影武者華琳様   作:柚子餅

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16.『許定、曹操と手合わせするのこと』

 

 華琳は一人、豪奢な椅子に腰掛けて考え事にふけっていた。背もたれに背を預け、視線を動かさずにいる姿からはただひたすらに集中しているのが見て取れる。

 今いるのは彼女の自室だが、様子は一月前と一変している。そこにある家具や寝具はそれぞれ、州牧という地位に相応しい高価で煌びやかなものに買い換えられていたのだ。それは華琳が望んでのことではなく、上司が一切の贅沢をしないようでは部下は恐れ多くて息を抜くことができないだろうと秋蘭からの進言があったからである。

 普段であれば気が回るだろうそんなことにも気づかないほどに、華琳は州牧となってからの二十日、目の前のことにかかりきりになっていたのだった。今も机に広げられた竹簡を眺めながら、現時点で得られている情報を頭の中で整理している最中である。

 

 他の領主が昇進となれば与えられた権力に奢って少なからず贅沢をするところであるが、華琳の場合は数日部下を労うための酒宴を開いたきりで以後そんな様子はない。

 むしろ今回の昇進により、元より多いわけでもない睡眠時間をさらに減らして一層仕事に打ち込んでいる。部下に、そして規律に厳しい華琳であるから、自身の事を輪をかけて厳しく戒めて規範となろうとしていた。

 だが、華琳はそれだけの理由で仕事に夢中になっているというわけでもなかった。今回の昇進によって、以前より思い描いていた国の基盤が少しずつ出来上がっていく喜びによるところは大きい。

 その勤労あって、直轄地拡大に際しての諸般の問題はここ数日の間に改善され始めている。慢性的な人手不足なのは以前からそれほど変わらないが、街にも城にもいくつかの変化があった。

 

 大きな変化として、内政面や軍の規律だ。今までは従来のものを踏襲して行っていたが、現在は桂花たちの政策を受け入れ、試行錯誤しながらも新しく構築し直している。行なった政策はいくつかあるが、兎にも角にも桂花の働きが大きい。今となってはこの陣営は彼女なしでは成り立たないほどの、かけがえの無い人材となっている。

 特に目を見張るものは今も継続して行なわれている経費削減であった。彼女と比較するのは可哀想かもしれないが、拓実が発案し施行したものに比べると優に数十倍の費用を捻出している。

 とはいえ、拓実の挙げていた節制案も失敗したというわけではない。充分に成功といっていい出来である。管理用の竹簡などの予定外の雑費が増えたことで数字上は大したものではないが、華琳が重点を置いているのは部下育成にある。その効果が目に見えるようになるのは数ヶ月先のことだろう。

 こうした金策によって発生する予算は街の整備や治水工事に充てることが決まっていたが、拓実の節約制度で生まれた予算は予定外だったために浮いた状態だ。しかし新たな政策を起こすほど大した額でもない。通常であれば糧食に換えて蓄えておくべきなのだが、それを実行するかどうかを決めるのは今華琳の目の前にある書簡の案を検討してからでも遅くはないだろう。

 

 続いて、軍備。管轄地区が拡大したことで内政面の問題の洗い出しをしていたように、軍事面にもまた見直しの必要が出てきている。領地となる全ての街に賊に備えて兵を配備せねばならず、またそれとは別に治安警備の者たちを雇い入れて教育せねばならない。今までとはまったく、必要とする兵数が違う。

 これまでのやり方が通用していたのは、部隊自体が小規模であった故に春蘭による兵の調練が末端まで行き届いていたからだ。しかし今後も同じようにして春蘭を調練に派遣するわけにもいかない。急場で部隊長を派遣して訓練させているが、そのうちに行き届かない部分が出てくるだろう。現状では重大な問題は発生していないが、早急に具体的な不備な部分を洗い出さねばならない。

 

 そして残る変化は今この陣営にいる人材についてである。

 まず挙げられるのは季衣である。以前にも増して賊発生の報せが入ってくるので、彼女の精神状況は日に日に悪化している。討伐に連日かかりきりになり、帰還してはまた出兵していく。表面上は何ともないと振舞っているが、そのうちに身体を壊してしまうだろう。そうなる前に華琳から諭してやらなければなるまい。原因となっている賊対策もそうだが、華琳が目下、一番に懸念しているのは彼女についてである。

 同時に春蘭、秋蘭に関しても負担は増えているが、そちらにはそれほどの心配はしていない。管轄地の関係で仕事量は増えてしまったが彼女たちは己の分を知っているし、報告を聞く限りではもう環境に順応しているようだ。内政もこなせる秋蘭の負担が大きいかもしれないが、彼女ならば大丈夫だろう。

 そんな中、人手が足りないこの陣営において戦力となりつつあるのは拓実である。いつの間にやら文字を読めるようになるだけでなく、簡単な文章を書けるようになっていた。華琳がそれを知ったのは今朝のことだ。

 街の警備について進上することがあると、今机に広げられている書簡を華琳に渡したのだった。文字はたどたどしく、文脈がおかしいところがあるものの意味を読み取れる程度の体裁は整っている。元々の素養か、それとも桂花の姿を借り受けているからなのかはわからないが、華琳の予想を上回る学習進度である。

