影武者華琳様   作:柚子餅

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12.『荀攸、朝議に参加するのこと』

 

 視界がぼやけてきた拓実は、出来るだけ目立たないようこっそりと目元をこすった。眠気もそうだけれど、どうにもこの空間は目が疲れていけない。周囲の煌びやかな内装、そして赤や橙を基調にしたこの部屋は目覚めて間もない拓実の目には少々刺激が強い。

 さらに、刺激という点でいうならば身体のあちこちから疼く鈍痛の方も負けていなかった。身じろぎをするだけで身体が引きつりそうになる。予想通りというか、前日の調練で酷使された筋肉が一夜明けて不満を訴え始めた為、起きて着替えるにも一苦労だったのである。

 ともかく桂花と同じ服を着た拓実は筋肉痛を押して謁見の間にあった。そして『荀攸』として紹介されるべく、他より三段ほど高い位置にある玉座の隣に立たされている。おそらくもう数分もすればその主である華琳が入場し、数日置きに行われているという朝議が始まることだろう。

 

 主である華琳に指示されて玉座の横で待つことになった拓実なのだが、到着から一分を待たずしてかつてないほどの居心地の悪さを覚えている。というのも、入場してから朝議を控える者たちの視線を受け続けているのだ。瞑目して待つ桂花や秋蘭を除けば全員に注視されていると言っていい状態である。単に前方にいるということもあるだろうが、原因は桂花と酷似しているその容姿に違いない。誰も彼もが桂花と拓実を見比べている。そんな中にいるから、拓実は正面を向くことが出来ない。どこに顔を向けても誰かしらと視線が合ってしまうために、猫耳フードを目深に被ってうつむき目を瞑ったまま、ただ時が過ぎるのを待っていた。

 

 表面上こそ周囲に興味を示していない澄ました様子でいる拓実であるが、たびたび前で組んでいる両手を無意識に組み替えている。

 大勢に注目されることには演劇で慣れていたが、どうにもそれとは勝手が違う。壇上に立たされ一人で芝居をしろというならいくら注目されようと困ることはないのだけど、衆目を集めたままただ立ち尽くしていなければならないとなるとどうしていいかわからない。人の目がこんなにも落ち着かないものだったとは拓実は知らなかった。

 結果、華琳が来るまでは決して切り替わることがないだろうこの異様な空間から一刻も早く開放されたかった拓実は、考え事に耽ることにしたのだった。何かに集中していれば時間も早く過ぎたように感じるだろうと、それが現実逃避だと自覚しながらも昨日のことを思い返していく。

 

 

 

 ――服屋でのやり取りの後、拓実は渡された硬貨の価値を把握するのにいくらかの時間を掛ける事になった。

 硬貨は王朝由来のものと地方で製造されたものがあり、ここ陳留にもいくつかの種類が流通しているらしい。重さや大きさもまちまちで、それぞれ価値が違うようである。時々で価値がいくらか変動するようではあったが硬貨の種類とおおまかに物価を教わり、ようやくといった体で会計を終えた頃には空は赤く染まっていた。

 その後季衣が楽しみにしていた点心を売っている店にも足を運んでみたのだが、既に完売してしまっていたらしく営業を終えていた。見回してみれば周りの店もちらほらと店じまいしていて、大通りも閑散とし始めており、これでは街案内もないだろうと後日に延期して城へと帰ることにしたのだった。

 

 その帰り道。お腹を空かせた季衣の提案により、彼女が食べ歩いて見つけたというラーメン屋の屋台に寄ることになった。出てきたラーメンは屋台ということもあり上品とは程遠いものであったが、食べ歩きをしている季衣が太鼓判を押すだけのことはあった。二、三人前の鍋と見紛うほどに大きい器から尚溢れそうなほどの具に、成人男性でも一杯で腹が(ふく)れるぐらいに麺は大盛り。

 美味しかった。そう拓実は記憶しているのだが、肝心の味付けについてしっかりとは思い出せないでいる。何故思い出せないのか、その原因はわかっていた。ラーメンの味よりも、鮮烈に記憶に刻まれた出来事があったからだ。

 

「丁度いい、お前たちの任官祝いだ。奢ってやるから、好きなだけ食え」

 

 店につき、注文して出てきた大盛りのラーメンを見た春蘭はこんなことを言い出した。恐らく出てきたラーメンの量を見てそんなことを言い出したのだろうが、今思えばその発言は迂闊としか言いようがない。

