銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第百三話:トリューニヒトの春 宇宙暦797年2月25日~3月24日 国防委員会庁舎

 二月二五日、自由惑星同盟と銀河帝国がイゼルローン要塞で三月一〇日に捕虜交換式を開くことに合意すると、最高評議会議長ヨブ・トリューニヒトは捕虜交換プロジェクトチームを結成した。トリューニヒト自らがリーダーとなり、国防委員長マルコ・ネグロポンティが事務局長として実務を取り仕切る。政府のトップと国防のトップが陣頭指揮を取ることで、政府が一丸となって取り組む姿勢を示したのである。

 

「捕虜交換は国家事業である!全力で取り組むように!」

 

 プロジェクトチーム結成翌日、ネグロポンティは国防委員会の職員全員を集めて檄を飛ばした。「熱心に取り組んだ者は、勤務評価で優遇する」との内部通達が出され、「通常業務を放り出して取り組む者が多い。これでは仕事が回らない」との苦情が寄せられた翌日には、「捕虜交換プロジェクトを最優先にせよ」との通達が出た。

 

 同盟軍の持つあらゆるリソースが捕虜交換事業のために動員された。国防委員会の職員は二四時間体制で捕虜リスト作成、必要な人員や物資の計算などに取り組み、庁舎は不夜城と化した。管内に捕虜収容所を持つ星系管区や方面管区の司令部は、通常業務を後回しにしてでも捕虜交換事業に協力するよう求められた。正規艦隊や地方部隊の艦艇が捕虜移送に動員された。各地の補給基地に集積された食糧、衣服、医薬品などが捕虜を給養するために放出された。

 

 国防委員会が動員したリソースを組織して具体的な移送計画を組んだのは、中央支援集団司令官に復帰したばかりのシンクレア・セレブレッゼ中将である。辺境に左遷されて第一線から遠ざかっていたセレブレッゼ中将は、最高評議会が捕虜交換交渉を受諾した二月上旬に中央に呼び戻された。四〇〇万の捕虜と四〇〇万の帰還兵を移送する一大輸送作戦を手際良く指揮できる人材は、彼をおいて他にいなかったからだ。

 

 同盟軍最高の後方支援指揮官と言われたセレブレッゼ中将を支えたのは、「チーム・セレブレッゼ」と言われる強力なスタッフ集団だった。ヴァンフリート四=二で多くのスタッフを失ったセレブレッゼ中将がかつてと同じ実力を発揮できるか危ぶむ声もあったが、それが思い過ごしにすぎないことはすぐに分かった。エマヌエル・カルーク少将ら旧チームの生き残りにセレブレッゼ中将が辺境で見出したオーブリー・コクラン大佐らを加えて結成された新チームは、旧チームに劣らぬパワーを発揮した。

 

 受け入れる側のイゼルローン要塞では、セレブレッゼ中将に匹敵する手腕を持つアレックス・キャゼルヌ少将がイゼルローン捕虜交換事務総長として采配を振るっていた。帝国領遠征の敗戦責任を負って辺境に左遷された彼は、すぐにイゼルローン要塞事務監に転じた。そして、捕虜交換に関わる事務を担当することになった。

 

 ネグロポンティ率いる国防委員会とセレブレッゼ中将率いる中央支援集団は、驚くべき手際の良さで、全土から集められた四〇〇万の捕虜をほんの一三日でイゼルローン要塞まで送り届けるという難事業を進めていった。キャゼルヌ少将は迅速に受け入れ体制を整えた。昨年の大敗で弱体化したかに思われた同盟軍の後方支援体制は、内外に健在ぶりを示したのである。

 

 不安要因が全く無いわけではなかった。敗戦後に勢いを取り戻した宇宙海賊は、各地で航路の安全を脅かし、移送船団にもその毒牙を向けようとしていた。敗戦後の不景気は生活難に陥った軍人や公務員の不正行為を招き、捕虜のために集められた物資の多くが横流しされた。国防委員会とイゼルローン捕虜交換事務局の確執も深刻だった。しかし、トリューニヒトが強力なリーダーシップを発揮したため、停滞には至らなかった。

