そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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冤罪

『ふーん、そういうことね。まあこっちも急用が入った鮫島さんの代わりに徹が迎えに行ったってことは聞いてたから、心配はしてなかったけど。……でも、もうちょっとはやく連絡できなかったわけ?』

 

「悪いって。晩飯とか作ってたらタイミングを逃したんだ」

 

強硬な姉ちゃんの意志によりお風呂にアリサちゃんとすずかを連行している隙に、俺はすずかの家の者に、つまるところ月村忍に連絡していた。

 

心配していなかった、などと強がってはいるが、子煩悩ならぬ妹煩悩な忍はやはり心配していたようだ。連絡が遅れたのは全面的に俺の不手際なので謝るほかない。

 

『真守さんに迷惑にならないんなら、すずかを泊めさせてもらっても私は全然構わないんだけどね。今日、うちに綾ちゃんたちが泊まりにきてるし』

 

やはりお迎えにノエルさんが来れなかったのは、鷹島さんや長谷部、太刀峰が月村邸に泊まっていたからのようだ。

 

「姉ちゃんがすずかの迷惑になりそうで俺は心配だけど」

 

『そんなこと言わないの。久しぶりに顔見れて嬉しいんでしょ』

 

「姉ちゃんはすずかのお婆ちゃんかよ」

 

『くふふっ……やめてよ。ってもう、話はそっちじゃなくて』

 

忍は一度間を置いて、話を区切った。

 

『……なんですずかを泊めようと思ったの?』

 

「……あれ、もしかして俺疑われてる?」

 

『は?……ああ、そういう……。ばか、ちがうわよ。真面目な話。なんか話に整合性がないっていうか、あんたの挙動が不自然っていうか』

 

「は、はぁ?不自然ってなんだよ」

 

『明日も平日じゃない。わざわざ今日を選ぶ理由はないのよね。時間に余裕のある別の日に改めてやればいいのに』

 

「…………」

 

すずかと一緒にアリサちゃんも泊まりに来ているということは伝えているが、怪しげな輩に尾けられていたことは伏せている。不必要に不安がらせることはないだろうと判断した。

 

だが、情報を伏せたぶん、辻褄が合わないというほどではないが俺の行動に違和感が残る。付き合いが長いとこういう細部で鋭く気づいてしまうので大変困る。俺の考え方を把握されているのだ。

 

『それに、なんだかかぶるのよねー。真希ちゃんや薫ちゃんを泊めた時と』

 

「…………」

 

『もしかして、なにかあったの?』

 

以前、魔法関連の隠し事を全部打ち明けた時、長谷部と太刀峰の件の話もした。その際、内容が内容だったのでところどころぼかしながら語ったわけだが、意図せずその時と似たような語り口になっていたようだ。それにしたってその結論に辿り着くのが早すぎる。

 

「……いや、すずかには……ああえっと、もちろんアリサちゃんも絶対に怪我なんてさせないから大丈夫だ。安心して……」

 

『こんの……ばかっ!なんでこういう時にあんたは自分を外すのよ!』

 

「っ……す、すまん」

 

『……私もごめんなさい。言いすぎたわ。……あ。と、徹、ちょっと待ってて……』

 

「お、おう。わかった」

 

電話の向こうから、忍ではない声がうっすらと聞こえた。そういえば、忍の家には鷹島さんたちが泊まりに来ているのであった。

 

音に集中すると、遠くで鷹島さんの声が聞こえた。何があったのかと狼狽(うろた)える鷹島さんと、鷹島さんを(なだ)める忍。

 

少しして、若干の風の音と木が軋むようなノイズが入る。そのあと、忍の声が通常の音量で帰ってきた。

 

『待たせたわね。もういいわ』

 

「鷹島さんたちと同じ部屋にいたのかよ。そりゃ鷹島さんなら、あれだけ忍が声荒げたらびっくりしちゃうよな」

 

『…………』

 

忍はしばし黙って携帯を操作しているような、がさがさ、というノイズの後、忍が恐る恐るといったふうに言った。

 

『……あんたどこかから見てるわけじゃないのよね?』

 

「見えるわけねえだろ」

 

『だって、綾ちゃんがいることはまだしも、部屋を出たことまであてるもんだから、変なアプリでも使ってカメラのレンズから盗み見てるのかと』

 

「するかよ、そんなこと」

 

『できない、とは言わないのね』

 

「こっ、言葉の綾ってもんだろうが。揚げ足とんな。それっぽい音が聞こえただけだ、安心しろ」

 

やろうと思えばできそうだな、とちょっと本気で考えてしまった。

 

『そ。ならいいわ。それじゃ、帰り道になにがあったか、話しなさい』

 

「……はぁ。俺も相手が何者かなんてわかってねえから、ちゃんとしたことは言えないぞ」

 

やけにしつこく聞いてくるので、知っていることを報告した。これ以上隠そうとしても、かえって心配させるだけだろう。

 

塾の前で二人と雑談していた時点で、すでに怪しげな男がビルの近くを張っていたこと。追ってきたのでゲームセンターで撒いたこと。加えて、未遂で済んだがちょっと前にアリサちゃんが誘拐されかかったことも。

 

アリサちゃんに無断で忍に教えるのは少々躊躇(ためら)われたが、忍なら誰彼構わず風聴するようなことはない。そのあたりの口堅さは信頼している。

 

『……そう。なるほどね』

 

俺も件の怪しい男たちについて詳しく知っているわけではないので、それほど話に密度はなかったけれど、全部話し終えた忍の第一声がそれだった。

 

「…………」

 

付き合いが長いからこそ、忍が俺の話に違和感を感じたのと同じように。

 

付き合いが長いからこそ、俺も忍の返事におかしなニュアンスを感じた。

 

ストーカー疑惑や誘拐未遂などの物騒な話を聞いて、まるで安堵した(・・・・)ような声の響きだった。危害を加えられなくてよかった、とか、誘拐が未遂で済んでよかった、なんていうトーンではない。

 

「忍、お前、なにか知ってんのか?」

 

『怪しい奴らのこと?ううん、知らないわ。でも素性は知らないけど、最近似たような事件、というか事案かしら?そういうのは耳に入ってるわ。粗暴な男に声をかけられたり、絡まれたりとかね。こっちでも調べて……』

 

