東方捨鴻天 【更新停止】   作:伝説のハロー

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前回の後書きで半分に切ったと言いましたが、改訂して詰め込みたいものを加えていく内に文字数が多くなってしまいました。また半分に出来るんじゃないかってくらいに、今回は一万字を軽く超えた長い内容になっています。

さて、今回で大人のターンは終わりです。次には……
はい、続きへ行ってみよう。

2/22、後半の一部を修正。


第一章・第十三羽「窮地と、悲嘆と」

山全域に激震と戦慄、憤怒の遠吠えが迸る。

 

まるで、爆発。

 

今、この世に彼の“大地を揺らす者”が、その生き残りが顕現した。

大木を思わせる強靭な四肢はしっかりと大地を踏み、荘厳に佇ませる。曇りない白き毛に包まれた体躯は、神々しくも荒々しかった。

 

それは一匹の狼。

五百蔵は、数人の大人を固めたような図体の樋熊と比べても、十分に匹敵する体躯へと変化していた。

僅かに開いた口から、短く息を吐いて殺意を滾らせる。樋熊よりも多く、羅列している鋭い牙を見せ、言外に殺すと意思表明する様は何者か。

 

其は他にならずして、“地を揺らす者”。

 

そこに在るだけで大気が震え、その存在感だけで大地をも鳴動させる、神話の狼。倭の妖怪ではなく、遥か北欧の地を起源とする狼の子孫。

 

その者の名を、五百蔵―――厖地元座(だいちのもとおき)五百蔵(いおろい)と呼んだ。

 

いつもの優しさを捨てて、赤い双眸が敵を映した。

 

「グゥッ!?」

 

それに反応した樋熊は、今までの虚勢を崩すかのように一歩、また一歩、地を踏んだ。臆したようではあったが、踏み留まっている事から、戦意は失われていない事が解る。

 

恐れなく、後退から前進へ繋ぐ。

 

「…………ゥゥ、ウウウオオオオアアアアアアアアアアアッ!!」

 

それは、好戦的な意志で、迎え撃とうという意味で、応えた。汚らしい唾液を吐き散らし、面白いぞ掛かって来い、と言わんばかりに腕を振り回す。

 

突如現れ、群れの塒を侵したこの樋熊。

五百蔵に匹敵する樋熊だったが、尚も底が見えないくらい拡大しているようにも見える。五百蔵の行動に反応して妖力の強弱を付けているのが何よりの証拠であった事から、未だに力量計れぬ何かを秘めているのは確かだった。

 

そして何より、狂っているようでいて正気があるようにも散見出来るのだから、樋熊の非常識な状態が垣間見えるだろう。血走っている眼は明らかに焦点が合っていないし、変質したと思しき妖力は禍々しい邪気へと化している。

 

どれほどの歳月を積み重ねたのか、と首を傾げたくなるほどに濃密で、本能が忌避したくなる威圧感と嫌悪感が込み上げてしまうだろう。

それほどに濃く、おかしい妖気がどうしてそうなったのか、何故にこんなになるまで放置したのかは言うまでもないかもしれない。

元から樋熊には大妖怪としての才能が溢れていたのだ。が、過程はどうであれ、その果てに狂ってしまった。

 

もう、本来あるべき妖怪には戻れないだろうという事は明白だった。

五百蔵は経験則から。樋熊は、本能の漠然とした感覚から。

 

吠えて返して来た樋熊に、五百蔵はほう、と感心する

 

『吠えるか。オレを前にして』

 

五百蔵の腹の内は油断を許さぬといったもので占められている。油断なく、動向を予見し、見据えた。

 

「―――ァァアアアッ!」

 

瞬間。

樋熊の体表から、はっきりとした黒い靄が噴出した。紛れもない邪気である。

 

眼に見えるほど濃いそれは、まず体表に浮いていた膜とも言えるものが輪となって広がり、辺りへ突き進む。続いて追いかけていく黒い靄は空気に溶けて霧散した。

 

その余波に巻き込まれた者は無惨であった。

木々が絶命し、麓にいた魚が次々に卒倒する。既に樋熊が移動する一個の災厄と化している。しかも“この状態”となれば、最早、妖怪の領域から踏み出しているかもしれないと言っても過言ではない。

 

そんなものを正面から受け―――否、己の妖力で弾き返す五百蔵は思わず鼻先を震わせ、顔を僅かに顰めた。

 

『……オレの前で吠えるな、今際の言葉など要らんぞ』

 

荒れた口調で、されど狼の姿で厳かに言辞を吐く五百蔵。実にどうでもいいといった風な上に、一方的で刺々しいものだった。

 

『懇願しても許さん、さっさと戮されていろッ!』

 

早口に言い切り、音を置き去りにする速さで飛び出した。その場から消えて数瞬してから、土が弾けた音が響くという芸当を見せる。

対して、黒く変化した樋熊も釣られる形で認識。恐ろしいまでに、視界と聴覚から消え去った五百蔵の後を追う反応を発揮した。

 

撒き散らされ、ぶつかり合う妖力が金切り声を上げて衝突し、互いを押し殺さんと拮抗する。

その間に、白と黒の二色は数条の影となって交差していた。二度、三度、四度、向きを変えては突撃し、攻撃と回避を同時に行う刹那の中で、相手の動きを互いに読み取っていく。

 

「オオオオオオオオオォォォッ!!」

 

黒い樋熊は唸り声を上げながら、逆立つ剛毛を備えた躯体を軽やかに横へ滑り込ませ捻る。すると、先ほど視覚から消え失せた五百蔵の姿が現れ、さっきまでいた樋熊の場所を瞬迅の速さで通過していた。

重量を感じさせない速さで行った確実な回避は、五百蔵の突貫を避けるに足りた。次に樋熊は、仕返しとばかりに振り向き様に右腕を振り抜く。

 

