▽
華琳の私室から拓実が逃げ帰っての翌日。荒野に倒れている日から数えての五日目は、雲が空を覆っていて薄暗く、地面が軽く湿る程度の小雨模様であった。陳留の街も晴れて乾燥した日ならば黄砂が舞って
身だしなみを整えた拓実は桂花と合流して本日の仕事内容の再確認をした後、昨日よりもいくらか薄暗い執務室にて帳簿の記録を
それをこなしている間、華琳より業務に口出しを許されている拓実はといえば特に発見もないままに荷物を持ってついて回るだけであった。物資買い付けで使えるような現代知識なんて拓実は持っていなかったし、そもそも物価を正確に把握しているかどうかからして怪しい。昨日に続いて桂花の仕事に非の打ち所がなかったというのも大きかった。
ただ何も出来なかったからといって何も得るものがなかったという訳ではない。実際に商店に訪れ話を聞けたのは、拓実にとっていい勉強になった。また、双方に利をもたらせるように考えられた桂花の交渉を目にしたのだって得がたい経験だろう。
そんなこんなで、あちらこちらへと足を運んでいるうちにあっという間に時間は過ぎ、桂花がその日に任されていた仕事は終わったのだった。
昨日は不審な様子を見せていた桂花はというと、まだ拓実に対して戸惑っている部分はあったがその態度は軟化しつつあった。華琳に言われていたように拓実は対応を変えず、努めていつもどおりに振舞っていた甲斐あって、夜に華琳の元へと報告に向かう頃には会話もだいぶ元通りになっている。
先日とは違って互いに意見を述べながら報告する姿に華琳も眉を開いて明るい顔を見せた。放っておくようにと言いながらも気に掛けてくれていたようだけれど、しかし僅かに見せたその小さなサインはすぐに平静な表情の下に塗り固められてしまう。
半ば人間観察が癖になっている拓実に華琳のその振る舞いには思い当たるものがあった。自身の喜怒哀楽の感情を読ませないことで場の空気をコントロールする、権力者の表情の作り方である。対面するだけで相手を威圧し、場を自身のペースに巻き込む。当然、油断ならない奴と警戒を招くことになるが、人の上に立つ要職にある者なればそれが正しく利に転じるのだ。
ただ他陣営の者が相手ならいざ知らず、配下の前ではそういったものを表に出してくれた方が親しみを覚えるだろうに、華琳は感情を表に出すことを好まないようである。大笑いしている華琳を見て嬉しそうにしていた春蘭の姿は拓実の記憶に新しく、そして華琳がその振る舞いを失態だったとして反省していたのも拓実はしっかりと覚えている。華琳は、他人に弱味を見せたがらない。おそらくはいつでも冷静に、完璧な主君であろうとしてのことなのだろう。
ともかく昨日のこともあって戦々恐々としていた拓実だったが、その思惑は外れた。結果として夕暮れまでに仕事を終わらせて、華琳への報告もまた大事無く一日を終えることになった。そうして大事にいたらなかったことには、昨夜に華琳に予告されていた拓実の生国に対する問答も含まれている。
生国である日本についての話を華琳にするに当たって、拓実は一日使って考えた末に、話せる範囲で自身の境遇を話すことを決めていた。今後のことを考えると無理に隠しているよりよっぽど無用な混乱を避けられるだろうと思ったからだ。華琳も拓実の運用に関して語っていないことがあるのだろうが、だからといって拓実まで情報を出し渋る理由はない。流石に『未来から来た』なんて拓実自身が言われても信じられないような突拍子のないことは伏せたが、今まで話すことができなかったいくつかを華琳と桂花へ打ち明けた。
自宅にいた筈なのに起きたら自身が見知らぬ荒野に倒れていたこと。それ故に自国の位置も帰国する手段もがわからないこと。状況がわからなかったために旅をしていると偽って様子を探っていたことなど……。
何故か納得した風である桂花と不機嫌を隠そうともしない華琳に、今まで打ち明けなかったことに対してのいくつかの小言をもらったが、人攫いなど不慮の出来事に遭ったとでも
帰り方もわからないという拓実に憐憫の情を覚えたか、それともまた何か別の意図があるのか。華琳が位置を突き止めて然るべき対応をしてくれるとのことなのだが、この時代に自国が存在していないと言える筈もない拓実は、華琳、桂花の二人と日本についていくつかの問答をすることになる。
