さて、今まで目を背けてきていたけれど、そろそろ向きわないといけない頃合だろう。
フェイトとアリシアを姉ちゃんに任せ、俺は静かに席を立つ。
靴を履いて、なるべく音を立てないように玄関の扉を開く。べつにこれから出掛けるというわけではない。
家の敷地内、玄関と中庭の間あたりの人目につきにくい物影に、いた。
「あー……えっと、アルフ……久しぶりだな」
「…………」
俺の家にきていたのは、フェイトとアリシアだけじゃない。フェイトの使い魔であり、フェイトの家族に等しい存在であるアルフも一緒にきていた。
ただ、アルフはいつもの人の姿ではない。
以前に見たこともある、大きな狼の姿だ。フェイトとアリシアがリンディさんに連れられて俺の家にやってきた時に、その美しい橙色の
それが今、外からは見えにくい家の陰で縮こまるように座り込んでいた。
「姉ちゃんに紹介したいからさ、家ん中入んない?」
「…………」
言葉は通じているはずだ。狼のままでも喋ることはできるはずだ。なのに、アルフは返事をしてくれない。
「俺とは喋りたくもないし、顔も見たくない……そういうことなのか?」
アルフの耳が、ぴくっと反応した。
こちらに顔を一瞬だけ見せて、再び目を背けた。
「…………」
意地の悪い聞き方だ。
そんなわけない。それは俺もよくわかっている。
最後に話したあの時に、伝えられた。俺のことを大事に思ってくれているからこそ、アルフは俺の顔を見ることすら耐えられないほど辛く、苦しんでいる。俺の近くにいるだけで
「……喋らなくていい。相槌もいらない。俺の顔も見なくていいし、俺に顔を見せなくてもいい。ただ、聞いてくれればそれでいい」
俯き黙るアルフに、俺は一方的に語り始めた。
内容としては、ほとんど近況報告だ。
管理局で嘱託魔導師として働き始めたことや仕事ぶりが一定の評価もされていること、新しい技術や知識も取り込んでいること。
まるで釈明するみたいに、必死に話しかけ続けた。困ったことなんてないと言い訳するように、左目や適性を失ったことなんて俺の人生になんら影響していないと証明するように。
「すごいね、徹は……」
あらかた話しきってしまって、もうテストで失敗した時の笑い話でもしようかと考えていた時、ぽつりとアルフが呟いた。
「徹はもう、
「……次?」
「あたしとは大違いだ。同じところで立ち止まってうだうだやってるあたしとは……」
アルフが光に包まれる。
目を眩ませる光が収束した頃には狼の姿はなくなり、一人の女の子に変わっていた。
家の外壁に背を預けて、三角座りして膝の間に頭を挟むように小さく縮こまっていた。
見ていて胸が締め付けられるような、痛ましい姿だった。
「そういう、つもりで……言ったんじゃない。それにアルフはアースラにずっといたんだ。自由に動けなかったんだから、できることなんて限られてただろ?」
「ちがう、ちがうよ。できることを探そうともしなかった。なにもしなかったんだ……。できなかったんじゃ、ない……」
「い、いや……これまでやってこなかったからって、これからもそうである理由はないだろ?これからやれることを探していこうぜ。俺も一緒に……」
励まそうと、元気付けようと、震える肩に手を乗せようとした。
その、触れる寸前だった。
「っ!」
ぱちん、と。軽く弾く音。
「っ、アルフ……」
「あっ……」
叩かれた。拒絶するように、アルフは俺の手を振り払った。
「と、徹……ごめ、ごめんなさい……あたし……っ」
ほとんど痛みなんてない。腕を振るっただけで俺に危害を加えようとしたわけではない。
ただ、本人もほとんど意識していなかった行動だったようだ。叩かれた俺よりも、叩いたアルフのほうがひどく動揺していた。自分でも信じられないと顔を歪めて、今にも泣き出してしまいそうだった。
「痛くない、大丈夫。驚かせちゃったんだよな、ごめんな」
「あたし……もう、自分がいやになる……。徹を傷つけて、ひどいこと言って、近くにいられないみたいなことまで言ったくせに……こうしてまた徹を頼ってる……」
「……こればっかりは仕方ないことだろ?べつに悪いことでもないんだ。助け合っていけばいいんだよ。気に病むことじゃないって」
「なにも返さずに、お世話になるなんて恥知らずもいいところだ……。情けない……あたしは、こんなにも弱かったんだ……」
