影武者華琳様   作:柚子餅

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21.『拓実、天の御遣いと邂逅するのこと』

 

 陳留を出発してからおおよそ二時間。馬に跨り引きつった顔つきで前方を睨み付けている自身の将の姿に、周囲の歩兵たちは戸惑いを隠せないでいた。

 いつも元気に話しかけてくる口は横一の字に結ばれて、楽々としていた表情はなく真剣そのもの。それでいてまったく気を緩めようとしない。そんならしからぬ態度を取って部下を動揺させるという、人を率いる立場の者としてやってはならないことを行っているのは、許定の姿をした拓実であった。

 

 遠征に向かう曹操軍。その中ほどに位置しているのが元大梁義勇軍と本隊正規兵が混在している五百の隊である。その内の百が拓実に割り振られた兵たちなのだが、その兵たちは自分たちの将である拓実についてのほとんどを知らずにいたのだった。

 凪の補佐として任官した拓実は時には兵を率いて指揮する為、真桜や沙和と同じく隊長格となっている。元より大梁義勇軍の兵たちは凪、真桜、沙和の少女に率いられていたので耐性があったが、その三人よりも尚若く見える拓実は下手をすれば幼いとも取られかねない。

 親衛隊所属の季衣の姉であり、最近までは警備隊として街を走り回っていたこと。また噂によれば曹操軍の重鎮らと懇意にしており、華琳直属の部下という立場で軍議にも呼ばれるらしいこと。反して、部隊指揮している時のともかく元気であり、物怖じせず人に話しかけては明け透けに振舞い、あちらこちらへと駆け回っている無邪気な姿と、知られていることなどはその程度である。

 腹芸をするような人柄ではなく、なのに本来関わりのなさそうな軍の中核の人物たちに重用されている少女。華琳に閨の相手として気に入られているのかと思えば、普段の初心な態度からそういった訳でもなさそうである。一週間と付き合いが浅いということもあるが、どうも周囲は許定という人物を掴みかねていた。

 それ故に今の態度がどういった心境から来ているものか、兵たちには察することができない。憶測が憶測を呼び、困惑するばかりである。拓実の周囲では今も、喧々囂々(けんけんごうごう)とした言い合いが続いている。

 

「すげぇ、馬に乗って前方を見つめたまま微動だにしてないぞ。まるでお人形さんみたいだ。はぁ……、はぁ……」

「な、なんか怖いぞ、お前」

「いやまて、そういえば許隊長は前回の討伐、参加していないらしいじゃないか。初陣に緊張しているんだろう。ならば今こそ俺の名を印象付ける絶好の機会! 安心してください! 許隊長はこの俺、王忠が我が身に代えてでもお守りしますから!」

「てめえばかりにいい格好させるかってんだ! 隊長! 俺、すげぇ頑張ります! だから、敵将討ち取れたら食事付き合ってください!」

「おまえこそどさくさに紛れて何ほざいてんだコラァ!!」

「いやいや、隊長は空腹になると機嫌が悪くなるからな。昼前だがもうお腹が減っているのかもしれない。おーい誰か、食べ物持ち込んでるやつはいないかー。今なら隊長に貢げるぞー」

「俺、生の豆腐なら持ってる」

「なんで遠征に生の豆腐を……」

「こんなこともあろうかと昨日のうちに隊長の好きなお菓子を買っておいたぜ! 抜かりはない!」

「くくく……(それは自己紹介の時の話だろうに。最近はこの揚げ饅頭がお気に入りだってのにな!)」

 

 ……といった具合に、ともかく、兵たちには判断がつかないでいたのである。ちなみに当事者の拓実は周囲の喧騒に耳を貸すだけの余裕もないらしく、馬の背で固まり、前方を見つめたままである。

 実際のところ拓実は初陣となるこの遠征に参加したためにがちがちになっているわけでも、お腹が減って不機嫌になっている訳でもなかった。もちろん初の実戦に緊張している部分もあるが、それよりも初の長時間の乗馬に、落ちないよう、慌てないよう必死に集中して馬を制御しているのだ。この一週間、華琳の筆跡を真似ながらも暇を見つけては乗馬訓練は続けていた。しかし今回は途中で休憩を挟むとはいえ目的地まで一日ほどは乗り続けなければならないのだ。

