影武者華琳様   作:柚子餅

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19.『許定、許緒と共に証言するのこと』

 

 食事を終えた季衣と拓実はじゃれ合いを止めて定食屋を出た。外に出て見上げてみれば西の空では太陽が沈みきろうとしていた。

 日が完全に暮れてしまえば後は休息の時間。残すは夕飯を済ませて寝るか酒屋で呑むかするだけなものだから、仕事を終えた街の人たちも家路を急いでいる。そんな中を進んでいく拓実は防犯灯となる篝火(かがりび)を準備している警備兵たちや、知り合いの町民たちを見かけては手を振って声を掛けて挨拶していく。

 

「~~♪ ~♪」

 

 何人かと挨拶を交わして表通りに出た二人が城の入り口に向かっていると、明るい歌声が拓実へと届く。拓実は改めて目の前の小さな背中を見た。

 足取り軽く歩いているのは季衣。少し調子を外しながらも元気に歌を歌っている。見る限りでは普段よりも機嫌が良いのかもしれない。先ほどまでの沈んだ様子と比べれば一目瞭然である。

 少なくとも彼女の悩み事は納得できるところまで落ち着いたようだ。拓実は思ったことを好き勝手に言っただけだったが、何を言ったかなんてことは関係なく季衣は誰かに話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。

 それでも季衣の力になれていたことに拓実は胸を撫で下ろしていた。華琳や春蘭、秋蘭、桂花も同じく思っているだろうが、拓実もまた元気いっぱいの季衣が好きなのである。沈んだ季衣のことを何とかして励ましてやりたいと思っていたのだ。

 

 ふと、拓実は季衣とこの姿で初めて会った時のことを思い出していた。それは一週間前に春蘭と手合わせをした後のことである。

 白打での調練を終え、手合わせに使っていた剣を片付けた後、手隙となった拓実は中庭の木陰に逃れてぼんやりと空を眺めていた。久々に思いっきり体を動かした為に空腹に苛まれていたのだが、春蘭にぼこぼこにされてしばらくの間は動くのも億劫であった。

 木の幹に背を預けてそのままでいると、疲労もあって瞼がゆっくりと落ちてくる。拓実が眠気で朦朧としながらなんとか意識を保っていると、その隣に誰かが座ったことに気がついた。ぐったりとした拓実に声を掛けてきたのは、両腕にいっぱいの団子を抱えた季衣だった。どうやらぼろぼろになっている拓実を見かけて心配してきたようだ。

 

 季衣の持っていた団子を二人で分け合い、食べながら話していると、季衣は目の前の人物が自身を模していること、また拓実であることに気づいたようだった。そうなれば早かった。荀攸としてより性格が近いためか、あっさりと季衣は許定としての拓実に懐き、時を置かずして打ち解けた。

 形式上では既に姉妹となっているとはいえ、何かしらの区切りは必要だろうと考えた季衣は、団子を分け合って食べたことを以って姉妹の契りとした。あまりに前代未聞、突飛な姉妹の契りに、季衣と拓実はお腹を抱えて笑い転げたものだ。

 

「~~♪ ~~~~♪」

 

 そんなことを思い出していた拓実。その時に見た元気な季衣が目の前に戻ってきたことを実感していた。楽しそうな歌声を聞いているうちに拓実も何だか嬉しくなってきて、思わず季衣に合わせて歌声を乗せる。

 警備として巡回している時、なんとなしに口ずさむことがあるぐらいには拓実もこの曲を気に入っている。童歌などを除けば、唯一覚えているこの時代の曲だ。

 

「わ、姉ちゃんもこの曲知ってたの?」

 

 重ねられた歌声に気づいた季衣が勢いよく振り向いた。思わぬところで嗜好を同じくする同士を見つけた喜びからか、瞳を輝かせている。拓実は笑って鼻を掻いた。

 

「うん。一週間ぐらい前にちょこっとだけ。休憩時間だけだったから聴けたの一曲だけだったけどねー」

 

 拓実がこの曲を知ったのは五日前のことで、休憩時間に警備隊への希望を町人に聞いて回っている時のことだ。中央広場を通りかかった時、ふと歌声と歓声を耳にした。

 見れば、人一人分高くなった台の上にいる少女たちが周囲からの声援を受けているところであった。歌から察するに歌劇か、それとも歌唱会か。歌か劇かの違いはあるが、久方ぶりに見る舞台に興味津々の拓実は引き寄せられるようにそこへと近寄っていった。

