影武者華琳様   作:柚子餅

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10.『拓実、役柄を頂くのこと』

 

 

 拓実が華琳の姿に着替えて戻ってくると、玉座の間の中央には桂花がうなだれて座り込んでいた。その周囲には変わらず春蘭、秋蘭、季衣と並んでいるが、揃って沈痛とした表情で桂花を眺めている。華琳はそれを不機嫌そうに玉座から見下ろしているが、それは表層だけで拓実には内心で悦んでいるように見えた。その華琳の心情に一番近いと思えるのは、いじめっ子の愛情というところだろうか。

 ともかく、拓実が玉座の間を出るまではこのような異様な雰囲気ではなかったのは確か。あの後に何らかが起こったに違いないのだが、いったいどうすればこうなるものなのか。拓実には見当もつかない。実際に訊いてみた方が早いだろうと拓実は疑問を抱えながら桂花に歩み寄り、声をかけてみることにした。

 

「桂花、これはいったいどうしたというの?」

「どうした、ですって? 拓実……あんたが!」

 

 うつむき肩を震わせていた桂花は拓実の声が届くなりに顔を上げ、視線で人が殺せたらとばかりに拓実を睨みつけてくる。そんな目で見られる覚えのなかった拓実は、つい目を白黒とさせてしまった。

 

「ではなくて、拓実様が! 拓実、様が……」

 

 心配そうに覗き込んでいる拓実と真正面から向き合うことになった桂花だったが、放たれる言葉は次第に力を失っていく。

 桂花が拓実に向かって言いたいことはいくつもあった。もちろん、怒りだって収まっていない。だが実際にその憤りを発しようにも、桂花の口からそれらは出てはこない。

 

「私が?」

 

 桂花の言葉から、この状況はどうやら自身に原因があるらしいことを知った拓実は努めて真剣な顔で桂花を見つめる。

 

「う……、うー……」

 

 その視線に射抜かれて、桂花はついに言葉が続かなくなってしまった。真摯な瞳で自身のみを見つめられているという状況に、本人は必死に抑えているようなのだが勝手に赤面していってしまうようだ。同じく桂花の険のあった表情も、華琳とほぼ同じ拓実の姿を前には長く続かずに見る間に崩れていく。それに気づいた桂花は顔を引き締めて、思い直したように顔を険しくしているようなのだが、結局は拓実が扮する華琳の姿には抗いきれなかった。最終的には必死に抵抗していた反動も手伝ってか、桂花の頬はだらしなく緩んでしまっている。

 

「拓実様、卑怯です……私がそのお姿に文句を言えないと知っていて」

「何? 桂花は私に文句が言いたかったの? 言いたいことがあるのならば言ってごらんなさい。桂花の諫言(かんげん)を聞き入れられないような狭量な器を持ってはいないつもりよ」

「そ、そんなことはありません! 私が拓実様に、文句などと!」

「先と言っていることが違うじゃない。まったく」 

 

 拓実は呆れたようにそう言って、肩を竦めてみせた。何に対して怒っていたのか拓実にはさっぱりわからないのだが、この様子では桂花は話してくれそうにない。

 

「ふふっ」

 

 そんな二人を見ていた華琳から笑いが漏れる。不機嫌そうにしていた華琳はいつからか、目を細めてこちらを見つめていた。

 

「駄目ね。拓実と桂花が話しているのを聞いていたら、怒りも失せてしまうわ。桂花、先の失言は特別に聞かなかったことにしてあげる。でも、次はないわよ」

「あ、は、はいっ! ありがとうございますっ」

「……だから、いったい何が起こったというのよ」

 

 目を輝かせて華琳に頭を下げる桂花と、それを微笑ましく見守る華琳。二人に、拓実の呟きは届かなかった。

 

