杏夏が黒崎民間警備会社に入社して早一ヶ月。
仕事にも慣れて来た彼女は既にこの一ヶ月の間で数匹のガストレアを狩ることに成功していた。どれもそこまで強い相手ではなく、今は凛に同行してもらわなくても危なげなく狩ることが出来ている。
また、民警の仕事はガストレア討伐だけでなく、迷子の犬猫を探したり、盗まれた自転車を探したり、なかには浮気調査などという物もあった。
零子に聞いたところ「探偵じみたこともしないと食っていけないからな」という物であった。凛に至ってはストーカー被害に会っていた女性からボディガードを依頼されたこともあるという。
本当に民警っていろんなことをするんだなぁ、と思いつつも彼女は嫌な顔一つせずに仕事に打ち込んだ。
摩那とも仲良くなれているし、美冬との関係も良好で連携も完璧だ。
ただ思うのは、民警になる前以上にエリア内のガストレア出現率が多いということだ。ガストレアは基本的にモノリスがある限り侵入することは出来ない。ゾディアックガストレならばモノリスが合ったとしても突破してくるが、それ以外のステージⅠからステージⅣのガストレアは侵入が難しいのだ。
たとえ侵入ができたとしてもモノリスには自衛隊の部隊が控えているため、即時そこで潰される。けれどそれでも間に合わないことはあるのだ。だからこそ民警が内部に侵入したガストレアを叩く。
それが大変なのは大変なのだが、最近はそれが多くなっている。一部ではモノリスの磁場が緩んでいるのでは? という意見も出ているようだが、それはないらしい。だが、たとえ磁場がゆるくなっていたとしても、杏夏達民警の成すことは変わらない。
……でも、本当になんでこんなに多いんだろう。
パソコンの作業を終えて椅子の背もたれに寄りかかりながら杏夏は小さくため息をつく。
ふとそこで同じようにパソコンを操作していた零子がクスッと笑いながら声をかけてきた。
「疲れたか?」
「え、あぁいえ、なんていうか最近ガストレアの出現報告って多いなぁって思って」
「ふむ、確かにそれはそうだ。でもな杏夏ちゃん、たまにあるんだよこういうことは」
「ガストレアの出現件数が急激に増えることがですか?」
問い返すと零子は新しいタバコを取り出しながら頷き、紫煙を燻らせた後告げてきた。
「いい機会だから美冬ちゃんも聞いておけ。こんな家業を長いことやっているとわかってくるんだが、こういったようにガストレアの出現率が上がってくると、何かしら大きなことが起きるんだよ」
「大きなこと?」
「ああ。以前凛くんがそれを対処したことがあったが……アレは確かアリのようにフェロモンを分泌できるステージⅢのガストレアがエリア内に侵入していて、そいつから発せられる道標フェロモン? だったか。それに誘われてほかのガストレアが侵入してくるという事件があったな。まぁ殆どは自衛隊に駆逐されたんだが、対処が追いつかなくて凛くんが対処したんだ」
肩を竦めて言って見せる彼女だが、杏夏は内心でゾッとした。確かにガストレアには様々な能力を有する個体がいるというが、そのような能力を持つガストレアがいるとは初耳であったため驚きだったからだ。
「じゃあ今回もそういったガストレアがいるということですの?」
「さぁ、それはどうだろうね。一概にそうだとはいえないが、そういうことも含まれているかもしれないから、頭には入れておいて損はないだろうさ」
零子の話を美冬も納得したのか何度か頭を縦に振っていたが、ふとそこで周囲を見回して零子に問うた。
「そういえば零子さん。今日は凛さんと摩那の姿が見えませんがどうしたんですの?」
確かに彼女の言うとおり今日は凛と摩那の姿がない。いつもは自分達と同じくらいかもっと早く来ているはずなのだが。
「あの二人なら今日は休みだ。凛くんの実家で勉強している美冬ちゃんなら分かるだろうが、彼の実家にはかなりの子供たちがいるだろう? だからたまに彼は事務所を休んで実家の手伝いをしているんだ。今日は偶々その日だったというわけだ」
