銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第百二十九話:ルドルフの処方箋 宇宙暦797年10月上旬~12月初旬 派遣艦隊旗艦ゲティスバーグ

 二年前に初めて艦艇部隊指揮官になった俺は、三三隻の駆逐隊を率いてエル・ファシル危機を戦った。去年は六五〇隻の戦隊を率いて、帝国領遠征に参加した。そして、今は一万六〇〇隻の艦隊を率いてイゼルローン方面航路の海賊討伐にあたっている。

 

 当然ながら、三三隻の用兵と六五〇隻の用兵と一万六〇〇隻の用兵は全然違う。駆逐隊を率いた時は、上官の指示に従ってひたすら局所的な戦闘の指揮に専念した。戦隊を率いた時は、担当戦区全体の戦況を見渡しながら、配下の七個群を動かした。今回の戦いでは、複数の星系にまたがる広大な戦線に分散した四個分艦隊を統括し、状況に応じて直轄の三個戦隊を動かす。大局的な視野から戦略を立案し、補給組織や情報網を整備し、前線指揮官を指導する能力が問われる。

 

 補給組織や情報網の整備には問題がなかった、俺はもともとこの種の仕事に向いていたし、トリューニヒトは必要な予算をたっぷり与えてくれた。後方勤務本部や軍情報部も全面的に協力してくれた。俺自身は戦略眼に欠けていたが、参謀長チュン・ウー・チェン少将が補ってくれた。問題は前線指揮官の指導である。

 

 局所的な戦闘を指揮するのは、隊司令や群司令といった部隊指揮官の仕事。部隊指揮官を束ねて宙域的な戦闘を指揮するのは、戦区指揮官である戦隊司令官の仕事。分艦隊司令官は複数の戦区を統括する星系規模の大戦区指揮官。俺は分艦隊司令官及び直轄戦隊司令官を指導する形で戦闘に関与する。艦隊司令官ともなると、広大な星系の経略すら部下に任せなければならない。だが、困ったことに俺の部下は今ひとつだった。

 

 第二分艦隊司令官ビューフォート少将には、安心して仕事を任せることができる。大まかな方針を示して必要な支援を与えれば、それで十分だった。第三分艦隊司令官マスカーニ少将は自主性に欠けていてやや頼りなかったが、細かく指導すれば結果を出してくれた。だが、第一分艦隊司令官ケンボイ少将と第四分艦隊司令官モンターニョ少将は、細かく指導しても結果を出せずにいる。

 

 海賊討伐作戦が始まってからの一か月は、失望の連続だった。可能な限りの配慮をしたつもりだったが、それでも十分とは言えず、旗艦ゲティスバーグには連日のように憂鬱な報告が飛び込んできた。

 

「第四分艦隊より通信。バルディビア宙域の海賊が包囲網を突破して逃亡。現在追跡中です」

 

 副官ユリエ・ハラボフ中佐のいつもと変わらぬ冷たい声が、俺を苛立たせた。第四分艦隊には二〇〇〇隻の戦力があり、さらに第三方面巡視艦隊の半数が指揮下に加わっている。それだけの大戦力があるのに、なぜ一〇〇隻にも満たない海賊を取り逃がしてしまうのか。二年前の海賊討伐作戦でルグランジュ提督が率いた将兵なら、一個戦隊で包囲網を敷いても、取り逃がしたりはしなかった。

 

「支援部隊を送ってほしいとのことですが、いかがいたしましょう」

 

 有り余るほどの戦力があるのに、それでも足りないというのか。驚きと怒りで頭が沸騰しそうな自分を懸命に抑えて、参謀長チュン准将を手招きする。

 

「参謀長、今動かせる部隊は?」

「第二二戦隊と第四七戦隊が動かせます」

「わかった。第二二戦隊を派遣しよう」

 

 部下の不甲斐なさに心の中で腹を立てつつも援軍を送ることにした。一旦任せた以上、最後まで面倒を見るのが司令官の義務なのだ。怒ってはいけないと自分に言い聞かせると、砂糖とミルクでドロドロになったコーヒーを飲み干して糖分を補給する。