「そうじゃなくて、お前の耳には今回の件とは違う話も入ってたんじゃないのか?なんて言うか……こう、声の調子がおかしかったっていうか……なにか隠してるっていうか」

 

『…………』

 

「……なんて言ったらいいかわかんねえや」

 

『……はは、なによそれ』

 

「まあ……いいや。なんかわかった時は教えてくれ」

 

『ええ……わかったわ』

 

「サンキュ。……あとこれは戯言として聞き流してくれてもいいけど……どうにもならないことがあったら、どうにもならなくなる前に言ってくれよ」

 

しばし沈黙があって、やがて諦めたような色合いの吐息と小さく微笑むような声が届いた。

 

『ふふっ。付き合いが長いって、いいことばかりじゃないのね』

 

「奇遇だな。ついさっき、俺もまったく同じことを嘆いたところだ」

 

『……ありがとね、徹』

 

「なんの感謝かわかんねえよ。言いたいことはそんだけ……っと、言い忘れるとこだった。明日の朝、すずかを迎えにきてもらえるようにノエルさんに伝えておいてくれ」

 

『はあ……締まらないわね』

 

「今に始まったことでもないだろ」

 

『それもそうだったわね』

 

「馬鹿二人の面倒と鷹島さんのお勉強の相手、がんばってくれ。そんじゃ、また明日な」

 

『あ……ま、待って!』

 

おやすみ、と締めくくって切ろうとした寸前、忍の制止が入った。

 

『えっと……すぐには無理かもしれないけど、いつか折を見てちゃんと話すから、それまで待っててもらっていい?』

 

「つい最近、俺もみんなに隠してたことがあったんだ。それなのに、お前に今すぐ全部話せなんて言わねえよ」

 

『ありがと。ねえ、徹』

 

「次はなんだ?」

 

『すずかのこと、よろしくね』

 

「は?……ああ、一応わかってるつもりではあるけど……」

 

『それならいいわ!明日は遅刻しちゃダメよ。ただでさえ先生方によく思われてないんだから。私、徹に忍先輩とかって呼ばれたくはないわ』

 

「なんで留年してる想定なんだ。今日だって、べつに遅刻したくて遅刻したわけじゃないし、教師たちからも嫌われたくて嫌われてんじゃねえんだぞ」

 

『あらあら、ごめんあそばせ。ふふっ』

 

「……楽しそうでなによりだよ」

 

『それじゃ、また明日ね。おやすみなさい』

 

「ああ、おやすみ」

 

通話を終了して、携帯をテーブルに置く。

 

すずかをうちに泊まらせることだけを報告するつもりだったが、存外長電話になってしまったようだ。一階から、浴室の扉が開く音が聞こえた。もうアリサちゃんやすずか、ついでに姉ちゃんも上がったようだ。それほど大きくはない浴室なのだが、よく三人も一緒に入れたものである。

 

風呂から上がったとはいえ、三人とも髪が長いので脱衣所から出てくるのはまだ時間がかかるだろう。その間、中途半端に暇ができるので、今のうちに使った食器を洗っておく。

 

一階から聞こえる、きゃあきゃあというような賑やかかつ華やかな声をBGMにしながらやっていた洗い物がちょうど終わりを迎えた頃、ぺたぺたと下から階段を上がってくる足音が耳に届いた。

 

「徹、お先にお風呂いただいたわ」

 

「アリサちゃんが一番か、おかえ……」

 

喋りながら振り返って、言葉を失った。

 

アリサちゃんがパジャマ代わりにしている服には見覚えがある。元は姉ちゃんが昔着ていた服だ。

 

キッズサイズの小さめの服なんてうちにあるわけないのでなるべくサイズが合うのを、と考えて引っ張り出したのだろうが、それでもやはりサイズが大きかった。

 

いっそ俺の服のほうがよかったかもしれない。中途半端にアリサちゃんに合うようにサイズを寄せたせいで、股下数センチという、かなり際どい仕様になっている。俺の服を渡していれば、それでもだいぶ肌の露出面積は広いだろうが、膝から数えたほうが早いくらいの丈にはなったはずだ。

 

危うく皿を落っことすところだった。

 

「徹もはやく入ったら?……なに?」

 

「……え?あー、いや……」

 

じっと観察していたところに声をかけられたせいだろう。まともな意味を持つ言葉を、口は(つむ)いでくれなかった。

 

身体は小さくともやはり女の子はそういったものに敏感なのか、俺の視線を感じて、アリサちゃんはにやりと口角を上げた。

 

「ふふんっ、わたしの湯上(ゆあ)がり姿にみとれちゃったの?」

 

腰を少し曲げ、上目遣い気味に見上げて品を作る。胸元に手を這わせ、指先でTシャツをわずかに引っ張って胸元をちら見せする。

 

俺の反応を面白がっている様子だが、残念ながら「そっちじゃないんだなぁ」起伏の乏しい胸元より、健康的で血色のいい、すらっとした綺麗で柔らかそうな太ももをアピールポイントとして押し出すほうがいいのではと俺なんかは愚考す

 

「失礼ね徹はっ!」

 

「いきなりな、かふっ……」

 

どうやら無意識のうちに口を滑らせていたようだ。

 

小さなおててをきゅっと握りしめて俺の腹を殴りつけた。なかなかどうして、腰の入ったいいパンチをお持ちだ。

 

「ごめんごめん、驚いて言葉が出なかったんだ」

 

「そのわりにはしっかりと『そっちじゃない』って言ってたわね!……あれ?『そっちじゃない』……へえ」

 

眉間に皺が寄っていたアリサちゃんだったが、突然何かを呟いた。

 

笑みが、浮かぶ。とっても悪そうな笑みが。

 

「そっかそっか。そういえば聞いたことがあるわ……なるほど。徹は『こっち』が好みってわけね?」

 

「っ?!」

 

跳ねるように一歩下がって、アリサちゃんは手を太ももに添わせる。するするっと腕を上げていく。必然、手のひらも連れて上がっていく。もともと股下数センチのTシャツの裾が、さらに際どく、じりじりと(めく)られていく。

 

もう見える、というところでアリサちゃんの手が止まった。

 

「くふふっ。おもしろい発見をしたわ。これはいろいろ使えそうね?ふふっ」

 

「む……。そ、そんなもん引っ掛からないからな。わかってる、アリサちゃんの性格は。ちょっかいかけて楽しんでるだけだ。実はちゃんと穿いてましたってオチだろ」

 

