影武者華琳様   作:柚子餅

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18.『黄巾、各地で蜂起を始めるのこと』

 

 この日も、陳留の街はちょっとした喧騒に包まれていた。駆ける者に、追う者たち。それらを察知した住民たちの小さくないざわめき。警備隊による捕り物騒ぎである。

 華琳が軍を率いて周辺の賊を軒並み討伐してからはその規範の高さが知れ渡り、しばらく街中における犯罪も減少の傾向にあった。しかしここ数日の間になって、そういった類の騒ぎがまた増え始めていた。

 それに加え、以前とは少しばかり犯人の様子もおかしい。徒党を組んで略奪を仕掛けては、街の外――おそらくはどこか特定の土地へと逃げ延びようとするのである。下手人たちを捕まえて、その真意を問い質そうにも一向に口を割る様子はない。示し合わせているのか、今ではそんな者が大多数を占めている。そんな不気味な大陸の情勢を肌で感じ取っているのか、町民たちもどこか緊張した様子で毎日を過ごしている。

 

 拓実はそういった変化が起こっている街中で、今日もあちらこちらへと駆けて回っていた。許定の仮装をした初日はいつでも笑顔でいた拓実だったが、街を走る姿からは真剣な表情を見ることが出来る。

 

「おっちゃん、予定通りそっち行くよ。気をつけてね!」

「うし、任せろ! 俺たちは道を塞ぐから、嬢ちゃんは隊長に伝令頼むぞ!」

「はーい、任されました、っと!」

 

 親と子ほどに歳の離れた兵と遠目に言葉を投げ交わした後、拓実はすぐさま地面を蹴った。通りには通行人が多いが、小柄な拓実はそれを苦にせずに掻い潜って、するすると駆け抜けていく。

 中央通りに出る辺りにたどり着くと、走っていた勢いをそのままに事前に置いておいた台を踏み切って建物の屋根へとよじ登った。建物の突起に手をかけてまるで(ましら)のようにひょいひょいと上り切ると、今度はそこから小型の物見櫓(ものみやぐら)へと飛び移り、間髪置かずに周囲を見渡す。

 

「あっ、隊長ー! 乙組の前方封鎖、間に合いそうですー!」

 

 ざわつく街中、道行く人に声をかける売り子。その中から捜していた相手を見つけるや、拓実はそちらへと向かって大声を張り上げる。

 驚いた通行人からの視線が一斉に櫓の上へと集まる。どういった技術によるものなのか、その声はがやがやとうるさい街中でも遠く響いた。

 

「お前ら、聞いたかぁ! 丙組は甲組に合流しろぉ! このまま一気に前後から押さえ込むぞォッ!」

「おうっ!」

 

 大通りから小道へと走っていた警備隊長の声に従い、各方向へと散開して逃走経路を誘導していた警備兵が合流し一塊となって進行していく。それを見届けると拓実は物見櫓から飛び降り、またも駆け出した。次に目指す先は包囲予定位置である。

 

「ここ、すぐに警備隊が通るよ! お店の人、荷物どけてー! 歩いてる人、危ないから端っこに寄ってくださーい!」

「ほらほらっ! あんたら、何をぼさっとしているんだい! 許定ちゃんの言うとおりだよ、さっさと道を空けな!」

 

 小道を走る拓実が周囲に呼びかけていくと、呼応するように声が上がった。混雑していた道から人波はさっと開いていき、視界の開けたその先――別の通りとの交差前には、おっちゃんと呼ばれていた乙組の警備兵たちが待ち構えていた。

 拓実はそれを見届けると、邪魔にならないように周囲の通行人を誘導しながら共に道の端へ避難していく。

 

「ちっ、くそっ!」

 

 得物を手に逃げ惑っていた暴漢は人気の薄れた通りに取り残されることになった。そして、前方にいる木盾を抱えて腰だめに構える警備兵に驚いて引き返すも、後方からは四人の兵が追ってきている。

 手に持った太刀を前へ後ろへ構えているうちに男は四方を囲まれて、一斉に警備兵たちから六尺棒(180cmほどからなる樫で出来たもの)を突きつけられた。力が抜けたようにその手から太刀がこぼれ落ちて、乾いた音を立てる。男は肩を落として項垂(うなだ)れた。

 

 

「みなさん、ご協力ありがとうございましたー」

 

