「……あっつ……」
寝覚めは決して良いとは言えなかった。
ベッドまで連行した形のまま両脇に居座ったなのはとアリサに腕を枕代わりとして使われているし、体温が比較的高い子どもがくっついているせいで平熱の俺からすれば多少暑苦しい。寝返りも満足にできない不自由さと、暑さによる寝苦しさ。
加えて。
「ん……ん。すぅ……」
「よく寝てられるな……寝づらくないのか」
俺の上で規則正しい寝息を小さな口からもらしているすずかの重みもまた、少々困った点である。
昨日、ベッドに入る前、どこに寝るかと言う段階で話がこじれた。
普通に寝転がれば隣につけるのは二人のみとなる。必然的に誰か一人が隣にならなくなってしまうのだ。
そこですずかから提案されたのが、俺の上で寝るという常軌を逸した奇抜なアイデアだった。これは前にやった天体観測の時の体勢から着想を得たのだろう。どこに注目しても問題があるが、他に案はないということで通ってしまった。
そんなこんなで、賭けに勝ったすずかが俺の上で寝ていた。枕として使うにはどう考えても不適格な俺をどうして枕に利用しようとしているのかは
「ふぁ……ぁむ」
まだ早い時間だが、もぞもぞと動く気配があった。
器用に俺の上で眠ってたまに顔を首元にこすりつけてくるすずかではなく、俺の腕を抱き枕にしてコアリクイの赤ちゃんばりにひっしとくっついているなのはでもない。
腕の付け根あたりに小さな頭を置いて、俺のTシャツを握っていたアリサだった。
平日だけでなく休日も早起きする性分なのか。そういえば俺の家に泊まりにきた時も俺の次に起きるのが早かった。
「もう、朝……」
「おはよう、お嬢様」
「あ、徹……。あいかわらず起きるのはやいわね……ふあ、あふ」
「いつもこのくらいの時間で起きてるし、今日はこんな感じだからな」
「……ああ、そういえばそうだったわね」
まだ眠たげに目をこすったり俺の腕に顔を押しつけたりしながら、アリサは視線をすすっと俺の上あたりに移す。そこには夢の世界に旅立ったままのすずかが、鏡餅の一番上のように、のぺっと俺に乗っかっていた。
「わたしやなのは以外でこんな油断した顔するなんてね」
「気の抜ける環境があるのはいいことだ。それが男の上ってのはどうかと思うけど」
「ふふっ、徹の近くは安心できるからね」
「不安になるよりかましだろうけど、動けないってのがどうにもな……」
「あははっ、すずかは朝弱いからこんな時間じゃ絶対起きないわよっ。……あ」
俺の腕に頭を乗っけたまま乱れた髪を整えていたアリサが、すずかやなのはを起こさない程度の声を上げた。起き抜けだというのに、悪戯っぽくにやりと笑みを作る。
嫌な予感しかしない。
「ふっふーんっ、ケータイっ、ケータイっ」
やっぱり恐ろしいことを計画していた。
この現状をデータに残されたら一大事だ。俺の人生においての大惨事だ。
「こら、こらこらこらっ……やめなさいお嬢様。いえ、やめてください」
「こら徹、動いちゃだめでしょ。なのはが起きちゃうし、すずかが落ちちゃうわ」
「それなら携帯に収めようとすんな」
「わたしは楽しいことを自発的に求めてるだけよっ」
「それ自体はいいことだけどっ、俺に被害がもたらされるんだよっ」
「ふんっ、ほとんど動けない徹なんて恐るるに足らずっ」
「絶対にさせないっ……ただでさえボイスレコーダーで厄介なの録られてるんだからな!」
「きゃっ、乱暴しないでっ!」
「声がでかいっ……あと不適切な言いかたをするなっ」
「なによ、ほんとじゃない。乱暴に頭を引き寄せたんだから。あ、でも強引にされるのもなかなかいいわね」
「いいのかよ……」
「ほら、そろそろ放しなさいっ。記念写真を残せないでしょっ」
「残さなくていいんだよ残されたら困るんだよっ」
ベッド脇にあるアリサちゃんの携帯まで取りに行かせないように、黄金色の頭を首元まで引き寄せる。もぞもぞと抵抗するが、女子小学生の力で俺の拘束から抜け出せるべくもない。
