ワテは一体、何に目覚めただぁ……?(困惑)
では、どうぞ。
黄金は再度、闇へ変わった。
しかし、どこか違う。無数の光る点が散らばっている壁が、途方もない遠方に見えた。
「―――はっ!?」
意識を完全に取り戻した劫戈は、飛び起きた。
「駄目よ。もう少し休みなさい」
が、肩を掴まれてすぐさま横に戻された。ぽすん、と後頭部に柔らかい感触と共に、榛の声だと認識する。
「えぁ、あ……?」
目を白黒させる劫戈は、左眼に映った白い影を訝った。白い衣服の内側から齎された膨らみ、形は急ではなく滑らかな曲線を描くもの。劫戈の拳二回りほどの大きさを持ち、見るに柔らかそうな印象を受ける盛り上がった二つの丘。
それは女性の象徴―――
「心配……したのよ?」
「あっ……」
悲しげな榛の声音。劫戈のなんとも場違いな思考を切り捨てたのは、それを見せつけ抱かせた彼女本人だった。
「ご、ごめんなさい」
「ふふ。分かれば宜しい」
素直に謝れば、榛は微笑みながら頷いた。劫戈は深く反省すると共に、たった今己が膝枕されている事に漸く気付く。羽毛に似た感触が心地良い。
見渡せば辺りはすっかり真っ暗で、唯一残された光源は月くらい。茅と喧嘩を繰り広げた筈の周囲の風景は大きく異なっており、今も家替わりにさせてもらっている塒が近くにあった。
「うごごごぉぉ…………」
すると妙な呻き声が降ってきた。茅の声だ。
様子がおかしいと思って視界を巡らせると、少し離れた所で発見する。さっきまで拳を交えていた筈の茅は、頭を両手で抱えながら、苦しそうに悶絶していた。
「お姉ちゃん、茅お兄ちゃん凄く痛そうだよ?」
「大丈夫よ、
それを見守るのは、群れの中で何度か目にした事のある少女が二人だった。
白く染められたような容姿の少女等は、劫戈が群れに置かれた時から遠巻きに見ていた子達だ。内側に跳ねた灰色に近い白の髪形が二人揃ってそっくりなので姉妹なのかと思っていたが、会話から察して間違っていないようである。
劫戈は二人を見知っているが、名も知らなければ、会話もした事がなかった。明らかに避けられていると言う状況で、積極的に仲良くなろうとする気が中々起きないのであるから、当然でもあるのだが。
眉を八の字にして今にも駆け寄りそうな子が妹で、そんな妹を留めて素っ気なく返した大人しめな子が姉なのだろう。二人とも背丈が低く、劫戈よりも年が少し低そうな子等だった。
「かぁ~……痛ってえなぁ。久しぶりにくらったぜ」
「ちゃんと反省なさい。いきなり喧嘩するなんて、何を考えているの」
痛みから復活した茅は愚痴を洩らし、その愚痴に対して咎める榛の会話を邪魔しないように黙って聞く劫戈。
「言葉で云々は苦手だって、姉さんも知ってるだろ。無茶言ってくれるなよ」
「それを直しなさいと言っているのよ。御蔭で怪我してばっかりでしょう」
「確かにそうだけども……。何かなぁ、しっくり来ないんだよ」
「もう、貴方って子は……」
先が思いやられる、と言いたげな榛は、天を仰いだ。端麗な顔が呆れに染まる。
姉を呆れさせた弟は脳天を押さえながら、横になっている劫戈に近付き覗き込んだ。
「よっ」
「うわっ!」
いきなり声を掛けられ、ぎょっとする劫戈。茅は頭を掻いて苦笑していた。
「いやぁ悪ぃな……調子に乗ってやりすぎちまったよ」
「あ……いや、こっちも思いっきり殴ったし……ごめん」
気さくに振る舞っている茅に、劫戈は一瞬唖然としながらも己が非を持ち出して謝罪する。
「……」
互いに苦笑する様子を、榛は何も言わずに見ていた。一人、寂寞を漂わせたかに思えたが、笑みを浮かべて感心した顔に変える。
喧嘩した事で解り合ったのだろう、蟠りがなくなって喜ばしいと思えた榛は静かに笑みを零していた。