そうして、気候、特産物、国の規模、兵の錬度、政治形態、民の生活水準、主食、その歴史など、様々なことを問い質された。オーバーテクノロジーに当たりそうな事は極力避けて話したが、それでも文明進歩の違いが大きすぎたのか訝しげに見られ、僅かな情報から二人に危ういところまで推察されそうになった。
四季がある島国というだけで似たような地域を例に出しておおまかな位置を計測し始める桂花に、話しているときの拓実の態度を指摘し、矛盾点を突きつける華琳。しかし世界地図が存在していない三国時代では桂花もはっきりと特定も出来ずにうやむやとなり、必死の弁解が功を奏したか不承不承ながらも華琳は言葉を収めることとなった。
この問答は拓実に酷い疲労をもたらしたが、それも仕方ないことだと考えている。未来から来た他国の人間で、あなたたちの生涯は歴史に記されているなどと話したことを想定しても、いい結果は想像できない。
理解してくれた場合を仮定しても、おそらく華琳のことだから自分の行く末について尋ねてきたりはしないだろう。きっと自身の力と築いてきた人脈を用いて未来を作り上げていくはずだ。彼女にはそれだけの力があるのだから、安易に確定してもいない未来に頼って今後の指標を決めていくとは思えない。
しかし華琳がそういった意志を持っていても、逆境に陥れば未来の知識を当てにする人間が他に出てくるだろう。華琳本人にしたって人間なのだから魔が差すこともあるかもしれない。きっとその所為で、彼女たちの中に小さな迷いを生むことになる。言われたとおりに従うなんて考えは、覇道を目指し、邁進するこの陣営にとってはあまりに意志薄弱に過ぎるものだ。
また、『未来の知識』があるが故に変な先入観が生まれることもあるだろう。拓実の献策や発言に、相手の中で『それが歴史として正しいのではないか』といったような妙な補正がかかってしまうかもしれない。以前に三国志を読んだことがあるといっても、拓実は全てを記憶しているわけではない。むしろ、抜けている部分の方が多いかもしれない。加えて三国志も諸説あり、読んだものが正しい歴史になるという保障もなかった。
ならば拓実が選んで発言をするだけに留めて、事前情報無しに華琳や桂花に判断してもらった方がずっと理に適ったやり方といえるだろう。そう考えれば拓実が『未来人である』という情報は余計なものでしかない。
ただでさえ容姿と演技力の所為で、初対面の人間に理解してもらえない状況にある。影武者という立場柄、さらに胡散臭い要素を付加させたらどうなるものかわかったものではなかった。
拓実はあるがまま全てを話してしまうことに対して、自身がどうなるかといった躊躇いはない。ただ、これ以上自分のせいで規律や人間関係を複雑にしてしまうようなことを避けたかったのだった。
さらに明けて、刻は正午を回ったころ。春蘭、桂花、拓実の三人は城の中庭に集まっていた。
拓実は手持ち無沙汰に空を仰ぎ見ていた。雨こそ降っていないが昨日に引き続いて雲が掛かっていて、風は凪いでいる。先日の雨があってか空気は澄んでいて、どうやら黄砂の心配はなさそうだ。地面は湿っているものの、水溜りもなくぬかるむほどでもない。
拓実たち三人がぼんやりと立ち尽くしているのにも理由がある。昨日をもってようやく刺史から州牧への全ての業務引継ぎを終えたということで、この日、華琳たちは主だった将兵を連れて街の視察に出ることが決まった。そうして集合場所として午後に中庭が指定されているのだが、肝心の華琳はまだ現れないでいたのだった。
「春蘭、華琳様はどうなさったの?」
口をついて出た拓実の言葉に、屹然と立っていた春蘭が振り向いた。
「うむ。昼餉を召し上がられたのだが、どうにも
「そう。ご苦労なさってそうだものね、私と違って」
華琳の影武者として同じ髪型の拓実だって、ウィッグを取り付けるだけでセットに特にこれといった苦労はしていない。男子にしては髪の編み込みなどの不必要な技能を持ってはいるが、流石にヘアアイロンも満足にないこの時代で華琳の髪型を一から再現するのは不可能だ。
「州牧となって視察に向かわれるのは今日が初めてだからな。華琳さまも気をつかっておられるのだろう」
主が昇進したことに笑顔を見せる春蘭を目にして、隣に佇んでいた桂花も同意するように頷いた。納得したように拓実も相槌を返したが、刺史であった頃を知らず、州牧としての華琳しか知らない拓実にはいまいち実感の湧かない話ではある。
