影武者華琳様   作:柚子餅

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11.『荀攸、陳留を見て回るのこと』

 

 

 自室へ戻った拓実は、季衣への説明の為に着ていた華琳の服から桂花のものへ着替え直していた。今しがたまで着ていた服は綺麗にたたんで、桂花の服と入れ替えるように竹で出来たつづらのような箱へとしまっておく。

 演技に使う衣装は目に付く場所に保管しておく訳にいかないのだけれども、どうやらこの時代、箪笥(たんす)のような戸棚の類は一般的には普及していないらしく、大抵はこうして竹かごや竹で編まれた箱に入れて保管しているようだ。鍵も掛けられない為に不安ではあるが、こちらに来て日が浅く私物も少ない拓実に出来ることは知れている。せめて竹かごではなく蓋のあるつづらを使い、教材にと渡された竹簡を蓋の上に乗せておくことくらいだ。

 

 桂花の服に袖を通した拓実は、巻き毛のウィッグを外して、団子状に結んでいた髪の毛を解いて整えていく。それらを手馴れた様子でこなしながら考えているのは、これからの自身の生活についてである。

 昨日今日と実際に華琳や桂花に扮装してみて、これから演技をしていく上での問題点のいくつかを洗い出すことが出来た。いずれも拓実が影武者の秘密を抱えて過ごす間は付きまとうものであり、それらは早い段階で解決していかなければならなかったことだ。

 

 桂花の演技をしながらの調練で一つ目の不都合があった。演技をしている際、演じる人物にとって不似合いな行動をとる意欲を削がれてしまうこと。これは拓実とは違う思考傾向なために、演じる限りはどうにもならないことだ。今回は桂花の姿での武術であったが、見るからに運動を得意とする元気な季衣の姿で勉学に励むというのも難しいのだろう。

 二つ目は、演技中の第三者への振る舞い方である。先の通達が出るまで『拓実の存在自体を秘匿する』という方針であったが為に、知らない相手であっても桂花の役柄を演じなければならなかった。いくら心情・仕草・声色までを拓実が努力して真似ようと、身長や髪色まではどうしようもなく、また相手が誰だかわからないのに桂花本人と違わずに演技をするというのは不可能である。

 そして最後に、食事等の生活する上での不便。これは上と重なってしまうが、存在を知られずにいるには普段から人目につかないように生活しなければならない。いくら上層の人間しか入れない区画に個室を与えられたといっても、そこに出入りできる全ての人間が拓実の事情を知っているわけではない。それを防ぐならば自然と拓実は自室に篭もることになり、食事や講義は拓実の私室のみで行われるようになるだろう。そうなればただでさえ人手が足りていない状態だというのに、周囲に更なる負担をかけさせてしまう。

 とりあえずそれらについては架空の人物を仕官させるということで解決を見せたのだが、どうにも拓実は不安を覚えている。今の自身の環境は、一つの嘘をつき通す為に、更に多くの嘘をつかなければならない状態とでも言えばいいのだろうか。そしてこれから先も、拓実は多くの嘘を重ねていくだろう確信がある。事前にそれらについて覚悟していたつもりの拓実であったが、胸の内から湧いてきた後ろめたさを拭いきれないでいた。

 

 また、拓実が不安に感じていることは他にもあった。というのも、これから桂花の演技をしている拓実が『荀攸』なる人物として扱われることである。

 見ず知らずの、性格すらも知らない荀攸という人物になりきれという訳ではないので演技については心配していない。あくまで拓実は桂花を基準として振舞えばいい。それどころか、桂花とは別人として扱われる為、むしろ違いがあったほうがいいぐらいなのだから心情的には気楽なものだ。

 拓実が気に掛かっているのは、過去に荀攸の名を持っていた人物が今尚存在していることである。これによって拓実の正体が露見し得る、はっきりとした可能性が生まれてしまった。

