銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第三十話:サイオキシンの記憶 宇宙暦793年9月~794年3月 ハイネセン市、憲兵司令部

 トリューニヒトとの会食から二日経った休み明けの九月一三日の始業時刻。いつも通り、ドーソン中将に今日のスケジュールを説明していたが、どこか様子がおかしい。いつもは一言一句も聞き漏らすまいと言った表情で耳を傾けてメモも取っているのに、今日は上の空で聞いているのか聞いていないのかわからない。

 

 彼が落ち着きが無いのはいつものことだけど、それとは様子が明らかに違う。一〇時から国防委員会、国家保安局との定例連絡会議があるが、今日はせいぜい打ち合わせ程度のはずだ。ドーソン中将なら寝ていたって切り抜けられるだろう。何があったのだろうか。

 

「フィリップス大尉、これを見たまえ」

 

 ドーソン中将が俺に差し出したのは、トリューニヒトが別れ際に「今度のパーティー会場だ」と言って手渡した封筒。ペーパーナイフで開封された跡があるが、テープで綺麗に封印し直されている。ドーソン中将が一度開封した封筒の中身を人に見せる時の癖だ。いかにも几帳面な彼らしい。会議が始まる前に軽くパーティーの打ち合わせをしようってことなのかな。受け取ってテープをゆっくり剥がし、中に入っている紙を取り出して目を通す。

 

「これは…」

 

 軽く目を通しただけだが、紙には途方も無い内容が書き込まれていた。自由惑星同盟と銀河帝国の憲兵隊による合同捜査。目的は両軍内部に組織された合成麻薬サイオキシンの密売組織摘発。敵国憲兵隊との合同捜査、同盟・帝国の軍隊を股にかけた麻薬密売組織の存在のいずれも俺の想像力をはるかに超えている。

 

「貴官はサイオキシンを知っているか?」

 

 サイオキシン。一時の快楽と引き換えに人間の心身を破壊する最悪の合成麻薬。忘れるはずもない。現実の俺はサイオキシン中毒だったのだから。家族からも友人からも見捨てられ、逃げるように入った軍隊でもいじめ抜かれ、心身ともにボロボロになった俺はバーラトの和約に伴う軍縮の影響で兵士の職も失って路頭に迷った。敗戦後の不景気の中で不名誉除隊の前歴を持つ俺が就職できるはずもなく、失業保険も生活費の足しにならなかった。

 

 その日暮らしの不安から逃れるために酒や麻薬に手を出すようになり、最終的にサイオキシンに辿り着く。サイオキシンを摂取すると気持ちが高揚して疲れがきれいに吹き飛び、自分は世界で最も幸せな存在だと思えた。薬が切れると気持ちが落ち込んで自分がこの世で最も惨めな存在のように感じられ、悪寒や吐き気や咳などにも苦しめられた。最初は幸せな気分になるために摂取していたサイオキシンだったが、次第に禁断症状の苦しみから逃れるために摂取するようになる。耐性がついてどんどん摂取量が増えていき、サイオキシンの購入費を得るためには何でもした。お金が手に入らない時は売人に媚び諂って薬を恵んでもらおうとした。理性も尊厳も投げ捨ててサイオキシンに溺れた。

 

 エル・ファシルで逃げたのは「命令に従っただけ」とも言える。しかし、サイオキシンは言い訳のしようもない。自分自身の弱さと愚かさゆえに作った汚点だ。

 

「知っています」

 

 動揺を悟られないように答える。今の俺は自由惑星同盟軍の大尉だ。経歴には一点の曇りもなく、心身ともに健康。前科持ちの麻薬常習者なんかじゃない。サイオキシンを恐れる必要なんか無い。

 

「国家麻薬取締局はサイオキシンが帝国辺境の生産地からイゼルローンとフェザーンを経由して我が国に流れてきていると推測していたが、帝国内務省の協力によってその裏付けが取れた。フェザーン経由のFルートは未だ実態がつかめないが、イゼルローン経由のIルートは軍人の組織的関与が見られる」

「どのレベルの関与なのですか」

「将官級が関わっている可能性が高い」

「将官ですか…?」

「前線で息のかかった部隊同士を接触させて取引し、補給組織を使って流通させる。将官の権限を行使しなければ難しかろう」

「我が軍にはサイオキシン中毒に苦しむ兵士が数多くいます。退役軍人のサイオキシン絡みの犯罪も後を断ちません。将官が軍隊を動かして麻薬を運び、兵士を食い物にするなどあってはならないことです」

 