 

 さて、その書簡の中身についてだが、街の浮浪者を雇い入れて警備隊に配属するべきというもので、示されている内容としては特筆すべきことはない。華琳も以前から考えていたことで、その方法も立て札を立てて募集の話を街に流すだけというこれまた平凡なものである。今までのやり方となんら変わりない。しかし、雇用後の待遇要望については華琳の想定していない変更点があった。

 まず、警備の人間で軍本隊での調練へ参加希望する者を受け入れるようにすること。また、警備で経験を積んだ者の中から希望する優秀な者を兵役として本隊へ組み込むこと。その者たちはそのまま兵として扱い、あるいは統率力のある者を他の街へ警備指導の兵士として送ればいくらかの人材不足が解消されるだろう旨が記されている。

 警備に配属された者たちは元々兵士に希望し、実力が足らない等の理由で判断され振り分けられた者たちが多い。そして、警備は給与が低く、本隊の兵に比べて扱いもよくない。中には警備に志願した者もいるがそれは極少数であり、大抵の者は危険は多いものの賃金などで優遇される本隊の兵士へなりたがる。出稼ぎに来ている者たちは、農村に家族を残して仕送りを目的としているからだ。ゆくゆくは兵士になれるとなれば、今警備についている者たちの労働意欲向上は勿論、業務に真剣に励むようになるだろう。兵への出世の門戸となるなら、新規の志願もいくらか期待できるようになるかもしれない。

 巻末に桂花が連名されていることから、拓実が発案し、二人で一緒に仕上げたに違いない。桂花との関係も良好なようであるし、発想も内容自体もそう悪くはない案ではある。

 

「そうね、どうせならば節制案で浮いた予算をこちらに回すのも悪くない。ただ、桂花にしても拓実にしても現場での実状を知らないから細部が甘いわね。どちらにしても、軍備関係を調査してからになるだろうけど」

 

 今朝の献策の際のぎゃんぎゃんと言い合う桂花と拓実の姿を思い浮かべ、華琳は思わずといった様子でくすりと微笑んだ。桂花は、この陣営の誰を相手するよりも拓実と苛烈な言い争いをする割に、一番気が合う相手が拓実なのだ。言いたいことを気兼ねせず言い合える相手なのだろう。

 そしてその拓実は桂花を演じているにも関わらず、割と頻繁に春蘭とも話している。当初は拓実と春蘭との間でもいざこざがあったようだったが、今二人が言い争う姿などは頻繁には見ない。拓実との会話が春蘭の精神鍛錬になったのか、桂花と春蘭の仲もいくらか良くなっているようなのだ。これは華琳すら思ってもみなかった効果である。

 

 

 ともかく、そんな慌しい日が過ぎている。一日の経過なんて、体感的にはあっという間といってよかった。そうして今後について考えていた華琳は、ふと、おおよそ半月前のある日の出来事に思いを馳せた。州牧への引継ぎを終わらせ、陳留の街へ視察へと向かった日のことだ。

 あの日、表向きは視察と題打っていたが実のところ華琳の真意はそれとは別にあった。視察が偽装というわけでもないが、本来の目的は恩師の紹介を受けて許子将なる人物に会うことにあったのである。そして、帰り際にみかけた占い師が許子将その人であった。彼の素性を知るという者に会ったことがないが、紛れもなく世に聞こえた人物鑑定士であり、評価された人物は見合った生を送っていくとまで話されている時の人である。

 その許子将に華琳もまた鑑定を受けたが、常人からすれば良い意味には取れないものであった。当然に秋蘭、後には春蘭もが激昂していたが、しかしそれは華琳からすれば些細なことである。風評が悪かろうが、自身が世を動かすに足る人間であることには違いないのだ。礼を言うならばともかく、何を怒ることがあるだろうか。

 

 ただ、一緒に連れて行った拓実への予言によって、華琳の中にはまた考えるべきことが浮かびあがっていた。

 本来であれば拓実は城において、出発前に桂花が言っていたように学習を進めさせておくべきであった。遠からず影武者として働いてもらうことになるのだから、基礎知識を学ばせるのを急務とするのは当然のことだ。桂花の進言を退けてまで拓実を同行させたのは、(ひとえ)に許子将と引き合わせるためである。

 華琳が大陸の統一を果たせるならば、比例するように拓実の存在は重要なものになるだろう。そして華琳は影武者としての拓実に信をおいているのだから、余程の事がなければ実現することになる。華琳とある意味で一心同体ともいえる拓実の立ち位置からならば、天下の動向を二つの視点で観測することが出来ると考えたのだった。

 また華琳は一国の主の代役をこなせるだけの器を持つ人物を前に、人物鑑定士である許子将が動かない筈がないと踏んでいた。そういった意味で捉えるならば拓実もまた許子将の評価を受け、華琳の目算通りの展開になっていたといえる。

 

――「お主の相は、仕える者を王へと上らせる、王佐の才。いや、そこな者と同じく乱世の奸雄とも。……だが、救国の徳王にも見える。見るたびに相が変化している、不思議な相だ。見たことが無い」