 向かった先には、三人組みの旅芸人だろう女の子が振り付けと一緒に歌っていた。演奏されている曲は明るくて覚えやすい。振り付けと衣装もあって、まるでアイドルグループを見ているようだった。

 意識して聴いているとその曲には以前どこかで聴いた覚えがあったものだ。そうしてよくよく見てみれば、拓実はその三人の容姿にも見覚えがある。思い返してみれば華琳たちと街に視察に来た際に見た、未来的な格好をして道端で歌っていた旅芸人たちであった。

 

 拓実は素直に驚嘆していた。少し見ぬ間に彼女たちは随分と精進したようである。現代で知られている舞台での表現技術の幾つかを、この時代の彼女たちは僅か一ヶ月ほどの間で実践に漕ぎ着けていたのだ。

 並んで立ったまま歌っていた以前とは違って、歌と一緒に踊っては道行く人の目を引き、ソロパートでは立ち位置を入れ替えて上手く印象に残るように立ち回っている。

 歌詞の合間には聴衆の熱を冷めさせないように声をかけて、場を上手く盛り上げている。振り付けにしてもリズミカルで小気味よく、見ている者たちは無意識に拍子を取るほどだ。

 どうやらそんな彼女たちの試みは上手く功を奏したようで、視察の日に見かけた時は数人が聴いているだけでそれほど人気があった様子ではなかったのだが、その日の舞台の周りには聴衆や応援者が絶えないでいたものだ。

 彼女たちの歌が山場を迎えれば、それに同調するように周りの聴衆たちの盛り上がりも最高潮となっていく。最前列の熱心な応援団からは「ほわ、ほぉぉ、ほわぁぁぁあぁああ!」と形容し難い奇声が上がっていた。

 拓実の頭の中では日本にいた国民的アイドルの熱心な追っかけと姿が重なった。その存在を知っていたから拓実にはいくらか耐性があったが、初見である周囲の町人たちは応援団のその奇妙な様相に若干距離をとっていた。それでも声が届く範囲から去る人が少なかったのは、舞台演出だけでなく彼女たちの曲自体に魅力があるからだろう。

 

 生憎、休憩が終わろうとしていた拓実は一曲だけを聴いて広場を後にしたのだが、後日町人に聞いたところその日のうちに陳留を発ってしまったらしい。実は突発での公演だったらしく、人が集まりすぎたために苦情が出て、警備から解散命令が出ていたということだ。少女達はそれをいちはやく察知し、厄介なことになる前に街を出たようである。

 旅芸人などでも普通は数日の間に渡って滞在するものだから、非番の日に改めて季衣と一緒に見に行こうかと考えていた拓実は残念に思ったものだ。ただ、どうやら彼女たちは大陸のあちこちを数日置きに巡業しているようなので、拓実はまた近くに来れば会えるだろうと次の機会を密かに楽しみにしているのである。

 

 その彼女たちが歌っていたものが、今季衣と拓実が口ずさんでいた曲である。季衣が歌っているのはこの曲のメインボーカルらしいおおらかそうな少女のパート。拓実の歌っているのは、三人の内で勝気な子が主旋律に重ねていたパートである。

 眼鏡をかけていた子のパートを歌ってくれる人がもう一人いれば完璧なのだけれど、華琳や春蘭、秋蘭、桂花がこの曲を歌ってる姿を、拓実はどうにも想像できない。

 

「ボクもこの曲、大好きなんだ! えっと、歌ってる人は……確か、張三姉妹って言ってたかな」

「へぇー、あの人たちって三人姉妹なんだぁ。知らなかったな。でも、あんまり似てなかったよね?」

「へへ、名前とかは応援団の人たちぐらいしか知らない秘密の情報なんだって。ボクも追っかけの人に聞いたんだけどね。えっとねー、姉ちゃんが歌ってたのは、二胡(にこ)を演奏しながら歌ってた張宝っていう人のところでー。ボクが歌ってたのは琵琶を弾いてた張角って人。あと一人、太鼓を叩いてたのが張梁って人だね。って、あれ? 張角……って、今日どこかで聞いた気がするんだけど、どこで聞いたっけ?」

 

 季衣が得意気に語るのを聞いていたのだが、途中から拓実は動きを停止させていた。言うまでもない、張角とは黄巾の乱を引き起こした人物の名である。それを思わぬところで聞いたものだから頭の中が真っ白になってしまっていた。