 警備隊によって無事に男が引き立てられていく間、拓実はそこから離れて笑顔で周囲に礼を述べていた。暴漢や警備兵たちによって蹴倒されたりして乱れた外観を元通りに直しては、町民に怪我がないかを確認して回り、該当する者には腰に下げていた傷薬を手ずから塗ってやる。町民たちもそんな偉ぶった様子のない拓実に感謝の言葉を返していく。

 

「許定ちゃん」

「おばちゃん! いっつも手伝ってくれて、ありがとね。今日も助かっちゃったよー」

「いいっていいって、これぐらいなら手伝う内にも入らないよ。ほら、それよりこれ食べな。警備の人の分も一緒に渡しておくから、今日も一日頑張っておくれ。許定ちゃんはどうにも痩せてるからねぇ……少しは太らないと女の子らしくならないよ。好きな男の子が出来てからじゃ遅いんだから、今から気にしておきな」

「あはは、ありがとー。でも、好きな男の子はいらないかなぁ……。あ、こっちは大歓迎だよ。いっただっきまーす」

 

 恰幅の良い中年の女性に饅頭の入った包みを渡されて、拓実は満面の笑顔を返す。もらった饅頭の一つにかぶりつくと、全身を使って手を大きく振ってから、警備隊の仲間と合流するために駆けていく。その途中でも他の者に捕まっては、果物やらを渡されている。それを受け取って無邪気に喜ぶ拓実の姿に、町民にも自然と笑顔が浮かんだ。

 

 

 拓実が警備隊の一員として配属されてから、今日でようやく七日が過ぎる。警備の仕事は大まかに日中・夜中とに分けられた交代制で、少女の姿をしている拓実は夜中の担当を外され、日中の巡回のみを任されていた。

 時間の区切りがしっかり定められていないためいくらか曖昧だが、朝は早く太陽が出る卯ノ初刻(午前五時)から、終わりは日が沈み始める酉ノ正刻(午後六時)を少し過ぎたぐらいである。その中でまた細かく休日や勤務担当時間が振り分けられているが、だいたい一日に八から十時間ほどが実働する時間になるだろうか。

 大規模な街だというのに警備の兵数は六十人ほどだから、いつも人手が足りていない状態だ。

 

 部隊指揮を見て学ぶため、という建前で武将見習いとして出向している立場の拓実であるが、警備隊には本人の希望によりあくまで新入りの一人として入隊している。

 さらに詳しい仕事内容を知らないこと、また成人男性と組み合うだけの力がないことから、暴漢などに相対するにはまだ早いと警備隊長により直接の鎮圧行為を禁じられている。初日には警備が使っている鎧などを着込んで見回りに出たのだが、その重さで身動きが制限されまったく役に立たなかったのである。それらを踏まえて拓実に最低限の力がつくまでは伝達や物見係として働くこととなり、また事態が収束した後の後始末など雑用を任されていた。

 

 そんなこんなで拓実は非力であるが故に、警備隊でただ一人装備の変更を余儀なくされている。速度を優先して鎧の類は一切身につけず、他の警備兵が使っている六尺棒すらも携行していない。

 流石に無手というわけにもいかないので、代わりに折れた六尺棒を再利用して作った一尺半(45cm)ほどのトンファーを持ち歩いている。トンファーの形状をした武器をここでは『(かい)』と呼んでいるらしいのだが、それも本来は三尺以上の長さになるので拓実のは半分ほどしかないものになる。何故わざわざ短いものを使うのかというと、鎮圧時に痛撃を与える役割でない以上、相手の刃さえ受けられるならば長くする必要がない為である。防衛に使うのであれば短い方が取り回しが容易になるとのことだ。

 さらには、反撃せざるを得ない状況でも『拐』を使わずに蹴りを使うようにと拓実は指導されていた。これは腕の力より脚の力の方が強いということもあるし、また拓実では押し合いになった際にまず競り勝てないからであった。華琳と春蘭、そして警備隊の隊長が口を揃えたように「まず真っ向から打ち合うな」と言うぐらいなのだから、拓実は常人と比べても相当に非力なのだろう。

 ちなみに一週間が経った今でも、拓実の筋力は大した変わり映えを見せていない。持久力は多少はついたようではあるがそれにしても劇的というわけではなく、残り一週間となった任期中は伝令係として勤めることになるだろう。

 

 

 ともかく、先ほどのように物見役は何とか形になってきている。だが、それは一週間経った今だからこそであり、入隊当時は酷いものであった。

 拓実が来るまでは物見役や伝達係などはおらず、通報を受けたらそれぞれが現場に急行。何か伝えることがあってもその場で大きく声を上げる程度だったのである。もちろんそんな大雑把な方法では情報の行き違いが起こるのも当然であり、現場につくのが遅れたり、下手人を取り逃がしてしまうことも多々あったらしい。