――「だが、確かであるのは、一つ。大局の示す流れに従い、逆らわぬようにしなくてはならん。さもなくば、待ち受けるのは身の破滅。……けれども、お主ならば己を殺し、役割を授かったなら、見合った名を歴史から与えられよう。……新たな流れも、あるいは生まれるやもしれん」

――「よいか。いもせぬ者にその座は存在しない。くれぐれも気をつけよ」

 

 以上が拓実に対しての許子将の人物鑑定である。華琳はその一字一句を記憶していた。そしてそれらについてこの数日の間、華琳は空いた時間を使って考えていたのだ。いくつかの仮説も立てている。

 『見るたびに変わる相』というのは、おそらく拓実の演技する人物を指しているのであろう。『王佐の才』とは桂花を模した荀攸の姿、『乱世の奸雄』とは華琳を模した影武者のこと。『救国の徳王』には心当たりはないが、そういった演技をする可能性を指しているのかもしれない。これの解釈に関して言えば間違いはないだろう。だがしかし、許子将が述べていたのはそれだけではない。拓実のものには人物鑑定の枠を越えた、予言らしきものが出てきている。

 

 まず、『大局の示す流れに従わなければ、身の破滅』とある。これは他ならぬ影武者を任せる拓実のことであるから、華琳にとっても他人事ではない。しかしそのまま読んではあまりに抽象的に過ぎて、解読はできない。そもそも、大局が何を指すかがわからない。情勢か、天子によるものか、はたまた天啓か。華琳が思いつくのはそんなところだ。

 続く『己を殺し、役割を授かれば……』の言葉。南雲拓実としての人格を殺し、影武者としての役割を華琳より授かる、とすれば理解が早い。現状でそういった方向へ拓実の処遇が決められているからだ。直前の『大局』に、上の影武者としての事柄を当て嵌めれば、『必然の出会いを経て得た華琳の影武者として、身命を賭して従っていかねば中途で命を失うだろう』と読み取ることもできる。現時点では極秘であるが、後世に何らかの形で拓実の名と業績を残す者が出てくれば大役を果たした者として名が刻まれたとしてもおかしくはあるまい。

 『新たな流れ』には今のところ思い当たることはないが、全体的にある程度の符号はつく。

 

 しかし、華琳はもう一つ仮説を立てていた。こうも解釈できないだろうかと。

 後半にある『見合った名を歴史に与えられる』という一節。華琳に酷似した容姿や声色、そしてその卓抜した演技力を以って拓実に見合う姿とは何か。連想させるのは、もちろん曹孟徳に他ならない。『影武者である拓実にとっての己』、即ち華琳を排除することで、拓実が唯一の『曹孟徳』として後世に名を残すとことができるというように読み解けるのではないか。そう捉えれば、抽象的だった直前の『大局に従わなければ……』の文章にもまた様々な意味が生まれてくる。

 『身の破滅』も、拓実だけのこととは限らない。近しい華琳もろともに命に関わる事態が発生することを予期しているのかもしれない。例えば危急の時、拓実の判断によって華琳を見殺しにするなどして『己を殺す』に当て嵌め、いなくなった華琳の代わりに『曹孟徳』を継ぐことにより拓実は表立って『役割を得る』ことになる。

 それらを越えられるのならば、『歴史に名を与えられる』ことができる――つまりは陣営としての存続、強いては大陸の統一を果たせることを示していると。『新たな流れ』というのは、今までの華琳の統治からの脱却であり、拓実による新たな統治。異国の風習を取り入れた国風とすればどうか。『いもせぬ者』というのも、影役である影武者の拓実ではそれを為せないことを示しているのではないだろうか。大業を成すならば、表へ出て『座』を得るべきであると。

 

 

 華琳は元来、占いを深く信じるような人柄ではない。道端にいる変哲もない占い師に同じ事を言われたのならば、気にも留めなかっただろう。。

 しかし、今回ばかりは違う。彼女が尊敬する、恩師である橋玄により紹介された許子将の言であるからだ。許子将の人物鑑定は多く人の口に上るほど有名なものであったし、華琳に対しての評価もその意に沿い、彼女が脳裏に描いている道筋を的確に表しているといってよかった。その目は確かであるのだと、華琳は見ていた。

 

 拓実に対しての人物鑑定を聞いたことで、華琳は自身の前途に暗雲がたちこめているように思えた。遠く見えるのは雷鳴と暴雨、常人ならば避けて通る困難な道である。しかしそれは華琳個人の観点のものである。華琳の解釈が正しいならば『曹孟徳の選んだ覇道』は成功が約束されたようなものだ。

 もちろんこれらは推論に過ぎない。もしかしたなら、まったく違った意味を含んだものであるかもしれない。ならば考えても仕方が無いことである。実際に事が起った後ならば、どのようにもこの言葉と出来事を符合させることができるだろうからだ。

 華琳とて、彼女個人のことだけならばそうしたに違いない。だが立場柄、目的達成を示唆するそれを切って捨てることができないでいたのだった。

 

 華琳は考える。自身の志は元々、どこにあったものだっただろうか。

 言うまでもなく、望んでいるのは太平の世である。賢明な王が強大な力を以って治世する、民が賊に悩まされずに済む富んだ国だ。

 

