東方捨鴻天 【更新停止】   作:伝説のハロー

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……副題から察する方、無言にて御閲覧下さい。
ここまで来てしまった読者様。覚悟はよろしいか?

悲劇「俺の出番だな」




第一章・第十四羽「その身を捧ぐ者」

 

「―――遅い帰りのようだ」

 

と、朴の呟きに、豪にいる誰しもが意識を出入り口へ向ける。一人ずつしか通り抜けられないほどに小さなそこに、己もまた眼に差し込んでいる眩い光を見る。

 

暗い豪内は、鳥類である烏にとっては、朝でありながらも真っ暗に感じる。そんな中に嫌でも入り込む光となれば、眩しくて堪らないのだが、ここは我慢するところ。大人達が頑張ってくれているのだから、贅沢な事は言えないだろう。

 

顔を顰めながらも凝視した。そこには、一対の耳を者達の影がちらほらと映る。

 

「帰って、来た?」

「よかった、帰って来た!」

「待ちくたびれたぜ、……? どうした?」

 

戻って来た大人を見て、茅は逸早く訝る。

次々と明るくなる子供たちの表情とは裏腹に、恐々とした表情の男たちが覗き込んでいた。こちらの安堵した表情を見せると首を突っ込んだ男が急ぎ口を開ける。

 

「みんな、急いで場所を移してくれ! このままだとまずい!」

「え? 何を言って―――」

「……っ!」

 

ただならぬ何かを感じて、訊き返す―――と同時に、朴が急に立ち上がった途端、勢いよく駆け抜けていく。こちらが反応するには、あまりに遅すぎていた。

 

「は―――……朴? どうした!」

「待て! 朴、待て!」

 

茅は朴に制止を掛けるも、無視する朴は豪から飛び出していく。何かしらの気配を察知したのか、外にいる大人達の元へと急いでいた。

 

「くそっ!」

「お、おい! 茅!」

「茅!? 何を……」

「朴を連れ戻して、ついでに外を見て来る!」

 

悪態を吐きながらも素早く動く茅は、朴の後を追う。

彼の行動と、豪から出るように言う男達の言葉に、女性陣と多数の他の狼達は困惑する。かつて天狗が強襲した時と類似した事が起きている、としか判断する他ない彼女らは躊躇いと僅かな恐怖が、実行に移すべき意志を弱めてしまっていた。

 

そんな中、己も追わなければならない気がした。茅の後を追うべく行動する。

 

「榛さん、皆を連れて早く……!」

 

隣の義母に、戻って来た大人達の意志に従った方がいいという旨を伝えて立ち上がった。

 

「―――っ?」

 

言葉を投げかけ、向かった先に行こうとする―――が、義母が衣服を掴んでいたのに気付く。破れそうになるのを構わず、強く握りしめていた。

義母の顔は、豪である為に暗く窺い知る事が出来ないが、何かを恐れるような思いが伝わって来た。

 

行ってはいけない。

 

そう言っている。そんな気がした。

だが、どちらにしろ、豪を出なくては危ないのだろう。入り口付近で待っている彼らはよくよく見れば、明らかに焦っているようにも見受けられる。

 

先程、朴が飛び出し、茅も連れ戻そうとして後を追った。

ならば、何かが迫っていると見て間違いはない。妖怪―――否、動物としての本能が危ないと訴えている。

 

大人達が焦るほど、外は危険だろう。子供を前に出させていい事ではないと知っているからこそ、義母は首を縦に振らないのだ。

 

だが、己は決めていた。

 

義母に、友に、恩師に―――。

 

群れに貢献して、恩を返すのだと。

かつての群れで出来なかった恩返しを、群れの支えを、成し遂げるのだと。

 

「俺は先に行きます! 榛さんは皆と外に!」

「ちょっと、劫戈君―――」

 

困惑気味で声を上げる義母の制止を無視し、大丈夫だと自己完結して聞き流す。一方的だった事には内心で反省するが、今は言っている場合ではないのだ。

胸騒ぎ、とでも言える何かが胸中を駆け巡る。それは、豪への入り口に近づくに連れて大きくなっていく。

 

逸早く、状況を理解するべきだ。大人達の様子に感化されたのか、焦燥が募る。

 

「朴、茅っ! どこにっ…………?」

 

飛び出してすぐに見回すと二人はいた。

探すまでもなく、豪のすぐ近くに佇んでいた。五人いる周囲の男性陣は何故か、纏っている焦りが一層濃くなったようにも見える。

皆して一点を凝視しているようで、入り口から出た己からでは、彼らの背しか窺い知れなかった。

 

「うっ…………!?」

 

