終わりの続きに   作:桃kan

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エピローグ
エピローグ 1


 

「あ〜暑い。日本の夏は本当に慣れないわ」

 

 なんの変哲もないアパートの一室で私は独りごちていた。

 否、正確にはこの部屋にはもう一人、パソコンに向かってなにやら書類を認めている男性がいるのだが、私の事など御構い無しに自分の仕事に没頭していた。

 そんな姿を私は使い古しの黒のワークチェアに越かけながら眺めている。別に寂しかったわけではない。ただ暇に飽かして、そんな台詞を口にしたのだ。

 

 これは、この部屋に来て幾度目かの同じセリフ。

 そんな事を口にしたって気が紛れるわけでもないのに、私の口からはそんな諦めに似た言葉が零れ落ちていた。

 あぁ、これって所謂様式美というやつなんだろうな、そんな事を思い始めたのはつい最近の事だった。

 そう思うと、私は長々とこの国に留まり続けたものだとあきれ返ってしまう。

 

 最初は一つの季節をここで過ごすだけの……否、その季節だけで私の刻は停まってしまうはずだったのだから。

 

 それでも、こんな諦めを口にしていても、私はこの季節がすっかり好きになってしまった。

 

 うるさく散らばる燦々とした陽の光。

 青々と、風に揺られる緑の波。

 そしてこの季節の風物詩とも言える、彼らの大合唱。

 

 刹那的で、それでいて何時迄も続くような生命の謳歌に私はすっかり虜になってしまっていたのだ。

 

 私のそんな言葉に苦笑する黒い影。

 そう、私があんな言葉を口にしたのは、この人物に対する皮肉だったのだが……

「そうだね、確かに湿気は多いし、海外の人には過ごしにくい環境かもね」

 こんな普通な言葉を返されては、毒気が抜けてしまうではないか。

 

 私の方には視線を向けず、画面に向かったままそう言い放つ彼の姿に、なんてつまらない奴だろうと、彼に出会った頃の私はそう思っていた。

 しかし慣れとは恐ろしいものだ。彼のこんな普通な言葉も、私にとっては既に日常の一つになっていた。

だからいつも通りの、やはり皮肉でこう返そう。

 

「貴方は真っ黒なその服をどうにかすれば少しは涼しくなるんじゃなくって?」

「うん、それは奥さんからもよく言われるね」

 

 ほら、続くのはやっぱりこんな惚気だ。

 

「あ〜ごちそうさま」

 

 返された予想通りの言葉に嘆息一つ、体ごとこちらに向き直った彼にたいして、より皮肉めいた一言を返す。

 

「ごちそうさまって! 僕も奥さんと一緒になってもう十年は経ってるんだよ? さすがにそこまでじゃないよ」

「なに言ってるのよ。アザカだって貴方たちのイチャつきぶりに辟易していたわよ」

「あ……ははは」

「奥様も普段は凛としてるのに、貴方と二人になった途端にアレになるよねぇ……」

 

 ここまでは予定調和。所謂『いつものやり取り』というやつだろうか。

 こんな下らない会話を楽しいと思えるなんて……あの冬の頃の私からは想像することも出来ない。

 あぁ、どうして私はこんなにも変わってしまったのだろうか。

 

 そんな風に物思いに耽っていた最中、

「なに? 私の悪口?」

 それは染み渡るように狭いこの部屋に響き渡ったのだ。

 足音も、それにドアを開く音すら聞こえなかった。ハッと顔を上げた瞬間、相変わらずに苦笑いを浮かべる彼の表情を見るに、私が惚けていただけだったことに、後から気が付いた。

 全く……自分の不甲斐なさに呆れて涙が出てくるではないか。

 

「……あ、あぁ、御機嫌よう。奥様」

 そんな私が気の利いた言葉が言えるはずもなく、口を付いたのはそんな素っ頓狂なもの。

 しかし無理もないとは思わないだろう。目の前で佇む奥様は一言で言うなれば、見目麗しいのだ。

 私のような作り物ではなく、自然に培われた美とでも言うのだろうか。

 あの『憎たらしい女』が読んでいた書籍の言葉を借りるのならば、一点のくすみのない白磁の肌を引き立てるのは腰まで伸ばされた黒絹の髪。身につける薄花桜の夏紬は女性的な可憐さを醸し出していた。