 

 イゼルローン方面派遣艦隊は練度が低く、群司令や戦隊司令官も二線級の人材ばかり。現場の努力に期待できない以上、分艦隊司令部が目を配る必要がある。それなのに第四分艦隊司令官モンターニョ少将は、現場に厳しいノルマを課すだけで目を配ろうとしない。しかも、高圧的な態度で地方部隊の反感を買って、協力体制にひびを入れた。目上に弱く目下に厳しい彼の性格が、第四分艦隊の能力低下を招いたのだ。

 

 事態を憂慮した俺はモンターニョ少将に通信を入れて、現場に目を配り、地方部隊と協調するように何度も勧告し、詳細な指導文書も与えた。モンターニョ少将は俺の指導に従ったが、目下に無理を押し付ける形で実施しようとしたために、結果を出せなかった。部下の苦労を顧みない強引な戦いぶりで上官の困難な要求を達成することによって、彼は武勲を重ねた。今さらスタイルを変えようも無いのであろう。勇敢で任務に忠実と評された提督が、それゆえに大軍の管理者として不向きなのは皮肉な話である。政治的な事情から、更迭するのも難しい。我慢して使い続けるしか無かった。

 

「昨日、第一分艦隊の下士官が麻薬使用の疑いで、プエルトモント市警に逮捕されました。こちらが第一分艦隊より送られてきた報告書です」

 

 第四分艦隊に対する苛立ちを腹の中に収めることに成功して間もないというのに、第一分艦隊の不祥事をハラボフ中佐が伝える。たちまち脳内の糖分が底を尽き、苛立ちが広がった。機械的に報告書を差し出すハラボフ中佐の手つきも、こんな時は苛立ちを募らせる。

 

「ありがとう」

 

 顔に優しげな笑いを貼り付けて、報告書を受け取る。三歳年下の副官は俺の虚勢を見透かしたかのような冷ややかな視線を向けてくるが、それでも苛立ちを表に出さないのが上に立つ者の義務なのだ。

 

 報告書の中に「サイオキシン」という単語を発見した俺は、不快感で唇を軽く歪めた。人類の科学が作り上げた最悪の合成麻薬サイオキシン。三年前に同盟軍内部の密輸組織が憲兵隊によって摘発されると流通量が激減したが、去年から回復の兆しを見せていた。前の人生においてサイオキシン中毒に苦しみ、今の人生で密輸組織と戦った俺には、サイオキシンの再流行は看過できるものではない。

 

 逮捕された下士官の経歴を見ると、二年前に予備役に編入されて、海賊討伐作戦のために再招集された人物であった。いつから麻薬を服用していたのかは、調査中とのこと。ただ、薬物使用を疑った警官の職務質問がきっかけで逮捕されたというから、常用者であるのは間違いなかった。

 

 同盟軍は違法薬物対策マニュアルを作成して各部隊に配布し、すべての指揮官に年一回の予防講習を義務付けて、薬物問題の啓蒙に取り組んでいる。指揮官がしっかり目を配っていれば、常用者を見つけるのはさほど難しくない。だが、第一分艦隊では薬物問題に限らず、指揮官の目配りが行き届いているとは言い難かった。

 

 第一分艦隊司令官ケンボイ少将は、軍規に厳しい提督として有名な人物だ。軍規違反者は厳罰に処し、重大な違反があった場合は上官や同僚に対しても連帯責任を問う。彼が指揮官となった部隊は、まるで神学校の寄宿舎のような雰囲気になると言われる。だが、過度の厳罰主義がただでさえ大きな軍人のストレスを増大させ、かえって借金、飲酒、ギャンブル、女遊び、麻薬などに溺れる者を増やした。連帯責任を恐れるあまり、他人の違反に見て見ぬふりをする気風も生じた。ケンボイ少将の厳罰主義は、第一分艦隊のモラルをかえって低下させてしまったのだ。

