銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第四十話:平凡に逃げてはいけない 794年7月1日 ハイネセン市、ハイネセン第二国防病院

 七九四年七月一日の昼下がり。ハイネセン第二国防病院の中央棟三階ロビーの大きな窓からは初夏の強い日差しが注ぎ込んでくる。外では初夏の緑が日光に照らされて眩しく見えた。入院してもうすぐ三か月。最近はリハビリも佳境に入ってきて、退院のめども見えている。俺は入院中に仲良くなったハンス・ベッカー少佐、ダーシャ・ブレツェリ少佐、グレドウィン・スコット大佐の三人とお茶を飲みながらおしゃべりをしていた。

 

「一週間後に退院ですか。おめでとうございます、フィリップス少佐」

「これからが大変ですよ。体力がだいぶ落ちてしまいましたんで、鍛え直さないといけません。仕事の勘も取り戻さないと」

「ははは、鍛錬や仕事の心配をしているところがあなたらしい。しかし、寂しくなりますねえ」

「ベッカー少佐が退院なさったら、一緒にバロン・カルトッフェルに行くって約束したじゃないですか。これでお別れじゃないですよ」

「それはわかっていますが、一日でもあなたの顔を見れないと寂しくてね」

 

 ハンス・ベッカー少佐はおどけたような口調でそう言うと、緑茶が入ったカップに手を伸ばす。彼の故郷ではグリューナーテーというのだそうだ。

 

 垂れ目でお調子者のベッカー少佐は今年で二九歳。もともとは帝国軍の大尉であったが、昨年の初めに姪を連れて亡命してきた。イゼルローン回廊周辺の航路知識を見込まれて同盟軍少佐に任官し、航法幕僚として対帝国の第一線に立っている。見た目に似合わない苦労人の彼は第五艦隊に所属する分艦隊の航法責任者として参加したヴァンフリート四=二宙域の会戦で重傷を負って、俺と同じ病棟で入院中だ。狭い四=二宙域で素早い戦力展開に尽力した手腕を評価されて、近日中に中佐に昇進する予定だ。

 

「俺の写真でも持っていきます?ベッカー少佐になら何枚でも差し上げますよ」

「いや、結構ですよ。フィリップス少佐の写真はネットでいくらでも見れますから」

 

 悪戯っぽい表情でベッカー少佐は笑う。俺が嫌がるのがわかっていて言っているからたちが悪い。ベッカー少佐といい、シェーンコップ大佐といい、帝国にはこういう人しかいないのだろうか。五世紀にわたる専制政治はかくも人心を荒廃させてしまったのかとため息が出る。専制は滅ぼされなければならないという思いを新たにした。

 

「でも、やっぱり本物が一番ですよ。写真だと爽やかすぎて嘘くさいんですよね」

 

 ココアを一気に飲み干したダーシャ・ブレツェリ少佐が目を輝かせてここぞとばかりに乗ってくる。

 

 俺より一歳下の彼女は中央支援集団司令部で参謀として勤務していたが、四月六日のヴァンフリート四=二基地司令部ビル攻防戦で負傷して入院している。士官学校ではダスティ・アッテンボローと熾烈な首席争いを演じた挙句、伏兵のネイサン・マホニーに首席をかっさらわれて三位に甘んじた秀才だ。軍人一家の生まれで、父も母も二人の兄もみんな現役軍人。ブレツェリ家で初の士官学校卒業者として一家の期待を担っているが、性格は変の一言に尽きる。俺のファンだというのが変だし、人に褒められるのが気持ち良いと言い切れる性格も変だ。

 

 しかし、今ここに集まっている四人が仲良くなったのは、彼女の後先考えない強引さのおかげといっていい。四=二基地にいた頃は全く縁がなかったのに、入院してから仲良くなるなんて奇妙なめぐり合わせだ。

 

「子供っぽくて悪かったね」

「可愛いってことですよ」

「やめてくれないかな、恥ずかしくなる」

「恥ずかしがってるところも可愛いです。まあ、フィリップス少佐はどんな顔でも可愛いですけど」

 

 彼女はいつもこの調子だ。ほうっておくとペースに巻き込まれてしまう。四=二基地にいる間にシェーンコップ大佐の爪の垢でも煎じて飲んでおけば良かった。

 

「可愛いよねえ。私もフィリップス君みたいな息子が欲しかったよ。うちのは生意気で生意気で。三次元チェスの相手をしようともしない」

 

 グレドウィン・スコット大佐は目を細めて感慨深げに笑う。

 

 彼は四=二基地の戦闘で行方不明になった輸送業務集団司令官メレミャーニン准将の参謀長を務め、一時は意識不明の重体に陥っていたが現在は順調に回復している。正確な年齢は聞いていないが、四〇代後半といったところだろう。口うるさい妻と反抗期真っ盛りの子供三人に悩まされていて、退院したくないなどと言っている。三次元チェスを趣味としていて、病棟では目についた人を片っ端から誘っては一局始めるせいで看護師によく叱られていた。四=二基地に赴任する直前に妻に無断で高価な三次元チェス盤を買ってしまったのも退院したくない理由の一つらしい。

