最近、忘れがちな事実。
私、パチュリー・ノーレッジは『喘息』持ちである。
「お母さんッ!」
美鈴の声が遠い。
だんだん、自分の呼吸音しか聞こえなくなっていく。
目の前に迫る下っ端妖怪。
まさか、こんなのに殺されるのか?
唐突に現れたスカーレット卿。
私と美鈴は、応戦する為、庭へ飛び出した。
しかし。
彼の後ろから現れた、大量の配下達。
そう、今回の彼は、独りではなかったのだ。
配下の質はお粗末な物で、一人一人は、私や美鈴の敵ではなかったが。
その数が、圧倒的過ぎた。
1000人以上だろうか?
まさしく、圧殺である。
それでも。
それでも、私が健康な呼吸器を持っていれば、どうにかなったかもしれない。
しかしながら。
悲しいかな、私、パチュリー・ノーレッジは『喘息』持ちの紫もやしであった。
空に月が昇り、ゆっくりと沈んでいく。
夜明け前のことだ。
400人くらい倒しただろうか?
喉が引き攣り――……息が出来なくなった。
紛れもない、発作である。
……そういえば、色々あったせいで、昨日の朝から一度も薬を飲んでいなかった。
そう思い至った時には、地面に体が沈んでいた。
目の前に迫る下っ端妖怪。
人化もまともに出来ていない、出目金の化け物みたいなソレ。
こんなのに殺されるとか、嫌すぎる。
それに、まだ、死ぬわけにはいかない。
「が、はっ、ひゅっ、ひゅーッ!」
空気が漏れていく。
息が吸えない。苦しい。
でも、立たなければ。
ああ、くそ。
間に合わない。
下っ端妖怪の振り上げた刃が、私の身体に振り下ろされる――……、
「させるものかッ!」
空気を引き裂いた、その声は。
幼くも、凛と澄んで、美しかった。
――……レミィっ!?
レミィは。
紅い長槍で、下っ端妖怪を一刀両断すると、その穂先を父親に突き付けた。
「お父様……いいや、父上! 此処に何をしに来られたのか!?」
改まった口調で。
大きな声で、問い掛ける。
「……知れたことを!」
スカーレット卿は。
嘲笑いながら、返答した。
「愛する妻の敵討ちだ! お前等全員、殺してやるッ!」
それを聞いて。
レミィは、眉を顰めると。
槍を持つ手に、力を込めて、さらに問いを重ねた。
「何を以って! 私達を仇とみなすのか!?」
スカーレット卿は、その問いに青筋を立てながら怒鳴り声を上げた。
「彼女を、見殺しにしただろう! 腹の子を助ける為に、彼女を犠牲にしたのだ!!」
スカーレット卿の瞳が、揺らぐ。
それは、怒りの炎による物か。
それとも、悲しみの水滴による物か。
「殺してやる! 殺してやるとも! 特に、アイツは――……嬲り殺しにしてやるッ!!」
そう叫んで。
フランの居る家へ視線を向けた。
「アイツが、彼女を殺したのだ! 愛しい彼女の美しい肌を、内側からミンチ肉に変えたのだ!!」
怒りの咆哮が、空をつんざく。
「産まれてきたことを、後悔させてや」
「ふざけるなあッ!!」
一閃。
高速で射出された紅い槍が。
スカーレット卿の腹を、勢いよく突き破った。
「ふざけるなよ……」
レミィは。
投擲姿勢のまま、顔を上げて。
自らの父親を睨み付け、吠えた。
「お母様の思いを、なにひとつ汲まずに!! 愛しているなどと、寝言を垂れるなあっッッ!!!!」
それは、走り抜けた槍よりも。
真っ直ぐな『怒り』だった。
「お母様は、フランに言った! 『私に、そっくりね』って! 『だから、貴女は、きっと幸せになるわ』って!」
レミィは、叫ぶ。
敬愛する亡き母の想いを、代弁する為に。
「それは! お母様が、最後の最期まで! 自分は幸せだ、って、思っていたからだ!」
小さな背中に生やした、大きな羽根を力強く広げて。
心の限り、叫んだ。
「お母様は、フランを産んだことを、後悔なんてしていなかった! 最後まで、笑顔だった!