 初めての部下たちの手前、何もない平坦な道で無様に落馬するわけにはいかない。元よりないだろう自身の威厳を、更にマイナスにまで落としたくはない。立ち振る舞いばかりを気にするのもどうかと思うけれども、初の部隊指揮なのだからしっかり隊長をやりたいとも思う。

 ただ、こんなに気負っていては数時間ともたないことは本人も薄々気づいている。それでも、初めてのことで体が強張ってしまうのはどうしようもないのだ。拓実はいっそ、この時点で馬を下りて歩いたほうがよかっただろう。この意地のような頑張りが、余計に情けない結果を生み出すことになるのである。

 

 それから僅か一時間後、拓実は一度目の休憩を待たずして音を上げていた。案の定というか、全身に無駄な力が入りすぎていた為に疲弊してしまったのだった。

 しかも体が硬直してしまい、一人では降りるに降りられぬこの状況。拓実はすぐ側の兵に体を抱え上げてもらって密かに下馬したのだが、もちろんそれが見つからぬ筈もなく、周囲からは心配そうに気遣う声が投げかけられる。

 対して「じっとしたまま動けないのが面白くない」「降ろしてもらったのは足が届かないから」といった言い訳を部下たちにしていたが、果たしてそれをどれだけが信じていることか。実際、何人かには笑われてしまっている。ただ、見下したようなものとは違って、微笑ましく見守られているのがまだ救いだろうか。

 ともかく今は馬から下り、手綱を引いて歩兵たちと一緒に歩いていた。疲労は残っているものの、周囲との会話で過度の緊張は取れ、強張っていた顔も今は笑顔が浮かぶこともある。

 

 

 途中で何度かの休息を取り、日が暮れ始めたころ。今回は特別に急ぎというわけでもないために余力を残して進んでいた一行は、ようやく州境に差し掛かった。拓実はそれまで馬に乗ったり、降りて歩いたりを繰り返していたが、今はまた馬に乗っている。流石に力の抜き方を思い出したのか、騎乗していてもリラックスした様子である。

 

 さて、これから入るのは、華琳治める(エン)州の北部に位置する、袁紹治める()州の地である。

 各地からの報告によると暴れていた黄布の賊徒たちが続々と冀州に集まりつつあるらしい。一週間前の討伐で敗れた(エン)州の黄布の賊徒たちも散り散りに逃げ延びた後、場所を変え再集結しているようだ。今までにない規模の集団となるのは想像に難くない上、その領地を守る袁紹は各地で頻発している賊らの対処に追われて対応が後手に回っているとのことである。

 冀州は首都洛陽からそう離れた土地ではない。このまま数が膨れ上がれば、暴走し洛陽まで攻め入ってくることも考えられる。近年大将軍へ昇進したらしい何進もその報告を聞いてあまりの賊の数の多さに危機感を覚えたようで、いくつかの周辺諸侯に討伐隊を組ませて冀州へと向かわせている。最近の活躍目覚しく、何進との面識がある華琳にもまた声がかかり、その繋がりから今回参陣することとなったのだった。

 

 既に冀州では幾度か黄布軍との戦端が開かれているようである。数が数だけに追い払うだけに留まり、そうしているうちに日に日にその規模が大きくなっているとの報告が入っている。

 その情報を手に入れておいて、馬鹿正直に言われたままの戦をする華琳ではない。事前に桂花に黄布の賊の拠点を調べさせ、主戦場には向かわずに拠点を叩いて回る方針を採ったのである。

 

 

 無事に冀州へ入った後、数里を進むと完全に日が暮れた。そこで陣を張って夜を明かし、明朝の本陣。黄布の賊徒の拠点制圧に当たり、各将が本陣へと集められていたのだが、そこに細作より前方数里のところで戦闘中との情報が届いた。

 勅命の為に、場合によっては援軍として詰めねばならないと目視できる地点まで接近した全軍は、そこで停止した。手助けの必要がないとわかったからだ。

 見れば、窪地にて接敵数を絞って、出てきた小数を各個撃破。黄布一人に対して、二人三人で当たれば例え兵の質が劣っていたとしても負けはないだろう。戦闘している軍の装備は貧相なものだが、所詮農民上がりの黄布の賊相手であればそれも勝る。数の上では同程度であるが、戦況は圧倒的である。

