ーinterludeー
生温い風が、佇む少女の傍をすり抜けていく。
肌に纏わり付くその不快感から、表情を少し曇らせながら彼女は上げる。
「ふふふ。あと、少しです」
独りごちながらごちながら、視線の先にある『それ』を見つめた。憎悪と狂喜、そして全ての感情を孕ませながら少女は見つめ続けたのだ。
彼女の眼前にて、その存在感を露にするのは、黒い太陽。
それこそ、五度に渡る魔術師たちの戦争の中で、誰一人として手にする事の出来なかったモノ。
『大聖杯』
そう呼ばれる魔方陣は、確かにそこにあった。
間違いなく、二百年よりの過去から間違いなくその場にて魔力を巡らせていた。
今も尚、始まりとは違う、あまりに醜悪な黒の魔力に染まりながら。
「始まりの祭壇。こんなにもぴったりな名前はないですね」
そう口にし、少女はまるで祈りを捧げるように瞼を閉じた。
「わたしと先輩の始まりの場所……」
それはこれから自らの傍にやってくるであろう、一人の少年に思いを馳せる為のものか、それともこれから自らが破壊し尽くす全ての様を思っての事かは、読み取る事は出来ない。
ただ、彼女が数瞬浮かべた表情は、どうしようもなく穏やかであった。
どうしようもなく、幸福そうであった。
「ーーーーーーーーッ!」
しかし、その表情に一瞬の翳りが差す。
膝を付くほどでもない。ただ無尽蔵に溢れていたはずの自らの魔力が、何かに吸い上げられる感覚を彼女は覚えたのだ。
突然の衝撃に狼狽えながら、桜は虚空を見上げる。
「……何だか、力が抜けちゃいますね。もうじき終わるのかな」
静かにそう呟き、先程浮かべたものより更に幸福そうに桜は笑う。
ついに決着がつく。
自らが愛した男が、もうすぐ自分の傍にやってくる。
こちらから手を伸ばしても、追いつく事も出来なかった少年が、エミヤシロウがやってくるのだ。
それは数年間を共に過ごした少年であろうか。それとも苦難の道の果てに、抑止の守護者に成り果てた彼であろうか。
ただ今彼らは、互いに死力を尽くし、各々の剣製を競い合わせているのだ。
唯一、間桐桜のために。
彼女は想像する。
自分自身の為に、傷付く事を厭わずに戦うその姿を。
「ーーーーーなんだろ? 凄く、凄く……」
ゾクリと彼女は身を震わせる。
自然と口元はつり上がり、自らの中に『狂喜』という感情が渦巻いている事を実感した。
そう。彼女はこの十年、感じていなかったその感覚に見舞われていたのだ。
あと暫くすればこの祭壇に現れるであろう、エミヤシロウの姿を想像する。
苦痛に満ちたその表情も、彼の流す血の一滴すら、自分の……間桐桜の為に見せているものなのだ。流されているものなのだ。
それは彼女にとって、あまりに幸福な事はないか。
それだけで、間桐桜は満たされていたのだ。
「大丈夫かな……大きな怪我、していなければ良いけど」
ポツリとそう呟き、彼女は再び黒い太陽に視線を移した。
鈍い光を放つそれこそ、彼女の思いが大きくなる証明であった。彼女が真に心に描く一つの願いが肥大化する証明なのだ。
「先輩をーーーーーーーすのは、わたしじゃないといけないんだから」
それは『殺意』なのか、それは『愛情』であるのか。
その答えは誰にも理解は出来ない。
それこそ今の彼女にも理解する事は出来ないだろう。
否、間違いなく彼女の中のみに在るのだ。
ただそれを彼女自身が、真に理解していない。エミヤシロウと対面しなければ表出しないモノなのである。
そのまま間桐桜は動かずに、蠢くそれを眺め続けた。
まるで子の誕生を慈しむ母のように、瞳に優しい色を滲ませたまま眺め続けた。
「でも、この様子じゃ……まだ先輩が来るのには時間がかかりますね……」
彼女が感じている通り、エミヤシロウとアーチャーの戦いに決着が付いたとしても、ここまで来るには時間を要する事は想像に容易い。
少し退屈そうに表情を歪ませ、彼女は続ける。
「神父さまもどこかに行ってしまわれたみたいだし……」