 

 厳罰主義を改めるよう、ケンボイ少将に何度も指導した。だが、俺の指導を「過度の厳罰を与えた指揮官は厳罰に処す」といった手法で実施するほどに、ケンボイ少将の厳罰主義的な発想は根強かった。同盟軍にあって提督まで昇進した者が無能であろうはずはない。指揮官としては、恐怖によって統率された将兵を手足のように動かして武勲を重ねた。参謀としては、部隊の引き締め役を担った。だが、分艦隊という大軍の管理者としては、彼の有能さはかえって有害であった。

 

 部下を信頼して任せるのが良い指揮官だと、世の中では言われている。口でそれを言うのは簡単だが、信頼して任せれば結果を出せる部下など、そうそういるものではない。それどころか、細かく指示を与えても結果を出せない部下も多いのだ。部下を選ぶのも指揮官の能力と言われても、選べない場合はどうすれば良いのだろうか?部下を育てるのも指揮官の能力かもしれないが、時間がない場合はどうすれば良いのだろうか?今になってようやく、部下に任せたがらないドーソン大将の気持ちが理解できた。

 

 これまでの自分は、指揮官として恵まれた環境にあった。第一三六七駆逐隊は小世帯ゆえに、直接指導がしやすかった。第三六戦隊は経験豊かな精鋭が揃っていて、俺の未熟な指揮でも素晴らしい動きを見せてくれた。しかし、イゼルローン方面派遣艦隊は練度も戦意も低く、指揮官の力量にも期待できない。俺が出張って直接指導すれば、司令官としての仕事が滞ってしまう。

 

 結局、イゼルローン方面派遣艦隊は、カナンガッド方面の海賊平定に一か月近くを要した。海賊の勢力が比較的小さく、地方部隊が強力なこの方面でこんなに時間をかけるとは、拙攻もいいところだ。

 

 他の三方面の派遣艦隊も当初は苦戦していたが、次第に持ち直して戦果をあげつつある。フェザーン方面のシャンドイビン中将は、前職のコネを活かして地方部隊との協力体制を築いた。エリューセラ方面のモートン中将は、弱兵を巧みに運用して戦果をあげた。ロンドニア方面のカールセン中将は、闘志をむき出しにする姿勢が将兵の戦意を盛り上げた。四つの方面派遣艦隊の中でイゼルローン方面派遣艦隊の戦果が最も乏しかったのだ。

 

 もともと戦意が低い上に、戦果もあげられないとあっては、軍規が弛緩するのは火を見るよりも明らかだった。イゼルローン方面派遣艦隊司令部の住民サービス部には、将兵の迷惑行為に対する苦情が殺到。暴行や窃盗で地元警察に検挙される将兵も現れた。表沙汰にはならなかったが、捕虜虐待も報告された。

 

 トリューニヒト派の軍人といえば、任務より規律を優先すると言われるぐらいに規律にやかましく、部下より市民の顔色を見ていると言われるぐらいに世間体を重視する。規律と協調こそが凡人の力なのだ。しかし、イゼルローン方面派遣艦隊の現状は、トリューニヒト派の理想とは程遠い状況にある。

 

 今のところはトリューニヒトがマスコミを抑えてくれるおかげで、表立った批判を受けずに済んでいる。だが、いつまで経っても成果を挙げられなければ、いずれは抑えきれなくなるはずだ。熱しやすい同盟市民の反感が俺と部下に向けられるなど、想像したくもない悪夢である。

 

 困り果てた俺は、参謀長チュン少将や情報部長ベッカー准将とともに策を練り、過激な方法で局面を打開することにした。マスコミが嗅ぎつける前に、先手を打って方面派遣艦隊内部の不祥事をすべて公開し、戦隊司令官二名を含む高級士官一四名を更迭。

 