 

「さて、どうやら私たちの他にも少しは頭が回る者がいるようね……」

 

 目前の戦闘を眺めて呟く華琳。その横で、簡易卓上に地図を広げた桂花が口を開く。

 

「はい。主戦場を離れてこの深い位置で軍を動かすのは、敵方の兵站の妨害意図を持ち、また糧食が納められている拠点位置をある程度把握していなければありえないことです。また彼の軍の理に適った兵の配置を考えるに、軍略を修めた者が彼の軍に参加していることが伺えます。死体、足跡の続きから見て、あちらの討伐軍が干上がった川の跡に賊らを誘い込んだと見るべきかと」

「そうね……見るところ、黄布の賊らよりも率いている兵はやや少ない。いえ、この戦況を見るに当初は二分の一ほどの兵数というところか」

 

 華琳の言葉に、拓実は同意を示すようにこくこくと頷いた。確かに、まさに破竹の勢いで賊徒を殲滅していく様を見れば、戦端を開いた際は今以上に兵数差があっただろうことが拓実にもわかる。

 

「しかし、いかんせん鎧にしても武器にしても装備が貧弱。どうやら義勇軍のようですな。まぁ、我らの足元にも及ばずながら統率は取れているようなので、錬度は義勇兵にしてはそう悪くはないようですが」

「いや、姉者よ。ここはその装備と錬度を以って二倍を超える敵を打ち払ったところを見るべきではないか。おそらくは、よほどの智謀の士がついているのだろう」

 

 からからと笑う春蘭。義勇軍を見くびる彼女に声をかけたのは華琳の側で控えている秋蘭だ。

 

「ふむ……だとするならばこのような寡兵を率いさせるだけではせっかくの才を腐らせておくようなものね」

 

 出てきた意見を一通り聞いた華琳は口の端を吊り上げた。隠し切れない愉悦の色。拓実が何度となく見た、才あるものを見つけたときに浮かぶ笑みである。

 

「誰か! 至急、前方の軍の旗印を確認なさい。加えて、もうすぐ戦闘が終わるでしょうから、中央からの派兵とでも伝えて相手方の盟主に面会を申し出るように」

「はっ!」

 

 華琳に言いつけられた伝令兵が礼を取り、陣外へと駆けて行く。姿が見えなくなる前に、華琳は立ち上がる。

 

「それではあちらの陣へ向かうわよ。春蘭、秋蘭、それに桂花。あとはそうね……拓実、ついてきなさい。残った将は兵に小休止を与えなさい。戻ってきたら進軍を開始するから、気は緩めないようにと言い伝えること」

『はっ』

「は、はいっ」

 

 面会の是非が返るどころか伝令兵が発ったばかりである。返答があるまでは休憩かと気を緩めかけていた拓実は慌てて気を入れ直し、率先して退陣していく華琳の後ろに夏侯姉妹、桂花と共に続いた。

 

 

 華琳たちの馬の用意が終わる頃には戦闘も終わったようである。どうやら『劉』の旗を持つ軍勢は敵を蹴散らし、黄布の賊徒が敷いていた陣地に乗り込んだらしい。そこに向かって、夏侯姉妹を先頭に馬を歩かせる。

 大陸は土地が広大な為か、見渡す限りの平原が続いている。拓実たちが向かっている劉軍の陣営地はまだ遠いが、戦後の処理を考えれば丁度あちら方が落ち着いた頃に到着するだろう。

 

「拓実」

「あ、はいっ。なんですか、華琳さま?」

 

 己の武を振るえる機会が嬉しいのか、なんだかんだと上機嫌に秋蘭に話し掛ける春蘭の姿を前方に、華琳が囁くように拓実の名を呼んだ。わざわざ声を抑えたということはあまり周囲に聞かせる話でもないのだろう、拓実はぎこちなく手綱を引いて、華琳の横に並んだ。

 

「……いい機会だから話しておきましょうか。あなたも知っている通り、私は才ある者に執着する気質を持っているらしいわ」

「はぁ……」

 

 華琳は「拓実もその一人だものね」と続けて、くすりと微笑む。いきなり何の話なのか、拓実はきょとんとした顔で僅かに首を傾げて見せた。

 