 

 捕虜交換式は予定通り、三月一〇日に決行された。全銀河のマスコミがイゼルローン要塞に集まり、特別番組を組んで報道している。二日前にハイネセンに戻った俺は、国防委員会庁舎の第一講堂にある巨大スクリーンを通して交換式の様子を眺めていた。

 

 午前一〇時頃、帝国軍の代表団が真っ赤な戦艦から降り立った。先頭に立つのは赤毛にずば抜けた長身の美男子。画面に「帝国軍代表団長 宇宙艦隊副司令長官 ジークフリード・キルヒアイス上級大将」のテロップが流れると、ホールの各所からざわめきが聞こえた。

 

 アムリッツァでは赤い旗艦を駆って活躍し、ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥が宇宙艦隊司令長官に就任すると同時に副司令長官に就任したキルヒアイスは、同盟でもローエングラム派の重鎮として認知されていた。しかし、経歴に関してはほとんど知られておらず、貴族身分を示す「フォン」が名前に付いていないことから、平民出身の重鎮にふさわしい閲歴を持つ壮年の提督と思われていたのだ。それが二〇歳そこそこの若者だったと想像できる者はいなかった。俺も前の歴史の知識がなかったら、腰を抜かしていたに違いない。

 

 キルヒアイスに続いて降り立ったのは、金髪で貴族的な風貌を持つ三〇前後の人物。画面には「代表団副団長 第三猟兵艦隊副司令官 シュテファン・フォン・プレスブルク中将」のテロップが流れた。階級から判断すればラインハルト陣営の最高幹部のはずなのに、前の歴史では聞いた覚えがない名前だ。

 

 その後には三〇代と思しき三人の人物が続く。テロップはそれぞれ「代表団 第三猟兵艦隊参謀長代理 ハンス・エドアルド・ベルゲングリューン准将」「代表団 第三猟兵艦隊副参謀長 ホルスト・ジンツァー准将」「代表団 第三猟兵艦隊陸戦隊司令官 オスヴァルト・ハイアーマン准将」となっている。ベルゲングリューン准将とジンツァー准将は前の歴史でも見覚えのある名前だった。

 

 随員の肩書きから見るに、キルヒアイスの直率部隊が「第三猟兵艦隊」という名前であることがわかる。今の人生で学んだことだが、提督の名前を冠して呼ばれることが多い帝国の正規艦隊は、「第○槍騎兵艦隊」「第○竜騎兵艦隊」といった古風な正式名称を持っているのだ。

 

 同盟軍の兵士は全員捧げ銃の敬礼で帝国の代表団を出迎え、軍楽隊が同盟軍歌を演奏する。最高評議会議長、最高評議会評議員、同盟議会議長、最高裁長官などが受けるものと同等の栄誉礼である。国歌でなく軍歌が演奏されているのは、あくまで軍同士の交渉という建前だからだ。

 

 同盟軍代表団長のイゼルローン方面軍司令官ヤン・ウェンリー大将は、副団長キャゼルヌ少将、随員のフィッシャー少将、ムライ少将、シェーンコップ准将を引き連れて、帝国軍代表団を迎え入れる。ヤン大将がキルヒアイス上級大将と握手を交わすと、ホール内に拍手が鳴り響いた。

 

 両国の代表団は肩を並べて会場内に入り、共に中央のテーブルに歩み寄る。そして、ヤン大将とキルヒアイス上級大将がテーブルの前に立って捕虜名簿を交換し、交換証明書にサインをした。スクリーンの中で展開される歴史的場面に、ホール内の興奮がどんどん高まっていく。

 

「銀河帝国軍及び自由惑星同盟軍は、人道と軍規にもとづき、たがいに拘留するところの将兵をそれぞれの帰還せしめることを定め、名誉にかけてそれを実行するものである。

 

 帝国暦四八八年三月一〇日 銀河帝国軍代表ジークフリード・キルヒアイス上級大将

 

 宇宙暦七九七年三月一〇日 自由惑星同盟軍代表ヤン・ウェンリー大将」

 