 もう彼女を愛でる言葉は筆舌に尽くし難いが、何よりも彼女の纏う凛とした雰囲気がそれらをより一層深いものにしているのだ。

 それは儚げとでも言うのか、刹那的とでも言うのだろうか。一番のしっくりとくる言葉で語るならば、『死に隣り合っている』とでも言うのだろう。

 否、『死を視ている』と言う方が正しいのだろう。

 まるで、自分の死が間近まで迫っているのだとありありと見せつけられているような気がするのだ。

 

 あぁ、だからこそ、私は彼女のことが苦手なのだ。

 憧れているはずなのに、とても苦手なのだ。

 

「ふふふ、貴女もその筋の人なら、周りに気を配った方がいいわよ。その点、貴女の弟の洞察力はなかなかに鋭かったわ。それに最初に会った時なんて、すごくびっくりさせられたんだから」

 

 気もそぞろになっていた私に対し、奥様は相変わらずの皮肉屋のようだ。

 もしかすると私に気を使ってくれてのことなのかもしれない。この人も気が使えるのだなと、少し失礼なことを思いつつ、私は佇まいを正す。

 

「貴女がそんな風にあの子の事を話すなんて珍しい」

「えぇ、後にも先にも私をあんなに驚かせたのは、この人以外にあの子だけなんだから」

 

 と、やはり別に私のことなど気にもしていなかったのだろう。

 奥様は優しそうな眼差しを黒ずくめの彼に向け、微笑みかけていた。なんと絵になることだろう。ただ惚気ているだけなのにこんなにも美しく見えるのは、ある意味卑怯ではないか。

 

「そう。それは姉として誇らしい事だわ」

 しかし今の私にとって、『あの子』の話は禁忌そのものだ。

 私が飲み込むことのできていない問題を、いくら事情を知る者とはいえ、語っては欲しくないのだ。

 

「……でもね、奥様。今の私にあの子の話は止めていただけるかしら?」

 言葉を発した自分でも驚くほどに、冷たい音が狭い部屋に響き渡ったのだ。

 苛立ちが募ったからだなんて言い訳は出来ない。それでも我慢ならなかったというのが素直な感想だった。

 

 そう。その問題については私が自ら向き合わなくてはいけないのだ。

 だから誰かにキッカケを作ってもらってなんて、決して認めることなんて出来ないのだ。

 

 しかし私はなんて迂闊なことなんだろう。

 奥様の言葉に対する私の反応が、この部屋をどんな空気にしてしまっているかを、私はりかいしていなかったのだ。

 

「ーーあぁ、いいな。その眼……久しぶりにビリってきたよ」

 

 その音を色で示すならば、冴えた青と例えればしっくりくるのだろうか。

 刺すような、身を斬りつけるようなその響きは、私の嫌いな冬の寒さに似てなんて寒々しいのだろう。

 

「……」

 怖い。

 彼女と視線が絡んだ瞬間に頭を過ぎったのは、そんな感情だった。

 あの憎たらしい女から、奥様の特異な力については聞かされていた。少しは覚悟をしていたつもりだったはずなのに、ブルブルと身体が震えてしまうのだ。

 

 目は口ほどに物を言う、なんて諺が確かこの国にはあったと思う。私の国にだって同じような諺があるのだから、文化は違えど人の考え至ることなど万国共通なのだろう。

 

 その諺を作った人に対して、惜しみない拍手を送ることが出来そうな心境だ。最も、そんな余裕なんて今の私には皆無だけれど。

 

 

「こらこら、二人とも。喧嘩は良くないよ」

 と、私に対する助け舟、って一方的に私が怯えているだけの状況を喧嘩だなんてよく言えた物だ。

 つくづく能天気なのか、もしくは何も考えていないのか……ある意味奥様より彼の方が読めない人間なのではないだろうか。

 

