影武者華琳様   作:柚子餅

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13.『荀彧、荀攸に脅威を覚えるのこと』

 

 自室への道を歩きながらも、桂花はもやもやとした言いようのない思いを胸に抱えていた。そんな湧き上がってきた感情を持て余していることもはっきりと自覚している。自身の感情すら自制出来ないことに苛立ち、普段よりも表情が険しくなっているのがわかった。

 こうまで落ち着かないその理由を、桂花本人は理解している。一重に、拓実が華琳に上申していた案によるものだった。

 

「……なによ?」

 

 桂花が思わずといったように足を止めて後ろを振り返ると、自身と瓜二つの姿をした人物が怪訝な声を上げて見つめ返してくる。拓実が着ているものは、桂花がいつも買い付けている服屋から購入したものであるから、寸法が違うだけで仕立ては全く同じものだ。その顔つきは本来華琳にそっくりなだけあって桂花本人よりもいくらか勝気な雰囲気が強いものの、仕草から表情の作り方までを忠実に真似ているためその違いが気に掛からない。

 まるで鏡に映った姿を見ているような錯覚に襲われ、桂花は少しだけ眉根を寄せた。

 

 不本意ながらも桂花は、拓実の演技力に関しては高く評価している。おそらく今こうして並んで歩いていても第三者からは違いなんてほとんどないのだろう。加えて桂花にはそのようには聞こえないものの、周囲には声までそっくりに聞こえているようである。

 驚嘆してしまうほどの精度で拓実は桂花を写し演じている。そしてそれこそが、桂花が気に喰わない理由であった。だが、男の身でありながら自身をこうも演じてしまえるという先日に覚えた苛立ちと、今日感じているものはまた違う。

 

「……? …………っ」

 

 続いて何事かを声に出しているらしい拓実を放って、桂花は踵を返して自室へと再び歩み始めた。

 考え事に耽る桂花の耳に、その声は届かない。

 

 

 桂花は、己の頭脳が凡百よりも優秀であることを知っている。幼少より他と比べて物覚えが良く、発想は柔軟であり、物事の要点を掴むのが殊更に上手かった。

 幼くしてそれを自覚していた桂花は智こそ自身が尊ぶものであると信じて、多くの書物の内容を自身の頭脳に蒐集(しゅうしゅう)してきた。いつしか桂花にとって読書とは切っても切り離せないものになり、それこそが頭脳を武器とする桂花の自己鍛錬となっていた。そうして十と幾つかの歳を数えるまで磨き続けていると、周囲に自身以上の知識を持つ者はいなくなっていた。

 

 桂花にとって書物とは、宝箱のようなものだった。開いてみれば知識が詰まっていて、どれも自身を豊かにしてくれる。

 遠い過去の王の物語。亡国の盛衰の軌跡。ある者が一生を通して得た教訓。人はこうあるべきという啓蒙――自身が一生を費やしても得られないだろうほどの多くの知識が、その宝箱には眠っていた。

 

 そして桂花は書物を通して、過去様々な賢者や愚者が生きていたことを知る。

 ……人物の器を的確に見極める者、地理に聡い者、政治に強い者、軍略に明るい者、技術を伝える者、動くべき機を知る者。

 他を決して信用しない者、己の力を過信する者、嘆くばかりで動かぬ者、智を軽んじる者……。

 何かに秀でれば、他の誰かより劣る部分があった。暴君が布いた悪政と呼ばれている行為にも学ぶものはある。そういった者たちの生涯は興味深いものであったし、桂花の模範となってくれるものであった。

 

 そんな賢者、愚者たちを師と仰いでいる桂花は、情報と経験をこそ重要視するように育った。環境と条件を整え、きちんとした道筋を辿らせれば結果は自ずとついてくるものであると過去の事柄から学び得てきたからだ。だからか、不確定要素や博打のような行動を嫌った。確たるだけの理由や裏づけがなければ、安易にそれを用いることをしなかった。そうして統計や数字などの情報を重視するようになり、同時に先人からの教えを軽んじない保守的で堅実な思考が桂花の根底に出来上がっていった。

 