 証明書が帝国語と同盟語で読み上げられた瞬間、ホールの興奮は最高潮に達した。いてもたってもいられなくなった俺は、立ち上がって力いっぱい拍手をする。もちろん、他の人も総立ちになる。ホールの中は歓声と拍手に包まれた。

 

 その後、双方の代表が短い挨拶を述べて交換式は終了した。政治家が式に参加していれば、長々とスピーチしたかもしれない。しかし、軍同士の補量交換式という建前上、軍人以外の者は式に出席することすらできず、スピーチもあっさりしたものとなったのである。

 

 式が終わると、俺は席を立ってホールから出た。他の人達も席を立つ。交換式は終わっても、国防委員会の仕事は終わらない。これから帰還兵四〇〇万人の受け入れ準備をしなければならないのだ。

 

 俺は国防委員会高等参事官の肩書きのまま、捕虜交換プロジェクトチーム事務局の法務部門に所属していた。四〇〇万人も帰還兵がいると、途方も無い数の発生する法的問題が発生する。その処理が法務部門の仕事だった。

 

 交換式当日から、羽目を外した帰還兵の乱行が報告された。酔って暴力を振るう者、窃盗をはたらく者、民間人を恐喝する者などが現れ、立小便やゴミの路上投げ捨てといった迷惑行為は数えきれない。憲兵では抑えきれず、要塞防衛軍まで出動する騒ぎになったそうだ。迷惑行為に留まらない違反を犯した者は、簡易軍法会議で処分される。これから膨大な書類が法務部門に集中するだろう。

 

 帰還兵の中には、軍を相手取って訴訟を起こすつもりでいる者が少なくない。捕虜になる前に重大な軍規違反を犯し、同盟領の土を踏むと同時に軍法会議に告発される者も多い。このような訴訟への対応も法務部門の仕事となる。

 

 ただでさえ多い仕事を帰還兵達はさらに増やしてくれた。バーラト星系に向かう移送船団の中で帰還兵同士の乱闘事件が多発して、多くの者が憲兵に拘束された。事務管理の都合から収容所の居住区単位で船を割り当てたのが失敗だった。

 

 前の人生で九年間を捕虜収容所で過ごした経験から言うと、同じ収容所にいた者は憎み合うことが多い。収容所は自然環境が過酷な惑星に設置されることが多く、供給される物資も少ない。帝国軍は捕虜が逃げ出さないように監視するだけで、捕虜の生活にはまったく干渉しない。そんな場所で幅を利かせるのは暴力、そして派閥だ。腕力がある者、仲間が多い者が物資を独占する。だから、捕虜同士の抗争が絶えない。ストレスを晴らすためのいじめも横行する。捕虜生活の間に蓄積した憎しみが船の中で爆発するのは、当然の成り行きであろう。

 

 毎日朝八時から仕事を始めて、日付が変わった後に山積した書類を残して国防委員会庁舎内の仮眠室で眠る。官舎に戻る時間すら惜しいのだ。憲兵司令官の副官をしていた時も日付が変わるまで帰れないことはあったが、毎日ということはなかった。国防委員会の職員が言うには、予算編成期や議会の会期中はいつもこれぐらい忙しいそうだ。予算と人事を盾に威張り散らしていると言われる軍官僚の苦労の一端が理解できたような気がする。

 

 帰還兵リストは交換式が終わった翌日から、国防委員会が作成したサイトで公開されている。家族や友人を探したい場合は、アクセスして名前を検索すればいい。空き時間にじっくり検索して知っている人を探すつもりだったが、なかなか時間が取れない。

 

 安否が気になる行方不明者は何人かいる。しかし、彼らの名前が載ってなかったら、仕事が手につかなくなってしまうかもしれない。特にイレーシュ・マーリア大佐の名前が見付からなかったら、ダーシャがいなくなった時に匹敵するショックを受けるに違いない。そう考えた俺は、帰還兵リストをまだ検索していなかった。

 

 大物捕虜の行方は検索しなくても耳に入ってきた。国防委員会にいれば、どんなに忙しくても軍や政治に関連するニュースは流れてくるのだ。

 