 その言葉を聞いた季衣の食べっぷりは、圧巻の一言に尽きた。拓実でも食べきれるかどうか。少なくとも一杯で満腹になるだろうそれをぺろりと平らげる。かと思えばすぐさまにおかわりをするのだが、しかし胃袋に送られているのか疑問になるほどに落ちない食事のペース。そうして一連の動作が繰り返され、積み重なっていくスープすらも残っていない器、器、器。

 その内容量は小柄な季衣のその胃袋に収められるものではなかった筈だ。しかし現実に拓実の目の前ではどんどんとラーメンが季衣の口の中へと消えていく。季衣の前に空の器が増えていくのに気づいた春蘭は三杯目を食べていた手を止め、それが止まる様子を見せないと知るや顔を青くすることになった。

 かなりの空腹だった拓実が一杯をようやく食べ切ることが出来た時、季衣は同じもの七杯を完食していた。その後も季衣の食欲は衰えるところを知らず、結局その日の季衣の戦果は十一杯。拓実は一杯、春蘭は三杯となる。『安い』『多い』『美味い』の三拍子揃ったこの屋台であっても、合計で十五杯分ともなればいい金額になっただろう。満面の笑みを浮かべて満足そうにお腹をさする季衣を前に、気丈に余裕な顔を取り繕った春蘭が何だか印象的な日だった。

 

 

 

「華琳様、ご入来!」

 

 秋蘭の張り上げられた声が耳に届く。その威勢の溢れる声に拓実は反射的に昨日の回顧を中断し、俯けていた顔を上げた。

 誰も物言わぬ中、カツカツと硬質な音が謁見の間に響いている。入り口から玉座に向かって、華琳が優雅に歩を進めていた。相変わらずの自信に満ち溢れた立ち振る舞いで、その見ているだけで惹きつけられてしまうような存在感はやはり他と一線を画している。朝も早いというのに髪のカールも見事に決まっていた。地毛であろうあの髪のセットにはどれだけ時間をかけているのだろう、なんてことをぼんやりと考える。

 

「おはよう。どうやらみな揃っているようね」

 

 周囲の者たちが膝をつき、頭を下げて入場する主を出迎える。華琳に見惚れて立ち尽くしていた拓実も場の様子に気づき、被っていたフードを取り払って慌てて膝を折った。

 程なくして華琳は玉座の前に立つ。頭を下げる者たちへと振り返ると、それらを視界に収めて静かに玉座に腰掛けた。続いて、すっと華琳の左手が振られた。事前に作法を知らされなかった拓実もその意図するところを察し、他の者たちと合わせて華琳の手の動作に従って立ち上がる。

 

「それでは仕事の報告を聞きましょうか。まずは桂花に指揮を任せておいた国勢調査と過剰費の削減案からよ」

「は。それではまず、街ごとにおける人口増減、及び物資の生産割合の対比から――――」

 

 列から桂花が一歩前へと踏み出し、手に抱えていた竹簡を広げて口上を始める。

 

 とりあえず目下の警備隊充填案のためにも、この国の財政状況についてはしっかりと聞いておきたいのだが、しかし拓実はその報告を集中して聞くことが出来ずにいる。

 壇上――華琳が座っていることによってこの場の誰よりも目線が高くなった拓実の視界には、壮観とも言ってよい光景が広がっていた。玉座から向かって右列前より春蘭、秋蘭。続いて季衣を始めとした親衛隊が数名。その後ろに一般部隊の隊長らしき武官が並んでいる。

 逆の左列は桂花を先頭に文官が続いていく。今後、拓実が荀攸として朝議に出席する際はこちら側の列に加わることになるだろう。

 文官、武官ともに取り纏める重役の男女の比率には大分偏りが見える。親衛隊は一貫して女性のみであり、他は女性が六割強といったところか。女性の割合が多いというよりは、男性が圧倒的に少ない。この時代では女性が強いのだろうか。後世にそのような記録が残っていたという話を聞いたことがなかったが、それ以前に曹操を初めとした有名武将からして女性であることを思い出した。それを念頭において考えると、「そういうものなのか」と拓実は納得してしまう。

 