彼女らしからぬか細い声で、絞り出すようにそう言った。
「アルフ……っ」
歯痒い。もどかしい。
アルフは決して情けなくも弱くもない。
アルフが弱気になっているのは、大元の原因は俺の後遺症で、つまりは俺個人の不手際でしかない。それをアルフは自分に責任があると思い込んでいる。
その後悔も、罪悪感も、アルフの、優しさ故の思い違いだ。
だが、それを伝えたくても俺ではうまく伝えられない。心の内でぐずぐずと
それでもなにか言わないと。そう思って口を開いたが、俺が言う前に違う方向から声がした。
「徹、こんなとこおったんか。フェイトちゃん、アリシアちゃん、徹おったでー!なにしと……ん?そっちの子は」
姉ちゃんが長時間姿を消していた俺を探しにきたようだ。
場にそぐわない明るく大きな声を響かせる。
「あ、えっと、こいつは……」
「って、おいこら徹。女の子泣かしてんちゃうぞ」
「言葉が荒っぽいなあ!ちょっとでいいから説明する時間をくれって」
ドスを利かせた声で詰め寄る姉ちゃんの背後から、ぱたぱたと軽快な足音が近づいてくる。フェイトとアリシアもやってきた。
「アルフ……こんなところに」
「あれ、フェイトちゃんお知り合い?」
「うん……。私の使い魔で、家族」
「ほー!せやったんか!ほんじゃリンディさんと一緒にきとったん?」
「うん……でもアルフはなんだか様子が変で、合わせる顔がないとかって……。だから落ち着くまで一人にさせようと思ってたんだけど」
フェイトはアルフと姉ちゃんを交互に見ながら心配そうに言う。
それを聞いて、浮かれていた姉ちゃんの表情が変わった。何かに気づいて頭を働かせ始めた時の顔を一瞬覗かせた。
その一瞬だけで、大方状況を把握したようだ。
雰囲気が変わったのも束の間、姉ちゃんはにへら、と頬を緩めてアルフに近づく。
「アルフちゃん、やんな?歳はいくつくらいやろ?徹と同じくらいやろか?うちは徹の姉で真守て言います。よろしくなぁ、アルフちゃん!」
「徹の、お姉さん……っ。あ、あの、あたし……っ」
「ええからええから!とりあえず家ん中でお喋りしよや!日ぃ暮れ始めてからちょっと冷えてきとるからなぁ。アルフちゃんの格好やったら寒そうや。肩もお腹も足も出とるやん。ほれ、家ん中入ろ!」
「で、でも、あたし、そんな資格……」
「家入んのに資格も三角もあるかいな!ほら、はよはよ!」
姉ちゃんは座り込んでいたアルフの腕を掴んで強引に立ち上がらせると、玄関まで手を引っ張っていく。この思い切りの良さと押しの強さが、たまに無性に羨ましくなる。
俺が時間をかけてもできなかったことを、アルフと初対面の姉ちゃんが出会って一分も経たずにできたことにそこはかとない無力感をひしひしと感じるが、今だけは姉ちゃんに感謝だ。
コミュニケーション能力の化け物の後を追って、俺も家に入る。靴を脱いで上がり
そんなところで、何者かに胸倉を掴まれた。何者か、と言っても、相手など一人しかいないけれど。
「苦しいって。……なんだよ姉ちゃん」
「ちょお、こっちこい」
「ちょ、なに……アルフとかフェイトは?」
「先にリビング行かせた。フェイトちゃんが案内しとる」
端的にそう告げると、姉ちゃんは俺を引きずるようにして洗面所兼脱衣所に入る。俺を壁に押し付けると、鋭い眼光で睨みつけた。
「あの子は……知ってんの?」
「知ってるって?」
「アルフちゃんは知ってるんやろ、徹の
「な、なんで……」
「は?そんなもん見たらわかるやろ。徹の姉や言うた途端に萎縮するわ、家入んのさえ敷居高そうにするわ、なにより……なるべく徹の
「そう、か……」
「ほんで?そんな子相手に徹はなにしとん」
より一層、鋭利に容赦なく姉ちゃんは切り込んでくる。身を乗り出すように追及する。
「話しいや。なるべく詳しく、あの子となにがあったんか」
「……俺の後遺症を、自分のせいだと思ってんだよ。アルフは」
「……ようわからへん。怪我したんは徹の自己責任なんちゃうの?」
「その前にちょっとトラブルがあったんだ。でもアルフのせいじゃない。……ちょっと長くなるけど……」
姉ちゃんにはすでに魔法がらみの一件は白状したが、もちろん時間の都合上すべて事細かに状況の説明までできたわけではない。なので、ここで追って補足した。
