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拓実、華琳、秋蘭。誰もが黙して語らずに、どれだけが経っただろうか。部屋には得体の知れない居心地の悪さが充満していた。
そんな中、退室していった桂花の後ろ姿を眺めていた華琳が思い出したように拓実へ顔を向ける。拓実もまた彼女が去っていくのを視線で追っていたが、華琳からの視線を感じて慌てて向き直った。まだ内心では疑問が渦巻いており、意識の何割かは桂花が去っていった出入り口へと向かったままだ。どうにも拓実は目の前にいる華琳に集中しきれずにいた。
「で、何故桂花がああもあなたを避けているのかしら? 拓実、心当たりは?」
跪きながらあれこれ考えていた拓実は、その発言からようやく華琳も桂花を気にかけていたことを知って目の色を変える。やはり華琳も桂花の異様な態度に気づいていたようで、今もその訝し気な表情を隠さずに拓実を見つめていた。拓実、桂花とも華琳の前では暗黙のうちに平静を装うようにしていたが、最後の応答は二人の不和を察せるほどには不自然に過ぎたようだった。
「いえ、朝議が終わってしばらくしてからは、ずっとあのような様子なのですが……」
問われて迷うように視線を巡らせた拓実は、しかし桂花が変貌したその理由がわからずに眉根を寄せる。
拓実は桂花に何かをした覚えはない。強いて言うならば朝議で見下し笑ってしまったことがあったが、朝議の後しばらくは顔を合わせて会話していたのだからそれも考えにくい。いくつか気に掛かるところはあれど、こうまで避けられるようなことをしでかした覚えはなかった。
伏目がちにしてあれやこれやと考えに耽る拓実を前に、この様子では埒も明かないとした華琳はひとつ息を吐く。
「まったくしょうがないわね。なら今日一日何があったのか、一から報告して御覧なさい」
「……はい。それでは少々長くなりますが」
前置いてから、拓実は記憶をさかのぼっていく。桂花とのやり取りに疑問を覚え始めたのは、そう、朝議を終えた後直ぐのことだっただろうか。
――城内を先導されて歩く拓実は、桂花の後ろで腑に落ちない様子で首を傾げていた。すれ違う文官たちが向けてくる奇異の視線も、疑問が先にたっていて気に掛からない。
というのも、「仕事について詳しく説明するからついてきなさい」と言葉を受けて桂花の個室へと向かっているのだが、どうにも彼女の様子をおかしいと感じていたのである。
つい先ほどのことだったが、桂花は突然に足を止めたかと思えばこちらへ振り向いて、じっと拓実を見つめてきた。話しかけてくるわけでもない彼女を不審に思った拓実が何用かと声を掛けたのだが、碌に反応を返すこともせずに踵を返して先を歩き始めてしまった。
その後も何度かその後姿に声をかけてみるが同様で、一度たりとも拓実に声を返すことをしなかった。まるで拓実の声が聞こえていないかのように歩みを進めている。
口元を手で覆い隠しながら伏目がちにしている様子からして、考え事をしているのだろう。演技のためにも桂花の一挙手一投足を観察している拓実であるから、それはすぐにわかった。
しかし、それほどまでに真剣に考えていることはいったい何事なのか。流石の拓実といえど皆目見当がつかない。情報を揃えれば演技している人物の心理さえ把握してみせる拓実にしても、本人に同調できるのはその時々の感情と思考傾向ぐらいのものだ。
ある程度までは絞れるものの、考えている内容を推察しろと言われれば完全にお手上げである。先日に本人の前で述べた桂花の心情も、性格からくる感情的な思考であったから理解できたのだ。当たり前の話だが、役柄の持つ思考能力や速度、知識量までを真似ることなどどんな名俳優にだって出来ない。それらを下地にして置かれてしまうと、情報不足で思考を組み立てることができないのだ。事実、こうして桂花の思考を辿ろうと拓実は必死になるも、桂花本人が考えている内容に迫ることが出来ないでいる。