 また形振り構わず走る悪漢や、警備隊が簡易とはいえ武装したまま大人数で道を走るものだから町民にも怪我を負う者が出てしまっていた。警備には人数も時間も足りていないので、捕り物騒ぎで被害を受けた町民は放ったらかしにされてしまうことばかりだったようである。

 ある程度の成果は出ていたから妥協されていたが、住民からの評判もあまりよくなかった。つまり実力不足から直接的に警備に関われない拓実は、それら放って置かれていた問題を解消させるために尽力することになったのだ。

 

 警備の誰よりも位置を早く把握するために街の通りや構造を暗記し、先回りして現場の情報を確保し隊長へと伝達、その後は仕事の妨げとなりうる通行人へ避難の呼びかけを敢行する。

 拓実の仕事は言葉にすれば簡単なことだが、もちろん実際に行ってみるのでは勝手が違う。すぐさま動いて回ってみたのだが、初めから上手くいく筈がない。道を間違えることは今だってあるし、慣れない拓実の指示では充分でないこともあった。また、他の警備兵たちも拓実からの情報を上手く利用できずに、連携が取れなかったりもした。

 ミスがなければ防げた筈の被害、それを(こうむ)るのは町民たちである。流石に以前よりも悪化するということはなかったが、だからといって罪悪感を覚えないと言えば嘘になる。

 

 無用な怪我人が出てしまうことに責任を感じた拓実がまずしたことは、備品の薬で怪我人の治療してやる許可を警備隊長から貰うことだった。渋る隊長をなんとか説得したその日から行い、あちらこちらへと歩いて回って傷の手当をする拓実の姿は日常の光景となりつつある。

 しかしそうして使っていれば当然、警備隊に備えてある傷薬の減りは早くなる。治療する対象が増えたことで、少なく見積もっても消費量は五割増しとなっていた。警備隊、町民に関わらず怪我人は毎日出てくるのだから、それら全てを賄うには支給されている予算ではどうやっても足りないのである。

 

 本来ならば支給されている予算で出来る限りの努力をすべきだったのかもしれない。けれどより錬度を高めて被害を抑えるよう予防しても、どうしたって怪我人は出てしまうことだろう。そう考えた拓実は怪我人への救護の必要を訴えるために、財政を握っている桂花に掛け合うことにしたのだ。

 元々不遇とされる立場の警備隊にはさほど予算が下りていなかったようで、案外あっさりと話は進んだ。桂花と華琳を相手にしたプレゼンテーションから一日置いて許可が下り、そうして予算増額の申請書を隊長名義で提出したのがつい昨日のことである。予定外の出費に華琳より叱責はされたものの住民感情が悪化しつつあることは憂慮していたらしく、警備隊は無事に追加の予算を勝ち取ることが出来たのだった。

 

 

 

 拓実が警備隊に及ぼした業務上の変化は大まかにそんなものだったが、警備兵としての拓実の成果といえば、より詳しく街の地理を把握したこと、街の人達と仲良くなったことであった。

 それは、拓実が空いた時間をもっぱら自己鍛錬や街を出歩いての交流に充てているからだ。しかし町民と仲良くなったのは拓実としては意図してのものではなく、華琳のお陰とも云える副産物であった。

 

 拓実が華琳により課せられている仕事とは警備隊として働くことではなく、警備隊の内情を知って問題点を探ることにある。もちろん警備の仕事に手を抜くわけではない。拓実は仕事の合間にある休憩の時間を利用し、街の者たちを対象に警備に対する不満を聞き込みしていたのだ。

 そうしてまとめられていく警備の問題点であったが、報告書の為とはいえ聞くだけ聞いておいてそのままという訳にもいかず、拓実は自身の裁量で何とかなりそうなものに関しては改善すべく周囲に働きかけた。流石に金銭を必要とする要望はどうにもならなかったが、警備兵の立ち振る舞いの問題や重点的に見回って欲しい箇所などはそのまま拓実の口から警備隊長へと伝えられることになり、報告された内で達成が難しくなさそうなものについては隊長の指示によって改善されていった。

 

 わざわざ出向いてきて町民の意見に耳を傾け、出来うる範囲で改善していくその仕事振り、また備品を節約するために手ずから傷の手当てをしていた拓実の姿は町民たちに好意的に解釈され、当然のように歓迎されたようであった。