 撤退戦の最中に行方不明になった第九艦隊副司令官ライオネル・モートン少将、第一二艦隊参謀長ナサニエル・コナリー少将らの生還は、世間を大いに喜ばせた。彼らの身を捨てた奮戦がなければ、俺は生きて帰れなかった。だから、個人的にも嬉しかった。

 

 生還して喜ばれる者もいれば、喜ばれない者もいる。不名誉な敗戦の戦犯とされた者、遠征推進派の有名人などは、生きていたことそのものが怒りを買った。その最たる者が第三艦隊分艦隊司令官のウィレム・ホーランド少将である。モートン少将と共に奮戦したにも関わらず、遠征推進派としての言動が憎まれた。撤退戦の傷が癒えないとかで、包帯姿で担架に横たわったまま帝国の移送船から降りてきたことも「同情を買うための演出」と批判を浴びた。助けてもらった恩はあるが、功名心にイレーシュ大佐を巻き込んだのは許せない。どう反応すればいいかわからなかった。

 

 帰還者リストに名前が入っていないことが問題になるような者もいた。帝国領遠征で逃げ遅れて降伏した第七艦隊司令官イアン・ホーウッド中将は、「私は司令官だ。部下が一人でも収容されている間は、帰るわけにはいかない」と言って、帰国を拒んだそうだ。人事の達人と言われた提督らしい気概に、市民は賞賛を惜しまなかった。

 

 九年前のエル・ファシルで民間人を見捨てて逃亡したアーサー・リンチ少将は、収容所で行方不明になったらしい。前の人生でも捕虜交換の数か月前に姿を消して、俺達旧部下の間では自殺したとか殺されたとか噂されていた。どっちも収容所では日常茶飯事である。今さら帰ってこられても、少佐に昇進してエリートコースに乗ったシェリル・コレットを困らせるだけだ。不謹慎な言い方だが、日常茶飯事が起きてくれてホッとした。

 

 リンチ少将と一緒にエル・ファシルから逃げた者は、全員帰還者リストに名を連ねているが、これは特にニュースにはなっていない。なんで俺がそんなことを知っているのかと言えば、彼らを不名誉な逃亡者として軍法会議に告発する書類の準備を担当することになったからだ。

 

 はっきり言って気が進まない仕事だった。成り行きで偶然担当することになったに過ぎないのだが、仕事として処理できるほどにエル・ファシルの逃亡者を突き放せない。前の人生の俺は彼らとともに逃亡者として告発された。軍法会議は免れたものの不名誉除隊処分を言い渡されて、前科者同然の身分となった。エル・ファシルで逃亡せずに人生をやり直し、将官まで昇進した俺がかつての自分と同じ立場の者を告発するなんて、悪い冗談としか言いようがない。仕事に私情を交えるべきではないが、法律の範囲内で最も軽い処分が下るように取り計らわずにはいられなかった。

 

 今の同盟で最もホットなニュースが捕虜交換なのは言うまでもない。それと同じぐらいホットなのは、もちろん今月末の総選挙である。

 

 国防委員会と中央支援集団は帰還兵四〇〇万の移送作業で大忙しだったが、世間的には三月一〇日の交換式で大成功に終わったとみなされていた。昨年の大敗、それに続く景気悪化で沈みきっていた同盟社会は久々の明るいニュースに大喜びして、捕虜交換プロジェクトを指揮したトリューニヒトに惜しみない賞賛を浴びせた。政権支持率は八四パーセントに達し、残りの任期が三週間にも満たない政権としては異例なほどの支持を受けている。

 

 警察や憂国騎士団などの強行手段に訴える手法、市民の歓心を買うことを優先する政治姿勢に対する批判が無いわけではなかった。短期間で集めた巨額の選挙資金の出所を巡る疑惑もある。トリューニヒト政権の四か月で経済成長率が低下し、犯罪発生率が上昇していることなどを指摘して、「結果を全く出していないのに、人気だけが膨れ上がっている」と指摘する者もいる。

 