 拳を強く握りしめ、口調が強くならないように精一杯抑制する。サイオキシン中毒に苦しむ同盟軍人は少なくない。一瞬の油断が命取りになる戦場で戦う軍人は極度のストレス状態に置かれ、敵襲に備えているだけで激しく消耗する。疲れきった心身を癒すためにサイオキシンに手を出してしまう。

 

 中毒患者の末路は貧民街で嫌というほど見てきた。正気を失って暴れだす者、衰弱して骸骨のように痩せ細った者、収入を全部サイオキシンに注ぎ込んで子供を餓死させた者、サイオキシンを使ったセックスに耽溺して奇形児を生んだ者、禁断症状に苦しんで自ら命を絶った者などの姿が脳裏に浮かぶ。あの地獄を忘れることなどできない。

 

「昨日、サイオキシン中毒から更生した若者の体験談を読んだ。涙が止まらなかった。貴官の言うとおり、あってはならんことだ」

 

 ドーソン中将は些細な善行を喜び、些細な悪事に怒る人だ。こんな時にはそれがありがたく感じる。

 

「何が何でも検挙しましょう」

 

 自分の中にある感情が怒りなのか恐怖なのかは良くわからない。しかし、あの地獄を二度と見たくないという気持ちだけは本物だ。軍隊に入って暖かい日差しの下で生きられるようになったのに、サイオキシンが作り出す地獄に再び引きずり込まれてはたまらない。一秒でも長く夢を見ていたい、日差しを浴びていたいと思う。

 

 

 

 帝国憲兵隊との合同捜査は当然のことながら、極秘裏に進められた。建前の上では同盟と帝国が連携することなどありえない。同盟にとっての帝国は憎き専制、帝国にとっての同盟は反乱軍であって、交渉など国是が認めないからだ。

 

 捜査対象が軍内部に巣食う犯罪組織で将官の関与も疑われるというのも問題だ。慎重に扱わないと軍の威信を決定的に傷つけてしまう。憲兵隊選りすぐりの腕利きを集めた特別捜査チームが編成され、ドーソン中将が自ら指揮を取った。フェザーンには憲兵隊幹部が駐在武官として出向し、同じように駐在武官となった帝国憲兵隊幹部と定期的に連絡を取り合っている。

 

 ドーソン中将はいつにもまして精力的に動きまわった。彼は俺が資料として渡したサイオキシンの健康被害の悲惨さを訴える写真集、更生した中毒患者の手記、自殺した中毒患者の遺族の悲しみを綴った本、密売組織の残虐さを批判する本などを読んで大いに感情を揺さぶられ、サイオキシンを世界から追放しなければならないと思うようになっていた。サイオキシンの害を科学的に分析した本、中毒患者を生み出す社会構造を研究した本なんかには関心を示さなかったけど、善意に支えられた行動力がドーソン中将の強みなのだから仕方ない。

 

 トップが動くと、副官の仕事も多くなる。会議を開いて情報共有と意思一致を徹底し、政治家や官庁幹部と会って協力を引き出し、現場を訪れては檄を飛ばす。その一方で日常業務も手を抜かない。「体をいくつ持っているんだ」と言われるほどにドーソン中将が動き回ったおかげで副官の俺を通した連絡事項も格段に多くなり、体が三つ欲しくなるぐらい忙しくなった。仲の良い人達と連絡する暇もない。

 

 クリスチアン中佐が率いる連隊は前線に配属され、イレーシュ少佐が艦長を務める駆逐艦はずっと演習に出ていて、俺に連絡する暇もないようだ。アンドリューに至っては、上司である宇宙艦隊司令長官ロボス大将が一〇月初めにタンムーズ星系で帝国軍宇宙艦隊司令長官ツァイス元帥率いる三個艦隊を大破したという記事を読んで前線に出ていたことを知った始末だ。ドーソン中将が幕僚に仕事を割り振ってくれたら俺ももっと楽になるんだけど、陣頭指揮で細かく指示を出すというスタイルで評価されてきたのだから、とやかく言うことでもない。無能な俺にできるのはまじめに頑張ることだけだ。

 

 アンドリューが戦力は頭数と運動量の掛け算だと言っていた。どんなに頭数が多くても動かなければ戦力にならない。逆に頭数が少なくても動きが多ければ戦力として機能する。優れた戦術家は敵の運動量を抑えて、味方の運動量を多くして、相対的な戦力の優位を作り出す工夫をするのだそうだ。人の半分しか能力がない俺でも人の倍動けば、人並みの仕事量になるかもしれない。

 

 

 