「もうっ、かくなる上はっ……」
これで一安心かと気を緩めたその一瞬の隙に、アリサはあえて近づいた。
「……ちゅ」
「んっ?!」
俺の頬に、軽く口づけした。
予想外の手を思いつくことに定評のあるアリサのさすがな切り返しの一手に、一瞬頭が真っ白になった。
「隙ありっ」
「あ、くそっ……」
俺が面食らったその間隙を突き、アリサは拘束から抜け出した。
そういえば、アリサは勉強だけでなく運動もできると聞いたことがある。その恵まれた運動神経を、早朝のベッドの上だというのに無駄に
俺の腕を払うや、そこからもう一度捕獲されないようにと俺の腕を小ぶりなお尻で踏んづけた。
「ちょっ……アリサっ」
「お嬢様」
「お嬢様っ、ずるいだろこれはっ」
「ずるくないわよ。武器だもの、女の」
「今からそんな生き方してたらろくな大人にならないぞっ。忍みたいになるぞっ」
「忍お姉さんみたいになれるんならこれからもこのまま突き進むわ。パパからも教えられてるもの。交渉は、たとえ少しくらい強引でも自分に有利な形に持っていくのが大事だって」
「そもそも小学生に教えるようなことじゃないってのをまず言わせてもらうけど、バニングスさんも絶対そういう意味で言ったんじゃないからなっ」
「とにかく、徹。動いちゃだめよ?女の子の身体は繊細なんだから」
「繊細ならそんな使い方すんな!」
「大声出したら二人が起きちゃうわよ。しー、よ……ふふっ」
「こ、このっ……」
「ふふーん、ふーんっ」
鼻歌交じりにケータイに手を伸ばすアリサを、俺は止められない。
片手はお尻で踏まれ、片手はなのはに抱きつかれ、お腹の上にはすずかが乗っている。そのせいで身体を傾けることもできない。
正直なところアリサくらいなら片手でも簡単に持ち上げられるけれど。
「ひゃんっ!……ちょっと、徹。いたずらにしては度が過ぎてるわよ。デリカシーに欠けるわ」
「デリカシー云々言うんなら股で挟むなよ……」
アリサ言うところの『女の武器』のせいで、力づくで腕を動かすこともできない。完全に罪だ。いや違う、詰みだ。
「はい、持ってきたわよ。ふふっ、みんながフレームに入るようにしなきゃね」
「……頼むからさ、それを誰にも見せないでくれよ。とくに忍あたりには」
「大丈夫よ。ただの初お泊り会の記念写真、思い出作りだもの」
にこにこ顔でケータイを持ってきたアリサが、いろいろ諦めた俺の顔のすぐ近くまですり寄って携帯を持ち上げる。画面には普段より険のある見知った顔の男が映り込んでいた。というか俺だった。
さーん、にー、いーち、とカウントダウンしていたがゼロのタイミングでアリサがこっちを向いた。
「これはおわびよ」
「なっ……」
ちゅ、と再びアリサが俺の頬にキスをした。
アリサはお詫びと言っていたが、元から危険な一枚をさらに危険な代物に昇格させただけである。
このあと、画像データが俺の携帯に送られてきた。
すぐ近くで眠る可憐な女の子二人と、一人にキスされている強面の男という、稀に見る凶悪な一枚だった。
*
「なんで起こしてくれなかったのっ!そんな楽しそうなことずるい!」
「だって、なのはったらぐっすり眠ってたじゃない。最後のほうなんてけっこう騒いでたのに」
「たしかにばたばたしてたよな。よく起きなかったもんだ」
「だって、気持ちよかったんだもん……」
「あー。たしかにベッドふっかふかだったよな。あれは熟睡しちまうわ」
「……んーっ、もうっ!もうっ!」
「なに、なんだよ……叩くなって」
「寝顔見られちゃった……はずかしい……」
「すずかは寝る前も寝てるときも相当だからいまさら寝顔くらいどうってことないわよ」
「ね、寝る前ってなに?!わたしなにかやったの?!記憶がもやもやしててあんまりおぼえてない……」
「わたしとなのはを裏切って抜け駆けしようとしてたわ」
「なにしてるのわたしっ?!」
「お、おぼえてないんだね……」
「寝ぼけてたしな。……さて、次はどこにいくんだ?」