 しかし、それらの問題は市民にとっては些細な事であった。改革市民同盟と進歩党の二大政党連立が招いた政治的停滞、来年春に迫った財政破綻、アスターテと帝国領遠征の敗北による軍事的危機を打開する指導者を彼らは求めていた。強行手段を厭わない姿勢は大胆さと映り、人気取りに熱心な姿勢は誠実さと映ったのである。トリューニヒトが率いる国民平和会議の支持率は、五〇パーセントを突破した。

 

 マルタン・ラロシュの統一正義党は、社会の停滞を打破できない議会政治に対する苛立ち、市民感情から遊離した理念や打算で動く政治家に対する不満を背景に台頭し、強行手段による社会変革を訴えて人気を獲得した。しかし、トリューニヒトの出現ですっかり食われてしまった。差別化を図るために議会政治を攻撃し、独裁による国家改造を主張したのも裏目に出た。支持者の多くがトリューニヒトに流れ、支持率は一〇パーセントを割り込んだ。

 

 ジェシカ・エドワーズの反戦市民連合は、二〇パーセント前後の支持率を保っている。カリスマのあるエドワーズを前面に押し出す戦略が功を奏し、帝国領遠征の敗北で盛り上がった反戦感情や反軍感情に訴えかけることに成功した。退役軍人の候補者を多数擁立してプロの視点からの軍部改革を訴えさせ、感情論に留まらない現実的なアプローチを示したことも信頼感を高める一因となった。

 

 ジョアン・レベロの進歩党は、ハイネセン的自由主義と反戦論を堅持して、支持を確保しようと試みた。緊縮財政と増税の必要性を訴え、経済成長は規制緩和と市場原理の尊重によって成し遂げるべきと主張した。トリューニヒトの手法を警察権力の増大を招くものと批判し、自由な社会の堅持を訴えた。帝国が近い将来に起きる内戦で消耗すれば、和平も可能だとの見通しを示した。具体的な根拠を示し、理路整然と自分の政策を説明する姿勢は誠実そのものだったが、変革を求める市民感情からは完全にかけ離れていた。支持率は五パーセント前後まで低下している。

 

 もはや、トリューニヒトの圧勝を疑う者はいなかった。トリューニヒトファンの俺としては、大いに喜ぶべきことであろう。しかし、強い指導者として人気を集めていく彼と、自分の知っている気さくな彼が違う人間のように見えてしまって、多少の寂しさも感じる。

 

 帝国ではブラウンシュバイク公爵とリッテンハイム侯爵を中心とする不平貴族数千人が帝都オーディン郊外のリップシュタットに集まって、帝国宰相リヒテンラーデ公爵とラインハルトに対抗するための同盟を結んだそうだ。大軍を集めることで兵力に劣るリヒテンラーデ公爵とラインハルトを威圧して屈服させるつもりなのだろう。しかし、緊張を高めて妥協を引き出すなんて、大抵は失敗するものだ。武力衝突は必至だった。

 

 同盟も帝国も大きく動いている。こんな時には今のトリューニヒトのような強い指導者が必要なのかもしれない。そう思った。

 

 

 

 帰還兵歓迎式典を翌日に控えた三月二四日。すっかり春の色に変わったハイネセンの街角を俺は歩いていた。ソフトクリームを食べながら歩いても体が冷えない程度に暖かく、ソフトクリームが溶けない程度に涼しく、一年で最も過ごしやすい時期である。

 

 今日で二個目のソフトクリームを片手に持って食べながら、ゆっくりと道を歩く。二週間ぶりに官舎に戻ってゆっくり休んだおかげで心も体もリフレッシュされて、世界の色彩が鮮やかになったように感じる。昨日は国防委員長直々の休養命令を受けて、一日だけ休ませてもらったのだ。そして、出勤も昼からで良いという。どういうつもりでネグロポンティが休暇をくれたのかは良くわからないが、ありがたく休ませてもらった。

 

 総選挙直前ということもあって、街中は選挙ポスターだらけだった。ハンサムなトリューニヒトが優しく微笑む国民平和会議のポスター、若く美しいエドワーズが凛とした眼差しで遠くを見据える反戦市民連合のポスター、髪と髭をきっちり整えた紳士風のレベロが硬い表情をしている進歩党のポスター、野性的な風貌のラロシュが軍服を身にまとって拳を握りしめる統一正義党のポスターは、それぞれ党風を象徴しているかのようだ。