この場に彼女を誘った、聖杯戦争の監視役である言峰綺礼の姿がそこにはない。
それは何時からだっただろう、少なくともエミヤシロウの戦いが始まった頃にはいなくなっていただろうかと思い出しながら、彼女は何かに気付き、ふと祭壇の下に視線をやる。
広い荒野を踏みならす二つの足音。
一つは均整のとれた優雅な足音。
もう一つは……堂々とした、勇ましい音。
おそらくその足音の主は、砂埃すらたてずに歩みを進めているであろう。何にも恥じる事なく、悠然と歩を進めているのであろう。生温く停滞し、厚い壁のようにすら感じられるこの空間すら、その足音の主たちは、肩で切りながら歩み続けているのだ。
そう想像するのは、彼女にとって容易い事であった。
「暇つぶしに付き合ってもらいましょうか? 丁度、お二人が到着されたみたいですし」
彼女は既に知っている。
ここに到達しようとしている二人が、一体何者であるのかを。
「ーーーーあの夢で見たモノと同じ……いや、それ以上の醜悪さを感じる」
「こんなのが聖杯……ホント、笑っちゃうわね。こんなモノの為に十年間の全部を費やしていただなんて」
彼女は既に知っている。
今その二人がどんな表情を浮かべているのかを。
二人は彼女にとって、今の自分自身となる切欠になった人物。
眼下には自らの姉と、恋敵。
遠坂凛、そしてサーヴァント・セイバーはついに最終決戦の場へと到達した。
「ーーーーいらっしゃいませ、お二人とも。私の……聖杯の下へ」
大いなる魔に囚われた少女の演じる舞台へと、その脚を踏み入れた。
しかしどういう事であろう。
新たな役者を舞台に迎えた主演たる少女の表情からは、何の感情も感じる事は出来ない。一縷の興味すら感じられなかったのだ。
口元が釣り上がっていた。目尻が下がっていた。
確かに、その表情は『笑顔』と言って差し支えないものである。
しかしそうであるはずなのに、その表情を目にする凛そしてセイバーには、それを笑顔と認識する事が出来なかったのだ。
ただ目にした事実だけを告げた。
決められた台詞を口にした。
それを吐き出す為に、顔の筋肉を動かした。
それに過ぎなかった。
「ーー桜」
祭壇に佇む桜を見つめながら、歩みを止めずに凛は彼女の名前を口にする。
「こんばんは。姉さん、それにセイバーさん。逃げずに来てくれるなんて……すごく、すごく嬉しいです」
「ーーえぇ、わざわざ来てやったわよ、こんな辺鄙な所までね」
やはり先程と同様に深く刻むような言葉に対し、その表情は寒々しいまま桜は続ける。
彼女の言葉に、皮肉を籠めた言葉を返しながら、凛は普段通りの優雅な足取りのまま祭壇を登っていく。一方、それに付き従いうセイバーの表情は先程までの勇ましいものが、どこかかたいものに変わっていた。
その表情が意味するものは、『恐怖』という感情だろう。
彼女は本能的に、間桐桜の置かれている状態を察知しているのだ。
数多の戦場を駆け抜け、強大な敵を討ち果たしてきた騎士の中の騎士であっても、『この世全ての悪』を前にすれば、臆さずにはいられない。
否、これは多くの戦士と剣戟を交えた騎士王だからこそ彼女を一瞥しただけで、最大限に警戒しなくてはならないと判断したのだろう。
しかしセイバーの慎重な態度とは裏腹に、名と同じように澄んだ響きで桜へと言葉を投げ続ける。
「でもこんなに簡単にアンタの前に立てるなんてね。楽すぎて少しビックリしたわよ」
彼女も桜の威圧感に、気圧されていない訳ではない。
気圧されているからこそ、これ以上の遅れを取るまいとしているのだ。堂々とした物言いになるようと、自身の心に鞭を振るい、普段通りの自分たれと努めている。
「少しなんだかアンタとこうやって真正面から向き合うなんて、随分久しぶりな気もするけど……」
しかし桜にとって『普段通り』の遠坂凛であるという事が、何よりも彼女自身を苛んでいるという事に、凛は気付いていない。
次の瞬間、生温い風が通り過ぎるだけであったこの荒野に、高笑いが響き渡った。