アリシアがカプセルの中でコールドスリープに近い状態で長期間眠っていたこと、そのカプセルを時の庭園というフェイトたちの実家から運び出そうとした時に巨大な岩が落ちてきたこと、その岩をアルフが砕いて散乱した破片がアリシアのカプセルにぶつかってアリシアが投げ出されたこと、アリシアを助けるためにはその場で治療しないといけなくて俺が少々無茶をしてしまったこと、そのせいでアルフが罪悪感を抱いているのだろうこと。
なるべく詳細に、かつ手短に説明した。話している間、ずっと姉ちゃんの形相が恐ろしいことになっていたので怒っているのはよくわかっていた。
再び胸ぐらを掴んで、姉ちゃんは俺を壁に押し付けた。
「なんであの子に話したんや」
「俺は……隠すつもりだったんだ。でも、リンディさんと話しているところをアルフが聞いてたんだ。なにもかも……手遅れだった」
「隠し通されへんねやったら、なんであの子から離れへんかった」
「っ……」
一番痛いところを、的確に抉り込んでくる。
こういう時、姉ちゃんは優しくない。はっきりと断じてくれる。
だからこそ、救われる部分もあるけれど。
「隠されへんねやったら突き放すべきやった。さっきの一連の話とアルフちゃんの性格考えたら、傷つくに決まっとるやろ。自分を責めるに決まっとる。ただでさえ徹に借りがあるって思てんのに」
「突き放そうと……したんだ」
「ほぉ?『突き放そうとした』?見とった限りできてへんかったな」
姉ちゃんが俺とアルフを目にした時間なんて些細なものだろう。それでも、その些細な時間の、些細なやり取りを見ただけで姉ちゃんからすれば充分なほどの情報になるはずだ。
洞察力と人の機微を感じ取る能力に関しては、本当に驚嘆に値するものがある。
だから、俺の一言で、声のトーンで、答えにまで辿り着く。
「突き放そうとして、できひんかったんやろ。どうせ徹のことや、嫌われようとして、最後まで演じきられへんかったんやろ」
「っ……」
「徹は嘘つくん下手やからな。せやけど、それとは別に、あの子と離れたくなかったんや。せやから、突き放されへんかった」
姉ちゃんは推察で、本人の俺でさえ自覚していない感情にまで到達する。その様は、俺よりも断然魔法使いに見えた。
「それは、徹の甘さや。嫌われ役を背負いきられへんかった、心の弱さや」
自分に足りていない部分をまざまざと見せつけられる。覚悟のなさを突きつけられる。
思わず、手に力が入る。
知ったようなことを、と憤りを覚えるけれど、誰よりも状況を理解できているのだからどうしようもない。
姉ちゃんが同じ立場なら正しい選択を取れるのか、と反論したくなるが、自分を切り捨ててでも相手を守る優しさを姉ちゃんが持っていることは誰よりも俺がよく知っているから、なおさら言葉もない。
そもそも、感情が深く関係する本件において、俺が姉ちゃんを上回れるわけがなかった。
「俺にはわからない……。俺は、アルフのせいだなんて思ってないのに……」
「徹がどう思っとるかやないねん。あの子が、徹の身に降りかかった事実に対して、どう感じて、どう考えて、どう受け取ったかや。結果、あの子は徹の怪我を、自分の責任やと受け取った。あの子は、その身に余る罪を背負ったんや。徹が許すって言うてもあの子は背負ったもんを降ろされへん。罰されへん限り、背負った荷物はなくなりもせぇへんし、軽くもならんわ」
「なんでっ……。そんな罪なんて、初めからないのに……」
「罪のあるなしを語ることに意味なんかあらへん。個人の心の問題やねんから」
「そんなの、どうしろって……」
「せやから言うたやろ。徹の取れる手段は二つやった。隠し続けるか、突き放すか……隠し通されへんかった以上、もう突き放すしかないやろ。それがあの子にとっての罰になる。その罰を受け続けることで、あの子の罪悪感は少しずつ減ってく。時が過ぎるごとに少しずつ、ほんまに少しずつやけどな」
「お、俺は……離れたくなかった。離したくなかったんだ……。だから、管理局で結果を出して、認められて、アルフにそんな後悔しなくていいんだって、伝えたかったんだ……」
「甘いわ。なんもかんもな」
振り払うように、姉ちゃんは俺の服から手を離した。あまりに不甲斐ない俺に呆れたのか、背を向ける。
「見通しも、読みも、考えも、なんもかんも甘い。成果出すってのもそうやし、人の感情を簡単に変えられる思てんのもな」