大人の集中する場所へと視線を向けて―――頭の中で悲鳴が木霊した。

信じがたいものを味わったように、全身が軋むほどの重圧がぶつかってくる。思わず呻き声を上げて、膝を着いた。

 

本能が告げている、あれ(・・)は危ないと。

 

「はっ……あ、……あ、れは、なんだ……!?」

 

それを見た。いや、見てしまった(・・・・・・)

 

「お前ら……お前ら、お前らァァァ……!」

 

現れたのは、樋熊の妖怪だった。

大人の頭三個分の顔を憤怒に染め、恐ろしく思える鋭利な爪で草木を薙ぎ払いながら闊歩する姿は、死を宣告する存在にも見えて仕方なかった。本気の殺意、と表現するのが妥当な眼光が、こちらを凝視している。

体毛よりも薄い茶色の妖力は、怒りに任せて身体から放たれている。並の妖怪―――少なくとも、周りにいる大人達が持つよりも濃く、突き刺さるような冷たさがあった。

湯気のように立ち上っている妖力は纏われたというより、流していると言えた。感情を優先にして、操作を怠っているのだろう。

 

「ひっ……」

 

泣きそうになった。

背筋が凍りつき、カタカタと震えてしまう。身体が完全に言う事を聞かなくなっていた。

 

纏う濃密な妖力、力を誇示する体躯、憤怒の感情。

 

そして、なによりも“眼”。

かつての父、日方を思わせる恐怖よりも恐ろしい、明確な殺意が己を襲い掛かっている。歯向かうと想像しただけで意識を放棄してしまいそうだった。

 

 

 ああ、奴は大妖怪だ。これはまさしくそうだ。

 

 

胸中で悟る。弱小妖怪が真っ向から歯向かえるほど、甘い存在では断じてない。大妖怪は伊達ではないのだ。

眼に見えるくらいに濃密になった妖力は、その残滓だけでも、妖怪として底辺にいる己では塵芥に等しいだろう。認識しただけで眩暈がするくらいだった。

 

凄まじい妖気に押し潰されそうで、その場から動く事が出来ない。身体が己の意志とは無関係に、命令を聞いてくれないのだ。

 

「なんだ、よ……あれ……」

 

絞り出すように問うた。誰にでもない、知っている、応えてくれる者に。

 

「ぎゃ―――」

 

残念ながら、この場にはいない。

 

気が付くと、樋熊に一番近いところにいた男性が短い悲鳴を上げていた。男性は背から夥しい量の鮮血を噴き出し、崩れるように倒れる。

男性の前には、樋熊が腕を振り抜いていた姿で立っていた。樋熊の爪には男性のものを思しき血がこびり付いている。

 

「許さない……許さない、許さないぃぃィィィィィイイイッ!!」

 

憤慨する樋熊は、親の仇を見るように男性陣に吠える。

 

「う、うわぁぁああああっ―――」

「ひ、ひぃっ……あがぁ―――」

「死ね……死ね、死ぃぃねぇぇえええっ!」

 

雄叫びを上げながら、樋熊は恐怖で固まった男性陣を襲っていく。瞬く間に、容赦無く、刈り取られた男性達は、再び動く事は無かった。

 

 

 訳が分からない。一体、彼らが何をしたんだっ!

 

 

何が許さないのか、何故殺されなければならないのか。

突然現れて、いきなり殺しに来た。樋熊の存在を拒否したくて、忌避したくて堪らない。

 

「こ、こんな……こんなのってない……」

 

今すぐ逃げたい。しかし、後ろには義母達がいる。

想像を絶する展開に、頭が追い付けない。このような理不尽、己にどうしろというのか。

 

あっと言う間に、五人いた男性陣は切り刻まれていた。臆し恐怖した己の視界内で、子供がこの場で最も安心を獲得できる存在達が、無惨にも殺されてしまった。

 

己はただ恐怖に拉がれて佇んでいるだけ。

 

「……し、死ねって言うのか」

 

大人を瞬殺した樋熊に、己が―――脆弱な烏程度が挑んで、どうなるというのか。

 

 

無論、死ぬ未来しか見えてこない。危機的状況をひっくり返す事は愚か、生き残れる未来が想像出来ない。

 

どうすれば良いのか逡巡する中で―――果敢にも飛び出す者がいた。

 

「な―――茅っ!? 朴までっ!」

 

白い影、二つ。

それは身近にいた二人だった。

 

「そうも言っていられないだろう! お前は下がってろ!」

「女子を連れて下がるのだ!」

「う……」

 

間髪入れずに言い返される。

だが、引き返す訳には行かなかった。

 

「だ、駄目だっ! 行ったら死んじゃうんだぞ!?」

 

思わず叫んだ。

 