「フフフ……ハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハ!」
今まで希薄であった桜の表情の中に、狂喜めいた色が滲み溢れる。
それはきっと、凛の言葉を卑下した笑いだった。
それはきっと、自らの姉を嘲笑した態度であった。
「っ……! 桜、アンタ!」
突然の桜の高笑いに、鋭い視線を彼女に向け、その真意を問い質そうとする凛。
「いきなり姉さんが面白い事を言うのが悪いんじゃないですか。ついついはしたなく笑ってしまいましたよ」
目尻に溜まる涙をそっと乱暴に拭き取りながら、桜はそう言葉にし、深く深く、呼吸を繰り返す。
「久しぶりなんかじゃ、久しぶりなんかじゃありません! 姉さんが……私を正面から見てくれた事なんてなかったじゃないですか! お話をしてくれた事なんて、ほとんど初めてじゃないですか!」
それは今まで、『間桐桜』として生き抜くしかなかった十年間、心の中に沈殿し続けた鬱積が瓦解してしまったかのように吐き出された。
普段の間桐桜を知る人であれば考える事も出来ないはずだ。
あまりに粗暴なその物言いは、死する覚悟を決めて祭壇にやってきた二人すら身震いさせるものだった。
「アンタ、何を言って……」
その言葉に、先程までの堂々とした様子は感じ取れない。
彼女自身、桜が言うような事は決してないと自負していた。例え名前が変わってしまったとしても、姿が変質してしまったとしても、彼女は桜の考えを理解しているのだと、心の奥底では思っていたのだろう。
しかし桜の口にしたものは、凛の思いとは全く真逆のものであった。
「わたしがどれだけお話ししたくても、どれだけ助けを求めても……姉さんがわたしに話しかけてくれた事なんて、助けてくれたことなんてなかったじゃないですか? どんなに泣いたって叫んだって、わたしを見てくれたことなんてなかったじゃないですか?」
桜の語るその言葉は、これまで間桐の家で強いられ続けた、自身の苦難に付いて語っているのだろう。
それは決して理解されることではないと、彼女は既に知っている。
それを知っているが故に、これまで彼女は感情を表に出す事はなく、グッと自らの裡へとその憤りを沈ませていた。
「ーーそんな事!」
「ーーーーあるんです!」
凛の言葉を遮る桜。
普段の彼女であれば、凛の言葉に言われるがままに流されていただろう。
しかし彼女の背後に揺らめく毒々しい聖杯が、彼女の中に巡りゆく混沌とした魔力の奔流が、その必要がないと告げていたのだ。
「いえ、気付かなかっただけですよね? 強い姉さんは、弱いわたしの痛みになんて気付く訳がないんですから! 優雅な『遠坂』のお嬢様には、こんなに薄汚れてしまった『間桐』の……わたしの思いなんて分かるはずがないんですから!」
一気に吐露された桜の思いの丈に、凛は言葉を失い、ただ自らの妹を見つめ続けるしか出来なかった。
ギリリと奥歯を噛み締めるのは、自らが桜の闇に気付いていなかったが故であろう。
桜は決して汚染された聖杯の欠片をその身に埋め込まれたから狂ったのではなく、元から狂いかけていた。
ただ聖杯戦争はただの切欠に過ぎなかった。
結局、彼女を最後の最後で追い詰めたのはーーーー。
「桜……アンタ、そんなに私が憎いの?」
ーーーー遠坂凛であり、セイバーであり……そしてエミヤシロウ。
彼女と深く関わりを持つ人物たちに他ならなかった。
気丈に振る舞っていた凛の口から、弱音にも似た言葉が紡がれる。
しかし凛の気持ちの移ろいなど、桜には関係がない。
「ーーーーーーでも大丈夫です。わたしはもう強くなりました。姉さんに助けてもらわなくても大丈夫なくらいに……私は強くなったんです」
更に凛を嘲笑するかのように言葉を紡ぎ、桜の表情が歪んでいく。
「だからわたしは、邪魔なもの全部壊します。姉さんだって兄さんだって、お爺さまだって……わたしの邪魔をする人は、みんなみんな……壊すんです。そして最後に……」
それは宣言。