問答無用に骨肉を断ってしまう鋭い鎌のようなそれは、死神が樋熊に味方していると思わせる得物だ。海岸で肉片と化している鵯の血に汚れた四本のそれは、人型の時のように五百蔵の皮膚を容易く切り裂くだろう。

だが―――

 

「グ、ゥオオゥゥッ……!?」

 

事を起こす前に五百蔵が、振り抜こうとした右腕に噛み付いていた。並んだ牙が分厚い毛を押し退け、柔らかい肉へと入り込む。

 

―――予め見切っていたからこそ、先手を取った。

 

何度も相対していれば、解る事であった。本能から来る回避行動は、五百蔵からすれば見飽きており、予測は十分。樋熊の爪は実に脅威で、急所に貰えば即死しかないのは解り切っている。防ぐ余裕はなく、かといって無闇に先手を打とうにも反応されてしまうのだから、打つ手がないかに思われていた。

 

ならば、と五百蔵は考え行動し、今に至っている。

 

敢えて泳がせ、樋熊から繰り出させることで隙を作り、攻撃の合間に攻撃を挟み込むという、“攻撃は最大の防御”を実践した。

 

五百蔵は、そのまま千切れんばかりに顎を閉じようと力を込める。

 

『―――見えてんだよォッ!!』

 

ごぎり、と樋熊が反応させる暇を与えず四肢の一つを潰した。強引に噛み砕かれてへし折れた樋熊の右腕は、止めど無く血を滴らせ、関節が増えたように見せていた。

 

「グッ、グ、オオオオオ、オオオォォォッ……!?」

 

あまりの痛みに苦悶の声を上げる樋熊は、右腕を庇いながら残された左腕で五百蔵を掴み掛かろうとする。

が、空を切る。五百蔵は樋熊が痛がっている合間に、爪が届く距離から離れていた。俊敏な動きをするのは、何も樋熊だけではない。

 

「ア、オォ……オオオッ」

 

すると―――忌まわしく、恨めしそうに、焦点の合わぬ眼が動いた。痛みの原因を作った五百蔵を探しているのか、ぎょろりとした仕草で血走った双眸が左へ下へと、右へ上へと行き交う。

 

距離を取っていた五百蔵は鋭い眼光で睨む。仇敵への嫌悪感を募らせた彼は、ただ吐き捨てる。

 

『―――貴様は苦しめて戮す』

 

五百蔵の怒りは消えない。

怪物同士の戦いは、更に熾烈さを増していく。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

樹木を突き破る波動が、木端微塵にしてしまうのではないかと思わせる烈風を齎した。

 

衝突の余波を受けて盛大に吹き飛ばされた面子―――葦、樒、楫。そして樋熊は、地を転がり、勢いを殺していく。斑がいないのは、違う方へと飛ばされた可能性が大きかった。

次いで、身体に染みついた動きを見せる。起き上がり早々に距離を詰める者と離れる者に分かれていた。

 

「チッ!」

 

相対者の中で、一番近かった楫だけが樋熊の飛び掛かりに反応した。舌打ちしながらも冷静に努め、姿勢を屈めて無防備な股を潜り抜けて対処する。

 

五百蔵と相対する樋熊とは違う個体の樋熊である。顔の造りに面影があった。親類か弟分に値するのだろう。

そう、楫は潜り抜ける際に樋熊の顔を見て、一瞬の思案で感じ取った。

 

「―――喉を遣れ!!」

 

楫が周囲を見て、瞬時に熟考し、次の手として叫ぶ。司令塔としての能力に長けている彼ならではの判断だった。

今敵対している樋熊は、動きが先ほどより鈍くなり、口から血を流している。五百蔵からの余波を受けて吹き飛ばされた際、無理な姿勢で弾き出されたのだろう。内臓を出血させるほどの内傷を負っていた。

 

「隙を作る。喉を潰せ」

 

素早く姿勢を整えつつ、楫は油断無く、樋熊を冷静に見据える。

 

余談ながら、楫は榛の夫とは親友であり、かつては副長の座を競い合ったほどの実力者であった。楫には、火力面で一歩劣るものの、判断力に疎遠は無く、集団を引っ張るには十分過ぎる力がある。

それを理解している為に、葦と樒は楫の行動と樋熊の出方を俟つ。

 

「なるほど、ねぇ」

「今なら好都合か」

 

五百蔵の変化に慣れている彼等は凌ぎ方を知っている。故に、波に乗って飛ばされていった。

だが、知っているとはいえ、成功は五分がいいところ。乱れ飛ぶ物体となった妖力が飛んで来るのだから、当たり所が悪ければ何かしらの裂傷を負う。最悪の場合、樋熊と同じく内傷を負った事だろう。

三人は奇跡的に、危惧したそれにはならずに済み、樋熊は例外として受けていた。樋熊が傷を負ったのは、予想外の所見であったと言うのが大きな要因である。

 

結果的に、好機となった。

 

―――が、油断はならない。大妖怪を舐めては、忽ち身を滅ぼす事になってしまう。

 

そこで、樋熊はずしりと両足で踏ん張り、両腕を横へ広げた構えを取った。妖怪であるから無形だが、反撃に向いているのは見て解った。

 

その奇異な行動に、三者は僅かに戸惑いの表情を浮かべる。

 

「言葉を理解している……の? ちょっと、やだ。こいつ、なんなのよ」

「狂っているけど正常、ってか? 冗談なら他所でやって欲しいなぁ」

 

ぼやく樒と葦。二人の言っている事は、正気の理性を持った者ならば、尤もな意見だった。

なんという常識外れ、妖怪なのに頭が御釈迦になっているのはどういう事か。こんな相手取りたくない相手に会ったのは、彼等は初めてだろう。

 

「―――切り崩すまで!」

 

魁となり、そこへ飛び込んだのは楫だった。その言動に、緩んだ二人の顔が引き締まる。

 