 注目を集めた直後に自ら直轄部隊を指揮してジャムシード星系に向かった。そして、方面巡視艦隊や星系警備艦隊と連合して、残虐非道で有名な惑星タフテ・ジャムシード周辺宙域の海賊組織を素早く壊滅に追い込む。功績をあげた者には、派遣艦隊、巡視艦隊、警備艦隊の区別なく、手厚い恩賞を与えた。

 

 市民や将兵は分かりやすさを好む。これまでの経験が俺にそれを教えてくれた。わかりやすい成果をあげれば、市民は大喜びし、将兵の士気も盛り上がる。部下が頼りにならない以上、勢いで突破するしかないと思い定めた。

 

 不祥事に厳しく対応し、残虐な海賊を素早く討ち滅ぼしたイゼルローン方面派遣艦隊は、たちまち市民の称賛の的となった。気を良くしたイゼルローン方面派遣艦隊将兵の士気は大いに高まり、これまでとは比較にならない戦いぶりを見せるようになったのである。

 

「閣下はウッド提督の再来だそうですよ」

 

 指揮卓に新聞を持ってきたのは、情報部長ベッカー准将だった。俺のことを銀河連邦時代最高の名将になぞらえる記事に、恥ずかしさを覚えてしまう。

 

「まだ、大した戦果あげてないのになあ。浮かれすぎだよ。ここまで持ち上げられたら、後が怖くなる」

「しかし、これぐらい盛り上がらなければ、我が艦隊はろくに動かない。閣下はそう判断なさったんでしょう?」

「いや、それはそうだけど」

「自分で盛り上げといて不安になるなんて、閣下は相変わらず気が小さいですな」

 

 亡命者の情報部長は、相変わらず一言多かった。

 

「元はといえば、情報部長の策じゃないか」

「私はあの本を参考にしろと申し上げただけですよ。形になさったのは閣下です」

「まあ、確かに参考になったよ。なにせ、『ウッド提督の再来』と呼ばれた海賊討伐のプロフェッショナルの著書だからね」

 

 俺は指揮卓の隅に置かれた本に目を向ける。布製のブックカバーがかかっていて、表紙は隠れている。『現代における宇宙戦略の新原則』という題名のこの本は、銀河連邦時代末期に海賊討伐で活躍してウッド提督の再来と賞賛されたある提督が、自らの経験をもとに記した対海賊戦略理論の著作であった。

 

「亡命する時に持ってきたんですが、役に立つ時が来るなんて思いませんでした」

「なかなか読めない本だからね」

「私の祖国の士官学校では必修なんですが、こちらでは教えないんですね」

「まあ、俺が出た幹部候補生養成所は、下士官に士官としての基礎教育をする場所だから、戦略理論なんて教えないんだよ。まあ、あれは士官学校でもさすがに教えないと思うけど……」

 

 本を手にとって表紙をめくる。そこには「銀河連邦軍少将 ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム 著」と記されていた。

 

 

 

 俺が参考にした本の著者の末裔が支配する国家の内戦は、一一月に入って最終局面を迎えた。民衆反乱によって失われた領地の奪還を望む保守派貴族軍の強硬派が、盟主のブラウンシュヴァイク公爵を説き伏せて、最後の決戦を決意させたのだ。

 

 ガイエスブルグ要塞前面に展開した保守派貴族軍は、経験豊かな貴族軍人の奮戦によって、一時はラインハルト率いる改革派軍を圧倒する勢いを見せた。しかし、正規軍と私兵軍の混成部隊による勢い任せの攻撃は、精強な改革派軍によって跳ね返されてしまう。敵の攻勢終末点を見切ったラインハルトは、キルヒアイス上級大将の巡航艦部隊を投入した。疲弊した保守派貴族軍は、高速で突入してくるキルヒアイス上級大将を支えきれずに後退を開始。勢いづいた改革派軍は全面攻勢に出て、ついに保守派貴族軍を潰走させた。

 