演じているのは、あくまでも拓実を下地においた上での役柄でしかない。拓実自身は自己暗示によって役柄になりきっているが、どうしたって演技の端々には『拓実』が顔を覗かせる。演技の質を向上させていくには、この辺りを何とかしていかなければならないと拓実は考えていた。
本人が行うだろう行動や思考を、無意識に演じられなければ上達は見込めそうにない。だがこれ以上となると、どうしたらいいのかもわからないでいた。それは、心情、思考形態までを似せ、本人と変わらぬところまで突き詰めていくということになる。普通に考えるならば、そんなことは不可能だ。
しかし、拓実は一つ、目指す境地に限りなく近いところを既に知っている。そう、それは謁見の際に華琳に成りきっていた自身。『トランスした状態の自分』が一番、目指している役者像を再現していた。素の状態では絶対に耐えられない重圧に耐え、死の恐怖すらも克服してみせた。あの時の拓実は確かに、自己の限界を越えて華琳が如き振る舞いが出来ていたのだ。
――しかし、あれが自分の演技の完成形なのか。役者の意思を反映させずにする演技が本当に正しいのだろうか。拓実にはわからない。確たる理由はなかったが、しかしどうにも拓実はそれとは違うような、そんな気がしている。
そのまま拓実まで考え込んでいるうちに、いつの間にか桂花の私室まで辿り着いていたらしい。拓実が気がついた時には、こちらへと振り返った桂花が自室の扉を開け放って入室を待っている状態だった。
「着いたのだからさっさと入りなさいよ。与えられている時間は有限なのだから一秒たりとも無駄には出来ないのよ」
つんけんとしていて、表面上の桂花は昨日までと何ら変わるところはない。華琳以外に過度の好意を向けたりしないこういう言動こそ、桂花にとっての標準な対応であると拓実は理解している。その刺々しい態度に紛れてしまうが、春蘭や秋蘭、季衣に向けるものには友好的な感情が隠されている。
だがしかし、今こうして拓実が桂花から受けているものはそれとは違っていた。桂花の視線やその物言いに隔意を感じている。この辺りを荒らす賊らに向けるほどの敵意はないが、警戒はそれより強い。春蘭と言い争っている時のあからさまのものとは違い、どこか探るような態度。どういった心情からのものかは不明だが、少なくとも桂花が拓実のことを警戒しているのは確かなようだった。
「ほら。早くしなさいって言っているでしょう、愚図ね。いつまでそこでそうしているつもりよ」
「もう。わかったから袖を引っ張らないでよ。シワになっちゃうじゃない!」
ぐいと桂花に袖を引っ張られて、ぶつぶつと文句を呟く拓実だがその内心では疑念が晴れない。昨日は幾度か衝突したものの何だかんだで拓実は悪くない関係を築けていたと思っていたのだが、それは一方的な勘違いであったのだろうか。
いつものように悪態をつきながら、桂花に従って彼女の部屋へと入室した。
「……と、今日私が華琳様より任されている仕事はこんなところね。まずは文官連中から当たるわ。下手に小賢しい分、私腹を肥やしている奴がいるとしたらまずこいつらよ。で、あなたからは何かある?」
「特にはないわね。私はまだどういった運営をしているのか詳しくは知らないことだし、とりあえず今日のところは現状把握を優先させてもらうわ」
部屋に入ってからも桂花の様子はつれないままで変わることはなかった。まず、目線が合わない。拓実が顔を上げると、桂花はすっと手元の竹簡に視線を落としてしまう。だが拓実が竹簡を見ていると、知らぬ間に桂花はじっと拓実のことを見つめている。