 過去に荀攸を名乗っていた荀諶が、拓実の存在を知ったならばどう思うだろうか。名が同じというだけならば偶々同姓同名であったということになるだろうが、その人物が桂花と同じ姿をしていては偶然では済まされない。自身と同じく軍師、文官として働く者が、同じ名を名乗っているとなれば興味を引くには充分だろう。もしも会うことがあったなら、どう対応すればいいものなのか見当も付けられない。

 

 恐らくあの聡明な華琳のことだから、余程のことがない限りは『影武者』が露見する危険を冒してまで拓実を表舞台に出したりはしない筈だ。

 あくまで『荀攸』『許定』の二つの役柄は、拓実がこの陣営において働くための設定作りであるからこれらの名が大々的に外に流出することはないだろう。だから、本来の荀攸と拓実が顔を合わせるような、そんな場面はこれから先にも訪れないかもしれない。

 しかし、もしそんな場面が訪れたと想定した時、事前に心構えをしておかなければきっと拓実は固まって動けなくなってしまう。信用してくれている華琳の為にも、拓実がそんな無様を晒すわけにはいかない。杞憂で終わってくれるのならばそれでいい。しかしよく言われている『万が一』という言葉でさえ、起こり得る事であるからこそ世に生まれ出たのだ。ただでさえ不安定な立場にいるのだから、用心するに越したことはないだろう。

 

 

 

 

「すごいわね……」

 

 拓実は周囲の喧騒を眺め、思わず呟いた。最初に訪れた寂れた農村しか知らない拓実は、目の前の光景に圧倒されていた。

 異国の文化というのもあるのだが、拓実が漏らした言葉は目新しいと感じてのものではない。拓実が知る現代の街と比べるならば、規模や造りとしては劣っている。だがそれを補って余りあるほどに、ここ陳留の街は活気に溢れていた。時勢柄、跋扈(ばっこ)する賊や、権力争いに荒れ弱体化した朝廷、害虫の大量発生による飢饉など民草が不安となる材料は事欠かない。しかしこの街に限って言えばそれらは影を潜めていた。もちろん完全に拭いきれるものではなかったが、治世者の手腕によってその多くが緩和されているのだろう。

 

「当たり前だ。他ならぬ華琳さまが治めておられる街なのだぞ」

 

 その呟きを聞き取ったか、拓実と季衣を引き連れるようにして歩いていた春蘭が振り向いて我が事のように胸を張る。この民の活気を見ていれば、拓実もそれに素直に頷くことが出来た。

 

「でも、最近は窃盗とか増えてきているんですよねー。街の人たちはそれでも他のところよりは全然治安がいいって言ってくれるけど、警備の人が足りてないって秋蘭さま言ってましたし」

 

 唇を尖らせて声を上げているのは拓実の隣を歩いている季衣だ。それを受けて笑みを浮かべていた春蘭が渋面を作った。

 

「むう、しかしいつでも目を光らせておくわけにもいかんだろう。私や季衣も手が空けば警邏(けいら)には出ているが、そればかりをしてもいられんし。そうこうしていても領民は増えるばかりで、対処が追いつかないのが現状だ。どうしたものか」

 

 歩きながら拓実が周囲を見渡すと、民の中でも笑顔を浮かべている者が多く目に留まる。だが確実に、ぼろきれを纏う痩せ細った者たちが街の隅に居ついているのも目に入った。

 華琳の統治は、確かにこの大陸全土を見回してみても素晴らしいものだった。街の外に区画した畑を作り、働く意欲のある民を宛がって無職者を減らすその傍ら、積極的に治安向上に努めて民が過ごしやすい環境を作る。職人を引き入れて生活必需品を絶やさないようにし、また生産が盛んだからか外からの商人も多く足を運んでいる。自然と活気に溢れ、民の不安を和らげる環境が作り上げられていた。税率を上げて私腹を肥やすばかりの他の領主は華琳と並べて比べるにも値しない。