 

「すいません」

 

 声のした方向を見ると、明るいオレンジ色のトレーナーを着た女の子がスッとビラを差し出した。ソフトクリームを持ってない右手でビラを受け取る。

 

「あなたが変える

 

 私が変える

 

 我が国の未来 

 

 安心と安全のリーダーシップ

 

 国民平和会議 ユベール・ボネ」

 

 ビラには、地味なスーツをきちっと着こなした初老の男性の写真がプリントされていた。国民平和会議副議長のユベール・ボネ。国家保安局の防犯部長を務めた元警察官僚である。トリューニヒト派の大物だが、この選挙区から立候補してるとは知らなかった。

 

「ボネ先生をよろしくお願いします」

 

 にっこり微笑む女の子が着ているトレーナーには、トリューニヒトのイラストがプリントされていた。そして、オレンジはトリューニヒトのイメージカラー。考えるまでもなかった。彼女は国民平和会議の選挙スタッフだ。

 

「あれ?」

 

 女の子は俺を見て首を傾げる。

 

「どうしたんですか?」

「エリヤ・フィリップス少将閣下ですよね……?」

「そうですが」

「あー、やっぱり!お久しぶりです!」

 

 どこで知り合った人なのだろうか。じっくり観察してみる。年齢は二〇歳前後。この年頃の子にしては珍しく化粧をしていないが、すっぴんでも十分通用する肌だ。髪型は少々古臭いが、清潔感はある。清貧というか、禁欲的というか、そんな感じがする。こんな子がなんで俗っぽさが売りの国民平和会議の選挙スタッフをやってるのだろうか。

 

「みんな、閣下の活躍を楽しみにしてるんですよ!」

 

 どうやら俺のファンらしい。ソフトクリームを口にして糖分を補給してからもう一度考えてみたが、やはり思い出せなかった。とても嬉しそうにしている彼女には悪いが、聞いてみるしかない。

 

「申し訳ありません、どこでお会いしましたっけ?」

「ああ、すいません。三年前の夏です。閣下に教会のビラをお渡ししたんですよ。あの時はアイスキャンディーを召し上がってらっしゃいましたよね」

 

 思い出した。ハイネセン第二国防病院を退院した翌日、憲兵司令部に向かう途中に地球教徒の女の子からビラを貰った。エル・ファシル出身と聞いて、いたたまれなくなって逃げ出したのだ。

 

「あの時の方でしたか。雰囲気が違ってたから、わかりませんでした。本当に申し訳ないです」

「いいですよ、別に」

 

 必死で頭を下げる俺を彼女は笑って許してくれた。

 

「確か二年前は教会で奉仕活動をしながら、大学を目指してるっておっしゃってましたよね?」

「ええ」

「今も勉強続けてらっしゃるんですか?」

「去年からテンプルトン大学に入りました」

「凄いですね……」

 

 テンプルトン大学は私立の名門と言われる。社会科学の研究が盛んで、民主化支援機構専務理事を務めたワン・チー博士など、数多くの大学者を輩出した。民主化支援機構に多くの人材を送り込み、「解放区はテンプルトン学派の実験場」と皮肉る声もある。それはともかく、教会で暮らしながらあんな高レベルの大学に合格したというのはとても凄い。

 

「信仰の力です。母なる地球が私を支えてくださったんです」

 

 目がきらきらと輝いている。相変わらず信仰は続けているようだった。地球教徒がトリューニヒトの党の選挙スタッフをやっている。それ自体は何らおかしいことではない。

 

 地球教団は国民平和会議の支援団体の一つだった。宗教団体が政党の支援団体になり、信者を動員して選挙運動を手伝わせるなんて珍しいことでもない。国民平和会議を支援している宗教団体は一〇を下らないし、その中で地球教団より大規模な団体はいくつもある。今のところ、地球教団は大きな問題を起こしていない。前の歴史ではトリューニヒトの間に黒い関係があったという噂があったが、ローエングラム朝の憲兵隊が調査より教団殲滅を優先したために真相は闇の中だった。