会話の方も途切れ途切れになり、長く続かない。世間話なんて以ての外で、唯一の例外は職務についてを話す時ぐらいであった。仕事についての説明こそしてくれているものの警戒は解かれていないようで、話している間も桂花と自身の間に壁のようなものを感じている。
まるで腫れ物に触るように自身を扱う桂花の様子が昨日とはあまりに違っていて、拓実はどうにも落ち着かずにいた。言いたいことがあるなら言って欲しいものだが、桂花はそういった態度を拓実にわからぬよう取り繕い、隠そうとしている。不審な様子を隠し切れていないために拓実には筒抜けだったが、とりあえず悪意は感じないためにそ知らぬ振りをして会話を繋いでいる。彼女は自身の何に戸惑っているのか、ともかくそんな対応をされては面と向かって何があったのかなどと聞くことは拓実には出来なかった。
「ふん。賢明ね……じゃあ、朝食を終えたら資料室に向かうわよ。そこに部署毎の収支簿があるから、そこからひとつひとつ確認して潰していくわ」
拓実の返答を聞いて小さく息を吐いた桂花は席を立って、足早に部屋の入り口へと足を向ける。慌てて椅子から立ち上がった拓実は、部屋を出ようとする桂花に追いすがった。
無言で竹簡を開いては内容を吟味し、注釈を別の竹間に書き込んでは見ていた物を閉じる。朝食を終え、資料室から竹簡を持ち帰ってきた桂花と拓実は、再び桂花の私室に戻って仕事に取り掛かっていた。
ぽつぽつと確認するように短い会話を挟んでいるもののそれらは全て仕事に関するものであったし、作業に没頭している桂花を邪魔をする訳にはいかないために拓実から彼女に声をかけることは
「……拓実」
二人で腕一杯に抱えて運んできた竹簡が残る三つを残すところで、今まで業務内容以外では口を開かずに黙々と作業を進めていた桂花が拓実の名を呼んだ。
拓実が開いた竹簡から目を離して顔を上げると、そわそわと茶の色をした髪の毛先を指先で弄り、視線を逸らしながらも拓実に向き直った桂花の姿があった。緊張しているのか、肩は強張っていてその挙動は落ち着きがない。だが、その声には真摯な響きが聞き取れた。
「な、なによ?」
これまでの桂花の態度に関係することなのだろう。今までのような事務的に話していた時とは佇まいが違う。そうまでして問い掛ける質問は何なのかと拓実は身構えるが――
「あ、その……。そう! あんた、何を考えて生きているわけ?」
「はぁ? それ、どういう意味よ。わざわざ呼びかけておいて、私に喧嘩売ってるの?」
あまりにあんまりな言葉に意表をつかれて、拓実は桂花がするように言葉を返してしまった。
違う。拓実がすべき対応はやんわりと受け答えて、何故こんな態度をとられているのかを言葉の端からでも探ることであった。確かに桂花の言い振りも酷いものではあったが、こんな応答の仕方では桂花は反発し、隠している本心を更に遠ざけてしまう。
「っな、なんでもないわよっ!」
案の定、桂花は顔を歪めて残りの竹簡へと取り掛かってしまった。既にこちらに向けられていた体は完全に机へと向けられて、努めて拓実を意識から除外するように手元の竹簡を睨みつけている。こうなっては拓実が何を言おうと、桂花はまともな返答を返さないだろう。
「……はぁ」
いつの間にか彼女に向かって伸ばしかけていた手を静かに下ろす。拓実はどうしていいかもわからず、迂闊な己に閉口した。
その後まもなくして収支簿を確認する作業は終わりを迎え、各部署へ指示を出しに足を運ぶことになった。
最初に向かった兵糧担当への指示を終わらせ、次へ向かうべく二人は退室したのだが、拓実はその場に立ち尽くして桂花を見ていた。拓実がついてきていないことに気づいた桂花が胡乱気に振り返る。
「何してるのよ。さっさと次行くわよ」
「あ、そう……ね」
気に入っていない返事が返ってきて、さっさと歩き出そうと踵を返しかけた桂花はその足を止める。むっと表情を険しくさせていたが、拓実を見るや彼女は含むところがあるものの笑顔を浮かべた。