 そんな華琳の治世者としての評判を聞きつけ、陳留に外から多くの流民が入ってくるようになるのは当然といえた。そのほとんどは職や安定を求めて街の発展を促してくれているのだが、しかし中には不信者が紛れ込むこともある。それに、人口が増加すれば比例して犯罪や揉め事が増えてしまうのも道理であった。

 犯罪が増えれば、治安も悪くなる。治安が悪くなれば、犯罪もまた増える。完全に取り締まることなどは出来もしないことだが、どこかで歯止めをかけなければ悪化の一途を辿るだろう。

 

「そう……」

 

 それらの言葉を受けて、拓実は顎に手を当てた。そのまま軽く伏し目がちにして考え込む。

 春蘭と季衣は頻繁に見る機会があった為、逆に違和感なく受け止めてしまっているが、拓実が何気なく行ったその思案する仕草は、桂花が先の軍議において拓実の家名を考えていた姿とまったく同じものであった。

 

「華琳様がどうお考えになられているか確かめないことには何とも言えないけれど、職に困った者を警備に引き込むことは出来ないの? 雇用する上でどうしたって費用は出てしまうけれども、給金が出れば犯罪に走る者も減るだろうし、警備に人も入って治安も回復するでしょう。春蘭、貴女はそれらについて何か聞いている?」

「む? う、うむ。三日ほど前に、似たようなことを桂花の奴が華琳さまに進言していたような気が……しかし、どうだったか」

「あ、拓実のとはちょっと違いましたけど、言ってましたよね。えーと、『仕事があれば食べ物も買えて、悪いことをする人も減ることでしょう』でしたっけ。確か華琳さまは、『お金がないから無駄を省きなさい。そのお金で仕事を作りなさい』って文官の人たちに言ってたと思います。だから桂花たち文官の人が国の中のことを急いで調べているらしいですよ。それでも、華琳さまは他にもいくつか仕事を用意して、働く人を募集しているみたいですけど」

「おお、そうだ。確かに華琳さまは仰っていた。正しくは『現状、新たな事業を起こすだけの余裕はないから無駄を省いて、費用を捻出しろ』だったな」

 

 自信なさげに声を上げた春蘭を助けるように季衣が繋ぎ、それをまた春蘭が補足する。それを聞いた拓実は小さく息を吐いていた。内心で密かに気合を入れていたのだが、肺の中の空気と一緒にそれらが抜けていった。

 

「そうよね。これぐらいは誰でも考え付くことだから、実施されていない筈がないわよね。ならとりあえずは資金面を何とかしないといけないということかしら。それらを調べるにもまず、私は文字を読めるようにならないといけないのだけれど」

 

 対策がとられてないのなら進言するべきか、とまで考えていたのだが、考えてみれば拓実が考え付く程度のことを桂花が実行していない筈がないのだ。しかし、今回のは発案というにはあまりに稚拙ではあるが、拓実は今の時点であるなら間違いなく武の方面よりもこういった内務関連の方が力になれる気がしていた。

 桂花の思想に(なら)っているのも手伝ってか、頭を働かせることに楽しみを見出しつつある。政治などの知識はあまり熱を入れて学んだわけではないが、それでもこの時代に生きる人間とは違った発想をすることが出来るかもしれない。

 少しは華琳の期待に応えることが出来るだろうか。兎にも角にも、拓実はまず漢文を読めるようにならないとどうにもならないのだけれど。

 

「口頭で草案だけ上げるなんて華琳様はお許しにならないでしょうし、一刻も早く文官として働ける様にならないと。こんなところで躓いていたら、いつまで経っても華琳様のお役に立つことができないわ」

 

 小さく握り拳を作って、拓実は薄く微笑む華琳の姿を思い浮かべる。あの華琳に認められる仕事が出来たら、と考えると、頑張る意欲がどこからか湧いてくる。自然と、拓実の頬も緩んでしまう。