 そんな桂花だからこそ、拓実がした献策の内容に小さくない動揺を受けている。

 民の識字率が高いことを――つまりは民に学を与えることを前提に、それを有効活用するという『目安箱』。これを聞いた時、桂花はからかわれて怒りを覚えていたことすら忘れて、意見を述べる拓実をまじまじと見つめていた。

 まず桂花はその案の突飛さに驚き、そして半ば反射的にその案を鼻で笑った。桂花には、民に学を授けるという前提からして破綻しているようにしか聞こえなかったのだ。

 

 だが、この考えは何ら特別なものではない。支配者層の人間であれば、ほぼ間違いなく桂花がしたような思考を辿ることになるだろう。そしてそれは、致し方のないことであった。

 何故なら、過去より大陸には『民とは支配されるものである』という認識が受け継がれている。これは敢えて口に出すまでもない不文律であり、常識でもある。『帝』なる『統治すべき者』が世に認知され、そしてそれに誰も疑問すら覚えない現状がそれを表しているだろう。

 国が国として機能する為には、民は不可欠である。民がいなくては国は成り立たず、国がなくては王はない。しかしあくまで民は統治される存在であって、統治者がいるというのに民が領分を越えて(まつりごと)に口を出すなんてことは考えてはならないことであった。

 

 それに倣う様に、帝の存在を知る統治者たちはみな『民に過分な力を持たせてはならない』という認識を持っている。その地域の君主の力量によってその『過分な力』の程度に差はあるものの、彼らが力を持てば持つだけ領主に対する不満が表れるようになり統治はそれだけ難しいものとなる。臣民に学を授けることは経済発展や人材育成などを容易にするものではあるが、充分に『過分な力』の範囲に入りうるものだ。

 たまたまここ陳留ではそれを御せる華琳が直接施政を担っているから行っているだけで、統治者主導でそれを行っている州や街はどれだけあるものだろうか。

 

 そんな大陸の常識に投じられた一石が、拓実の進言していた『目安箱』であった。

 落ち着いて仔細を聞き、先入観を取っ払って検証してみれば驚くほどに利点ばかりが浮かんでくる。今となってはこんな簡単なことすら考え至らなかった自身に憤りさえ覚えていた。しかし、これも固定観念が薄れている今だからそう感じているのだろう。例え同じような案が頭を()ぎったとしても、桂花はそれに着目することなく却下していたに違いなかった。

 

 結局は、現状の陳留で実施するには現実的ではないということでこの案は華琳に退けられることになったが、下地さえ整えられればすぐにでも『目安箱』は街に設置されるだろう。そしてそれは、この街を豊かにする確信を匂わせている。少なくともこの『目安箱』には、桂花の目から見ても致命的な欠陥は見当たらない。

 要望を受け入れることで民の統治者への不信を和らげ、有用な人材を見つけ出す指標となり、現状での問題点を洗い出す。拓実が挙げた利点は以上のものだったが、情報の種類によって恩賞を与えるなどの制度を敷けば、現場でしか知りえない情報などを得ることも出来るだろう。

 ――例を挙げてみれば、地方や他国の情報であるとか、必要とされている物資の把握、陣営内の不正告発などなど、数もさながら分野も多岐に渡る。その応用範囲は街全体に及び、副次的効果は想定するだけでも挙げればきりがない。

 

 確かに生み出されるものは益ばかりではない。民がそれによって増長する可能性もあり、また対応によっては臣下や民の間に軋轢も生まれることだろう。都合の悪い要望を握り潰そうとする者や、虚偽を訴える者たちが出てくるのは想像に難くない。

 しかし、それらは決して防げないものでもない。しっかりとした制度を作り上げさえすれば、華琳の統治下においては利点の方が大きく勝るものだ。桂花だけでなく、主君である華琳にとっても拓実のこの発想は目から鱗であったことだろう。

 

 もし、この大陸に渡ってきた異国の旅人などからこの『目安箱』の発想を聞いたならば、桂花はそういった考えがあるものかとただただ素直に感心しただろう。だが、その相手が同じ陣営に属している文官であるというのでは勝手が違う。まして、件の人物が自身と同じ姿をしているのであればそれは尚更。

 この未知の発想をする拓実と比較されるのは、間違いなく似通った容姿を持つ己ということになる。そんな事実に、桂花は言い知れぬ焦燥感を駆り立てられていたのだった。

 

