影武者華琳様   作:柚子餅

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1.『拓実、大陸に立つのこと』

 

 ある日、ある時。大陸は陳留に、背に物を負っているとは思えない速度で走る女性の姿があった。

 その女性の容姿は気迫に富んだ鋭いものであるのだが、今は喜びで口元が絶えず緩んでいるために普段の張り詰めた様子もなく、端整なそれを可愛らしく見せている。

 道行く人々はそんな彼女の走る様を見て撥ねられまいと自発的に進路を譲っていく。そうして見事に人の波が割れていく光景が出来上がっていた。

 そんな彼女が駆けつけた先は自分と妹の部屋。彼女は誰よりも先に、この喜びを自身の片割れに伝えてやりたかった。

 

「秋蘭、しゅうらぁ~ん!」

「ん? そんなに急いで、いったいどうした姉者」

 

 どかん、と本来鳴ってはならない音を立てて、姉妹共有となっている私室の扉が開かれる。中で書類整理をしていた秋蘭は作業の手を止め、急ぎ駆け込んできた姉である春蘭に向かって顔を上げた。

 

「こんな時に落ち着いてなどいられるものか! ついに拾ったのだぞ秋蘭! お前も喜べ!」

「拾った?」

 

 傍目にはわからない程度に首を傾げた秋蘭は、すこしばかり考える。ついに拾った、とはいったい何を拾ったというのだろうか。常々のことだが、今回は目的語が存在していなかった。

 しかし秋蘭にとってはそれも慣れっこなのか、姉である春蘭は自身の喜びを全力で伝えようとしている故のことだろうと当たりをつける。

 

 この粗暴で、少々頭への血の巡りが悪い春蘭だが、日ごろからこうして要点が抜けた話で聞く者に混乱を与えて意図を理解してくれない相手に憤慨し、厄介事を巻き起こしている。そしてその後始末は大抵、妹である秋蘭に回っていた。生まれてこの方、両手両足の指の数では全く足りないぐらいに対処してきている。

 それを迷惑かと言われれば秋蘭は言葉を濁して苦笑するしかない。だが彼女は、その後始末を苦に思わない程にはそんな足りない姉が大好きなのであった。

 

「すまない姉者。今まで政務の残りを片付けていてな。少しばかり事の次第を説明してもらえないか?」

「む。ならば仕方がないな。といっても、これを見ればすぐにでもわかるだろう」

 

 やんわりと笑みを浮かべる秋蘭に対し、春蘭は本当に仕方がない風に言って、背負っている人物を珍しく丁寧に抱きかかえて寝台へ下ろした。

 どうやらその人物は気を失っているらしく、この春蘭の騒ぎに声を上げていた様子もない。姉に促された秋蘭は寝台へと歩み寄っていく。

 

「……華琳様!?」

 

 そして、寝台に寝かされた旗袍(チャイナドレス)を着ている者の姿を眺め見て、驚きに目を見開いたのだった。

 

 

 

 

 

(……明日は、ついに文化祭かぁ)

 

 見るからに気落ちした様子で、中学生とも見紛うような小柄な体躯の青年――南雲(なぐも)拓実(たくみ)は自室で服を自作していた。暗澹(あんたん)とした気持ちで行っている裁縫だが、その動きに淀みはない。仕事に出来るほどの洗練さはなかったが慣れた者が持つ手際の良さがあった。

 服を自作しているといっても、彼に服飾関係の進路を進む予定はないし、だからといって別に趣味でメイド服やらアニメのキャラクターの服を作っているわけでもない。その手元にあるのは中華風の民族衣装であった。それも何がどうなったのか、拓実は明日それを着る予定になっている。

 

 ――聖フランチェスカ学園。数ヶ月前だかに一人、二年の男子生徒が行方知らずになったそうだったが、なんら実害を被っていない拓実からすれば至って平和な学園だ。

 治安は悪くないし、その割に校則にうるさいこともない。少しばかり田舎かもしれないが、それだって通学するのに不便はない程度のものである。生徒間でいじめもなくクラスメイトも気のいい連中ばかりだし、何よりも進学以前に通っていた学園のように演劇でシンデレラ役をやらされるなんてことが今の今までなかった。

 もっとも、今回のことがきっかけとなって以前のようになりかねないからこそ、拓実は頭を悩ませているのだけれど。

 