 完全に秩序を失った保守派貴族軍が、抵抗を続けようとする門閥貴族と降伏を望む平民及び下級貴族出身の職業軍人の両派に分裂して同士討ちを展開する中、改革派軍はガイエスブルグ要塞に突入した。追い詰められたブラウンシュヴァイク公爵は、毒酒をあおって自決。七か月に及んだ帝国内戦は、改革派軍の勝利によって幕を閉じたのである。

 

 ラインハルトはガイエスブルグ要塞に入り、保守派貴族軍残党掃討を開始した。三四代皇帝オットー・ハインツ二世の曾孫にあたるローテンシュタイン公爵、枢密顧問官フーデ公爵、前科学尚書ウィルヘルミ侯爵、第一竜騎兵艦隊司令官メルカッツ上級大将、白色槍騎兵艦隊司令官エルクスレーベン大将などの有力者が未だ逃亡中。貴族領の一部も抵抗を続けている。勝利したとはいえ、未だ予断を許さない状況にある。

 

 キルヒアイス上級大将が内乱鎮圧に果たした功績を高く評価した皇帝エルウィン・ヨーゼフは、元帥号とエッシェンバッハ伯爵位を授与した。だが、六歳の子供が自らの意志でこのような人事を行えるはずもない。帝都オーディンにあって内政を統べる帝国宰相リヒテンラーデ公爵が裏にいるのは、言うまでもなかった。

 

 キルヒアイスが元帥号と伯爵位を得れば、功績から言って帝国軍三長官の一角を占めるのは間違いない。軍務尚書エーレンベルグ元帥は軍を退いた後、侯爵家当主の資格で枢密院議長に就任する予定だった。ラインハルトはエーレンベルグの後任の軍務尚書となり、キルヒアイスはラインハルトの後任の宇宙艦隊司令長官に就任すると言う見方が有力だ。そうなれば、ラインハルトとキルヒアイスの地位は同等となる。

 

 リヒテンラーデ公爵の意図がラインハルト陣営の分裂にあるのは、明らかだった。キルヒアイスは元帥号と伯爵位を辞退したが、リヒテンラーデ公爵は重ねて勅令を出した。ラインハルト陣営では、功績査定すら始まっていない段階で、一人だけ昇進を認められたキルヒアイスに対する反感が強まっているという。保守派貴族軍が敗北した今、ラインハルトとリヒテンラーデ公爵の暗闘が始まろうとしていた。

 

 帝国の暗闘が始まった頃、同盟国内でもトリューニヒトとイゼルローン方面軍の暗闘が激しくなった。旧シトレ派の牙城だった統合作戦本部と宇宙艦隊司令部の切り崩しに成功したトリューニヒトは、軍部の完全掌握を目指してイゼルローン方面軍に手を伸ばした。

 

 トリューニヒトがイゼルローン方面軍の中で最も敵視しているのは、方面軍副司令官と要塞事務監を兼ねるキャゼルヌ少将である。かつてはシトレ元帥の腹心として、現在はイゼルローン方面軍司令官ヤン大将の知恵袋として、トリューニヒトに敵対してきた。帝国領遠征の重要戦犯の一人でもあり、何としても排除したい人物である。

 

 粛軍を口実にキャゼルヌ少将を予備役に編入しようとすると、ヤン大将は統合作戦本部長クブルスリー大将、宇宙艦隊司令長官ビュコック大将といった旧シトレ派人脈を総動員して助命に動き、トリューニヒトの軍部掌握を阻止しようとする進歩党、トリューニヒト叩きの材料に飢えている反戦派マスコミも呼応する動きを見せたことから、断念に追い込まれた。

 

 ヤン大将はイゼルローン方面軍司令官、駐留艦隊司令官、要塞司令官を兼ねているが、実際は艦隊指揮に専念している。要塞事務監のキャゼルヌ少将が「事務監は要塞の唯一の少将職で、後方部隊を統括する指揮官である。つまり、要塞の次席指揮官である」という理屈で、事実上の要塞司令官を務めていた。そこでトリューニヒトは要塞防御司令官のシェーンコップ准将を少将に昇進させて、キャゼルヌ少将の指揮権の根拠を弱めようと試みた。しかし、ヤン大将がキャゼルヌ少将の指揮権の優越を明言したことにより、トリューニヒトの目論見は失敗に終わる。