樋熊が振るい、楫の命を刈り取る―――事はない。切られて舞ったのは数本の白い髪の毛であり、楫の命ではなかった。

楫は爪から逃れる為に仰け反り、前髪の毛先が持って行かれただけの最小限の回避に済ませていた。以降は、樋熊の爪が空を切り、その隙に楫の貫手が飛び出す。

そこからは、何度も繰り返された爪戟、手刀と貫手が行き交う。矛先を逸らし、致命傷を避け、互いにその場で釘付けにする。

 

「―――ッ!」

 

再び尋常ではない反応速度で、樋熊は頭を捻って回避に移行する。裏拳の応用で繰り出された楫の手刀と同時に挟撃する形で飛来する葦の拳は、真横から鼻を狙ったものであった。

乱入した葦の拳と楫の手刀は当然避けられ、樋熊に絶好の機会を与え、凶悪な両腕が真上から一気に振るわれる。

勝機をごっそり奪われ、二人は餌食となる―――

 

「ざぁ~んねぇんっ!!」

 

―――事は無かった。

それは、隙を誘う行為だった。故に樒は、盛大にほくそ笑む。

 

入り込んだ葦は勢いを殺さず、身を翻して後退。楫は樋熊の視界を遮るべく前へ躍り出た。その合間に、横から樒が隙を付く形で入り込む。

 

丁度、樋熊を囲う三角形の頂点に三者は位置している。楫が正面から相対し、葦がその右側に、樒が左から突っ込む―――三者の連携を円滑に出来る状態だった。

 

樋熊の振り切った腕は何も切り裂く事無く、視界は接近した楫によって遮られ、樒は踏み込んだ左足を軸にして左回りに回転を加えていた。

三者の行動はどれも独立していて、しかし単一の存在には脅威であった。

 

 

樋熊は返し刀のように腕を上へ振るうも、その手首を掴まれる。正面の腹に潜り込んだ楫と逃れた筈の葦がそれぞれ抑え込んでいて、思うように動かせなかった。内臓への傷が響いているのだろう、それも相まって僅かに空回りしている。

 

「これが……全力ぅっ!」

 

回転によって遠心力を加えた、樒の右腕が勢いに従って樋熊の首を捉える。眼に見えないほどに加速した手刀が、迸る白い妖力と共に繰り出された。

あまりの速さに腕から先が残像と化し、放った樒でも認識を狂わせる。まさしく渾身の一撃だった。

 

樋熊が反応して首を捻ろうとするも、楫と葦がそれを許さない。二人掛かりで押さえつけられた腕がその場に固定されたように動かなかった。

そして―――

 

落雷の如く、衝撃が走る。

炸裂した音と感覚に、樋熊の喉へと寸分の狂いも無く直撃した。

 

 

「ガ……―――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 

 

突如、理性ある声が木霊した。瞬間―――黒い妖力が樋熊の全身から飛び出て、悲鳴に似通った音を立てて消失する。

 

「は―――!?」

「ぐぉおおっ!?」

「え―――なに……っ!?」

 

予想外な出来事に誰もが瞠目すると共に、大きく距離を取る三者。本能が危機を知らせ、手を出す事を控える他なかった。

各々が驚愕に染まったのは無理も無いだろう。

 

消えた黒い妖力は、初めて出会った時に見たものだ。三匹いる樋熊の内の五百蔵が相手取っている者から発した異常なものと酷似している。

だが、放たれた直後、鳴動させながら大気の中を突き進んだ筈なのだ。でなければ、今のようなその場で消える事は無い。

つまりは―――禍々しい妖力が消えた、という事だった。

 

三人が驚愕するには十分であるが、それだけではなかった。

 

今まで相対していた樋熊だが、明らかに状態がおかしいのだ。

樒が放った一撃は、剛毛ごと引き裂いて喉に到達し、潰したのである。その証拠に、真っ赤な鮮血を垂れ流し、胸一帯を濡らしている。樋熊にとっては十分を通り越した痛手であろう。

 

それは良い。問題は、態度や雰囲気にあった。

 

「う゛う゛ぅ……っ!」

 

焦点が合わず、血走った眼は―――理性ある光を取り戻し、苦痛に耐える者の眼をしている。焦点が戻り、喉に手を宛がって蹲る姿は、子供のようにも見受けられた。

 

「……おかしい」

 

楫が呟く。

先程と比べて、まるで別の人格に切り替わったかのように変貌を遂げた。

 

―――故におかしい。

 

否、おかしく(・・・・)なくなっていた(・・・・・・・)

 

「正気を、取り戻したのか……?」

「こ、この土壇場でかっ!?」

 

樋熊の妖力が、負傷した喉に集中する。治癒しようというのだろう、敵がいるにも関わらず、妖力を回復に回していた。

 

「おい、どうするよ」

「ちょっと、困ったわね……」

「む……」

 

三者は攻めるべきか、決めあぐねてしまう。勿論、可愛そうなどという生易しい事では無く、罠であるという事を危惧しての事だった。

 

しかし、好機であるのもまた事実。攻め入るには今が絶好の機会となるだろう。

 

だが、狩りで追い込まれた獲物は、追う側よりも凶暴な存在に豹変する事もあるのだ。樺の命を賭した行動を鑑みて、今は攻めるのは得策では無いと判断するのが妥当である。

それを知っている彼らは、互いに頷き合い、しばし見定める事とした。

 

確実に仕留める為に、まずは出方を見ようと、視線を戻した。

 

「あ、あ…………ぃちゃ、ん……いた、い」

 

苦しそうに、言葉を発した。理性ある眼で、ある程度癒した喉で、はっきりと。

 

「た……す、けて」

 

助けて、と。

 

「―――あ、あれじ、あん……ちゃん」

 

消え入りそうな声で懇願した。

 

そこで三者は気付いた。耳が違わず音を拾う。

 

ここまで言われては、流石に気付く。

狂った元凶は、今尚、本来の姿となった五百蔵が相手している樋熊だという事に。

 