 年が明けて七九四年を迎えた。世間はタンムーズ星系会戦の功績で元帥に昇進した宇宙艦隊司令長官ロボスと大将に昇進した宇宙艦隊総参謀長グリーンヒルのコンビを「リン・パオ、トパロウルコンビの再来」ともてはやし、気の早い主戦派マスコミは「次はイゼルローン攻略だ」などとはしゃいでいたが、俺は相変わらず副官の仕事で忙しかった。サイオキシン密売組織の捜査は佳境に入っていて、第一五方面司令官マヘシュ・プラサード中将、後方勤務本部次長兼中央支援集団司令官シンクレア・セレブレッゼ中将、第六艦隊参謀長マシュー・リバモア少将ら将官十数人が捜査線上に浮上している。帝国側でもやはり一〇人を越える将官をリストアップしているらしい。

 

 宇宙艦隊司令部は二月末にイゼルローン回廊の同盟側出口周辺にあるヴァンフリート星系への出兵を発表した。目的はヴァンフリート星系に展開して同盟領辺境星域への侵攻態勢を取る帝国軍宇宙艦隊の撃破。帝国軍は昨年末にツァイス元帥の後任として宇宙艦隊司令長官に就任したミュッケンベルガー元帥の指揮のもと、タンムーズの大敗の雪辱を果たそうとしている。

 

 一方、憲兵司令官ドーソン中将は今回出兵する艦隊・地上部隊・後方支援部隊付属の憲兵隊に司令部勤務の若手憲兵士官五八人を派遣する方針を発表した。前線勤務の経験を積ませる狙いがあるという。

 

 三月三日。憲兵司令部の一室に佐官級の憲兵士官六人が集められていた。いずれもヴァンフリート出兵参加組で俺以外の五人は憲兵司令部の若手士官でも最優秀の人材だ。サイオキシン密売特別捜査チームのメンバーでもある。ドーソン中将は全員が集まったのを確認すると、コホンと咳払いをして、勿体ぶった口調で話し始めた。

 

「本作戦は軍服を着た麻薬密売人どもを一掃し、軍規の尊厳を明らかにする聖戦である。我が軍の将来はこの一戦にかかっている。憲兵隊選りすぐりの貴官らであれば、成功疑いなしと信じておる」

 

 六人を満足そうな目で見回したドーソンはもう一度コホンと咳払いをして、胸を反り返らせる。

 

「ナイジェル・ベイ中佐!第八艦隊後方支援集団憲兵隊長を命ず!同集団司令官クセーニャ・ルージナ少将を拘束せよ!」

「ハッ!」

 

 名前を呼ばれたベイ中佐は一歩前に進み出て元気良く返事をする。

 

「ジェラード・コリンズ中佐!第六艦隊第二分艦隊憲兵隊長を命ず!同分艦隊司令官クレール・ロシャンボー少将を拘束せよ!」

「ハッ!」

 

 ドーソン中将は次々と士官を呼び出して、拘束命令を与える。今回の若手憲兵士官五八人の前線派遣は、本命はサイオキシン密売Iルート同盟側組織の要となっている将官の拘束命令を受けた六人を目立たないように送り込むためのカムフラージュなのだ。六人目への命令が終わったら、俺の番になる。

 

「エリヤ・フィリップス少佐!ヴァンフリート四=二基地憲兵隊長代理を命ず!後方勤務本部次長兼中央支援集団司令官兼同基地司令官シンクレア・セレブレッゼ中将以下の全司令部要員を拘束せよ!」

「ハッ!」

 

 俺は本日付で少佐に昇進し、憲兵司令官副官の職を離れた。拘束命令を執行する六人のうち、俺一人だけが少佐。しかも、拘束対象が司令部全員というアバウトさだ。セレブレッゼ中将率いる後方支援チームがIルートの流通中枢であることまでは判明していたが、将官八人のうちの誰が関与しているかまでは特定できなかった。数人の佐官が関与している形跡もある。だから、全員拘束した後で取り調べようというのだ。

 

「なお、すべての拘束命令執行は遠征軍総司令部の戦闘終結宣言と同刻とする」

 

 同盟と帝国の憲兵隊の合同捜査の総仕上げの将官拘束命令という未曾有の任務に緊張してしまう。お腹も痛くなってきた。部隊を指揮するのも今回が初めてだ。自分に務まるのだろうか。自分がサイオキシン密売組織に感じているのは怒りではなくて恐怖なのだろうか。四=二基地には知り合いが何人か配属されてるけど、今回の任務では頼りにできない。プレッシャーで人間を物理的に潰せるなら、今の俺は紙のように薄くなるまで潰せるに違いなかった。


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