銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

6 / 146
第二話:夢の始まり ???年?月?日 ??????

 右肩を強く叩かれる感触がした。両足は地面をしっかり踏みしめている。うつ伏せで倒れていたはずだったのにいつの間にか立ち上がっていたらしい。痛みもまったく感じない。どういうことなのだろうか。

 

「おい!」

 

 背後から大きな声がして、もう一度肩を叩かれた。驚いて振り向くと、モスグリーンのジャケットを着て、ベレー帽を被った男が立っていた。見間違えようもない旧同盟軍の軍服だ。年齢は二十代前半ぐらいだろうか。今どき、こんな服を着ているのは極右組織の構成員ぐらいだ。また殴られるのかと思って、一瞬ビクッとしてしまった。

 

「なにジロジロ見てんだよ」

 

 男の声の調子に敵意は感じられず、親しげですらある。男は背は高いもののがひ弱そうで、顔も優しげだ。極右組織に所属しているような人間とは雰囲気が明らかに違う。何者なんだろうか?最近は旧同盟軍の軍装が流行っているんだろうか?嫌な流行だ。

 

「いったいどうしたんだよ」

 

 男は困った様子で俺を見ている。困っているのは、事情が飲み込めずにいる俺だ。

 

 それにしても空が白い。もしかして早朝なのだろうか?こんな時間になるまで倒れていたのだろうか?誰も救急車呼ばなかったのかな。怪我をした年寄りを放っておくなんて、ハイネセンの人心は荒廃の極みに至ったとしか言いようがない。

 

「あと一時間で出発だってさ。早くシャトルに乗ろうぜ」

 

 何のことだろうか。さっぱりわからない。シャトルに乗るような用事なんて、四〇年ぐらいは無かった。

 

「なあ、エリヤ。いつにもまして間抜け面だぞ。どうしたんだよ?」

 

 俺をファーストネームで呼んだ。何者だ、こいつ?自慢じゃないけど、この六〇年間、ファーストネームで呼んでくれるような相手はいなかったぞ。孫のような年齢の知り合いもいない。馴れ馴れしくされる筋合いがない相手に馴れ馴れしくされると警戒してしまう。他人にとっての俺は無視しなければ、侮蔑するしかないような存在だから。

 

「おい、何か言えよ」

 

 黙ってる俺を見て、若い男はますます困惑した表情になった。なんでお前が困るんだ。俺の方がもっと困ってる。とにかく状況を把握しようと思い、若い男を無視してあたりを見回す。

 

 宇宙港にあるような建物が沢山並んでいた。それも相当大きな宇宙港らしく数百隻のシャトルが並んでいる。どのシャトルもモスグリーンに塗装されている。旧同盟軍が兵器に使用していた色だ。いったいどこなんだ、ここは?まるで昔の同盟軍の軍港みたいじゃないか。地上車もたくさん停まっていて、やはりモスグリーンで塗装されている。さらに見回すと、案内板が目に入った。

 

『エル・ファシル第一軍用宇宙港』

 

 エル・ファシル!?どういうことだ?夢でも見てるのか?

 

「早く行こうぜ。あのパン屋の子可愛かったよな。せっかくいい感じになってたんだから、気になるのもわかるよ。でも、その子のために残るわけにもいかないだろ?俺らも軍人なんだから、命令が優先だよ」

 

 パン屋の子かあ。そういうこともあったっけ。星系警備艦隊の基地近くのパン屋で働いてた女の子と仲良くなって、休みの日に遊びに行ったこともあった。もう六〇年前の話だ。女の子といい感じになったのがあれで最後だったなんて、あの時は思わなかった。

 

 あれ?残るわけにもいかない?俺らも軍人?男が言った言葉を頭の中で反芻する。

 

 もう一度案内板を見る。やっぱりエル・ファシルだ。

 

「んーと、つまり、俺はエル・ファシルから、逃げようとしてるの?」

「そだよ。今さら聞くことじゃないだろ。ほんと、ぼんやりしすぎだよ」

「俺って確かグメイヤの乗組員だったよね?リンチ提督の旗艦の」

「あたりまえだろ。今日のおまえ、ちょっとおかしいよ」

 

 若い男は呆れたように答える。ということはまさか…。

 

 ありえないとは思うけど。思うけど念の為に自分の体を見ると、同盟軍の軍服を着ている。顔を触ると、ツヤツヤした肌触り。頭を触ると、髪がふさふさしていた。指を動かすと、リンチの後遺症で曲げにくくなってたはずの左手の指がすんなり曲がった。右腕をまくると、志願兵だった時に他の兵士に押し付けられたタバコの跡が綺麗に消えていた。「あーあー」と声を出すと、酒でしわがれた声とは違う通った声。体が若い頃に戻っていた。

 

 ポケットをまさぐると、骨董品のような旧式の携帯端末が出てきた。日時表示を見る。

 

『788 5/15 5:50』

 

 七八八年五月。ここは六〇年前のエル・ファシルなのか。すべてのつまづきの元、一生消えない「逃亡者」のレッテルを貼られた場所。俺はなんでここにいるんだ?夢なのか?

 

 思い切り頬をつねった。痛い。右足で左足を思い切り踏んだ。痛い。痛すぎて涙が滲んでくる。随分とリアルな夢だな。ここで逃げなければどうなるんだろうか。逃げなければ有り得たはずの人生を経験できるのか。夢でもいい。エル・ファシルの逃亡者と呼ばれない人生を生きられるのなら。

 

「エリヤ、いい加減に…」

「逃げねえよ!」

 

 俺は反射的に叫ぶと若い男を振りきって駆け出し、乗り物を探した。人が乗ったまま停まってるのがいい。すぐに走り出せる。パトロール用と思しきエアバイクに跨ってタバコを吸っている男を見つけた。これだ!

 

「貸りるぞ!」

 

 素早く近づいて男の服を掴んで地面に引きずり落とすと、エアバイクに乗り込んで全速力で走りだす。大騒ぎになっているが、そんなのは知ったことじゃない。出発まで時間がないのというのが本当なら、リンチ提督の部下が追いかけてくる心配もないだろう。

 

 宇宙港を抜けて山道に入る。案内標識を頼りにエル・ファシルの市街地を目指す。この夢が六〇年前のエル・ファシルそのままなら、「エル・ファシルの英雄」ヤン・ウェンリーが市内で民間人脱出の指揮をとっているはずだ。かつての俺は彼の存在を知らなかった。上官に言われるままに逃げて捕虜になった。夢の中の俺は全てを知っている。人生は何一つ思い通りにならなかった。せめて夢の中では思い通りにしてやろうと思った。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。