「ああ、もしかして私のやり方に何か不備でも見つけたのかしら? 言いたいことがあるなら言ったらどう? ま、私の仕事に不備なんてある訳がないのだけど」
ふん、と意地の悪そうな笑みを浮かべた桂花は、まるで挑発するように声をあげた。次いで、自身よりも少し背の低い拓実を横目で見やる。しかしそれでも変わらずに、呆然としたまま見つめてくる拓実に相対し、思わずといったようにたじろいだ様子を見せた。
「何よ、何か言ったらどうなの?」
「いえ、桂花の手腕に感心してただけ。あんたってすごかったのね。今までみくびってたわ」
「は……? はぁ!? えと、あんたいきなり……その、何なの? そう、いつもの減らず口はどこへやったのよ!?」
感嘆の声を上げる拓実に、桂花は目を見開いて、慌てた様子で声を荒げる。いきなりの賛辞の言葉に対応できなかったか、恥ずかしさから顔を赤く染めている。
しかし、紛れもなくこれは拓実の本心である。桂花は優秀だった。事前に確認していた収支簿から業務上での無駄や、不正の痕跡を探し当てていたようだ。さらには内政官全員の仕事内容を把握しているのだろう。従来よりも効率のよい方法を指摘しては、それによって浮いた資金を予算から削っていく。竹簡に書き込んでいた内容を知らされていなかった拓実は、初めて彼女が何をしていたのかを知ったのだ。
「別にどうもしないわ。華琳様の軍師を名乗るだけのことはある、と納得しただけよ」
つい今しがたまで二人が訪れていた兵糧担当の文官が詰めている執務室では、数十人の文官が業務をこなしていた。
そこの指揮を執っている文官を相手に、桂花は理路整然と問題点を指摘して是正を求めた。相手は無理があるといくつか反論するも、結果的にはその利を理解させられ、首を縦に振らざるを得なくなった。
相手の文官が男だったので少々どころではなく口が悪かったが、そんな桂花の姿は拓実の目には紛れもない稀代の賢者として映っていた。
加えて、事前に内政面では重用していると華琳から聞いていたが、実際に目にして自身が勘違いしていたことを知った。軍師として登用されてからそう経っていないと聞いていたので、てっきり一部署を担っている位のものかと思っていたが、桂花は内務関係全てを総括しているらしい。いくら成果主義のこの陣営といえどもこの抜擢は異例に過ぎる。そう華琳にさせただけの能力を桂花が所持していることを思い知らされ、改めて評価し直していたのだった。
「華琳様の軍師であるこの私の有能さがようやく理解できたのね。……まったく、今まで私のことをどんな目で見ていたのやら。とんだ節穴ね」
いくらか落ち着いたらしい桂花は、しかしまだその名残が残っていて頬が赤い。そして何が引き金になったのやら、先ほどまでとは違い口数が増えている。
「まぁ、いいわ。ほら、次へ行くわよ」
「わかったわよ」
そうして二人は歩き出したのだが、朝から感じていた精神的な重圧がいくらか軽減されて、拓実の足取りは軽い。こころなしか、桂花に渡されて持ち運んでいる竹簡の束もそう重く感じない。
「拓実」
肩越しに後ろを見やった桂花が、目線で拓実を促した。声色と仕草からそれを察した拓実は、小走りで桂花の横に並ぶ。そのはずみで手元からこぼれそうになった竹簡の束を、改めて胸元へ抱え直した。
「華琳様に言いつけられているから仕方なく聞いておくけれど、今の政務室で何か気にかかることはあった? 思いついたことがあったなら言ってみなさい。早々無いとは思うけど、もしも役に立ちそうなら私が手直しして草案を纏めてもいいわ」
言われ、執務室の光景を思い出す。机の数と文官の数、間取り、どこに何がおいてあるのかが拓実の脳裏に鮮明に思い出される。
華琳のことだから報告時に何かしらの発見を求めてくるのは予想できている。桂花と男性文官との論戦を聞きながらも、拓実は周囲を観察していたのだった。