 ともかく総勢にして四十名超。整列する全ての者が玉座に座る華琳に従い、頭を垂れている。この場にいるいずれもが並ならぬ才を持つ者たちであるが、みな華琳に敬意を払い忠誠を誓っている。さらにいうなら、あくまでここにいるのは代表格の者たちだけであって彼らが指揮する下にはもっと多くの兵が控えているのだ。

 その光景は、多くの責任と期待を華琳が身一つで背負っているという事実を拓実に再認識させた。兵や、彼らの家族の生活。携わる者たちの命。そして彼らが生きていく限り続く未来。人が一人で背負うにはあまりにも重く、大きいものを華琳は抱えて歩んでいるのだろう。

 それを実際に己の目で見、感じた時、拓実は華琳に対して畏敬の念を向けていた。兵を率い、民を養い、自身の采配にその命を乗せる。そんな重すぎる責任を負えるほどの強い意志は、現代で平和に育った拓実には持ち得ないものだ。人に流されやすいと自覚している拓実は、その揺れることのない人としての『芯』ともいえるものを羨ましいとさえ思う。

 

 そんな拓実であるのだが同時に、それだけのものを抱えていられる華琳に対して危うさをも覚えていた。

 いずれ曹魏と呼ばれることになるだろうこの陣営は今、華琳一人を頂点としている。他を惹きつける求心力、文武において抜きん出た才能、柔軟な発想に多岐に渡る深い知識、大陸を覇を以って統一する意志……華琳は王として必要とされる要素のほとんどを持ち合わせている。そして華琳の性格として、それら全てを最大限に活用しているのだろう。

 春蘭、秋蘭を初めとした多くの者が華琳の歩む覇道に続いているが、あくまでそれは覇王として先頭を歩む華琳あっての話である。華琳の後ろに続く者は多くいても、隣を共に歩める者はいないに違いない。それは、華琳が人より突出しているが故に、覇王であるが故に。彼女は王であるが故に多くを従えながらも、王であるが故に一人孤独に歩み続けているのではないだろうか。そうだとしたならば、それはあんまりにも寂しいことではないだろうか。

 

 こんな話を華琳本人が聞けば戯言と一笑に付すかもしれない。それとも、侮辱するなと怒るだろうか。あくまで拓実が感じて思っただけのことであり、そこに至った確証なんてものは何もなかった。だがそれでも、拓実はその考えがまったくの見当外れであるとは思えなかった。

 

「――――さて。報告は以上ね。みなも気になって集中できていないのでしょうし、軍務、政務を各々に言い伝える前に紹介しましょうか」

 

 透き通るような華琳の声が謁見の間に響き渡った。いつの間にか主だった報告は終わっていたらしく、考えこんでしまっていた拓実は背筋を伸ばし、改めて気を取り直す。

 

「拓実、前へ出なさい。……彼女が、昨日より我が陣営に加わった荀攸よ」

 

 華琳が告げたのを機に、周囲の視線が改めて自身に集中していくのを拓実は肌で感じ取る。それらを受けながらも拓実は一歩前に歩み出て見せた。気圧された様子を欠片も見せず、目を瞑って静かに頭を下げる。

 

「容姿からも察せるとは思うけれど彼女は桂花――荀彧と同じく荀家の者で、我が陣営にて文官として働くことになるわ。ただ主に私の仕事を手伝わせることになるから、あなたたちと一緒に仕事をすることはそうそうないでしょう」

 

 その補足するような華琳の説明に、拓実は内心で感服していた。華琳直属という立ち位置であれば今後の軍議に毎回参列してなくてもその理由をいくらでも後付できる。事前の話の通り、姿が見えなくても不自然ではないよう取り計らってくれたようだ。

 今後、許定として動くようになれば朝議に出席する場合も多々出てくることになる。その時に毎回荀攸の姿がないことが問題となるのは想像に難くない。そしてそれは、この陣営全体に及ぶ軍規の乱れとなりかねない。その逆もまた然りであり、恐らく許定として紹介される際にも同様の説明をされることだろう。

 

「それでは拓実、あなたから何か言っておくことはある?」

「はっ。それでは僭越ながら、失礼させて頂きます」

 

 拓実の声に小さくどよめきが上がった。桂花とよく似た声色、その口調に対してのものに違いない。段上から見渡せば彼らからは興味の視線が返ってくる。

 意識して、拓実は一つ息を吐いた。こういう場であるなれば、注目は苦にならない。三段も高くなっているこの立ち位置は、それこそ舞台の上。演じる役柄もこなすべき内容も決まっていればやることは一つ。