己の代わりに二人が死ぬ。後ろにいる女性陣を逃すため。庇われた。

 

頭の中で目まぐるしく飛び交うそれらが反応し、今の言葉が無意識に出ていた。

樋熊を何とかしなければ、死ぬ未来しか浮かんでこないという共通認識はある。かと言って、簡単に死ぬような場所に飛び込む意志は無かった。

 

悔しいが―――抱けなかった。

 

胸が痛む。右目が抉られたような痛みが、場所を変えて蘇る。激しく息が乱れた。

群れのために、と意気込んだというのに、何も出来なくて。あの樋熊を止めたくて、でも何も出来そうになくて。

 

無力で悔しい。

 

己は何のために出て来たのか。そんなものは決まっていた。

 

それは、群れの役に立ち、貢献し、支えていくため。

 

そう、決めた筈なのに何も出来ない現状は、あまりに苦痛にしか感じられない。理不尽を振り払う力も知恵も無く、ただ時間を浪費するに終わってしまう。

 

「ぬ、ぬぅうう? お前もかぁぁあああっ!!」

 

樋熊が茅と朴の接近に気付き、怒りの矛先を向ける。腕が消し飛んだような錯覚させる速さで振るわれ、茅を無惨に切り刻まんとした。

 

「ちが―――」

「やられるかっ!」

 

姿勢を打ち付けるように崩し、地面すれすれの位置まで低くして回避する。その隙に、朴は俊敏さを活かして樋熊の後ろに回り込み、樋熊へと飛び掛かっていた。

 

「じゃぁぁあまぁああだぁぁあああ!!」

 

瞬間、それに反応した樋熊は腕を返すように振り払う。

 

「ぐおぉぉ……っ!!」

 

凶悪な爪が命中する―――と思われたが、朴は飛び掛かった際の姿勢から、その場で強引に身体を捻り、爪の通る個所から逸れるように回避した。捩じって身体を回転する事により、加わった遠心力で横へ逸れるという芸当を見せ、思わず息を呑む。

空中で見事に回避した朴に、安堵しながらも肝が冷える感覚に気が気ではなかった。

 

無茶な動きをする朴に対し、茅もまた樋熊の前へと躍り出る。攻めているようで攻めていない挑発に、樋熊は見事に引っかかり、茅に襲い掛かる。

 

「危ない……!」

「当たり前だ! だが―――」

 

八本四対、両手の先にある爪が、茅目掛けて勢いよく振るわれる。農具の鎌を思わせるそれは、茅が地を踏んだその場所を薙ぎ払う。

 

「当たらなきゃいい話だ!」

 

風を切り、茅を裂くそれは、血肉を捉える事は無かった。腕が振るわれる向きとは逆の方へと身体を流し、勢いに反しないような位置へ逃れる。

得意の千里眼で予見しているのだろう。相手が動くと同時か、それよりも早く対処している。慎重に動いているのが、妖怪同士の戦いを知らない己でもよく解った。

 

大丈夫そうで安堵する―――が、それどころではない。

問題は己がどうするかに掛かっている。

 

「ど、どうする……?」

 

二人に任せても良いのだろうか、と迷ってしまう。相手は強大な存在であり、先日まで狩りにようやく慣れて来た己が飛び込むなんて自殺行為以外にない。

そう、妖怪にとって児戯事な狩りを慣れたばかりの己が、愚かにも大妖怪に挑むなんて馬鹿馬鹿しくて、くだらないとさえ思えて来る。

 

「俺は……」

 

くだらない。くだらない―――のだが、友が戦っている傍らで逃げる事は実に情けない。

 

引き際とか、実力差とか、それは解っている。たかが、小さな烏が挑むなんて、肉片にしてください、と言っているようなものだ。

 

情けなかったのだ。

ただ、挑む勇気が抱けそうに無い、と思ってしまった事が情けなかった。

 

何かしてやれる事があれば、精いっぱいやりたい。己を拾ってくれた群れに迫った危機ならば、尚更の事。

 

「でも、何も……」

 

でも、何も出来ていない事実が胸を痛ませる。苦悶の声を漏らす事しか出来ない。

 

「俺は……何も―――」

 

そこで、不意に腕を掴まれた。

 

「え……?」

 

振り返ると、悔し涙を浮かべる榛がいた。その遠くには、逃れる女子達の姿がある。

豪から出て理解したのだろう、彼女らはすぐに逃げ果せていた。その中に混じって、心配そうに振り返る沙羅の眼は涙で濡れている。

 

「は、榛さ―――」

「逃げるのよ! 今は!」

 

言葉を遮られ、逃げろと催促される。良かったと思う半面、己は何もしていない無力感を覚える他なかった。

 