「ほら、立ちな。男ならしゃきっとしろ。いつまでも姉さんに甘えるな」
「え……あ、ああ」
僅かに痛む身体を起こし、差し出された手を取る。取った瞬間に強く引かれて立ち上がるが勢い良過ぎて踏鞴を踏む。
「うお、っと……」
僅かに転びそうになったが、そこは男の意地が防ぐ。
「あー! またそんな事言ってー! お兄ちゃんだって榛お姉ちゃんに甘えてるのにー!」
すると高い声が遮った。と思うと、劫戈の前に華奢な影が入り込み、茅に飛びついた。
「ちょっ……
「他人の事言えないのにねぇ……」
「うっせぇよ!」
更に近寄ってきたもう一人の少女に対し、間髪容れず言い返す茅。どこからどう見ても親しいのは瞭然だった。
鵯と呼ばれた一番幼い子は、茅に抱きついたまま胴の辺りを頬摺りしている。若干戸惑いつつ撫でてやる茅を含め、くっ付いている二人の姉等は微笑ましく見ていた。
「世話が焼ける弟なのは変わらないけどね……」
「姉さんまで!?」
「……情けないよね」
「くっ……お、お前等なぁ……」
「―――も、もう止めてあげた方が……」
恥かしさに耐え切れなさそうな茅を見かねた劫戈は、生まれて初めての助け舟を出す。
姉弟と姉妹を含めた団欒に割って入るのは忍びないが、認めてくれた少年を放って置くのは劫戈にはとても出来ない事だった。
しかしながら、弱々しく入った為か、あまり良い効果は期待出来そうもなかった。
「気にしなくていいよ、木皿儀劫戈」
「えっ?」
名を呼ばれた。
すぐ隣まで来ていた少女に、劫戈はたじろぐ。事静か過ぎて全く挙動が読めなかったのだ。いつの間に、と彼が呟く暇もなく相手が口を開く。
「始めまして、私は
沙羅と静かに名乗る少女は、成程見事に儚げな印象を抱く子だった。言うまでもなく美少女だろう。耳も、髪も、尻尾も、榛の雪色と違う灰色に近い白―――曇った白色を持っている。
ただ、活発で幼さ全快の鵯とは違い、大人びている彼女は、はやり鵯の姉なのだとすぐに解った。
「……」
「えっと……俺に何か?」
自己紹介するなり、沙羅は押し黙った。じっと見つめてくる、突然の行動に劫戈は困惑する。
彼女は、物を観察するような仕草で劫戈を見て―――否、僅かに眼が揺れている。驚いているのか、慄いているのか、それとも嫌っているのか、解らない。ただ解るのは、見透かしているからこそ、そうなったのだという事だけだった。
暫し間を置いて。
そして、徐に口を開いた。
「……貴方は、怖い人」
なんだって?
「闇であって、闇を否定出来る者」
突然の事に呆ける劫戈は、沙羅が言った事を困惑のまま聞き入った。
「私達以外にとって、生まれた事が喜ばしい。例えるなら、そう……
「憑き者……?」
憑き者。その表現は、そう言葉にした彼女にしか、いや或いは五百蔵くらいにしか解らないだろう。
疑問に満ちた表情で復唱するが、一体どういう事なのか、理解し難い事だ。千里眼のような、何かしらの異能で見たのかも知れないと、劫戈は感じていた。
「君は……何を見たんだ?」
「……忘れて。詳しくはよく解らないから。多分、大爺様も」
大爺様、とは五百蔵だろう。
片鱗を見た己でも凄まじいの一言が飛び出る、白い狼の群れ長。いや、己が知らないだけでそれ以上の怪物なのかも知れない。
そんな大妖怪でもよく解らないと言うのだから驚きだ。
実際、劫戈は何度も不可解な出来事を経験している。他者が知らない事を、己でも知らないのは必然であった。
(あれは……。でも、怖くはなかった。落ち着くとは違う何かが……)
意識を手放している間の記憶に焼きついた、優しい声と衝撃的な窈窕たる女性。夢にしては現実味を帯び過ぎている。
(―――いや、止めよう)
五百蔵に保護されて以来、
嬉しそうに、喜んでいた、笑んでいた―――。