「視線を逸らそうともしない時点ですでに引っかかってるようなものじゃないかしらね」

 

いたずらっぽい笑み、と言ってしまうと茶目っ気があるかもしれないが、少々度合いが違う。方向は同じでも距離が違うようなものである。いたずらよりも妖しげで、笑みというには深すぎる。

 

手玉に取られているところに、ぱたぱたと軽快な音を奏でながらすずかが急いで二階に駆け上がってきた。その手には、なにやら布のようなものが握られている。

 

「アリサちゃんっ、パンツ用意してもらったのになんで穿かないのっ」

 

「えぅえっ?!」

 

「下着のほうじゃなくてショートパンツよ」

 

「…………」

 

落とし穴から抜け出そうとしたら、さらに深い穴に落ちた気分だ。この場合、落とし穴というよりも墓穴と呼んだ方が正確かもしれない。

 

「期待させちゃったみたいでごめんね。くふふっ」

 

「アリサちゃん!すずかちゃん!髪ちゃんと乾かさな風邪ひくで!」

 

「はーい」

 

「ご、ごめんなさい、真守さん」

 

「ええよええよ。二人とも、ちゃんと拭いて纏めたるからな。徹、さっさ入ってきたら?」

 

「ふふっ、いってらっしゃい、徹」

 

「…………」

 

すずかの髪を拭いている姉ちゃんの後ろで、いっそ天真爛漫にすら思えるくらいに微笑んでいるアリサちゃんがとても怖い。

 

なんだか順調に逃げ道を潰されているような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

いつもとは異なる、妙に甘い香りがする浴室を出る。正直、落ち着かない。微妙にそわそわした。

 

「あ、シャツ忘れた」

 

風呂に入る前はアリサちゃんのいたずらのおかげで平静ではいられなかった。忘れ物があっても仕方ない。

 

仕方がないので上半身裸で脱衣所を出て、二階へ。

 

先に風呂を出た三人はテレビを見ていたようだ。動物番組が放送されていた。アリサちゃんもすずかも好きだもんな、犬やら猫やら。

 

「おー、おつかれー……って、徹。お客さんが来てんのになんちゅうかっこしてんの」

 

「Tシャツ持って入んの忘れたんだよ」

 

「とっ、とおりゅさっ、ふ、服っ……ごほっ、けほっ……」

 

「すずか、大丈夫か?」

 

「徹、わたしへのお返しなの?やるわね」

 

「まったくそんなつもりないって。すぐに服着てくるから」

 

「いいじゃない、それで。自慢できる身体してるんだからもうちょっと見せてよ」

 

「あああアリサちゃんっ!」

 

「暑苦しいだけだろ。すずかもなにか言って……」

 

「珍しくいいアイデアだよっ!」

 

「すずかー……」

 

「わ、わたしにもトゲ刺さってるんだけど……」

 

「もうっ!ええから徹ははよ着替えてきぃ!そのかっこはアリサちゃんとすずかちゃんの教育に悪い!」

 

「わ、わたしは、今のままでも……」

 

「俺ははなから服取りに行くつもりだったのに……」

 

アリサちゃんとすずかに手で目隠ししながら、姉ちゃんは顎で早く行けと扉の方へ指し示す。

 

追い出されるように俺は自分の部屋へと足を向ける。

 

するとアリサちゃんが姉ちゃんの拘束を抜けて、ぱたぱたっと駆け足で近づいてきた。

 

「徹、自分の部屋行くの?」

 

「ああ。Tシャツ取ってくる」

 

「それじゃあわたしも行くわ!徹の部屋見てみたい!」

 

「いいけど……俺の部屋遊んだりとかおもしろいものとかないぞ?」

 

「そうやで、アリサちゃん。徹の部屋おもろないで」

 

「自分で言うのはいいけど人に言われると腹立つな……」

 

「それでもいいの!ほら徹、案内して!」

 

「案内ってほど広くもないしおもしろいものもないけど、それでもいいならどうぞ?」

 

「わぁ、徹さんのお部屋入るの久しぶりです」

 

「……あれ?すずかって俺の部屋入ったこと、あったっけ?俺の部屋はここでー、みたいに紹介した記憶が……ない、んだけど……」

 

リビングあたりに集まってみんなでお喋りしていた記憶しか残っていない。

 

「…………ぁ」

 

「すずか……あんた、もしかして……忍び込ん」

 

「ごごごめんなさい記憶違いですっ、勘違いでしたっ」

 

「そ、そっか。ま、まあそういうこともあるよな?ある、かな……」

 

「あ、あるって。あるある。ようあるよっ!うんっ!行くならはよ行こや!はよ服着ぃ!」

 

少々漂った不穏な雰囲気を姉ちゃんが強引に振り払って俺の部屋へ。

 

「わーっ……なんっにもないわね!」

 

「だから……」

 

「せやから言うたやんかー。なんもあらへんで、って」

 

「それは部屋の主人が言うから姉ちゃんは言わんでいい」

 

「男の子の部屋は散らかってる、って言われますけど徹さんは整理整頓されてるんですね」

 

「あー、整理整頓っていうか……」

 

「もともと物があらへんねん」

 

「それも本人が言うから黙っててくれないかな!」

 

「わたし男の子の部屋に入ったのって初めて!」

 

「わたしも。なんだろう……部屋の匂いから違う気がします」

 

「それ、男が女の子の部屋に入ってもまったく同じことを思ってるよ」

 

「ほう?なんや徹、そない女の子の部屋に()(びた)ってんの?」

 

「嫌な言い方をするな。なのはとか、アリサちゃんとか、あと忍の部屋とか。そういうメンツだ」

 

「うちが含まれてへんやないか!」

 

「……女の()って言ってるだろ?」

 

「女に歳のことを言うなとあれほど」

 

いつの間にか背後を取られ、首には姉ちゃんの腕が回っていた。力は俺より断然劣るはずなのにどういった技術か、ほんの数瞬対処が出遅れただけで視界の端が黒く狭まるほど極められた。

 

「ちょ……ごめん、ごめんなさっ……首締まってるっ」

 

「徹とお姉さんは仲良いわね」

 

「アリサちゃんっ、そんな悠長なこと言ってる場合じゃっ……真守さんっ、徹さんの顔色が大変なことになってますっ。そのへんで、そのへんでっ」

 