「これから会う人物も、この私が欲するほどの才を持つならば、あわよくば楽進らのように我らの傘下に加えようと考えているわ。けれど、私と異なる思想を持っていればそれも叶わないでしょう。それは我らの覇道と重ならぬ天命であるのだから、致し方のないこと。そうでしょう?」

 

 いきなり自身の思惑を話し始めた華琳。拓実は問いかけられて、戸惑いながらもこくり、と一つ頷く。それを見た華琳は満足そうに目を細め、更に言葉を紡ぎ始める。

 

「そうなっては、私としてはそれ以上どうしようもないわ。余程の才であるなら執着することもあるでしょうけど、どれだけ欲しても私に下ろうとしない者がいるのはどうしようもない。けれども拓実、あなたに限って言えばそれは関係がない。あなたの最大の武器は他人になりきってしまえる演技力であり、その大本となっているのは、短期間で相手の思考の組み立てを読み取れるほどの心理把握術。相手が望む望まないに関わらず、相手を自分のものにしてしまえる」

「え? えっと」

「これから各地で転戦する私たちは、多くの豪傑と会うことになるでしょう。また、様々な賢人と弁を交わす場が出て来るようになる。拓実、あなたは今後会うことになるそれらの人物、その全てを観察なさい。そして、出来る限り思想や考え方、性格を自身に写し取るのよ。様々な考え方や性格、性質を収集しておけば、それは後々私たちの――そして何よりあなたの力となる筈よ」

「は、はい。あ、それじゃ今回ボクを連れてきたのも……」

「そういうことね」

 

 拓実の顔にはようやく理解の色が浮かんだ。今しがたまで、明らかに自身より腕が立つ季衣や凪を陣に残して、わざわざ拓実を連れてきた理由がわからなかったのだ。

 

「まぁ、それが十二分に役に立つ場面は、その人物が敵方に回ってしまった場合でしょうけれどもね」

 

 そんな疑問に対する答えを得られた喜びからか、拓実は続く華琳の呟きを聞き逃してしまう。

 

「……? あ、ごめんなさい華琳さま。ちょっと聞き逃しちゃいました」

「大したことではないわ。それより、もう着くわよ。ついてきなさい」

 

 華琳は馬の腹を蹴った。華琳の愛馬である絶影は嘶き、地を高らかに駆ける。戸惑う拓実を置いた華琳は春蘭や秋蘭を引きつれて、劉と十文字の旗が並び掲げられた陣に馬を走らせた。

 

 

 面会を求めて訪れていた伝令兵と近衛に馬を預け、華琳はまるでここが自陣であるかのように颯爽と歩みを進めていく。そんな彼女を護らんと春蘭と秋蘭は周囲を警戒し、睨み付けている。拓実は華琳の後ろを護るようにと春蘭に命じられていたが、前二人の威圧に萎縮する兵を見れば過度に警戒する必要は覚えなかった。

 陣にはもちろん劉軍の見張りの兵がいるのだが、華琳の覇王としての風格、また春蘭や秋蘭に威圧されて制止もままならず、その声も尻つぼみになってしまう。普段護衛している親衛隊ですら華琳の前では緊張に固まってしまうのだから、農民上がりの義勇兵では仕方がないといえるのかもしれない。

 

 華琳は結局一度も立ち止まることなく、またその道を塞がれることなく劉軍の本陣へと辿り着いた。どうやらその本陣では先ほど華琳から発された面会要請についてを話していたらしく、面会許可を言いつけられた兵がこちらへと駆けようとしている所である。そして、内部での話はその相手である曹操がどういった人物であるかへと移り変わっていた。

 

「能力、器量、兵力、そして財力。また、有能な人材も集まっていると聞きます。今この大陸の諸侯の中で誰よりも、必要なものの多くを揃えている人かもしれません」

「ほわぁ、なにその完璧超人さん」

 

 立ち聞きをするつもりはなかったが、中の会話が聞こえてきてしまった。しかし、やはり華琳の名は大陸に広まっているらしく、聞こえてくる声のほとんどはその能力や人柄を称えるものだ。拓実は自身が褒められたわけでもないのに、内心で誇らしい気持ちになっていた。

 