誰にも誇れない、悲しき宣言。
「……桜」
ポツリと呟く凛。
これ以上、桜には何も言う事が出来ないという表れだろう。肩を落とし、俯き足下を見つめ手しまう。
ブルブルと拳を震わせながら、耐えるのは己の不甲斐なさか、それとも桜に対する対抗心からなのか、他者が理解する事は叶わない。
しかし、だからこそこれ以上、遠坂凛がこんな状態で居続けていい訳がない。
それを一番に理解しているのは、彼女の震える肩に手を置いた、一人の騎士であった。
「ーーーー凛、それ以上は何を口にしようとも無駄です」
ザッと、一歩砂埃を立てながら、凛の後ろに控えていたセイバーが前に出る。
黙ったまま、凛と桜の会話を見つめ続けていたが、繰り広げられる二人の会話を、最早彼女は『姉妹の会話』と呼べるものではない。放っておけるものではなかった。
「彼女には、間桐桜には何も届きはしない。その少女は言葉通り、全てを壊さんとしているのだから」
何より頑なまでの間桐桜の態度が、セイバーには我慢ならなかった。
今の彼女の姿は、いつかの自分と似ている。セイバーにはそう思えて仕方がなかった。
自らが一番の不幸を背負っているのだと、自らが手を下さねば何も進む事はないのだと、強迫観念に苛まれている。
「……」
「そして、最後にはシロウまでも殺そうとしているのだからーーーーッ!」
刹那、セイバー目掛け黒の何かが奔る。
「黙れ……」
言葉が届くと同時に、ガキンと重々しい音をたててセイバーの鎧が傷付けられる。
全く反応する事が出来なかった、その黒の何かによる攻撃に後ろに後退しながら、苦痛に表情が歪んでしまう。
「くーーーーが!」
「貴方に喋る許可を与えていません。今はわたしがねえさんと話をしているんです。貴方は黙っていなさい。それに貴方が先輩の名前を口にするなんて許さない……許してなんてあげません!」
桜の背後に、黒に歪む幾つもの魔力の塊が佇む。
一つはまるで人形のように、一つはウネウネとその場に揺らめく。
それら全てが、ただ宿主の命令を待っていたのだ。あまりに恐ろしく禍々しい様を見せながら。
「……っ」
それを目にし、凛は何を思ったのだろう。
あまりに醜悪なその魔力に不快感を露にし、懐にしまい込んでいた自らの武器を握りしめる。
一方、損傷した鎧を押さえながら、声を漏らす事もせず、セイバーはただ悔し気な表情を見せていた。
おそらく不用意であった自分を嘆いているのだろう、既にその手に聖剣を握りしめ、凛の前に出ながら、それを正眼に構えた。
「本当に……我慢のきかない、猛獣みたいですね。セイバーさんは。躾のなっていないペットには……それに飼い主にも、お仕置きが必要ですよね?」
ニコリと再び笑顔を見せ、桜が呟く。
「さぁ初めましょうか?」
彼女にとっての、最後の枷を取り払う為に。
少女はゆっくりと、ただ殺意を目の前二人へと向けた。
「ーーーーセイバー!」
「凛、私の後ろに……!」
幕は落ちた。
最後の戦いの幕が。
ただ一人、未だに現れる主演の登場を待ちながら、少女はこう呟く。
「楽しませてください、姉さん……そしてセイバーさん」
ーinterlude outー
轟音をたて、紅玉が弾ける。
穿たれた胸を見つめながら、アーチャーは音をたてて膝を付く。
「ーー貴様……何故それを……」
弾けたそれの欠片たちを目で追いながら、ポツリと呟く。
言葉を吐き出すと同時に、夥しい血は溢れ続け、彼の足下を汚していく。
そう。俺たちの戦いに、エミヤシロウの戦いに終止符を打つ音が打ち鳴らされたのだ。
ただ決着を付けたその得物が彼にとっては、納得のいかないモノであったのだろう。茫然とした表情を浮かべながら、アーチャーは呟いたのだ。
「覚えていた……じゃないな。一瞬見えた気がした」
俺自身も未だに、先までの攻防の疲れが癒えていない。それほどまでに疲弊しきっているのだ。
早鐘を打つ鼓動を必死に抑えながら、アーチャーの言葉に対してゆっくりと、噛み締めるように言葉を紡いでいく。