 そうしているうちに、拓実に引きずられる形で警備隊の評判は着々と上昇していく。本隊の兵士に配属されなかったことで不貞腐れていた拓実の同僚も、喜んでくれる街のみんなの姿にやりがいを覚えて始めているようだ。きっかけとなった拓実はといえば、人懐っこい性格もあって毎日顔を合わす街のおばちゃん連中を中心に好かれることになり、警備隊のマスコットキャラクターになりつつあった。

 

 

 反面、警備隊の中での拓実の立ち位置は良いとも悪いともいえないものだった。

 歳の離れた上の者には拓実は好かれやすい。快活で元気一杯の拓実に対して、娘や孫を相手にするような態度で接してくれている。歳の近い少年たちは拓実に対して余所余所しかったりもするが、「おいしいものが好き」と言う拓実を食事などに誘ってくれている者もいる。悪い意味ではなく、新入りである拓実を意識しているのだろう。

 問題は、拓実より年長の青年たちの中に拓実の存在を疎んでいる者がいることだ。それも一人二人ではない様子であった。

 

 彼らが気に食わないと感じているのは、拓実の実力がたいしたものでないからだ。暴漢の鎮圧に参加も許されないのに、武将見習いであるということがやっかみを買っている。また、入隊して一週間の新入りが警備の象徴のように扱われていることもそうだし、華奢な少女であることも侮る一つの要因である。

 確かに住民との軋轢(あつれき)が消えたことは拓実の尽力によるものだと理解できているし、警備の予算増額に関してもありがたいことではある。出来る仕事を精一杯やっていることだってわかるのだが、拓実の行っているそれが警備本来の仕事かといえばそうではないのだ。

 

 もし拓実が、季衣ほどに腕っ節が強かったなら彼らはいくつか不満はあろうとも納得していただろう。姿形が少女であることに対する否定的な意見など、話題にも上らなかったに違いない。

 警備の若者たちのような学を持たざる者というのは、単純に力を崇拝しているのである。武功は、彼らにとっては唯一の立身出世の(しるべ)なのだ。本隊に配属されなかった彼らには、崇拝すべき力に対してさえ劣等感を覚えている。他の者に劣っているという理由で警備に配属され、今や武功を立てる機会も滅多にない状態なのが彼らである。

 そこに非力で、しかし何かと要領良く立ち回る拓実の存在が入ってくる。年若く、自衛すらできるかどうか不安が残るその少女の将来は、武将であるというのだ。

 

 ――彼女と比べれば、単純に戦力という面で見るなら多くを上回っているはず。なのに、なんでこの小娘が武将になれるのだ。

 彼らは若さ故に出世欲を失っておらず、同時に己の限界を甘く見積もっている。また、生半可に年を食っているだけに自尊心もあった。そんな彼らがこう考えるのは当然のことである。夏侯淵将軍のお気に入りという噂もあって拓実に手を出そうとする者や表立って不満を表す者はいなかったが、その存在は彼らにとって面白い筈がなかったのだ。

 

 自分への認識に甘い拓実も、流石に倦厭(けんえん)した空気を感じていた。何となく、自身が一定の人たちに疎まれているのだろうと理解できている。

 しかし拓実としては如何(いかん)ともし難かった。自分が疎まれているのはわかっても、嫌われる理由も、その根が深いのかどうかもわからない。まず権力欲や出世欲というものにいまいち共感できないので、隊長を差し置いて好き勝手にし過ぎたのかなと考えるぐらいである。

 半月の期限での出向であるため華琳次第にはなるが、あと一週間程度でまた別の仕事を任されるかもしれないのだ。下手に手を出して、それまでに解決できるのかどうか。

 幸い、これまでにそれが原因で何か不都合が起こったわけではない。いや、何も起こっていないからこそ、拓実はこの問題に迂闊に着手できずにいたのだった。

 

 

 

 

 

 暴漢を捕らえた後も警備隊は巡回を続け、一通りの業務をこなしているうちに空が赤く暮れる時間になった。拓実は一日の報告を終えて、荷物をまとめて城にある私室へ戻る用意をしていた。

 駐屯所に同僚の姿はない。今他のみんなは夕方の巡回に出ていた。明日は拓実が勤めてから初めて非番で、隊長が連日精力的に働いている拓実を労わって少しだけ早く帰れるように調整してくれたのだった。

 