 いくら思考傾向まで模倣しているといっても、拓実自身は桂花ほどには華琳を敬愛しているわけではない。桂花のように命を賭けてまで華琳に仕官をしようなどとは思えないし、もし現代日本に戻れる方法が判明すれば、役目をこなしてからという前置きはつくが故郷に帰ることを選ぶだろう。それでも、華琳命の桂花になりきって演技が出来るぐらいには、拓実も華琳に参ってしまっているのだ。

 

「……ほへぇ~。ほんとに桂花みたい」

 

 そんな拓実の様子をぼんやりと見ていた季衣は、両目をまん丸に開いていた。

 

 

 

「それにしても、季衣は思いの外しっかりしてるわね。こういう話ならば、春蘭より頼りになるかもしれないわ」

 

 鼻歌を歌いながら軽やかな足取りで隣を歩く季衣を見て、拓実は率直な気持ちを吐露していた。あくまで春蘭と比べて、という前置きはついてしまうが、今のやりとりから拓実がそう感じたのは確かだった。

 秋蘭が言っていたことなのだが、春蘭も策や進言などについて決める時はしっかりと決めてくれるという話である。しかし、いかんせん普段が足りていない。記憶力は興味の範疇にないから働いていないのだろう。現に桂花の進言は覚えていなくても、華琳の返答についてはしっかりと記憶していた。潜在的には水準以上の思考能力を持っていると思うのだが、発揮されることは滅多になさそうだ。

 

「えっ、ホント? 華琳さまに言われて、桂花に勉強教えてもらってるからかなー? 桂花にはまだまだ、『教えたのと違うでしょ』って怒られちゃうんだけど」

「励めば、それだけ華琳様のお力になれるのだから恥じることはないわ。季衣は華琳様に言いつけられたことをこなして、自分を磨いて邁進すればいいのよ」

 

 恥ずかしそうにはにかむ季衣を見て、拓実は口元を緩める。力仕事ばかりでこういった方面で褒めてもらった経験がないらしく、照れくさいらしい。

 そうして拓実が顔を前に向けると、春蘭が会話に混じらずにとぼとぼと歩いているのが視界に入った。拓実からだと背中しか見えないのだが、どうにもこういった話題だと居心地が悪そうだ。

 

 先の話と関連しているのだろうが、やはり春蘭は政務などの頭を働かせる仕事を苦手にしているようである。恐らく体質的にも実際に動いて見せる方が苦痛を覚えないのだろう。普段の春蘭の様子では内務関係は捨て、兵の訓練や、戦場で武勲を立てることに全てを賭けているのかもしれない。

 比べて季衣は今からしっかりと教えていけば、内政面でもいくらかの活躍が出来るかもしれない。現状、春蘭と同じ方向に大きく傾いているが、まだ年齢的に見ても頭を使うことに面白味を覚えれば矯正も可能な筈だ。春蘭と同じで体を動かしている方を好んでいるようだけれど、内務にしてもやれるに越したことはないだろう。

 

「はぁ……春蘭。貴女の武については認めてもいいけど、もう少し他の事も真剣に取り組んだらどう? この様子じゃ貴女に回ってくる内務関係の仕事は秋蘭に任せっきりなのでしょう。彼女の苦労が見て取れるわ」

「な、何故わかったのだ!?」

 

 前を歩いていた春蘭が勢いよく振り返る。本当に驚愕しているらしい春蘭を、拓実は思わず呆れた表情で見やってしまう。

 

「普段の言動からの半ば当てずっぽうだったのだけれど、その返答が何よりの証左ね」

「あ、いや、半分のその半分くらいは自分でやっているぞ?」

「そういう問題じゃないわよ。少しは物を考えて喋りなさい、って言ってるの。そんな言動をしているから、直ぐに看破されてしまうのよ」

「……なんだとぉ!? きさま、誰が脳筋だっ!!」

 

 少し考えている風であったが、どうやら春蘭はそれを侮蔑の言葉と取ったらしい。

 拓実はその様を見て、冷ややかな目を作った。考えてから話せと今言ったばかりだというのに、これでは聞く気があるのかどうかも疑わしくなってしまう。

 