 桂花の見る限りでは、拓実は自身に及ばないだろうものの頭の回転が常人に比べて早く、また物覚えも良い。文字の学習進度からの見立てでは、おそらく半年もすれば拓実は文官として人並み程度には働けるようになろう。

 それだって、これから先の数年はいい。この土地の風土どころか文字すら覚束ない拓実ではそうそう適した献策は出来ない。今回はたまたま施行出来るだけの人材が揃っていただけで、拓実がこの大陸の風習を把握するまではどうしたって見当外れな意見が続くことだろう。

 だが、十年、二十年先を見据えてみればどうか。この大陸の知識に加えて、他に見られぬ新たな発想を持つ『荀攸』と、この自分。果たして、移り変わっていく時代に重用されるのはどちらなのだろうか。

 

 ここまでを思い描いて身を震わせたが、こんなものはただの妄想である。そんな状況になることはないだろうことを、桂花は頭で理解している。

 桂花と拓実の知識量の差は絶対的であり、拓実が研鑽に充てるのと同じだけ桂花にも時間が与えられるのだ。自身が日課になっている自己鍛錬をやめることだってありえない。冷静に考えれば、自身と同じ高さに立つまでに十年程度では到底足りまい。

 そもそも華琳が桂花と拓実を両天秤にかけるようなことからしてあり得ない。軍師という立場に立つ者は何人いようと困ることはないものだ。

 軍師は各自の視点から様々な案を君主に提示し、軍略を交わしてその有用性を競うだけで、実際に方針を決定していくのは君主である。ならばこそ、多く軍師がいたとしても不都合なことなどは起こりえない。自身に匹敵するだけの識者の考え方に触れられることを考えれば、桂花にとってはむしろ願ってもないことだ。

 

「……でも」

 

 今感じている焦燥感が錯覚であると理解しているが、先ほどこんな光景を桂花は幻視していた。そして、それこそが桂花を不安にさせている。

 それは拓実が桂花と変わらぬ知識を身につけ、しかし桂花にない斬新な発想で華琳に献策する様子だった。華琳の一番近いところに当然のように控える拓実と、それを満足そうに受け入れている華琳。桂花はただそれを側から眺めている。まるで自身こそが本人であるように桂花を写し取った拓実が、軍師の立ち位置を桂花から奪ってしまうその幻は、あまりに現実味がありすぎた。

 

 

 

 

 

 日が暮れ、食事時を過ぎてしばらくした頃。昨日分と合わせて仕事の遅れを一日で取り戻した華琳は、自室で秋蘭と杯を交わしていた。

 そうして二時間ほど経つが、二人に酩酊した様子は見られない。華琳がほんのりと頬を染めているがそれだけである。飲んでいる杯の中身だってそれほど酒精の強いものではない。度の強い酒を滅多に作ることが出来ないのもあるが、この後桂花と拓実が訪ねてくることもあって華琳は薄い酒を選んでいた。

 独酌という気分でもないために秋蘭を呼び出しただけなのだが、ついつい本日の仕事の経過を訊いてしまったのを皮切りにして、自陣営における問題と今後の展望についてを語らっている。大まかには目下不足している資金や人材の対処。目に見える問題としては以前にも増して増加している賊徒についてか。

 

 それらを経て、話はいつしか拓実の件へと移り変わる。取り扱い方によっては問題といっても差し支えない存在であるし、今後の動向にも密接に関わってくる人物であるから話題に上るのは当然であった。

 

「朝議の後、拓実はまた面白い案を挙げたものね」

 

 言ってから華琳は、くい、と杯の中身を飲み干す。

 一日で普段の五割増の仕事量をこなしてみせた華琳だったが、流石に疲れの色は隠せない。酒にはそこそこ強い華琳ではあるが、疲労からいつもより酒の回りが早いようだった。華琳は口の端を吊り上げながらも、目の前の秋蘭を気だるそうに見やった。

 

「おそらくは異国故の発想なのだろうけど、文官として見ても拾い物かもしれないわ。頭の凝り固まった連中には、拓実の存在はいい刺激になるでしょう」

「刺激にはなるものとは思いますが……。しかし、『目安箱』でしたか」

 

 空になった華琳の杯に、秋蘭は(うやうや)しく酒を注ぐ。目を細めてその様子を眺める華琳を前に、彼女は少しばかり思案する様子を見せた。

 