 かつて洛陽で働いていた同僚にも志を同じくする者たちがいた。だが、果たして洛陽の政の場にはどれだけ『人間』が残っているだろうか。

 荒れた朝廷、蔓延る悪賊、そして、貧窮する民草。それらを救い、太平の世を目指さんとする者たちは、役職が上がるにつれて環境が変化し、民の現状が見えづらくなってしまうのだろうか。次第に当初の純粋な意志をどこかへ置き忘れてしまう。汚職に漬かり、民から搾取し、富と権力を求めるだけの腐った畜生になりさがる。

 残った清廉潔白の士たちも上層からの贈賄の要求に反発して僻地に送られ、頭角を見せることはない。時に、無実の罪で処刑されるような時代である。

 

 そんな彼らと志を同じくしながら、華琳は道を違っていた。必要であれば手段は選ばない。目的の為ならば汚名を甘んじて受け入れる。力がなければ、何事も成せないと知っている。

 勘違いされやすいが、華琳とて仁徳は尊いものではあると考えている。ただ、この乱れた世では、仁を以って義に殉じるだけのやり方では通用しないことを理解しているだけだ。個々人が持つならばいいだろう、素晴らしいことだ。しかし、人の上に立とうとする者はそれではいけない。そんな脆弱な思想をしていては、国は立ち行かなくなる。少なくとも今の時勢では、正しいやり方ではないと華琳は断言できる。

 だから華琳とて不本意ながらも、桂花を通して中央の高官に金をばらまいて役職を手に入れるという正道を外れた形を取らざるを得なかったのだ。

 

 華琳は朝廷の腐敗を知っているが故に力を以って世を正す覇道を歩んでいる。だが、華琳のその根っこの志は少しも変わっていない。彼女の歩む覇道の行き着く先は、平和な世である。

 今までの自身の選択に後悔はない。それが華琳の生き方で、誇るものだ。だが一方で、このような手段を使わねば評価すらされない今の時代を嘆いているのである。そんな思いをせずに済む未来が、それを果たせる道筋が、不確かながら華琳の目の前に示されているのである。

 

 使えるものは使う。結果のための必要な犠牲は省みたりはしない。ただ力を以って、目標とするものを勝ち取るのである。華琳は、この信条を持って生きてきた。そしてきっと、これからもそうして気高く生きていくだけだ。

 

 

 

 

 

「……ということよ。半月、警備隊の新入りとして仕事を覚えてくるように。それと同時進行で問題点を洗い出して警備案を纏めなさい。それに当たって荀攸は郷里に使いに出すことになったから、今あなたが受け持っている仕事は桂花と秋蘭が引き継ぐことになるわ」

 

 華琳の前に跪いている荀攸――拓実は、突然のことに目をぱちくりさせていた。三日かけて桂花と共に纏めた警備補填案を今朝方進上して、直ぐにまた呼び出しがかかり、てっきりその案についての問答かと思っていたのだ。

 しかし赴いてみれば華琳は警備の問題把握の必要性を語り、調査を任せるために許定を使わす旨を拓実へと告げたのである。

 

「あの、出会ってから二週間、季衣とはそれなりに話していますし人柄も把握しております。衣装も揃えておきましたから許定としても問題はないでしょう。しかし、そうなると私はしばらく政務に参加することが出来ませんが」

 

 それに対し、まるでもう一つの役割である許定について、他人事のように返答する拓実。周囲に漏れ聞かれても誤魔化せるように、荀攸、許定は互いを別人として話すよう、以前に華琳に命じられていた。

 

「内政面も人手が充分とはいえないけれど、それも仕方が無いでしょう。許定以外の適役がいないことだし、荀攸は武術の修練をしようがないのだから。それに、視察の際に書面で得られる情報と己の目で見たものの違いについては話したわね。丁度いい機会だから、あなたが出した警備補填案のためにも、現場の状況を見てきなさい」

 

 そうして一旦目線を切って窓の外を眺めようとした華琳は、思い出した風に跪いたままの拓実へ振り向いた。

 

「ああ、それと明日から警備隊へ向かってもらうことになるけれど、その前に顔見せにくるように伝えておいてちょうだい。私自ら、許定の力量を見てあげましょう」

「……確かに承りました。それでは、許定へ声をかけたあと、出立致します」

 

 華琳が首肯したのを確認すると、拓実は深く頭を下げて静かに華琳の私室から退出していった。

 

 ――視察の日より、おおよそ十日が過ぎていた。荀攸として桂花の補佐をし、夕刻過ぎてからは書物を模写しての勉強をこなしているだけであっという間に日が過ぎていった。

 稀に桂花が城を出る時は、書庫から借り出した様々な書簡を、自室で朝から晩までひたすら読み解いていく。桂花の演技をしているからか、拓実は毎日勉強漬けでも苦にならないどころか新たに知識を得られることを楽しんでいた。その甲斐もあって特別難解な文でもなければ意味を掴めるようになったし、簡単な書き取りはこなせるようになった。普段目に付くのが漢文ばかりというのも大きいだろう。

 そうしてようやく文官としての仕事に慣れて、文字を覚えたことで軌道に乗り始め、喜び勇んで献策をしたのが今日のことである。

 

「……今日からまたしばらく、慣れない仕事が続きそうね」

 