「あのねぇ、誰もそこまで言ってはいないでしょうに。そんなことだから桂花に脳筋女だなんて言われるのよ。それに、自覚しているのなら少し行動を改めたらどうなの?」

「くっ! おのれ、小馬鹿にしおって! その仕草、桂花そっくりで無性に腹が立つぞ!」

 

 『自分には無理だなんて思っていたら、出来る筈のことも出来やしない。出来ないなら努力をすればいい』――拓実はそんな風に考えて忠告したつもりだったのだが、そうは受け取らなかったようだ。

 

「別に、私は春蘭を馬鹿にしているつもりはないわよ。少し物事を考えるようにしたら、と言っただけじゃない」

「そういう上から見るような、偉ぶった態度が馬鹿にしているというのだ!」

 

 拓実の言葉を受けて、更にいきり立つ春蘭。怒りで顔を赤く染めて、直ぐにでも拓実に飛びかかりそうな様子である。

 何故こうなってしまったのだろうかと拓実は自身の発した言葉を思い返していく。けれども、どの言葉が春蘭の勘気に触れたのかいくら考えてみても拓実にはわからない。桂花らしく、しかしいくらか言葉の角を落として言葉を交わしていくうちに、何故か春蘭と口論になっていたのだ。当たり前だが拓実には春蘭に喧嘩を売ろうだなんて無謀な企みはなく、今回の事はあくまで善意から助言していたつもりであった。

 

 実際のところ、拓実の考えは的が外れている。言葉の使い方が問題ではない。

 毒舌で、智を軽んじる者を見下す傾向にある桂花が、春蘭を思って助言をすることなんて今日まで一度もなかった。いや、中にはそういった意図が含まれていた発言もあったかもしれないが、多くの毒に埋もれてしまってそれは最早助言とは言えない代物だったろう。そんな振る舞いをしている桂花と同じ姿、声、仕草で、自身の行動を僅かにも否定的に言われれば春蘭にとっては嫌味としてしか受け取れないのだ。そこに含まれている善意など読み取れるわけがない。

 二人が積み上げてきたものもあるが、桂花と春蘭は根本的に相性が良くないのである。どうやらそれは演技をしている拓実であっても変わりはないようだった。

 

「もー! 何で二人ともすぐケンカするんですか! 華琳さまだって次やったら許さないって言ってたじゃないですか!」

 

 別に喧嘩する気など毛頭ない拓実がさてどう収めたものかと考えていると、季衣が横から割り込んだ。春蘭に向いて、拓実を庇うように立ち塞がる。

 

「む……。いや、しかし華琳さまに言われたのは桂花とのことで、今目の前にいるのは拓実であってだな……」

「しゅ・ん・ら・ん・さ・ま! 今日は拓実に街の案内をする為に来たんですよ!」

「わ、わかった。わかったから季衣、そう怒ってくれるな」

 

 尚も言い募ろうとする春蘭を、「フー!」と威嚇する猫のように季衣は睨みつけた。流石の春蘭もそんな季衣には強く出ることが出来ないのか、困ったような表情になって言葉を収める。

 

「まったくもう。いっつも二人ケンカするんですから。華琳さまに止めるように言われるボクの身になってくださいよ。拓実もだよ。何もここまで桂花とおなじじゃなくてもいいのに」

 

 何やらぶつぶつと文句を呟きながら先を歩いていく季衣だったが、何かに気づいた様子で足を止める。次いで、確かめるようにきょろきょろと辺りを見渡すと、道をいくらか戻って一つの店を指差した。

 

「あはは……ボクがいっつも行く服屋はあそこでした」

 

 どうやら目的の店は、大分前に通り過ぎていたようだ。店の前を通った時に着いたと言ってもらえれば、春蘭と言い争いを中断することは出来ただろうに。

 そう思う拓実ではあったが、しかし季衣が無理矢理に作った笑顔を見るとそれについて言及する気は起きなかった。

 

