逆の左手を両手で握っていた。あんまりにも邪気のない拓実に男は手を握られてようやく我に返り、現状を把握したようだった。

 

「そうだよ。えーっと、これでいいのかな? よいしょ、っと」

「は? おい、いて、ちょ、馬鹿! 何してんだこら! それ以上曲がんね、てめえ、小指離せ! いてえんだよっ! いてえって! いたいんです!」

 

 男の手を取った拓実はそのうちの小指を握りしめて、手の甲へ向けて捻り上げる。痛みに堪らず、男は青龍刀を取り落として身を仰け反らせるが、それで握られた小指が外れるわけもない。

 拓実は青龍刀を蹴って遠くへやると、男の体が傾いたところで手首を握り直し、腕ごと捻りながら足を思いっきり蹴っ飛ばした。

 

「いぎっ! くそったれ、ガキが調子に……がっ!?」

「……あれー? ごめんなさい、も一回! おかしいなぁ、こうかなぁ? えいっ!」

「げっ! おいまてクソガ、ぎゃ! こら、おい! げぎっ!?」

「よいしょ! ん~、どうしてダメなんだろ? ごめんね、も一回だけ! えと、もっかい!」

「ちょと、まて、話を……ぎぃ!? もう抵抗しな、あぐぅ!」

 

 やっ、ごん。よいしょ、ごん。えいや、ごん。どりゃ、ごん。せっ、ごん……。

 鈍い音と拓実の声が代わる代わる、何度となく響く。受身も取れずに地面へと倒れた男をしっかり無力化すべく、拓実がトンファーを袖から出して追撃を加えていた。

 拓実は、凪、真桜、沙和の少女たちと比べてもまだ非力である。それは相手をしている男にとって幸なのか不幸なのか、一撃一撃が意識を失うには弱すぎた。拓実の目標が達成されるまで何度も何度もトンファーで頭を殴られることになる。

 

「ありゃ、賊相手ながらちっとばかしムゴいなぁ」

「一回で気絶させた凪ちゃんのほうがよっぽど優しいと思うのー……」

「……可哀想に」

 

 三人が遠巻きに小声で呟いている。みんなして顔が青い。中々気絶しない男に殴打を加え続けながらも純粋に不思議そうにしている拓実。その姿を、残る一人となってしまった黄巾党の男はもちろん、仲間である凪たちも恐ろしそうに見ていた。

 

「くそ、こいつらバケモノかよ!」

「あっ? ああ! しもた! もう一人いるんを忘れとった!」

 

 恐れおののいた最後の一人は拓実たちから逃げ出した。形振りも構っていられないようで、必死な形相で道行く人を薙ぎ倒して駆けていく。

 野次馬に囲まれている為に、凪では人ごみを駆け抜けることは難しい。この中で一番に足の速く人ごみを苦にしない拓実は、今も倒れた男に向かってひたすらトンファーを振るい続けている。凪たち三人が慌てて駆け出すも、既に通行人の中に紛れて姿が見えなくなっていた。

 

「仲間を見捨てて逃げるとは見下げた奴め! とうっ!」

「ねぶらっ!?」

 

 凪の前方、人ごみの向こうに、屋根の上から白い何者かが飛び降りた。ぐしゃっ、と何かが潰れた音と男の悲鳴が遠く聞こえてくる。

 拓実もようやく地面に倒れ付している男が物言わなくなったので、何があったのかと三人に駆け寄って合流した。

 

「ふふ。この街は随分と治安がいいので出番はないものかと思っていたが、念の為に持ち歩いておいて正解だったようだな」

「何者だっ!」

 

 凪が叫ぶと、まるで図ったかのように人ごみが割れた。通行人たちが恐れおののいたように脇へ逸れていく。その先には、うつぶせに倒れた男の背に立つ白い衣装の女性の姿があった。

 

「問われてしまえば、答えねばなるまいな」

 

 朗々とした声が響いた。見れば、そこにいたのは拓実たちにも見覚えのある人物の姿。いや、以前にはなかった、ある装飾品を身につけている。その女性は凪たちへと向き直ると腕を振り上げ、それを振り下ろしてこちらへ向けると同時に高らかに告げた。

 

「弱きを助け、強きを挫く。暴力と不正が蔓延るこの乱世に舞い降りた一匹の蝶。美と正義の使者、華蝶仮面! 助けを求む声を聞き、悪を倒すべくここに推参!」

 