「そうね。そろそろ夏も近いし、夏物見ておきたいわね」
太陽が真上から少し傾いた頃、俺たちはバニングス邸から場所を移し、ショッピングにきていた。
アリサが発案して、他に行きたい場所もなかったので俺たちはそれに続いた形だ。当然なのだが、行く店行く店女の子っぽさが前面に押し出されていて、居づらいことこの上ない。
「徹さん、荷物重くないですか?」
寝顔を見られたことで赤くなっていた顔が元に戻ったあたりで、すずかが後ろから声をかけてきた。
こうして気にしてくれるあたりが、すずかのいいところである。
「おう。大丈夫だぞ、このくらい」
「でも、結構な量に……」
「心配すんな。百キロまでは重さじゃないってのが俺のキャッチコピーだからな」
「そんな、百人乗っても大丈夫、みたいな……」
お店からお店の移動中、細い道を通るので、歩行者の邪魔にならないようなるべく縦になって歩いていた。
前を歩くなのはとアリサの後ろ姿を眺めていると、すずかが思い出したように切り出してきた。
「あ……そうだ。お昼ご飯、おいしかったです」
「ん?いきなりどうした?」
「い、いえ、あの……ちゃんとお礼言えてませんでしたから、言っておこうと……」
「はは、わざわざありがとな。嬉しいよ」
すずかははにかむように顔を伏せた。
手が空いていれば頭を撫でたくなる仕草だったのだが、残念なことに俺の両手はお嬢様たちの購入した服やら靴やら小物やらで塞がっているのであった。
「昨日の晩に絶品の料理を頂いたからな、印象薄れるだろ?順番が逆ならなー」
「そ、そんなことないですっ。確かに昨日の晩ご飯もすごくおいしかったですけど、徹さんはわたしたちの好みにあわせて料理を作ってくれて……なんというか、こう……心がこもってました!」
「心、か……そう言ってくれるとなんだか嬉しいけど、でもちょっと打算もあったから、ちっと心苦しいな」
「打算、ですか?」
「ほら、普通に作ったら北山さんの料理には敵わないからさ、好物で攻めれば喜んでもらえるかなーって。ちょっとずるいよな」
今日の昼食は、昨日アリサに命じられた通り俺が腕を振るった。
ただ、名料理人北山さんが作った晩御飯のイメージが抜けきらないまま、すぐに作らなければいけなかったことが不運だった。どうにか記憶に残る料理にしようと思って各々の好物を作ったという、狡っからい計算である。
「ずるいなんて、そんなことないです!だって、わたしたちに喜んでほしいって思って、徹さんは一生懸命作ってくれたんですから……ずるいなんて、そんなことないですっ」
半ば怒るように激しく、俺をまっすぐ見つめてすずかは言った。
なぜそんなに必死そうに反論するのか、当人である俺にすらわからないが、その姿にはとても胸を打たれた。
「あははっ、俺よりもすずかのほうが一生懸命になってるぞ」
「だ、だって……徹さんがへんなこと言うから……」
「ははっ、くくっ……あははっ」
「ちょ、ちょっと……笑いすぎ、ですよ……」
「ごめんごめん。ああ、そうだ。また今度、もう一回作ることになると思うからさ、その時はすずかもどうだ?食べてくれるか?」
「はいっ、ぜひ!……もう一回作るんですか?」
「ああ。本来振る舞うはずだった鮫島さんが不在だったからな」
今日も今日とて鮫島さんは、バニングスさんの会社で起こったごたごたの収拾のために奔走しているようだ。アリサが言うには、新たな問題が見つかったらしく、今日はまだ鮫島さんの姿すら見られていないほどだ。
「あ、そうか……。ふふ、アリサちゃんが言ってました。鮫島さんは徹さんの料理をすごく楽しみにしていたそうですよ」
「そいつは嬉しいことを聞いたな。次は食材から自分で揃えて頑張るとしよう。しかし……タイミング悪いよな。バニングスさんの仕事が忙しいんだから仕方ないんだけどさ」
鮫島さんの忙しさは凄まじく、お嬢様を送ることもできないほどだ。なので、バニングス邸から街までの足も懇意にしている会社のハイヤーを使った。移動手段に公共交通機関ではなく迷いなくハイヤーを選ぶあたり、生まれの違いを見せつけられている気分だった。