あれ(・・)が、兄……だと?」

「大元はあっちってことになるのか」

「哀れな事だわ……巻き込まれた訳ね」

 

複雑ではあったが、怒りは捨てていない。狂っていたとはいえ、同胞を殺された事実は覆しようもないのだ。

五百蔵の群れにいる古株だからこそ、群れの脅威になった者を放っておくほど親切心はもっていない。

 

「仕留めた後、斑を回収しに行く」

「あの傷だと早めに治療した方がいいしな」

「さっさと終わりにしましょうか」

 

故に留めを刺すべく、楫を筆頭とする葦と樒は仕留めの行動を取る。

 

 

 

 

―――三者は忘れていた。樋熊が発した言葉が一体何を意味するのかを。

 

 

 

 

各々は白い妖力を絞り出す事で、その身に得物を降ろす。葦の拳には風を裂く勢いで纏わりつき、樒の指には手刀として即席の刃を形作り、楫の脚部には無数の刃が纏われた。

 

「よし、さっさと―――」

 

そこまできて突然、耳まで切り裂かれた時の傷が残る楫の顔を、大きな影が覆う。

 

気付いて見上げた時には、既に遅かった。

 

「っ!?」

『……ぉぉぉおおおおおおお―――っ!!』

 

真上から長大な何か―――背を向けた五百蔵が飛来していた。

 

 

 

――――――

 

 

 

激震。

 

辺り一帯、木々、土、塒をも何もかも、木端微塵に変えた。勢いがあり過ぎたのか、地形を変えて轟音と共に辺りを吹き飛ばし、そこにいた者達をも巻き込んだ。

 

これには、流石に冷静な楫ですら声に出さずにはいられなかった。

 

「あ、あの姿の大将を……まさか、投げ飛ばすとは……!」

 

転がる中で戦慄し、樋熊への認識を再度改める事とする楫。

吹き飛ばされ崩した体勢を戻した彼は、すばやく周囲を見渡す。舞い上がった砂煙で見通しは劣悪と化しており、匂いすらも辿れない音と直観に頼る他無い状況へと追いやられた。気配でも解るが、近くでなければ難しいだろう。

 

楫は横から気配を感じ、視線を動かす。樋熊とは違う小さな影があり、それが同胞であるとすぐに解った。

 

「葦、楫―――」

「大声を出すな……樒」

 

丁度傍に来た樒を手繰り寄せた楫は、声を荒げそうになる彼女の口を強引に塞ぐ。頷き返す樒に尻目に、姿勢を屈めて油断無く周囲を見渡し、砂煙が晴れるのを俟った。

今下手に動けば位置を悟られる上に、神速に迫りそうな速さで繰り出される爪戟を避けられるか曖昧であったからでもある。圧倒的に不利となった今、動くのは控えねばならなかった。

 

『……テ、メェェエエエエエエエエエアアアアアアアアッ!!』

 

楫と樒の砂塵しか移さぬ視野の中で、五百蔵が絶叫した。怒り、憎しみ、それらを乗せて樋熊に体当たりを決めたのを音で感じ取る。

 

何が起こっているのかは二人には解らない。吹き飛ばされ過ぎて、葦と斑がどこにいるのかすらも把握出来ない現状では仕方なかった。

 

五百蔵が認識して咆哮したからだろうか、波動のお蔭で一気に砂塵が晴れた。

 

「な―――」

 

砂塵が晴れた二人の視野に入ったのは―――真っ黒に変貌した巨躯の樋熊という異物だった。

 

「――――――」

 

唖然とするしかなかった。

黒い樋熊が、憤慨して暴れる五百蔵を片足で首を踏み、地に縫い付けていたのだ。横たわる五百蔵を動けぬように、大木の如き足で強引に抑え込んでいる。

 

「あ、葦……っ」

 

震える樒の声が楫の耳に届く。

二人が唖然とする理由は、五百蔵が圧倒されている事だけではない事は、起きている光景で嫌でも認識していた。

何故なら、黒い樋熊の掲げた腕の先には、胴体を抉られて事切れている葦がいたからだ。無惨にも、血の花を咲かせ、黒い樋熊の左腕を真っ赤に染め上げている。

 

唖然とする以外に、どう反応すれば良いのか、二人は答えを持ち合わせていなかった。状況が一変し、そんな光景が広がっていたのだから。

 

黒い樋熊が腕を振るった。

 

『…………―――ッ!!』

 

塵を放り捨てるように、葦の骸は弧を描いて打ち捨てられる。一部始終を見ていた五百蔵を挑発するような行動は、遠くで見ていた楫や樒でも怒りを燃やすには十分だった。

 

少なくとも二人には解っていた。

長兄であろう、黒く変化した樋熊は弟の懇願に応じて、救援に駆け付けたのだと。

でなければ、あのように間の合った介入などあり得る筈はない。

 

狂っていながら、正気でいて狂っている。

 

言葉に表し難いが、今はそうとしか言えないだろう。常識外れな黒い樋熊は、一妖怪としては現実逃避したくなる怪物だった。

 

樋熊の弟は変わらず苦悶一色のまま、黒い樋熊を盾にして奥で回復に徹している。

 

「ゥゥアアア……オオオオオッ!!」

『ぐぅっ……!』

 

黒い樋熊が力を込め、五百蔵の首をへし折る勢いで踏み付ける。踏み付けられた五百蔵は伊達ではなく、そう簡単にやられはしない。何とか逃れようと足掻く五百蔵は、肉体全身から妖力を呼び寄せた。

 

「まさか、この状況で御業(・・)を放とうと……!?」

「ち、ちょっと待って……みわざ? え、嘘でしょ?」

 

楫は瞠目し、それに困惑するのは樒。巻き込まれぬようにと、気取られぬ静けさで後退しつつ五百蔵と樋熊の行方を見据えた。

 