 

 

 たまたま気が向いて入ってみたら母親が(こしら)えてくれた服と似た服を売っていた、そんな理由で季衣はこの店を利用しているとのこと。街の警邏をしているうちに他の服屋を見る機会があり、値比べしてここが一番安いと知ってからは他では買わなくなってしまったようである。

 とはいえ、話を聞くところによるとどうやら季衣はこの店にはそんなに足を運んだりはしないようである。そもそもあまり服を買ったりはしない様子で、たまに行くその数少ない機会を全てここで済ませているそうだ。服にかけるお金があるなら食べ物にかけると豪語する季衣であるから、その他にかかる出費は安いに越したことはないのだろう。

 

 さてその店内だが、一言で言うならば大衆向けと言ったところだろうか。気取った感じはなく、内装なんて民家のそれと大差がない。店内には木で模った人形が並んでいて、それには見本が着せられていた。

 平机の上に折り畳まれたものが実際に売られている商品のようで、系統として動きやすい普段着に着るようなものばかりだ。壁に設えられている棚には上着の類がまとめられていて、奥には一室だけだが試着室らしき個室まで用意されている。

 敷地はそう広くなく、十数人が入店すれば奥にいる客は身動きが取れなくなるだろう。夕方に差しかかろうとしている時間帯だったからか客は他に二人しかいなかった。

 

「……でたらめだわ」

 

 拓実は店内を歩き回って商品を眺めていたのだが、見て回れば回るほど自身の常識が揺らいでいくのを感じていた。

 主力商品は前で合わせる着物のような、麻などの素材で作られた簡素な服らしい。実際に街を歩いている民のほとんどが着ているのはこれである。ここまではいい。しっかりと調べたわけではないので自信はないけれど、恐らく不自然なものではないだろう。

 しかし高価ながら、シャツやらズボン、スカートにワンピースやらも混じっているのはどういったことなのだろうか。それらは製法こそは荒いが、造り自体は現代の物とあまり変わりがない。本当にここは二千年近くといっていいほど過去にあった中国なのか。

 ついでに言うなら、男なんて知るかといわんばかりの品揃えで、充実しているのは女物の服ばかりである。

 

「どう、拓実。何かいいのあったー?」

 

 丁度いい機会だからと季衣も服を買うことにしたらしい。いつ選んだのか今着ているものと同じようなシャツを両手に抱えていた。ついその値札を確認してしまったが、他と比べてもとりわけ高いものでもなさそうだ。

 春蘭はどうしたのかといえば、何やら熱心に三枚セットの下着を眺めている。彼女もとくに服装に頓着しないようで、安ければいいらしい。内心、それでいいのかとも思うが性別の違う拓実がとやかく言うことでもないだろう。

 それよりも、ブラジャーの類やゴム製品らしきものがあることのほうが驚きである。

 

「そこそこ着れそうなものもありそうだけど、買わないわよ。今日はあくまで、品揃えを見に来ただけだもの」

「えぇー、どうして? せっかく来たんだから買っちゃえばいいじゃん」

 

 拓実としても、そうしたいのは山々ではある。この店の服はどれも、季衣のイメージにあったものばかりであるし、肌を露出しないものもちらほら見られた。揃えられるのなら今買ってしまいたいのは確か。けれど、そうはいかないやんごとなき事情があった。

 

「無理よ。だって、私お金持ってないもの」

 

 そう、なぜなら拓実はお金を持っていない。支度金を貰ってはいないのだから、当然である。

 働くことが正式に決まったのは昨日のことであり、食事に住居と先払いの形で与えられ、その上でお金もとは言い出せなかった。そして着の身着のままで倒れていた拓実は換金できそうな物も持っておらず、ここで使われている通貨すらどういったものなのかも知らないでいる。無い袖を振ることは出来ない。