「そうね。気にかかった事といえば、この国では紙は日常的に使うようなものなの?」
「はぁ? そんなわけないじゃない。以前からあった製法が改良されたばかりで、未だ高級品よ。普段使うなら、あんたが今抱えている竹簡がほとんどね。農民連中なんかは木片とかで代用しているようだけど」
「やっぱりね。さっきの政務室、張り紙やらで結構紙を多用してたわよ。あんたは担当者との論戦に夢中になってたんだろうけど、無駄遣い、控えさせた方がいいんじゃないの?」
聞いた桂花はきょとんとした様子で目を何度か瞬かせる。遅れて拓実の言うその意味を理解したのか、眉を寄せて不快を
「何ですって! 節制するようにって内々で伝えておいたのに、やっぱり男だから言われたことをすぐ忘れるのかしら! それとも私が新参者だからって舐めてかかっているか……どっちにせよ、あの男、図体と態度ばかり大きいだけで役に立ちはしないのだから。いっそ生まれてきたことを後悔させてあげましょうか」
「大男、総身に知恵が回りかね、ってやつね」
何やらぶつぶつと文句を連ねている桂花を見て、拓実は思わず小さな声でこんなことわざを拓実はつぶやいていた。それを聞き取ったか、感心したように桂花が口元を緩める。
「へぇ。語感がいいわね、それ。男を名指しっていうのが素晴らしいし、春蘭みたいな大女に変えても使えそうだわ。それはともかく、紙の節約については私も前々から文官連中に伝えていたことだから、今夜の報告で華琳様に改めて建言するのもいいんじゃない?」
ぽんぽんと言葉を応酬させていくうちに、桂花の態度は昨日までのと変わらなくなっていた。気負いなく、それこそどちらが憎まれ口を叩いても会話は問題なく続く。桂花の気質から、彼女の話し相手になりうる人間が珍しいのも手伝っているのかもしれない。
「ま、新参のあなたが気がつくならやっぱりそれぐらいのものでしょうしね。警戒していた私が馬鹿みたいだわ。それはともかく、ついでだから次の部署の是正内容の話もしておくけど――」
「ああ、ちょっと待って。もう一つあるわよ」
「もう一つ?」
そうして拓実が桂花に伝えてみたのは、執務室で見つけた木炭や灯火用の油について――支給される物資の管理制度だ。先に疑問となるところを桂花に聞いてから、拓実は自身の考えを桂花へと話していく。
まだそれほど寒さを感じるでもないのに木炭は隅へ積み上げられていて、灯火用の油は壺に充分な量が常備されてあった。その一角が拓実は気にかかっていた。
拓実に考えられる節約術は、せいぜい現代日本に照らし合わせることだ。電灯を消し忘れない、エアコンは外出時には消す、洗い物では水を出しっぱなしにせず後で纏めてすすぐ。会社ならば紙面の印刷物を減らしたりして経費削減するというところだろうか。
電気、水、ガスの代わりになるものとなると、ここだと灯火用の油であり、川や井戸から汲んでくる水であり、火鉢や香炉などに入れて暖を取る木炭となる。
つまりは必要な物を、必要な時、必要な分だけ。どれも誰もがやっていることだろうが、現代日本でも通用するならきっとどこでも通用するだろうという単純なものだ。
どうやらここでも例に漏れず、物資に関して切り詰める余地が残っているようであった。しかしここまで大きな組織となると、桂花がぼやいていたように節制を下部末端まで行き渡らせるのは難しい。
そこで拓実が考えたのは、逆に充分な量を与えないというものであり、追加物資受け取りの際の記名制である。
しかしこの案を話し始めてから、また桂花の様子におかしなものが混ざる。物資支給について訊ねられれば、根気良く、それこそ予算の分配や買い付け先の単価利益に至るまでを懇切丁寧に拓実に説明してみせた。立案に際しての疑問を解消した拓実が自身の草案を語れば、桂花は興味深いというように聞きに徹してくれていた。