 

 おかしなことは何一つ無いはずだった。しかし、別人になったかのように強い指導者となったトリューニヒトと地球教団がセットで並ぶと、なんか不吉な感じがする。今はどうなってるか知らないが、前の歴史の地球教団はフェザーンを動かすことができた。帝国政府要人に接近できるような暗殺組織も持っていた。見かけよりずっと強大な力を持つ地球教団がトリューニヒトの躍進に協力してる可能性は……。

 

「どうかしました?」

「いや、なんでもないですよ。ところで学費はどうなさったんですか?テンプルトン大学の学費って、結構高いですよね?」

 

 純真な彼女の前で地球教団を疑っていることに後ろめたさを感じた俺は、慌てて話題を変えた。

 

「奨学金をいただいたんです」

「教団の?」

「いえ、ユニバース・ファイナンス奨学財団の奨学金です」

「ユニバース・ファイナンス社ですか」

 

 ユニバース・ファイナンス社は、トリューニヒトの有力支援企業の一つだった。投資事業で稼ぎ出した資金を使って企業を次々と買収し、ほんの一〇年で同盟有数の複合企業にのし上がった。経営陣にはフェザーン系外資の同盟法人幹部経験者が名を連ねており、フェザーン流経営が躍進の原動力とされる。

 

 ふと、頭の中でフェザーンとトリューニヒトが地球教という糸を介して繋がってるような。そんな連想をしてしまった。しかし、それは考え過ぎというものだろう。フェザーン自治領主府はすべてのフェザーン企業を支配下に置いているわけではない。それにフェザーン系外資の同盟法人幹部経験者なんて、投資や金融の大手にはいくらでもいる。疑い出せばきりがない。

 

「勉強頑張ってください」

「はい!ありがとうございました!」

 

 明るい彼女の声を背に、その場を去っていった。前の歴史を動かしたプレイヤーがちゃくちゃくと表舞台に出てきている。帝国のプレスブルク中将、同盟のセレブレッゼ中将のように前は登場しなかったプレイヤーもいるし、アムリッツァの結果のように既に大きく変わってる点もあり、とっくに展開は変わってる。それでも聞いたことがあるプレイヤーが出てくるのは、心臓に良くない。

 

 国防委員会に到着した俺は、まっすぐに国防委員長室に向かった。出勤したらすぐに国防委員長ネグロポンティのもとに顔を出すように言われていたのだ。

 

 委員長室にはネグロポンティの他に、珍しい人物がいた。統合作戦本部統括担当次長クレメンス・ドーソン大将だ。ネグロポンティとドーソン大将は親しい関係にあるが、統合参謀本部から国防委員会まで気軽に行き来できるほど暇ではない。軍政のトップと軍令のナンバーツー。同盟軍の超重要人物二人が揃っているなんて、只事ではない。

 

「エリヤ・フィリップス、ただいま到着しました」

 

 背筋をピンと伸ばして敬礼をする。

 

「ご苦労」

「どのような用件でありましょうか?」

「それについては、ドーソン次長から説明がある」

 

 ネグロポンティがドーソン大将の方を見る。ドーソン大将は咳払いをした後、ゆっくりと口を開いた。

 

「昨日、首都防衛司令官ロモロ・ドナート中将が地上車に跳ねられて病院に運ばれた。貴官にはドナート中将が職務に復帰するまでの二か月間、代理を務めてもらいたい」

 

 首都防衛司令官はその名の通り、同盟首都ハイネセンポリス及び惑星ハイネセンの防衛部隊を指揮する。戦力は地上部隊四個師団と宇宙部隊一〇個戦隊。その他、軌道防衛部隊や大気圏内空軍部隊も指揮下に入る。途方も無い大任だ。それにしても、俺が代理になるというのは不自然である。

 

「どうして小官が代理を務めるのでしょうか?首都防衛軍の副司令官は空席ですから、最先任のアラルコン少将が代理となるはずですが」

「それではまずいのだ」

「なぜでしょうか?」

 

 アラルコン少将は国家救済戦線派の幹部だが、軍人としては一流だ。俺なんかより、ずっとうまく務まるではないか。何がまずいんだろうか?