 そんな呟きを漏らしたものの、落ち着いて考えてみれば桂花が拓実に対して物申すことなど限られる。恐らくは桂花の姿を真似ていた時のことなのだろうとすぐに思い当たった。どうなったのかは想像も出来ないのだが、それが原因で何らかの騒動を起こし、今回は桂花がその犠牲となったのだろう。

 演技をしているとブレーキが利かなくなってしまう自覚はあった。桂花との言い争いや、華琳に対しての歯に布着せぬ物言いが自重できないのは、拓実が相手に成りきろうとすることが原因だ。知らずにまたやってしまったのだろう。役に成りきる事が必ずしも良い結果に繋がるとは限らないことを、拓実は経験から知っていた筈なのに。

 

 

 拓実は必要に迫られ、若しくはその才を買われ命令される形で今こうして演技をしているが、演技すること自体が嫌だということはない。むしろ好むものであった。

 聖フランチェスカ進学以前は、演劇部の活動は拓実の日課となっていたし、それこそ一時期は生きがいであるのかもしれないと感じていたほどである。

 

 拓実にとって演技とは、多くの男の子がやったことがあるだろうヒーローごっこが始まりになっている。拓実も例に漏れず、幼少の頃は敵と味方に分かれて友達とよく遊んでいた。誰でもやっていただろうこれが、拓実の演技の原点であった。

 誰でも冒険譚に出てくる勇者や、アニメの主人公を真似て、布団たたきやほうきなどを剣に見立てて振り回したり、おもちゃの武器を手に必殺技を叫んだりしただろう。それらは演技なんていえるものではないかもしれないけれど、子供たちは自分を本物のヒーローであると思い込んでいる。そこに偽りは存在しない。

 

 拓実も歳が進むと、興味も歳相応に移っていく。絵本やアニメからテレビゲーム、漫画、小説、ドラマへと。こうなったらヒーローごっこなんてやったりはしない。けれども、拓実が感情移入するのはいつだって変わらなかった。

 小説の登場人物に感情移入してぼろぼろと涙をこぼしてみたり、漫画を読んで自分が強くなった気になってみたり、映画を観て自身の考えを改めさせられたりしていた。拓実自身が非常に流されやすい性格をしているのも手伝って、話の中の出来事がまるで我が事のように思えてしまえた。

 拓実にとっての演劇は、その延長でしかない。物語を読んで共感し、そのキャラクターの行動を自分のことのように思い込み――自身へと取り込む。そしてそれを、自身へと重ねる。自らの意思を極力消して、『私はこう動く』という自身の中に取り込んだ擬似人格に身を任せているのだ。

 

 けれど、度を過ぎて成りきってしまった為に手痛い思いをしたこともあった。それは以前に通っていた学園の演劇部でのこと、以前に一度なったという演技に没入してしまった『トランス』時のことだ。

 大舞台のラストシーンにて、ヒロインのシンデレラになりきった拓実は王子様役を心から愛していると錯覚してしまって、台本になかった愛を語り、いとおしく思うあまりにラストシーンではあわや本当にキスしそうになってしまった。

 それだけならまだよかったとも言えた。前後不覚の拓実を相手役が(なだ)めすかし、上手く機転を利かせて劇を綺麗に纏め上げてみせた。その一連の流れが反響を呼び、拓実属する演劇部は受賞することができたのだ。

 

 しかし問題は、その迫真の演技に感銘したらしい審査員長が、急遽、閉会の挨拶にてシンデレラを演じた女子生徒をと指名し、拓実を壇上に上げたことである。少女らしい瑞々しい演技だの、女性にしか出せない情感が篭もっていただの、実体験かと思わせるほどの愛の演技だのと、羞恥で顔を真っ赤にしている拓実のその横で大絶賛であった。

 後に性別が判明し、拓実の希望もあって名前を伏せてもらえたが、その様子を写した写真がしっかりと新聞の地方面を飾ったのは拓実にとってあまりに苦い思い出である。演技を見た劇団からスカウトもきていたらしいが、恥を上塗りする気がなかった拓実は部員に正体を秘密にしてもらい、顧問を通してその申し出を丁重に断って決して名乗り出ることをしなかった。

