新たな命の誕生を控えて、キラキラと輝く笑顔から目をそらしながら。
私、パチュリー・ノーレッジは、どうしようもない焦燥感に苛まれていた。
レミィの誕生日から、7ヵ月が経過した。
自室にて。
ベッドに俯せに横たわり、本を広げている私。
「いっもうとがうまれたら♪」
その背中の上に。
「な~にをしーてあーそぼうっ♪」
無遠慮に寝転んだまま、ご機嫌に歌い続けるレミィ。
「……うるさいわよ」
低い声で、恫喝しても。
「ぱちぇー、いもうとは、どんなこかしら?」
楽しそうに、言葉を連ねる。
普段なら。
その無邪気さにほだされて。
溜息で流すところ、だけど。
「いい加減に、」
柄にもなく。
声を荒らげそうになった。
――……しかし。
「只今戻りました! お母さん!」
そのタイミングで。
勢いよく開かれた扉と、放たれた声。
「……」
顔を向ければ。
美しい赤の髪に。
穏やかな、緑の瞳。
「めいり、」
「めいりーんっ!」
私よりも早く。
その名を呼びながら。
ばびゅぅん! っと飛び出す、小さな身体。
「わぁ、っとと! ……あははっ」
それを受け止めて。
勢いを殺すために、くるりと一回転。
笑顔で、幼子と顔を見合わせる、
私の『愛娘』。
「ただいまです、お嬢様」
長期任務終了後。
まっすぐにこの部屋に来たのだろう。
まだ、薄汚れた格好の『美鈴』。
その豊満な胸に、子猫のように顔をこすりつける、レミィ。
「おかえりなさい!」
舌っ足らずな声で、レミィが叫ぶ。
「良い子にしてましたかー?」
美鈴が、その頭をクシャクシャと撫でる。
……前の世界では、ありえなかった光景だ。
「おかえり、美鈴」
遅れて。
私が、やっとそう口に出すと。
輝く笑顔が、こちらに向けられて。
「はい! お母さん!」
そのまま。
突っ込んできた。
「きゃああっ!?」
レミィを抱いたまま。
私の寝転がっているベッドへダイブしてきた美鈴。
布団が、軽やかに宙へ舞い上がる。
「……えへへ」
次の瞬間には。
レミィとまとめて、抱きしめられて。
「会いたかったです」
そんな。
「……」
そんな声で、囁かれて。
「……」
そんな目で、見られたら。
「……はぁ」
もう、なにも言えない。
やっぱり。
前の世界では、ありえない。
でも。
この世界では、もうこれが『当たり前』で。
私は、真ん中にレミィを挟んだまま、美鈴の背中に腕を伸ばした。
運命を捻じ曲げた結果。
私の養い子になった美鈴。
そして、乳歯も生えたての時期に、私に押し付けられたレミィ。
このふたりは、必然的に関わることが多くなり。
今では、年の離れた姉妹のような関係になっている。
――……だからこそ。
「ねえ、めいりん! わたしね、おねえさまになるのよ!」
レミィは、真っ平らの胸を張って自慢した。
ついに自分も、姉になるのだ、と。
そして。
「……わたし、いいおねえさまに、なれるかしら?」
不安そうに。
そう、言葉を続けた。
「うーん……」
美鈴は。
考えるように、視線を彷徨わせた後。
「良いお姉様、というのは、わかりかねますが」
目尻を下げながら、穏やかな声で答えた。
「すでにお嬢様は、とても優しいお姉様だと思いますよ」
それを聞いたレミィは。
少し、『お姉さん』っぽい顔をして。
照れくさそうに、笑った。
そんな二人を眺めながら。
私は、気持ちがどこまでも沈んでいくのを感じていた。
目を瞑れば。
いつだって、思い起こせる。
彼女と過ごした記憶。
切なくも、愛しい日々。
その最後を。
血、血、血。
血溜まりが、塗り潰す。
彼女は、妹様のことを、とても気にかけていた。
それなのに。
その結果は。
ああ。
恨んでいない、なんて。
嘘でも、言えない。
長期任務により蓄積した疲労で眠りに落ちた美鈴。
その腕の中で、穏やかな温もりがもたらす安心感に沈んだレミィ。