「すずかちゃんがそう言うんやったら、無下にはできひんな」

 

「すずか、助かったよ……ありがとう」

 

「よ、良かったです……間に合って」

 

すずかの嘆願のおかげで命拾いした。

 

姉ちゃんの気の短さにも驚くばかりだが、背中に触れた感触にも驚いた。布一枚越しに、むんにゅりとした柔らかな感触が二つあった。そのせいもあって対処が遅れたのだ。いつもつけているナイトブラをなぜつけていないのか。

 

呆れつつ、たんすへ。そろそろ上半身裸では肌寒いし、なにより異性が三人もいるのに(うち一人は身内だが)裸でいるのはなかなかに犯罪的な絵である。

 

「徹、服着るの?」

 

「え?そりゃ着るよ。ていうかそのために俺は部屋に戻ってきたんだし」

 

「いいじゃない、そのままでも。わたしは気にしないわよ?」

 

「いや俺が気にするわ」

 

「すずかもこのままのほうがいいわよね」

 

「えっ……わ、わたしは……その、徹さんが風邪ひいたら大変だし……」

 

「いいの?ほんとに?」

 

「……ほ、ほんと、だよ」

 

「ずっと徹の身体見てたのに?」

 

「ず、ずっとじゃないよっ」

 

「見てたことを否定せぇへんとこが真面目やんなぁ、すずかちゃんは」

 

「ぅぅ……」

 

もうやめてあげて、と言いたくなるくらいにすずかは小さく縮こまってしまった。

 

「そうだ。徹。触らせて?」

 

「いきなりなにセクハラ発言してんのアリサちゃん」

 

「いいじゃない。減るもんじゃないし。手の保養よ」

 

「手の保養ってなんだよハンドクリームかよ。物理的に何か減るわけじゃないけど精神的にはきっとなにかがすり減るんだよ」

 

「触ればすずかも満足するでしょ。そしたら服着ていいわ」

 

「そんじゃすずかだけでいいじゃん。なんでアリサちゃんも……」

 

「仲間はずれはいやだもの。わたしも一度、実際に触ってみたかったし」

 

「結局アリサちゃんの願望なんじゃ……」

 

「ほんじゃうち、アリサちゃんの次ーっ!」

 

「姉ちゃんはもっと関係ねえだろ」

 

「そ、それじゃ、わたしも……」

 

「すずかは三番目ね!」

 

「そこは『どーぞどーぞ』じゃないのか……まあ、いいんだけど」

 

「それじゃわたしからね!わたし、胸の筋肉触ってみたかったのよ」

 

「腕とか腹筋とかやないんや?またなんで?」

 

「前に徹に乗った時、すごく感じたの。とっても大きくて熱くて、硬いんだけど弾力があって、顔を寄せて息をふーってしたら反応してぴくぴくしてて、とってもおもしろかったのよ!」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「徹?これはもしかして、十八禁的な、いかがわしい話なん?」

 

「違う。誓って言える。違う」

 

もしかしてこれも俺を困らせるために、わざと怪しげな体験談のような言い回しをしているのかと疑ってしまったが、アリサちゃんの表情は純粋な笑顔で輝いている。いかに大人びているいたずらっ子だとしても、さすがにこの歳で下ネタをこうまで平然に絡めたりはしないだろう。

 

姉ちゃんとやり取りをしている間に、アリサちゃんはこっそりと手を伸ばす。相変わらず了承を待たない。

 

「すごい!硬いけど弾力ある!生だとちがうわね!」

 

「『生』って言い方やめようか。ていうかなにふつうにぺたぺた触ってんの」

 

「次はうちー!うちはなー」

 

「姉ちゃんは除外に決まってんだろ」

 

「なんでうちだけ?!えこひいきや!不公平や!」

 

「子ども用の遊具で大の大人が子どもを押しのけて遊んでたら大人気ないだろ?それと同じ」

 

「理不尽や!どっちか言うたらこのプレイは大人向けやのに!」

 

「プレイとか大人向けとか言ってんじゃねえ。余計に却下」

 

「ちっ……。ええわええわ、もうええよ」

 

「わかってもらえてよかったよ」

 

「また今度徹が寝てる時にするから」

 

「今後姉ちゃんは俺の部屋に入らせない!」

 

やいやい文句を叫んでいる姉ちゃんは追いやって、ちょっと屈んですずかに視線を合わせる。先程から目線を下げて静かにしているのだ。

 

「はい、すずか。おまたせ」

 

「はっ、はいっ、いいえっ」

 

『YES』か『NO』か、どちらなのだろう。

 

「自分で言うのはすごい恥ずかしいんだけど……すずかはどこ触りたいとかあんの?」

 

わりと人によって好みの部位が異なる。どうやらアリサちゃんは胸筋に興味があるらしいし、姉ちゃんは寝る時によく頭を乗っける腕にご執心だし、プロのリニスさんは全体的に気持ち悪かったが特に大腿部に並々ならぬ執着があった。そういえば太刀峰には執拗に腹筋を撫でられた覚えがある。

 

すずかはどういったタイプだろうか。

 

「えっと、あの……首元を」

 

フロンティアを切り拓くらしい。

 

「首……首?そ、そうか……さすがに首はそこまで人と違うとは思えないけど……まあ、どうぞ?」

 

「し、失礼します……」

 

おそるおそる、すずかは俺の首筋に手を伸ばす。気が向いた瞬間にはすでに行動を起こしているアリサちゃんとはまさに対極である。

 

「っ……」

 

そろそろと、まるで撫でるようなすずかの手の動きに身体がぴくっと反応する。

 

「ご、ごめんなさいっ……大丈夫、ですか?」

 

「ああいや、ちょっとこそばゆくて。もうちょい力入れてもいいからな。ていうかそうしてくれ。こそばい」

 

くすぐったくて仕方ないのですずかの手を取って首に押しつける。

 

「は、はい。それでは、遠慮なく……」

 

少し強めに肌に触れるようになった。

 

耳元から顎の端、頸動脈に沿うようにするすると手のひらが下におりて、指先は首の後ろを這う。筋肉の部位でいうと胸鎖乳突筋と僧帽筋といったあたりか。プロのリニスさんとまではさすがにいかないが、アマの太刀峰クラスのマニアックさはある。

 

果たしてこれは楽しいのかなぁ、と幾度となく思った感想を再び頭の中に巡らせていると、こくっ、とすずかの喉が鳴った。

 