 そんなまだ他に誰も帰ってきていない駐屯所の入り口には、拓実より一回り小柄な少女が室内を覗き込む姿があった。警備に属している女性は拓実を除くと、他に衛生兵が二名。その中でも一番小柄なのが拓実であるから、同じ警備の者ではないのは確かである。拓実が反射的にその人物に顔を向けるのと、あちらが拓実を視界に入れたのは同時だった。

 

「あ、姉ちゃん。ここにいたんだ」

 

 覗いていたのは、控えめな笑顔を浮かべる季衣だった。扉から顔を出して中の様子を窺っていた季衣は、拓実の姿を見つけると小走りで入ってくる。いつも明るい顔をしている季衣にしては珍しく、表情に冴えがない。見れば分かるほどにはしゅんとした落ち込んだ様子である。

 

「あれ? 季衣がここに顔を出すのって珍しいね。最近は討伐隊に参加しているって聞いていたけど、どうかしたの?」

 

 季衣の沈んだ様子に気づきつつも、拓実は笑顔で季衣を招き入れた。それを見た季衣は拓実の明るい様子につられてか、表情からいくらか(かげ)りが薄れる。

 

「えっと、秋蘭さまが帰ったら朝議を開くから、姉ちゃんも城に戻ってくるようにって華琳さまが言ってて。って言っても、秋蘭さまが討伐に向かったのって昼過ぎだから、たぶん帰ってくるのは夜になるだろうけど……」

「へー。わざわざボクを呼び出すために季衣が?」

「うん。ちょっと、気分転換もしたかったし」

 

 へへ、と小さく笑って、季衣は頭を掻いた。その発言から拓実は、やはり季衣に気分を入れ替えなければならない何事かがあったことを知った。

 

「それで、こんなに急に朝議するって何かあったの?」

 

 しかし、秋蘭が帰ってくる夜までは、いくらか時間がある。それを聞き出すのはお互いが落ち着いてからでもいいだろう。今優先すべきは、警備に専念しろと華琳に厳命されていた拓実まで呼び出された、その理由を知ることである。

 

「うん……姉ちゃんも知ってると思うけど、町民の人たちの中からひっきりなしに暴れる人が出てくるでしょ? その人たちはみんな黄色い布を持ってたんだけど、桂花の話だとこの辺りだけじゃなくて、いろんなところでもおんなじように黄色い布を持ってる人たちが暴れてるんだって」

「黄色の布って……黄巾の乱?」

 

 本当に、まだ発生していなかったのか。そんな考えから言葉が口をついて、拓実は慌てて頭を振った。

 ――黄巾の乱とは西暦184年に張角が扇動して起きた、大規模な農民反乱である。この反乱により当時の王朝である後漢の力は大きく衰退し、代わるように各地の諸侯が台頭し始める、三国時代の始まりといえる出来事である。

 拓実は荀攸として勉学に励んでいた時に、自分がいる時代を調べたことがあった。しかし記述が西暦ではないために具体的な年はわからず、確認ができたのは現在の皇帝が劉宏という名であるということ。

 劉宏とは死して後に霊帝と呼ばれる皇帝である。しかし拓実は霊帝という後世で知られた名に聞き覚えはあれど、流石にこの時代で使われていた実名までは知らなかった。そもそもからして皇帝の名前をあやふやにしか記憶していなかった拓実は、周囲の状況からある程度の年代は割り出せても、それに対する確証をひとつも持っていなかったのである。

 曹操である華琳が後年に就く州牧を既に任されているということもあるし、時代的に曹仁や曹洪などのまだいてはならない人物が加入しているなど、歴史と順序が入れ違っていることも要因のひとつだった。

 

「姉ちゃん?」

「ううん、なんでもない。……んじゃ、遅くならないうちに帰ろっか」

「そーだね。お腹も減ったし」

 

 竹でできた水筒や麻のハンカチを手早く巾着袋に詰めて、片手に下げる。季衣に先導される形で、拓実は城へと向かう為に駐屯所を後にした。

 季衣は落ち込んでいるのか口を開かず、拓実もまた考え事があって会話をする余裕はなかった。足を動かしながら拓実が考えていることは、魏が国家たる基盤が固められるまでどれほどかかるか、どのような障害があるかであった。今いる時代がわかったことで、ようやくいくらかの指針を立てることが出来そうなのだ。

 