これから行われようとしているのは、紛れもない大妖怪が大妖怪たる片鱗である。最初から放っていれば良かったかもしれないが、放つにしても、当たらなければ効果は無いし、下手をすれば山一つ消し飛びかねないという危険を孕んでいる為だからだ。

 

「樒は初めてだったな。いい機会かもしれん―――よく見ておけ」

 

大妖怪になった者には、妖怪としての畏れを体現化した力が、元来から備わっている。それを技として、昇華したのが“御業”。神格の成す偉業などをそのように言うのだが、大妖怪となれば話は別だ。人間からすれば、神の如き怪物が他者を害するのも、守るのも、等しく“御業”という分類として見られる。

 

其れは紡がれた。

 

                ―――嗚呼―――

 

思わず聞き入りそうな、澄んだ声。

大気を一瞬震わせ、次に音が消えた。何も聴こえさせない、と言わんばかりに。

 

              ―――偏ニ立チ入リキ―――

 

老爺とは思えぬ青年を思わせた声。

樋熊が異変に気付いて、首を傾げるも、発したであろう口からは何も聞こえてこない。

 

               ―――障礙ナレバ―――

 

或る日の、懐かしい言辞で五百蔵が詠う。

時が止まり、迸って現れたそれは白い燐光となり、口元に集っていく。

 

               ―――生クルナリ―――

 

我が祖は、地を揺らす者なるぞ、と言い表す。

眩い光が五百蔵の口へと入り込み、更に閉じた牙の隙間へ入り込む。

 

               ―――死スルナリ―――

 

今こそ、証明する。

地に横たわる五百蔵だが、その態勢でも十分なのだろう。横目で黒い樋熊を睨み付け、それに樋熊が一瞬、固まった。

 

               ―――逸スルハ無キ―――

 

地を揺らし、壊し崩し、川を造るのだ。

首だけを起こし、正面に見据えた五百蔵は、黒い樋熊へ矛先を向けた。

 

慄いたか。

臆したか。

怯えたか。

 

どれでも良い、関係は無い。ただ滅する一撃なのは明白だった。

 

『―――受け取れ』

 

 

其の名は―――

 

                      【殲呀】

 

―――と言った。

 

 

「――――――」

 

白が膨れ上がって暴発した。

 

光の塊、妖力で具現化したものだろうか。それが一体どのような形をしたものなのか認識すら出来ない程の巨大な光を放ち、青い空を突き抜けて割った。悲鳴が消えるほどの光が辺りを支配する。

 

速度、威力、妖力の質からして、同格以下は凌ぐ術を持たない力だろう。寧ろ、凌げるのか怪しいものだった。

現に―――

 

「オ、オオ……」

 

黒い樋熊の右腕が消失していたからだ。

右腕という存在を消し去った、というのが実に恐ろしいものだった。低級の妖怪からすれば、妖力によって格段に強化された肉体の一部を、問答無用で消し飛ばすのだから脅威以外の何物でもない。

 

それを見ていた楫と樒は、息を呑んだ。

 

だが、それ以上に―――

 

『これを避けるか……!!』

 

胴体を目掛けて放ったようだったが、黒い樋熊は後ろへ身体を逸らす事で逃れていた。肩から先の右腕を犠牲にする事で、邪魔になっていた部分を切り捨てる事で、凌いでいたのだ。

だが、鮮血を撒き散らし、肩から先を失うという致命傷となった事はあまりに大きい。この事実こそ、黒い樋熊は五百蔵を、意識外であっても、再認識した事だろう。

 

「オオオ、オオオ、オオオオォォォオォオォ……」

『ぬぅぅううううううううんんッ!!』

 

自由の身となった五百蔵は即座に立ち上がり、仰け反って苦悶に声を上げる樋熊に向かって突っ込んだ。その隙は逃さないと言わんばかりに、樋熊に詰め寄る。

 

ところが、五百蔵の突進が黒い樋熊を捉える事は無かった。

樋熊は予想外な事を仕出かす。黒い残像を残して、五百蔵の視野から逃れ、予想外な方向へ。

 

―――飛び越えたのだ。

 

彼の無防備な背を一切傷付ける事無く、両足を開いて五百蔵を受け流すように、その場で飛び越えた。

 

「アァァァ、アアァァァッ!!」

 

そのまま踏み出して転進し、急加速して突っ込んでいた。しかも方角は―――

 

はっ、と我に返る楫と樒。

 

二人がいる方向だった。しかも、明らかに狙っているとしか思えない。

 

―――逃げる手しか無い。

 

致し方無く、楫は即決した。判断と行動の遅延が、最悪の事態を招いてしまう為だ。

 

「チッ―――樒、退け。急ぎ皆に知らせ、山を降るようにしろ」

「え? ぁ……楫っ!?」

 

一方的な物言いに硬直した樒を後ろへ大きく突き飛ばし、楫は前へ躍り出た。黒い樋熊の餌食になってしまう、進行方向の直上へと。

 

「相手してやる―――木偶」

 

罵倒しつつ、敢えて矛先を己へと向けさせるのは楫、ただ一人だった。

本来ならば二人で避けるのが理想的だが、樋熊の跳躍力は五百蔵並である事を承知していた為に、助からないと踏んでの事だ。

例え、横に跳んだとしても、間に合うか定かではないし、何より―――黒く変化した樋熊と相対した瞬間から、呆気なく殺される未来しか見えてこなかったのだろう。

 

楫は十全で無くとも熟考した。何としても逃れる術を見出した―――その結果が、自己犠牲へと繋がったと言える。

せめて、せめて未来に託すしかない、と後を五百蔵や斑、力ある者に託すしかないとしたのが楫の考え。押し付けとも言えるが、最早手がない。僅かに顔を歪ませる彼としては無念の心境だったに違いない。

 

花のように、散る時は、散る。

 

故に、彼は立ち向かった。

 