「ま、私の伝手が華琳様のお役に立ったのなら、あの驕慢な袁紹の元で苦難に耐え忍んだ理由があったというものだわ」
「そんなことをせずとも華琳さまであれば遠からず州牧に任ぜられたとは思うがな。しかし、こうも早く任命されたのならば、お前の手回しも無駄ではなかったということか」
「当たり前でしょう。むしろ今までの実績を考えたなら、遅すぎたくらいよ。華琳様に相応しい役職を賜れるよう用意させていただくのも私の仕事なのだから、手抜かりはないわ」
珍しく桂花に感心した様子を見せる春蘭を相手に、桂花もふん、と鼻を鳴らして笑みを浮かべてみせた。
事情がわからないので拓実は聞きに徹していたが、華琳の昇進には桂花の人脈を利用したようである。今回の手回しというのは桂花は以前に袁紹の元で働いていた時に得た伝手を用いたものらしい。当たり前の話だが、桂花と以前の主であった袁紹とは面識があるのだろう。
袁紹は名門袁家の出身であり、群雄割拠する三国志においても列強のひとつに数えられる勢力である。また、何かと曹操と関わりを持つ人物であるとも伝えられている。現在の情勢がどうなっているのか拓実にはわからないが、袁紹が存命の時期であるなら友軍としてか敵軍としてかはわからないが、戦場を同じくする可能性が非常に高い。そのようなことになった際に、同じ格好をしている荀攸として出るのは不都合が生じるに違いない。
今後の憂いとなりうることなので、拓実は会話を聞きながらも忘れぬようにしっかと脳裏に刻んでおく。
「そうね。中央との繋がりを持つ者は我が陣営にはいなかったから、そういった意味でも桂花の存在は助かっているわ。とにかく今私たちが必要としているのは力なのだから」
拓実が二人の様子を眺めながら思案していたその時、桂花の背後から声が掛かる。三人はその声の主がいるであろう方向へと一斉に振り向いた。
「華琳さま!」
その相手を視認した春蘭が、ぱぁっ、と顔を明るくさせる。急ぎ振り向いた桂花の表情も似たようなものだろう。そりの合わない二人がそんな反応をする相手なんて一人しかいない。桂花の背後から顔を見せたのは、やはり華琳であった。彼女の斜め後ろには付き従う秋蘭の姿もある。
そして春蘭に華琳の素晴らしさを説かれ、桂花の心情に同調する拓実もまた満面の笑みを浮かべていた。
「待たせたわね。雨でも降るのかしら、どうにも髪の纏まりが悪いわ」
空を仰いで、くるくると上下に揺れている自身の髪に触れる。拓実の目から見ても、いつもの髪型と違いは見られない。だが当の華琳は不満気に顔をしかめていた。
「まぁ、いいでしょう。ともかく、これでようやく季衣との約束を果たすことが出来たわね」
「約束、ですか?」
初めて聞く事柄に、拓実はつい
「ああ、拓実は季衣や桂花が私の下で働くことになった経緯を知らなかったのよね。あの子を迎え入れるに当たって、私は季衣とひとつ、約束していたのよ」
「そうだったのですか。一応、桂花については本人から多少聞いてはいますが、詳しいところまでは……」
拓実が華琳に召抱えられるようになった謁見の件は桂花のかねてからの希望によって、仕事の間の一服に拓実の口から伝えられることになった。語り終えた後、お返しという訳でもないが拓実も桂花が軍師として任官された経緯を知りたがったのだが、どういった理由からか簡単にしか語られなかったのだった。
「あら、そうなの? まぁ、桂花にしてみれば喜んで話すようなことでもないのだから当然でしょうけれど。今から視察に出るから詳しい説明は省くけれど、季衣は村が盗賊の襲撃に悩むことなく過ごせるように、私がこの地を平定するという条件で傘下に入ったのよ。けれどもあの子の村は陳留から離れていて、刺史として管轄する位置に含まれていなかった。こうして州牧となって直轄する土地が増えて、晴れてあの子の村を保護出来るようになったという訳」
「なるほど、そのような理由があったのですか。個人的には桂花が任官するに至った経緯を話そうとしないことにも興味があるのですが」
「ば、馬鹿っ、視察が控えていてお時間がないと華琳様が仰られているでしょう! それに、別に何にもなかったわよ! あっ、そうです! その季衣はどうしたのですか? 華琳様がお目見えになられたというのに一向に姿が見えませんが」