祖母のようで、母親のようで、姉のようで、でも違う。
己を包み込むような偉大な御方―――。
しかし、どこまでも考えても解らないままなので、思考の片隅に追いやる事にした。現状、考えても意味はないのだから。
沙羅と話し、考え込んでいる内に、茅が榛と鵯にいびられていた。不貞腐れたように、視線を顔ごと逸らしている。
「もう、拗ねないの。劫戈君とは大違いね」
「んなっ!? 沙羅、おま―――」
「とっても素直な子だった。茅とは全然違う」
沙羅がとどめを刺した。
もう勘弁してくれ、御慈悲を、と呟いて苦悶に耐え切れんと頭を両手で抱える茅は、とことん虐められた幼子のようであった。
「ああ、それと……劫戈君」
「は、はい……?」
一通り茅と、話と言う名の戯れを終えた榛に呼ばれ、いつも通り反応する劫戈。
眼が細められ、榛の端麗な顔が冷笑に転じた。優しく撫でる仕草とは正反対の様子に切り替わった事に、戸惑いを隠せない劫戈は―――
「今後……喧嘩なんてしないように、ね?」
「―――はい! すみませんでした!」
落ち着いた佇まいで注意する榛の背後から、怒りの形相を剥き出しにした鬼を見た―――気がした。
「あぁ……疲れた……水浴びすっか。なぁ、どうよ?」
そこで茅は呟き、空気を切り替える。釣られるように、榛や沙羅も賛成とばかりに頷いた。
まるで慣れたように―――いや慣れているのだろう。関心を引くのが上手い。
「そうね……最近は寒かったから、汗を流せていなかったわね」
「劫戈も泥だらけだしな、行くとすっか」
「うん、行こー! 行こー!」
「よーし、行くぞ。劫戈、ここに来てから全く浴びてねえだろ? 汗と泥で凄い事になってんぞ」
「え……え?」
言うや否や、腕を引かれて誘われる。今日で何度目になるのか忘れた困惑すら許さぬ勢いで、一瞬の浮遊感に呑まれて茅に軽々と担がれた。
「ちょっ―――」
「遠慮すんな。修業が終わるとすぐ寝ちまうし、余裕がなかったってのは知ってるからよ」
「あ。まあ、そうだけど……っ」
言われてみれば、と納得の顔になる劫火。
転々と会話を続ける茅だが、行動はそれ以上に早い。あっという間に、川辺に到着していた。あと数歩で水に浸かる距離だ。
「鵯、行くよ。茅は彼を降ろしてからだから」
「はーい、お姉ちゃん。お兄ちゃん、先行くねー!」
「おーう、悪いな」
「あ―――」
そこは白い狼の群れが根城とする山を一線する大きな川だった。頂上から湧き出た水が池として溜まり込み、堰となった石などを壊して出来たものである。
木々を拒むように、周りには拳ほどの大きさの石が無数に鎮座し、畔を形成していた。水底の深さは、子供の腰くらいでそこまで深くはない。
―――と、ここまで来るのに数秒程度。
あまりに早過ぎる移動に、担がれて逆さになっている劫戈は唖然としてしまう。
だが、そんなことはどうでもいい。彼にとって、一番重要な懸念事項が浮かび上がっていく。それは川の水流音を認知すると肥大化していった。
「……って!? えぇっ!? ま、待っ!?」
「うおっ? おい、何だよ、どうした?」
驚愕と疑問を混ぜ、暴れ出したのを訝った茅と榛は、何事だと劫戈を見やる。今まで見た事のない慌てふためき様に、どこか痛めたのかと不安げに榛が視線を向けた。
「劫戈君、どこか痛めたの?」
「い、いぇっ、しょっ……。そういうのじゃ、なくてっ……!」
戈見間違える程に動揺している劫戈の様子は、集った面々に尋常ではない事を物語る。一端、劫戈を降ろした茅は、改めて正面から声を掛ける。
「どうしたんだよ。まさか、怖いとか? まあ、お前は烏だし、仕方ないだろうけど……」
「み―――」
「み?」
一度、息切れで区切った劫戈の二の句を、雪色の姉弟は首を傾げた。
息を呑んで、劫戈は急いたように口を開く。