 計算されつくした角度、無駄に洗練された無駄のない、結果全てが無駄な動きをして女性はポーズを決めた。

 じゃきーんっ。そんな幻聴が、見る者全てに聞こえてきた。

 

「……」

 

 周囲からは音が消えた。あんなにも活気に溢れた陳留の街から、声が完全に消えていた。

 ごくり、と拓実は喉を鳴らす。目を見開いて、華蝶仮面と名乗った女性をただただ見つめている。

 

「……な、何や、けったいな仮面なんか被って、いったい何をしてるんですか? 趙雲さん」

「否! 私は華蝶仮面! 李典殿、そのような麗しい御仁などはこの華蝶仮面、存じませんな」

 

 凪は眉根を寄せながら【閻王】を握り締め、沙和は女性の顔を睨みつけている。残った真桜がにへら、と笑って声をかけるも、それは途中で遮られてしまった。

 

「いやいやー、ちっとばかし無理があるやろ。どう見たって趙……っ!?」

 

 苦笑いしつつも尚も言い募ろうとした真桜に、華蝶仮面なる女性から凄まじい威圧が放たれる。あまりに暴力的な圧力に、真桜の隣にいただけの拓実の背筋が凍る。

 その先を言おうとするならば実力行使も辞さない。有無の一切を言わせない。そんな気迫であった。

 

「す、すんません。人違いやったみたいです……」

 

 それを一身に当てられた真桜は、慌てて頭を下げていた。顔は真っ青で、心はぽっきりと折られている。

 そこで、ずずいと身を乗り出した者がいた。眼鏡に手を当てて華蝶仮面の顔を注視しているのは沙和である。

 

「趙……じゃなくて、華蝶仮面さんがつけているその仮面の縫製、見覚えがあるのー。もしかして、社錬の抜具と同じ手法じゃ」

「ほお! わかりますか! 于禁殿は素晴らしい鑑定眼を持っておられるようだ。社錬の職人に無理を言って製作をお願いしましてな。細部まで私が指示して作らせた、我ながら自慢の一品で……」

「……やっぱり。がっかりなのー。形がとてもじゃないけど今風じゃなくて、装飾もいけてないから違うんじゃないかと思ったのにー」

 

 「とんだ才能の無駄遣いなのー」そう続けていた沙和の体が、突如崩れ落ちる。仮面について上機嫌に語っていた華蝶仮面が、流れるような体捌きで沙和へと近寄ってその首筋に手刀を打ち込んだのだ。

 華蝶仮面はその後、瞬きする間に元の位置に戻り立っている。あまりの速さに周囲の通行人には白い残像が走ったようにしか見えなかったようで、何があったのかとどよめきが上がった。

 

「沙和っ!?」

「くっ! やはり、凄まじい強さだ……!」

 

 真桜が駆け寄り、地面へと倒れる直前の沙和をすんでのところで抱きとめる。相手の強さに戦慄する凪の声が、空しく響きわたった。

 

「あの……」

「む? 許定殿……いや、少女よ。先に言っておこう。悪いが何者かは答えることは出来ぬし、万が一、もし万が一だ。私の正体に気づいたとしても、それは言わぬが華というもの。ないとは思うが、もしも私の仮面にケチをつけようと思っているならば口を閉じていた方が身のためだぞ。少女であれど、于禁殿と同じ発作にあわんとも限らんからな」

 

 すっかり気分を害してしまったらしい華蝶仮面は、ぷいっとそっぽを向いた。そんな華蝶仮面へと近寄った拓実は、おもむろに彼女の右手を両手で握りしめた。その眼は憧れていた有名人に出会ったかのように爛々と輝いている。

 

「いえ、違いますってば! 華蝶仮面、すっごい格好いいです!」

「…………は?」

 

 華蝶仮面は何を言われたのか理解できなかったのか、呆然と口を開く。身構えていた凪も、沙和を抱える真桜も同じように固まっている。

 

「正体を隠して困っている人を助けるなんて、まるで物語に出てくる本当の正義の味方みたい! ボク、そういうのちっちゃいころから大好きだったんです! 名乗りもその時の動きも決まってて格好いいし、あっという間に悪党を倒しちゃうくらい強いし!」

 

 興奮のあまり華蝶仮面の手を両手で上下にぶんぶんと振っていた拓実は、ぴょんと後ろに下がるとくるりと片足ターンで一回転。

 

「えっと、『暴力と不正が蔓延るこの乱世に舞い降りた一匹の蝶! 美と正義の使者、華蝶仮面! 助けを求む声を聞き、悪を倒すべくここに推参!』でしたよね?」

 