拓実が視線を向けた先では桂花が焦った様子で話題を変えようとしている。別に無理に聞きだすつもりはなかったが、桂花の様子でその時に何らかの失敗をしていたことを拓実は知ることが出来た。きょろきょろといくらか大げさに見回す桂花に、今まで黙って華琳の側に控えていた秋蘭が口を開く。
「先ほど、山賊の根城が見つかったとの知らせを受けてな。季衣は今しがたその討伐に向かったところだ。あれも疲れているだろうから姉者や私が出ると言ったのだが、相手が賊となると私が言ってもどうにも聞かん」
一通りの説明をした秋蘭は、小さく息を吐いて「困ったものだ」と続ける。拓実が見回してみれば、華琳、春蘭や桂花が表に出している感情の大きさに差はあれど、質自体は同じものだった。
しかし、周囲が感じているものに拓実は共感することが出来ずに様子を眺めている。この中でただ一人、異様に切迫した様子の季衣の姿を見ていないのである。
「もう少し周囲を見渡せるだけの余裕を持てれば言うことはないのだけれどね。ともかく、季衣が討伐に向かって参加しないのだから、視察に向かう人間はこれで揃ったわ。桂花、後のことは頼むわよ」
「はい、それは構わないのですが。しかし、華琳様ぁ、何故新参の拓実を連れて、私を置いていくのですかぁ……? どうせ私が残ることになるのなら、せめて拓実を道連れに……じゃなくて、拓実の一刻も早い学習のためにも残していったほうが……」
「桂花を置いていくのは任せられるのがあなたしかいないからよ。拓実を置いていったところで、万一の時に城中を取り仕切ることなどは出来ないでしょう? 加えて、聞けば先日の街案内は時間が足りずに中断したらしいじゃない。いい機会だから、私自ら案内してあげるのも一興だと思わない?」
「それは……確かに、華琳様の仰るとおりですけども……」
城に残るよう言われているのは、唯一危急の事態でも判断を下すことが出来て、尚且つある程度の権限を与えられている桂花であった。
拓実は内政業務の勉強中でありながら、他にも覚えなければならないことが多い。積み重なって、拓実に結構な重圧を与えているほどだ。その為に何よりも時間が足りない状態に置かれているので、てっきり桂花と一緒に留守居を任されることになると思っていたのだが、華琳は半ば強硬に拓実に同行を命じたのだった。妙に歯切れの悪い返答する桂花は、華琳にしては珍しい非合理性から何らかの思惑を感じているのかもしれない。
「ここで問答してても仕方なし、そろそろ出発するわよ」
ぱん、と手を打った華琳はそう言って話を打ち切り、さっさと城門へと向かっていってしまう。慌てて春蘭、秋蘭、拓実は、先を歩いていく華琳に急いで追いすがる。
「ああ、拓実。知りたがっているようだから、どうせなら道中にでも桂花が任官した時のことを話して聞かせてあげましょうか?」
「か、華琳様っ!?」
去り際に話を蒸し返され当惑する桂花を置いて、華琳は背中を向けながら小さく手を振った。一行は笑い声を伴いながら、城下街へ向かうのだった。
数名の護衛と合流した四人は、街へと繋がる城門へ辿り着いた。生憎、良いとはいえない天候だが、それでも先日感じたとおり街には活気が溢れていて 旅人、商人、そして三国時代とは思えない未来的な格好の旅芸人など、外からやってきた人々の姿も多い。
そんな街の景観やその盛況ぶりについて、いくつかの言葉を交わした後、四人は時間の関係もあり三方へ別れることとなった。賊討伐に向かっているために視察に同行できなかった季衣へ、それぞれがこれはと思う土産を探してやるためである。先日支度金もかねて給与をもらった拓実には、買い物を体験する丁度良い機会でもあった。
春蘭は街の南側を、秋蘭は北側を、華琳と未だ地理に暗く腕っ節のない拓実が組となって中央を進んでいく。恐らくバレはしないだろうが、拓実は華琳と似通った容姿が悪目立ちしないよう猫耳のフードを深めに被ることにした。
そうして華琳と共に歩いていく中央通りには商店が多く、そこから道幅狭い裏通りへ入って歩くと小さな屋台や料理店が見られる。街の中央部にはこういった食料品を取り扱う店や料理店が固まっているらしく、通りには様々な声が飛び交っていて、道行く人たちは思い思いに言葉を交わしている。