吐き捨てるような言葉の数々に、俺は言い訳の一言もない。
確かにその通りだった。
管理局で結果を出すのもどれだけ時間がかかるかもわからない。どれだけ活躍すればいいかも曖昧で、しかも実力主義の世界で俺みたいな半端者が活躍できるかどうかもわからない。万が一それらを達成できたとしてアルフの気持ちを変えられるか確証はない。
わかっている。
すべて行き当たりばったりだ。考えなしだ。
そんなこと、わかっている。
だけど。
「だけど」
それでも俺は、思ったんだ。
「離れたくないって……そう思ったんだ」
反論ではない。姉ちゃんへの答えにすらなっていない。
そんな俺の取るに足らない意思表示に、姉ちゃんは小気味よく、乾いた吐息で笑い飛ばした。
「はっ。あっまいわー。あほみたいに甘ったるい。その上見苦しい」
姉ちゃんは
その
言葉もないほど、心に刺さる。
「……せやけどなぁ」
切れ味鋭い辛辣な言葉の数々に俺が黙り込むと、姉ちゃんはそう続けて言う。
これまでの冷たく怒ったものではなく、いつもの声色で。
「甘ったるいくらいの優しさと、見苦しいくらいの諦めの悪さのおかげで、フェイトちゃんとアリシアちゃんがここにおるんや」
長い茶色の髪を弾ませながら、
「安心せぇ。徹の
陽気に、朗らかに。そして、なによりも頼もしく、姉ちゃんは明るく笑った。
*
「狭い部屋で散らかしとってごめんなぁ」
「う、ううん……べつに。あ、あの……」
「んー、自分の部屋なんか必要なもんを取りにくる時しか入らへんから、座るとこもあらへんなぁ。しゃあない、ベッドに座っとって」
遠慮しているのか、足の踏み場のない部屋に入るのに抵抗があるのか、それとも初対面である真守に引け目があるのか、アルフの足は重かった。
「そういえばちゃんと自己紹介できてへんかったなぁ。うちは徹の姉の逢坂真守です。徹とは五つ離れた二十一歳。ぜひ真守お姉ちゃんっ、って呼んでな!」
「真守、お姉さん……。徹の……」
家族。
そう唇だけで呟いたアルフはすぐ隣に腰を下ろした真守から一歩分ほど離れて、深々と頭を下げた。
「ほんとうに、ごめんなさい……。謝って済むことじゃないけど、とても償えることじゃないけど……でも今のあたしには謝ることしかできないから……っ」
自己紹介もそこそこに、アルフは平身低頭謝罪から入った。
真守は苦みばしった笑みを維持することで精一杯だった。
「とりあえず頭上げてや。お喋りもできひん」
「……うん」
立つ瀬がなさそうにゆっくりと頭をあげるアルフ。
真守はシュシュで纏めた髪を手慰みに撫でる。
「うちはそういう話がしとうてアルフちゃんを部屋に呼んだんちゃうねん。もっと、こう、有意義な?時間を過ごしたいなぁって」
「で、でも、あたしのせいで、徹が無理をしなくちゃいけなくなって……」
「徹からちらっと聞いたけど、うちはアルフちゃんの責任やとは思うてへんよ」
「それは、徹の立場から話を聞いたから……っ!」
「せやからこの話はとりま脇に置いとこや。どっちが正しいんかなんかすぐに判断できるもんやあらへんし。感情の問題やからなぁ、決着つかんしなぁ」
「で、でもっ……あたしのせいで……」
あくまでも、アルフは食い下がる。
その
息を呑んで口を閉じるアルフを真守はまっすぐと見据えた。
「フェイトちゃんやアリシアちゃん、リンディさんと一緒にきたのに、家の外におったんはそれが理由?」
「……うん。徹に合わせる顔がないのも、そうだけど……。徹の家族に、どう謝ればいいかわからなくて、怖かった……。適性だけでもひどいのに、左目まで奪ったあたしには、徹と徹の家族の家に上がる資格なんてない……」
「……そう。そんなふうに悩んどったんやな。ようわかった。ありがと、話してくれて」
真守は決心をつけるように大きく息を吸って、長く吐いた。
「アルフちゃんがちゃんと話してくれたからうちも話すわな。最初、徹から話を聞いたばっかりの頃は、本音言うたら納得できひんかった」
「……うん」
「なんで他人のことやのに首突っ込んでんのって思った。痛いし苦しい思いまでして、挙句なんで命まで危うくしてんのって。助けることはできたんかもしれへんけど、自分には後遺症が残ったって聞いて、あほかと思った。無関係の、縁もゆかりもない赤の他人のためになにしてんのって」