「先輩も大変なんですね」
「そうだな。だが本人が好きでやっていることなのだから好きにやらせればいいさ。ウチは社員にはしっかりとした休暇を与える超ホワイト企業だからな」
零子は高級そうな椅子の背もたれに寄りかかり、そのままグルグルと回転しながら「ハハハハ……」と満足そうに笑っていた。
……たまーにだけど零子さんの行動が良くわからない。
彼女の行動に若干戸惑いつつも、杏夏は小さく笑みを浮かべて次の作業へ取り掛かろうとした。しかし、そこで事務所の固定電話が鳴り響き、回転していた零子がすぐさまそれを取って応対する。
けれどふとそこで思う。ああいった電話の応対は社長である零子ではなくて自分のような社員がするものではないだろうかと。
「はい……はい、わかりました。では人員を送ります」
零子は受話器を置くと杏夏と美冬を手で誘った。それだけでなんの電話だったのか分かる。
「推測は付いたかもしれんが出動要請だ。二十八区でステージⅡと思しきガストレアが発見された。現場の区域は既に封鎖が始まっているそうだから行けば警察が案内してくれる。いけるか?」
「はい!」
「もちろんですわ」
二人の返答に零子は頷き、それを見た二人はすぐさま自分達の装備を整えて事務所を飛び出し、愛用の自転車で二十九区に向かって走り出した。
道中、杏夏は美冬に告げた。
「ステージⅡってことは今までのステージⅠよりは手ごわいから気をつけてね」
「分かっています。杏夏も足元をすくわれないように気をつけてくださいな」
美冬の忠告っぽいことを聞きながら杏夏は自転車を更に早く走らせた。
二十九区に着くと既に市民の避難は完了していたようで、警察官が《立入禁止》と掻かれた黄色いテープを張っているところだった。
杏夏は自転車に跨ったまま警察官に民警ライセンスを見せる。
警察官は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに不機嫌そうな顔のまま告げてきた。
「ここからしばらく行った所に野球場がある。ガストレアが目撃されたのはそこだ。報告では蛇のような形をしていたらしい。頼んだぞ、民警」
「わかりました。行くよ、美冬」
背後の美冬が頷いたのを感じ、杏夏は開けられた黄色いテープの隙間からガストレアがいるという野球場へと向かった。
野球場は割りとすぐ近いところにあり、自転車を走らせてから十分ほどで到着した。
野球場と言ってもスタジアムほど立派なものではないが、試合などは普通に行うことが出来るものだ。休日などは草野球のチームが練習などをしているのではないだろうか。
だがここにいるというガストレアの姿がない。何処かに姿を隠しているのか、それとも既に別の場所に移動してしまったのだろうか。
「美冬、超音波出せる?」
「ええ。少し待っていてくださいな」
杏夏の声に美冬は一度肺の中の空気を吐ききった後、胸が膨らむほど空気を吸い込むと、一気にそれを排出した。
だがこれはただ息を吐いているわけではない。これは美冬のコウモリの因子発動させた広域索敵能力、超音波だ。今彼女からは人間の耳には聞くことの出来ない超高音の音波が発せられている。この音波の跳ね返りを利用したエコーロケーションで美冬はガストレアの姿を索敵することが出来るのだ。
また、音は微弱であるが地中にも届くため、敵が地中に潜っていたとしてもあぶりだすことが出来る。
「……見つけましたわ。杏夏、手榴弾持ってきてます?」
「あるよ」
美冬に言われ彼女に手榴弾を渡すと彼女は手榴弾の安全ピンを引っこ抜き。すぐさま野球場のマウンドに向かって投げ入れた。
それなりの距離があったはずだが、力を解放している状態の美冬によって投げられたそれは見事にマウンドに落ちた。
杏夏達はそれと同時に地面に伏せる。瞬間、投げ入れられた手榴弾が爆発し、爆発音と衝撃なこちらまで届いた。
その音に混じって甲高い苦しみの声が聞こえたのでそちらを見ると、もうもうとたつ土煙の中に細長い影が見えた。
「出た!」
