待つ。
ただその時を待ち続ける。
普段ならばこんなに穏やかな気持ちでいられることなどありはしなかった。
聖杯戦争が始まってからここまで、心の落ち着く暇など俺にはありもしなかったのだ。
何よりセイバーと再会してからここまで考えもしなかったことの連続で、正直心身ともに疲れ果てていたのだろう。
だからこそ何もしないこんな当たり前のような時間が、何より嬉しくて堪らなかった。
直に迎えが来る。
イリヤは言った。
迎えに行くと。
自らの望みを果たしたいのだと。
ならば俺自身も、もう既に願いを果たしてしまった俺だからこそ、彼女と正面から向き合い、それに応える義務がある。
聖杯戦争の行く末をしるものだからではなく、衛宮切嗣の息子だからでもない……。
一人の男として、この戦いを始めた一人の魔術使いとして。
雲が晴れたのだろうか。土蔵に設けられた窓から薄っすらと柔らかい光が差し込む。
室内に舞う埃をキラキラと彩りながら降り注ぐそれを目にすると、ふとあの時の情景が頭を過ぎった。
「あぁ……それだけは、忘れることは出来ない」
今日のような寒い、冴えた月明かりの降り注ぐ夜。
鮮血に濡れる俺を見下ろす碧の瞳。勇敢であり、そして可憐さも兼ね備えたその瞳に俺は心を奪われたのだ。
そう。それだけで俺はセイバーに恋をしてしまった。
しかしどういう訳だろうか。
セイバーの他にもう一人、同時に思い出された顔に俺は困惑を隠せなかった。
一番ではなくても良い。
ただ傍に居たい。いつも傍に居たい。
そう口にして、悲しげな笑顔を浮かべた少女がいた。
誰よりも俺を支えてくれた少女。藤ねぇと共に、俺の日常に色彩をくれた少女。
「桜……一体どうしてるんだよ」
思いもかけず、彼女の名を口にしていた。
最後に目にしたのは、落胆した悲しげな表情だった。
本来ならば警戒しなくてはいけないはずのマキリの魔術師。そして慎二が使役していたライダーの真のマスターであるはずなのにどうしても彼女に対してそれを出来ずにいる。
だから彼女がここに寄り付かなくなったことは都合のいいことのはずなのに、俺にとっては余計なモノのはずなのに……。
「お前に会えないことを……こんなにも寂しいと思ってしまうなんて」
「戦の前に女の名を呼んで物思いに耽るとは……怒りを通り越して呆れてしまう」
投げかけられた声は相変わらず刺々しい。
視線を声のする方に移す。
土蔵の入り口。先ほどまでとは装いも表情も違う。
そこには戦いに赴かんとする一人の騎士の姿がそこにはあった。
何度も目にした、そして何度も助けられたその勇敢な騎士の姿が。
「――確かに。確かにそうかもしれない」
「何を笑っているのです! これから戦う相手が何者であるのか、まさか忘れたわけではないでしょうね?」
セイバーの言葉に思わず笑みを溢してしまう。
彼女の言葉はもっともだ。これから赴くのは生きて帰ることの出来ないであろう死地。それだというのに一体何を考えているのだろう。
考えつくしたはずのことを何度も心に留めたままなど、あまりに滑稽すぎるではないか。
「いや、分かってる」
「では気を引き締めなさい! 彼の英雄と矛を交えるのだ。先日までの戦いとは……」
「分かっているさ。油断も何もない」
そう。そんなものはあってはならない。
そんなものを持って臨めるほどにあの巨人が優しくないことは痛いほどこの身に味わってきたのだから。
「――なるほど。曲がりなりにも、貴方も戦士であるということでしょうか」
「戦士なんて大それたものじゃないさ……ただ、お前の言葉で目が覚めたよ」
彼女にそう言葉を返す。
その言葉を予期していなかったのだろうか。コロコロと変わる俺の表情に対応できないのであろう、セイバーは少し困惑した様子だった。
あぁ。本来ならばこんなやり取りをもっと早くからしておけば良かったんだ。
それが出来なかったから、セイバーが俺のことを分かってくれていると勘違いをしていたから、彼女との溝が出来てしまったのだ。
奇しくも、いざ戦地へと赴かんとしているこの時にようやくそうすることが出来た。
もう遅いのかもしれないけれど。
「わ、分かればいいのです! 貴方が役立たずでは勝てるものも勝てないのだから」
「あぁ、そうだな。頼むよ、セイバー」
俺には最強の騎士が付いている。俺がしくじらなければ負けることはない。
俺はただ、ただエミヤシロウとして創り出せる最高のものを創り出し続けるだけなのだ。
俺の言葉に沈黙したまま頷き、彼女は最初にここに現れた時と同様の、真摯な表情を作る。
その沈黙の理由を俺は知っている。いや、彼女がここに来た時点で、もう分かっていたことだった。
「……マスター。先ほどアインツベルン迎えの者が来ました。イリヤスフィールは彼の地で待つとのことです」
「そうか……じゃぁ行こうか、セイバー」
ゆっくりと立ち上がり、再度彼女に顔を向ける。
彼女の真摯さに応えるように、ただ彼女が言ってくれた戦士らしい表情を作りながら。
「えぇ。必ず勝利を我が……我らの手に」
その言葉に誘われながら、長い時間を過ごした土蔵の外へと踏み出していく。
一歩外に出ると、土蔵とは比べ物にならないほどの冷気が身に突き刺さった。
不意に後ろに目を向ける。
もう戻れないかもしれない、もう一度俺を始めることの出来たあの場所を目に焼き付けるために。
「――行ってくるよ。じいさん……」
あの優しい笑みが返ってくることはない。
ただその一言が、その約束の言葉があればきっと戻ってくることが出来る。
自然と、その言葉が口から零れ落ちていた。