「覚悟は出来ている。我が命で一矢報いよう」

「…………っ」

 

樒は楫の覚悟を理解する。言辞から読み取り、戸惑いと悲しみの表情を押し殺して背を向けないようにしつつ、後退していった。

 

「ア、アアアアア、ァアア?」

 

悠然と立つ楫を見て、樋熊は何を言ったのかは解り得ない。

嘲笑っているのだろうか、黒い樋熊は狂った酷い顔を向ける。焦点の合わない眼は変わらず、虚空を映している。

 

巨体全体を曖昧にする程の速さで突っ込んでくる樋熊を、楫は決死の表情で迎え撃つ。その身全体に、持てる妖力を注ぎ込んで強化し、最大限の抵抗と言わんばかりに踏ん張った。

 

『止せぇぇぇえええええッ!!』

 

取り直して駆け出した五百蔵の制止を無視する楫は、それでも、逃げの一手を選ばなかった。その胸中は彼にしか解らないが、何かが彼を突き動かしていた。

 

迫り来る黒い樋熊―――最早、怪物と言った方が良いのかもしれないそれに対し、成す術なく命を散らす事になるだろう。

樋熊にとって弱者にしか見られないというのに、呆気なく死ぬかもしれないというのに、逃げずに真正面から―――“窮鼠猫を噛む”を体現しようとしていた。

 

大きな口を開き、黒い樋熊は疾走する。対し、楫は両腕を引いて振りかぶり、前面へ突き出す姿勢になる。引き絞って、接触に合わせての迎撃に移った。

 

距離が無くなる瞬間。

 

「ッ!!」

 

 

 

 

―――だというのに、またもや黒い樋熊は予想外な事を仕出かした。

 

 

 

 

「―――は?」

 

両の拳が空を切った。繰り出した妖力の暴風が衝突する事は無い。

と同時に、黒い樋熊とは全く違う風圧がその身にぶつかる。疑問と驚愕の中、何が起きたのかを模索する前に、眼前にいる筈の黒い樋熊が消え失せているのを知った。

 

そして。

 

ぐちゃ。

 

「―――あ、ああああああああっ!?」

「し、樒……?」

 

楫が振り返ると、黒い樋熊が、樒の左脇腹へ食らい付いていた。

 

「な……何故だ」

 

何故、躍り出た己にではなくて、彼女に向かったのか。

何故、薙ぎ払われる筈の己は無事でいて、彼女に食らい付いているのか。

 

楫は露骨な疑問を顔に浮かべて凍り付いた。理由が解らず狼狽え―――青褪めながら気付いた、否、気付いてしまった。

 

気付いた時には遅く、どのような過程になっても変わらぬ結末がそこにあった。

 

その理由は―――樒の右手。付着しているのは樋熊の喉を潰した際の血。

何も言うまい、決定的だった。

 

肉親の救援に来て、それで何をするのか。

そんなものは決まっている。報復以外にないだろう。

 

―――故に、容赦は無かった。

 

「ぐふっ……こ、のぉぉおおおおっ!!」

 

腸を齧り潰され吐血するも、それでも抵抗するべく腕を動かす。意地でも仕返ししてやると、女性には似合わない殺意の籠った形相を絶やさない。

朦朧とする意識を抑える為に奮い立たせ、喉が裂けんばかりに吠えた。

 

「……まだぁ! 終わらないのよぉっ!!」

 

自由が利く左手で樋熊の頭部目掛けて強引に叩き付ける。狙いは、血走って焦点の合わない眼、それ以外にない。

今使えるありったけの妖力を込めて、何度も叩き付けた。間髪許さず、何度も、何度も。

 

『離せぇぇええええッ!!』

「ぉぉぉおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

そこへ五百蔵と楫も加わり、五百蔵は樋熊の後ろから首へ食らい付き、楫は樒のすぐ傍へ向かう。樋熊の口元に取り付いた楫は牙で傷付く事も厭わずに、片足を下顎に引っかけ、両手で持ち上げようと上顎を掴んだ。

首からはミシミシと食い込む音を伴い、どろりと血が溢れ出る。五百蔵の仕業だろう、鋭い牙を備えた顎によって肉を抉っている。

 

「く……そぉぉおおおおっ!」

『頸が断てぬだと、ぉぉおおおおおっ!!』

 

されど、届くに値しなかった。

食らい付いた顎は、樒を捕えて閉じたまま。樋熊の暑苦しい毛を纏った体表は、柔軟な筈の頸部でも致命傷を頑なに拒む。それでも五百蔵の噛み付きが堪らないのか、口元に纏わり着く楫が煩わしいのか、樋熊は邪魔をする者を払いのけるべく残った左腕を行使させた。

 

『させるかっ!』

 

が、あっさりと止まった。打ち上がる勢いで振るわれる筈だった凶悪な腕は、五百蔵の前足によって強引に引き止められる。

 

「……っ! ぐぅ……っ!」

 

その最中にも、樒は痛みに顔を顰めながら、腕を樋熊の瞼へと絶えず打ち付ける。

眼は殆どの生物が有する情報源を受け取る部位だ。樋熊は眼を潰されたくはないのだろう、その行為が生命線を繋ぐと解っているのか、固く瞼を閉じて樒の打撃を通さないように耐えている。

 

『ええいっ! 離せと、言っている!!』

 

五百蔵は顎に、更なる力を込める。

彼の咬合力は、腕や脚の殴打よりも数十倍以上の威力を発揮する。かつて、彼の先祖がとある神格の腕を噛み千切った事があるように、それは恐ろしいまでに物体を破壊する事だろう。

そんな彼の首を断つ方がより優位だったに違いは無い。しかしながら、実際に、樋熊は首すらも安易に千切り飛ばせないほどの強固さを誇っている。妖力を使おうにも、両者から溢れ出る黒と白の妖力はぶつかり合い、活用出来る暇無く軋む音を生み出すだけに終わっていた。