 しかし、もちろん人の口に戸は立てられないものであるからして、大会の見物に来ていた拓実のクラスメイトの口から学園へと広まり、拓実は友人たちに頻繁に女子扱いされることになってしまったのだ。そうして拓実には、容姿へのコンプレックスが生まれたのである。

 

 演劇を好み、そしてその才能を持っていながらも演技の道を自ら辞した顛末(てんまつ)はこれらであり、わざわざ自身を知る人間が少ない聖フランチェスカに進学を決めたのは地元では変に顔が売れてしまったからだった。

 結局は演技をして生活する破目になっているのだが、やはり演技をすることのないこの半年間は物足りないものであったのも確か。女装はすまい、と決めていたが、女役であっても演技するとなると充実感が違う。ここ数日、心が満ち足りているのを拓実は実感していた。

 どうやら拓実にとって、演技とは切っても切れないものになっているのかもしれない。

 

 

「うわぁー……すっごいなぁー。今の拓実、どこから見ても華琳様そっくりだねー」

 

 拓実が反省半分に考え込んでいるうちに、どうやら秋蘭から季衣には、拓実が務める『影武者』の役割と注意点が伝えられていたらしい。いつからか季衣は周囲をくるくると回って、感心しながら拓実を眺めていた。

 拓実は今までの思考を沈めて、すぐさま切り替えた。今華琳が拓実に求めているのはやり過ぎるぐらいの演技なのだから、事の良し悪しは部屋に戻ってからゆっくり考えればいい。

 

「んー、でも今の拓実って、呼び捨てにしにくいなぁ。華琳さまとおんなじ姿の人、ボクが呼び捨てにしちゃうなんて変な感じだし」

「呼びにくいようならば季衣が呼び易いよう、好きに呼んでくれて構わないわよ」

 

 気を取り直した拓実は小さく笑みを浮かべながら、はしゃいでいる季衣にそうやんわりと話しかける。

 春蘭以上に感情が表に出ている季衣は、見ているだけでなんだか微笑ましくなってしまう。季衣は見た目からして小柄で可愛らしい少女だが、中身も年相応であるらしかった。ころころと表情を変えて、全身で感情を表現する様はとても可愛らしい。

 

「それじゃ、桂花とおなじで、華琳さまの格好した拓実のことは『拓実さま』って呼ぼーっと。桂花の姿の時はそのまま拓実って呼べばいいし」

 

 何が嬉しいのか、季衣は「えへへ」と笑みを浮かべて拓実の顔を覗き込む。大きなその瞳からは好奇心が溢れ出ているようだ。そんなあまりに純粋な感情に当てられて、拓実は少したじろいでしまった。

 

「ねぇねぇ、拓実さまって、他の人の物真似もできるんですか? 春蘭さまとか、秋蘭さまは? ボク、見てみたいなー」

「こら季衣、少し落ち着きなさい。拓実も困っているわ。それに、話はまだ終わっていないわよ」

「はぁーい」

 

 華琳にたしなめられ、季衣は素直に返事を上げて春蘭の隣へてくてく歩いていく。拓実はそれを見て、密かに肺に溜まっていた空気を吐き出した。この姿を意に介した様子もなく親しげにされるのは嬉しいのだが、ああも純粋だとどうにも対応に困ってしまう。

 季衣が元の位置まで戻ったのを確認し、華琳はこの場にいる全ての人間を一人一人見回していく。

 

「これは繰り返すことになるけれど、季衣も加わったことだから改めて伝達しておきましょう。『曹孟徳の演技をする拓実』、これを知る者はここにいる者だけよ。従って、この場にいない者に口外するようなことがあれば処罰を下すわ。これについては全員、厳守すること。いいわね?」