 拓実の最終目標、それはあくまで日本へと帰ることにある。もちろんそれを叶えるためには現代日本へ帰国する方法を見つける他にも、この陣営が諸侯に打ち勝った上で、華琳にしっかりとした国家を作ってもらわねばならない。それを踏まえると、いつ隣国から侵略を受けてもおかしくない三国時代を待つのではなく、大勝し、魏が大陸を統一し一大国家を築いてくれた方が拓実としても喜ばしいのである。

 華琳を尊敬し、助力したいと考えるようになった拓実にとっては、本来の歴史などというものにこだわるつもりはない。そもそもからして、歴史に記されていた時代とは実に多くの差異がある。楚漢戦争が記されている史書には劉邦や項羽などもまた女性であるという記述があったし、衣服や金属加工などの文化や技術などが歴史にあるものと同一でないことぐらいは拓実にだってわかる。

 しかし歴史書を見る限りでは、これまでの主要な流れ自体は拓実の知るものと違ってはいない。もしかしたら、今後の展開としてもあまりに逸脱したことにはならないのかもしれない。けれど、今までが歴史通りだからこそ、この歴史では異物である拓実の影響によって今後に変化が生まれる可能性は高い。

 

 どのような変化が訪れるか、今はまだわからない。しかし時代の契機が後年に起こる赤壁の戦いとなるのは想像に難くなかった。

 208年に起こったこの戦は、魏だけでなく蜀や呉の勢力にとっても大きな転機である。史実どおりだとすれば、180年代であろう今から約20数年後の出来事だ。その頃にはきっと拓実も壮年といって良い年齢になっているのだろう。

 赤壁の戦いは、劉備・孫権らの連合軍に大敗してしまうことで、それまで最大の勢力を誇っていた魏が力を大幅に失うきっかけとなった戦いである。これによって魏・蜀・呉間の国力が近くなり、三国時代へと移り変わることになるのだ。この敗北さえなければ魏は統一という形で地盤を固めることが出来ていただろう。それほどまでに、他の二国に対して当時の魏は国力の面で優勢であったのだ。

 もしそこで歴史通りの敗北を喫すことになれば、その後数年は慌しく、結果的に曹操の息子の曹丕が帝位を戴くことになるとはいえ、魏は疲弊していくことになる。そうなっては拓実が帰る方法を見つけていたとしても実行は出来なくなるだろう。その時まで拓実に帰国する熱意があるかはわからないが、可能性は完全に絶たれるといっていい。

 

 ならばどうすべきか。もしも今後の出来事がまったくの史実どおりであるとすれば、小手先の策ならいくつかは考え付く。

 『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』というように、勝因はなくとも戦の敗因というのは確実に存在している。赤壁の戦いにしても有名なだけに後年でその敗因をいくつも語られている。その要素を一つ一つ潰していけば、あるいは呉・蜀同盟軍にも魏が勝つことが出来るのかもしれない。

 

 けれど、それが通用するのはまったく同じ条件で両軍が展開されること、また拓実の策に対して諸葛亮や周喩が何の対策もしてないことが前提となる。

 まず、同じ条件というのが不可能である。他にもあるかもしれないが、拓実が華琳の下にいる今の時点でもう崩れてしまっている。その影響が他陣営にも誤差となって発生するのかどうか、それすらもわからない。

 つまり史実に比べて振り幅があるこの三国時代においては、そんな遥か先の出来事を考えていても仕方がないのである。考えれば考えるほど予定外の事態に対応が取れなくなってしまうだろう。

 

 華琳を勝たせるためにはどうすればいいのか。拓実が考え至った結論はそう難しいことではなかった。魏の国力を富ませ、兵力を増やし、外交によって史実以上に優勢な状況を作ることであった。劉備・孫権が連合を組んでも無駄と思わせるだけの勢力を作り、真っ当な戦をさせなければいい。

 もしそれが叶わず戦になろうとも、地力が違えば華琳が執る方策にも幅が出てくることだろう。どういう訳なのか拓実は名軍師とされる荀攸の名を頂いているので、献策するに困らない立ち位置でもある。

 拓実一人では諸葛亮や周喩には勝てなくとも、荀彧である桂花や、未だ見ぬ賈駆、程昱らと知恵を合わせれば、歴史を代表する軍師たちとも渡り合うことぐらいは出来るかもしれない。

 

「……姉ちゃん、聞いてる? ねえ、姉ちゃんってば」

 

 ふと気がつくと、目の前へ回った季衣が拓実を覗き込んでいた。何度か呼びかけられていたようだ。それにようやく気づいて拓実は何度か目を瞬かせた。

 いつもの季衣であれば、そんな拓実に頬を膨らませて少し怒った素振りでも見せただろう。しかし今の季衣は気落ちしているのを引きずっているのか、不安気にしているだけだ。

 