「皆、一緒に入るって事ですよねっ!?」
「は?」
よく解らないと言ったように、茅は眉を寄せる。榛の方はきょとんと、劫戈が発した言葉の意味を計り兼ねている。
何を言いたいんだ、と言わんばかりに、耳が四つへなりと傾げた。
「だ、だから……!」
上手く伝わらなかった事を鑑みて、劫戈は解り易く伝えようと再度声を張り上げる。
「異性同士で入るって事ですよねっ!?」
「……あー、そういう事か。まあ、そうだけども」
何を当たり前の事を、と劫戈に疑問の視線を向ける茅。劫戈が何故慌てるのか理解出来ず、一応肯定する。
「えっと、茅? 彼はそういう意味で聞いたんじゃないわよ?」
榛が、劫戈の言いたい事に辿り着いたようで、茅の反応に苦笑しつつ指摘した。
「え……姉さん、解るのか?」
「ええ。ちょっと複雑ね……。豪胆な御爺様の群れだから、劫戈君からすれば、それはもう驚いて仕方ないと思うわ」
「ああ、文化の違いか。なぁんだ、てっきり水が怖いのかと……」
「うん、そうだけどね……ええと、茅」
最期まで弟の反応に苦笑しっぱなしの榛。
「つまりは、彼は異性に裸体を見せた事がないのよ」
「そう、か。……んっ? んんっ!?」
目玉がこれでもか、と飛び出る勢いで劫戈に向けられる。驚きと訝りが半々と言ったところか、茅は盛大に脱力した。
「……ここじゃぁ、男も女も皆一緒に水浴びするよ。毎度、一人ずつ、或いは男女ずつか? そんな面倒な事しねぇって。寧ろ、離れるのが一番危ねぇんだ……」
後半の言辞が重苦しいものに変わったのは、言うまでもない。殺された茅の義兄、榛の夫。間違いなく、それと関係があるのは瞭然だろう。
しかし、この時の劫戈はそれ所の思考を持ち合わせていなかった。
「は、恥かしくないの!? い、色々と……色々と見えちゃうんだよ!?」
「恥ずかしくないのかって、そんな事言われても……」
茅は困ったと言わんばかりに隣の実姉に視線を向ける。苦笑のまま、どうしようか悩む榛には打開策が思い浮かばなかった。
「私達はこれで慣れちゃっているから……」
「どういう環境で育ったんだよ、お前……」
他種族との交流が皆無に等しいので、こう言う他なかった。
食い違うのは当然だった。烏と狼の文化は大きく異なり、その大半が互いの常識の範疇になかったという事。無理もないし、誰も悪くはない。
白い狼の彼等は、別に下心があってそうしている訳ではない。別々に行動しては危険という事で、集団で固まり、常としたのが始まり。群れを思った五百蔵の方針なのだから、おかしい事ではなかった。
無論―――それが、烏天狗が関わった事でそうなったなど、劫戈が知る筈もない。
信じられない。戦慄に襲われた衝撃が、劫戈の顔が物語る。
「いやいやっ! 恥じらいくらい持とうよ!?」
二人の反応を見て、更に声を荒げた。
「そうじゃなきゃ、誰に裸体を晒しても平気です、って言ってるみたいじゃないかっ!!」
その言葉に一同は、沈黙した。
水の流れる音だけが聞こえ、時間がゆっくりと流れていくようでもあった。雪色の姉弟の後ろでは、ばしゃばしゃと跳ねていた水音が
「ふぇっ……?」
静けさの中で、声が漏れた。幼い女性特有の高めの声であり、劫戈の目の前に映る茅と榛のものではない。
「…………」
訝る三人は、ゆっくりと声の主へと顔と視線を向けていく。
「―――」
川の中央で、何も纏わず、生まれたままの姿で佇む沙羅がいた。瞠目し、唖然と口をぱくぱくさせている。
隣には、姉の様子に首を傾げる鵯がおり、いきなり止まったからだろう、お姉ちゃんどうしたの、と小さく呼び掛けていた。そんな妹の心配を余所に、姉は滴る雫を帯びる白い耳と尻尾がぴんと伸び、見て判る程震えている。
「沙羅……?」