「どうやら本当に蛇型のガストレアのようですわね」
「地中でえさが来るまで待ってたってわけだね」
「いい性格してますわ。そういえば、あの手榴弾は確かバラニウム製でしたわね」
「うん。普通にあたったならステージⅡ程度なら殺せるはず」
いまだ立ち込める土煙を睨みつけながらいるが、ガストレアが反撃してくる様子はない。やがて土煙は晴れかけた。
けれどその瞬間、煙の薄くなったところから何かが飛び出してきた。
「杏夏!」
美冬の悲痛な声が聞こえ、そちらを見るよりも早く力強く体を押された。そのまま二人はゴロゴロと地面を転がるが、すぐさま立ち上がる。
「美冬、大丈夫!?」
「これぐらい、掠っただけですわ」
肩口を押さえながら言う彼女の腕を見ると、確かに掠った後があり、赤々とした鮮血が流れ出ている。しかしすぐに彼女は腕を放す。血の沁みはあるものの、既に回復が始まっている。
それを見つつ杏夏と美冬は改めてマウンドにいたガストレアを見るが、そこに先ほどの細長い影はなく、代わりというように顔のない黒い触手のようなものがうねっていた。
「なに……アレ……?」
その触手を不審に感じた杏夏は声を漏らすが、彼女に思考する時間を与えないかのように球場のいたるところから同じような触手と、一対の赤い瞳と鋭利な牙をもった蛇のようなものが出現した。
それらを確認したのも束の間、蛇もどきと触手はこちらに向かって凄まじいスピードで接近してきた。こちらも迎え撃とうと愛銃を構えるが、体が後ろに引っ張られる感覚と共にその場から大きく後ろに離脱した。
前方では自分達を喰らい損ねた蛇もどきがウネウネとうごめいている。
「美冬……ありがとう」
「礼には及びませんわ。ですがあのガストレア……どうにもステージⅡには見えませんわね」
「うん、というかあの蛇みたいなの地面から出てこないってことは、地下でつながってるのかな?」
「だとすればもう一度超音波を出して索敵してみますわ。その間、防御を頼んでもいいですの?」
「まかして」
杏夏は美冬に答えると上着の内側から一本のマガジンを取出し、既に入れてあったグロックのマガジンを排出。取り出したマガジンを再装填してこちらに迫っている一本の触手と蛇もどきの頭に装填した弾丸を撃ち放つ。
硝煙の臭いが鼻を突き、銃声が鳴り響く。
真っ直ぐに飛んだ二発の銃弾は見事に触手と蛇もどきに命中。けれど大したダメージはない様に見える。けれど杏夏はニッと笑みを浮かべる。
瞬間、触手と蛇もどきの頭が膨れ上がり爆音と共に破裂した。オレンジ色の爆炎が上がり、肉が焦げたような臭いが届く。二本ともその場に力なく倒れこむが、ガストレア特有の再生の兆しはない。
「撤甲型炸裂弾……うん、なかなかの威力」
今の弾丸は杏夏が新たに開発した撤甲弾の中にたっぷりの火薬とバラニウム液を混ぜたものだ。対象に突き刺さってから数秒後に炸裂する仕掛けになっており、上手い具合に脳を破壊できればステージⅢでも相手取れるだろう。
そのまま杏夏は次に向かってきた触手に銃弾をぶつけ、美冬が超音波を出すまでの時間を稼ぐ。
そのまま迎撃し続けること数分、美冬が声を発した。
「杏夏! 一旦この場を離れましょう!」
彼女の声に疑問を抱きつつも杏夏は美冬の元までもどると彼女に問うた。
「どうしたの? そんなにやばい敵?」
「ええ、大きさから推察すると恐らくステージⅢ後半……あの触手や蛇のような頭はただの索敵用の器官であると思われますわ」
「アレだけでも十分殺傷能力ありそうなんだけど!」
言いつつ杏夏は蛇もどきを迎撃。またも爆裂する蛇もどきはその場に力なく倒れるが、ほかの触手の動きはあまり変わったようには思えない。
「美冬。もう一回確認するけど、アイツの本体が出てきたとして私達の手におえる?」
「……先ほどの弾丸を本体の脳に叩き込むことが出来れば可能だと思いますわ。けれど銃だけで突破できるようにはとても思えませんわ」
美冬に言われ杏夏も難しい顔をする。そして手持ちの装備を再確認。