「で、でも……朴と茅が!」

 

逃げる機会は今しかない。頭では理解している。

 

が、感情では納得が行かなかった。

榛は頑なに聞き入れず、頭を縦に振る事はない。沈痛そうな表情を浮かべた後、茅に顔を向けた。

 

「茅……私の弟なら、必ず戻りなさい!」

「言われなくとも、っていうか! 劫戈を連れてってくれ! 集中……っとぉ! 出来ない、からよ!」

「ええ……!」

 

茅は樋熊の両腕から繰り出される必殺を、躱し、躱し、翻す。

だが、どれも掠り傷を残している。怒りに任せた攻撃を避け切れるとはいかなかった。

 

「朴……茅……戻って! 早く戻って!」

 

義母に肩を掴まれ、引かれながらも、止めようと声を出した。あんなものを見てしまっては、引き止めねばと声を上げるしかない。

 

「気にすんな! それにな、こんな奴に殺されねえし、ここで死ぬ気はねえよ!」

「強敵ではあるが、避けに徹すれば良いだけだ」

 

樋熊の猛攻を掻い潜り、挑発を繰り返す茅は笑って返してきた。朴は変わらず縦横無尽に翻弄し、樋熊の矛先を乱していく。

 

「退いてくれ! 死んだら元も子もないだろっ!?」

 

危険極まりない樋熊を相手取る二人はまるで恐れを知らぬ聖人君主のようだ。

それで死んでしまってはどうしようもないと言うのに、二人は逃げの選択だけはしなかった。己と違って、やらねばならない、と駆り立てているのだろうか。

 

「我と……」

「俺がやらないでどうする!!」

「な、何も……今じゃなくても、いいじゃないか!」

 

そんな二人を、羨みながらも再度言い放った。今己が止めなければ、二人は相対を続けるだろう。

だから―――

 

「聞き分けろ、馬鹿野郎!!」

「でも……!」

「お願いだから、劫戈君っ……」

 

何度も言っているのに、聞いてくれない。義母は戦えなくとも己以上の力を残しているが故に、子供でしかない己を強引に引き寄せて来る。

 

「烏の若者よ、行くのだ! お主は、戦ってはならん!」

「そんな……っ!」

 

樋熊と睨み合い、声だけを向けて来る朴に叱咤されるが、二人を放棄するなどどうして出来ようか。

二人の意見を、己は許せそうになかった。一歩間違えば、大人達のような最期を遂げてしまうのだから。

そんな状況で、女性陣の非難する時間を稼ぐ二人の勇姿は、こんな己に羨ましいと同時に悔しい思いを抱かせた。

 

「駄目だっ! 榛さん、離して下さいっ!! 早く二人を―――」

 

義母はがっしりと己を掴んで離そうとしない。寧ろ、両腕で抱き寄せるように、暴れるこちらを抑え込んで来る。背の羽根を使って無理にでも行こうとするも、背は義母の柔らかな身体と密着している為に抑えられ、広げる事がままならず無駄に終わってしまった。

 

「くどいぞ阿呆!」

「早くしないか、大馬鹿者め!」

「待ぁぁああああてぇぇええいいい!!」

 

樋熊は今も尚、茅と朴を狙っていた。怒りで周りが見えていないようで、執拗に腕を振り回して追跡する。

 

「お前もくどい……っての!」

 

樋熊が腕を振り上げた瞬間、脇の間を通り抜けて地を転がってやり過ごす茅は、起き上がりと同時に妖力の込めた拳を無防備な背に叩き込んだ。身体を捻った際の勢いを乗せた一撃は、遠心力と相まって大きな威力を生む事だろう。

一応効いたようで、樋熊はうつ伏せに倒れた。

 

「はっ! 単調だな。腕さえ届かなきゃこっちのもんだ」

「……痛い、なぁぁああああ」

 

だが、それほど大きな傷にはなっていない。すぐに起き上がり、向き直って―――

 

「うらぁぁぁああああああああああっ!!」

 

飛び掛かっていた。

錯覚だろうか、ゆっくりと動いていく。あのままでは茅が殺される。

 

 

 殺される?