 

「二日前、第一空挺軍団司令官レフ・ドロコフ少将が階段から転落して入院した。指揮権を引き継いだのは、副司令官マルク・リリエンバーグ准将」

「順当な人事ですよね」

「四日前、横領が発覚した第九機甲師団長アシュトン・セクスビー准将は職務停止処分を受けた。指揮権を引き継いだのは、副師団長チュス・ガメス大佐」

「何かおかしいのでしょうか?」

「五日前、第五陸戦軍団司令官モイミール・クリシュ少将が何者かに襲撃されて重傷を負った。指揮権を引き継いだのは、最先任の師団長エルメル・カンニスト准将」

「確か強盗に遭われたんでしたよね」

 

 自業自得のセクスビー准将はともかく、他の二人は運が悪いとしか言いようがない。それにしても、立て続けにハイネセン周辺の地上部隊指揮官がトラブルに見舞われるなんて、珍しいこともあるものだ。

 

「この二週間でハイネセン周辺に駐屯する七つの部隊で指揮官が動けなくなった。昨日で八つ目になるな」

「偶然にしては、できすぎてますね」

「これを偶然と思うのは、貴官ぐらいだと思うがな」

 

 ドーソン大将は嫌味たっぷりに言う。

 

「サンドル・アラルコン、マルク・リリエンバーグ、チュス・ガメス、エルメル・カンニスト。共通点は?」

 

 出来の悪い生徒に噛んで含めるように、ドーソン中将は指揮権承継資格者の名前をあげる。アラルコン少将は国家救済戦線派の代表世話人の一人。リリエンバーグ准将も代表世話人だったはずだ。ガメス大佐は部隊教育にラロシュの著書を使って、懲戒処分を受けたと聞いたことがある。カンニスト准将は第一〇艦隊の陸戦隊司令官だった時に過激思想で周囲を辟易させて、当時の艦隊司令官ウランフ中将に更迭された人だったはず。なるほど、そういうことか。

 

「国家救済戦線派ですね」

「そうだ。現時点でハイネセン周辺に駐屯する地上戦力の半数が国民救済戦線派の手に落ちた。アラルコンが首都防衛軍の指揮権を掌握すれば、宇宙戦力まで掌握されることになる」

「まさか……」

 

 何の意図も無しに、国家救済戦線派がハイネセン周辺の地上部隊を掌握しようと考えるはずがない。彼らが地上部隊の指揮権を掌握しようとする狙い。答えは一つだ。

 

「現在、ハイネセンでクーデター計画が進行している。我々はそう判断して、調査を開始した。まだ全貌は明らかになっていないが、証拠が固まった段階で関与した者を拘束する」

 

 クーデターという言葉は、どこか現実離れしているように感じる。しかし、ハイネセン周辺の地上戦力が国家救済戦線派に掌握されつつあるのは事実だ。選挙で勝てないと悟ったラロシュの信奉者は、クーデターによって軍事独裁を実現するつもりに違いない。とんでもないことになった。

 

「速やかに首都防衛軍を掌握し、内部の国家救済戦線派を監視せよ。それが貴官の任務である」

「監視だけでよろしいのですか?」

「奴らの支持者が大勢紛れ込んでいる首都防衛軍を鎮圧に使うのは危険すぎる。出動命令を出したら、貴官を拘束した上でこれ幸いと首都の制圧に乗り出しかねない。鎮圧には信頼できる別の部隊を用いる」

 

 ドーソン大将の言葉からは、事態が想像以上に切迫していることが伺えた。俺がしくじれば、首都防衛軍はクーデターに参加してしまう。昨年の敗戦で同盟は疲弊した。今クーデターが起きたら、滅亡してしまう。鎮圧できたとしても、市民は軍に対する信頼を失い、滅亡への道を歩むことになる。何としてもクーデターを阻止しなければならない。そう誓った。


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