 聖フランチェスカに一年生として通って半年になる拓実は、幼馴染に半ば無理やり勧められて民俗学研究会なんていうマイナーな同好会に入っている。三年女子の西新井会長に、一年男子長身ハンサム顔の東条、そして拓実の三人が構成している小さな同好会だ。

 部紹介オリエンテーションの際、壇上に上がった西新井会長に拓実の幼馴染である東条が一目惚れしたらしいのだが、彼はその異性にモテそうな容姿とは裏腹に話下手であった。そこで、どこに入部するか迷っていた幼馴染の拓実を会話の助けにするために入会に巻き込んだという経緯があった。

 それだけで済めば良かったのだが、そこからがまた難儀な話で、西新井会長は見た目こそ眼鏡に黒髪のみつあみという真面目な文学少女風だというのに、可愛らしい小さな女の子を好むという奇特な嗜好をお持ちであったらしい。もちろんというか彼女にとって『可愛い』の対極ともいえそうな『格好良い』東条は守備範囲外となり、男ではあるものの女子より背が低く女顔であった拓実は変則気味なストライクだったようだ。

 以来、西新井会長が拓実を可愛がり、拓実が辟易しながらもなすがままにされ、東条がそれを羨ましがるという、男と女を巡る変な会内関係が生まれてしまっている。

 

 先述のように小柄で女顔の拓実だったが、彼は聖フランチェスカ進学を機に、東条のような男らしい男になりたいと考えていた。

 男女別である制服ならばともかく、体育用ジャージなどユニセックスな物を着用している彼を初対面で正しく男と接してくるのは3割ほど。それも男子連中と一緒に居てのことなので、女子連中に混ざっていれば埋もれてしまってわかるまい。そんなこんなで自分の中性的過ぎる容姿が嫌いというわけでもないのだけれど、せめて真っ当に男として見て欲しいというのが近年の拓実の願いだった。

 そしてただ願うだけでなく自らそうあるべく、拓実は半年前――聖フランチェスカに入学した当時に髪を金色に染めて短く切り揃えていたことがある。男らしさ=ワイルド、と幼馴染の東条の姿から学んだ拓実は意を決し、髪を染め上げて進学デビューを果たしたのだ。

 そして強面であるべきと無理に眉を寄せて不機嫌そうに振舞い、乱暴な言葉遣いを心がけ自身は紛れもない男であるのだと周囲に主張したのだ。

 

 しかし一月も経てばわかったのだが、それらに効果はなかったようである。確かにベリーショートにしている女子は少ないので必然的に男子と見られるようにはなったが、それで拓実の顔が男らしくなるかといえばそんなことは一切ない。彼の級友たちは友人の顔が女性のようだからといって別にどうこうするわけでもなし、そもそも普通に暮らしていて男子生徒に女装させたりなんかはしないものだ。たまたま以前の学校ではシンデレラ役なんてやったがために女子に化粧されたり、女物の制服を着せられたり、ジャージ姿が可愛いなどとふざけて男に抱きつかれていただけなのだろう。

 そう理解した拓実は無駄な努力は止めた。短く切っていた金髪の髪を切る事なしに伸ばしっぱなしにして、そのまま半年経った今では結構な長髪になっている。乱暴だった言葉遣いも生来の丁寧なものに戻した。

 つまりは髪色が変わってしかめっ面が癖になっただけの、以前の彼に戻っていたのだった。いや、容姿だけならば妙に金髪がはまっていて、以前より可愛らしく見えるかもしれない。

 けれど拓実は今、それを特には気にしていなかった。男として見られないのが嫌なだけだったので、自分を普通の男友達として接してくれる現状で拓実は充分に満足していた。

 

 しかし、そうして安心し始めていた今になって、危機が再び目の前に現れている。

 手元にある野暮ったい中華風の服。今のご時世でよく見るスリットが深く入った派手なものではないが、歴とした女物のチャイナドレスである。

 

 弱小研究会といえど文化祭ともなれば何らかの発表はせねばならず、西新井会長の提案で民俗研究発表は世界の民族衣装を着て行うことになっていた。拓実の担当は中国大陸における民俗。「なら南雲さんはチャイナドレスね」と、西新井会長からの独裁が下った。反論は受け入れられなかった。