緊張してるのかな、なんて想像をしていたが、どうやら違った。

 

すずかの目の色が変わっていた。

 

どこかで、見たような気がした。

 

「す、すずか?」

 

「っ…………」

 

徐々にすずかが顔を近づける。

 

いつの間にか、両手が首にかけられていた。力は込められていないのに、色白の華奢な手を振りほどくことができない。

 

「っ、はぁっ……」

 

首筋に、熱くて湿っぽい吐息があたる。

 

脳髄を溶かし尽くすほど蠱惑的な柔らかい感触が首に触れた。このまま心地よい陶酔感に浸って流されてしまえ、と毒のように誘う本能を、今回ばかりは理性で耐える。

 

重くて鈍い身体を、魔力まで使って無理矢理に動かした。

 

「すずか、すずか。……もう満足しただろ?」

 

左手ですずかの口元を覆って、右手で背中をぽんぽんと叩く。

 

そろそろいつものすずかに戻ってもらわなければ、俺の頭が考えることをやめてしまいそうだ。同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのに、なぜこうも漂わせる香りが違うのか。姉ちゃんともアリサちゃんとも微妙に異なる。ということは、思考能力を直接鈍器で殴りつけるようなこの(かぐわ)しい甘い香りは、人工的な香料ではなくすずか個人の匂いなのだろう。

 

「……っ!あ、あれ……わたし……」

 

幸い、寝ぼけたみたいな状態から起きてくれたようだ。

 

上半身裸でこんなにひっついていると姉ちゃんに咎められそうなので、ぜひ離れてもらわなければ。

 

「もう服着ていいか?そろそろ身体が冷えてきたんだけど」

 

「は、はいっ。ごちそうさまでしたっ」

 

「……すずかは時々びっくりする言葉をチョイスするな……」

 

ずいぶん近くにいたことに驚いて、すずかは顔を赤くさせて目を伏せながら後退りした。

 

手で目隠しして見ていませんアピールをしているのだろうが、指の隙間から瞳がこちらを覗いている。そこは触れないでおいてあげよう。

 

たんすから長袖のTシャツを引っ張り出して着る。すっかり湯冷めしてしまった。

 

すずかと密着していたところを騒がれなくてよかったが、こうまで姉ちゃんが静かだと逆に怖くなる。温もりを感じない無表情を向けられていると思うと実に肝が冷えるが、意を決して振り返る。

 

「おいこら姉ちゃん、アリサちゃんも。なにしてんだ」

 

「へ?」

 

「遊びにきた時のガサ入れは恒例行事って聞いたわ!」

 

くぐもった元気な声が返ってくる。

 

姉ちゃんとアリサちゃんが、俺のベッドの下に頭を突っ込んでいた。

 

オーバーサイズのシャツが捲れるのもそのままに、白く綺麗な背中から腰、脇腹も大胆に見せている。立っていればTシャツで隠れるほどミニなショートパンツは、太ももとお尻の際どいラインを攻めていた。実に視線が吸い込まれる。

 

このまま、ふりふりと右に左に揺れる小ぶりなお尻を眺めていようかなと煩悩が鎌首をもたげたが、必死に振り払う

 

「どこの業界の恒例行事なんだ。ほれ、出てこい」

 

「ちょおっ!服伸びるやろ!」

 

「そんなら自主的に出てこい。それなら俺も服を引っ張らなくてすむんだよ」

 

「わたしはいやよ。まだなんの収穫もないもの」

 

「そこに収穫するべき果実はないから安心していいよ」

 

「むぅっ……」

 

「アリサちゃんっ、真守さんっ、服っ、服ずれてるよっ」

 

悔しげに呻いて、二人はのそのそとベッド下から這い出てくる。

 

ぱぱっと髪を整えると悪びれる様子もなく、腕を組んで俺を見上げた。整えたのは髪だけであって、はだけてしまった服装は整えていない。鎖骨から肩、二の腕あたりまでずり落ちてしまったTシャツはすずかが直していた。

 

「なんで置いてないの!」

 

「近年稀に見る理不尽な逆ギレだな」

 

「年頃の男の子なら持っていて当然らしいじゃない!」

 

「まあ世の男子高校生なら隠し持ってるだろうけど……なに、誰かに聞いたの?」

 

「マンガとか雑誌。あとネット」

 

「マンガも読むんだ。ていうかマンガとか雑誌とかネットの情報を鵜呑みにするな。だいたい脚色されてるんだから。……いや、そもそも人の部屋で捜索すんな」

 

「わたし勉強したの。男の家に遊びに来たら、えっちな本を探すのが作法なんだって」

 

「どこの世界の困ったマナーだ。残念だけど、それは男女間では発生しないイベントなんだ」

 

「ベッドの下が統計上一番可能性が高いってことだったけど、ちがったわね。やっぱり徹はベタなところには置かないのね」

 

「どこ調べの、なんて無駄な統計なんだ……」

 

「でもなんでベッドの下が一番多いんだろ?」

 

「え?いや、それは……」

 

「そら、あれちゃうの?ベッドの下に置いとるほうが使い勝手が……」

 

「使い勝手?」

 

「使う……?本、ですよね?読むんじゃないんですか?」

 

「姉ちゃんちょっと黙ってて!今からしばらく口閉じてて!この二人に得にならないどころか損にしかならない情報を与えようとするな!」

 

「本棚に隠してたりしないかしらね」

 

俺が姉ちゃんにわりと本気で注意をしていると、アリサちゃんはぱたぱたと本棚に駆け寄って捜索範囲を広げた。本当に自由気ままである。

 

「だからないってば。探すなってば」

 

「せやで。常日頃から徹の部屋に入り浸ってるうちが気づかんねんから、こっそり隠すんは不可能や」

 

「姉ちゃんは自分の部屋より俺の部屋にいるほうが長いくらいだもんな」

 

「せやけど、うちはそういった本には寛容なほうやで。健康的な男の子やったらしゃあないって思っとる。妹物とかあったら燃やさなあかんけど」

 

「それは許容範囲外なんだな。結局持ってないから構わないんだけど」

 

「本と一緒に持ち主も燃やさなあかんけど」

 

「俺も、燃やされるのか……っ」

 

「アリサちゃんっ、そろそろやめたほうがいいよ。失礼だし、マナー違反だよ」

 