 

 

今、樋熊は宙に浮いている。

その樋熊がゆっくりと進んでいく先には、驚きながら視線で追う茅がいる。身体は動き出そうとしているが、樋熊の飛び掛かる速さとは段違いに遅い。

 

「あ―――」

 

あ、と声が漏れていた。それは己のか、茅のものかは解らない。

樋熊の爪が、茅の喉元を目掛けて振り下ろされた。茅と見ている己と義母も、迫る死に見ている事しか出来なかった。

 

 

 

瞬間。

 

 

 

「づぅ、ぁあっ!?」

「―――……ぐぅッ!!」

 

茅を、白い何かが掻っ攫っていた。茅は死から逃れ、白い何かと一緒に地を転がる。

 

「っ!? ほ……朴……っ!」

「まだ来る!」

 

それは朴だった。

再度、突っ込んで来る樋熊から、咄嗟に飛び退く二人。茅は無傷であった。

 

「助かった、朴。頃合いか……」

「そうはいかぬな、もう少し留めよう……」

 

茅は無傷だ。されど、茅を救った朴は首から下の胴を樋熊の爪が掠めていたのだろう。軽くは見えない縦に入り込んだ切り傷は、朴の身体を赤く染め動きを鈍くする。

 

「その傷で何を……っ!」

 

茅は絶句し、表情を凍て付かせた。

 

「左前脚が動かん……。もう使い物にならんだろう」

「―――!」

 

眼前には樋熊の猛襲が迫っている。避けねば死んでしまう。

表情の鋭さを無にした朴は―――茅を突き飛ばした。

 

「お前―――!?」

「くっ……」

 

その所為で、朴は姿勢を崩してしまう。樋熊はそれを好機と見たのか、矛先をそのまま朴に追いついていた。

 

「まずい……! やめろ、この野郎ぉっ!!」

 

茅が拳を構え、妖力を飛ばす。大木に大穴を開けるそれが、白い塊が樋熊の横腹に当たったというのに、びくともしなかった。

流れるように樋熊は朴を捉え、無慈悲に腕を振り下ろした。

 

「……朴っ!!」

 

朴は笑ってこっちを見て来た。義母の腕の中で、暴れる事を忘れて見入ってしまう。

 

こんな空気を己は知らない。初めて味わう未知の空気だ。

 

「我はこの身を捧ぐ。たとえ、死ぬ事になろうとも」

「…………っ」

 

恐怖、または畏怖でもなかった。

別の何かが、己の中で揺れ動いた。迷いの無い、勝気な顔を浮かべる狼を見て、頭の中が真っ赤に染まる。

 

「若人よ、過ちを受け入れよ。この命をお主の糧に―――」

 

それを最後に、朴はバラバラになった。白い毛皮、とても濃い紅い液体、特徴的な狼の顔、四肢となる腕と脚―――臓物と骨が、内側から飛び出すように散らばる。

五つの物体に寸断された朴は、最早、生き物としての形を残していなかった。ただ、物言わぬ肉片に変わっただけに終わったのだ。

 

「そん、な…………」

 

唖然、しかない。

頭の中で、思考が逡巡し、飛び交う。動くのは身体でなく、頭のみだった。

 

 

 二人を置いて、逃げれば良かったのか?

 

 

そんな馬鹿な、と内心で愚痴る他無い。

あのまま逃げていても樋熊はどちらにしろ、追い付いてくる。誰かが、殿を務める必要があったのは解らなくもない。危険な行為だが、やらねばならなかった。

では―――己が素直に退けば、朴は助かったのではないだろうか。死なせたくないからこそ、退いてくれと言い続けて、時間を掛け過ぎた。

 

その結果、死なせてしまった。

 

時間稼ぎの為に、立ち向かったのに己がそれを無駄にしてしまった。

何度も引けと催促した相手の気持ちを踏み躙ってしまった。

 

その結果、死なせてしまった。

 

危険だ、危険だ、と言っておきながら危険に瀕していたのは己の方だったと、今気付かされた。あのまま引けば危険は最小限に抑えられていたというのに、だ。

 

それは、“過ち”。

 

浅はかで未熟な、己の過ち。

 

「■■■■■――――――!!」

 

認識した瞬間、叫んでいた。

 

「あっ―――!?」

 

義母の腕を強引に引きはがし、怒りながらも愉悦そうに歪めている樋熊の顔に突っ込んだ。樋熊がこちらを向くと同時に、突き出した右拳が顔面に突き刺さる。

 

ああ、大妖怪になんて事を、などと思うつもりは微塵も無い。

恐怖など消し飛んでいる。今は、腹の底から熱く煮え滾る感情が溢れているのだ。

 

「ぎぉぉぁあっ!?」

 

変な悲鳴が腕の先で聞こえたが、知った事ではない。無理やり叩き込んだ甲斐あってか、首を捻らせるくらいには持って行けた。

その反動で互いに吹っ飛んだ。勢いが足りなかったかもしれない、と視界がぐるぐる回る中で思う。

 

「痛い―――お前……許さないぞぉおぉおおおおぉおおおお!!」

 

すぐに起き上がって距離を取ると、駄々を捏ねるように地面を何度も叩く樋熊がこちらを睨んでいた。

 