「止めるなって。つくづくコイツらとは因縁があるんだ。ここは一つ、ケジメをつけとかないと……」

「……」

 旦那様の忠告も気にすることもなく、乱暴な口調のまま奥様はこちらを睨みつけながらそう続ける。一方の私は声すら出すことも出来ない体たらくだ。

 もっとも、私も奥様に出会う前は魔術師でもない人間に対して、そんなに警戒しなくてもいいではないかと思っていたのだが、会ってみれば愕然。奥様は魔術師などよりも厄介な……というよりも存在するかも疑わしいとされていたかの魔眼の持ち主。

 

 何より、私にとって彼女の『視る』概念は、目を逸らしていたい一番のモノなのだから。

 

 そんな中『アイツはアレに物怖じすることなく、打ち負かす一歩手前まで追い詰めたそうだ』というのは、あの女の弁。

 本当に私はあの子のことを何も知らないんだなと、そんな実感をさせられる一言だった。

 

 なんて情けないお姉ちゃんなんだろう……本当、自分が悲しくなってしまう。

 

「だから……いや、やっぱりいいや。そんなの……疲れちゃうわ」

 

 ぐっ、悶えつつ私が奥様の言葉を待っていると、途端に彼女の表情から冷酷さは消え、部屋に入ってきた時の涼やかで可憐な表情に戻っていた。心なしか乱暴だった言葉遣いも、女性的なモノに戻っている。

 こうなればどうにか私も普通に振舞うことが出来る。咳払いを一つ、涼やかに佇む彼女に向かい合う。

 

「……あら、珍しいじゃない。貴女が退くなんて」

 声も、それに身体もやはり震えたまま。そんな状態で投げ出した一言が、いつも通りの嫌味になるはずもない。

 その強がりを奥様も理解しているのだろう。旦那様と一度視線を合わせ、奥様はこう続けた。

 

「これでも少しは大人になったのよ。それに自分の旦那さまから『やめなさい』と言われれば、素直に従うものでしょ?」

 

 まるで頭を叩かれたような鈍い衝撃が頭を駆け巡る。あの怖気の後にこんなノロ気が来るだなんて思いもしなかった。

 

「あ〜もう……夫婦揃ってごちそうさま」

 そう呟きながらワークチェアから立ち上がり、グッと身体を伸ばす。

 まるで何キロも走った後のような疲労感が身体を支配していた。肺を満たしていた空気を全て吐き出すかのように深いため息をつき、私は二人に視線を向ける。

 

 やはり何の共通点もない二人。

 しかし私には感じることの出来ない深い繋がりが二人にはあるのだろう。

 ただ視線を合わせただけで互いのことを分かり合うことが出来るだなんて、こんなに羨ましいこともないだろう。

 今の一人ぼっちの私には、まるでそれは眩い光に似ていた。

 

 だからこそ二人から視線を逸らし、うるさい陽の光をぼんやりと眺めていると、不意に奥様から優しくこう問いかけられた。

 

「ーーで、今日はどうしたの? 単純にあの人のお使いできたわけではないんでしょう?」

「あら、それだけよ」

 

 

 ぴたり。

 まるでこの部屋だけ空気が止まったかのように、会話が止まってしまう。

「……なによ、その顔は。私が素直にあの人に従っていたらおかしいかしら?」

 

 そう。今の私はあの女の小間使い。あの女からの援助を受けるために、色々と駆けずり回っているのだ。

 今回旦那様の部屋に来たのだって、あの女の弟子であるアザカからの課題を回収するのと、彼女からの依頼を一つ、旦那様に届けに来ただけにすぎない。

 だからこそ二人が固まってしまった理由はよく分からないし、あの女の性格を知る二人なら、私が何故素直に従っているかを推測することなんて想像に容易いはずだ。

 

 まぁあの女の言うことに従っているのは、もう一つ理由があるのだけれど。

 

「いや……おかしいことではないけどさ」

「貴女が素直という事に違和感を覚えるのよ」

 

 夫婦揃って同じことを口にするだなんて、なんて失礼なのか。

 しかしこの二人がこうゆう人間だからこそ、私もこうやって心置きなく話をすることが出来るのだろう。

 そう思えるのであれば、きっとまだまだ楽しむことが出来る。

 