そこから先は無言だった。
その代わり、茅は沙羅を訝り見る。それが―――食い入るように見ていると思わせてしまった。
「ぁ……きゃぁぁあああああああああ―――!!」
堪らず絶叫。
顔を熱した様に真っ赤にして、必死に、二つの膨らみと茂り始めていた秘所を両手で隠す。劫戈の言葉に思うところがあったのだろう。彼女を襲った衝撃はどれほどのものだったのか。
「え……ちょっ! 沙羅―――」
それは、近くに置かれていた、一回り以上も大きな岩を持ち上げるほどだった。
親しい仲の彼女が取った突然の行動に、思わず茅は心配になって、そして固まった。
「見ないでぇっ!!」
冷めていた沙羅に、火が灯った。声を張り上げ、己の痴態を見せまいと、白い色を纏わせて振り被る。
「ば―――」
「うわっ」
見えない物が茅に迫って、通り過ぎる。と、次が迫った。
「やめっ、やめろって!?」
見えない速度で岩を投げ込む沙羅を、恐ろしげに制止するよう呼び掛ける。その中で器用に避ける茅だが、勢いを増した四回目になって、遂に躱し切れなくなった。
「……うぉぉわぁぁっ!?」
上体を仰け反らせ、後ろに倒れ込む。そして―――
「え―――ぁぐっ!?」
劫戈に飛び火した。
回避する事も許されず、顔面に重い衝撃を受けた劫戈。力が抜け、そのまま前へゆっくりと倒れていく。
「劫戈君っ!?」
ごしゃり。
「……うっ」
そこまで勢いはないものの、見るからに痛そうな音を立てて倒れた。二重の痛みに、劫戈は呻く事しか出来ない。
川辺から水底まで石が敷き詰められたそこは、生身の生き物が叩き付けられれば十分に痛みを受ける場所だ。劫戈の意識を刈り取るのは、容易いものだった。
「わー! お姉ちゃんが怒ったぁ!」
そんな事を意に介さず、鵯が面白げに声を上げた。能天気にはしゃぐのは幼さ故だろう。
「お兄ちゃん、さっきからお姉ちゃんばっかり見てぇー! 鵯、お姉ちゃんに負けないもん!」
鵯はそう言いだすと、茅へ向かって未発達の華奢な体躯を見せつけようと駆け出した。川の水を跳ね散らしながら、姉には譲らないと言いたげに迫っていく。
「鵯っ!? なんでそうなる!?」
「見ないでっ、茅ぁぁっ!!」
「ばっ……沙羅ぁああ!? だから投げるな―――」
うっすらと意識が遠のく中、聞こえて来たのは、混沌としたやり取りだった。
――――――
意識が戻る。辺りは未だ夜だった。
月明かりしか頼れるものがないくらいの明るさであるのは変わらず、然程時間が経った様子ではなかった。
「はぁ……」
今日は何度、気を失えばいいのだろうか。実に困ったものだ、と嘆息する。
「……づぅっ」
まだ顔面が痛む。特に鼻全体とその奥が、重く感じる程に痛かった。
「でも―――」
被害を被った劫戈だが、未経験で困惑の渦に呑まれるも、心底では楽しんでいる己がいる事に気が付いた。
「―――なんだか、面白い子達だなぁ……っと?」
笑みを浮かべながら上体を起こすと、掛けられていた麻布が落ちた。
気にする事無く見渡すと、己が横になっていた所が川辺から少し離れた場所だと理解する。その石の上に、丁寧な事に
「あれ……?」
そして、妙な事に、体が濡れているような気がする。上半身の衣裳が脱がされており、汗と混じった泥や擦り傷から滲んでいた血が無くなっていたのだ。
総じて誰がやったのかは疑問に思うまでもない。
そこまで考えて、茅達はどこにいったのか気になった。辺りは誰もおらず、朗らかに暖かさを撒いている火元が一つだけ。
人間と同格の探知能力しか持たない劫戈としては少し不安があった。
「ど、どうしよう……」
劫戈は不穏に駆られた。一人は嫌いではないが、少しずつ他者の暖かさを覚えて来た彼にとって、心細いものがある。
そこでふと、水を掻き分ける音。
(―――!)