 

「華琳様よりご紹介をいただけたけれど、改めて名乗らせてもらうわ。私は荀攸。字は公達よ」

 

 言葉を切って、拓実はすうっと息を吸い込んだ。それを機に場が静けさを取り戻し、小さくざわめていた声が途絶える。この呼吸の一拍が絶妙な間となった。これだけで周囲の者たちは拓実の次の言葉を聞き漏らすまいと集中していく。

 

「言っておくけれど、私が信奉し、尊敬しているのは華琳様お一人だけよ。その他の有象無象――特に男なんていう下賎で汚らわしい生物には一切興味がないから、仕事の用事以外では絶対に話しかけてこないで頂戴ね」

 

 それだけを言い放った拓実は玉座の横、元の位置に一歩下がった。最早言うことはないというように、拓実は(まぶた)を下ろし居丈高に華琳の傍で控える。

 謁見の間は静まり返った。あっという間に終わってしまった拓実の挨拶に、声はおろか物音すらも立ったりはしない。元よりこの場において発言を許されたのは拓実だけであるのだが、それにしてもこの空気はあまりに冷たかった。

 

 しかし、どうやら拓実が想定していたよりも反応は悪いものではなかった。新入りがこんなことを言ったのだ。敵意を剥き出しにされてもおかしくないと踏んでいたのだがそうはなっていないようである。

 確かに三割ほどは眉根を寄せ、不機嫌そうにこちらを睨みつけている。どうやら立っている場所から見てこれは武官連中が主であるようだ。

 文官のほとんどは「やはりか」と言わんばかりの呆れた表情をしていて、外見から桂花同様の言動をするものと半ば予想をされていたようである。顔合わせで言い放つにしては友好の欠片もない挨拶ではあったのだが、普段の桂花も周囲に応対する時は似たようなものであるのだろう。

 残った少数の男性連中はといえば、諦観やら羨望やら恍惚やらの感情が混じっていて複雑である。喜ぶ者と悲しむ者が入り混じって何を思っているのかわかりにくい。

 

 ちなみに、事情を知っている夏候姉妹と季衣は笑いを堪え、桂花は顔を赤くして縮こまっている。すぐ隣に立っているから気づけたが、華琳だって他の人にわからないように口元を手で隠し、鈴を転がしたような声で密かに笑っていた。何故そのような反応を返されるのかわからず、拓実は思わず首を傾げてしまう。

 

 早々にこの場の半数の人間に対して仲良くする気はないと宣言した拓実ではあったが、なにも演技に則ってというだけの言動ではない。一応、これも拓実なりに考えてのことである。

 いくら別人として扱われるといっても正体が露見してはならないことに変わりはない。親しくなればなるほどその可能性は増えるのだから、事実を知る者以外を遠ざけておくに越したことはないだろう。それに桂花の演技をしている時に男に話しかけられたなら、間違いなく辛辣な言葉を浴びせてしまう。好き好んで人を罵る趣味のない拓実はそうなる前に予防線を張ったのだ。今の少女の姿で男に積極的に話しかけられればどうしても下心があるのではないかと勘繰ってしまうだろうし、男である拓実は同性にそんな視線を向けて欲しくもない。

 だからといって積極的に女性と話したいかと言われればそういうわけでもなかった。親しくなればなるほどに演技が露見する可能性が増えることは変わらない上、女性であるが故に拓実を男であると看破するかもしれない。それらを踏まえると、自身の正体を知らない者とはいっそ初めから交流をしないでいる方が精神的に楽だろうと拓実は考えたのである。

 

「私の記憶違いでなければ、似たような科白を一月程前にも聞いた気がするのだけれどね。まぁ、いいわ。それでは紹介も済んだことだし、各担当に仕事の仔細を割り振るわよ」

 

 笑っていた名残も残さず声を上げる華琳は、次々と部下たちに君命を下していく。華琳の言葉から察するに、どうやら今回の拓実と似たようなことを言った者がいたようである。その華琳の言葉で先の反応に会得がいった拓実は、ついつい桂花の方を見やってしまった。

 