「はいはい。でももうお使いも終わったわけですから、お邪魔虫はさっさと帰りますわよ」

 そう言って私は身支度を整え、玄関へ向かおうとする。

 またあの暑い中を歩かなければならないのかと思うと辟易してしまうけれど、それでもこの甘苦しい空間に居続けることを考えれば大したことではない。

 二言三言言葉を交わしつつ、私は玄関まで辿り着き、最近購入したお気に入りの白のミュールに足を通そうとした時、奥様がこう問いかけてきたのだ。

 

「ーーねぇ、一つ聞くんだけど……」

「何よ、また私を怯えさせたいの?」

「その様子じゃ貴女、まだあの子の所に帰っていないの?」

「……」

 

 足が止まる。あぁ、また痛いところを突かれた。

 この話題だって、私には反論できることなど何もないのだ。

 

 きっと他のことであれば、色々と言い訳は思い浮かぶのだ。

 先程のように大人気なく意地をはることだって出来ただろう。

 みっともなく泣きわめくことだって出来ただろう。

 

 でもこれだけはダメなのだ。逃げ続けている私にとって、あの子と比べられること以上に、あの子に頑なに会いに行こうとしていないことを突かれては、本当に言葉をなくしてしまうのだ。

 

 そんな私の考えを察したのか。旦那様は奥様の袖を掴みながら、優しく語りかけるように呟いた。

「式、それ以上は言っちゃダメだよ?」

「……そうね。確かに他人の事にまで首を突っ込むのは大人らしくないものね」

 

 まさか二人のノロ気に助けられるなんて、それでも今の私にとっては渡りに船とはこのことだ。

 旦那様と視線を交わし、少し会釈をしながら半端なままにしていたミュールにしっかりと足を通し、玄関のドアノブに手をかけようとした時に再び声をかけられた。

 

「でもね、大人気ないけど一つだけ言いたいんだ」

 

 少し低い、落ち着いた響きだった。諭すように、教えるように語る旦那様の声は、何故だか奥様の声よりも私に染み渡っていく。

 後ろ髪が引かれるとはこうゆうことを言うんだろう。それでも一度ここから去ると決めた思いを止められない。

 だから視線だけを彼に向けつつ、私はドアノブを捻った。

 こんな気持ちを、夏の喧騒が覆い隠してくれることを望みながら。

 

「なによ、旦那さまが珍しいわね」

「昔、彼にも言った事なんだけどさ。焦ってばっかりじゃなにも見えてこないよ? 君の心からの望みも、彼の思いだって……」

「……そう、ね」

 

 しかし染み入った言葉は、喧騒では隠せない。凝り固まった心のヒビに入り込んでくるのだ。

 奥様の言葉とは違う、なんの変哲もない在り来たりな言葉が、こんなにも私を揺らがさせるだなんて。

 

「今日はもう帰ります。またアザカへの用事でもあったら、こっちにも寄ることにするわ」

 だから特別な言葉にせずに、社交辞令だけを口にしてドアを完全に開け放った。この国の夏らしい、肌に張り付くような暑さが、混乱する頭にはどこか優しい。

 否、私にとってはこの部屋の、この二人こそ優しすぎて居たくないのだ。

 

「うん、じゃぁまたね」

「今度は未那が居る時にいらっしゃい」

 

 二人の声に会釈をしつつ、ゆっくりとドアを閉める。

 ドアを背に視線を下に落とすと、様々な思いが頭を駆け巡っていく。

 

「……あの子の思いなんて、随分と前から知ってるわよ」

 

 そして口についたそんな言葉は、きっと私の最後の強がり。

 

 あぁ、なんてこんなにも……だから奥様は彼と共に居続けられるのか。

 変われない、変わることを許されないそんな優しい不変の中で、いつまでも共に歩いていけるのだ。

 

 それを羨ましいと思いつつ、私は陽の光の中を一人で歩き始めた。

 数年前までは感じることのできなかった、本当の熱を体に浴びながら。

 

 


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