 

「いや、それは大佐が悪いんじゃ…」

「限られた人生、好きなことをやって何が悪い」

 

 スコット大佐はブラックのコーヒーに軽く口をつける。意識不明の重体から回復した彼にそう言われると、とても説得力が感じられた。ベッカー少佐とブレツェリ少佐はしょうがねえなあ、という表情でスコット大佐を見ている。

 

「まあ、しかし、フィリップス君と三次元チェスができなくなるのは寂しいな。ネット対戦ならできないこともないが、やはり対面で打たないと面白くない」

「俺がいるじゃないですか」

「ベッカー君はいかん、強すぎる。行方がわからんからこそ、勝負は面白い」

「ルール覚えたばかりのフィリップス少佐をボコボコにして、ご満悦のあなたが何言ってんですか」

「勝負の厳しさを教えているのだよ。これもまあ、年長者の義務だな」

「スコット大佐がお子さんに嫌われてる理由がわかりましたよ。ちっちゃい頃から三次元チェスで大人げなくボコボコにしてたんでしょう?」

「君は子供の頃から空気を読まずに大人を言い負かして嫌われるタイプだな。私にはわかる」

 

 スコット大佐とベッカー少佐の低次元な言い争いがおかしくて、思わず顔が緩んでしまう。ブレツェリ少佐の視線を感じて慌てて真面目な表情を作った。実のところ、この人生が始まってから職場以外の場所でできた人間関係はこれが初めてだ。思い返すと、この六年間はずっと職場しか見ていなかった。人を評価する基準も軍人としての評価を第一にしていた。親しい人とプライベートの話をすることもあまりなかった。入院して仕事から離れたおかげでいい経験ができた。

 

「お二人の言い争いもあと一週間で見れなくなると思うと寂しいですよ」

「私もフィリップス少佐の顔をあと一週間で見れなくなると思うと寂しいです」

「ブレツェリ少佐、そういうの本当にやめてよ。なんかやりにくい」

 

 ストレートに好意をぶっ込んでくるタイプは初めてなので、対応に戸惑ってしまう。これまで付き合ってきた人達は好意を示す時も自然体だった。いつも人を見上げてばかりの俺が見上げられてみると、居心地悪く感じる。

 

「そういう受け答えはいけませんぞ、フィリップス少佐。こういう時はにっこり笑ってありがとうと言わねば」

「ベッカー少佐の言うとおりだ。君は三次元チェスも弱いが、女性にも弱い」

「お、お二人ともなに言ってるんですか!?」

 

 いつの間にかスコット大佐とベッカー少佐は休戦したらしく、ニヤニヤしながら俺を見ている。恥ずかしくて顔が赤くなるのが自分でも分かった。

 

「昨日もお見舞いに来た女の子を怒らせてましたな」

「なかなか可愛らしい子だったのに。もったいないことをするものだ」

「あ、あれは…」

 

 二人は連携してさらなる攻勢をかけてくる。普段は喧嘩ばかりしてるくせに、こんな時だけはがっちり手を組むから始末に負えない。

 

「へえ、彼女ですか?興味ありますねえ」

「いや、そういう関係じゃなくて…」

「じゃあ、どういう関係です?」

 

 とどめにブレツェリ少佐まで参戦してきた。彼女はまったく遠慮せずに突っ込み入れてくるから、俺が対抗できる余地は完全になくなった。最初からなかったけど。諦めて白旗を揚げる。

 

「職場の同僚なんだよ」

 

 昨日、俺が怒らせてしまったのは俺の後任として憲兵司令官ドーソン中将の副官を務めているユリエ・ハラボフ大尉。「歩くデータベース」「耳と手が四つある」と言われるほど優秀な女性だが、俺とはあまり仲が良くない。向こうが一方的に俺を嫌っている感じだ。昨日はドーソン中将の使いとして、退院後の任務に関する簡単な連絡事項を伝えに来てくれた。その帰りにちょっとした喧嘩になってしまったのだ。

 

「で、その副官さんとどうして喧嘩になったんです?」

 

 ブレツェリ少佐の大きな目が野次馬根性でギラギラと輝き出したのがわかる。慎重に言葉を選んで事実を簡潔に伝えないと、とんでもない誤解を受けかねない。とっくの昔に誤解されてるかもしれないが。

 

「副官の仕事はどんな感じかって質問したの。自分の後任だから気になるでしょ?。彼女が俺より優秀なのはわかってるけど、それでも意識しちゃうじゃん。俺は気が小さいからさ」

「それでそれで?」

「あなたの後任を務めるのは大変ですってため息ついてた。俺が雑な仕事してるせいで苦労させてごめんって謝ったら、すごい怖い顔になって、唇をぐっと噛んで目に涙を浮かべて俺を睨んでた。気になってどうしたのって聞いたら、あなたにはわかりませんって叫んで早足で出て行っちゃったんだ。ほんと、どうしちゃったのかなあ」

 

 面白そうに聞いていた三人の表情からどんどん血の気が引いていく。ブレツェリ少佐の目に浮かんでいた興味の色も驚きの色に変わっている。みんな、何を驚いているんだろうか。そんなにまずかったんだろうか。

 

「君ねえ、それ最悪だよ」

「ですなあ。天然もほどほどにしないと」

 

 苦々しげな表情で俺を見るスコット大佐にベッカー少佐が同意する。ブレツェリ少佐は何も言わずに首を横に振っている。俺がハラボフ大尉に言ったことってそこまでまずいことなのか?

