夜も更けた頃、ようやく俺は、自分の街に帰ってきていた。
一ヶ月に何回か学校終わりに、橙子さんのところに行き仕事をこなす毎日。これでクタクタにならない訳がない。
「ふぅ、さすがに堪えるな……もうガタガタだ」
疲労のために重く感じる身体に鞭打ち、どうにか居間まで歩いてくると、テーブルに置かれたメモ書きが目に入ってきた。
「今日は帰っちゃったんだな。そっか……毎日迷惑かけてるんだよな、俺」
綺麗な字・几帳面さのうかがえる文章、俺はそれに軽く目を通しゆっくりとお膳の前に腰を下ろし、ぼぉっと何かを考えるように目を閉じた。
俺は問題を抱えていた。実生活にではない。恵まれた環境、最高の魔術師を師事し、様々な経験を俺は積んだ。そのことについては充実していた。
しかし一歩、確実に明確な一歩が足りない。
あいつに、英霊であった頃の俺に追いつくための最後の一歩が。
「まぁ、大体は分かってんだけど」
手を天井に掲げ眺める。薄っぺらで弱々しい手だ。
それがあまりに憎くて、俺は畳に拳を打ちつけた。
じわりと感じる鈍い痛み。そう、これだ。俺に足りないもの。俺があいつより劣っているもの。
決定的な違い、それは『覚悟』。
かつて俺は持っていたはずだった。幾多の戦場を戦い抜いてきた、夢を夢で終わらせなかった強い覚悟。揺らぐことなく、疑うことなく持ち続けた理想を。
しかし今はどうだ。肉体の面では強くなりはした。だが決定的に俺は揺らぎやすくなっている。周りの影響を受けやすくなっている。
こんな俺が、今あいつと相対して勝てるのか?
「こんなこと考えている場合じゃない! 弱音を吐いてなんになるってんだよ」
心に過ぎる不安をかき消すように俺はブンブンと頭を振り、道場を目指し立ち上がった。
弱いと思うなら、かつての俺がしなかった下積みをすれば良い。
道場でかつての俺と戦うイメージで身体を動かす。
気休めでも良い。気持ちの面で追いつけないならば、戦闘技術であいつとの差を縮めれば良い。同じ知識を持っているならそれは容易なはずだ。
しかしこの後、俺は一番見られたくなかった少女にその現場を目撃されることになる。
―interlude―
それは……本当に力強く、繊細で、まるで可憐な舞のようだとわたしには感じられたのです。
流れるような動き、でもしっかりとした剣捌き。
まるで一つの完成された絵を見ているような、未完成のものを見ているような感覚。
彼の動き一つ一つを目にする度、わたしは心を奪われ、彼に対する『好き』の感情を、更に強く確かなものにしていく。
それが堪らなく嬉しくもあり、悲しくもありました。
きっかけはおじい様の一言でした。年上の、ある男の子を監視するように命じられたのです。
『何をするか分からない、危険な男』。おじい様はそう言っていましたが、わたしにはそうは見えませんでした。
どうしようもなく優しくて、どうしようもなくお人よしな人。
悲しそうな瞳が映すのはいつもそんな色だった。
だからわたし好きになった。
ただ真っ直ぐに強くなろうとするその男の子に。
でも彼が魔術師として力を付けていく度、男の人として強くなる度に彼はわたしではなく、もっと遠くの『何か』を見つめているんだって感じることが出来た。
それ以上無理しないで! わたしのことだけを見てください!
そんなこと、言えるわけがありません。
ただ側にいたいんです。それだけで、今のわたしには十分だから。
この好きを、大事にしていたいから。
ねぇ、側にいていいですよね? あなたの近くに、いてもいいですよね?