「うん……。そう、だね……」
「アルフちゃんは、徹から家の話聞いた?」
「えっと……く、詳しくは知らない、かな」
「そっか。せやったら話すけど、うちの両親はどっちも、赤の他人の子ども助けるために事故におうて亡くなりはった」
「っ……」
息を呑むアルフ。
真守は拳を握りこんで、強い感情を秘めた声で続ける。
萎縮するアルフに、あくまでもはっきりと、面と向かって。
「せやから、徹から話聞いとった時、徹は生きとるってわかっとっても胸がざわついた。うちは見知らん誰かのせいでまた家族を失うとこやったんかって、そう思っとった。こう言うたら感じ悪いやろうけどな」
ふるふる、と
「たぶん……ふつうはそう思う、はずだよ。そう思って、当然なんだ……」
「せやけど、徹から話聞いてるうちにだんだんわかってきたんや。今日、こうやって直接
アルフが緊張感と罪悪感で泣き出しそうな時、声を幾分明るくした真守が言った。
「な、にが?」
アルフが、潤んで震える声を絞り出す。
真守は柔らかく、あたたかく、微笑んだ。
「徹にとって、アルフちゃんたちは無関係やなかったんや。縁もゆかりもあるし、赤の他人でもなかった」
「ぁ、っ……」
口を開いたけれど、アルフの唇が言葉を紡ぐことはなかった。震える喉からは、声が出なかった。
「いっぺん好きになってもうたらめっちゃ大切にしてまう。徹のええとこでもあんねんけど、悪いとこでもあるわなぁ。アルフちゃんたちは徹の『大切』に入っとったんや。せやから頑張りすぎてもうた。……今なら、すこしは気持ちもわかる。なにがなんでも、なにをしてでも守りたかったんやろうなぁ」
真守は、俯いて布団を固く握りしめるアルフの手に手を重ねる。
「せやから、うちはもう決めた。徹のしたことは認める……努力をする。アルフちゃんたちにも恨みなんか持たへんよ。なんやかんやあったけど、みんなこうして顔が見れて、声が聞けて、触れ合える。それだけでええんちゃうかなって、うちは思うとる」
真守の手が、閉じられたアルフの手をあたためる。だが、まだアルフの手は冷たく、固かった。
「でも、あたしは……」
「ま、うちはアルフちゃんの気持ちもわからんでもないけどなぁ。自分のせいでって考えたら
「…………」
「せやけど、ちょっとでええから不肖の弟のあほな考えも汲み取ったってくれへんかなぁ?」
「……徹の、考え?」
「徹はな、今の自分のままで管理局で結果残そうと躍起になってんねん。なんでかわかる?」
「えっと……立場の弱いフェイトやアリシア、プレシアの力になる、ため?」
「徹のことやからそれもあるやろうけど、ちゃうねんなぁ、これが」
「わからないよ……」
「はっは、笑えんで?管理局で自分の立場がえらくなったら、アルフちゃんの罪悪感を拭えるって思っとんねん」
「えっ……」
オレンジの髪が波打つほど勢いよく、アルフは真守の顔を仰ぎ見る。戸惑うような、期待するような、複雑な顔色を浮かべていた。
おそらく本人すら把握しきれていないアルフの表情から、真守は絡み合った難解な心情を読み解いていく。
「徹が偉くなっても関係ないやん?罪悪感っていう感情がすぐに消せるわけあらへんし、アルフちゃんと約束してるわけでもあらへんのに。……せやけど、徹はアルフちゃんに元気になってもらいとおて努力しとる。その頑張りだけは、汲んだってほしいなぁ」
「……でも、でもっ、あたしは……っ」
真守の重ねた手が、アルフを感じ取る。手の震え、体温、脈拍。かすかな心の変化を、気持ちを感じ取る。
確信を得た真守は、詰めにかかる。
「アルフちゃんは、徹のそばにおられへんって言うけど、ほんまにそうなんかな?」
「そ、そう……そうだよ。あたしには、徹の隣に立つ資格は……」
「そのわりには、リンディさんに連れられてフェイトちゃんと一緒にきとる。自分で気づいとらんかった?辻褄が合うてへんことに」
真守はあえて、触れにくい部分に踏み込んでいく。アルフの心に揺さぶりをかけていく。
「そ、それは……あたしは、フェイトの使い魔、だから……」
「使い魔、かぁ……。うちはその使い魔っちゅうんがどういうもんなんかはっきり知らんけど、フェイトちゃんの性格考えたらアルフちゃんについてくるよう無理強いせぇへんやろ」