しかし、出来の悪い弟妹の面倒をみるかのようにしていた桂花は、拓実が話すにつれてどんどんと顔つきを険しくさせていく。そうして、物資使用量と仕事量の対比について把握する利点にまで拓実の話が及ぶと、ついに桂花は相槌を返すことなく鋭く拓実を見つめるようになっていた。
拓実がそれらの説明を終えると、桂花は顔を険しくさせたまま拓実の草案へ疑問を投げかけていく。想定していないようなものばかりだったが、それらになんとか返答すると、訊くべきところを訊き終えた桂花は通路の真ん中で足を止めて黙り込んだ。
突っ立ったままの桂花は幾許かしてから拓実へと顔を向け、とつとつと想定できる問題点に対しての解決策を語り、最後に華琳ならば採用するだろうから下準備は自身の方でやっておく、と言って話を打ち切った。
「桂花が本格的に私と顔を合わせなくなり、仕事の件以外の会話が途切れてしまうようになったのはその後からでしょうか。付け加えると、その後の仕事には特筆すべき出来事もなく、桂花の態度に変化はありませんでした」
話し終えた拓実は胸の奥から深く息を吐き出した。こうして一から語った拓実には、それでもやはり自身に落ち度があったように思えない。
だが、途中で桂花の対応が変化していたことを考えると、少なくとも自身が原因の一端を担っているのだろうことは間違いないようである。だというのにそれがわからないでいるというのは、何とももどかしい。
「そう、なるほどね。秋蘭、貴女は桂花のその行動、理解できるかしら?」
「……いえ。私が聞く限りでは拓実の行動に非は見当たりません。むしろよく働いているように思えます。どうにも桂花の異常は拓実が原因ではないように思いますが、しかし華琳様にはおわかりになるのですか?」
第三者の意見を聞けば何かわかるかもしれない、と期待していた拓実だったが、その秋蘭の言葉に肩を落とす。
こうなっては多少強引にでも本人に聞き出す他ないか、と体中を包んだ諦観は、次に聞こえた華琳の言葉によって吹き飛ぶことになった。
「ふふ、わからない筈がないでしょう。といっても共感できるのは現時点で私と桂花、今後を含めれば季衣ぐらいのものでしょうけどね」
「華琳様! それではその、桂花の様子に心当たりがあるのでしょうか?」
まさかの言葉を聞き、拓実は目を見開いて無意識に身を乗り出していた。
桂花の様子については、拓実にとっては近年のうちで一番といっていいほどの難題であった。その解決の糸口となれば放ってはおけない。その心根を理解しているつもりであったが今日の彼女の意味深な態度はまったく理解できず、桂花に対する人物評までもしや間違いではないかと内心は不安で揺らぎ始めていたのだ。
「もちろん。間違いなく原因はあなたよ、拓実」
「私、ですか?」
「ええ。当たり前でしょう。他に桂花がおかしくなる理由なんて存在していないわよ」
「確かに状況的に私以外には考えにくいことではありますが……わかりかねます。いったい私は彼女に何をしたのでしょうか。私はただ華琳様のお役に立つべく、非才の身ながらにお仕えさせていただいているだけですが」
うなだれながら声に出す拓実を見てか、華琳は小さく笑声をあげた。そんな笑えるような簡単な問題なのだろうか。拓実は不安げに視線を華琳へと向ける。
「そうね。あなたに非はない。よくやっているわ。むしろ、内政業務に携わるのが初めてという割には出来すぎていると言っていいぐらいね。桂花の様子がおかしいのも、荀攸としてのあなたが内政官として桂花の想定以上だったからでしょう」
「申し訳ありません……どうにも華琳様が仰る意味が」