今現在自分の手にあるのは手榴弾が五つ。先ほどの撤甲型炸裂弾があとマガジン二本分。通常のバラニウム弾のマガジンが二本。
どうにかして本体を地中から地上へ引っ張り出すことが出来れば肉の壁を突破し、ガストレアの脳を破壊することも可能だろう。けれど、ヤツがどのタイミングで地上へ出るのか分からない今、二人だけでアイツの相手をするのは危険すぎる。
同時に彼女の頭の中で零子が言っていたことが思い出される。
『ウチは従業員の命を第一に考える。決して刺違えてでも倒そうとか思うな。無理だったら仲間を頼れ』
杏夏は触手や蛇もどきを迎撃しながらスマホを操作し、ある人物へと電話をかける。
その人物は数コールで出てくれた。
『もしもし、杏夏ちゃん?』
「凛先輩! お休み中すみません、でもお願いです。力を貸してください!」
『まさかガストレアと戦闘中かい?』
「はい、そのまさかです。でもこのガストレア、私達だけでは手に負えないみたいなんです! だから、お願いします!!」
『わかった、場所は?』
「二十九区の野球場です。道は封鎖されているのですぐに分かると思います!」
杏夏の言葉に凛は「必ず行くから」と返し、杏夏もそれに納得したように頷いてから通話をきった。
「凛さんはなんと?」
「必ず来るって。私達も負けないようにしないとね」
「当たり前ですわ。こんなところで死にはしません」
二人は今一度ガストレアと向き直り、美冬は黒刃のナイフを二本取り出し、杏夏は銃と予備のマガジンをいつでも装填できる体制に持っていく。
そして頷きあった二人はガストレアに向かって駆け出し、それぞれ触手と蛇もどきの相手をする。
杏夏は先ほどまでと同じように銃で迎撃、美冬の方を見るとナイフの柄尻の部分から伸びたワイヤーとナイフを駆使して触手を切断している。
だがガストレアもやられるがままではない。明らかにこちらの迎撃能力を学習し、動きに合わせてきている。杏夏も何撃か掠めたが、血液や体液は注入されていないことだけが幸いか。また美冬も同じようで服の所々が破けている。
……出来れば美冬には戦ってほしくないけど……ごめん、美冬。
謝りつつも杏夏は手榴弾の安全ピンを引っこ抜き、触手の根元を爆破する。
戦闘が始まって既に十五分近くが経過した。
杏夏達は地上に出ていた全ての触手と蛇もどきを駆逐することが出来た。だが彼女達も傷が目立ち、美冬は一見して傷がないように見えるが、服は所々が破けているし、杏夏は頭からも出血している。
「とりあえず、これで触手系は倒したけど……」
「本体はまだですわね」
息を切らしつつ二人が言うが、まるでそれに返事をするようにまたしても地中から触手が出現した。しかし今度はただの触手ではなく、その先には鋭利は刃のような爪が付いている。
その触手たちは身体をささえるように地面に再び突き刺さると、それらの中心からついに本体が姿を現した。
一言で言ってしまえばそのガストレアの形は北欧神話に登場する海の怪物、クラーケンのようだった。しかし、クラーケンのように吸盤はない。本体の頭にはクワガタ虫のような強靭な鋏。のっぺりと後ろに伸びた頭の先には一際太い触手があり、頭のすぐ下からは蛇もどきと触手が生えている。けれど問題なのは触手の数が尋常ではなかったことだ。
「大きい……」
「こんな大きなガストレア、何処から……」
「多分だけど、ここは外周区に結構近いよね。だから事務所にいるときに零子さんが言ってたけど、特殊なフェロモンを出してガストレアを誘き出して食っていたのかも」
「そんな! そんなことはありえませんわ!」
「いいや、ガストレアは時にありえないことも起すからね。昔の漫画の言葉を借りるとするなら『ありえないなんてことはありえない』かな」
苦笑気味に言いながらも杏夏は警戒を怠らない。
……時間的にそろそろ凛先輩が着くはず。それまではなんとしても生き残らないと。