「……お前こそ許さないぞ。何より、この、俺自身も……」

「おい、馬鹿っ! 来るな!!」

 

許さないのは己の方だ。なんて事をしているんだろう。

 

だが、身体が上手く言う事を利かないでいる。寧ろ、湧き上って来る怒りにうずうずして仕方がなかった。

 

今まで以上に怒りが己を支配している。冷静になれと言われたら、恐らく冷静になれそうにないだろう。逆に溢れんばかりのこの悲憤を受け入れても十分だ。

今まで、どれほど、どれほどに耐え忍んできたか。

 

誰よりも吠える。奮起してやった。

迫った理不尽に立ち向かう―――朴がそうしたように、己もまた立ち上がらねばならない。朴が身を賭して、そうしたように。

 

 

 こいつは、(ころ)す!

 

 

奮起するのだ。

意を決して、この小さな烏も立つんだ。目の前にいる、いなくてもいい大妖怪を、潰してやらねば気が済まない。

 

「殺してやる……!」

 

 

 

―――それがいけなかった。

 

 

 

「―――……ぁ、あ、ああ?」

 

樋熊が動きを止め、こちらを嘗め付ける仕草で首を向けて来た。一丁前に吠えたのが癪に障ったのだろうか、樋熊は訝りながら凝視する。

 

「くっ……」

 

冷汗と悪寒が我が身を襲うが、抵抗と言わんばかりに睨んでやった。大妖怪の前に立つ者は否応無しに薙ぎ払われると知っていても、今だけは逃げたくなかったから。

 

「お……お前は、なんだ……」

「見て解るだろ! 烏天狗だ、くそったれ!」

 

相手からすれば、粋がる蟲か、鬱陶しい羽虫だろうか。

だが関係ない。そんなものは関係ないのだ。

 

「お前がぁ……烏ぅ?」

 

何度も見やる怪訝な視線に、思わず困惑する。一体何を疑問に思うというのか。

 

「狼の群れに、はぐれた烏が混じって悪いか!」

 

また、吠えた。力強く放ったそれは遮られる事無く響く。次いで睨み、拳を握り、いつでも反応出来るように腰を落とした。

 

周りは静かで、何かが動く気配が感じられない。こちらからは見えないが、義母と茅は己の行動に唖然としているのかもしれない。

 

樋熊が向き直り、まるで変なものを見たかのような目を向けて来た。先ほどの行動に対して、樋熊はゆっくりと返答する。

 

「違う……違う、違う違ぁぁあああうう……」

 

返って来たのは、否定の意。

 

「……なに?」

 

怒りの所為で、あまり考える余裕がない。率直に聞き返した。

 

すると―――

 

「お前はぁ―――烏天狗じゃなぁぁあああい。知らない、何かぁぁ……」

 

などと言った。

 

「――――――は?」

 

思わず面食らった。

だが、気を取り直す。もう一度、睨んで弱気を見せないように努め、言い返す事にした。

 

「なにを、訳の解らない事―――」

「そうだ……お前、あんちゃんに傷をぉぉ負わせたぁぁあああ、あいつ(・・・)ぅに……」

 

こちらが言い返すよりも先に樋熊が遮り―――

 

「に、に、似ていぎぃ……ぃ」

「……っ!?」

 

驚いた時には、既に変わっていた。

 

「似て……ヤガルナァァアアアアア―――ッ!!」

 

樋熊は―――顔が崩れて醜くなっていた。

はっきりと、茶色から黒く変化した毛の一本一本が見え、血走った二つの眼がこちらを捉えて動かない。涎を纏っている、生臭くて、尖った牙が並ぶ口が、収められていた舌を解放した。

 

そんなにも鮮明に見えるのは―――

 

 

「ぁ――――――」

 

 

―――鼻先に移動していたからだった。

 

 

死ぬのか。

 

 

驚く暇もなく、視界が流れ動く。次に、横からの衝撃が身体を襲った。

 

不思議と、痛みは無い。痛い、と感じる事も出来ないのか。

 

更に、白い影が己を覆った事だけが、理解出来た。白い髪と空に撒き散らされた赤い水滴が見えた。

 

ああ、死んだのか。

 

 

 誰が―――?