「わからない? つまり桂花は自分の立ち位置が脅かされているような強迫観念に襲われているのよ。拓実にはそんな気がないことは彼女も理解できているし、本来の役職を考えると拓実が軍師の立場に専属で収まることはない。だけど、桂花の姿で桂花にない発想から策を生み出すあなたを前にして、焦燥感が湧き上がってくるのを抑えられないのでしょう」
華琳にしても胸につかえていたものが取れたのか、その表情は明るい。酒で口内を湿らせると、言葉を続けた。
「私にも演技する拓実を見て、そういった懸念を覚えたことがあるわ。雰囲気、仕草、口調、容姿、思考までを模倣する拓実が、それに準ずる技能を身につければと考えると空恐ろしくなることもね」
「横からの発言をお許しください。それにしては、華琳様がそういった素振りを我らに見せたことはないように思いますが」
拓実も疑問に感じていたことを、秋蘭が声に出していた。桂花と同じ思いを感じていたという割に、華琳が拓実に対して隔意を持った様子を、周囲の誰も感じたことはなかったようだ。もちろん拓実本人にもそんな覚えはない。
「当然よ。そんな事を思っていたのは拓実の人となりを知るまでの僅かの間なのだから。あなたがどう大成していこうと、曹孟徳個人の目指すところとは直接の関わりはないわ。追いつかれるのが嫌だというならば、届かぬところまで上り詰めればいいだけでしょう」
「か、華琳様…………この拓実めは感服いたしましたっ」
胸を張ってそう言い放った華琳。涼やかに拓実を見、笑みを浮かべる姿には一分の隙もなく、拓実にはどこか芸術品を見ているような感慨すらあった。丸一日考えても解き明かせなかった桂花の行動理由を言い当てたことも手伝って、華琳の背後には後光が差しているようにさえ見えている。
「その、華琳様。ならば、私が桂花に対してすべきことはありましょうか? いまいち桂花が感じているものを私が理解できていないために、解決策も浮かばぬ有様なのですが」
言って、拓実はすがるようにして華琳を見上げた。最早拓実が頼れそうなのは華琳のみだ。幸いにして、華琳は桂花が今抱えている問題を乗り越えている。間違いなく有用な助言をもらえるだろうと、華琳を見つめる拓実の瞳には自然と熱がこもっていた。
しかし、その拓実の期待を感じ取っただろう華琳は何故か首を振ってみせる。
「いいわよ、放って置けば。拓実も気にせず普段どおりに過ごせばいいわ」
そんな投げやりな言葉に、拓実はまたも肩を落とすことになった。意気消沈した拓実を前に、仕方ないという風に華琳は言葉をつなげる。
「あのね、私は何も無為にしろと言っているわけではないわ。あくまで今回のことは桂花の内面の変化によるものなのだから、ここで拓実が何かしようものならその結果によっては桂花は頑なになりかねないのよ。桂花が自身を見つめ直さない限り、解決することはないことなの。桂花だって馬鹿じゃないんだから、一日二日もすれば自身の中で折り合いをつけるでしょう」
「はぁ……」
「ともかくこの話はおしまい。ここで私たちが話していてもしようのないことだもの」
そう言って締めくくり、華琳はやおら隣の秋蘭へと視線を向ける。「もう亥の刻(22時)です」と返されたのを拓実も横で聞いて、そんな長時間にわたって話していたのかと驚いた。
「なんだかんだと話し込んでいたらだいぶ遅くなってしまったみたいね。今日聞く予定だったあなたの腹案、悪いけど明日にして頂戴。ああ、ついでという訳ではないけど、その時にはあなたの生国についても聞かせてもらうからそのつもりでいなさい」
「わ、私の生国についてですか?」
「何? 何か都合でも悪いのかしら?」
「いえ、そのようなことは!」
若干の苛立ちを含んだ声を受け、拓実は平伏していた。半ば反射的に了承の言葉を返しながら、下げられた顔には焦りが浮かんでいる。
華琳の機嫌を損ねてしまったから頭を下げたわけではなく、そんな自身の表情を華琳に向けないためである。