 女役をやらされるのが嫌で以前に入っていた演劇部をあきらめて民俗学研究会に入会したというのに、結局この有様である。

 西新井会長もそうだが、拓実は友情を捨てて会長の頼みに乗った東条こそが憎らしかった。アイツにしたってスウェーデンの、フェルトスカートにエプロンつきのドレスのような民族衣装を着ることになってしまうことはわかっていただろうに、何故賛同なんてしたのか。

 これが東条の愛だとでもいうつもりなのか。そんな愛、拓実にはわからないし、わかりたくもなかった。

 

 しかし、やると決まってしまったのならばやりきるほかあるまい。課せられた仕事から逃げ出すような真似をしない、それぐらいの矜持は拓実だって持っていた。

 そう、上からケープのような形状の上着を重ね着すればただのスカートだ。それに今回は、女言葉でしゃべったり愛をささやかなくてもよいのだから、以前のようなことにはならない筈だ。たぶんきっと、ならない。

 

 そんな風に無理に自分に逃げ道を作ってやり、再び作業に集中することにした。だが、そんな支えになっていた慰めに、拓実はあっさりと裏切られることになる。

 

 

 

 

 

 ――――気がつくと、拓実は荒野に独り倒れていた。それも何故か自分が製作したチャイナドレスとその上着を着て。いや、確かに拓実の最後の記憶は完成したチャイナドレスを寸法調整の為に実際に着てみた所で切れているのだけれど。

 他に手持ちの物はといえば身に着けていた腕時計と、逆の腕に髪留めの輪ゴム。足元には服装に合わせて西新井会長が用意したという赤く平たい靴。そして手には同じく、当日発表でつけるように言われていた金髪の巻き毛になっている二つのヘアーウィッグだけだ。

 財布もない。携帯すら持っちゃいない。部屋着に着ていたTシャツにジーンズもない。

 

「いや、そんなことよりもここはどこなんだろう……」

 

 目に入るのは、尖った山々に、どこまでも広がっていそうな荒野。遠くには集落のようなこじんまりした村が見える。自分以外に人影はない。たぶん、日本じゃない。こんな広大な荒野なんてない筈だし、何より全然空気が違う。

 

(誘拐? いやいやそんなバカな。うちにそんなお金はないし。それじゃ何だろう。……夢?)

 

 頬をつねったり、頭を抱えたりと混乱していた拓実だったが、十数分もした頃にはいくらか落ち着くことが出来ていた。

 誘拐犯らしき者の姿はなく、周囲の風景は時間が経っても変わらない。いったい何が起こったのかはわからないが、説明もなく見知らぬ地に放り出されたことだけは間違いなさそうだった。

 自分が現在進行形で緊急事態の真っ只中にいることは否応なしに理解させられた。そして、加えてこれから何が起こるとも限らないと考えるに至った。

 ならば何事かが起こった時に備えて、咄嗟に動けるようにしておきたい。具体的に言うならば両手を空けておきたいのだけれど、実際には塞がってしまっている。

 

「捨てたりしたら西新井会長、怒るんだろうなぁ……」

 

 拓実は手に持ったウィッグを眺めると、それはゆらゆらと揺れた。妙に憎たらしく見える。

 これを無くしたなどと言えばどんな罰が科せられることか。想像するだけで背中に冷たい汗が伝う。こんな異常な状況に放り込まれても、そんなことを考えてしまえるのはなんだかんだで余裕があるのだろうか。

 とにかく、チャイナドレスにも上着にもポケットを作らなかったのでウィッグをしまっておくことが出来ない。しばらく手に持つそれを眺めた拓実は一つ息を吐いた後、仕方なく髪をサイドで結んで小さくまとめあげる。握り締めていた二つのウィッグをその結び目にくくりつけた。

 

 これでどこから見ても、頭をツインテールにしている中学生ぐらいの女子にしか見えないだろう。その事実は悲しいことではあるが、自分で見てさえたまにそう思えてしまうのだから仕方ない。

 

 気を持ち直して、拓実は歩き出すことにする。とりあえず目指すはあの集落だ。人に会ってみないことにはここがどこなのか、自分がどんな状況に置かれているのかわかりそうもない。

 歩き出した拓実の動きに合わせて、頭の両側で金髪巻き毛のウィッグが上下に揺れた。

 

 

 

 