「前、塾から帰る時も鮫島さんの代わりに徹さんがきてましたし、ずいぶんトラブルが長引いてしまってるんですね」
「大きい会社なもんだから、事態も大きくなってんのかもな……」
言われてみれば、そうだ。先週からずっと、トラブルが続いている。一つのトラブルがここまでずっと尾を引いているのか、それとも別のトラブルなのか。
本来はアリサの執事である鮫島さんまで出張らなければならないほどのトラブルが発生し続けるというのは、ありえる話なのだろうか。
「……いや、実際に今起きてるわけ、だし……」
「ど、どうしたんですか……徹さん?」
何か、小さな違和感を、かすかな胸騒ぎを、不意に感じた。
先週、鮫島さんに、アリサとすずかを迎えに行ってほしいと頼まれた時、鮫島さんはなんと言っていたか。
迎えに行った帰り道、なにがあったか。
会社のトラブルが長引いた結果、常に執事としてアリサを送迎・警護していた鮫島さんが現状、アリサから離れざるをえなくなっているのは偶然か。
まだある。一度考え始めれば、次々と思い当たる。
俺とアリサが出逢うことになった原因の事件、あれを仕掛けてきた輩はどうなったのか。状況から推察するにどうやらバニングスさんの会社に関わることだったようだが、その問題は解決したのか。
点でしかなかった事実が、頭の中で徐々に繋がっていく。
推測を続ける俺の耳にエンジン音が入ってきた。遠くから、どんどん近づいてくる。
「あ、大きいトラック……なのはちゃーん、アリサちゃーん、危ないから端に寄って……」
「……トラック?」
日曜日だと大通りは買い物客でごった返す。身体の小さなアリサたちだと歩きにくいし、はぐれる可能性もある。それに人混みの中から不逞の輩に接近されると気づくのが遅れるという理由もあって、今は大通りから一本裏に入った細い道を歩いている。
人が歩いていると普通自動車も通るのに難儀しそうな、そのくらい細い道路だ。
アパレル関係の店舗が軒を連ねるこの周辺で、重機を積載している大型トラックが、わざわざこんな細い道を選んで通るのだろうか。
「……もし、かして……」
あたりを見渡してみる。
近くで工事しているような場所はないように見える。
だが、違うことを確認できた。
日曜日の昼過ぎというのに、この周辺は、
そして、もう一つ。俺たちの後ろから走ってくるフルスモークのバン。やけに、速度が遅すぎやしないだろうか。
スイッチが警戒に切り替わり、鋭敏になった神経が不安材料を叩き上げる。
だが、遅きに失した。
大型トラックのエンジンが唸る。ギアが上がるのがわかった。
タイヤがアスファルトを噛む。甲高い音が響いた。
「なのはっ、アリサを!すずか、ごめん!」
持っていた荷物を頭上に放り、俺の隣にいたすずかと俺の前にいたアリサを押す。なのはの名を呼んだのは、突き飛ばしたアリサを受け止めてもらうためだ。すずかに謝ったのは、勢いよく押してしまったせいでおそらく転倒してしまうからだ。
アリサとすずかを突き飛ばしたのは、唐突にこちらに突っ込んできた大型トラックに巻き込まれないようにするためだ。
「……っ」
アリサとすずかを大型トラックの危険域から追い出すことはできた。
だが、ここで時間切れだ。
視界の全てがトラックで埋め尽くされている。
今から回避は間に合わない。ここから逃げることは、もうできない。
「…………くそっ」
逃げる時間はなくとも、簡単な障壁を作る隙間くらいはあった。
あったのに、
魔法の存在を知られてはならない。その大原則が、魔法の発動を妨げた。その刹那の逡巡が、分水嶺だった。
次の瞬間、脳を直接殴りつけるかのごとき轟音。
衝撃と、激痛。
上下も知覚できない激流に呑み込まれるような感覚。
背後にあった建物の瓦礫と充満する砂埃が降り注ぐ中、俺の意識は暗闇に沈む。
俺は、選択を誤った。
シリアスパートがアップを始めました。