そんなあまり身を置いたことのない環境に、拓実はどうにも場違いな気分になる。現代日本では薄れている人情味がここにはあるようだ。
華琳直々に街の区画の説明を受けながらのんびりと歩いていた拓実だったが、ふと気を取られ、あるものが目に留まって足を止めた。それに気づいた華琳もまた足を止め、拓実へと振り返る。
「あら、どうしたの? 何か気になるところでもあったかしら?」
「あ、いえ、大したことでは。ただ、この街の料理は小麦を使ったものがこうも多いものかと」
言葉を返しながら再び足を進めて華琳の後へ続く。彼女もまた移動を再開させた。
拓実の鼻をくすぐっていたのは、麺料理や蒸した饅頭、揚げたての春巻きなどの食欲をそそる香りだった。ついつい何となしに店頭に並べられる料理に目が移ってしまっていたのだが、いくつか見ているうちに疑問が湧いていた。
「先程から熱心に眺めていると思ったら、そういうこと。拓実の国の主食は米だったわね。全く作らないわけでもないけど、やはりこの地方では麦の方が主流よ。米食を主にするのはもっと南……そうね、江陵や江夏のあたりかしら。水稲にしても陸稲にしても豊富な水源が必要だから、適した地域でもないと安定した供給は難しいわ」
「はい。私の国は気候もそうでしたが、多く川が走っている為に稲作に適した土壌でした」
「ええ。そうでしょうね。後は漁業が活発といっていたかしら」
「周りが海に囲まれておりますので、魚介類を使った郷土料理もたくさんありました」
「そう……機会があれば口にしたいけれど、いくらなんでも海魚までは流通してはいないわね。塩漬けなどに加工してならばともかく、鮮魚はここまで運搬している間に腐ってしまうもの。精々川魚ぐらいだわ」
そうして会話を続けながら、拓実は周囲を見て回る。頭の中は疑問符でいっぱいだった。
今もそこらで売られている饅頭だが、これは諸葛孔明が南蛮遠征の際に立ち寄った村で、人柱の代わりに作った羊や豚肉を小麦で包んだものが起源であるらしい。当時は川に流していたが、それが後にもったいないからという理由で祭った後に食べるようになったものではなかっただろうか。曹操である華琳がつい先日まで陳留刺史であったことを考えると、今あってはならないものである。その伝承が間違っていた、と一概に言えないだけの疑問はまだ残っていた。
麺料理……この前のラーメンにしてもそうだが、出汁をとってコクのある味付けし、具を載せるなんて手の込んだ料理を庶民に振舞うというのも考えにくいことだ。今通り過ぎた屋台のラーメンには鳴門巻きまで乗っている。揚げ春巻きも、発祥は比較的近年であるといった記述を見た覚えが拓実にはあった。少なくとも、三国時代ということはなかった筈だ。
ここにあるのだから仕方ないのはわかっているが、文化祭発表の為に事前に調べていた歴史や食文化と、現在こうして目の当たりにしている現状の差異が、どうにも納得いかない。それについて言及すれば、回り回って女性である華琳たちを否定することになるのではないだろうか。ならばきっと、これについては深く考えてはいけないのだろう。そうやって疑問ばかりを吐き出してくる、妙に常識的な自身の価値観を必死に修正していたのだ。
「やはり異国の風土というのは、中々に新鮮なものね。又聞きだろう噂や主観の混じった情報ではどうしても信憑性に欠けてしまう。そういった意味では、有意義な話が聞けたわ」
「報告や書面からではわからないことがあるということでしょうか?」
「そういうこと。だから今日もこうして、実際に足を運んで視察に出てきているのよ。それにしても一国民であるという拓実が、それだけの情報を知り得るだけの基盤が国として出来ているということが驚嘆に値するわ。敢えて情報を共有し、国内中に公開しているということなのだろうけど、どういった経緯でそんな方針が生まれたのか興味が湧くわね」
内心で華琳のその言動にひやりとしながらも、拓実はすました顔で歩みを進める。
その『日本』の異常を華琳は理解して、しかし拓実が話さないことを見逃している。拓実が帰れないという事情が、様々な意味で真実であると認識しているに違いない。
華琳のそんな対応に甘えて、拓実はある意味で開き直っていた。きっと下手に隠したところで華琳はそれに気づくだろうし、そんな中途半端な線引きでは拓実だっていずれボロを出す。あまりに決定的なものでなければ話してしまっても構わないだろうと拓実は楽観的に考えていた。