 さて、一時間も歩いただろうか。ようやく拓実は彼方に見えていた集落に辿りついた。

 着いてまず思ったのが、みんながみんな着物のように前で合わせ、帯で止める服を着ていたこと。材質は恐らく麻か、もしくは木綿。ともかく誰もシャツやパンツなどの洋服を着ていない。

 きょろきょろと見回しながら村中を歩いて回る。建っている民家はあばら家のような貧相な様相だ。服装や風景から見ればまるで時代を遡ったようにも思えるが、妙なところで近代的な造形の物がちらほらしていてよくわからない。

 なにやら年配の方やら子供ばかりで年頃の若者が少なかったのが気にはなったが、この村の感じだと農作業にでも出ているのかもしれない。その中で比較的に声が掛け易そうな、道端に座るおじいさんに話を訊く事が出来た。

 

 ここがどこかと問いかけてみれば、『ちんりゅう』という大きな街から数里程離れた村だという答えがおじいさんから返ってくる。

 日本、ジャパン、東京等々の言葉に聞き覚えがないかと聞いてみれば、不思議そうな顔で初めて聞く言葉だと言われてしまった。

 

 『ちんりゅう』なる言葉を聞いた拓実の脳内には、二つの漢字が浮かんでいた。もしかしたら、その『ちんりゅう』というのは『陳留』と書くのではないだろうか。

 常識的に考えればそんなことはあり得ない筈なのだが、周囲の中華風な文化を見ているとどうにも嫌な予感が拭えない。

 

 拓実は一先ずそれを置いて次の質問に移ろうと思ったのだが、口を開いたところで止まってしまった。

 今の状況で何を訊いたらいいのだろうか。考えたくはないが、万が一を考えるとあまり突飛なことを口走って目立つようなことはしたくない。当たり障りなく、それでいて情報が訊き出せそうな質問は……。

 

「……そうだ。訊いておきたかったんですが、最近何かありましたか? ずっと旅をしていると、どうにも世情に疎くなっちゃいまして」

 

 これならどうだろう。不自然に思われない程度に当たり障りなく、自分が置かれているこの辺りの情報を聞き出せそうな中々良い切り出し方ではないだろうか。

 そんな風に自画自賛している拓実に返ってきた言葉は、先の予感を確信に近づけるものだった。

 

「ああ、そうさねぇ。わしも、この村にいるばかりで外のことに詳しいわけでもないけどなぁ。……おお、そうだ。陳留の刺史、曹孟徳様がこの辺りの賊を軒並み討ってくださってな。その功績が認められて、どうやらこの度に州牧の任を引き継いでくださったようじゃ。曹孟徳様のような方が統治するとなれば周辺の我々からすればとても良いことでの。賊の被害も減って、うちの村の若者も喜んで募兵に向かっておったよ」

「曹、孟徳……? 曹操、様が?」

「うむ、ご存知か。しかし、曹孟徳様の名声も旅人にまで聞こえるものになったのかの」

 

 かっかっか、と快活に笑うおじいさんに碌な反応も返せずに、拓実は考え事に耽っていた。

 

 曹孟徳。曹操、という方が通りがいいだろうか。歴史に詳しくない者だって名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。三国志に出てくる魏の、乱世の奸雄とまで呼ばれた男だ。

 そう、先に出てきた『陳留』にしたって、以前読んだ三国志で見かけた街の名であった。陳留自体は今も中国にあるかもしれないが、その上で曹操がいるということは、つまりだ。ここは三国時代の中国、ということなのだろうか。

 

「そんなバカな話……」

 

 だって、それじゃあまるで漫画の話じゃないか。タイムスリップした、ということからしてありえないことではあるけれども、もし万が一、自身が三国時代にいると仮定したとしてもおかしなことが多すぎる。

 まず、自分が話している言葉。これは日本語の筈だ。いくら中国大陸の民俗学を調べていた拓実といえど、中国語を話すことなんて出来はしない。ならばおじいさんに言葉が通じる筈もないのだが、どういうわけかおじいさんの話す言語は日本語にしか聞こえてこない。意思の疎通だって苦も無く取れてしまっている。

 そして、何故このおじいさんはこの金髪の髪を見て奇異の視線を向けないのだろうか、といったこと。この時代、他民族を排斥する意識が強かったと思う。金の髪なんてもっていればどうなるかわかったものじゃない。