「確かに我らにとって画期的ともいえるものではありますが、同時に毒とも薬ともなりかねない危うさを孕んでいるように私は感じました。拓実の出自を多少なり知っている我らであるから抵抗少なく聞き入れることが出来ましたが、知らぬ者が聞けば奇人と評されてもおかしな話ではないかと」

 

 注がれ波紋を広げる酒を見つめたまま、華琳もまた考え込む。

 確かに有用な政策であったし、その着眼点はこの大陸の常識に浸かってしまっていた華琳にないものであった。自身にない観点から物事を考えられるとなると、拓実の文官としての重要性は自然と高いものとなる。

 

「――ええ。どういった国で生きてきたのか、とにかく拓実の価値観は大陸のものとは異なものよ。この地続きである大陸でだって地方ごとで風習が違うのだから、それが海を挟むとなればかけ離れてしまうのも当然といえるのかもしれない」

「しかし、事情を知らぬ他の者が華琳様のようには考えられるとは思えませんが」

「そうね。既に拓実のことを荀家の人間として紹介してしまっている。同郷の人間がした発案とすれば、その異様さが際立ってしまうことでしょう。となると、この国での常識を教え込むまでは他の文官と一緒に仕事をさせることは極力控えさせるべきか。とにかく拓実には時間が必要なのだけれど……私直属の文官としたことが思わぬところで役に立ちそうね」

 

 秋蘭の疑問に対して、自嘲気味な笑みを浮かべた華琳は目を瞑る。視界を暗闇に閉ざして静かに頭を働かせている。華琳には気にかかっていることがあった。

 華琳が拓実の器を量るに、頭の回転は優れたものだがそれでも有能な文官程度という認識である。軍師である桂花と並べ比べると見劣りしてしまうのは否めない。率直に言えば洞察力や発想力はともかくとして、拓実の挙げていた『目安箱』は彼一人が一から構想できるようなものだとは思えないのだ。

 加えて、献策の際の拓実の話し振りはどこか見聞調でありながら、端々に経験則が見え隠れしていたことに華琳は気がついていた。それらを総合して考えた結果、『目安箱』という政策は過去どこかで試験的にでも実施されたものではないかと華琳は推測している。

 だが、組織立ったそれなりの規模の勢力でもなければこんな大掛かりな政策は施行することは出来まい。となると拓実の故国は少なくともこの陳留と同程度には発展していたという事実が残るのだが、それは同時にまだ見ぬ大国が世界に存在していることを示している。果たして、彼の国は敵となるか味方となるか。場合によっては拓実を通して渡りをつけ、友好的な交流しておくのもひとつの手であるかもしれない。

 

「どちらにしても、一度拓実の故郷について詳しく聞いておきたいわね。今夜献策の機会を与えてあるから、それを聞いて切り出すかどうかを判断しましょうか。ああ、もう。退屈しないで済むのは歓迎なのだけれど、少しばかり考えるべきことが増えすぎよ」

 

 はぁ、と深く息を吐いた華琳は思わず天を仰いだ。言葉とは裏腹に、華琳の表情は悪いものではない。

 

 その演技の才に惚れ込んで引き込んだが、拓実は色々な意味で特殊な立場にあった。そしてやはりというか、何かと問題が付いて回ってくる。

 それらが害を生むだけというならばすっぱりと切捨てて対処できるのだが、長い目で見ればそれを補って余りあるだけの利益となりそうなのである。いうなれば先行投資であるのだが、金銭的には負担なく華琳の手間だけをとらせるだけというところがまた性質が悪い。場さえ整えてやれば文句なしの結果を出してくれるのだろうが、その場を十全に整えるまで華琳の気苦労は絶えなさそうである。

 

「華琳様、桂花にございます。報告にあがりましたが、お時間はよろしいでしょうか」

 

 華琳が考えを纏めながら酒の入った杯に口をつけたところで、部屋の外から声がかかった。慌てる様子もなく机に杯を置くと、ゆっくりと口元を拭う。

 

「構わないわ。拓実も一緒なのでしょう。二人とも入りなさい」

「それでは失礼致します」

「失礼致します」

 