『はっ!』

 

 華琳の君命に対し、拓実を含めた四人の声が小気味良く返る。それを受けた華琳は笑みを浮かべひとつ頷いた。

 

「次に、拓実は優先的に『影武者』として務めてもらうのだけれど、私は『影武者』を必要としない時にも仕事を任せたいと考えているわ。管轄する土地は増え、我らに人手を余らせておく余裕なんてありはしないのだから当然といえば当然ね」

 

 それを聞いて、うむうむ、といった様子で春蘭が頷いている。華琳が州牧となったことで、一人一人の負担が増している現状だ。人手は足りないことはあっても多すぎることはない。

 

「しかし、そこで問題が一つ。春蘭との調練で判明したのだけど、拓実は演技をしていると役にそぐわない意欲を無意識に削いでしまう。それによって学習効率にも影響が出てしまっているらしいわ。よって、その解決の為に調練、政務をさせるに適した人物を、拓実と別人とした上で新たに二人用意したいのよ」

 

 事前に話を聞いていた三人――春蘭、秋蘭、拓実はそれを聞いても静かに佇んだままである。呼び出しがあると聞かされていただけで事前情報を持っていないのは季衣と桂花だが、二人とも考え事をしているというのに、その様子は対称的であった。季衣は視線を宙へとやってぼんやりと、桂花は口元に手を当て酷く真剣に伏せ目がちにしている。

 

「……えーと? 桂花の格好をした『拓実』と、華琳さまの格好をした『拓実さま』に名前をあげるんですか? あれ? でもそれって……」

「季衣よ、それでは華琳様が二人いるのを自ずから証明してしまうことになるだろう。拓実が華琳様のお姿をしていることは内密にせねばならぬのだぞ」

「んー、そうですよね。それじゃ、どういうことなんですか? ボク、頭がこんがらがってきそうなんですけど」

 

 視線を宙に投げて考えていた季衣だが、声に出しているうちに矛盾に気がついたらしい。今まで口を開くことなく華琳の言葉に耳を傾けていた秋蘭が自問自答する季衣に説明してやるのだが、しかし季衣にはそれがいまいち理解できていないようである。

 

「仕方がないわね。季衣の為にもう少しだけ噛み砕きましょうか」

 

 一通りの説明を終えてからは状況に任せていた華琳だったが、難しい顔をして思い悩む季衣を見るに見かねたようだ。極秘事項であるから充分な理解を求めてのことなのだろうが、それを差し引いてもやっぱり季衣には甘いように見える。

 

「学の受講・政務は『桂花を真似た拓実』が、調練・兵の訓練は『季衣を真似た拓実』に受け持たせることにするわ。そしてこの『桂花を真似た拓実』と『季衣を真似た拓実』には別名を与えて、それぞれ一個の人間として扱うということよ。残る『私を真似た拓実』については存在していないものとして扱うわ。拓実がこの姿で表に出るときは『曹孟徳本人』としてになるわね」

「えっと、そっか。桂花と、ボクの真似をすればいいんだ。それならおかしくないですもんね」

 

 華琳より説明を聞いてようやく季衣はそう納得したものの、幾許(いくばく)もしないうちにこめかみに人差し指を当て、首をひねった。

 

「あれ? けど、ボクを真似た拓実って? 拓実さまって、ボクの真似も出来るんですかっ?」

「そうね。勝手に話を進めてしまったけれど、どうなのかしら?」

 

 きらきらと瞳を輝かせて、季衣は隣に並んでいる拓実を見やる。自然と、この場にいる全ての人間が拓実を注視することになった。

 華琳にそう問われては、拓実が返す言葉は一つしかない。ただでさえ既にいくつも課題を与えられているのだ。拓実が出来るところぐらいはしっかり見せておかないと、期待への返済が追いつかなくなる。

 