 そうして、ばっ、ばっ、と華蝶仮面が先ほど見せた無駄に洗練された無駄のない無駄な動きを完全に再現し、拓実も高らかに名乗りを上げた。天賦とまで云われた模倣の才を、これでもかと無駄に使っている。

 じゃきーんっ。ポーズを決めた拓実を見て、周囲の通行人たちには先ほどの幻聴が再び聞こえていた。

 

「お……おお! おおおっ! そうかっ! そうだな! ああ、いやいや。確かにこの槍を振るうまでもない相手ではあったが、見れば少女も中々の手際だったぞ、うむ」

「そんなぁ! ボクなんてまだまだですよう!」

 

 全面肯定してくれる相手が現れたことで、華蝶仮面は喜びを隠しきれずに口元をにやにやとさせている。拓実は背筋を正して顔を赤らめ、えへへと笑顔を浮かべた。凪や真桜を含めた周囲の面々はまったく動けない。完全に置いてけぼりだった。

 

「はっはっはっ! 正義を愛することに加え、謙虚な心を持っているのもまた素晴らしい。少女よ。中々に見所があるぞ。あるいはこの華蝶仮面の相棒になれる素質があるやもしれんな」

「本当ですか!? やったぁ!」

「いや待て、少女よ。喜ぶのはまだ早い。……ここでは人目が多いな。楽進殿、李典殿。すまんが許定殿をしばし借り受けるぞ。華蝶仮面の名とこの槍【龍牙】に懸けて、間違いなく安全に送り届けることを約束しよう」

「あー、もう好きにしたってくださいな。夕方までにはちゃんと返してくださいよ」

「感謝しよう。では少女よ、ついてこい! 私に遅れるようであれば資格なしと見なすからな!」

「がんばります!」

 

 投げやりな真桜の言葉を聞いて、華蝶仮面は地面を踏み切ってぴょんと壁を蹴り上ると、民家の屋根の上を駆け出した。鮮やかであった。

 遅れてなるものか、と、拓実も警備隊で働いていた時よりも素早くなった身のこなしで近くの踏み台に足を掛け、ひょいひょいと屋根へと上ってその背を追いかけていった。

 

 

 「何だったんだ」「芝居だったのか?」「オチは?」周囲の通行人が不思議そうに呟いて、止めていた足を再び動かし始める。

 がやがやと、消えていた喧騒が戻ってきた。凪たちがそのまま立ち尽くしていると、倒れていた黄巾の男たちを警備隊が引き取りに来たようだ。するともう、気絶している沙和さえを除けば、すっかりいつもの陳留である。

 そんな光景を見て、肩の荷がようやく下りてくれたようなそんな心地で真桜が首を鳴らしていると、凪が拓実たち二人が消えていった方を見やって顔を強張らせているのに気がついた。何をそんなに緊張しているのかと首を傾げる真桜へ、凪は酷く真剣に問いかける。

 

「【龍牙】……私はあの武器をどこかで見たような気がする。なぁ、真桜。華蝶仮面の正体を知っているような口振りだったが、あれはいったい何者なんだ? 名乗ってもいない私たちの名を、何故なのか華蝶仮面は呼んでいた。どうやら私たちを知っていたようだったが……」

「凪……あんたもか……」

 

 その言葉を聞いた真桜は、思わず指でこめかみを押さえていた。気のせいじゃない。なんだか本当に頭が痛いのである。

 蝶の仮面を被った趙雲は元より、あれほどの威圧感を放つ相手がこだわっていた物を何の躊躇いなくこき下ろした沙和。あろうことかその珍妙な仮装を格好いいなどと言い出した拓実。

 マトモなのは自分と凪だけかと肩を落としていた真桜は、唯一の味方にも裏切られた気持ちになってうな垂れる。

 

「……とりあえず、どっか店に入ろか。そこで話したるから」

「おい、真桜っ! あっ……その、沙和を置いてくな」

 

 ふらり、と真桜は立ち上がり、夢遊病者のように歩き出す。強い風が吹けば、そのまま倒れてしまいそうだ。

 真桜に抱えられていた沙和が無造作に地面に転がったのを見て(とが)めようとするも、凪はその尋常ではない真桜の様子を見て言葉を濁した。

 

「凪、あんたが運んだってや。うちなぁ、もう疲れたわ」

「あ、ああ。わかった」

 

 真桜が何故こんなにもやさぐれているのかがわからず、凪はただその言葉に頷くことしか出来なかった。

 

 

 


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