実際、都合が悪いどころの話ではなかった。拓実が唯一、華琳たちに隠しているのが出自のことだ。もちろん真実を話していないのも何かしらの意図があってのことではない。拓実本人ですら信じることができない自身の立場であるが故に安易に打ち明けることが出来ず、いつしかその機会をなくしていたのだった。
元はといえば状況がわからないために無闇に目立つべきではないと考えて自身について詳しく語ることをしなかったのだが、華琳や自分の為に力を尽くしてくれるみんなに対して嘘をつき続ける必要はあるのだろうか。僅かな間にそんなことが拓実の脳裏をよぎっていく。
「さて、それはそうと拓実。この前は断ったけど、今夜はどうするのかしら?」
いきなり話題と華琳の声の調子が変わったことで、拓実は顔を上げた。椅子に座ってこちらを見下ろしていた華琳は立ち上がり、呆然と見る拓実へと近づいていく。
「……あの。今夜は、とは?」
「この私の寝室にこんな時間までいるのだから、察しなさい。それとも、はっきり言わなければわからないのかしら?」
言いながらも拓実の目前まで歩み寄った華琳は、自身と同じ金色の拓実の髪を手で
その発言の意味に思い至るや拓実の顔面には血が上って、頭の中は真っ白になってしまう。桂花の役を全うしているならば一も二もなく華琳に身体を預けていただろうが、初心な拓実ではそこまで演じることが出来ない。
「え!? あっ、いえ、私は、そんな……」
恥ずかしさから両手を所在なさ気に右往左往させるのだが、髪を
意味を成さない言葉の羅列と、桂花と同じ容姿にしてはあまりに珍妙な対応に、華琳は耐えられないといった様子で肩を震わせる。
「ふ、ふふ。やはり面白いわね、拓実は。安心なさい、ただの戯れよ。……ああ、でも、このまま無理矢理っていうのもそそるわね」
その言葉に拓実は目を見開き、身体を強張らせた。
「そんな! 相手から来るまで待つだけの器量を持ち合わせていると、華琳様は仰られていたでは……」
「何事にも例外というものは存在するものよ。それに、その相手から誘われているのに手を出さないのは逆に失礼じゃない?」
「一度もお誘いした覚えはありません!」
羞恥で叫ぶ拓実の顔は耳まで真っ赤である。混乱からの興奮で瞳も潤んでいる。拓実のその様子に華琳はまた食指を動かされたらしく、その目に情欲の光を灯らせ始めた。口はこれでもかというほど弧を描いて吊り上っている。まるで肉食獣を前にするような恐怖を覚えた拓実は、ふるふると身体を震わせた。
「ああ、ほら。言った側からこれでは、襲ってしまったとしても私は罪に問われないと思わない? 貴女はどう思う、秋蘭?」
「……私は桂花と同じ容姿とは思えないほどに庇護欲をそそられていたのですが。そう言われてみれば、どこからともなく嗜虐心がふつふつと」
「し、失礼致しますっ! それでは、また明日の夜にご報告に伺わせて頂きますので!」
どうやら周囲は肉食獣だらけらしい。そう悟った拓実は目を瞑り、喚くようにして言い放って足早に華琳の私室を辞する。
最低限の礼儀として華琳に背を向けぬよう後ろ歩きに部屋を出ていくのだが、慌てすぎたのか入り口の段差に躓いて、後ろにコロンと転がってガツンと後頭部を床に打ち付けた。
「ぁっ……つ……!」
のみならず、転がった拍子にその猫耳のついたフードを目深に被ることになってしまい、前が見えないまま立ち上がった所為で更に蹴っ躓き、体の前面を廊下へ叩きつける破目になった。びたんと、とてもいい音が暗くなった廊下に響く。
「……っ! ……! …………!」
踏んだり蹴ったりの拓実は声にならない悲鳴を上げて悶えた後、よろよろと足取り定まらない様子で廊下の奥へと消えていく。
たまらないのは拓実本人であるが、痛みで扉を閉め忘れたためにその一部始終は余すところなく華琳と秋蘭が目撃する事となり、二人は仲良く過呼吸へ陥る事となった。