右方を向いて―――息が止まる。眼が己の意志を無視して見開かれ、その場に張り付けられた。
そこには、彩る事を否定する無地―――静かに月を見上げる雪色があった。
「あら、起きた?」
澄みきった声で問う彼女は、一体誰なのだろう。
「さっきはごめんさないね。沙羅ちゃんはいつも大人しいんだけど……」
「え……?」
単純に、とても綺麗な女性だった。
月浴による光と雪色が水面に反射して、神秘的に彩っている。まるで、女神が舞い降りたようだった。
月を取り込んだと思しき彼女の声は驚いてしまうほど知っている。劫戈は唖然と、一切何も纏わぬ女性に声を掛けようと口を開く。
「あっ、あの……えっと……ぁあぁっと―――」
「だ、大丈夫……?」
しどろもどろに口を開いて、しかし上手く言葉に出来ない。挙句、相手に心配されてしまい、恥かしくて俯いた。
胸を締め付ける冷めた思いと、寂しさを埋める暖かい思いが入り混じる中、劫戈は視線を戻した。
「―――榛さん」
落ち着いて発した。
雪を纏ったように光り耀く彼女。月に照らされて、誰なのか解らなくなった女性の正体は榛だった。
劫戈が気絶している間、どうやら汚れを落としてやり、一人水浴びしていたようだ。
「どうしたの?」
この時の榛は、笑顔を向けていた。
が、劫戈としてはどこか寂しそうにも見えた。そうだった、というよりはそうだろうと劫戈は内心で断言する。確信めいたものは要らず、ただそう思わざるを得なかったと思えた。
一色に染められた愁い顔が映えるも、そんなものを見ても劫戈は嬉しくない。彼は努めて必死に、込み上げた暑苦しい驚きを抑え込んでいる。
「―――は、榛さん……。その傷は……?」
そこまで言って、また息が止まった。
聞いた時には既に遅く、劫戈は後悔に苛まれた。
影が榛の背から前へ動く。月の光を反さなくなり、それがはっきりと見え始めた。
彼女の腹部、丁度臍の下辺りから左腰向かって広がる、切り裂かれたような傷痕。ごっそり抉れている訳ではないが、傷付いていたと思しきそれはあまりに痛々しいものだった。
「……これは、ね」
榛は懐かしむように、しかし苦しむように、傷跡を撫でる。視線を落とし、傷を負った時を思い出したのだろうか、苦笑した。
やはり、と劫戈は榛の顔に張り付いた笑みに力がなかった事を理解する。風が嘶き、肩に掛かった髪を流した。
「これは―――」
聞く事に覚悟はあった。
裸体に刻まれたそれは、決して勲章などではない事は、榛の穏やかな性格なら明白だ。考えたくもないが、応えは今の劫戈なら十分に解る。
そう。
「あの
「――――――っ!!」
聞いてしまったと、失態を悔やむ。拳を握り、己を心の内で罵った。
「貴方は聡い子だから、黙っていてもいずれ知られてしまう。いつか話さないといけないと思っていたけれど……」
榛は、言い出せなかったのだ。理由は、言わずもがな。
「それは―――父が……日方が、やったもの……ですね?」
「……ごめんなさい。貴方はまた自分を責めてしまいそうで……」
絞り出した声を聞いて、頷いた榛は目を伏せる。
そこで榛は隠していた理由を含め、控えめながらも、知って欲しいと語り出した。
殺された夫とその彼との子を奪ったのは、紛れもない木皿儀日方であった。しかも、五百蔵の孫夫婦である、榛達の両親も犠牲になった、とも。
腹部の裂傷痕は日方からの不意打ちを受けた時のもので、奴から受けた旋風は柔らかな肌を腹の子諸共切り裂き堕胎、見るも無残に絶命させた。
結果、五百蔵の治癒でも元に戻らない程、精神的な傷も相俟って痕として残ってしまったという。
「…………」
劫戈は言葉を失う。衝撃の事実を知り、卒倒してしまうのではないかと思えるくらいに顔面を蒼白にさせていた。
「っ!」
榛はその顔から眼を一瞬だけ逸らし、ゆっくり戻して続ける。垂れた耳が、榛の心をそのまま体現しているようでもあった。
更に、弟と劫戈の最悪の出会い、糾弾と不和。
劫戈自身は知らないが、以前、日方が榛の夫を殺したと知った時、傷悴してしまいそうな顔をしていた。そこへ追い打ちを掛けるように、劫戈自身の自責と重なり、余計に踏ん切りが付け辛かった。
故に、榛は言い出す事が出来なくなくなってしまったのだ。