「そうですね、他にわかっていることといえば、自身にも他者にも、誇りを求めるということ」

「誇りかぁ。その曹操さんの誇りってどういう?」

 

 自身の噂をしているというのに華琳は足を止めず、入陣していく。見れば、そこには少女ばかり。桃色の髪の少女が思わず聞き返しただろうその疑問に、華琳は笑みを浮かべた。

 

「誇りとは、天へと示す己の存在意義。人は何かをなす為にこの世に生を受ける、大小はあれど己に課せられたそれを見定めることができるのかどうか。それが出来ぬ者など、いくら能力を持っていようが人間としては下も下。愚昧もいいところ。そのような者は我が覇道には必要がない、ということよ」

「誰だ貴様は!?」

 

 進み出る華琳に、艶やかな黒髪の女性が偃月刀を構え、華琳から桃色の髪の少女を庇う様に立ちふさがる。

 

「控えろ下郎! この御方こそ我らが盟主、曹孟徳さまであられるぞ!」

 

 この陣にて初めて現れた華琳の進む道を防ぐ者に、春蘭が一喝する。しかしそれにひるむ様子はない。

 びりびりと場の空気がせめぎ合う。この威圧にも一歩も退かぬこの黒髪の女性は、春蘭に匹敵するほどの武芸者なのだろう。

 

「い、今呼びに行ってもらったばっかりなのに、もう?」

「会うとわかっている相手の判断を待つこともないでしょう。寡兵を率いてあれほどの采配を振るえる者が、付近にいた我らを捕捉していない筈もないでしょうしね。そんな目端が利く者が、官軍を名乗る大軍の面会要請を退ける愚は犯すまいと思っただけよ」

「はぁ……」

「さて、それでは改めて名乗らせていただきましょうか。我が名は曹操。現在は官軍の要請で黄布の賊徒を相手に転戦している者よ」

「あ、こんにちは。私は劉備っていいます。私たちも黄巾党がここ冀州に集まっているって聞いて、何かの力になれればと思って」

 

 その自己紹介に、拓実はまじまじと名乗った少女を見つめていた。桃色の髪。温和そうな顔つき。人がよさそうな、そしてやや抜けていそうな話し振り。先の華琳の言葉もあり、癖一つ見逃さないつもりで観察している。

 劉備――多少歴史を習っていれば、今更説明するまでもないだろう有名人だ。曹操が三国志の主役の一人だとすれば、劉備の役割もまた主役。何せ、後に魏の曹操や呉の孫権を相手に、大陸の覇権を争う蜀の皇帝である。そして、拓実にとっても最大の敵といっていい。華琳の下で大陸統一を目指す拓実にとっては、大きな壁である。果たしてこの歴史とは違う世界であっても劉備と争うことになるかはわからないが、その可能性はかなり大きいだろう。

 

「そう、劉備……いい名ね。ところでその黄巾党というのは?」

「あの、それはご主人様が……」

「ご主人様?」

「それ、俺のこと。北郷一刀っていうんだ。よろしく。あいつら、揃ったように黄色の布を巻いているから黄巾党って呼んでいるんだ。何らかの呼称は必要だと思ってさ」

 

 劉備を密かに注視していた拓実は、そこで初めてぽつんと一人、異様な風体の男が混ざっていたことに気がつく。

 こげ茶の長めの髪に170半ばから後半ぐらいの身長。一見して華奢な優男に見えるが、そこそこ鍛えられている様子はある。これだけならば凡庸な男だが、何より目を惹くのがその衣服だ。陽光を反射して輝く、化学繊維で出来た生地。この世界ではお目にかかったのことのない、そして数ヶ月前までは拓実も着用していた、聖フランチェスカの男子学生服を着ていたのだ。

 あまりの驚きに、拓実は声も出せず口をぱくぱくとさせていた。呆然と一刀と名乗った青年を見つめることしか出来ない。

 

「北郷一刀……どこかで聞いた名ね。確か天の御遣いが現れたとかいう与太話があったけど、その者の名だったかしら」

 

 握手するつもりで伸ばした手が華琳に無視され、一刀はばつが悪そうな顔で手を戻した。

 