合間に挟まる楫も妖力による強化で、顎を閉じさせまいと必死に抉じ開けるべく踏ん張っていた。彼も妖力を牙の隙間へと流し込み、開かせる力を行使する。

だが、二者のお蔭で拮抗するものの、ぎしりと樋熊の咬合が競り勝ち、口が徐々に閉じようとしていた。

 

「……もういいっ! 五百蔵様、楫……もう助からない!」

『弱音を吐くな、阿呆!』

「……っ! ―――く、ぅあああっ!!」

 

樒は同胞思いの長の行動を見つめながらも、諦めずに左手で叩き続けた。

拒まれると知っていても、それでも続けた。たとえ、指が折れても、手首が折れても、真っ赤に腫れ上がっても―――。

 

「う、あぁあああ……ぁあああぁああ―――!! 届けぇえええええっ!!」

 

意識を掻っ攫いかねない激痛の中で叫び、渾身の一撃で―――潰した。

 

ほっそりとしているのに、最早、骨に血肉が纏わり付いているようにしか見えない樒の腕だが、確実に樋熊の瞼を越えてめり込む。肉塊と化しても脅威を成す腕には、強固な膜を破るに足る威力があった。

 

それに安堵し、楫を見る樒は優しげな眼を向ける。

 

「く……上がれ、ぇぇええ!!」

 

牙が手に食い込んでも救おうとする楫に、樒は微笑んで見せた。

 

「馬鹿ね……不器用なんだから、あんたは……」

「何をっ……しき―――」

「嬉しかったよ、楫」

 

まるで今際のようなそれに、楫は息を詰まらせた。

 

「……なに?」

「私はあんた―――」

 

だが、樋熊は許さなかった。

 

「が―――はっ……」

 

届かせぬと。理不尽にも、樒の言葉は届かなかった。

すり潰される音と共に、腹が破裂するように噛み千切られる。樒は、そのまま脱力して動かなくなった。

 

「ごめ……かじ…………」

 

呼吸すらも消え、音が止んだ。

 

 

 

そして―――楫の視界で、目まぐるしく事が起きた。

 

『―――楫、離れろ』

「……っ!?」

 

その言辞に背筋を凍らせた楫は、勢いよく飛び退いた。

 

再び、【殲呀】が放たれた。今度は外す事の無い至近距離。

楫を襲ったのは、実に冷たく感情を超えた何かと、激しい炸裂音と眩い光。

 

彼が飛び退いて尚、認識出来たのはこれくらいだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

震えあがりそうなほどの妖力の波を感じて、劫戈は大妖怪の片鱗をひしひしと思い知っていた。びりびり、と肌に入り込んでくるような振動が何度か起きている。

 

「少々、長いな……」

 

朴が呟いた。茅の周りに集まっている子供達が不安になる言い方だが、言わなくても解るほど長い時が流れていたのだろう。今までよりも、非難している時間が長いと判断すれば頷ける。

 

「五百蔵さん、皆……」

 

大丈夫だろうか、と不安に思う。

 

それもそうだろう。近場の豪へ避難してから、かなりの時間が経っている。暗い豪内で、口々にいくらなんでも遅いと言う女性陣からの言葉に、何かあったのではないかと思わざるを得なかったからだ。

 

「爺さん達は強い。大丈夫だ」

 

そう、言ったのは茅だった。一緒にいる子供達や沙羅を案じて言ったのだろう、複数の安堵する息遣いが聞こえた。

 

暗い為、周囲に何があるのかはっきりとしないが、誰がいるのかは音で把握出来ている。情けない事に、震えている手を握り締める事で隠しながら、迎えの時が来るのを待っていた。

 

「そうだ、大丈夫だ」

 

そう言い聞かせるも、不安は拭い切れないでいた。それは五百蔵の大妖怪たる一端を見ている劫戈や茅を除いた、ここにいる子供以外の誰もが同じ事を思っている事だろう。

そんじゃそこらの妖怪では相手にならず、瞬殺されて終わるのが目に見えている、と誰もが解っている。

 

そこで、僅かに地揺れが起き、すぐに止んだ。

 

「……榛さん?」

 

震えを抑えていた拳が包み込まれた。出来るのは隣にいる榛しかいない。

手を取ったのは榛だとすぐに解ったが、どうしてそうしたのかは解らなかった。

 

榛もまた、震えていた。

 

突然の襲来が、過去の出来事を思い出させるからだろうか。それとも、何か嫌な未来を漠然と察知したのだろうか。

恐らくは両方―――故に掛けられる言葉を、己は持ち合わせていない。例え、持ち合わせていても、はっきりと言えるかは別問題だった。

 

「大丈夫です」

 

だから、それしか言えないのだ。

 

蓋をして閉じ籠るように、余計な事を口にするのは好きではなかった。抑え込みやすい性格であると自覚しているが、別段直そうとは考えていない。

己の配慮が害悪になるならば、どうにかするつもりではあるが―――今は榛の為に、何も言わずにいる事にした。

 

ただ、義母に安心して欲しかっただけ。

 

「え……?」

 

無意識だったのだろう。榛の手を空いた手で包むと、たった今気が付いたように声を漏らした。

暗くてよく解らないが、彼女が慌てたようで戸惑うような表情をしている。何となくだが手に取るように伝わって来た。

 

「大丈夫、榛さん。五百蔵さん達なら……大丈夫です」

「―――っ……劫戈君……」

 

安心させたい気持ちが伝わったのか、震えが止まる。同時に、落ち着いて応答してくれた。

 

義母である榛は、家族を失う事に恐怖を覚えている。夫と子供を喪ったのだから当然だ。

それは、長くはないが、季節が変わる間一緒にいたのだから察する事が出来た。話をし、触れ合い、生活を共にしたからこそ察するに至っている。

 

過去を話す時の表情は、いつだって悲壮しか浮かんでいない。無理をしているのは、嫌でも解ってしまう。

 