「衛宮……先輩」
不意に、彼の名前を口にする。
するととても驚いた表情を見せ、彼が振り返り呆然と佇んでしまいました。
こんな表情もするんだ……なんだか可愛い。
ほら、また見つけられた。わたしの知らない彼の表情。
こうやって、わたしはもっと知っていきたい。
彼のことを……もっと、沢山。
―interlude out―
「えっっ……?」
呆然と、声の方に顔を向ける。
向けなくても分かっていた。その声の優しい響きに、俺は聞き覚えがあったのだから。
「さく…ら?」
見られた?俺の姿を。魔術師としての俺の姿を。
この子だけには、この子だけには見られまいと思っていたのに。
否定が頭を過ぎっていく。ダメになってしまうくらいの、破綻してしまいそうなくらいの否定が。
「桜……見ちまったんだな」
自分でもびっくりするほどに冷ややかに俺はその言葉を口にしていた。
その場を照らすのは月明りだけ。彼女の表情を読み取ることは容易ではない。しかし俺は構わずに言葉を続ける。
「なぁ、桜」
「――はい、衛宮先輩」
ようやく彼女の声を聞くことが出来た。その響きは俺の放つ冷ややかさを感じ取ったのか、怯えたものになっている。
「――っっつ!!」
手にした夫婦剣を破棄し、俺は一歩一歩桜に近付く。
自分がどんどん冷酷な考えに染まっていく中、俺はそれでも足を止めない。
分からなかった。俺はこの数年間、かつてのように冬木に住む人と関わりを持っているわけではなかったのだ。だというのに桜は……間桐の名を持つこの少女は俺の下にやってきた。“慎二”という接点すらも俺たちにはないのに。
だからこそ疑わなくてはならない、桜が俺の敵となる可能性を。
あと数歩で触れられる距離。
その数歩が途方もなく遠く感じられる。
「さ、くら……ごめんな」
口から零れたのはその一言。自分でも分からないうちに俺は桜に謝罪の言葉を呟いていた。
その言葉が出た時、俺は理解した。この子を、桜を切り捨ててしまうことを無意識の内に容認しているということを。
そしていつもの言葉を、スイッチ代わりのあの言葉を呟こうとした時、先に響いたのは綺麗な少女の声だった。
「――なんで……なんでごめんなんです?」
それはあまりに寂しい響きで、そして彼女の表情は今にも泣き出しそうなものに変わっていた。
そんな顔を見たくは……させたくはなかったんだ。俺をずっと支えていてくれたこの子には笑っていてもらいたかったのに。
そう。これが初めて間桐桜がどれだけ自分に大切な人間だったかということを感じさせられた瞬間だったんだ。
「――なんで……なんでごめんなんです?」
絞り出すかのような弱々しい声で、桜は俺に言葉を投げかける。
目が次第に周囲の暗さに慣れていく。俺はようやく目の前の少女、間桐桜の表情を目の当たりにすることが出来た。その瞳はまるで捨てないでくれと懇願する子犬のように、深い悲しみで染め上げられている。
桜のそんな姿を目にして、俺は口を開くことが出来なかった。
いや、今さら彼女の言ったところで、先ほど俺の言葉を撤回できるわけがない。
「先、輩……わたし何か悪いことしちゃいました? 気に障ることしちゃいました?」
「違う!そうじゃないんだ……違うんだよ」
桜の取り乱したよ うな言葉に、俺はこんなことしか言えない。
ただ『魔術使い』としての姿を彼女に見られたくなかったのだと、出来れば桜とは魔術を介して関わりにはなりたくないのだということは、はっきりとしていた。
それだけに自分がどれだけ無責任に言葉を投げたかということを俺は身にしみて理解したのだ。
沈黙が流れる。夜の穏やかな静けさではなく、重苦しい沈黙が。
全く望みもしなかったそれを、どうにもすることが出来ずにただ茫然と立ち尽くす。
それがどうしようもなく自分をイラつかせ、そして自分の弱い部分を露呈させる。
少女一人の言葉に、態度にこんなにも気持ちをうつろわせて……ただ拳を強く握って、不甲斐なさに耐えるしかなかった。
しかしその沈黙を破ったのも、俺の気持ちをグラつかせた桜だった。
「わたし、先輩の傍に居たいだけなんです……」
その言葉はきっと、この子にとっての真実なんだろう。その彼女の表情以前怯えたままだが、瞳は真摯にそれを訴えていた。知らなかった、桜がこんな瞳も出来ただなんて。
おそらく以前の俺ならばこれに気付けなかった。それだけ俺は桜の外見しか見ていなかった。
だが……そうだからこそ、彼女を近くに置いていていいのだろうか。彼女が享受するべき幸せを奪うことになるのではないのか?