「でも、徹の趣味を知っておくことは悪いことじゃないと思うわ」

 

アリサちゃんが意味ありげな目を、すずかに送った。

 

「親友のためにもね?」

 

「ちょ、ちょっとっ、アリサちゃんっ!」

 

「あっ、思い出した!辞典とか図鑑とかの大きめのカバーに隠すって方法もあるらしいわ!」

 

「えっ、まだ続けるの?!」

 

本棚の下の方にあった動物図鑑を両手で引っ張り出して、アリサちゃんは中身を検閲する。

 

「……ふつうの本ね。おもしろみがないわ」

 

「……はぁ。アリサちゃん、もうやめよ?」

 

「すずかもちょっと期待してたんじゃない。なんだ、ちがった、っていうため息ついたでしょ?」

 

「ち、ちがうよ……。ちがうよ!」

 

「なんで二回言ったのよ。そもそもこの本棚、本が少ないわね。……ちょっと待って、なんで教科書がこの本棚の端っこに収納されてるの?授業で使うならあっちの机に置いておくべきでしょ」

 

「そりゃあれだ、教科書持って行ってないからだ」

 

「持って行かない?どうやって授業受けるの?」

 

「徹、教科書の中身は記憶したから教科書持ってけへんねんて。しかもノートも。おかげで先生らから嫌われとんねん」

 

「うるせぇわ」

 

「記憶してるって、す、すごいですね……」

 

「わたしでも教科書くらいは持って行ってるのに」

 

「でも授業中、先生の話をあんまりちゃんと聞いてないけどね、アリサちゃん」

 

「う、うるさいわねっ!徹とちがって教科書もノートも広げてるんだからまだマシよ!」

 

エロ本探索の旅は、どうやらいつのまにか終わりを迎えたらしい。

 

アリサちゃんとすずかは高校一年生用の教科書を二人して熱心に読んでいる。

 

「んー……さすがにところどころわからないわ」

 

ところどころ、ということは大部分は理解できるということなのか。

 

これは一大事だ。長谷部や太刀峰、あと鷹島さんでは、テストをしたらアリサちゃんに負けてしまうかもしれない。

 

「わたしはほとんどわからないよ。やっぱり難しいね……」

 

「今わからなくても小学校、中学校、高校とステップ踏んで勉強して行けばできるもんだ。今の時点でおおかたできちゃってるアリサちゃんが特殊なんだよ」

 

化学の教科書を片手に持ちながら、アリサちゃんは肩をすくめた。

 

「天才にも苦労はあるんだからね」

 

「自分で自分を褒めていくスタンスなんだな……」

 

「それより徹、教科書から問題出されたらどうするの?答えられるの?」

 

「答えられなかったら記憶してるなんて言えないだろ?」

 

ふふんっ、とアリサちゃんが鼻を鳴らして笑みを浮かべた。ぺらぺらと教科書を適当にめくる。

 

「それじゃあ問題出すわ!答えなさい!」

 

「なんだよ唐突だなでもよっしゃこい!」

 

「そのノリに乗っかるんですね……」

 

「基本的に勝負事とかゲームとか好きやしなぁ、徹は。せやけどなんもなしでゲームすんのはおもろないな。……よし、徹が答えられへんかったら、明日の朝まで上半身裸で過ごすこと」

 

「なんか勝手に罰ゲーム付け足された?!今さっき服着たばっかりだぞ!ってか俺が勝ったらなんか賞品とかあんのかよ」

 

「んー、せやなぁ、うちがほっぺにおめでとうのちゅーしたるわ!」

 

「……勝っても負けても罰ゲームかよ」

 

「殴るわ。足で」

 

「人はそれは蹴りって呼ぶんだ」

 

決死の交渉の結果、俺が負けたら再び上半身裸、俺が勝ったら足で殴らないでもらえることになった。一切俺に得のない戦いだ。

 

「じゃあもんだーい!この教科書の八ページの問四!」

 

持っていた化学の教科書を掲げて、表紙だけを見せて、楽しそうに明るい声でアリサちゃんが出題した。

 

「問題文を読み上げるのもなしなんだね、アリサちゃん……」

 

「覚えてるって言うんだもん、それなら情けも容赦もなしよ!」

 

「ほれ、徹。答えーや」

 

盛り上げるために悩んだり思い出そうとするふりでもしようかと思ったが、そんな安い芝居はすぐに姉ちゃんにばれる。普通に答えるとしよう。

 

「クランプ、薬さじ、メスフラスコ、ホールピペット、リービッヒ冷却器、ビュレット。だったな」

 

「…………」

 

「ど、どうなの?アリサちゃん?」

 

「どうなん?()うてんの?アリサちゃん」

 

「…………」

 

アリサちゃんが沈黙した。おかしい、記憶違いなどしていないはずだけれど。

 

「……これ、答えどこに書いてるの?」

 

膝から崩れ落ちそうになった。

 

教科書の問題の解答は全部教科書の後ろのほうにまとめられている。出題されるページに答えは書いていないのだ。

 

「どれどれ、見せてみぃ」

 

解答のページを教える前に姉ちゃんが教科書を覗き込んだ。

 

すぐに渋い顔をした。

 

「ちっ、正解やな」

 

「よっしっ……セーフセーフ」

 

「これやったら簡単すぎたんやなぁ。やっぱ(ひね)らな徹は出し抜かれへんか」

 

「お姉さんならどの問題出すの?」

 

「うち?うちやったら化学の教科書と一緒に近くの教科書も引っこ抜いて重ねる。表側の化学の教科書を徹に見せて内側の違う科目の教科書のページ数を言うたら、絶対間違えるやろ?」

 

「なっ、なるほどっ!」

 

「アリサちゃんにイカサマを教えるな!なんだよそのやり口!阿漕(あこぎ)にも程があるわ!」

 

「ずるはダメですよ、真守さん……」

 

「ずる?ちゃうよ?勝つための頭脳プレーやで?」

 

「こんな和やかな場のクイズで不正ぎりぎりの頭脳プレーはいらないだろ!」

 

「参考にさせてもらうわねっ、お姉さん!」

 

「がんばって徹をぎゃふんと言わせるんやで!」

 

「うんっ!」

 

姉ちゃんは弟子でも見るようなきらきらした目でアリサちゃんの肩を持ち、アリサちゃんは師匠を仰ぐように尊敬した表情でこくこくと頷いた。

 