そんな愛らしい二人を部屋に残して、人気のない場所を探し、彷徨い歩く。
本当は、理解している。
彼女が、最後の最期まで。
妹様を、守ろうとしたこと。
恨むなんて。
憎むなんて。
お門違いも甚だしいこと。
それでも。
感情が、言うことをきかない。
――……吐きそうだ。
自分自身に対する、嫌悪感で。
館の裏庭。
滅多に人の訪れない、生垣の向こう側。
たまに、独りになりたい時に、訪れる場所。
「……え?」
そこに。
初めて、先客を発見した。
「が、ぁ、……っ!」
苦しそうに。
嘔吐く、その細い背中。
「……奥方様?」
呼びかけに。
弾かれたように振り向いた、その人の口元は。
「……ッ!」
吐き出された血で、真っ赤に染まっていた。
「大丈夫ですか!?」
反射的に叫んで、駆け寄る。
背中に触れようとした、その瞬間。
ボンッ! と。
奥方様の体内から、小さな爆発音が響いた。
くの字に折れた体が、ゆっくりと地面へ沈んでいく。
「奥方様ッ!」
急いで抱き留めた体は、小刻みに震えていて。
「奥方様! 早く館へっ、」
「やめて!」
「!?」
その声は。
痛みに震えながらも、凛々しかった。
私の腕を、ギュウッと握り締めて。
奥方様は、懇願した。
「今は、館に夫が居る。
今の私の状況を、あの人に知られるわけにはいかない……っ」
滴る血が。
愛のように。
ゆっくりと、地面に染み込んでいく。
「この子を、守らせて……!」
――……ああ。
フラッシュバックする。
血、血、血。
血溜まりだ。
酷い眩暈を覚えた。
数分か、数十分か、数時間か。
容態の落ち着いた奥方様から聞き出した現状は。
残酷極まりないものだった。
奥方様の腹の中に収まっている胎児は。
後に『フランドール・スカーレット』と名付けられる彼女の娘は。
「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」を有している。
全ての物質には「目」という最も緊張している部分がある。
フランドールはその「目」を自分の手の中に移動させ、握り潰すことで対象を破壊する。
――……母親の腹の中にいる今の彼女が視認出来る世界は、その胎内のみ。
つまりは。
破壊対象は、母親だということだ。
内側から破壊され。
血反吐を吐きながら。
「……大丈夫よ」
奥方様は。
一人の、母親は。
「お母様が、守ってあげる」
愛おしそうに、膨らんだ腹を撫でた。
「……」
フラッシュバック。
鮮明な。
銀色。
血溜り。
赤、赤、赤。
痛かっただろう。
苦しかっただろう。
死にたくなんて、
きっと、
それでも、
守りたかったんだろう。
「……守るわ」
自然と。
言葉が。
決意が。
口から溢れた。
「え?」
戸惑いの視線を向けてくる奥方様の。
その腹に、手を添えて。
告げる。
「貴女ごと、私が守るわ――……今度こそ!」
さあ。
そうと決まれば。
夜逃げの準備だ。
「どこだ! どこに消えた!」
館に、スカーレット卿の怒号が響き渡る。
「お館様! 奥方様もお嬢様も、敷地内にはおられません……ぐあっ!」
八つ当たりに放たれた拳で。
報告に訪れた使用人の頭が、壁にめりこむ。
「ノーレッジは! 奴はどこだ!」
古株の犬耳執事は、己の主から5歩程離れた位置を確保し、その問いに答えた。
「おりません。彼女の子飼いの雑種もです。
……おそらく、奥方様方を拐かしたのは、彼女かと」
その言葉を聞いて。
スカーレット卿の真紅の瞳が、憎悪の炎を灯し。
勢いよく燃え上がった。
「おのれ、おのれぇっ! ノーレッジ! 裏切りおったなあぁぁあああッ!!」
パチュリー・ノーレッジ。
義理の娘の手を借りて。
身重の人妻と、その娘を引き連れ。
恐ろしい上司から、絶賛逃亡中。
ああ、本当に。
どうして、こうなった……!
逃げるんだよォ!