 視線の先では、顔を真っ赤にした桂花がこちらを睨みつけていた。怒りで肩が少し震えている。まったく嬉しくはなかったが、拓実の推測は見事に的中していたようである。

 悪意があって示し合わせたわけでもなければ、そもそも事前に誰かから桂花の自己紹介の顛末を聞いたわけでもない。今回に限っていえば拓実の正体を隠匿する為の発言である。

 せめてもの謝罪に目配せしておくべきかと考えて桂花に顔を向けたのだが、そこで拓実にとっても予想外のことが起こる。あろうことか拓実は、明らかに桂花に向けてにやりと笑みを浮かべていたのだった。まるで「あんたの単純な思考なんて丸わかりなのよ」と言わんばかりの底意地の悪い笑みの作り方だった。

 申し訳ないという気持ちで苦笑するつもりだった拓実は、もちろん戸惑った。自身の表情筋が制御できていない。華琳との謁見の時ほどではないが、どうやら人目に晒されていることもあって役柄に成りきってしまっているらしく、拓実の意思が行動に反映されにくい。

 目を見開いた桂花の顔が更に赤く染まり、より険しくなっていく。誰が見ても怒り心頭といった様子であった。思わず頭を抱えたくなった拓実だったが、やってしまった以上は申し開きも出来ない。どうしようもなかった。

 

 

 

 

「…………通達は行き渡ったわね。拓実には仕事についての説明があるからこのまま残るように。秋蘭、桂花も同様よ。では、秋蘭」

「はっ! これにて朝議を終える。尚、荀公達への君命伝達のため華琳様の退場は後ほどになる。特別に、各自退場するように。それでは解散っ!」

 

 秋蘭の声が響き、どよめきもなく君命を下された者たちが順々に退出していく。玉座に腰掛けたままの華琳がそれを静かに眺めていて、拓実もその横で直立したまま身動ぎもしない。

 そのまま数分する頃には謁見の間にはすっかりと人気がなくなっていた。残った数人が華琳の目前に揃うと、拓実も彼女の側から離れて段を降り、その端へと並んだ。

 

「さて」

 

 玉座を前に並ぶ三人を前に、腰掛けている華琳は足を組み替える。

 

「拓実、朝議に参加してみての感想はどうだったかしら。大陸外出身であるあなたの率直な意見を聞いておきたいわ」

「……はっ」

 

 意見を求められて、しかし大半を考え事に費やしてしまっていた拓実は朝議での報告内容の記憶はほぼない。報告を終えた後、桂花の挙げた削減案の実行を文官を中心に任せていたことからやはり財政は苦しい状況なのだろうということぐらいである。他には、朝議の進行順序や周りの雰囲気といったものか。そういった様子などはともかく、内容については断片的にしか思い出せずにいる。

 

「今まで軍務についたことはありませんので、武官、文官が一同に会している様子に当惑していたというのが正直なところです。華琳様が定めた軍規によるものかと思いますが、それぞれが己を律している様を見て内心感服いたしておりました」

「他には?」

 

 それでもなんとか必死に思案して言葉を放ってみるが、すぐさまに質問を続けられてしまう。思わずぐうの音を上げそうになるのを必死に抑え、感じていたことを頭の中に並べていく。

 華琳を前にして、「他にはありません」などとは言えない。今、武に関して役に立てそうにないのだ。せめて頭ぐらいはいっぱし程度には働かせなければならないだろう。拓実は今こうして意見を構築しながらも、人生の中で一番頭を使っている実感を覚えていた。

 

「見た限りですが、評定としては意見交換というよりも状況確認といった意味合いが強いように感じました。今後の指針を決める場が別に用意されているのであれば出過ぎたことになりますが、他の者……それも多くの者から意見を募る機会も必要かと思います」

「……そうね。別に秋蘭や春蘭、桂花ら幾人の者たちだけで評定を行うことはあるけれど、朝議より参加人数は少ないわ。多くの者からも、とは言うけれど、それに対しての具体案はあるのかしら?」

 

 そのように言われるだろうと予測していた拓実は意見を述べながらも思考していた。頭の中では色々な案が浮かんでは消えていく。

 実生活の中、授業で習ったこと、小説の知識、テレビで観た歴史ドキュメンタリー番組――――今の状況で使えそうなものは少なかったが、それでも何とか過去日本でも行われていたという施策を思い起こすことが出来た。

 