「やーやー、そこのおふたりさん。よかったら見てってくれへんー?」
そこで話の流れを断ち切ったのは、横から声をかけてきた少女である。拓実の耳が正しく働いているのならば、関西のイントネーションである。価値観修正に掛かりきりの拓実の脳みそは、その事実を認識するのに多少の時間を要した。
遅れて驚きと共にそちらへと視線を向けて、拓実はまた驚いた。胸の大きな、快活そうな可愛い少女がござの上に商品を並べて座っていた。髪の毛を頭の横、高いところで二つにまとめていて、華琳や春蘭、秋蘭が好んでつけているような金属製のドクロが髪留めのアクセントになっている。
問題なのはその格好である。上半身が水着だった。そうじゃないというのならば下着だ。袖が別についているが、とにかく生地面積が圧倒的に小さい。
「これは、竹かご?」
そんな格好に面食らったものの、すぐに我に返った拓実はしゃがみこんで並べられた商品を眺め始めた。その端に拓実が異様なものを見つけると、華琳もそれに気づいたのか目線を向ける。
「おそらくは出稼ぎに来たかご売りでしょう。けれど……これは何かしら? 見たことがないわね」
あっはっはっ、と明るく笑う少女の前に並べられたかごの脇に、言葉では形容しにくいそれがあった。日本にあったというお茶を運ぶカラクリ人形のその中身というのが近いだろうか。木で出来た枠や金属の軸、同じく木製の歯車やらが組み合って出来ている。
常識修正済みの拓実はこうして歯車を見ても「あるんじゃしょうがない」程度の感想しか出てこなくなっている。
「いやー、よくぞ聞いてくれましたっ! 今まで誰も聞いてくれへんから折角持ってきたのにどーしよーかと思てたんよ。これはうちが作った『全自動かご編み装置』っちゅーカラクリで、なんと、これと材料さえあれば手間も時間もかからず簡単に竹かごが完成する優れモンや!」
右手で胸を叩き、少女は自信を漲らせてその大きな胸を更に張る。周囲では中々見られないその迫力に、拓実は慄いていた。思わず、複雑な表情でその少女を眺めてしまう。
かなりのプロポーションを誇る我が陣営の先進国である春蘭、秋蘭の姉妹をも確実に上回っている。そして発展途上国である三人の姿が脳裏に浮かんでしまう。目の前の彼女と脳内の三人を並べてみて、あまりの経済格差に憐憫を覚えてしまった。これほどまでに胸部にこだわってしまうのは自身が演じている
「拓実、彼女を睨んでもあなたの胸が膨れることはないわよ」
「か、華琳様ぁ!? 私は、別にそんなこと……っ!」
そんな不届きな思考を巡らせていた拓実が、他人からは物欲しそうに見えているのは果たしてどうなのであろうか。華琳は拓実の性別を忘れているのか、それとも拓実が桂花になりきれている故と取るべきなのか、判断が難しいところである。
「ん? いやいや、見たところぺったんこやけど、安心しい! これからやで! しっかり栄養とって適度に運動すれば、案外大きくなるもんや」
「ふふ、良かったじゃない。これから大きくなるそうよ」
「大きくなんて、なりませんから!」
「あ、そういや他の人に揉んで貰うっちゅーのも聞いたなぁ」
「ふぅん……」
聞くなり、華琳の表情がなくなった。ただ、じっと拓実の胸部を凝視し始める。ぶわっと拓実の背筋に悪寒が走った。
「ちょ、ちょっとあんた! さっさと用件を話しなさいよっ! 私たちはいつまでも話に付き合っていられるほど暇じゃないのよ!」
今この瞬間、明らかに華琳の顔付きが変わろうとしていた。拓実は咄嗟に言い放って話の流れを変え、華琳の変化を止めたが、この選択はおそらくは正解だったろう。危機一髪といえる状況に、拓実の背中の冷や汗は止まらなかった。その顔も少し血の気が引いて青くなっている。
「おっと、すっかり忘れとった。それじゃちょっとこの取っ手掴んでや」
「はぁ……これでいいの?」
華琳の顔がつまらなさそうになったのを確認して、拓実は胸を撫で下ろした。半ば呆然としながら少女の言われるままにする。
「せやせや。ほんで竹をここにこう、囲むように入れて……っと。これで準備万端や。その取っ手を回したってー」
「んっ……と」