杏夏は銃を構え、周囲でうごめく触手とキンキンと鋏を打ち鳴らす本体を睨みつける。美冬も驚きつつも相手を見据えるが、その瞬間、彼女の下の土が盛り上がり、触手が美冬の顎先を直撃した。
「美冬ッ!!」
悲痛な声をあげて美冬に駆け寄り彼女の傷口を見る。幸いギリギリで避けることが成功したのか、大きな傷ではない。だが、目の焦点が合っていないことから軽い脳震盪を起していることが分かった。
ガストレアはその一瞬を見逃さなかった。先ほどまで周囲で蠢いていた触手がいっせいに杏夏と美冬に向けられたのだ。
美冬を抱えていることで逃げられないが、そこで杏夏の中の黒い感情が姿を現す。
……美冬を置いていけば私は助かる……。
彼女は腕のなかの少女を見る。そう、IISOに申請すればいくらでも変えは効く。だからここで杏夏は美冬をはな――――さなかった。
「そんなこと……出来るわけないでしょうがッ!!」
……たとえこの子がそうしてくれと望んでも、仲間であるこの子だけは何が何でも。
「守り抜くって決めたんだからッ!!」
杏夏は美冬を庇うように美冬に覆いかぶさる。
次の瞬間触手が自分の体を貫くだろうと彼女は予測した。けれど、その衝撃は訪れず、代わりにガストレアの痛みにもがく悲鳴が上がり、どす黒い血があたりに降り注いだ。
何が起きたのかと顔を上げて辺りを確かめると、自身の前に白髪の青年と赤髪の少女が佇んでいた。
青年の手には漆黒の剣、バラニウム刀。少女の手には黒刃の爪。それぞれが陽光を怪しく反射していた。
「ごめん、杏夏ちゃん。遅れたね」
優しい声とは裏腹に目の前の彼からはとてつもない覇気が伝わってくる。びりびりと伝わってくるその覇気に全身にゾワリとした感覚が駆け抜けた。
「来てくれたんですね……凛先輩」
「もちろんだよ。言っただろう? 必ず行くって。でも良くがんばったね。だからそこで休んでいていいよ」
言うと同時に彼は腰を落とし、刀を下段に構える。
ガストレアは残った触手で凛を捉えようとするが、それらは全て凛に触れる瞬間に細切れに切り刻まれた。
その速さはまさに神速というにふさわしかった。とても人間の肉眼では判断できないだろう。それだけに彼の剣術は常軌を逸していたのだ。
だがそんな彼にも見落としはある。別に触手が杏夏達を捕らえようとしていたのだ。杏夏がそれに声を上げようとした時だった。
赤き閃光が彼女の周りを駆け、迫っていた触手が全て断ち切られたのだ。
「ふいー、げいげきかんりょー」
軽い声が聞こえたのでそちらを見ると、返り血を浴びた赤髪の少女、摩那がいた。そして思い出す、彼女のモデルがチーターであったことを。
そして前方では更に凄まじいことが起きていた。凛の倍以上はあろうかというガストレアの本体から生えていた触手が全て根元から斬りおとされ、凛がガストレア本体の体を中ほどまで切り裂いていたのだ。
ドス黒い血液と粘着質な体液が零れ落ち、ガストレアは苦悶の悲鳴を上げているが凛はとどめは差していない。どうしたのだろうと小首をかしげていると、凛が呼んで来た。
ちょうどそのとき美冬も目が覚めたのか、頭を何度か振っていた。彼女と摩那に託した後、杏夏は凛の元へ行く。
「杏夏ちゃん。このガストレアのとどめは君が刺すんだ」
「え、私が? でもここまでやったのは凛先輩ですから、先輩が……」
その問に凛は被りを振って告げてきた。
「僕は何もしていないよ。こいつをここまで引きずり出せたのは杏夏ちゃんだし、何よりこの任務の出動要請を受けたのは君だ。だから、君がとどめを刺すんだ」
真剣な表情と真剣な声音に杏夏は一瞬萎縮してしまうものの、逡巡の後小さく頷くと、撤甲型炸裂弾が入った銃を向け、一呼吸の後にガストレアの脳に叩き込んだ。
こうしてなんともあっけなくガストレアは絶命し、杏夏は警察から報酬も受け取った。摩那は美冬と共に先に事務所に戻っていると告げ、二人は帰ってしまった。
事務所に帰る道中、杏夏は絶体絶命の時に自身の心の中に芽生えた黒い感情を凛に打ち明けてみた。
その話を凛は黙って聞いてくれていたが、話を終えると彼は小さくうなずいて告げてきた。