 

「あー! そうだよ! 桂花が言ってた、黄色い布を持って反乱を起こさせている人の名前じゃん! 姉ちゃん! 行くよっ!」

「えっ、え? どこに?」

 

 季衣の上げた大声に、茫然自失していた拓実がびくっと身を震わせた。慌てた様子で声を張り上げる季衣に拓実が思わず聞き返すが、季衣は答えを返す前に拓実に近寄り、その手を握る。

 

「何言ってるのさ! 華琳さまのところだよ! 姉ちゃんだってあの人たちの公演、見たんでしょ! ボクと姉ちゃんしか張角のこと知らないんだから、すぐ華琳さまに報告しなきゃ!」

「う、うん。わかった!」

 

 季衣に手を引っ張られ、今までゆっくりと向かっていた城への道を駆け出した。

 最初こそ戸惑って季衣にされるがままついていく拓実だったが、状況を飲み込むと、ぐん、と加速する。力比べはともかく、足の速さなら拓実は季衣にも負けてはいない。結構な速度で並んで走る二人の姿に、何事かと周囲は驚いた。

 

 

 

 ところどころに篝火が焚かれ、物見櫓にて兵士が控えている他は寝静まっている。そんな穏やかな陳留の街とは違い、城では慌しさを見せていた。賊討伐へと向かっていた秋蘭が帰ってきたのだ。

 朝議は既に始まっている。華琳の命を受け席を外している春蘭を除いた、主だった人物が一堂に揃っている。その中には、一応武将の一人として拓実の席も用意されていた。

 警備隊で見習いをしている許定は、本来この場に参加できるほどの立場にない。何故参加しているのかといえば、表向きは張三姉妹の目撃者としてである。もちろん実際のところは今回の軍議が今後の展望を決め兼ねないことから、いざ影武者として振舞う時のために華琳と知識を共有させるためである。目撃者でなくとも、なんやかんやと理由をつけて同席していたことだろう。

 

「――と、季衣や拓実が見たと言う、張角と思しき人物の特徴はこんなところね。それでは、秋蘭。貴女には討伐と一緒に偵察任務も任せておいたのだけれど、そちらでは何かわかったのかしら?」

 

 朝議の始まった玉座の間では、華琳が二人からの報告をまとめて場にいる全員に伝えていた。それを聞いたそれぞれの表情はいつも以上に鋭いものへ切り替わっている。その情報が真実のものならば、立て続けに起こっている反乱を根から絶つことが出来るかもしれないのだ。真偽を確かめるべく、全員の視線が報告者である秋蘭へと集まった。

 

「はっ。討伐に向かった先の村で聞き込みをしたところ、女三人組の旅芸人が立ち寄っていたという情報がありました。外見特徴は季衣や拓実が見た張角とほぼ一致しております。ほぼ間違いなく同一人物でしょう」

「そう。桂花のほうは?」

 

 落ち着いた声色で報告を上げる秋蘭。それを聞いた華琳は相槌をひとつ打ってから、控えている桂花へと顔を向けた。自然と周囲の注目も秋蘭から桂花へと移る。彼女は向けられる視線に意を介した様子を見せずに前へと進み出でて、(うやうや)しく口を開いた。

 

「二人の報告を受けてより、取り急ぎ反乱蜂起地点に調査の兵を送りました。帰ってきた兵の報告では、どの場所でも三人姉妹の旅芸人が立ち寄っていた模様です。遠方地へ送った兵は帰ってきてはいませんが、それらも明日には揃うことでしょう。しかし帰ってきた多くの兵が同様の報告をしていることから、おそらくはそちらも……」

「どうやら間違いはなさそうね」

 

 朝議の参加者たちから「おお」とどよめきが上がった。首謀者を覆い隠していた靄が少しだけ薄れて、皆の表情に若干喜色が混ざる。

 今まで一切の詳細がわからなかった張角に、少なくない者が不安を覚えていたのだ。連日起きる反乱を討伐して回り、それでも一向にその原因が見えずにいた。それぞれが暗中模索していた思いだったのだろう。

 

首魁(しゅかい)は旅芸人……一体何の目的を持って民を扇動しているというのか」

 

 周囲の気持ちが上向きになっている中、華琳は視線を鋭くしたままである。そんな考える様子を見せていた華琳だったが、すぐに頭を振って天を仰いだ。如何に華琳といえども、その三姉妹についての情報が不足していてはどうしようもない。ついと目撃者である二人を見やった。