拓実が映写機のハンドルのようなそれをぐりぐりと回し始めると、水着少女が入れた竹板の束が編まれてカラクリの上部から少しずつせり出てくる。結構な力を入れないと回らないぐらいに重たいが、それでも一つ一つ編みこんでいくことを考えればかなり楽になっているといえるだろう。
「大したものね。編みこみの粗さも目立たない。側面はいいけれど、底と枠の部分はどうするの?」
「あー、そこは手動になりますー」
「そ、そう……まぁ、手間は省けるんじゃないかしら」
「けど、これのどこが全自動なのよ……結構大変じゃない」
ぐるぐるとハンドルを回す拓実に痛いところを突かれたのか、女性はうっと詰まった様子を大げさにしてから苦笑いして見せた。明るくてひょうきんな性格で、どうにも憎めない人柄である。
そんな少女を眺めながら、拓実は手元を動かし続けていた。それに気づいたか少女の顔が焦ったものに変わる。
「ああっ、あかんて! もう入れてある分の材料、編み終えてるんやで!」
「えっ?」
ぐりぐりとハンドルを回し続けていると、確かにどうやら材料切れらしい。ぼろっとかごの側面だけが装置から吐き出された後、あろうことか拓実の手元にあった装置は弾け飛んだ。
「きゃあ!?」
「拓実っ!?」
その勢いで拓実はころんと後ろに体勢を崩して、転げることになる。からくりの枠組みはばらけて飛んで、拓実の倒れている横を木製の歯車が転がっていく。
「あっちゃー、やっぱこうなってもうたかー。これ、まだ試作品なんよ。竹のしなりと強度の折り合いがつかんでなぁ。一応改良したの持ってきたんやけど」
「あ、あああ! 危ないじゃない! こんな爆発するような物を置いておくなんて、何考えてるのよ!」
上体を起こした拓実は、きっ、とまなじりを吊り上げて叫んだ。きんきんと響く声に、少女は耳を塞いで笑っている。
「ま、客引きになるかなー、思てなんやけど。ん、お客さんら、姉妹なんか? 髪型やら雰囲気やら違うけど顔立ちがそっくりやねぇ」
「は? な、何でそんなこと……? あっ!?」
言われ、立ち上がった拓実はすぐさま身だしなみを整えていく。そうして頭に触れて、触れるはずのものが手に当たらないことに気がついた。転がった拍子に被っていたフードが外れてしまっていたのだった。
それを知って、拓実は急いでフードを被り直す。ばくばくと心臓が拍動していた。そんな不審な様子の拓実に、かご売りの少女も不思議そうに視線を向けている。動揺を隠せず、つい困って華琳を見てしまう拓実であったが、その華琳はといえば焦る様子もなく笑みを浮かべていた。
「違うわ、姉妹ではないわよ。私なんかより、この子のおばの方がよっぽど似ているもの」
「ほー。そらいっぺん見てみたいもんやなー。まぁ、ともかくうちのカラクリ壊してもうたんやから、一個くらい買うてってぇなー」
「ふぅ、まったく仕方ないわね。拓実、買ってあげなさい」
「は、はいっ!」
あっさりと少女の疑念を払い、落ち着いた様子で場を治めた華琳に、拓実は尊敬のこもった視線を送る。そうして言われるまま竹かごを一つ買い取ることになったが、これが拓実の貰った初給与での初めての買い物となったのだった。
その後は何事もなく、別れて視察に向かっていた秋蘭と春蘭と合流することになった。
街の視察と季衣へのお土産探しをしていた筈なのに、何故か四人の手には三つの竹かごと大量の服がある。これでは季衣も喜ばないだろうと、急いで中央通りへと戻って持ち帰りできるように包まれた饅頭を購入し、それをかごに入れて帰途につくことになったのだった。
「もし、そこの若いの……」
「誰?」
並んで城門へと戻ろうとする四人を引き止める声がかかり、声をかけられたであろう華琳が
「……占い師か」
拓実は秋蘭の言葉に思わず内心で納得していた。この人物の持っている異様な雰囲気は常人とは明らかに違っている。
「華琳さまは占いなどお信じにならん! 慎め!」
「春蘭。控えなさい」
「は? ……はっ」
異様な風体の相手を威嚇するように春蘭が一喝するも、華琳本人に遮られてしまった。一瞬怪訝な表情を浮かべるも春蘭は引き下がる。それを見計らった華琳は、一人その占い師へと近づいていった。
「さて、この私に何が見えるのかしら?」
「強い、とても強い力を持つ相じゃ。希にすら見たことの無いほどに……」
「ほう、それで?」