 さらに加えるなら、これは作るときに調べたから知っていることではあるが、拓実が着ているこのチャイナドレスにしたって漢民族に古来から伝わる衣装ではないのだ。清の時代になって、伝統衣装と渡来した衣服を組み合わせて作られた比較的近代の物である。いくら同じ流れを汲む服装とはいえ、存在し得ない服装を着ているというのに、おじいさんが拓実を見る視線には何ら不穏なものは含まれていない。

 金髪が元で迫害されたらそもそも話すらも訊く事が出来なかっただろうから、拓実としては疑問に思わないでいてくれているのは助かっている部分もあるのだけれども、どうにもわからないことが多すぎる。

 

 しかしおじいさんの言葉を信じるならばそういった疑問を全て含めて尚、ここは三国時代ということになる。あんまりに突飛過ぎて笑い飛ばしてやりたいけれど、拓実には目の前の好々爺が自分を騙しているようにはまったく見えなかった。

 

「お、翁よ。曹孟徳さまの命で警邏にきたぞ。村に変わりはないか?」

 

 拓実が考え込んで会話が途切れたが、そこで目の前のおじいさんに掛けられる声があった。その声はどうやら、馬にまたがっておじいさんを見下ろしている長身の女性のもののようである。

 女性を視界に入れてまず目を引くのは長い艶のある黒髪。前髪からオールバックにして後ろに流していて、一房だけが逆らってちょこんと跳ねている。どんな形成をしたのか、チャイナドレスの上から体のラインに沿うような金属の鎧を身につけている。そのことから、兵士に類する者ではないかと拓実は推察した。

 彼女の駆っている馬には人が持つにはあまりに大きい剣がくくりつけられているのだが、その持ち主と相俟って見た目にはあまりにもアンバランスだ。女性にしては大きい体躯だとは思うが、見た目十キロ近くはありそうなこの金属の塊を振るえるようにはどうしたって見えない。

 そもそも、三国時代にこんな精巧な剣や鎧を作る製鉄技術があったのだろうか。三国時代はおおよそ1700年前、西暦でいえば300年頃の、古代といって差し支えない時代である。

 

「おお、夏侯元譲様! 賊を討伐してくださっているお陰で、我々も安心して働くことが出来ております」

「何、曹孟徳さまが賊の横行を許される筈がないだろう。当然のことだ。これからも何かあったら私たちを頼れ。いいな?」

「はい! その際はよろしくお願いします」

 

 彼女の言葉に嬉しそうにおじいさんは声を返しているが、拓実はそれどころではなかった。

 あんまりにありえない名前がおじいさんの口から放たれたものだから、拓実はつい馬首を返そうとする夏侯元譲と呼ばれた女性を呆然と見上げてしまう。

 

(この人が夏侯元譲……夏候惇だって? どう見たって女性じゃないか)

 

 先の曹操と同じく、魏の武将である夏候惇。拓実の知る夏候惇というのは、男性である。むしろ夏候惇が女性であったなどという話を聞いたことがない。

 そんな呆然とした拓実の視線に気がついたのか、女性も顔を向けた。自然と見上げている拓実を、女性は馬上から見下ろす形になる。

 だが、一拍の後、何故か女性は口をかくんと開けて拓実のことを凝視していた。あんまりにもその感情が読み取りやすい、『びっくりした』という見本のような表情だ。

 

「は、はぇっ!? 申し訳ありません! 馬上から、し、失礼致しましたぁっ!!」

「へ? えっ!?」

 

 素早く乗っていた馬から下りると、夏候惇と呼ばれていた女性は額を地面にこすりつけんばかりに頭を下げる。しかも、その頭の先を拓実に向けてである。

 何事かと、となりにいるおじいさんもその突然の夏候惇の奇行に驚きを隠せないでいる。

 

「あの、華琳さま。しかし、何故こちらに、そのような格好でいらしているのですか? 本日は政務があるのでお部屋におられると聞いておりましたが……」

「え、ちょ? 夏候惇、さん? 落ち着いてください」

 

 拓実がそう言葉を発するなり、土下座の体勢から顔を上げている夏候惇の表情は凍ったように固まってしまった。かと思えば今度は、さあ、と顔が青く染まっていく。人の顔から血の気が引いていく様を、拓実は生まれて初めて目撃した。

 