 

 次にトリューニヒトが目を付けたのは、ヤン大将の副官のフレデリカ・グリーンヒル大尉だ。彼女の父親であるドワイト・グリーンヒル大将は、クーデターの首謀者として軍事裁判を受ける身である。そこで「証人として出廷を求める」との名目で召還し、ヤン大将の側近グループの一角を切り崩そうと試みた。だが、グリーンヒル大尉は病気を理由に出廷を拒否。医師の診断書もあったことから、召還は見送られた。

 

 あの手この手で切り崩しを試みるトリューニヒトであったが、なんといっても距離が遠く、要塞内部にも内通者はいなかった。そのため、イゼルローン方面軍の言い分を検証できないまま、鵜呑みにせざるを得なかった。

 

 新部隊増設を名目に将兵を引き抜き、補充要員としてトリューニヒト派の士官が率いる新兵部隊を送り込んだ。だが、その多くがイゼルローン方面軍に取り込まれてしまい、取り込まれなかった者は不正行為などを理由にハイネセンまで送還されてしまった。不正摘発を糸口に切り込もうとしても、イゼルローン方面軍の職務執行状況や会計手続きには一分の隙も無く、監査をことごとくすり抜けてしまう。合法的にイゼルローン方面軍を切り崩す手段は、存在しないかに思われた。

 

 合法性にこだわらなければ、一角を切り崩すぐらいはできる。しかし、そんなことをすれば、旧シトレ派と全面戦争になってしまう。派閥色の薄い者も反発するだろう。海賊討伐作戦、正規艦隊再建、新戦略構想といった大事業を推進するには、旧シトレ派や派閥色の薄い者の協力も必要となる。イゼルローン方面軍にばかりこだわってはいられなかった。

 

 更に言うと、トリューニヒトは国政を統括する最高評議会議長。国防だけにこだわっていられる立場でもない。財政危機、不況、失業、治安悪化、福祉崩壊など、取り組むべき問題は山積しているのだ。トリューニヒトは去年発表した政権構想「共和国再建宣言」の実現に全力で取り組んだ。

 

 財政危機に関しては、最大の債権者であるフェザーン政府と交渉して、彼らが要求する外国籍企業の参入障壁撤廃、外国人投資規制の完全撤廃などを受け入れる代わりに、債権の一部放棄を認めさせた。ただ、大型国債を発行したため、政府債務残高はそれほど減っていない。クリスチアン大佐が危惧したように、フェザーンの資金への依存度は高まったといえる。

 

 トリューニヒト政権の経済財政政策は、積極財政を根幹としている。大型国債発行で集めた資金を公共事業に投資して、景気浮揚と雇用確保を狙った。公共事業と言っても、むやみやたらにでかい工事をしたわけではない。老朽化したインフラの修繕、中途で放棄された開発事業の再開などに予算を付けたに過ぎない。公務員の定員も一〇年前の水準に戻されて、廃止された公共サービスの多くが復活した。それだけで巨額の予算が消化されて、巨大な雇用が生まれたのだ。六年間のレベロ財政がどれほど徹底して予算を削ってきたかが伺える。

 

 治安にも莫大な予算が投じられた。警察官の定員が以前の水準に戻されて、大幅に増加した。街頭防犯カメラは倍増。地域住民の防犯パトロールに対する公費助成も始まった。物量戦術で治安を維持するトリューニヒトのやり方は、反戦派から「国民監視の強化」「警察国家」と批判された。そういえば、クリスチアン大佐の動画や『憂国騎士団の真実』でも、トリューニヒトは警察国家を作ろうとしていると言われていた。

 