 

 

死んだ―――否、生きている。ゆっくりと動いていく狭まった視界の中で、色ははっきりと見えているのだ。

では、どうして無事なのだろう。

 

目の前には白き者。見間違える筈がない、大事な義母がいる。

 

「―――榛さん?」

 

何が起きたのか解らなかった。いや、したくなかった、というのが正しいだろう。

 

己の中で、音が死んで、時が死んだ。

 

「―――榛さあああああああああああああああん!!」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

夢を見ている気分だった。

 

 

 

閉まっておいた、懐かしい思い出達が、泡のように浮かんで来る。

 

 

 

生まれて間もない幼き日。

両親が、笑って出迎えてくれた。

五百蔵様も一緒にいて、斑さんや樺さん、楫君や樒も皆で祝ったね。

 

月日を経て、子供を謳歌する時期。

隣には、同い年の貴方(・・)がいて、一緒に遊んでいた。

今思えば、貴方(・・)は達観していて、皆が知らない言葉を知っていたり、五百蔵様しか解らないような事も話していたりして、周囲に馴染めなかったね。

 

弟が生まれて歓喜した日。

まさか自分が姉になるなんて思わなかった。

ちゃんと弟を導けるお姉ちゃんになれれば良いけど、って思ってもいたかな。五百蔵様直系の雪色の毛を、綺麗だね、って褒めてくれたのは貴方(・・)だけだった。貴方(・・)も妹の沙羅ちゃんと鵯ちゃんが生まれて、お兄ちゃんになったんだよね。

 

大人の仲間入りを果たした日。

一緒に過ごして、一緒に大人になった。

私の隣には貴方(・・)がいて、貴方(・・)の隣に私がいるのが決まっていたね。楫君が貴方(・・)をからかう傍らで、樒が羨ましそうにしていた事もあったよね。

 

想いを伝えて、番になった日。

無意識だったのかな、気付いたら魅かれていた。

副長になった貴方(・・)は、五百蔵様に次いで妖怪としての格が高くて、今まで誰も思いつかなかったような戦い方で回りを驚かせて、群れを支えてくれたね。誰もがその実力を認めて、私も皆に混じって貴方(・・)を称えていたのよ。

私が浮かれて抱き着くと、優しくて温かい腕で抱擁してくれたのはとても嬉しかった。

 

貴方(・・)との子を身籠った時。

長いようで短い時の中で、遂に母となる日が来たのだと感慨深い思いを抱いた。

群れの皆が祝福してくれて、両親が号泣していたのには茅と一緒に苦笑いしたかな。端っこで吹っ切れた樒には申し訳ない気分にもなったけど、結局はおめでとうって言ってくれたのよね。五百蔵様も、遂に玄孫が生まれるのか、とか真剣そうに呟いていたのだったかしら。

生まれてくるこの名前は考えてあるって言っていたけれど、押問答しても結局教えてはくれなかったね。

 

 

 

何もかも奪われた、あの日。

両親が死んだ、貴方を喪った。貴方(・・)の声が聞けない、貴方(・・)に触れる事が出来ない、愛した貴方(・・)に何も―――。

貴方(・・)を弔ってから、私は死んでいるような気分だった。

最愛の貴方(・・)を失って、女性として子が望めなくて、最早、蛻の殻としか言えなくなった私は、明日を迎える感覚がおかしくなった。

忘れられなくて、ずっと寂しさを隠して生きていた。五百蔵様も茅も沙羅ちゃんも鵯ちゃんも、樒も楫君も斑さんも樺さんも葦さんも、笑顔を装って皆を騙して、無理していないと取り繕う私をどう思ったかな。

 

時を感じなくなって、私は壊れてしまったわ。

 

 

 

そして、茅が前よりも大きくなった頃。

悲しみを隠して生きる中、幼い烏と出会った。

憎きあの男の子を引き取った事で、時間が戻っていく感じがしたのは錯覚じゃなかったと思う。接している内に烏天狗とは言い難い子なんだと理解出来た。それに変な話だけれど、男の子というだけで貴方(・・)との子が、この子なんじゃないかと不思議に思ってしまったわ。

義理であっても、母として見てくれた事が嬉しかった。酔っていたかもしれないけども、ただこの子の母になれて良かったと思えて来るのよね。

過去は戻らないけど、貴方と紡いだ温かい思い出が蘇るような気がしたから。

 

 

 ……。

 

 

今度は、私の番。

 

 

 ……そう、か。

 

 

そう。

 

 

 ……そうなんだね。

 

 

貴方(・・)が、身を挺して私を守ったように。

 

 

 

――――――

 

 

 

眼を見開くと、灰色の左眼が特徴的な息子がいた。顔を青褪めさせて、必死に自分を呼び掛けている。

 

「――――――さん! 榛さん……しっかり、しっかりしてください!!」

 

音が聞こえ始め、涙を流して激しく取り乱していたようだった。尻目で、茅が時間を稼いでいるのが解るが、そう長くは持たないだろう。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい! 榛さん……榛さん! 俺の……俺のっ、所為でっ」

 