「そんな! どうしていつものように私を『春蘭』と呼んでくださらないのですか? わ、私が至らぬからでございましょうか? 何としても私は華琳さまのお役に立ちますので、どうか変わらず私を『春蘭』とお呼びください!」

 

 涙をはたはたと落としながら、夏候惇はまた平伏した。地面に額をこすりつけている。今度は比喩ではなく。

 一方頭を下げられている拓実はというと勿論恐縮してしまい、頭を上げてもらおうと必死に声を掛けるのだが、この女性は仕置きの沙汰を待つかのように微動だにしない。その様子から最早どうするもなく、言うことを聞いてやらないと話が進展しないことを悟った。

 

「ええと、これからはその名前で呼べばいいの?」

「はいっ! お願いします!」

「しゅ、春蘭?」

「あ……ありがとうございますぅっ!」

 

 ようやく下げていた頭を持ち上げた春蘭の顔は見る間に血の気が戻り、あっという間に紅潮していく。こんなにも血がいったりきたりして体に悪いのではないだろうか、と拓実はそんなことを考えていた。

 その後もしきりに華琳という女性を乏しい語彙で必死に称える春蘭であるが、応対している拓実はというと、一つ春蘭の根本的な勘違いを正さなければならなかった。

 

「春蘭、ちょっといい?」

「はいっ! 何か御用でしょうか華琳さま!」

 

 尻尾があったのなら間違いなく振っていると確信できる喜び様で、春蘭はすぐさま拓実に返事を返す。そんな信じきられた目を真正面から受けて、思わず拓実は後ずさっていた。それに気づいて、気を取り直す。

 

「あの、それなんだけどね。ちょっと言いにくいのだけれど」

「なんなりと」

「それじゃ……その華琳って誰のこと? 俺、南雲拓実っていうんだけど」

「華琳さまと言えばここ陳留にて州牧となられ、早くも名声を……って、え? なぐもたくみ、ですか? あの……?」

「たぶんよく似た人と間違えているんじゃないかなぁ。だって、その華琳って女の人でしょ? 俺は違うし」

「華琳さまが女性であるなんて、当たり前ではないですか! 違うとは……いったいどうされたのですか?」

 

 拓実のその言葉に対し、きょとんとした表情で拓実を見上げる夏候惇。

 どうやらこの説明じゃ理解してくれなかったようである。充分にわかりやすいよう話したつもりだったのだけれど、もう少し噛み砕かないと駄目なのだろうか。

 

「いや、だからね。俺は別人なの。春蘭が知っている人とはまったくの他人。そりゃ確かにこんな格好していたら間違えるのも仕方がないけど、こんな見た目でも生物学的には男だから。あ、別に趣味ってわけじゃないからね。これはちょっと人に頼まれたからで、話すと長くなってしまうのだけど」

 

 聞かれてもいないことまでも必死で弁解する拓実であったが、どうやら目の前の春蘭の様子もまたおかしい。眉を寄せ、うなり声を上げている。額には汗が滲んでいた。

 どうやら春蘭には、前半の「春蘭が知っている人とはまったくの他人」あたりまでしか聞こえていない。というよりは必死に頭の中で情報を整理しようとした結果、新しく入る情報や難解な言い回しは処理し切れずにシャットアウトしているようだった。

 

「ええと……つまりどういうことでしょうか」

「春蘭の言っている華琳様は、今部屋で政務とかやっているんじゃないかな。ここにいる俺は、無関係の別人」

「むぅ? つまり、華琳さまは今陳留でお仕事をなさっていて、目の前にいる華琳さまは華琳さまでもないどころかまったく関わりのない別の人間ということか」

「同じ事を繰り返しているだけのようだけど、とりあえず理解してくれて助かったよ。それで春蘭、ちょっと聞きたいことがいくつか……」

「――きっ、貴様! 華琳さまでないのなら、私の真名を軽々しく呼ぶんじゃない!」

 

 この世界のこと、夏候惇が女性であるならば他の武将がどうであるのか訊ねようとした拓実の声は、怒号に掻き消された。いきなりの豹変とその気迫に、拓実は面食らって体が硬直してしまう。

 

「え、真名って?」

 

 拓実はそのままの体勢で少し逡巡するが、直ぐに『真名』なるものに思い至った。

 