 それぞれ似た声質と抑揚で告げられた声の後、桂花と拓実が入室してきた。こうして華琳が二人並んでいるのをみるのは二度目になるが、どうにも見慣れない。似た人物が並んで存在している光景を目の前にして、見間違えかと無意識に幾度かまばたきをしてしまう。

 

「……華琳様?」

 

 継ぐ言葉が華琳から発されないことに、桂花は首を傾げている。見れば拓実も不思議そうにこちらを見つめていた。自身が半ば自失していたことに気がつき、華琳は取り繕うように口を開く。思っているよりも酔いが回っているのだろうか。

 

「なんでもないわ。それで桂花、早速だけれど今日の成果はどうだったの?」

 

 その華琳の言葉を受け、桂花、拓実の両名はその場で跪いた。携えていた竹簡を目前に掲げて桂花が口を開き、拓実がそれを眺め見る。同じ姿をした二人が跪くその光景は、華琳にはやはり見慣れないままであった。

 

「はっ。本日は今朝のご報告の通りに、各方面の物資請求、資金運用の是正を行ないました。部署毎の請求過剰分と不透明な予算申請の見直し。同時に、浮いた状態であった繰越予算を徴収した結果、いくらか資金の見通しが立ちました。詳細はこちらに」

 

 そうして桂花が献上するかのように渡してきたものは竹簡。紐解いて開けば、どの部署でどれだけの無駄があるか、そしてそれを正すことによってどれだけの資金を捻出できるかが事細かに記されてある。

 

「――あら、結構な余剰が出てくるものね」

「それが、仕事こそ完遂してはいるものの公費を着服していた者がいたようでして……。州牧となって人手が足りず、多く人員を雇い入れたために末端まで華琳様の薫陶(くんとう)が行き届いていないものかと思われます。それらの者の名は巻末に列記して置きました。華琳様が定めた規定に合わせて処罰を下すよう、通達は終えてあります」

 

 華琳が見てみれば確かにその竹簡の終わりには十数名の名が並べられている。悪しき慣習というべきか、どの勢力においても仕事さえこなしていれば、個々の能力で浮かせた金をいくらか懐に入れることを黙認する節があった。おそらくこれらの者たちも他の陣営なりで働いていたのであろう。他では許されていたのだろうが、しかしここではそうではない。

 勿論そういった軍規についての説明は事前にしてある。同時に、有能なものであればそれを働きによって示せば相応に還元するという旨も提示されている。今回はそれを軽視したためにこのような軽挙に出たのだろうが、華琳が洛陽で勤めていた一幕を知っていればそのような愚を冒すことはなかっただろう。

 

 ――華琳はかつて、洛陽にて北部尉として勤めていたことがある。その役職は、簡単に言ってしまえば警備や治安を取り締まる隊の隊長のようなものである。

 決して高いといえない職権でありながらも華琳は治安維持に対して厳格に務め、規律に則って厳しく振る舞い、たとえ相手が自身より高官であろうとも退かずに罰則を適用させてきた。以前は違反しても黙認されていた高官でさえ罰されるという事実に恐れ震え上がった洛陽では、その発端となった夜間通行は元より、違反行動を起こす者はいなくなったという。

 それから幾許かの時が経ち、いくつの街を治め、一つの勢力となってからも華琳の潔癖な部分は変わっていない。そんな華琳の陣営内で、不正が許される筈もなかったのだ。

 

「話をご報告の内容に戻しますが、そちらの竹簡に記載されているだけでも、月が変われば構想している政策を実行するに足りることでしょう。明日よりは物資の買い付け先や保管、輸送等の流通経路から無駄を洗い出して見せましょう」

「そう、ご苦労様。今後も期待しているわよ、桂花」

「はいっ、お任せください!」

 

 嬉々とした表情で頭を下げる桂花。その姿は、小柄な少女の姿なれど頼もしい。それを見た華琳は、浮かべていた笑みを更に深めることになった。

 華琳の陣営に入って一月足らずなれど、既に桂花は内政においては他の追随を許していない。これまでの文官も決して無能というわけではなかったが突出した者もおらず、華琳と秋蘭が中心となって指示し、事に当たらざるを得なかった。しかし華琳は君主という立場があるためかかりきりになるわけにもいかず、秋蘭は内務ばかりでなく武将としての働きも同時にせねばならない。