 

「季衣。張角と姉妹だという他の二人についてあなたが知っていることを、何でもいいから話してごらんなさい」

「あ、はい」

 

 言われ、顎に指を当てた季衣はぼんやりと宙を眺める。そんな季衣に、ざわめいていた参加者たちの視線が集まった。

 

「えっとですね、三人は周りの人たちから張三姉妹って呼ばれてるみたいです。張角が一番年上で、真ん中が張宝、張梁って人が一番下です。歌とか踊りとかで観ている人からお金をもらってて、応援している人はけっこういるみたいです。北西の村でたまたま見かけたときも、始まったばかりなのに百人ぐらいが集まってました。あと、あんまりひとつのところにはいないらしくて、色んなところに行って公演してるって応援団の人が言ってました。ボクが知ってるのはこれぐらいです」

 

 ふむ、と華琳は頷く。聞くべきところはあったらしく、情報を頭の中で吟味しているようだ。そうしてしばらくの間の後、今度は拓実へと顔を向ける。先ほどまでざわついていた武将たちはいまや音をひとつも漏らさず静まり返って、神妙な顔をして話し込む華琳を見つめている。

 

「それで、拓実はどう? 何か気がついたことはあるかしら?」

「んーと、そうですね。ボクが知っていることってあんまりないんですけど。舞台の上で話していた感じだと張角はのんびり明るい感じの人で、張宝は勝気でちょっとせかせかしてたかなぁ。張梁って人はいまいちわかりにくいですけど、頭がいい人だと思います。一月ぐらい前に陳留でも公演をしていたみたいだけど、その時は聴いてる人もあんまりいなかったです。たぶん、こんなに人気が出たのって最近になってからだと思うんですけど、季衣と違って話してるところと歌っているところをちょっと聞いただけだったから、あとはどんな格好をしているかとか弾いていた楽器ぐらいしかわかんないです」

 

 話し言葉やその言葉回しからは性格や知性が垣間見える。彼女たちの言葉回しを拓実が今まで生きてきて出会った者に当て嵌めてみると、同系統の人間が浮かび上がってくる。

 拓実のこの推察に論拠となるものはなかったが、人間観察してきた経験から当たらずとも遠からずというところだろう。

 

「あっ、ただ……」

「……ただ?」

「何で悪いことをしてるのかとかはわからないんですけど、でも、三人が心の底から公演を楽しんでいたのは本当のことだとボクは感じました」

 

 それだけに、彼女が彼の張角であると聞いてから拓実は人知れず戸惑っていた。そしてずっと考えていたのだ。彼女たちのあの舞台は、本物だったのかどうかを。

 そうして考えた末に出た結論が、拓実の今の発言である。歌っている三人は、好きなことをしている人特有の生き生きとした表情を浮かべていた。人を集めるための手段として作った笑顔とは違う、心からのものであると確信に至った。観ていたのは僅か五分ほどだったが、その時の様子を拓実が未だに覚えていられるのは、夢を叶えようとする三人の笑顔が印象深かったからだ。そんな人たちが民を扇動し、反乱を起こしているという。戸惑っていたというのも、公演の時に感じた彼女たちの印象と、起こしている騒動が繋がらずにいたのである。

 

「……」

 

 華琳は拓実を無言で見つめる。拓実もまた華琳を真っ向から見つめ返した。そうして数秒が経ち、華琳が根負けしたように目を瞑って、深く息を吐いた。

 

「そう、なるほどね。拓実が言いたいことはわかった。いいでしょう。それも張角を捕らえてみればわかることよ」

 

 周囲を見回した華琳は言葉を繋げる。

 

「都では黄布を持つ暴徒を鎮圧する正式な軍令が告達される動きがあるわ。これが成れば、晴れて大軍を派兵する名分を得ることになる。また、季衣の証言で賊徒の首魁についても目星はついた。我が軍は以後、賊徒を鎮圧する為に動くこととなるでしょう。既に春蘭には出兵の準備を任せて……」

「華琳さま、失礼いたします!」

 

 扉が開け放たれる。そこに急ぎ駆けてきたのは、その準備を任されている筈の春蘭であった。

 

「……春蘭? いったいどうしたというの」

「桂花が各地に送った兵より、賊徒蜂起の報告が。南西の村にて今までにない規模で展開しているようです。確認できるだけでも三千。現在も数を増やしております」

 