「その剣で、あの男との決着を付ける瞬間を……経験したはずがないのに」
そう。俺自身はきっと、その戦いを経験した事はないのだ。
多くの可能性の中にある、一つの回答なのであろうと、今の俺であれば理解する事が出来る。そして同時に、そんな結果があるのだという事を嬉しく思えたのだ。
「……」
少しニヤけてしまったのだろうか。俺の方ジッと見つめるアーチャーの表情は、怒りを通り越して呆れと呼べるものになっている。
ふとそんな表情を浮かべた刹那、アーチャーはゴロリと自らの身を横たえ、言葉少なく呟き始めた。
「まさか、そんなことが……」
彼の言葉が何を意味するのか、俺は理解出来ない。
「そうか……いや、この事実は揺らぎはしない」
ただ、何かを納得したように声を上げながら瞳を閉じた。
「それすらも失念してしまうとは……そう、そうか……」
「お前は、俺なんかに油断してなんかいなかっただろ?」
どうゆう訳だろうか、自然とそんな言葉が口に吐いていた。
少なくとも俺たちの間には、油断も手加減もなかった。
己の意地を通したいが為に、互いの剣製を競い合わせた。
ただ、その事実だけで充分だった。
「ーー何を言う。分かりきった事を……」
「それでも……俺の勝ちだよ、アーチャー」
自分でも分かるほどに、ニヤリと笑みをつくってそう言葉にした。
「ーーーー認めは、しない」
フッと皮肉気に頬を緩め、アーチャーはそう呟く。
あぁ、その態度があまりにアーチャーらしい。
久しく忘れていたかつての自分の姿に、俺も少し頬を緩ませながら、こう返した。
「それは本当にお前らしいさ……」
「……」
「いけ……」
「貴様は、認めない。それでも……この事実だけは覆せない」
「それでも、貴様がこの後何を成し遂げたとしても、私は貴様が消えることを、心の底から望む……」
「あぁ。じゃあな」
その言葉を最後に、俺は境内から踵を返し、ゆっくりと石段を下り始めた。
本当に、最後の最後までアーチャーは皮肉ばかりだったなと独りごちながら、一歩一歩脚を進める。
どうやらかなり無茶をし過ぎたのだろう。
アーチャーの斬り付けられた身体は激しく痛み、おそらく体内を駆け巡る魔力は枯渇寸前にまで至っているのだろう。
「ホント、満身創痍ってとこか……」
自らに悪態をつく口は決して減らない。そうでもしなければ、歩む脚は止まってしまう。
きっと止まってしまえば、もう動く事は叶わない。そう実感出来るほどに、この身体は悲鳴を上げていたのだ。
「でも……意味のある戦いだったってことかな」
身体を引きずりながら、ゆっくりと……ゆっくりと進んでいく。
「待って……待っててくれ、桜」
もう一度、桜の前に立つ為に、壊れる寸前の身体を動かし続けた。
ーinterludeー
一人、暗闇の支配する、神聖であったはずの場所に取り残され、敗者は一人こう呟く。
「久しく、感じていなかった……これも、受肉したが故か」
激しい痛みが胸に奔る。
これがかつては生の実感であった。
どれだけ他人から傷付けられたかが、自らの存在証明となるとすら考えていた。
しかしそれも時の移ろいと共に、不快としか感じる事が出来なくなる。
それが英霊にまで登り詰めた男が死に際に感じた、唯一のモノであった。
「何故、油断したのだ。何故私は……踏みとどまったのだ」
そう言い訳をしなければ、彼には納得する事は出来なかった。
事実、彼は何の油断もしてはいなかった。踏みとどまりはしていなかったのだ。
「あの男が……あの宝具を使用するであろうことは、十分に予想する事が出来ていたはずだ」
だからこそ、アーチャーは自らを破綻させると分かりながら、彼の聖剣をその手に造り上げた。決して追いつく事が出来ない差が、自分たちの間にはあるのと示す為に。
しかし結果だけを見れば、敗北したのはアーチャー自身。
魔力量にしても、剣製にしても、負けることは有り得ない。アーチャーはそう信じていたのだ。
「なるほど。そうか……そうだったのか」