「そう……だったんですね……」
納得。
幾何か平常を取り戻した劫戈はすぐに口を開く。その理由を問いたかった。
「どうして、そこまで俺に気を遣うんです? 確かに、俺は関係ないかもしれませんけど……それでも、俺は日方の……」
皆知っている。
木皿儀という血統の名を。
勘当されようとも否定出来ない、劫戈という日方の息子を。
でも。
「だって……」
榛は笑んでいた。
その訳は、難しい事ではない。彼女らしさ故のものなのだから。
「だって―――子供が傷付くのは辛いじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。
あの時のように、と。何の罪のない子を傷付けるのを忌避する榛は、劫戈にとって優しくも眩しい存在だった。
劫戈は、ただ俯くしかなかった。
「貴女は……優し過ぎますよ。でも、そうで良かった」
震える呟き。
それは水を掻き分ける音と重なり、跡形もなく震えを打ち消した。その場で涙を押し殺す劫戈。彼の元へ、榛は黙って近付き、しゃがんで抱擁した。
「ごめんね」
「いいえっ。むしろ、俺の方こそ……」
背をさする手は、とても滑らかで少し冷たい。対する心は温かいのだろう。
今まで以上に嬉しくて、劫戈は心を氷解させる。無意識だが、光躬以外の存在で初めて、心の底から安堵した。
「…………は、榛さん」
「んっ……?」
少し頭が冷えた所で、目頭から顔全体に熱が移っていく。ぼやけていた左の視界が、榛の尊く壮大な双子の丘を捉えた。
急いで逸らしたが、桃色の頂点が眼に焼きついてしまった。
忘れろ、忘れろ。ふしだらな思考を棄てろ。
(―――隠したいっ!)
赤く染まっていたのだろう。榛が、そんな劫戈の反応を見てくすりと笑ったからだ。
なんとも雄らしい、そんな風に見られてしまった事に悲しくなった。
だが、そんな事は徒労でしかない。榛は慣れてしまっている。
「いいのよ。そういうものなんでしょう? 男の子って」
「う……」
「子供がいたら、こうして笑う事が出来たのよね……」
「っ! 榛さん……」
「解ってるわ。だから、ちょっとずるいけど……ね」
白魚のような指が口に添えられた。
「貴方を、私の養子に迎え入れていい?」
それは、五百蔵が劫戈を迎え入れた時に放った、“預かれ”の意味。はぐれた烏へ差し伸べられた、救いの手にして、彼を護る砦への道。
「―――」
劫戈は瞠目して、言葉を発しようとして止めた。伝えようとして、口を閉ざしてしまう。
恩を受け入れる事に躊躇いがあり、己で良いのか決めあぐねていたからだ。
「駄目、かな?」
眉を吊り下げる榛。
劫戈を尊重しようとする彼女の姿勢は、心底嬉しかった。
しかし、皮肉な事でもあった。
掛け替えのない、大切なものを奪った男の息子を、養子にしようというのだから。躊躇を禁じ得なかった。
その事をどう思って―――いや、そんな事は考えるまでもないだろう。
そんな事を承知で言っているのだ。榛が、そうならば―――
「はい、俺で良ければ」
「……!」
その言葉で、榛は嬉しそうに笑った。群れに来てから初めて見た、満面と形容出来る笑顔を向ける。
潤んだ赤い双眸から、雫が一つ零れた。
「うん……うん、うんっ。劫戈君、よろしくね」
「じゃ、じゃあ、改めて。……
己で良ければ、と負い目を感じながら承諾。今まで一線を引いていた関係を止め、親睦を深めようと誓った。
シリアスにほのぼのとした空気を突っ込もうとした結果がこれ。見事に、融和(?)しとる。
今回は榛の過去がチラリする御話となりました。榛の過去は女性にとっては少し辛い話かもしれません。女性読者でこういったものが苦手な方、すみません。謝罪します。
新キャラも増えた。解るでしょうが、榛の夫の妹達。榛と茅の義妹です。近い将来、茅君が『リア充』確定だね、やったね。
書いておいてなんですが……榛ェ。「ちゃんとべべ着ろ!」←どっか聞いた、杖を持っている緑色の顔した妖怪の台詞。確か、戦国時代が舞台のアニメの敵っぽいキャラ。名前は忘れた。
第三章の結末について
-
取り返しのつかないバッドエンド
-
痛み分けのノーマルエンド
-
邪魔者を排斥出来たハッピーエンド
-
作者におまかせ(ランダム選択)