「……わ、わがまま言ったらリンディ提督にも迷惑かかっちゃうし……」
「リンディさんと喋ったけど、優しゅうて親身になってくれる人やった。本気で徹の顔も見られへんねやったら、リンディさんに相談したらどうにか配慮してくれたはずやで」
「これまでもいっぱいお世話になったのにこれ以上なんて、だから……」
「それは、どっちなんやろなぁ。心の底からそう思ってんのか、心の底からそう
「っ……あ、たしはっ……」
「うちは言うたやんな。罪悪感……罪の意識とかの強い感情が、そう簡単に消せるわけあらへんって。それと同じやってんやろ?」
「ち、がう……ちがっ」
「もうええんや、誤魔化さんでも。自分を傷つけて、自分を騙さんでも」
必死に否定するアルフを、真守は抱き締めた。アルフの頭を胸に抱き寄せて、優しく撫でる。言葉をかける。
「そうやんなぁ……。罪悪感が簡単に消されへんのと同じように、好きっていう感情も簡単には捨てられへんやんなぁ……」
離れたかった。だが、離れられなかった。離れたくなかった。相反する感情の
「ぁ……うあぁ……っ」
固く握られていたアルフの手が、ほどけていく。ぽろぽろと涙が溢れる。アルフは真守の背中に手を回して、
「好きってくらいに感情が強なかったら、顔も見られへんほど悩んだりせぇへんもんなぁ。つらかったなぁ、苦しかったやろう……これまでようがんばったな」
「ごめん、ごめんなさいっ……。あたしは結局……自分の気持ちしか、考えてなかったんだ……っ」
しゃくりあげながら懺悔するアルフを、真守は包み込むように抱きながら慰める。少しずつ心の奥底に溶けて染み渡るように、ゆっくりと。
「自分のことを大事にすんのは悪いことやない。それは正しいことや」
「でもっ、ぐす、あたしは徹に傷を負わせたのに、その罰も受けないで……ひっく、のうのうと徹のそばにいようとしてっ」
「自分を大事にできて、初めて人を大事にできるんや。アルフちゃんは自分を大事にした。それやったら、今度は人を大事にしたらええんや」
「そんなの……罰も償いもしてないよっ」
「罰を受けるのは自分が楽になりたいだけやろう?償いは誰のためにするんや?」
「っ……うっ、うぇっ……」
「アルフちゃんが罰を受けても、誰も得せえへん。徹も悲しむ。そんなん、ないほうがまし。そうやろ?」
「っ、ぐすっ……うん」
「せやったら、人のために動くほうが有意義や。アルフちゃんは、徹から大事にしてもらったんやろ?」
「うん……。あたしのせいで力を失ったのに、あたしを……ひっぐ、慰めてくれたんだ……」
「ほんじゃ、次はアルフちゃんが徹を大事にしないとあかんやんな?徹は管理局でめっちゃがんばって結果出して、アルフちゃんを元気にしようとしとる。あほな考えやけど、一生懸命や。そのがんばりを受け入れるのが、徹への償いになる。欲のない徹にアルフちゃんが唯一できる償いや」
「そんな……と、徹ばっかりがんばって、あたし、あたしは……」
あくまでもけじめを欲しがるアルフに、真守は下す。
噛み合うことのなかった徹とアルフの歯車が、いずれ噛み合う日が来るように、二人の未来に救いがあるように。
「罰を与えへんことがアルフちゃんへの罰や。しっかりと、噛み締めなさい」
*
翌日、暑くて目が覚めた。
「こうもくっつかれてりゃ、そら暑いわ……」
寝返りを打ったみたいで横向きに寝ていたのだが、背中にはフェイトがくっついていて、正面からはアリシアが俺の腕を掻い潜るようにしてもぐり込んでいた。
それもこれも昨日の夜、姉ちゃんがごねたのが原因だ。俺は自分の部屋で寝ようとしていたのに、アリシアが一緒に寝たいと言い出し、アリシアが作った流れにフェイトが控えめに乗っかり、徹ばっかりずるいと物言いをつけた姉ちゃんの意向で、以前アリサとすずかが泊まった時と同じようにリビングに布団を敷いて並んで寝たのだった。
「こいつ、よく姉ちゃんから逃れられたな……」
俺と姉ちゃんの間に並ぶ形でアリシアは寝ていたのだが、アリシアは前のすずかのように姉ちゃんの触手に囚われていなかった。
姉ちゃんを見ると、丸められたタオルケットを抱いていた。姉ちゃんの分はすでに身体に掛かっているので、おそらく姉ちゃんが抱いている分はアリシアのものだろう。もしやアリシアは、姉ちゃんに捕獲されないようタオルケットを身代わりにしたのだろうか。なかなかに策士だ。そのアリシアは、肌寒くなったのか俺にひっついているが。