「華琳、言ったでしょう。私の理解の及ばない人物でもなければ、演じてみせると。どんな人物だってやってやれないことはないわ。華琳が演じろと言うならば、私は全力でそれをこなすだけよ」

「ええ。そう言ってくれるものと思っていたわ」

 

 満足そうに笑みを浮かべる華琳。拓実はかなり自分贔屓に言ったつもりだったのだけど、それは華琳が当然と思える程度の自負としかとられなかったらしい。むしろ拓実は、自身の発言が己の首を絞めている気すらしてきた。

 とりあえず気を取り直した拓実は、自分の真似と聞いて楽しみにしている季衣に目を向ける。まず目に映えるのは、二つにまとめられているピンクの髪。自身の金色の髪と明らかな違いはこれだが、別人として扱われるというならそれはいいだろう。しかし、いくら別人だとしても許容できない部分がある。

 

「まぁ、まだ季衣と知り合ったばかりだし、どんな子か詳しくわからないから今演技したとしてもあまり似せられないかもしれないわ。後、問題は格好よ。季衣の姿そのままでは色々と不都合だから、肌を隠すようなものにしないといけないわ」

 

 季衣の姿は非常に薄手で身軽なものである。何故この時代にあるのかわからないが下はハーフパンツ、上はノースリーブでへそが見えるほど生地の少ない、下着とも取れてしまいそうなシャツだけだ。

 もちろん季衣だって女の子であるから胸のふくらみは存在しているし、むしろ薄手であるからそれが強調されている。男の身で女性である季衣の演技をするには、衣装は避けて通れない部分である。

 

「それは、拓実が着ていたものではいけないものなのか? 拓実が自分で仕立てたと言っていたあの旗袍ならば問題はないように思うのだが」

「……あれのこと?」

 

 横から上げられた秋蘭の言葉を受け、拓実はそれを吟味する。脳内で季衣に、あの自作のチャイナドレスを合わせてみると、どうしてもちぐはぐするが肌を隠すという点ではなんら問題はなさそうだった。

 

「そうね。まぁ、あの旗袍なら大丈夫でしょう。私が感じている季衣の印象と比べるとおとなし過ぎるけれど、それらしい服が見つかるまでの繋ぎにしておけばいいわ」

「あ、それじゃ、ボクがよく行っている服屋さん教えますから、この後に行きましょうよ! 一緒にボクが街の案内しますよ! あとは、えと、途中に美味しい点心を売ってるお店があるからそこでご飯食べて……」

「そうね。そうまで楽しみにしてくれるのならば、季衣にお願いしようかしら」

 

 身を乗り出して提案してくる季衣に、拓実は笑みを浮かべて返事を返す。

 

「本当ですかっ? うわぁ、今から楽しみだなー」

 

 ぴょんぴょんと跳ねて全身で喜びを表現する季衣は、見ている拓実が嬉しくなってしまうような無邪気さだった。なんだか拓実は、元気で素直な妹が出来た気分になっていた。少しぐらいのわがままなら無条件で聞いてしまいそうだ。

 

「こら、季衣。仲良くするのは良いことだけれど、まだこちらの話が終わっていないのだからそれは後になさい」

「あ、ごめんなさーい」

 

 掛けられた華琳の言葉は、酷く優しい。拓実が思うように、華琳にとっても季衣は妹のような存在なのかもしれない。それを感じているのかどうか、季衣はぺろっと舌を出して、悪びれなく謝った。

 

「さ。改めて話の続きよ。拓実の演技は問題ないとした上で、拓実に用意する名と身分について私から季衣と桂花に頼みがあるのだけど」

「へ? 頼みですか?」

「私に出来ることであれば、なんなりと。恐らくは演技をしている際の拓実の家名についてだと推察いたしますが」

 

 華琳に名指しされ、疑問符を浮かべる季衣。対して冷静に、これから問われることを理解している様子であるのは桂花だ。

 