そう考えただけで、このままでいいとは俺には思えなかった。
「分かってるだろ?俺が何をしようとしてたか」
もう一度、突き放すように俺は桜にそう告げる。
「――それでも!」
「それでもじゃない! 俺は……俺には」
その後の言葉が続かなかった。つい先ほどまで抱いていた感情を、口にすることが出来ない。
“守ることは、出来ない”
その一言が恐ろしく重い。簡単に言えるはずなのに、それを言葉には出来ない。きっとそれは俺がまだ決意を固め切れていない証拠なのだろう。
何故なら、目の前にいる今にも泣き出しそうな女の子はかつて俺が救おうと、守ろうとしていた『多くの人』中の一人だったから。
そう。俺は未だにかつてのオレの夢の残滓に囚われ続けている。いや、それを言い訳にしようと結論を先延ばしにしているに過ぎない。
「わたしを迷惑だと言わない限り、先輩の傍に居続けたいんです」
桜はそう言葉にしてから、俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
それはおそらく俺のためだ。泣き顔を見せまいと気丈にふるまおうとしているだけなのだ。
俺は再び桜に歩み寄り、その肩にそっと触れる。ビクッと身体を震わせるが彼女は顔を伏せたまま、俺の方を見ることはしない。しかし俺は構わずに言葉を紡ぐ。
「桜……俺、きっとお前のこと」
「分かってます。だから……」
桜は俺の言葉を最後まで聞くことなく、肩に置かれていた俺の手をその掌で優しく包み込み、笑顔を見せた。でもその笑顔は今にも崩れ落ちそうで、今にも泣き顔に変わってしまうかのように儚いものであった。
「今は、このままでいさせてください」
俺はそのまま桜の言葉に従うことになった。
この時はそれでいいと思った。桜が敵になったとしても、それを脅威と感じないほどに力を付ければいい。そんなことを思っていた。
しかしこの時桜を突き放していれば……いや、突き放さなかったとしても結果は変わらなかっただろう。
俺はこの時の選択を後悔することになる。それはきっと、俺が何をしようとも回避することの出来なかったモノだったのだ。
―interlude―
わたしは怖い。この世のすべてはきっと、わたしの事を嫌いなのだと思っていたから。
だから人の顔色を窺って、問題など起こさないようにしていた。
ただ人に何かを言われれば、素直に従えばいい。
どんなに嫌なことだって、我慢していればいつか終わってくれるもの。
でも何故なんだろう。今回は違った。
先輩が、彼が言おうとしている一言が何か分かってしまったから……いつも通り自分が我慢すればという感情よりも、全く違う考えがわたしの頭をグルグルと駆け巡っていた。
“わたしは、彼の一番ではない。でもきっと、彼はわたしを見捨てるなんて出来ない”
それが分かっているから、だからわたしは傍に居続ける。一番じゃなくてもいい。少しでもわたしの事を考えてくれるなら、きっと今はそれで満足だから。
一人帰りたくない家への道を歩きながら、自然と口元がつり上がっているのに気が付く。普段よりも帰りを急ぐ足が軽く思えた。
いつものわたしはこんな風ではないのに……。
何か心の奥に押し込めていたはずの、仄暗い何かがわたしを覆わんとしている。
そんな感覚が、わたしを支配しようとしていたのです。
―interlude out―