今、自分は両膝を着いた息子に、上向きに支えられているのだと解る。状態は、全身に力が入らない上に、寧ろ抜けている感覚しか解らず、全く宜しくは無い。

眼前で泣きじゃくる彼を樋熊の凶刃から庇ったのだから、当然と言えば当然だった。

 

視界と意識が朦朧とするが、頬に添えられた手がしっかりと繋いでくれていた。

 

「こ、うか、くん……いる、の……ね?」

「はい……はい、います。ここにいます!」

 

涙で視界がぼやけているだろうが、そんな彼にでも伝わるように笑う。嘘偽りの無い笑みを、彼に向けた。

 

「よかった……」

「……っ!!」

 

声は辛うじて出せるが、自分の事は解っていた。故に最後の力を以ってして、彼に伝えねばならない。

 

「お、俺の所為でっ……」

「違う……前に、言ったで、しょ……?」

 

動揺するように、瞠目する彼を余所に、言葉を繋いだ。

 

「こ、どもが、傷付く……のは……辛いか、ら……」

 

そこで喉からの違和感を受けて咳き込むと、生温かい血が溢れた。命の残量とでも言えるのか、首を伝って留まらずに流れていく。

 

「ごほっ……」

「い、いやだ……ここでお別れなんてっ!」

「ご、めん……ね?」

「ま、待って……まだ……」

「わた、しも……まだ」

 

まだ、まだ、と。

そう、感じられた。言葉を交えなくても、ひしひしと伝わって来る。

 

「まだ、貴女に……」

「まだ……あなたと……」

 

親子として感じた時間は少ないと言うのに。

でも、現実は甘くはないと知っている。思わざるを得ないのは、我が儘だった。

 

「恩を返せて……ないのに」

「すごし……てい、たかっ……た、かな……」

 

瞼が重くなった。自分の意志とは裏腹に、下がっていく。

 

「死んじゃ駄目だ! 駄目だ……榛さんっ!」

「あなたは……いき、なさい……」

「だめ、だよ……は、る…………さん……っ」

 

焦る息子はぐちゃぐちゃになった顔を向けて来るが、その顔はもう暗くなって見えなくなった。嗚咽と温もりしか感じ取れない。

 

別れは、いつか訪れるものだから、残念には思うものの、後は時間が解決する。せめて、息子の笑顔が見たかった事は、隠しておく。

 

泣かないで欲しいのに伝わっていないのか。貴方は私がいなくても大丈夫、泣かなくても大丈夫、と伝えなくてはと内心で焦った。

 

「そんな……だめだ―――おかあさん!!」

「……っ」

 

だというのに、この子は。

 

 

 嗚呼―――なんて嬉しい事を言うのか、この子は。

 

何故だろうか、一人にしてはいけない気がする。

一人で立ち上がるには早いかもしれない―――否、最初から(・・・・)無理(・・)なのだろう。ならば、()である自分がその未熟な背を押さねばなるまい。

 

親として跡を託そう。

 

まだ意識ある内に決心し、最後の力を己が内に集めた。

 

もう、言葉は発せない。

ならば、と。

 

 

 ごめんなさい。まだ、逝けそうにないわ。

 

 

 

 

 

『―――大丈夫だよ、榛。君の成したいようにするといいさ』

 

 

 

 

 

最期に、謝罪を告げると―――優しく返って来た。

 

 

 ごめん、なさい……ありがとう―――。

 

 

感極まる思いで言葉が詰まり掛けた。

彼の、息子の―――劫戈の生きる力に成れるよう、己の持てる全てを掻き集めて、己を “牙”と化す。見える色、感じる色は、全て雪色一色に変わり、己を形作っていく。

 

妖怪から―――妖刀へ。

 

妖怪としての我が秘術―――この“命”を貴方の“干戈”に。

 

彼ならば使いこなせる筈。

たとえ、使えなくても、自分が付いている。振り回されるなど、決して無いし断じて無い。

 

 

 

私は―――我は、(はしばみ)

銘を、『(はしばみの)爪牙(そうが)』となそん。

 

 

 

意識が遠のくその最中、祝詞を授ける事にする。それは全霊を懸けた力の具現。

 

        ―――我を、汝に与ふ。故、汝に能ふ者無し―――

 

 




書いていたら、凄く感情的になっていました。
さて、榛の夫がどんな人物か、察した方もいるかもしれません。実は裏設定なんです。故に、故人として描いています。
さて、榛さん死んじゃった(しらっ
しかし、逝ったのではない。それは次回に判明します。
今回の犠牲者
朴、モブ白狼……榛

第三章の結末について

  • 取り返しのつかないバッドエンド
  • 痛み分けのノーマルエンド
  • 邪魔者を排斥出来たハッピーエンド
  • 作者におまかせ(ランダム選択)

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