「えっと、ごめん。何だっけ?」

「だから、お城に戻る前に何か食べていかないかな、って。姉ちゃんもご飯まだでしょ?」

「うん。まだ食べてないよ。今日は頑張ったから、いっぱい食べられるよ」

「姉ちゃんってば、いつもそう言ってあんまり食べられないじゃん。せめてボクの半分は食べられるようにならないと」

「そりゃ、季衣ほどには食べられないけどさ。前よりは増えたんだってば。もっと食べないといけないのはわかってるけど、これ以上は無理だよー」

 

 言って苦笑いをしながら、拓実は頬を掻いた。華琳の言いつけではないけれど、確かに拓実の食事量は増えていた。毎日朝から晩まで街中を走り回っているからだろうか、何かとお腹が減って仕方がない。欠かさず三食食べるようになっただけではなく、街の人からおやつを貰って間食したりもするようになった。

 食事を(おろそ)かにしていた荀攸であった以前よりも、体には力が漲るようになった。ただ、それでもやはり体重は華琳と同じぐらいで頭打ちしてしまってはいるのだが。

 

「まぁ、それはいいや。そんなことより、季衣も何か話したいこと、あるんでしょ?」

「……う、うん。でも、何でわかったの?」

「そんな顔してるのに、わかんない筈ないじゃん」

 

 笑う拓実に、戸惑ったように自身の顔をぺたぺたと触れる季衣。どうやら今まで、上手く繕えていたつもりのようだ。それを見て、拓実はまたくすりと笑ってしまう。

 

 

 拓実の勧める飯屋で、机に対面に座った拓実と季衣はそれぞれ注文を終える。拓実が麻婆豆腐、季衣が中華丼である。警備の同僚である劉少年(何かと食事処の情報を提供してくれる。ちょっとだけ挙動不審だけどいい子)が言うには、早い、多い、美味いと評判らしい。

 どうやら彼の言うとおりらしく、注文して数分で料理が出来上がった。特別美味いという訳ではなくそれなりに頂ける味だったが、量はしっかり普通の店の五割増しといった感じである。季衣や育ち盛りの少年にはちょうどいいお店だろう。

 

 食事をしながら季衣がぽつぽつと語るのを聞くに、何やら朝議の席で華琳と意見がぶつかったということだった。賊が出没したとの知らせを受けてすかさず討伐に立候補する季衣だったが、最近の季衣の頻繁な出兵を理由に却下されてしまった。頑張れば頑張るだけ多くの人を助けられるのにと抗弁するも、限度があると華琳に一喝されて止められたということだ。春蘭や秋蘭にも同じ理由で(たしな)められてしまったのだが、季衣としてはもっと頑張れるつもりでいるらしい。ただ、無茶をしている自覚も多少はあるようで、最近は以前にも増して暴飲暴食が目立ってきているようではある。

 生憎この一週間のほとんどを警備の仕事に費やしていたので季衣とあまり会うことはなかったのだが、拓実も、季衣が結構な頻度で討伐隊に参加していることを警備隊にいながら耳にしていた。必要なことは華琳が伝えていることだろう。加えて、討伐の際での季衣のやり取りを知らない拓実には言える事などは限られていた。

 

「毎日そんなにがんばってるのに、季衣は疲れてないの?」

 

 皿を綺麗に空にして、口元を手巾で拭ってから、拓実は季衣に訊ねてみた。見ている限りでは特別に疲れている様子は見られないが、春蘭や華琳が止めるほどだ。余程の事なのだろう。

 

「大変だけど、でも今から討伐に行けって言われたってボクはぜんぜん平気だよ。ボクががんばらなかった所為で人が死んじゃったりしたほうが、もっと辛いから」

「うん」

「でも、華琳さまの言うこともわかるんだ。疲れてきちゃった時に賊が暴れだして、ずっと戦い通しになって、いつもの力が出なくて誰かを守れなくなったりしたらいやだし。でも困っている人がいるのがわかってるのに、何にもしないで休んでたりしなさいって言われても、助けてあげたくなっちゃうんだもん」

 

 「おじちゃん、おかわり」と声を上げる季衣と机を挟んで、拓実は唸る。手慰みに空の食器に置いたレンゲを人差し指で弾いている。

 季衣にしてもわかってはいるのだろう。どうしたほうがいいのか、頑張りすぎることがどれだけ回りに心配をかけているのか。また、華琳の言うとおりにした方がより多くの人を助けられるだろうことも理解している。ただ、それは感情を納得させる理由になっていないというだけなのである。