本当にやめてほしい。あらゆる分野にセンスが光るアリサちゃんが本気でそっちの道に進んだら姉ちゃんばりに厄介になりそうだ。

 

「はい、クイズは終わりだ」

 

「えー、次の問題さがしてたのに」

 

「その『次の問題』とやらは、化学の教科書から出すのか、それとも後ろに隠してる数学から出すのか、どっちなんだろうな」

 

「……むぅ」

 

「……本当に油断も隙もないな」

 

「アリサちゃん、警戒されてる時にやってもあかんで。こういうんは気ぃ抜いてる時に、意識の死角を突いて一気に仕留めるもんなんや。もっと『頭脳プレー』の手札を増やしてがんばろ!」

 

「イカサマを学ばせようとしてんじゃねぇよ」

 

「ええっ!がんばるわっ!」

 

「今日一番の元気のいい返事だ……これは没収」

 

「あーあ、仕方ないわね……次の機会を待つわ」

 

アリサちゃんの言う機会は、絶対にクイズではなくイカサマの機会である。

 

教科書を掠め取り、本棚に戻す。

 

その背後で、ぽふっ、と軽い音がした。

 

振り返れば、アリサちゃんが俺のベッドに飛び込んでいた。

 

「徹の匂いがするわね!」

 

「自由人め!」

 

枕を抱きかかえ、顔を押し付けている。

 

「いい匂い。落ち着く」

 

「俺が落ち着かないんだよ!匂い嗅ぐのやめろ、離せ、せめて枕は置いとけ」

 

「アリサちゃんっ、それはちょっとずる……ちょっと、だめだよ!」

 

そうだ、すずか。そのまま頑張って説得してくれ。一ヶ所不安なところがあったけど頑張ってくれ。

 

「なんでよ、すずか。いいじゃない。誰にも迷惑かけてないわよ?」

 

「……あれ俺には?」

 

「迷惑とかそういうことじゃないよっ、だって、だって……えっと、ダメだよそういうのはっ。倫理的にっ」

 

「いやー、アリサちゃん有望やなぁ。伸び代あるわぁ。成長が楽しみや」

 

「若いアスリートを育成中のコーチみたいなセリフ吐いてんじゃねえ」

 

「なんならすずかもやってみなさいよ。やればわかるわ」

 

「えっ……で、でも、わたしは……」

 

「落ち着くわよ、安心するわよ。このまますぐに寝れちゃいそうなくらい」

 

「うっ、ううぅ……でも、倫理的に……人としてっ……」

 

「今日を逃したら、次にチャンスがくるのはいつになるでしょうね?」

 

「っ……で、でも……」

 

「きっと今日、明日くらいはなんとも思わないわ。でも、何日か経った後、夜眠る時に自分の枕を見て思い出すのよ、今日の、この瞬間の出来事を」

 

「っ!」

 

「そして後悔するの。ああ、あの時強がっていなければ、って。マナーとか礼儀とか倫理観とか常識とか、そんな人生にとってなんの役にも立たないもののためになんで自分の気持ちを押し殺したんだろう、って。なんで素直になれなかったんだろう、って。後悔するの。後悔し続けるのよ」

 

「っ……うぅっ……っ」

 

まるで詐欺師のような、立て板に水の弁舌だ。すずかの心にするりと侵入し、ぐちゃぐちゃにかき乱していく。

 

迷い惑ったすずかに、アリサちゃんは聖母が如く優しく微笑んだ。

 

「今一瞬恥ずかしいのと、これからずっと後悔するのと、どっちが楽?いいじゃない、今だけは小難しいこと取っ払っちゃっても。いいじゃない、たまには素直に振る舞ったって」

 

「…………」

 

突き放すような、否定するような言葉の連続からの優しいセリフ。

 

揺さぶりに揺さぶって、アリサちゃんはとどめを刺す。引導を渡す。

 

「まだ子どもだもん。子どもらしくちょっとだけわがままになって、なにが悪いの?」

 

「っ!」

 

辛辣な責めからの甘やかな誘い。そして、最後の最後で逃げ道を作った。言い訳を与えた。なんて巧みな思考誘導か。

 

「そ、そう、だよ……そうだよね。子ども、だもんね……」

 

「ふふっ、そうよ。子どものやることだもん、徹だってちょっとのわがままくらい許してくれるわよ。だって、すずかはいつもいい子にしてるもの。たまには、ね?」

 

同時に俺への牽制も挟んでくるところといい、実に鮮やかな手並みだ。いったいどこでそのような弁舌を鍛えているのか。バニングス家の英才教育の賜物か。

 

「う、うん……っ」

 

甘い香りがする花に誘われた蝶のように、ふらふらとした足取りですずかはアリサちゃんに近づき、ベッドに倒れ込んだ。

 

「……い、いやぁ……あ、アリサちゃんは、有望やなぁ……」

 

「有望どころの騒ぎじゃねぇよ。即戦力だろ。どうすんだよ、これで姉ちゃんのやり方学んだら手がつけらんなくなるぞ」

 

「……せやな。せやけど、アリサちゃんがどこまで成長するか、どこまで大物になるか、見届けたいっちゅう気持ちも……あるっ」

 

「コーチ目線やめろって」

 

俺と姉ちゃんが戦慄している間にも、アリサちゃんは着実にすずかを暗黒面へと誘惑していた。

 

背中を押すように、アリサちゃんはすずかに俺の枕を押しつける。

 

「ほら、すんすん、って。すっごいキマるわよ」

 

危ないおクスリみたいな言い方をするな。

 

「う、うん……っ」

 

すずかはおそるおそる手を伸ばして枕を掴んで、ゆっくりと顔を近づける。

 

いい加減恥ずかしいのでやめさせたいのだが、いつのまにか姉ちゃんが俺の腕をキメちゃってるせいで一歩も動けない。姉ちゃんが口にしていた『人の意識の死角を突く』ってこんな物理的なことなのか。俺で実演してくれなくていいのに。

 

すらりと線が通ったすずかの綺麗な鼻が、あと数センチで枕に接するところまできた時だった。

 

「っ!??!」

 

すずかのなで肩がびくんっ、と激しく跳ねた。

 

枕を持つ手が何かに抗うように震え、しかし、すぐに抱きしめるように枕に顔を埋めた。

 

「っっ、ふわぁ……」

 