 そのような切羽詰った状況で加入したのが桂花であった。彼女が内政を一手に引き受けたことで華琳の負担は確実に減り、仕事が滞ることがなくなりつつある。そういった意味では桂花は華琳の側で力強く支え助ける者、正しく華琳にとっての『子房』(*1)であった。

 

「さて、次は拓実についてよ。一日、桂花の仕事についていかせたけれど、その中で何か思うところでもあったかしら?」

 

 その言葉を受けて桂花が一歩後ろへと下がり、代わりに拓実が同じ分だけ前へ出た。拓実はまっすぐ、ただ真剣に華琳を見つめている。

 

「はっ。しかし桂花の仕事振りについては口を出す余地もなく、気に掛かる部分はありませんでした」

「そう。桂花の仕事については、ということは他の部分で何かあったのかしら?」

 

 言って深く頭を下げた拓実に、華琳が間髪いれず問い掛ける。それにうろたえることなく、落ち着いた様子で拓実は続きを紡ぐ。

 

「はい。各部署を見て回りまして、貴重で高価だという紙を要らぬ部分にまで使っている節が見られました。内々の書類は安価な竹簡を使用し、公的なものだけに使用を控えるべきかと進言いたします。加えて、灯火に使っている油や暖をとる為の薪等、支給品となっている物資がありますが、こちらも見直す点がいくらか見受けられます」

 

 通常、書面に残す必要がある場合は竹簡(ちくかん)という、竹を薄く切り開いて札状にし、紐で繋いで広げた物が使われている。竹は生育が早い為に安価に作れるのだが、折り畳んでも保管に場所をとる上に結構な重量がある。植物の繊維を()いて作られる紙は数十年前に発明されたばかりで普及されておらず、それほど数が出回っていない為に値が張った。

 見栄えよく、場所を取らずに軽いが、紙一枚を買う金があれば十数倍の文言を記せる竹簡を手に入れられる。手が届かないほど高価ではなかったが、高級品であることには変わりない。

 

「確かに、紙の使用については思うところがあるわね。けれど、油や薪は仕事をする者には欠かせないものなのだから減らすわけにはいかないでしょう」

「ですので、部署ごとに支給量を最低限まで減らし、足りない場合は必要分を各人記名して取りにくるようすればみだりには使用しなくなるかと思われます」

「と、言うと?」

「は。許可制というわけではなく、取りに来ればその時点での支給はいくらでも行ないます。期間を設けて誰がどれだけの物資を受け取ったかを記し、個人の物資使用量と仕事量を照らし合わせ、割合が他と比べ釣り合わぬ者には勧告する形を取るのです。仕事のみならず、酒宴等で集まった際にも公私の区分なく物資を使用しているという話を耳にしました。華琳様主体で行なわれるならばともかく、個々で行なわれるものにまで城の物資を提供する道理はありません。個々では微細なれど、陣営全体では多くの節制となりましょう」

「なるほど、面白い。支給を自由にするということは、逆に多く仕事をこなす者であれば多少の私的使用を黙認するわけね」

「左様にございます。それをこなすだけの能力に応じない者らは給金より購入するようになることでしょう。もちろん、こなした仕事に応じて給金を増やすようしなければ不満は出るでしょうが、華琳様の方針であれば問題はないかと存じます」

 

 華琳は思わずと言った様子で、「ほう」と感心した声を上げていた。恐らくは桂花から聞いて仔細を煮詰めたのだろう。さらに、まだ知り合って数日だというのに華琳のやり方を理解しているようだ。

 才あれば出自に問わず登用するという華琳の方針は成果主義である。力を示せば重用し、逆に怠ることあれば厳しく罰する。

 ならばこそ拓実の挙げた策は通用するし、華琳の意にも沿ったものになる。励めば励むだけ給金は増え、使用できる物資が増えて優遇されるのである。足りぬ者も能力が及ばぬならば、空いた時間を使って自身を磨くようになるだろう。その人材育成をも視野に入れたこの考えは、華琳のそれとぴたりと一致していた。

 

「その拓実の案、採用しましょう。桂花、実施するとしてどれだけの日数が必要かしら?」

「恐れながら、華琳様が私の裁量に任せると仰られてましたので、私の方で準備だけは進めておきました。許可さえいただければ、次回の支給日より施行できましょう」

「ふふっ、二人とも上出来よ」

 