 今の話は図らずも、やりがいを感じ始めたところで出鼻を挫かれた形になったのだった。廊下をとぼとぼと歩く拓実は、ため息と一緒にその言葉を吐き出していた。

 

 

 

 

「あのー、華琳さまー? 入っても大丈夫ですかー?」

「……季衣?」

 

 とんとん、と軽やかに扉を叩く音が廊下に響く。遅れて返ってきた華琳の言葉に、拓実は人知れずにんまりと笑みを浮かべる。

 

「違いますよぅ、許定ですー。荀攸から、華琳さまが呼んでるって聞いたから来たんですけど」

「え、ええ。そうね。いいわよ、入ってらっしゃい」

「失礼しまーす」

 

 明るい声で礼を取り、拓実は先ほど訪れたばかりの華琳の私室へと入室していく。とかく季衣は笑みを浮かべているイメージが拓実にはあった。それに倣って、満面の笑みを浮かべている。

 拓実が入室する様子を、椅子に座ったままの華琳はまじまじと見つめている。なんというか、奇妙な顔である。塩の塊を口に入れたのにまったく味がしなかったような、そんな表情だった。

 

「ええと、拓実、よね?」

「そですよー。どうですかね? あんまり自信、ないんですけど」

 

 苦笑いしながら、拓実は華琳の前でくるりと回って見せた。呆けた顔でそれを眺めて、しばらくしてから気を取り直した華琳は「ふぅん」と声を漏らす。

 

「……とりあえず、容姿は似ていないわね。髪色と髪型、服装が違うというのが大きいのだろうけど、どちらかといえば子供の頃の、髪の短い春蘭みたいだわ。壁越しに聞けば声もそこそこだけど、こうして面と向かって聞けばすぐに分かる程度には違う。口調や表情の作り方は確かに見事なものだけど」

「あはは、そればっかりは仕方ないですって。それにボク、今回は季衣とそっくりにする必要ないじゃないですかー。というより、あんまり似ちゃってる方がよっぽど危ないと思うんですけど」

 

 表だって華琳は感情を表すことはしなかったが、拓実は言葉の端々から彼女の予想と違ってしまっていたことを察した。しかし、それも当然だろうと拓実は思う。何もせずとも瓜二つである華琳は置いておくとしても、桂花の扮装をしている時のように季衣に容姿を近づけることが出来なかったのだ。

 

 まず大きな違いは季衣の桃色の髪と、拓実の金髪。そして髪の長さも足りていないために、季衣のように髪を纏めて結ぶこと出来なかった。こればかりは仕方が無いので春蘭がしているようにオールバックにして、露天で売っていた花を模ったヘアピンで留めただけである。おでこを出すと顔立ちが顕になる為に、本来は多少なりとも男らしく見える筈なのだが、拓実に関してはその心配はなさそうだった。

 また肌の露出を抑えるために、着ているのは袖なしの白いチャイナ服。裾は膝が隠れるまでのもので、下にはチャイナの丈と長さを合わせた黒のキュロットスカートを履いている。この辺りでの流行なのか袖の部分だけが別売していたので、上着と合わせて白色のそれをつけていた。季衣と比べて露出は減ったが、充分に腕白なイメージがある。

 しかし華琳がいうように、容姿の特徴を捉えて見るならば季衣よりもむしろ春蘭に近い。季衣と同じように一房前髪が逆らって飛び出ていたりもしているが、つい髪型から春蘭を連想してしまう。

 

「まぁ、でも活発な性格や話し振りから、一応姉妹と見えないこともないわ。春蘭、秋蘭だって髪色は違うのだから許容範囲といったところかしら」

「えっと、合格ってことでいいんですか?」

 

 不安そうに聞き返す拓実に、神妙な顔で華琳は頷いた。

 

「そうね、これぐらいなら構わないでしょう。叔母姪の間柄の荀家の二人の方がそっくりというのもおかしな話だけど、姉妹だからといってそこまで似ている必要があるというわけでもないものね。ともかく、さっさと中庭に向かうわよ。警備に出るにあたって、どれだけ動けるのか確かめておきたいわ」

「はーい」

 

 椅子から立ち上がり返事を待たず退室していく華琳に、拓実はにこにこしながらついていった。しかし、足取り軽く歩いている拓実の手はびっしょりと汗で濡れている。それでなくとも、良く良く見れば足が小さく震えていることに気がついただろう。

 笑顔の拓実はどこから見ても手合わせを待ちきれない様子に見えるが、それが楽しみであるという筈がなかった。季衣だったら喜ぶだろうと認識していたから、拓実もまたそう振舞っているに過ぎない。

 この半月近くのほとんどを座って勉強するだけで過ごしていた。精々が歩いて城下町を回るぐらいで、自己鍛錬している時間なんてとてもじゃなかったが捻出できなかったし、そんな環境でもなかったのである。下手をしたら春蘭と手合わせした時より酷い有様になるかもしれない。そんな不安で内心は一杯だったのだが、許定としての人格がそれを許さずにいたのだった。

 

 

 華琳の愛鎌である【絶】と、二振りの華美な長剣、そして変哲もない二本の長剣が華琳と拓実の待つ中庭に運び込まれた。それらを運び入れた女性の武将は許定の格好をしている見慣れない拓実を不思議そうに眺めていたが、華琳に一瞥されると頭を下げてきびきびと去っていく。