「あ、『春蘭』って名前のこと? だって春蘭が呼べって言うから」

「黙れっ! 言っているそばから、連呼するな!!」

 

 そして一閃。春蘭の拳はうなり、拓実の体は軽々と吹き飛んでいた。その圧倒的な暴力によって拓実は意識を簡単に断ち切られ、道端に無防備に転がった。

 

 

 

 

 

 場には沈黙が下りていた。拳を突き出したままの体勢で春蘭は動かない。吹き飛び、地面を転がっていくものを無意識に目で追っていく。

 

「――――はっ!? し、しまった! 華琳さまの偽者とはいえ、なんら罪もない者を殴ってしまった。それに、似ているだけとはいえ華琳さま第一の臣下たる私が、華琳さまのお姿に手を上げることになろうとは……。いやいや、違う。悪いのはこの娘だ。華琳さまと見間違えるぐらい似ているのが悪い。そうに決まっている」

 

 スイッチが切り替わるように春蘭は自分がしたことを認識したようだったが、頭を振るとすぐさま前言を撤回する。

 

「あ、いや、夏候元譲様。どうやらその者は娘ではなく……」

「ん、そうか! いーや、私はついてるぞ! 常々思っていたのだった! 華琳さまにそっくりな娘がいたなら、我が家で秋蘭と共にこっそり……」

 

 それを唯一見ていた翁は春蘭の独り言を訂正しようと声を上げるのだが、彼女は自己弁護に夢中で聞こえた様子はない。

 春蘭が己の話をまったく聞いていないことを悟った翁は、無駄になるだろう労力を惜しむことにした。「まずは口調を真似させることから始めるか……」などとだらしない笑みを浮かべるいい年頃の娘子を、痛ましそうな視線で以って眺めることにする。

 しばらく経ってようやく我に返った春蘭は、緩んだ顔を引き締めて翁に向かって声を上げた。

 

「っと、翁よ! この娘は何者か! 不都合でなければ私の客分として陳留に招きたいのだが、どうか!」

「はぁ。どうやら旅の者のようで、生憎つい先程に迷ってこちらまで辿り着いたようでしたので仔細はわかりかねますが……」

 

 その翁の言葉を聞いて、春蘭は朗らかに笑みを浮かべる。翁の返答は幾分の呆れが含まれたものではあったが、それに気づく春蘭ではなかった。もはや翁に、春蘭の勘違いを訂正する気力はない。

 

「旅人か。ようし、ならば問題はないな。この娘はこちらで面倒を見させてもらおう。悪いようにはしないから安心しろ。あ、あとこの者については内緒にな。頼むぞ」

「夏候元譲様がそう仰るのならば私には是非もありませんが……しかし、どうなさるおつもりで?」

「何。住居がない為に途方に暮れて旅をしているようならば、女中としてうちに雇い世話してやる。目的があって旅をしているのであれば、手を尽くして助力してやろう。そして見返りとして、うちの世話係をやらせてやる」

「女中、でございますか」

 

 これまでの話の一端を聞いていた翁は、ようやく理解が追いついた。どうやらこの旅人は、噂に名高い曹操に酷似した容姿を持っているようである。

 翁は遠目にしか曹操を拝見したことはなかったが、今思えば小柄過ぎる体躯といい、金糸のように輝く髪といい、頭の横の特徴的な巻き毛といい共通するところが多いように思う。曹操を熱烈に信奉する春蘭がこうまで執着することを考えれば、容姿も、その声の調子だって似ているのだろうと推察できた。

 そしてそんな自分の主と瓜二つといってもいい人物を見かけた春蘭は今、全力で自身の下に引き込もうとしている。もっとも引き取ってからこの旅人を春蘭がどうするかなんて、翁には想像も出来ないのだが。

 

「そうと決まれば一刻も早く秋蘭にこの娘を見せてやらねば! では翁よ、次は私ではなく数人の兵士が見回りに来ると思うが、息災でな!」

 

 言うが早いか倒れて気絶している旅人をひょいと抱え上げ、抱きしめるようにして共に馬に跨った。馬の腹を蹴り、慣れた手つきで走らせ始めると、時が惜しいとばかりに先を急かしていく。

 翁が気を取り直した時には、もう春蘭らの姿は豆粒ほどになっていた。どんどん小さくなっていくそれを眺めることぐらいしか、翁に出来ることは無かった。

 


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