彼女は親で、己は子供。

 

そう扱ってくれた人に、悲しんで欲しくないと思うのは今までに無かった。衝動が、心が、そう思わせる。

 

子として扱ってくれたのが嬉しかった。哀れに思ったのかもしれないが、同情でも嬉しかったのだ。

 

父親に捨てられるあの日まで、同情すらもされた事は無かった。事実、幼馴染の言葉は大きかったが、やはり先を行く大人達に見向きもされないのは苦痛でしかなかった事もある。

 

親の愛情を知れず、冷たくされ続けて、半分諦めてもいた。幼馴染の励ましに応えつつ、努力を続けて、親に否定され、更に諦めを募らせる。

認めて欲しいと叫んで、結果捨てられた。取り戻せないと絶望した時、既に遅くて、本気で諦めた。

 

―――そんな時に、(あなた)と出会い、養子に迎えられた。

 

心底、歓喜した。隠していたが、とても感涙したのを覚えている。

褒めてくれたのが嬉しかった。ちゃんと向き合って、見ていてくれたのが嬉しかった。

 

最初は甘えさせてくれたが、凡愚だと知ると掌を返したように見限り、最後まで冷たかった生みの親とは歴然の差だった。

 

母親がこんなにも温かいのだと―――愛情を初めて知った。

 

感謝と尊敬の念でいっぱいで、返し続けたい大恩が出来るほどの温かさをくれた。求めてくれるのなら喜んで力になりたい、と思えるほどに。

 

 

 この恩を返せるなら、異種族である己はこの群れで貢献する。

 

 

だから今度は、貴女に恩を返すのだ。家族と言ってくれた、唯一無二の義母に。

榛の手を包み返す。悲しまないで、苦しまないでくれ、と言うように優しく握った。

 

「大丈夫、心配は要りませんよ。俺が一緒にいますから」

「……っ!」

 

努めて柔らかに伝えると、瞠目したのが解った。落ち着いてくれたら何よりだ、と思いながら、見えないが隣にいる榛の顔に見えるように頷く。

 

「…………」

「あれ……?」

 

すると、榛はそわそわとしだした。息遣いが少し変わったのが、明らかな程に。

それを感じたのか、怪訝に思った茅が振り返る気配がした。

 

「……まさか、そういう風に……言うなんて」

「へ?」

「だ、大事な娘を差し置いて……私に言っちゃうの?」

 

苦笑混じりの小声で問われた。

 

「え……」

 

質問の意味を咀嚼し、鑑みる。

 

今、榛の手を握っている。

そして、甘く囁いたと誤解されかねない言動をやった。

 

「あ―――」

 

してしまったと気付いた。

なんてことを、と実に間抜けな顔を晒す。意図している訳ではない、あまりに無意識だった事を指摘されて気付いた為に、顔に熱が帯びてしまう。やってしまった、なんてことだ、と恥じた。

思考して、往復する思考の中で何が要因かを探すと、一番に該当する事があった。

 

「―――光躬の影響かな……」

 

思い当たる節はそれしかない。苦笑が抑えられなかった。

 

実のところ、烏天狗の女性は以外と熱烈な面がある。直球に言うと、“性欲が強い”故に、それに応えようとする男性は無意識にそうなってしまったりする。

 

幼馴染に影響され、そんな風になってしまったのか、と感慨深くなりそうだった。

 

安心させるためとは言え、行き過ぎていた。茅の呆れと怒気が籠った視線が痛く感じてしまうのは錯覚か、幻影か、それとも現実か。

 

「……安心させたかっただけですよ」

 

言う勇気が薄れて小声になってしまったが、理解してくれたのか榛もくすりと苦笑。茅もまたやれやれと言ったように息を吐いて、まったく、と漏らしていた。

 

「……もう大丈夫。ありがとう」

 

榛が笑った。己も笑って、どういたしましてと返す。

すると、ふさふさとした尻尾が嬉しそうに揺れて、背に回してきた。己は尻尾がないので、粗末な羽根を背に回す。

 

それは親愛や友愛の証で、五百蔵の群れならよくやる行動であった。親しい者や家族に向けた、感謝や喜びの意を伝える行為である。

少しだけ、烏天狗のと似ている気がした。

 

 

 

そこへ―――

 

「―――遅い帰りのようだ」

 

静かに傍観していた朴の呟きが訪れる。それが、終わりの合図だった。

 

 




結構、楫さんの扱いが酷いというか……。でも、大人達を描くにあたって、必要な存在でしたので、彼に焦点を当てた内容になっています。
榛さん……彼女はヒロインじゃない。ヒロインの如く書いていますが、断じて言います、ヒロインじゃないんです(泣)
今更ですが、時代的に考えて外来語は控えていますので、使わないのは仕様です。舌打ちや狂った声などの表現、詠唱などにカタカナは用いますが、それ以外の名詞などでは用いないようにしています。作中で、五百蔵を指して“フェンリル”と明記しなかったのはこの為。作者の妙なこだわり、とでも思って下さい。まあ、前書きや後書きでは別ですが。
そして、本作で初の試み……御業(ドヤッ
読み辛いようでしたら、今後改訂しようと思います。是非とも、読者様の意見が聞きたいので、感想欄か、メッセージ送信でお願いします。無ければ、そのままで結構です。
今回判明した事。
○五百蔵は彼の有名なフェンリル。
○樋熊の兄弟達の長兄の名、読みは「あれじ」、字は「荒而」。
○樋熊兄弟が狂った大元は長兄。
○妖怪には“御業”と呼ばれる技がある。所謂、必殺技。
今回の犠牲者
葦、樒

第三章の結末について

  • 取り返しのつかないバッドエンド
  • 痛み分けのノーマルエンド
  • 邪魔者を排斥出来たハッピーエンド
  • 作者におまかせ(ランダム選択)

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