 華琳の前に跪いた春蘭は、右手で作った拳を左の手の平で覆い隠した礼――包拳礼を取る。本来ならばそこに至るまでいくつも手順があるのだが、それを取るだけの時間も惜しいのだろう。危急の時ということで華琳に春蘭を咎める様子はない。

 

「三千……確かに今までの数百名ほどとは桁が違う。それだけの数、複数の集団が合流したと見るべきか……となると、指揮する者がいるわね。どちらにせよ、我らは後手に回ったのは間違いない。それで、直ぐに出せる部隊は? また、全兵力を当てるとするならどれほどかかるかしら」

「は、直ぐに出立できるのは当直の兵に、物資確認を任せた部隊がおります。合わせて七百ほどかと。他の兵は既に休ませている上、兵糧がまだ届いておりません。午前中を予定していた物資運搬を現在急がせております。全兵力が準備を終え、出立するのは日が完全に出てからに……」

 

 春蘭の報告に、玉座の間は一時騒がしくなる。武将たちの間で口々にどうすべきかと声が上がった。準備が整うまで待つのか、それとも寡兵を以って討伐に当たるのか。

 いくら相手が百姓上がりの盗賊集団とはいえ、三千に対しての七百では多勢に無勢というもの。かといって朝まで待てば村人たちの被害は甚大なものとなろう。民たちを思えば今すぐ出るべきであるが、それで殲滅されてしまっては元も子もない。

 

「華琳さま! ボクが出ますっ!」

 

 事が事だけに意見は統一されない。そんな中、張り詰めた少女の声が響いた。どうしたものかと紛糾していた武将たちは口を閉ざして声の主を見やる。

 

「季衣! お前は休んでおけと言われていただろう!」

 

 手を高く挙げ、発言をしたのは季衣であった。華琳は黙したまま、じっと季衣を見つめている。言葉を発しない主の代わりに、春蘭がいきり立つ季衣を諌めた。常人が聞けば(おのの)くだろう声を受けても、季衣が怯むことはなかった。

 

「大丈夫です! 夜までのんびりしてましたから、もう元気いっぱいです! 華琳さまだって、ボクにはこういう時にがんばってもらうって言ってたじゃないですか! それに、百人の民を見捨てたりはしないって! だったら!」

 

 季衣は声を荒げながらも、揺らがせることなく華琳を見つめ返している。そうして幾ばくかの間を置いて、華琳がゆっくりと口を開いた。

 

「……そうね。それでは、季衣。今動ける七百をつれて先発隊として向かいなさい」

「華琳さま!」

 

 喜びに眉を開いた季衣が明るい声を上げた。

 

「季衣、先遣隊の目標は賊の殲滅ではなく民の救出と村の防衛よ。直ぐに本隊を送るから、それまで持ち堪えることを優先させるように」

「はいっ」

「秋蘭、貴女には季衣の補佐を任せるわ。帰ってきたばかりで疲労しているでしょうから、必要ということならばもう一人副将をつけることを許しましょう。その選別は秋蘭に一任するわ」

「はっ!」

「春蘭、今すぐ寝ている兵を叩き起こしなさい。兵を使って物資の運搬を急がせれば日が出る前には出立できるでしょう。桂花。蜂起地点の地図を用意し、地理を考慮に入れて本隊の進軍経路を割り出しなさい。そちらについては一任しましょう」

「承りました!」

「お任せください!」

 

 華琳より役割を指示された将らはその場に跪き、礼をとって了解の声を返していく。

 

「本隊の総指揮は私が執る! その他の者は春蘭を手伝って兵を纏めなさい! ……通達は以上、各人為すべきことを為しなさい!」

 

 最後に「応」と大音声が響くや、各々は一秒が惜しいとばかりに駆け出していく。

 

 

 あっという間に玉座の間からは人が去っていった。そうして残るのは拓実と華琳、秋蘭だけとなる。これまで軍議に参加したことのなかった拓実は慌しく動く事態に反応も出来ず、呆然と眺めていただけである。拓実が出入り口を見ながら立ち尽くしている間にも、秋蘭と華琳は話を進めている。

 

「――はい。それと華琳様。私以外に季衣につける補佐の件なのですが。やはり部隊指揮にもう一名、将を借り受けたく……」

「ああ、そうだったわね。誰を連れて行くつもり? もしかして、拓実かしら?」

 