しかし彼自身が口にした問いも、瞬きの間に解消されてしまう。
「オレはヤツに負けたのではなく、自分自身の甘さに負けたのだ。あんな口を叩いていきながら、オレが未練がましく……彼女の事を思っていたのだ」
そう。シロウが聖剣の輝きを凌ぎきった直後、手にしていたその短剣に、彼は目を奪われてしまったのだ。
それは彼女が……彼の以前の主が有していた短剣。
どこにでもある、魔術師ならば誰でもが知るような短剣。
しかしアーチャーの中では、思い出深いものの一つであった。
「自分から裏切っておいて、あの子の事を気にかけていたとは……そんな資格など、ありはしないのに」
それは彼は、自らの主を裏切った。
自らの願望を果たさんが為に、切り捨てたにも関わらずに、その短剣を目にした瞬間に揺らいでしまったのだ。
「この座に至っても、私は元来の自分を変える事は出来ていなかったのだな……」
自分自身の根本は変える事が出来ないのだと、
「『衛宮士郎』という人間は『正義の味方になろうとする、無様な大望を抱く大馬鹿者』と、そう決め付け、盲目的にそれを求め続ける道化であると……それ以外を為す事が出来ない男であると決め付けていた……」
その生き方しか出来ないと思っていた。
「そう、願っていた……そうあってほしいと望んでいた。それは、オレだったのか」
彼はそう思いまずにはいられなかったのだ。
自分がその生き方しか出来なかったからこそ、そうあるべきだと思い込んでいた。
「あの男は、自らの理想を曲げてまでも、桜の為に歩もうとしているのに」
身体をゆっくりと起こしながら、既にそこから去っていった男の事を想像する。
「一人の、桜の為にその力を使う道を選んだ……」
認めたくはなかったが、しかしその事実をここまで露にされては、認めざるを得ない。
「『この世全ての悪』と同じモノになっているというのに……彼女が欲しいと思っているのだろう。全く、おめでたい……おめでたい男だ」
それと同時にひどく羨ましい。
『万人』の正義の味方ではなく、『たった一人』の正義の味方になる事を選んだあの男を、アーチャーは羨ましかったのだ。
「しかし、オレはアイツとは違うから……だからオレは果たさねばならない。この生き方を選んだのだから」
そう口にし、グイと腕に力を入れる。ビシャリと夥しい血が、再び境内を汚し、刻一刻とその生が吐きかけている事を示していた。。
あとどれだけ彼の命は持つのか、それに恐れ戦きながら、立ち上がった褐色の英霊はひとりごちる。
「どこまで往っても、オレは……オレである事を捨て去れないようだよ、親父」
ただ、『正義の味方』として最後に自らが為せるであろう事を果たさんが為に。
彼は再びその二本の脚で立ち上がった。
目指すのは、この戦いを混乱に導く者の場所。
明確な悪意を持つその男の傍へと、アーチャーは歩み始めたのだった。
ーinterlude outー
おいおい、何だよコレは。
こりゃぁ本格的に筋書きが変わっちまったぞ。
信頼も得られず、全てに打ち拉がれて死んでいく。
お前は、そうじゃなくちゃならなかったはずだろ……。
オレとお前が『最初に』造った筋書きは、そうだったはずだろうが。
もう一人のお前は、ちゃんと自分の役割を果たしたっていうのによ。
なぁ、兄弟……認めねぇぜ。
お前の勝手を、オレは認めてやらねぇぜ。
こうなりゃオレのお母様が、本当の悪役になってくれるのを期待するしかねぇな。
お前の愛した女が、お前の大事な人間どもを手にかける所を目に焼き付けろ。
自分の惚れ込んだ女に、甚振られて、嬲られて、絶望しながら殺されちまえ。
あぁ、何だ。
それが一番悲劇的じゃねぇか。
それが一番、オレにとっては楽しいじゃねぇかよ。
あぁ、楽しみだ! 本当に楽しみだぜ!
なぁ、エミヤシロウ! お前がどんなアドリブでオレを楽しませてくれるのか……本当に楽しみだぜ!
来るなら早く来いよ……早く……お前の愛しい女が、騎士王様を殺しちまう前によ。