 

「あ、そっかー。それじゃボクが貸してあげよっか?」

「いいわよ。借りるのも悪いし、お給金を貰ってからまた来るから」

「むー。拓実がそう言うなら、ボクも無理には言わないけどさー」

 

 季衣は頬をぷくっと膨らませて不満そうに見てくるのだが、拓実としても簡単に折れるわけにはいかない。

 恐らく服を購入するぐらいの給料は貰えるとは思うのだけれど、いつ貰えるのか、そしてどれほど貰えるのかわからない。当てがあるとは言いがたい状態なのに、易々と金銭のやり取りはしたくはなかった。ましてや相手は今日知り合ったばかりの、拓実より年下に見える少女である。

 何とか季衣の申し出を断ったところで、いつの間にか近寄っていたのか、春蘭が横から顔を覗かせた。

 

「拓実よ。すっかり言うのを忘れていたが、代金については心配せんでいいぞ。服を買う金は私が預かってきたからな」

「……はぁ? どういうことよ」

「どういうことも何も、聞いていなかったのか? お前に話しておかなければならないことがあると言っただろうに。桂花の服が一着あるだけではどうにもならないだろうと、華琳さまが用意してくださったのだ。お前が今着ている桂花の服でだいたい五着分は買えるぐらいか。経費としてのものだから服以外には使えんがな」

 

 ほれ、と春蘭に差し出された物を反射的に受け取る。小さな麻の袋だ。ずっしりと重い。

 

「これが華琳さまから渡された支度金だ。無駄遣いは許さんからな」

「……はぁ。わかったわよ。それよりあるならあると言っておいて欲しいわね」

「仕方が無かろう。話す機会がなかったのだ」

 

 今しがた「忘れていた」とはっきり春蘭の口から発されたばかりだったが、ここで蒸し返して春蘭と言い争いになるのも馬鹿らしい。ここは一つ拓実が大人になるとして、渡された麻の袋の中身を覗く。

 

「へぇ、ちゃんと金属で造幣していたのね」

 

 中に入っていたのは硬貨で、円の真ん中に四角の穴が開いてある。その穴に紐を通し、十枚だか百枚だかのきりのいい数でまとめてあるようだ。

 

「……季衣」

 

 それらを興味深く持ち上げたり、ひっくり返したりと一通り確認した拓実は、「拓実にはどれがいいかなー」などと呟きながら棚のシャツを眺めていた季衣に呼びかける。お金を渡されたはいいのだが、どうにも扱いに困っていた。

 

「ん? なーに? 買うの決まったの?」

「違うわよ。このお金、あなたに預けておくから私の分と一緒に会計してもらえない? 残りを華琳様に返すようにすれば同じことだし」

「えっ!? な、なんで? 拓実は拓実で買えばいいじゃん。わざわざ一緒に買わなくてもさ」

「異国出身の私じゃ、これがいくらあるのかもわからないもの。数字くらいは読めるけれど、肝心の貨幣がどれだけの価値があるかわからないわ」

「そ、そっかー。それじゃ、ボクがお金の種類、教えてあげるよ。ね?」

「それは助かるけど、別に城に帰ってからでもいいでしょう。ここで時間をかけてもしょうがないし、今日のところは季衣が払っておいて」

「……え~っと」

「季衣?」

 

 目をあちらこちらへと泳がせていた季衣は、両手の人差し指同士を胸の前で合わせてにっこり笑った。

 

「えへへ……。実はボク、計算がちゃんと出来なかったり、して」

 

 ――結局、拓実はその場でお金の種類と価値を教えてもらい、会計を済ませることになった。加えて言うならば、春蘭も計算は得意ではないようで、頼もうと声をかけたら「外で待っているぞ」と言い残して外へ出て行ってしまった。

 帰ったらまず、春蘭と季衣には早急な教育を施すように華琳に具申しなければならないようである。拓実は服を抱えながら、大きくため息をついた。

 

 


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