 打てば響くように返してくる桂花の言葉を受けながらも、華琳は喜びを隠し切れないでいた。桂花と拓実。この二人の組み合わせは悪くない。いや、それどころか予想以上にそれぞれの長所が上手く噛み合っている。

 拓実一人だけではどうしたって穴が出てくる。とてもじゃないが一人で政策を任せることは出来ない。根本的に知識という土台が脆いために、どうしても補佐が必要なのだ。それだけなら荷物にしかならないが、拓実はそれを補うように鋭い観察眼で華琳が求めているものを推察してみせ、異なる文化の知識から思いもよらぬ発想をしてくる。それを活用しない手はなかった。

 対して、いささか革新的発想にかける桂花ではあるが、拓実の着想が生み出す利点を見逃すほどに頭が固いわけではない。欲を言うなら、しっかりとした知識に支えられてるが故に新たな発想に挑戦していかないのが難だろうか。膨大な知識を持っているが、保守的すぎる嫌いがあった。

 この二人は個々でも働きを見せるだろう。だが、組ませればお互いの持ち味を生かし、短所を埋めることができる。将来的に見ればお互いの長所を学び取って、自身の欠点を補っていくことだって可能だろう。

 

「そうね……ならばこの件は二人に一任しましょうか。これからは拓実と桂花は仕事の間、一緒に行動なさい。合間合間に時間が取れたら拓実に文字を教えればわざわざまとまった時間を取る必要もなくなる。桂花も拓実から異国について聞けば得るものがあるでしょう。お互い、自分に無いものを学びなさい」

「華琳様がそう仰るのであれば、否はありません」

「……かしこまりました」

 

 更なる才の開花を垣間見た華琳は内心から湧き上がってくる高揚感に身を任せたまま二人に告げるのだが、対して二人からの返答はどうにも煮え切らないものだった。桂花の珍しい否定的なその態度に、華琳の高揚感は失せ果てて、当然のように疑問を浮かび上がらせる。

 

「何か問題があるというのなら言って御覧なさい」

 

 華琳が怪訝な顔で二人に問い掛けると、拓実はちらりと横を見やった。まるで機嫌を窺うように見た先では、桂花が華琳に向かって頭を下げている姿があった。

 

「いえ、突然のことに少々戸惑っただけですので」

 

 拓実の視線を介さず、桂花は視線を床に向けたままで華琳へと返答する。その態度に何を見たのか、拓実は口を開きかけてまた閉じる。

 

「……そう。そういうことならばいいわ。今日のところは以上よ。明日に備えて休みなさい。拓実、あなたには聞いておかなければならないことがあるからもう少しだけ付き合いなさい」

「はい、それでは失礼させていただきます」

 

 言って深く頭を下げた桂花は、静かに華琳の私室より退室していく。程なくして桂花の姿は見えなくなったが、どうにも部屋の中の空気が澱んでいるように思えてならない。

 

 戸惑っていたと桂花は言っていたが、それはおそらく根本的な理由ではない。華琳直々に問い掛けても答えないのならば何らかの理由があるのだろう。拓実の何か言いたげな様子も気に掛かった。

 実際に拓実を問い詰める前に、華琳は今日一日の桂花の様子を思い返していく。そうして、華琳は報告に来ていた桂花の違和感に気がついた。華琳との受け答えはいつもの通りであったし、仕事内容についてはしっかりとこなしていたから気づかなかったが、おそらく間違いない。

 拓実が幾度か桂花を窺うように見ていたのに対し、桂花は一度たりとも拓実に向き合わず、視界にすら入れていなかったのだ。

 

「本当、退屈させてくれないわね」

 

 原因はわからないが、桂花の不可解な挙動に拓実が関わっていることには確かであるようだ。嘆息しながら、華琳はわざとらしく肩をすくめてみせた。

 

 

*1
楚漢戦争の軍略家、張良(字を子房)のこと。劉邦に仕え、その才覚を以って彼を補佐して王座へと上らせた。曹操が荀彧を迎え入れる際に「我が子房(張良が劉邦を補佐して王にしたように、荀彧こそが私を王とする王佐の人物である)」と喜んだとされている。






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