 拓実は、身体をほぐすようにぴょんぴょんと跳ねながら、にこにこと笑っていた。そ知らぬ顔をしてやり過ごしていたが、実は拓実はその女性武将とは面識があった。華琳の遠戚であるという曹洪、字を子廉と名乗っていた人物だ。曹洪なる武将は、拓実の読んだ三国志にも登場する人物の一人である。聞けば、やはり華琳の下で軍功高いのは夏侯惇、夏侯淵、曹洪、曹仁の四人であるようだ。

 知り合った女性である方の曹洪は経済観念が高く倹約家である印象がある人で、初めて会った時も彼女は部隊内の帳簿をつけていた。私生活でも蓄財癖があるようで、節約が常である貧乏性であるらしい。兵士駐屯所に仕事で足を運んだ時に彼女と会話したことがあったのだが、どうやら荀攸と今の許定としての拓実を結びつけることはできなかったようだった。

 

 曹洪の後姿を眺めていた華琳は、彼女が見えなくなったのを確認してからようやく口を開いた。同じく曹洪の姿を追っていた拓実も、佇まいを正して華琳へと向き合った。

 

「手合わせの前に、先に聞いておきたいことがあるわ。以前より思っていたのだけれど、鎌の扱いはあなたには少々難しいのではないかしら? どうかしら、拓実?」

「ええっとー、そうですね。動きだけなら何となくわかるんですけど、鎌の使い方は全然わかんないです」

 

 華琳の問い掛けにしばらく考え込んだ後、拓実は苦笑いしながらも素直に頷き返した。以前に華琳の使い方を見せてもらったが、精々学べたといえるのは足運びぐらいのもので、鎌という武器の利点を理解することは終ぞなかった。そもそも攻撃方法が振り下ろして鎌の先端を突き刺すか、刃部分で刈り取るぐらいしか思いつかない。

 それだって拓実が考えるだけでも、勢い余って地面に刺さってしまい隙を作ってしまう可能性、人間を断ち切るだけの速度をどうして出すかなどいくつも問題点が出てくる。あの日から考え続けていたのだが、解決策は未だ見つかっていない。

 

「そうだろうとは思ったわ。一度、許定の姿でも振ってもらおうとは思うけれど、それでも駄目なようならば、いっそ鎌は捨てて剣の扱いを覚えてもらおうと思っているの」

「えっ? でも華琳さまがいっつも使っているのって、その【絶】っていう大きな鎌じゃないですか。なら、ボクも鎌を使えるようにならないといけないんじゃないんですか?」

 

 目を見開いた拓実は、見るからに会得がいかないといった様子で華琳を見つめる。対して華琳は、小さく諦めが混ざった息を吐いた。華琳としても妥協の末の決断だったのだろう。

 

「もちろん。あなたが扱えるようになってもらえれば何も問題はないのだけれど、それだって扱いきれずに命を落しては元も子もないでしょう。別に私は鎌しか使えないというわけでもないのよ。その証拠というわけでもないけど、つい先日に私が特注で造らせていた剣が出来上がったわ。今後は私自身、剣を使う機会も増えるでしょう」

 

 言って華琳は曹洪が運んできた二つの華美な長剣に手を伸ばし、持ち上げた。その二振りであるが、刃の長さから全体に施されている優美な装飾、持ち手の精巧な造りまでが似通っている。違うところは、つばの中央部分に取り付けられた宝石の色と全体の配色だけだ。

 片手に一振りずつ持つと、拓実に向かって左手を突き出す。そちらに握られているのは青い宝石のついたほうだ。華琳は赤い方を右手に持っている。

 

「見れば分かるでしょうけど、この剣は二本で対になっているの。私がこれより使うは、この右手の【倚天(いてん)の剣】。拓実、あなたには左手にある【青釭(せいこう)の剣】を預けましょう」

「え? あの、【青釭の剣】ですか?」

 

 覚えのある響きに、拓実は思わず華琳へと聞き返す。そしてその【青釭の剣】の伝承に思い当たるや否や、すぐさま言葉を繋げる。

 

「でも、渡されても、ボクが使っちゃったらいけないんじゃないかと思うんですけど……」

「使ってはいけない?」

 

 怪訝な華琳の声に、拓実は自身の失言を悟り慌てて口を噤んだ。

 【倚天の剣】【青釭の剣】とは三国志演義に出てくる曹操の愛剣であった。曹操は配下の夏侯恩を気に入ったためにそのうちの一本を授けてやるのだが、今拓実に渡されようとしているのがそれである。

 加えて言うとその後、夏侯恩は蜀の趙雲に一撃で敗れ、以降は趙雲の所有物とされる宝剣である。これを以って趙雲が行なうとされる偉業があるのだが、ともかくこの【青釭の剣】には果たすべき役割が存在しているのだ。それをたまたま覚えていた拓実は、本来の持ち主に渡らなくなってしまいそうな話の流れに、迂闊にも声を上げてしまったのだった。

 

「……ええ、そうね。確かにあなたにこの【青釭の剣】を預けることは出来ない。これはあくまで私の剣ということになるのだから。これは、あなたから私に預けておきなさい。務める際に一々武器を借り受けにくるのでは機密の面でも自衛の面でも危険だもの」