「起きないといけないんだけどな……用事もあるし」
起きようにも起きられない。なんなら前後でくっつかれているので動くこともできない。よくこんな状況で眠れたものである。
「アリシアー、起きろー」
アリシアの頭をわしゃわしゃっとする。昨日の夜、姉ちゃんが手間をかけたのだろう。異様に艶のあるさらさらとした長い金髪を、寝返りで踏んでしまっていないか不安になる。
「……ん、んー……んに」
頭をかいぐり撫でていると、アリシアは一度うっすらと目を開いて、俺の顔を見てふにゃっと頬を緩めて、俺の胸元に顔を埋めるように再び眠りに落ちた。
「一瞬起きたろ、また寝ないでくれ」
「やー……まだ、ねる。パパと一緒にねる……」
「今日は出かけなきゃいけないって言ったろ?起きてくれ」
「うー……うー!」
「
しばらくくっついてもぞもぞしていたが、やがて諦めたのか布団の上でぺたんと座った。まだ
次だ。
「フェイト、フェイトー……」
「…………」
「……熟睡してる」
フェイトとアリシアで性格その他諸々に違いがあるのは知っていたが、寝方も姉妹で違うというのは興味深い。
アリシアがぐいぐいと懐にもぐり込むのに対し、フェイトは俺のTシャツをちょこんとつまんで、反対側の手は自分の胸元に置かれている。実に慎ましく、いじらしい。
もうちょっとフェイトの油断しきった寝顔を盗み見、もとい、拝んでいたいが、今日の用事というのはフェイト絡みなのだ。一番起きてもらわないといけない。
肩が外れそうになりながら手を後ろに回してシャツをつまんでいるフェイトの手を握って離し、反転してフェイトのほうへ向く。
起こさないといけないのだけれど、なぜか憚られる。
フェイトの顔にかかる一房の髪を払う。そうしてみて一つ知ったのだが、どうやらフェイトはアリシアより寝覚めがいいらしい。
「と、とお……る?」
「あ、おはようフェイト」
「あ、う、わ……っ」
起きてしまわれた。
寝顔を見られていたのが恥ずかしいらしいフェイトは赤くなった顔を隠すために、俺のみぞおちあたりに小さなお顔を押しつけた。そういえばフェイトは前にもこんな照れ隠しをしていた。羞恥に耐えられなくなった時の癖なのかもしれない。絶対こっちのほうが恥ずかしいだろうけれど。
「あー!フェイトなにしてるのー!まったく、フェイトってば甘えんぼだねー」
「アリシアがよく言えたもんだな……」
「わたしはもう起きてるもーん!ほらフェイト!れでぃなら身だしなみをちゃんとしないと!髪はねてる!」
「お前の頭は跳ねてるどころか爆発してるけどな」
まあ俺がくしゃくしゃっと撫でたせいだけれど。
「もう!パパリテラシーなさすぎ!」
「……へー、難しい言葉知ってるな」
読解応用力とかそのへんは今一切関係ないので、おそらくデリカシーと言おうとしたのだろう。難しいことを言おうとして、間違えながら更に難しいことを言うとは器用なやつめ。デリカシーよりもよっぽど聞き馴染みのない言葉だろうに。
「フェイト!起きて!」
「わっ、アリシアっ……」
「ほら、行くよー!」
寝転がったままのフェイトをアリシアが強引に手を引いて立たせるや、朝っぱらなのに元気いっぱいに洗面所まで走っていった。
「……朝飯、作るか」
白い肌と金色の髪を惜しげもなく晒して駆けていく二人の後ろ姿は、なんとも心ときめく光景だった。
俺もようやく立ち上がって、そして気づいた。
「……いい匂い」
味噌汁と、魚の焼ける香ばしい匂い。古式ゆかしい日本の朝の匂いだ。
「徹、起きた?もうすぐ朝ごはんできるよ。もうちょっと待ってて」
「お、おう……」
キッチンに、俺以外の人が立っている。それだけでも珍しいことだが、それが
「朝ごはん、作ってくれてたのか。……アルフ」
「まあね。あたしにできることってこのくらいだし」
長い髪が邪魔にならないようにとの配慮だろう。ボリュームのあるふわふわとした髪は頭の後ろで一つにまとめて、いつも俺の使うエプロンの色違い(一応姉ちゃんのものとしてだいぶ前に購入したほぼ新品の淡い青色のエプロン)を着ている。
「冷蔵庫にある材料勝手に使わせてもらったんだけど、大丈夫?」
「あ、うん、ぜんぜん大丈夫。使わないと傷んじまうし」