すずかから発せられたとは思えないほど甘く、艶やかな声が枕越しに聞こえた。

 

「ね?いい匂いでしょ?」

 

「ん、んっ……ほんとう、にっ……っ」

 

「落ちつくわよね。持って帰りたいくらい」

 

持って帰らないでほしい。俺の枕がなくなってしまう。

 

「……落ち、つく?そう……かな?わたしは、胸がどきどきするよ。お腹の奥のほうが、きゅーって、熱くなる……。心地いいけど……すごく、どきどきする……」

 

「そうなの?けっこう感じかたがちがうものなのね」

 

アリサちゃんは気づいていないようだった。というより、あまり深く考えてはいなかったのだろう。

 

だが、はたから見ていた俺と姉ちゃんには、すずかの変調はすごくわかりやすかった。

 

「……これ、だめだろ」

 

「……すずかちゃんも潜在能力高いなぁ」

 

「すずかを止める!今なら、今ならまだ引き返せる!」

 

「ちょい待って!すずかちゃんは今大人への階段へ踏み出し始めたんや!」

 

「あほか!まっとうな大人への階段を踏み外し始めたんだろうが!」

 

無理矢理姉ちゃんの腕を振りほどく。腕から変な音がしたけど、この際気にしない。

 

ベッドに近づき、すずかが大事そうに懐に抱えている枕を引っこ抜いてベッドの端に置く。

 

「ぁ……」

 

すかっ、とすずかの腕が空を切った。ついさっきまで抱っこしていたものが急になくなったというのに、すずかの反応は鈍い。夢見心地にぼんやりしている。

 

「すずか、すずかー?大丈夫か?意識ははっきりしてるか?」

 

「はぁ、ぅんっ……」

 

トランスにでもかかっているみたいだ。顔は紅潮して、呼吸は荒い。凍えるように自分で自分を抱きしめて、内股でもぞもぞと擦り合わせる。

 

すずかは潤んだ瞳で、俺を見上げた。

 

「徹、さん……っ」

 

ぞっとするほどの色香が、そこにはあった。

 

星がきらきらと瞬く夜空のような綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。

 

俺の手が意思に反してすずかの頬に伸びそうになった、その間際。その瀬戸際だった。

 

「なんだろ、徹の匂いだけじゃないっぽいわね……。誰か連れ込んでるの?」

 

よくも悪くも空気を読まない自由奔放なアリサちゃんが、部屋に充満していた妙な空気を吹き飛ばす新たな爆弾を投下した。イレギュラーバウンドしたボールを上手く処理したけどファーストへは悪送球みたいな、プラスマイナス差し引きでマイナスなプレーだ。

 

今度は掛け布団を顔の近くまで引っ張ってくんくんしていた。顔の下半分が隠れているその仕草はとても愛らしいが、今この状況でやるべきことではないし、言うべきことでもない。

 

過剰反応する人間がすぐ近くにいるのだ。

 

「あ?徹、どういうことや?」

 

実にドスの利いた追及である。こうなることは目に見えていた。

 

「知らない、知らないって。身に覚えがない」

 

「ほら、ほらっ、すずか。すずかも嗅いでみて!徹以外の匂いするでしょ?」

 

「むきゅっ……」

 

強引が過ぎるアリサちゃんの手で、布団をたくし上げてすずかに押しつける。

 

脳の回線がショートしているすずかにそんなことをすれば今度こそ断線してしまいそうだが、匂いを判別するというアリサちゃんからの要求があったからか、それとも布団を押しつけられた衝撃で正気に戻ったのか、控えめに布団を押しのけて目を開いた頃にはいつものすずかに戻っていた。調子の悪い機械にチョップして直すみたいなやり方だ。ブラウン管のテレビかよ。

 

「すんすん……あ、ほんとだね。徹さんのとはちょっと違う匂い……」

 

「でしょっ?」

 

「うん……でも、あれ?これって……」

 

「っ、どういうことやねんっ、こらぁ、徹っ!」

 

「知らないって、俺は無実だっ……」

 

姉ちゃんが俺の襟首を掴んでぐらぐらと揺さぶる。

 

なのはや太刀峰は俺の布団に潜り込んでいたことはあるが、どちらも時間が経ち過ぎているし、もう何度も布団を干しているので匂いなんか残っていないだろう。

 

「うちも寝とるベッドにっ、どこの女を連れ込んだんやぁっ!」

 

なぜか姉ちゃんは涙目で、涙声だった。

 

冤罪で自白を強要されている俺の方が泣きたい。ていうか勝手に俺のベッドで寝てる姉ちゃんにとやかく言われる筋合いもなさそうなものなものなんだけど。

 

「真守さんも寝てるんですか?」

 

「ぐすっ……うん」

 

「ああ、だから……。大丈夫です、真守さん」

 

「ぐしゅ、えぐ……な、なにが?」

 

本格的に泣きそうになっている姉ちゃんに、苦笑いと微笑みの中間みたいな表情のすずかが言う。

 

「徹さんともよく似ていて、どこかで嗅いだことのある匂いだなぁって思ったんです。これ、真守さんの匂いです」

 

「……へ?うち?」

 

「ほんとに?ちょっと待って」

 

そう言うや、アリサちゃんはベッドを降りて姉ちゃんに抱きついた。

 

「ちょぉ、アリサちゃんっ、あははっくすぐったいわ」

 

「ほんとね!お姉さんの匂いと同じ!すんすんっ……お姉さんも落ち着く匂いね。徹と似てるけど、お姉さんのほうがちょっと甘い感じね」

 

「くふふっ、こそばいっ、こそばいってアリサちゃんっ」

 

「よかったですね、真守さん」

 

「うんっ!よかった!」

 

「そんじゃあ俺になにか言うべきことがあるんじゃないの?」

 

「勘違いやったごめーん!」

 

「軽いなぁおい」

 

俺への謝罪もそこそこに、姉ちゃんはくっついてきているアリサちゃんを一度引っぺがし、逆にくんくん仕返した。

 

きゃあきゃあとけたたましい二人を、俺は恨めしげに、すずかは微笑ましげに眺めていた。

 




ちょっと驚きました。めっちゃ話が転がっていくと思ってその場のテンションに任せて転がしてたら普段の話の二倍くらいの長さになってました。
もうちょっと一話あたり短めのほうがいいんでしょうか?

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