 

 しかし、幸いにして華琳は別の意味として受け取ったようである。周囲に人影などはないが、拓実が話が漏れないよう慮ったと解釈したのだろう。婉曲に、有事の際まで見つからないように隠しておくことを伝えられた。

 大鎌を使えない拓実では、どうしても別の武器を選ばざるを得ない。おそらくは、対となる剣を持たせることで華琳と影武者である拓実の差異を隠そうというのだろう。

 

「私も【倚天の剣】を持ち歩くことになるから、表に出る際に腰に下げておけば疑う者はいないでしょう。どちらにしてもあなたは剣術を学んでおくに越したことはない。習熟の意味でも、許定も剣を得手とした方がいいわ。まぁ、他に馴染むような武器があるならば、剣と平行して使うのは構わないけれど」

「はぁ……」

 

 華琳は言って、左手に握られた宝剣を拓実へと手渡した。呆然とした様子で相槌を返して、しかしどうしたらいいのかわからない拓実は、されるがままにそれを受け取るのだった。

 

 

 

 

「ちょ、わ、華琳さま! 無理! 無理ですっ! これ以上やったらボク、死んじゃいますってー!?」

「へぇ、まだ無駄口を叩くだけの余裕があるのね。もう少しなら速度を上げても大丈夫かしら?」

「え、えええええっ!?」

 

 拓実は半泣きになって、両手で握った剣を振り回して迫り来る脅威を間一髪で弾いていた。見るからに悲壮感漂う拓実に対して、サディスティックな笑みを浮かべて上下左右に次々と剣撃を繰り出しているのはもちろん華琳である。

 やはりというか拓実は【絶】を満足に扱うことは出来なかったのだが、心構えが違うからか荀攸の時のような引け腰は見えず、武器に振り回されることはなくなっていた。その身のこなしを見た華琳は拓実の得物を剣と正式に定め、そのまま長剣での手合わせを宣言する。もちろん、拓実に抗弁する機会なんていうものは存在していない。

 そうした経緯を経て、華琳と拓実は剣同士で打ち合っているのだが、【倚天の剣】を使っては切れ味が違いすぎるから剣を合わすことも出来ないために、両者とも兵士用の長剣を使っている。しかし、もちろん刃を潰されている訳ではない。華琳も手加減しているが、一つでも直撃したなら命に関わってもおかしくない。

 

「とっとと!? ……だっ! ……わっ!!」

「そう。余計なことを考えられるのは余裕がある証拠。それにしても、結構ついてくるじゃない。けれど、守ってばかりでは逃れることも出来ないわよ」

 

 攻撃を繰り出す間隔を狭めてさらに追い立てる華琳であったが、なんと拓実はまだ追いすがっていた。華琳の剣捌きは流石というべきか堂に入ったものである。鎌を使っていた時の動きと比べてもぎこちなさは欠片も見えない。だが、それでも華琳は実力の三割も出していなかった。

 速度ばかりのまるで力の入っていない攻撃なので百姓上がりの雑兵でさえも何とか防げるものだったが、荀攸の時の無様な姿を知っていれば驚嘆する結果である。

 

 華琳の攻撃を数十も弾いただろうか。拓実は強張った顔で歯を食いしばって防御に専念していたが、そのうちにじわじわと口の端が吊り上げていた。

 そうしながらも少しずつその動きを鋭く滑らかなものへ変えていき、そのままさらに数合打ち合わせるとついに堪えきれないと声を上げ始めた。

 

「はっ! あは、あはははっ!」

「……どうしたの、拓実? 何がおかしいのかしら」

 

 息も切れ切れにして笑い声を発する拓実に、華琳は剣を振るいながら声を掛けた。向かい来る剣撃を防いでは避ける拓実はその明るい表情と裏腹に既に肩で息をしている。笑っている余裕などはない筈だ。対して華琳は、休みも入れず打ち込みながらも一切疲労の様子を見せていない。

 

「なんか、面白く、なってきちゃいました! ボクの体って、思っていたよりも全然、速く動けるんだな、って!」

「そう、それなら」

 

 笑みを浮かべてまたも体捌きを洗練させていく拓実に、華琳は合わせるようにさらに剣速を上げていく。

 自身で言うだけあって、拓実のその身のこなしの上達は華琳から見ても目を見張るものがある。目の前で剣を振るっている華琳の体の使い方をその場で真似ているのだろう。さらには反射神経や運動神経だって悪くない。動体視力に至っては天性の才能といってもよいほどで、荀攸の時の無様な様子はいったいなんだったのかと疑問を覚えるほどである。ともかく華琳が剣を振るいながらも改めて認識しているのは、拓実が人物の観察と動作の模倣に秀でているという事実だった。

 

 華琳の顔にもいつしか笑みを浮かんでいた。拓実の底がどこまであるものか、確かめたくなっていたのだった。

 面白い。こんな不思議な人間には、未だ出会ったことがない。他人からの吸収が類を見ないほどに上手いのだ。こちらがじわじわと速度を上げれば、それを見て学び、合わせてくる。華琳は、自身が昂ぶっていくのを自覚していた。