「いや、証拠もなにもないからさ。『天の御遣い』が本物だって言い張る気は俺にはないよ。えーっと、それより、そこの女の子は大丈夫なのか? なんか顔色が悪いみたいだけど」

「――拓実? どうしたというの?」

 

 顔を真っ青にしているのに気づいたか、一刀と呼ばれた青年は心配そうに拓実を伺う。そこで華琳も拓実の異様な様子に気づいたらしく、僅かに眉根を寄せて拓実へと声をかけた。

 

「もしかして、先輩、なの?」

 

 それらに、思わずといった風に拓実は思考を言葉にして漏らしてしまう。

 そう、確かにこの服は聖フランチェスカの制服。こんなもの、見間違えようもない。北郷一刀という名に聞き覚えも、その顔に見覚えもなかったが、周囲から若干浮いた様子、そして彼の名の付けられ方は日本のそれに酷似している。

 元の世界で行方不明になった二年の男子生徒がいたという話を聞いたことがある。当時は特に気に留めたことはなかったが、まさか拓実と同じくこの世界に飛ばされてしまっていたのだろうか。だとするなら、彼は拓実と同郷の人間である。もしかしたら、これは現代日本へ帰る重大な手がかりなのではないのか?

 

「先輩って? えっと……?」

「な、なんでもないから! 忘れて!」

「ああ、うん。まぁいいけど……。あ、曹孟徳さん聞いていいかな? この子はいったい?」

「……彼女は許定。我が軍の武官の一人よ。そうね、ついでだから紹介しておきましょうか。この二人が我が最愛の従姉妹である夏侯惇に夏侯淵。そしてこの子が我が軍の軍師、荀彧よ」

「夏侯惇に夏侯淵。そして、荀彧。そこに、許定だって? 有名どころなら許緒じゃないのか……?」

「……っ!」

 

 呆然と呟いた一刀の言葉に、拓実は彼が同郷であることに確信を持つに至った。

 名を受けた拓実だって、史実の許定が何を成した人なのかを知らない。そもそも許定という武将が史実でいたのかも拓実にはわからない。ともかく、知名度で言うなら圧倒的に許緒のほうが上なのだ。

 だが、それは現代での話。季衣の強さは本物だが、まだ何かしらの逸話を残したわけではない。そういう意味では許緒も許定も、名の通りとしては大した違いはない筈なのである。

 

「む? 何故貴様が、親衛隊にいる季衣の奴を知っているのだ?」

 

 同じことに気づいたか、春蘭が訝しげに声を上げる。

 

「――え、あ。ああ。いや、その、怪力ってことで名高いじゃないですか。許緒さんって」

 

 そんな疑問の声に、一刀は慌てて春蘭に向き直り、言葉を返した。「ほぉ、なるほどな。あれも名が知られるようになったか」などと納得した風な春蘭に胸を撫で下ろしている一刀であるが、そんな様子を観察している華琳には気づかない。

 

「そう……あながち、天の御遣いというのも間違いじゃないのかしらね」

 

 小さく呟かれた華琳の言葉を聞き届けたのは、おそらく拓実だけだっただろう。一刀の発言から、華琳はかなり深いところまでその知識の異様さを見抜いているに違いない。

 親衛隊の一員で、せいぜい領内の賊鎮圧しかしていない季衣を知る――知られる筈のないものを知っているという事実。確かに季衣のうでっぷしを見れば遠くない未来に一角の武将となる予測はつくだろうが、現時点でそれを『知って』いるのでは順序があべこべだろう。

 そんな様子に気づかず、一仕事やり終えたような顔をした一刀は華琳へと向き直っている。その時にはもう華琳の表情は先ほどまでの思案の様子を欠片も見せない、普段のすましたものに戻っていた。

 

「ところで、曹孟徳さんは俺たちにどんな用だったんだ?」

「この軍を率いていた者といくつか言を交わしにね。その戦略意図といい、ここを戦場に選んだことといい、兵の運用といいその働きは悪いものではなかったわ。それで、主と呼ばせているということは、あなたが統率者ということでいいのかしら?」

 

 問われ、間を置かずに一刀は首を横に振る。

 