「確かにそう思ってしまうのも仕方のない状況だったかもしれないね。別にそういう感情を持つなとも言わないし、僕は君を責めるつもりもない。あの状況であれば誰だってそんな感情を持ってしまってもおかしくはない」
「……はい。でも私は自分が怖いんです。もし次にあんな状況になったら今度は本当に美冬を見捨ててしまいそうで……」
「だったら、君はもっと強くなるべきだ。最強になれとは言わない。ただ、自分の大切なものを守れるようになるぐらいまでには強くなることが必要だね」
そういう凛の瞳にはかすかな悲しみがあり、杏夏は何処となく彼の言葉が胸に重く来るものがあった。
「常に恐怖や悲しみばかりを背負っていたのでは何も生まれない。誰かを失うのが怖いのなら失わせない。誰かを守るのなら絶対に守りきる。敵を打ち倒すのなら即時判断で倒す。それだけの強さと覚悟を持つことが君をもっと強くしてくれる」
「覚悟……」
「民警になるという君の覚悟は素晴しいものだと思ったよ。でもね、それと戦闘のにおいての覚悟はまったく別のもだよ。だから杏夏ちゃん、君はもっと強くなって強い覚悟を持つんだ。大切な相棒である美冬ちゃんを守るためにね」
真剣な声音でいう凛に対し、杏夏は自身の内側から熱い物がこみ上げてくるのを感じた。
「すみません! 凛先輩、私先に事務所に帰って美冬に謝ってきます!」
言うが早いか杏夏は自転車に跨り、全力で事務所を目指した。
けれど彼女の心には刻まれた。大切な人を守って見せるという強い覚悟と、強くなってやるという覚悟が。
「とまぁこんなところが私が凛先輩を好きになったところですねぇ。ピンチな所を助けてもらったのもそうですけど、一番はやっぱり私に覚悟の重要性を教えてくれたことです」
夕日に照らされる事務所の中で杏夏は恥ずかしげに凍に告げていた。凍も話を聞き終わり満足げな顔をしている。
「なるほどな、それで覚悟を持って強さを目指した結果が今か……。いい覚悟じゃないか」
「そうですかね。これでもまだ失敗も多いですけど」
「いいや、それでいいんだ。人間は失敗からものを学ぶからな。凛だって失敗するし、黒崎社長だって失敗する。問題なのはそこから何かを学ぶか、学ばないかだ。お前は結果的に学んだからこそ、それほどの序列になったわけだしな」
肩を竦めて言う彼女は残ったコーヒーをすすった後、杏夏に向き直って告げてきた。
「さて、凛を落とす方法だったか。まぁなんやかんやでアイツははっきりといわれることに弱いぞ」
「ということは……」
「思い切って告れよってことだ。アイツもそこまではっきり言われたら引き下がらないだろうしな。あぁ安心しろ、ヘタレではないからちゃんと答えてくれるはずだ。後はお前がはっきり伝えられるかどうかだな」
凍はそれだけ言うと、部屋の隅で丸くなっていた焔を引っ張って「それじゃあがんばれよ」とだけ告げて帰っていった。
後に残された杏夏はちょっとだけ唇を尖らせながらも「うん」と頷いた後拳を強く握り締めて立ち上がった。
凛が司馬家の執事業務を終えて帰ってくる日、杏夏は緊張しながらも凛の帰りを待っていた。そう、今日この場で凛に正式に告白するつもりなのだ。これだけ人の目があるところなら凛もむげには出来ないであろうというちょっとだけ意地悪な作戦だが。
けれど、その際焔が妙な気を起さないか心配だ。
そしてついに事務所の扉が開けられ、凛が帰ってきた。
「ただ今戻りましたー。いやー、二週間けっこう疲れましたよー」
「そうか、お疲れ様だな凛くん。あぁそうだ、杏夏ちゃんが話があるそうだぞ」
零子がちょっとだけサポートを入れて凛の注意を杏夏に向けさせた。それと同時に杏夏は立ち上がり、彼に告げる。
「り、凛先輩!」
「はい?」
「え、えっとその、わ、私は凛先輩のことが……す、す、す、す……!」
だが悲しいかな、アレだけ思っているはずなのに「好き」という言葉だけが出てこない。漫画やラノベの女子達がこういうことになるのも必然なのだろうか?