 

「どうやらまだいけるみたいね。もう少し上げていくわよ?」

「うあっ!?」

「……えっ?」

 

 華琳が速度に合わせてようやく力をこめはじめた途端に拓実は華琳の剣撃に力負けしてよろめき、続く一撃で得物もろとも弾き飛ばされた。これからが面白くなるだろうと予感していた華琳は、その予想外の光景に華琳は自失しながら声を漏らしていた。

 手応えは軽かった。だというのに拓実はあっさり力負けし、軽々と地面を転がっていった。天井知らずに上がりつつあった速度はともかくとして、力はそれほどこめたわけではない。精々、本隊兵士の一撃ぐらいのものだろうか。受けるだけに専念するなら常人でもそれほど難しくない程度の力である。妙な手応えに疑問を覚えながら、華琳は地面に座り込んでいる拓実へと近づいていった。

 

「どうしたの? 別にそれほどの力をこめた訳じゃないわよ。もう少し頑張りなさい」

「あっ、ごめん、なさい、華琳さま。手がその、ちょっと、震えちゃってて……」

 

 それほど強く打ったわけではないのに、拓実の腕には力が入らないようだった。いや、どちらかといえば衝撃によるものというよりは疲労が強いように見える。息を荒くしたまま身体を起こそうと地面に手をついているが、そこからそのまま崩れている。

 一向に立ち上がることの出来ない拓実を見かねた華琳は手を伸ばした。

 

「まったく、しょうがないわね。ほら、特別に手を貸してあげるわ」

「ありがとう、ござい、ますー。はぁ……、ふう……、ちょっと、落ち着いてきたかも」

 

 華琳はしりもちをついた状態の拓実の手を引き、立ち上がらせてやる。さして華琳は力を入れずに、拓実の身体を起こすことが出来た。

 そして、拓実を起こしてやった右手を、確かめるように開いては閉じてみる。たったそれだけで、華琳の中で湧き上がっていた疑問は氷解していく。さきほどの妙な手応えの答えを突き止めたのだった。

 

「ねぇ、拓実。あなた食事はしっかり取っているの?」

「はっ……ふぅ。えーっと、どーだったかなー? ここ半月、桂花と一緒にいる時は果物とかばっかりだったかも。なんか、あんまり食欲が湧かなくて」

「でしょうね……」

 

 同じ得物、同じ上背の二人が打ち合って圧倒的な差で片方が負ける理由はそう多くない。筋力差に技の優劣、そして残るは体重差である。拓実と華琳では、そのいずれもが要因となっていただろう。しかしその中でも、明らかに拓実は華琳より『軽かった』のだった。

 

「ふふ、どういうことかしらね……。いくらどこからどうみても女にしか見えない姿をしているといっても、同じような体格をしてこの私よりも軽い男だなんて」

「それで前より動きが軽かったのかなー。その分、すぐ疲れちゃったけど。って、あれ? 華琳さま、何か言いました?」

 

 ようやく息を整えることが出来たらしい拓実は、頭の後ろで手を組んで朗らかに笑っている。どうやら華琳の独り言は届かなかったようである。

 

「拓実」

「何ですかー?」

 

 のんきに声を上げる拓実に、華琳は酷く真剣な顔をして向き直った。突然の華琳の様子の変化にも、拓実はきょとんとしている。

 

「食べなさい」

「へ?」

「季衣ほどとは言わないまでも、たくさん食べて体重を増やしなさい。速さは大したものだったけれど、持久力に欠けているわ。加えて、筋肉もないし、余計な脂肪すらない。まるで桂花のようじゃない。そんな身体で、まともに打ち合えるわけがないわ。それでは警備の仕事にだって耐えられないでしょう」

「そっかー、そうですよねー。んー……」

 

 そんな華琳の助言を受けて、顎に人差し指を当てて目線だけで空を見上げる拓実。何か気にかかることがあるようだが、華琳はといえばそれに構っていられる余裕はなかった。

 

「筋力を増やすためにも、そうね。とりあえず私以上に太らないと駄目よ。いいかしら? 私よりもよ。私は今のままで均衡が取れているから、これ以上減らそうとすれば必要なところから削れてしまうもの。拓実、この命令は何としても成し遂げなさい」

 

 どこか緊迫した様子で華琳は命令を突きつける。そんな様子はどこ吹く風で、拓実は朗らかに笑っていた。

 

「んー、そうしたいのは山々なんですけど、でもボクって食べても太らない体質なんですよね。脂肪がないから、筋肉もつかないし。たぶん、今の華琳さまぐらいの体型がボクの標準体型なんで、痩せることはあってもそれよりはそんなに増えないと思いますよー」

「なんですって……!?」

「あ。でも、筋肉はつかなくてもちょっとずつだったら力はつくみたいだから、安心してください! 頑張って特訓したら、きっと今の剣ぐらいならちゃんと振るえるようになりますから!」

「……そ、そうなの」

 

 慄いた後それ以上二の句を継げない華琳は、呆然と拓実を見つめている。単純というべきか拓実は少し前まで政務から外されたことによる落胆も忘れて、転がった長剣を拾っては「えいやあ」という掛け声と一緒に、楽しそうに剣を振るっていた。

 

 

 


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