「そう。桂花の言うとおりよ。拓実は貴女たち二人を真似ることになるのだから、必然的に容姿や性格が似通った人物が二人新たに任官されることになるわ。しかし、その二人と貴女たち二人が赤の他人であるというのは考えにくいでしょう?」

「言われてみればそうですよね。拓実と桂花、ちょっとは違うけど、そっくりでしたもん。ボクも間違えちゃったし」

「そういうことよ。だから拓実の家名は、少なくとも貴女たちの家名と同じ物を拓実に与えることになるのだけれど」

 

 黙って聞いていた拓実は、視線を桂花と季衣に向ける。拓実が、華琳のその案を聞いて密かに危惧していたのはこの『名を借り受ける』ことであった。

 この大陸、名は非常に重要なものであると聞いている。真名ほどではないにしろ、名はその者の命と言っても過言ではないものと認識している。日本出身の拓実は、詐欺を働く為ならばともかく、必要に駆られての騙りと思えばそんな重大なものだと感じはしないが、ここではそうではない可能性が高い。だが、何とか家名だけでも許してもらわなければ、拓実は今日のようにずっと人目につかないよう暮らしていかなければならなくなる。

 

「そのことでしたら、荀家は名門と呼ばれておりますが、枝葉が広く分かれていますので極端に本家筋でなければ問題はないかと思います」

「ボクも大丈夫ですよ。うちの村、許の姓の人ばっかりでしたし、そもそも桂花みたいに有名じゃないですから」

「……ええ?」

 

 しかし、拓実が思っていたより、二人からはあっさり許可が出していた。内心では戦々恐々としていたのだが、あまりのあっけなさに拓実はつい思考が止まってしまった。

 

「そう言ってもらえれば、私としても助かるわね。それでは一族の者と重なってはいけないから、名乗らせる名については貴女たち二人が用意してあげて」

 

 呆然とする拓実を置いて、華琳に言われた二人が考え込む。二人を見ていた華琳の視線が、こちらに向かって動いたのを感じ、拓実は咄嗟に表面上だけでも平静を取り繕った。

 そうして先に考えをまとめたのは、どうやらこの話の運びを予期していた桂花だった。事前にこうなるとわかって考えていたのだろう。

 

「それでは……私の演技をしている拓実には『荀攸(じゅんゆう)』、加えて字を公達と名乗らせましょう。年上ですが実在する私の姪の名でして、官軍に文官として仕官していましたが、現在は出奔し『荀諶(じゅんしん)』と名を変えたという話ですので、表舞台に出ないのであれば問題はないかと思います」

「んーっと、それじゃあ、ボクの真似してる拓実さまには『許定(きょてい)』ってどーかな? お母さんがボクの名前を決めるとき、この名前と迷ったって言ってたし」

「では、荀攸はそのまま桂花の年上の姪として軍師に、許定は季衣の姉として将軍に、二人の口利きで引き立てたことにしておくわ拓実、これより二人の演技をしている時はその名を名乗るように」

 

 拓実は華琳の命令に、即座に言葉を返せなかった。荀攸と、許定。拓実には、うち片方の名前には聞き覚えがあったからだ。

 許定なる人物については拓実も見聞きしたことはなかったが、荀攸といえば人材豊富な魏においても戦術家として名高い人物である。そのような偉人の名を預かってしまっていいものだろうかと考えてしまった。

 しかしいくら考えたところでここに至って断ることなど出来ない。現時点で拓実は何者でもないのだ。そもそも桂花の話が真実であるなら荀攸は既に荀諶を名乗っていて、以後荀攸を名乗る人物は存在しないということになる。恐れ多いなどとは言っていられない。拓実は動揺を押さえ込む。

 