「……そう、ですね。一つだけ思い当たりましたが、それが可能かどうかは調査してみないことには」

「いいから言ってみなさい。可能かどうかは私が判断するわ」

「それでは、『目安箱』なるものを置くというのは如何でしょうか」

「目安箱?」

 

 聞き慣れない言葉に、華琳は顎に手を当て聞き返してくる。拓実は疑問を解くべく、続けて口を開く。

 

「はい。箱を設置し、そこに民や兵の隔てなく要望や案を記名した上で投書してもらうというものです。案や要望をそのまま実行せずとも民が求めているものを知ることが出来るために、今後この街の発展を助ける政策の『目安』となりましょう。また良案があればその差出人を辿り、野に埋もれている有能な者を登用することが出来ましょう。さすれば、この地の安定をより強固なものに出来るかと思われます」

 

 拓実の記憶が確かならば日本でも江戸時代から行われていたという制度である。古くは室町時代での北条家でも取り入れられていた、なんて雑学を教師から聞いた覚えがあった。

 

「しかし、この目安箱、問題点もございます。誰にでも投書を許すために民意を直接に受け入れられますが、しかし前提として文字を書けることが必要になります。民に非識字が多ければ実現は難しく、また可能だとしても寄せられた意見をまとめるために時間を必要とすることになりましょう」

 

 『目安箱』は武家からのお触れが文書でやりとりされていた江戸時代、村でも読み書きできる者が必要とされることで多く寺子屋が立てられていた。そのような環境によって民の識字率が高かったという背景があっての話である。

 そう考えれば三国時代で行うことに無理があるような気もしていたが、昨日訪れた店内の様子から、拓実はもしかしたらという思いがあった。

 

「ふむ――問題点をさらいつつも、書経にある『野に遺賢なし』(*1)を実現させるということかしら。それにしても、目安箱ね。一応、街の子供たち相手に私塾の真似事はさせているけれど、どうかしら?」

 

 言って華琳は拓実の横に並ぶ桂花と秋蘭を見やった。桂花は目を瞬かせて拓実を見ている。残る形になった秋蘭が口を開いた。

 

「読み書きをこなすことが出来る割合ですが、近隣の農村でも村に数名。ここ陳留でも、多く見積もったとしても三割を下回りましょう。必要最低限の読みのみであるならば七割に届くかというところでしょうが……」

 

 華琳は秋蘭の言葉を聞いた後、口の端を持ち上げて拓実へと視線を戻した。否定的な秋蘭の言葉を受けての笑み、拓実はそれがどんな感情からきているのかわからずに向けられた視線に対してを見返すことしか出来ない。

 

「そういうことね。なかなか面白い案だけど、無理とは言わないまでも施行は現実的ではないわ。商人や文官の家系でもない限りは、読みはともかく書きまで出来る者はそういないでしょう」

「左様ですか……」

 

 小さく呟きながら、気持ちが下向きになっていくのを拓実は自覚していた。拓実だって初めから上手くいくとは思っていない。まして自身は満足に文字すら読めず、今住んでいる陳留にしたって知っているのは昨日見た街並みぐらいのものだ。この状態で出せる案なんてものは限られている。それでも、不完全燃焼の感が拭えないのも確かだった。

 

「……けれど、穴だらけではあるものの着眼点は悪くない。桂花」

「はっ!」

「本日、過剰費削減の施行の際には拓実を連れて行きなさい。拓実は何か気がつくことがあれば桂花に伝えること。拓実の意見によって改善できるようであれば政策に手を加えることを許すわ。細部の変更については桂花の裁量に任せましょうか」

 

 拓実は思わず、華琳の顔をまじまじと見つめてしまっていた。そしてその言葉の意味を認識するにつれ、じわじわと胸の内から嬉しさがこみ上げてくる。

 案自体は実現に適うものではなかったようだが、その知識は役に立つと判断してもらえた。これで、少しでも華琳の役に立てるだろうか。

 

「二人共、夜に私の下へ進捗報告に来るようになさい。拓実は何か胸に秘めている構想があるようならば、昼のうちにまとめておきなさい。そこで聞くわ」

『かしこまりました』

 

 嬉しさに、勝手に綻んでしまう口元を俯いて隠し、拓実は桂花と共に深く頭を下げた。

 

 

*1
その政治が優れていれば、有能な人材はみな適した役職に配されていて民間には残らないであろうこと。


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