笑顔で、あの娘を私に託したんだ! ――……それこそが、『愛』だッ!!」
迸る、紅い魔力光。
新たな槍を形作りながら、レミィはさらに言葉を重ねようとした。
「それを、その想いを否定するお前なんかに、お母様を愛しているなんて言う資格は……!?」
轟音。
音速を越えて、繰り出された拳。
「お嬢様ーーッ!!」
美鈴の叫び声。
次の瞬間。
盛大な土煙と共に、レミィは地面に埋まっていた。
「……うるさい」
腹に突き刺さった紅い槍を、力任せに引き抜いて。
「うるさい、うるさい、うるさいッ!」
スカーレット卿が、叫んだ。
「では、どうすればいい!? 私の、この憤りと悲しみを!! どう処理しろというのだ!!?」
それは、慟哭の様だった。
レミィが、クレーターの中心で、震えながら身を起こそうとしている。
しかし、スカーレット卿は、それを待つつもりはないらしい。
レミィに――……自分の娘に止めを刺す為に、一歩を踏み出した。
「……しゅー、ふしゅーっッッ!」
私は。
息を乱したまま、ポケットを探って、喘息の薬をみつけると。
それを水なしで、無理矢理飲み込んだ。
ああ。
動け、
体よ、動け……っ!
――……キラリ、と。
色鮮やかな燐光が、夜闇を裂いた。
それは、虹色の宝石のような翼だ。
「きゅっ、として」
突き出された小さな手。
露わとなった、細い指。
「どかーーーーんっッッ!!!!」
生まれて、初めて。
彼女は、自らの意志で、拳を握りしめた。
「ぐ、うああああ!!?」
スカーレット卿の左足が、爆発四散。
血煙が、夜風に乗って吹き荒ぶ。
「ふ、ら……?」
掠れた、レミィの声。
「お姉様、ごめんね」
フランは、金糸の髪を爆風にたなびかせながらレミィに視線を向けると。
温かなスペサタイトガーネットの瞳を細めて、不器用な笑みを浮かべた。
「それと、ありがとう――……大好きだよ」
そして。
父親に視線を移すと。
その、焚火のようだった瞳に強い意志をくべて、燃え上がる焔に変えた。
「お父様」
スカーレット卿は、突如現れた憎い娘に、鋭い眼光を向けて。
「……ッ!」
次の瞬間、息を詰まらせた。
「お父様、ごめんなさい」
それは。
彼女が、亡くした愛しい存在の、生き写しだったからだ。
「私は、貴方から、いちばん大切な物を奪ってしまった」
フランは。
深く、深く――……頭を下げた。
「ごめんなさい」
そして。
顔を上げて、真っ直ぐな目で、言い放った。
「だけど、だから……死ねない」
その、静かに燃え上がるような『強さ』は。
「だって、私が生きることを諦めたら」
本当に、
「お母様の『想い』まで、殺してしまうことになるから!!」
彼の、愛した女性、
彼女の母親、其の物だった。
「お父様!」
――……だからだろう。
彼は、その攻撃を防ごうとしなかった。
「おとうさまぁ……ッ」
いつかの彼女と同じように。
胸から下の肉を弾けさせた彼の。
その死に顔は、とても穏やかな物だった。
「お、お館様を、やりやがった……ッ!」
有象無象の妖怪達の騒めき。
ああ、頭を潰されたことで、解散してくれればいいものを。
そう、都合よくはいかないらしい。
「げほっ、けほ……、はぁ」
よし、
……イケる。
「パチェ!」
ゆっくりと、立ち上がった。
やっと、薬の効果が出てきたらしい。
「……頑張ったわね、フラン」
目算……ざっと、600人程度か。
「悪いけど、あと少し、頑張ってくれる?」
そう言って、首を傾げると。
フランが、大きく頷いた。
「……うん! 頑張るよ!」
そして。
突き出された右手が、真っ赤に燃え上がり。
炎の大剣が、姿を現した。
「……私も、いるぞ!」
土塗れのレミィが、クレーターの真ん中から飛び出してきた。
その手には、紅の長槍。
「もちろん、私もです!」
美鈴も、力強く足を開いて、拳を構える。
さて、もう一踏ん張りだ。
そう、気合いを入れたところで。
「静粛に!!!!」
遠吠えの様に後を引く声が、轟いた。
目を向ける。
そこには。
いつもスカーレット卿の傍に控えていた、犬耳の執事がいた。
「静粛に! こちらにおわすお方は、お館様……スカーレット卿のご息女ですぞ!!」
彼は、周囲の妖怪に向けて、言葉を連ねる。
「彼の方が崩御された以上、次のお世継ぎに相違ない! 頭が高い! 控えよ!!」
――……そして。
ついに、長い夜が明けたのだった。