「……ええ、わかったわ。それでは桂花、季衣。これよりその名、名乗らせてもらうわね」

「いえ! 華琳様よりの頼みでしたし、拓実様のお役になれたのであれば幸いでございます!」

「大丈夫だよー。 えーっと、それじゃこれからはボクの真似している拓実さまのことは『姉ちゃん』って呼ばなきゃいけないよね。あははっ。拓実さま、男の人なのに姉ちゃんとか変なの」

「ありがとう、桂花。季衣、そうよね。男なのにおかしいわよね」

 

 調子を持ち直していた拓実は華琳らしく涼やかに笑って見せたつもりだったが、実際の笑みは引きつっていた。別に好んで女装をしている訳ではないのだが、今の自分の状況は変態と言われて当然なのだと改めて認識させられたからだった。本当は落ち込んでしまいたいが、華琳の姿をしている手前、そのような姿を見せるわけにはいかない。

 そんなことよりも、拓実は今聞いておかなければならないことがあることに気がついた。

 

「華琳。少し質問させて頂戴。その『荀攸』『許定』なのだけれど、真名については二役とも『拓実』と定めてしまってもいいものかしら」

 

 真名――真の名。これだけは、偽ってはならないものである。大陸出身であれば当然に真名を持っていて、その経歴を名乗る拓実もまた真名がなくてはいけない。生憎、日本生まれの拓実は姓と名しか持っていないから必然的に二役の真名も『拓実』となってしまうのだが、同じ名ということに問題が生じないかどうか。違う文化圏で育った拓実には判断をつけることが出来ない。

 そんな拓実からの質問を受けて、鼻白んだように華琳は顔を向けてくる。

 

「何をそんな。役になりきっていたって、貴方の真なる名は一つしかないのだから当たり前でしょうに。……ああ、そういえば貴方、大陸出身ではないと言っていたわね。別に真名といっても重複してしまうことはいくらでもあるわ。ま、拓実の演技力にも拠るけれど、怪しまれることはない筈よ」

「そう。それならば何も問題はないわね」

 

 挑発的に声をかける華琳に対し、半ば意地となった拓実は余裕の笑みで切り返す。華琳は当然堪えた様子もなく、満足そうに笑みを深めるだけである。

 

「ともかく、拓実は基より、内情を知っている他の者も慣れるまでは応対に苦労するかもしれないわ。しかし、これも我らが覇道を磐石のものとする為の足がかりと考えて、各自励んで頂戴」

『はっ!』

 

 華琳の声に、再び四人の声が揃った。

 

「先に伝えたとおり、この召集で遅れた分の仕事は明日以降で構わないわ。先立って明日の朝議で主だった部下に荀攸の顔見せをするから、拓実は忘れないようになさい。許定についてはとりあえず未定よ。各々、任されている仕事に戻りなさい。では春蘭」

「解散っ!」

 

 華琳からの一通りの伝達が終わった後、春蘭の号令がかかった。四人が華琳へと一礼すると、それを境に空気が緩んでいく。

 

 

 

 

 

「拓実さま! それじゃさっそく服屋さんに行きましょう!」

「季衣、ちょっと待ちなさい。荀攸としてでないと、私は外に出ることは出来ないのよ?」

「あ、そうでした。それじゃ、先に着替えてからですよね」

「おい待て二人とも! 拓実には話しておかなければならんことがあるのだ!」

「それじゃ、春蘭様も一緒に行きましょうよ」

「む……そうだな。季衣と拓実ではいささか不安だ。仕方がない、私もついていってやろう。幸い、兵の調練は午前に終わらせてあるからな」

 

 そんなやりとりをしながらも拓実と春蘭は笑顔の季衣に腕を取られて連れられて行く。仕方がないといった表情を浮かべながら、拓実はなすがままにされていた。

 そのやり取りだけ見てみれば微笑ましい光景であったが、華琳の姿でそれをしているのを考えると少しばかり不自然であった。流石の季衣だって華琳が相手ではああまで気安くは出来ない。他の者と比べれば最低限ではあったが、季衣も臣下として線引きをしている。