でもここで退いては女が廃ると、杏夏は意を決して凛に向き直る、
「私は、凛先輩のことがす――」
「シャー!! ニイサンー!!」
「え、焔ちゃ、どわぁッ!?」
「――きです!! ってアレ?」
言い切ったと思ったものの、先ほどまでいた凛の姿が目の前から消えていた。けれど視線を下に落とすと、焔に組み敷かれている凛が見えた。
「ふおおおおおおおッ! 二週間ぶりの兄さんスメルー!! まさか司馬重工のお嬢様に何もされてないですよね!?」
「なにもって何を、ってうわっちょズボンはやめてってば!」
「グヘヘヘ、いいじゃないですかぁ! 親戚的関係なんだから法律的には何の問題もありませんッ!!」
「そんなに胸を張って言うことじゃないし、なんか笑い方がおかしいよ!? ちょ、凍姉さん助けて!」
焔は凛の上に馬乗りになり、彼のシャツに頭を押し付け、空いた手は彼の下半身(股間部)をまさぐっている。すると見るに耐えかねた凍がかなり大きなため息の後、焔の後ろに歩み寄った。
「当身!」
「ぎゃん!?」
手刀を首筋に当てられたことにより、焔はビクンと体を震わせた後、凍に首根っこをつかまれて縄でグルグル巻きにされた。
「ふぅ……助かった……ありがとう、凍姉さん」
「礼には及ばん」
凍は短めに答えたが、凛は軽く頭を下げていた。
「えっと、それで杏夏ちゃん。よく聞こえなかったんだけどなにかな?」
「え!? あ、えっと……あ、そうだ凛先輩お寿司好きかなーって思ったんです!」
「お寿司? うん、嫌いじゃないけど……」
「そ、そうですか! じゃあ今度みんなで食べに行きましょう。そうしましょう! ちょっと私外回り行ってきます!」
「え、ちょ、杏夏ちゃん!?」
凛が言って来るものの杏夏は凄まじい勢いで事務所を飛び出し、残暑厳しい東京エリアの道を走りながら叫んだ。
「もーーーー!! なんでこうなるのよーーーーーーッ!!!!」
彼女の叫び声は凛に聞こえることはなく、虚空へと消えて行った。
どうやら、杏夏の恋が成就するまではまだまだ時間がかかりそうである。
杏夏編 完
短めでしたが杏夏編はこれで終わりとなります。
あと、お待たせしてしまったことを申し訳ありませんでした。
高熱に引き続いて期末テストなんていうクソめんどくさいものがあったので……そしてSAOまで投稿してしまったので……。
はい、今回いえることは焔空気よめオラァ!! ですねw
まぁ彼女はしょうがない……
けれどですね、私の個人的考えですが、杏夏ちゃんの恋はきっと成就するはずです。
次回からは七巻の内容に入ろうかなやんでおります。もしかしたら八巻が出るまで更新を停止する可能性まであります。
ですが、どちらにせよ原作完結までは書いていきますのでご安心を。
では、感想などありましたらよろしくお願いいたします。
あと宣伝ですが、SAOでも書き始めました。
題名は「ソードアート・オンライン -宵闇の大剣士-」です。語脅威がありましたらそちらもどうぞ。