 

「どこがまずかったんでしょうか…?」

「わからんのか?」

「もう、本当にわからなくて…」

 

 三人は顔を見合わせて、心の底から困ったような表情を浮かべて黙りこくった。どんどん空気が気まずくなっていく。重苦しい沈黙を破ったのはベッカー少佐だった。

 

「たぶんですね、彼女はフィリップス少佐に敵わないと思っていたんですよ。そんな相手に雑な仕事してごめんって言われたらどう思います?自分がいくら頑張っても、フィリップス少佐の雑な仕事にも及ばないのかって思いませんか?」

「いや、そんなことは…」

「自己評価が低いのは結構ですが、度が過ぎると人を傷つけますよ」

「でも、実際、俺なんて…」

「勉強すれば何でもすぐ覚えるし、練習すれば何でもすぐできるようになるでしょう?あなたにとっては大したことないことでも、他の人には難しいんですよ」

「当たり前のことを徹底してるだけで、難しいことは全然…」

「あなたのアプローチは平凡で愚直かもしれません。しかし、基本も徹底できれば、それはもはや平凡とも愚直ともいえません。天才と変わらんのではないでしょうか」

「俺は本物の天才を見たことがありますよ。あれと比べたら、俺なんてもう」

 

 ラインハルト・フォン・ミューゼルとジークフリード・キルヒアイスのことを思い出す。あの二人は偶然すら味方につけるほどに隔絶した存在だった。

 

「今のあなたと比べるべきなのはハラボフ大尉でしょう。彼女は何をやらせても、基本動作を徹底的に反復練習して自分のものにしてしまうような怪物なんでしょうか」

「怪物って…。俺はただの…」

「平凡に逃げるのはやめませんか。あなたが自分を低く評価してたら、あなたより劣った人はどうすればいいんです?平凡に劣る自分は何なのかと思いませんか?ハラボフ大尉はあなたの後任になるぐらいですから、そりゃまじめな人でしょう。プライドだって高いはずだ。そんな人がいくら努力しても追いつけない相手に、平凡に劣ると言われたらどうします?」

 

 自分よりハラボフ大尉が優秀だと俺は思っていたけど、ハラボフ大尉がそう思っていなかったとしたら。確かに俺の言葉に深く傷つくだろう。俺が他人に下す評価が相手の自己評価と一致することが少ないのはわかっていたけど、それが俺自身の受ける評価に関しては一致すると何の疑いもなく思っていた。高い評価を受けても、本当は低く評価しているんだろうと思い込んで自己評価に一致させようとしていた。

 

「傷つくでしょうね」

「あなたがなんで自己評価を低くすることにこだわってるのかは知りません。やりたいなら好きにやればいいですよ。しかし、他人に認められたら、内心はどうあれ表面では受け入れるべきです。あなたを高く評価することで救われる人がいるんですからね。ハラボフ大尉のように」

「はい…」

 

 内心はどうあれ、表面では受け入れろってことか。それで救われる人がいるなら、そうするべきなんだろうな。俺の自己評価を万人が共有する必要はない。幹部候補生養成合格を伝えられた日にイレーシュ少佐に努力を信じられるようになってほしいと言われた。努力を信じられるようになったおかげでいろんなことができるようになったけど、自分を信じることはできなかった。次に必要なのは自分を信じることなのかもしれないな。できなくても、信じるふりをする。

 

「フィリップス少佐」

 

 ブレツェリ少佐が何かを決意したような声で俺を呼んだ。まっすぐな視線で俺を見つめる彼女から、ただならぬ雰囲気を感じた。

 

「はい」

 

 彼女の視線にたじろぎながらもしっかりと目を見つめて、力強く返事をする。何を言われるんだろうか。

 

「本当に可愛いですね」

 

 そんな真面目な表情で何を言ってるんだと腰が砕けそうになったが、内心はどうあれ表面では受け入れると今決めたんだ。体から抜けていった力を全力で再結集して答える。

 

「あ、ありがとう…」

 

 俺が礼を言うと、ブレツェリ少佐の顔がパッと明るくなった。やられた、と思うと同時に初めて彼女をかわいいと思ってしまった。ちょっとだけだけど。ベッカー少佐とスコット大佐はうんうんと頷いている。退院までの一週間、俺はこの三人から徹底的に褒め殺しを受け、恥ずかしさに耐えながらお礼を言い続けた。遊ばれてる気がしないでもなかったけど、俺の更生に協力してくれているんだろうと好意的に捉えることにした。


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