「いや。俺はあくまで『天の御遣いが貧窮した民を救う為に立ち上がった』っていう風評を得るための御輿だよ。桃香――劉備たちの考えに賛同して協力はしてるけどさ。ある日突然この世界……皆が言うところの天の国からこの大陸に来てしまっただけの俺には、曹操さんや劉備みたいな立派な主義や主張はないさ。もちろん劉備たちの理想に共感して、力にはなりたいと思っているのは本心からだけど」

 

 華琳が関心を持ったように笑んだ傍ら、拓実はそれとは対照的にその発言を聞いて肩を落としている。

 どうやら一刀もまた突然この大陸に放り込まれ、劉備に用いられてこの時まで生き抜いてきたらしい。しかしどうやら何故この世界に飛ばされてしまったのか、その原因となるものはわかってはいないのだろう。あわよくば現状把握が一歩進むかもしれないと考えていた拓実の落胆は小さくなかった。

 

「そう、やはり本当に兵を率いていたのは劉備ということ。問いましょう。劉備、あなたはこの混沌とした大陸に何を求めているのかを」

 

 問いかけられ、劉備の顔が引き締まる。華琳の様子から不誠実に答えていいものではないと察したようだ。

 

「私は、みんなが苦しまず、笑顔で過ごせる平和な世にしたい。その為に、私たちは戦っています」

「それがあなたの理想なのね」

「はいっ、誰にも負けません!」

「そう」

 

 言って、華琳はしばらく口を閉じた。劉備の発言を吟味するように目を瞑り、数秒。

 

「……なればこそ劉備、私たちに協力なさい。その理想を実現させるには、今のあなたたちでは力が足りていない。我ら単独でも鎮圧は可能だけれど、あなたたちが助力すれば乱を治めるのはより短期間で済む。それはあなたたちにとっても望むところでしょう?」

「あ、う。でも……」

 

 思わず返事をしてしまいそうになったところで踏みとどまり、劉備は一刀を見た。不安げに、どこか縋るように見つめられた一刀はこくりと頷く。

 

「ここは受けよう、桃香。俺たちだけじゃ力が足りないのは確かなんだ。こうしている間にも誰かが犠牲になっているのに、形振りなんて構ってちゃいけないと思う」

「……うん、そうだよね! 曹操さん、私たちでよければ協力させてもらいます」

 

 一刀の賛同を得られて途端に明るくなった劉備の返答に、華琳はにっこりと笑った。

 

「では、協力して事に当たるということでいいわね? 共同作戦については軍師を遣わせましょう。とりあえずは事前に予定していた攻略拠点があるから、まずそこへ向かうわ。劉備、あなたたちは私たちに続きなさい」

 

 話は終わったとばかりに背を向ける華琳。その行動と指示の早さに、一拍遅れて周囲が動き出した。

 

「桂花、劉備とのやり取りはあなたに任せるわね。秋蘭はすぐに本隊に進軍するよう伝令を飛ばしなさい」

「はいっ」

「はっ!」

 

 桂花は何人かの兵を連れて劉備軍の陣に引き返し、秋蘭は陣外へと駆けていった。

 

「私たちは本陣へ戻るわよ。春蘭、先導なさい。拓実は遅れずについてくること」

「お任せください、華琳さま!」

「わかりました!」

 

 拓実は出来ることなら一刀と二人きりで話したかったのだが、頭を振ってその誘惑を振り切る。

 彼と話すことはいくらでもあった。突然戦乱の世に落とされた不安や、今後の展望、歴史との違いに対する疑問など、拓実のぐちゃぐちゃな気持ちを本当に理解してくれるのはきっと北郷一刀しかいないのだ。同じ境遇の人間がいないのなら誰にも語ることなく心のうちに秘めておいただろう。けれど、いるとわかってしまえば湧き上がってくる気持ちを無視できそうにはない。

 しかし、それはきっと今すべきことではない。共同戦線を張るのならいずれ落ち着いて言葉を交わす機会もある筈だ。思い直した拓実は疼く胸を手で押さえて最後に振り返り、一際目立つ青年を見つめる。いつかあるだろう語り合いを想い、期待で顔が上気していた。名残惜しそうに目線を切って物憂げにため息をついた後、颯爽と歩いていく華琳に遅れないよう拓実はその背中を追いかけていく。

 

 そんな拓実のことを、偃月刀を握る黒髪の女性が焦った顔で見つめていた。

 

 


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