「そっか。それならよかった」
窓から射し込む朝日が、気恥ずかしそうに微笑むアルフを照らしていた。
「……ああ、いいなぁ……」
口の中で、絶対外に出ないように小さく呟いた。
もう二度と、こんな風には喋られないと思っていた。もう絶対、こんな姿は見られないと思っていた。
それが今、実現している。すべてが氷解したわけではないけれど、こうして普通に過ごす姿を、それどころか食事を作ってくれている姿を眺めることができている。それだけで、救われたような気持ちだ。
朝一から緩みそうになる頬と涙腺をきつく締め直して、俺もキッチンへ向かう。手を洗って、隣に立つ。
「わり。手伝うわ」
「座って待っててくれてもいいんだよ?もうすぐできるし」
「いや手伝いたいんだ」
「そう。それじゃあ、他はできてるからサラダをお願い。あたしは洗い物片付けとくよ」
「了解」
かちゃかちゃと皿が擦れる音と野菜を切る音が続いた。テレビもなにもつけていないので実に静かだ。
おかげで、一階から聞こえるフェイトとアリシアのやり取りや、夢にまで美少女姉妹が遊びにきているのか姉ちゃんの不穏な寝言がキッチンにまで聞こえる。
「ふふっ。お姉さん、寝ていても幸せそうだね」
「フェイトやアリシア……アルフたちがきてからずっと表情筋が緩みっぱなしだからな。寝てても気持ち悪いとは」
「そんな言い方したらだめだよ。お姉さんのおかげで……
「これでも感謝はしてるんだ……一応な」
「だろうね。徹が砕けたこと言う相手は親しい人に限られてるもんね」
「そういうこと言われると恥ずかしいからやめてくれ」
昨日の夜、姉ちゃんとアルフが姉ちゃんの自室で喋って戻ってきた後のこと。
気を利かせて姉ちゃんがフェイトとアリシアを風呂に連れていってくれたおかげで、俺とアルフは二人で話す機会を得た。そこで、もう一度しっかりと話をした。
俺もそうであるようにアルフにも譲れないところがあったけれど、妥協点を探して、考えがすれ違っているところはすり合わせて、お互いの気持ちを再確認した。着地点を見つけようと、努力した。
そうして話をしていく過程で、俺が管理局で成果をあげてアルフの罪悪感を晴らそうとしていたことを、姉ちゃんがアルフに喋ったことを知った。実に頭を抱えたくなる恥ずかしさだったが、そこまで知っているのならもういいやと割り切って、姉ちゃんに考えが甘いと叱られたことを伝えた。
するとアルフも、誰の為の罰で何の為の償いなのだと、姉ちゃんに厳しく指摘されたと聞かされた。自分が楽になる為の罰で、自分が救われる為の償いでしかないと、アルフはそう自覚したらしい。
「『罰を与えないことが罰』か……。ほんと、姉ちゃんらしいよな……」
優しいだけじゃなく、厳しさも併せ持つ姉ちゃんらしい落着点だと、痛感する。
アルフには、俺の近くにいることさえ辛くて苦しいのに、俺の手伝いをさせるように
俺にはアルフの罪悪感を拭えるくらいに管理局で結果を残すという、正解がどこにあるかわからない課題を下ろさせないようにする。
現時点では、お互いに救われない。でもいずれ、将来的に救われる可能性は存在している。
拒絶するだけの
まっとうな関係に戻るための環境を、姉ちゃんは整えてくれた。俺とアルフ、両者が努力しなければいけない余地を残した。努力で埋められる余地を、作ってくれた。
姉ちゃんが狙ってこんな中途半端な、さりとてこれ以上ないくらいの絶妙な距離感を演出したのだとしたら、俺は一生姉ちゃんには敵わない気がする。
まだ少しぎこちなさを残す会話をしながら、俺はサラダを人数分作り、アルフは洗い物をしまっていく。下から二人の足音も聞こえてきた。
「これで……一応はオッケー、だな」
「うん。あらかた片付いたよ」
俺はサラダをトレイに乗っけて、アルフは濡れた手を拭う。
どちらともなく顔を見て、目線があった。
「……あー」
「ん……」
お互いに言い争っていた時の記憶が鮮明なぶん、こうしてゆったりとした時間を一緒に過ごすのが
きまりが悪くて、俺もアルフも照れ隠しに笑った。
そして、俺は手を伸ばす。
「えっと、改めて言うのもなんだけど……これからよろしく、アルフ」
「っ……うんっ。よろしくね。徹」
以前振り払われた俺の手は、今度はしっかりと握られた。
こうして、一度終わった俺たちの新たな関係が始まった。