 進歩党のホアン・ルイが推進した自立重視のハイネセン主義的社会保障政策も転換されて、自立を前提としないサービスの充実を目指した。トリューニヒトの支持層である退役軍人、亡命者、貧困層といった社会的弱者に対する給付金も増額された。徹底して凡人に優しい社会というトリューニヒトの理想が反映された政策だ。

 

 あまり注目されないが、トリューニヒトは教育政策にも力を入れている。警察官に学校常駐させて、非行を防止する。退役軍人を教師に採用して、軍隊仕込みの規範意識を指導する。奉仕活動をカリキュラムに取り入れて、利他心を養わせる。学校に対する行政の監視を強化して、教師の問題行動を防ぐ。青少年栄誉賞を創設して、模範的な青少年を顕彰する。モラル重視、精神教育重視がトリューニヒトの教育政策の特徴といえよう。

 

 当然のことながら、これらの政策は自由を重んじるハイネセン主義と真っ向から対立する。反戦派はトリューニヒトを「全体主義者」「社会主義者」と批判し、多額の国債を発行して予算を大幅増額する手法を「人気取りのばら撒き」と批判した。

 

「トリューニヒト議長は、『我が国は危機にある。だから、非常の手段もやむを得ない』と言う。だが、危機を理由に非常手段を認めた末に何が起きるかは、既に歴史が答えを出している。それは今から四八七年前の銀河連邦でルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが起こしたのと同じことだ。もちろん、トリューニヒト議長がルドルフになるなどとは思わない。だが、トリューニヒト議長が使命感ゆえに成したことが、未来のルドルフに道を開くのではないかと危惧する」

 

 議会で良心法が可決された直後、ジョアン・レベロは演壇に立ってトリューニヒトの非ハイネセン的な手法を批判した。だが、彼の熱弁は世間には顧みられなかった。

 

 積極財政によって、景気回復や雇用改善の兆しが見えてきた。市民が何よりも望む経済の安定が実現しようとしている。犯罪検挙率の増加、社会保障の充実も市民を大いに喜ばせた。長きにわたって沈みきっていた世の中は、少しずつ明るさを取り戻しているかのように見えた。レベロが語る民主主義の危機より、トリューニヒトの強権がもたらした希望を市民は信じたのである。

 

 反戦市民連合の分裂もトリューニヒト批判が力を持たない理由の一つであった。四月一六日の事件で執行部が壊滅した反戦市民連合は、混乱状態に陥った。未熟な新執行部に対する反発が党内抗争を引き起こして、離党者が続出。反戦市民連合はここ数年で台頭し、今年の総選挙で飛躍した。新興勢力ゆえの結束の弱さが分裂を招いたと言える。クーデター前には最強の批判勢力だった反戦市民連合は、見る影もなく弱体化してしまったのだ。

 

 トリューニヒト派には明るい時代、反トリューニヒト派には暗い時代がやってきた。そんな時代にあって、イゼルローンは反トリューニヒトの砦としてそびえ立つ。

 

 銀河の二大国が激しく揺れ動いた七九七年は、最後の月を迎えた。イゼルローン方面派遣艦隊は処分された者の補充要員としてハイネセンから派遣されてきた将兵、現地で募った義勇兵を迎え入れて、陣容を充実させていた。

 

「一生逃亡者と蔑まれて生きるぐらいなら、名誉の戦死の機会をいただけませんでしょうか」

 

 そう言って志願してきたエル・ファシル警備艦隊元参謀のケビン・パーカスト元大尉を隊長とするエル・ファシル逃亡者の義勇兵部隊も戦列に連なる。

 

 ウッタラカンド星域方面の作戦を完了して意気上がるイゼルローン方面派遣艦隊は、次なる戦場のシヴァ星域方面へと移動。フェザーン方面派遣艦隊のシャンドイビン中将、エリューセラ方面派遣艦隊のモートン中将、ロンデニア方面派遣艦隊のカールセン中将も順調に作戦を進めている。海賊討伐作戦は佳境に入りつつあった。


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