 自分の名前が出たことで、はっと意識を取り戻す。警備に出向している拓実にはこの場にいた武将の中では唯一やることがない。しかし、見習いとはいえ武将の一人。有事となれば出動を命じられる可能性もないとはいえない。

 あまりに突然なことに拓実は戸惑っていた。今日も賊蜂起の報告が少しでも遅れて朝議中になかったならば、拓実はまた何事もなく毎日を過ごしていただろう。警備で働いて多少荒事に耐性がついているとはいえ、戦に対してはどこかで他所事のような認識をしていた。

 しかし、今回のことでそんな考えは吹き飛ばされた。拓実がたまたま関わりにならずにいただけで、こうして毎日のように起こっているのだ。

 

「そうですね。拓実を連れて行けばいい経験になるかと」

 

 どくん、と拓実の胸が一際大きく跳ねる。心臓の音が体中で反響し、煩くてしょうがない。しかし体は石になったかのようにぴくりとも動いてはくれない。

 討伐隊に随行したところで、今の自分が戦で役に立てるのだろうか。内心で自問自答を繰り返すが満足のいく答えは出てこない。

 

「ですが、今回は急を要するため李冬(りとう)を――曹洪を随伴させたく思います」

 

 李冬――拓実が華琳と手合わせをする際に武器を運んでいた、曹洪の真名である。許定としては交わしてはいないが、荀攸としては何度か顔を合わせて真名の交換を済ませている女性武将であった。

 

「わかっているわ、冗談よ。副将については承知したわ。李冬には貴女から伝えておきなさい」

「はっ。それでは失礼いたします」

 

 すっと音を立てずに退室していく秋蘭。横をすれ違う時、秋蘭は口の端を吊り上げて、拓実の肩を優しく叩いていく。

 それを拍子に、ひゅ、と空気が抜ける音をさせて、拓実は止めていた呼吸を再開させた。秋蘭に触れられるまで、拓実には息を止めていた自覚すらもなかった。

 

「拓実、あなた明日は非番だという話だったわね? こう言ってはなんだけれど、機がよかったわ。陳留守備を水夏(すいか)に任せるから、明日一日は荀攸として彼女を補佐なさい。細々とした書類の処理でも大きな助けとなるでしょう。……ああ、水夏のことは知っているわよね?」

「あ、はい。曹仁さまの真名ですよね。……でも、ボクも武将です。ついていかなくてもいいんですか?」

 

 華琳は頷いて、真剣な表情で拓実を見つめる。秋蘭の計らいで冷静さを取り戻した拓実は、佇まいを正して華琳と向き合った。

 

「今あなたが任されている任務は警備の問題点を纏めることよ。確かに拓実が討伐に参加すれば、不足を埋めることも出来るかもしれない。しかしそれでは討伐より帰還するまで警備の仕事に穴を空けてしまうでしょう。いくら有事で手が足りていないとはいえ、今いる人材だけで処理できる事態にまで強権を発動し、警備の者たちに負担を強いていては施政者として私の面目が立たないわ。けれども秋蘭の言うように、警備への出向が終わればあなたが戦場に赴くことも出てくることでしょう。それは遠いことではない。今のうちに覚悟を決めておきなさい」

「は、はいっ」

「ともかく、七日間働きづめだというのにせっかくの休みを潰してしまって悪いわね。水夏は将としては一級品なのだけれど、内政にはそれほどには強くはない。討伐に合わせて、賊徒が襲撃してこないとも限らないわ。一日とはいえ補佐があればそちらも万全となるでしょう」

「大丈夫です。街に出ておばちゃんたちに警備について聞いて回るぐらいで、他にやることもないですから」

「……はぁ。まったく、そういうところも季衣を真似ているのかしらね」

「華琳さま?」

 

 華琳のつぶやきが聞こえなかった為に拓実は聞き返したのだが、華琳には素気無く手を横に振られてしまった。わざわざ聞かせることでもないという意図のものだろう。しかしため息を吐かれるようなことなのは間違いなく、何か呆れられるようなことを言ってしまったのかと拓実は首を傾げる。

 

「まぁいいわ。それでは私が留守の間は頼んだわよ」

「任せてくださいっ! がんばります!」

 

 そんな拓実を見てもう一つ深く息を吐いた華琳は、最後に言葉をかけて玉座の間から颯爽と去っていく。拓実はそれを見送った後、守備を任されて奔走しているだろう曹仁を一刻も早く補佐すべく、私室へと着替えに走ったのだった。

 

 


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