 

「んー」

 

 だが、拓実はそれを上手く説ける気がしないでいた。荀攸としてならば損益の観点で語っただろうが、どうにも頭の中で意見がまとまらないのだ。しばらく考え込んでいたが、結局上手くまとまりそうな感じがしないため、拓実は話を聞いて感じたことをそのまま話すことにした。

 

「季衣はどっちが正しいと思うのか、自分の中では決まってるんでしょ? 華琳さまや春蘭さま、秋蘭さま、それに桂花とかみんなが季衣のことを心配してることとかもわかってるんだろうし」

「うん」

「んじゃ、いいんじゃない。季衣がしたいようにしたらさ」

「え、ええっ?」

 

 拓実の言葉に、二杯目の親子丼を食べる手を止めて、目をまん丸にする季衣。まさか肯定されるとは思っていなかったのか、まじまじと拓実を見つめている。

 

「だってさ、季衣が華琳さまとか春蘭さま、秋蘭さまとかの話に反対してでもやりたいんだったら我慢してもしょうがないじゃん。だったらやりたいようにやるしかないでしょ。季衣だってぜんぜん大丈夫って言ってるんだしさ。もう、華琳さまも春蘭さまも季衣のことちゃんと見てないんだなぁ」

「姉ちゃん、待ってよ! 華琳さまも春蘭さまもボクのこと心配してくれて言ってるんだよ! そんなんじゃあ……!」

 

 焦った様子で拓実の言葉の続きを止めようと声を上げる。慌てた拍子にくっついたのか、口元のご飯粒には気づいていない。

 

「でも、季衣がどうしても賊退治に行きたいって言ってたら、季衣がみんなのことを信用してないってことになっちゃうかなぁ」

「あっ、えっ? ど、どうして?」

 

 どうやらいきなり展開が変わり、季衣はついてこれないようである。先程までの詰問する様子は消えて、やけに素直に拓実に聞き返す。

 

「だってさー、今のボクみたいにちゃんと助けられるかわからない奴が代わりだったら反対してもしょうがないけどさ、秋蘭さまや春蘭さまとかなら代わりに行っても助けてあげられるでしょ。それなのに季衣がどうしても行くって言ったら、春蘭さまとか秋蘭さまじゃちゃんと助けてあげられませんって言ってるようなものじゃない?」

「う……」

「助けられない人が出ちゃうなら季衣の言ってる事にボクも賛成だけどさ。季衣が休んだ方が今よりいっぱいの人を助けられるなら、季衣は我慢して休まないといけないんだとボクは思うよ」

「ぶー……。そう言われちゃったら、ボク休むしかないじゃんかぁ……。姉ちゃん、イジワルだよ」

 

 拓実の意図に気がついたか、季衣が口を尖らせた。手に持った丼の中身を掻き込み、中華丼、親子丼の丼料理五杯目を完食する。量にして優に七人前。それだけ食べてようやくある程度お腹にたまったらしく、次の「おかわり」の声は上がらない。

 器を置いて一息つくと、季衣はいたずらを思いついたかのようににやっと笑って、拓実へと向き直った。

 

「……ま、そうだよねー。姉ちゃんにはボクの代わりは無理だもんねー。姉ちゃんじゃないなら、ボクも安心して休めるしさ!」

「むっ。なんだよそれー! 『今の』って言ったじゃん! ボクだっていつまでもこのままでいるつもりはないからね! これでも季衣の姉ちゃんを任されてるんだから、すぐに季衣に追いついてやるんだから」

 

 季衣の言葉に、かっとなって思わず立ち上がる拓実。身を乗り出して季衣に指を突きつける。予想通り過ぎる反応に、季衣も気を良くしたか挑戦的な笑みを浮かべて見せた。

 

「へっへっへー、どうかなー? 姉ちゃんすっごい弱いしなー。そんじゃ今度一緒に春蘭さまの調練に参加してみよっか?」

「望むところだよ!」

 

 そんな売り言葉を、拓実はあっさり買ってしまう。鼻息荒く季衣のことを睨んでいるが、拓実にはどうにも迫力がない。子供染みた挑発にあっさり乗っかってしまう拓実の様子がおかしいのか、季衣は声を上げて笑い出した。その笑顔に、先ほどまでの憂いはもう見えなかった。

 

 


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