 そんな光景をじっと眺めていた華琳に、横合いから桂花から声が掛かった。

 

「華琳様、あの、よろしいでしょうか」

「どうしたの、桂花?」

 

 振り向いた華琳より返事を受けた桂花は姿勢を正す。先の失言もあってかどうにも声がかけにくそうにしていたが、恐る恐るという風に口を開いた。

 

「いえ、その、いくらなんでも拓実に手を掛け過ぎているのでは、と愚考いたしまして。あくまで拓実は影武者です。そうまでして、手を尽くす必要はないのでは……」

「……私も桂花と同じことを考えておりました」

 

 桂花に追随するように秋蘭が賛同の意を示す。秋蘭にも、華琳の拓実に対する熱の入れようは不自然に思えた。

 他ならぬ華琳の影武者を任せるのだから高水準の能力を持たせなければならないのはわかるが、華琳の動きはあまりに性急すぎるように感じる。少なくたって一ヶ月やそこらで身につくような、そんな話ではない。今回の話にしても、拓実に基礎を積ませてからでも遅くはなかっただろう。むしろ、今のまま将軍、軍師として放り込んでも何の役に立たない可能性の方が高い。

 

「そうね。確かに少し、急ぎすぎているかもしれないわ」

 

 あっさりとそれを認めた華琳に、桂花、秋蘭両名は言葉を返せない。

 常人とは一線を画す華琳の思考を読むことは容易ではない。現に二人は、華琳が何を考えているか検討はついてはいない。だが二人は、華琳の態度から胸の内をじりじりと炙られるような、妙な焦燥感を感じていた。今の華琳を見ていると、何故だか不安に駆られてしまう。

 

「……拓実ならば覇道を、私が胸に描いているものと同じ道程で辿ることが出来るでしょうね。ただ、今は圧倒的に力が足りていない。それでは万が一の時に、代わりを務めるなどは出来ないでしょう」

「華琳、様?」

「いったい何をっ!」

 

 二人はその発言に、驚愕を露にする。影武者という役割をこなす力量について、と本来取れる華琳の発言。しかし、それを素直に飲み込むには、あまりに異物となる言葉が多すぎた。

 ――『拓実ならば華琳が描く覇道を進むことが出来るだろう』『万が一』『華琳の代わりを務める』

 これらは、あまりに不吉な言い回し。

 

「華琳様、それはまるで――――」

「ふふっ、馬鹿ね。何を驚いているのよ、二人とも」

 

 秋蘭の続く言葉を遮るように、笑みを浮かべて声を投げかける華琳。この時、先に感じた触れれば消えてしまいそうな儚さは、華琳から消えていた。元からそんなものはなかったかのように、残滓すら残していない。不世出の英雄、覇王たる華琳がそこにいる。

 

「万が一、というのは、起こったりはしないから万が一と言うのよ。我が覇道は、大陸を平定するその時まで決して途絶えたりはしない。我らの歩みを止められる者などはいない。そうでしょう?」

「はっ!」

「左様にございます」

 

 いつもの華琳より自信に溢れた宣言を聞いた秋蘭と桂花は、心底安堵したように笑みを浮かべて肯定の声を上げた。そんな二人を見て、華琳もまた微笑を浮かべる。

 

「それでは、貴女たちもそろそろ仕事に戻りなさい。いくら遅れることを許したといっても、一日以上の遅延は認めないわよ」

「御意に」

「はいっ! それでは華琳様、失礼致します」

 

 退室していく二人を眺める華琳。もう、玉座の間に華琳以外の人影はなくなった。華琳もまた入り口へと歩みを進める。

 そうしてふと立ち止まり、華琳は、部屋の中央――玉座へと振り向いた。

 

「志半ばでこの道を途絶えさせるなど、我らには許されない。私の下で散っていった者たちの為にも、例え何があったとしても止まってはいけないのよ」

 

 


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