「時代が時代であれば、稀代の名臣となるじゃろう。兵を従え、知を尊び、武を重んじた、国を栄えさせるほどの、治世の能臣と。……しかし、今はそのような時代ではない。お主を臣下とするだけの力が、今この国にはない……」
声が続けられる度に、華琳の笑みは深められていく。それは称えられてのことではない。純粋に何を言われるものかと面白がっている様子だ。
「では、この時節であるならば、私は何になるというのかしら?」
「野心のままに……国を犯し、野を侵し、歴史に名を刻むことになろう。そう、類い希なる、乱世の奸雄として」
占い師の言葉に一拍、空気が凍りついた。誰もがその言葉をすぐさまに理解することが出来なかったのだった。
「貴様ッ!」
「秋蘭!」
「で、ですがっ!」
乱世の奸雄。手段を選ばずに、ひたすら上を目指す小賢しき者。乱れた世に、策謀と力を示す者。
そうまで主君を貶されれば、華琳を敬愛している秋蘭が黙っていることなどはできないのだろう。珍しく、華琳の制止の言を投げかけられて尚、異を唱えている。
「乱世の奸雄、ね……。ふふっ、結構なことじゃない。気に入ったわ。秋蘭、この者に謝礼を」
「し、しかし」
プライドの高い華琳であれば本来激怒するところである。その性格を知るからこそ、命令された秋蘭は動けない。貶した相手に謝礼を施せという華琳の意図が掴めず、二の足を踏んでいる。笑みを浮かべていた華琳は表情を一転し、秋蘭から目線を切って拓実へと移した。
「拓実、この占い師に幾ばくかの礼を」
「はっ」
秋蘭が未だ占い師を睨みつけているのに対して、拓実はなんら反論もなく、すぐさまその華琳の命を受け入れる。人物鑑定の謝礼をする場合の相場など拓実にはわからないが、手持ちから少し多すぎるぐらいに金子を出し、占い師の前の器の中に入れにいく。
こうして拓実が即座に動けたのにも理由があった。華琳の直々の命であったからとか、占い師の言った言葉の意味を理解できていないといった理由ではなく、話を聞いているうちに『乱世の奸雄』という言葉を聞いた時の『三国志における曹操の反応』を思い出していたからだ。
その高い能力故に傲慢な嫌いがある曹操が、人から貶しとも言える言葉を聞いても怒りを覚えず、それどころか喜び、手厚く礼を返した逸話である。どういった感情によるものかの全容は拓実にも不明だが、汚名となりうるそれを甘んじて受け入れるということは華琳にもその言葉に感じ入ったものがあったのだろう。そう納得していたのだ。
「……お主」
「私?」
拓実が謝礼を器に入れて占い師との距離がもっとも近くなった時、再びかすれるような声が響いた。どこを見ているのかすらわからない占い師ではあるが、その声は確実に拓実へと向けられている。
「お主の相は、仕える者を王へと上らせる、王佐の才。いや、そこな者と同じく乱世の奸雄とも。……だが、救国の徳王にも見える。見るたびに相が変化している、不思議な相だ。見たことが無い」
ぐい、と覗き込むようにされて、拓実は石になったかのように動けなくなってしまう。どういったわけか、布の中はここまで近づいても、せいぜい人間の輪郭までしか見えてこない。まるで、人の形をした暗い穴のようだ。
「だが、確かであるのは、一つ。大局の示す流れに従い、逆らわぬようにしなくてはならん。さもなくば、待ち受けるのは身の破滅。……けれども、お主ならば己を殺し、役割を授かったなら、見合った名を歴史から与えられよう。……新たな流れも、あるいは生まれるやもしれん」
拓実には、占い師の発言の意味が掴めない。
身の破滅……大局なる何かに逆らえば、死ぬとでもいうのだろうか。そして示されたその救済の方法は、自分を殺すこと。身の破滅を防ぐために、自分を殺す? そもそも新たな流れとはなんなのか。名を歴史に刻むでなく、見合った名を歴史によって与えられるとは、どういう意味なのか。
「よいか。いもせぬ者にその座は存在しない。くれぐれも気をつけよ」
最後に占い師は拓実に忠告を残して、座り込んでしまった。声を放つことも、身じろぎをすることもなくなった占い師を呆然と眺めていた拓実は、春蘭に連れられて城への帰路についた。
城へと向かうその間、拓実は華琳たちの会話にも碌に参加せずに黙り込んだまま先ほどの言葉の意味をずっと考えていた。占い師の言葉はしばらく、拓実の心にしこりのように残り続けていた。