一二月一〇日にイゼルローン第一軍病院を退院した俺は、そのまま宇宙港から出発して一二月二三日にハイネセンに帰還した。
戻った後は休職して自宅療養と通院の日々を送っている。肩書きは第三六戦隊司令官のままであった。第一二艦隊は戦力の七割近くを失い、第三六戦隊は六割を失った。もはや部隊としては存続不可能であったが、解体手続きが済んでいないため、第一二艦隊も第三六戦隊も書類上では残っている。俺のように処遇が決まっていない者は元の肩書きで給与を受け取り、空き家ばかりになった第一二艦隊の官舎街に住み続けているのだ。
公務に復帰できるようになるまでには、もう少し掛かりそうだ。現在は参謀長のチュン・ウー・チェン大佐が司令官代理として、俺の代わりに第三六戦隊の解体手続きを取り仕切っている。人員や艦艇の行き先がすべて決まった時に、第三六戦隊は名実ともにこの世から消えることになるだろう。怪我のせいで心血を注いで作り上げた部隊を自分の手で解体する作業をせずに済んだのは、不幸中の幸いであった。
今のハイネセンの街は、驚くほどに活気を失っている。原因は言うまでもない。帝国領侵攻作戦「イオン・ファゼカスの帰還」が失敗したためだ。
帝国領遠征軍は国家予算の一四パーセントにあたる五〇〇〇億ディナールの経費を費やしたにも関わらず、何一つ成果をあげることができなかった。占領地はことごとく奪回されてしまい、アムリッツァ星域会戦で敗北を喫した。意気揚々と帝国領に乗り込んだ解放軍は、惨めな敗残兵として逃げ帰ったのである。
遠征軍に参加した将兵三〇二二万人のうちで帰還できた者は一五七二万人。四八パーセントが戦死もしくは行方不明となった。戦闘艦艇は一二万六五〇〇隻のうち六万四五〇〇隻、補助艦艇は一〇万三〇〇〇隻のうち五万二〇〇隻が帰還したに過ぎない。同盟史上に残る惨敗とされるアスターテで失われた将兵一五〇万、戦闘艦艇二万六〇〇〇隻と比較にならないほどの巨大な損害であった。
同盟史上最悪の敗戦に市民は愕然とした。遠征軍に参加しなかった第一艦隊や第一一艦隊と合わせても、正規艦隊の総戦力は遠征前の六割程度しか残っていない。精鋭を誇る同盟軍正規艦隊であっても、こんな少数では帝国軍の数に押し潰されてしまう。コルネリアス一世の大親征以来一二八年間忘れられていた国家滅亡の恐怖が再び現実のものとなった。
五〇〇〇億ディナールの損失は同盟経済に致命傷を与えた。二年後の七九八年に償還期限を迎える国債の一部を償還できない可能性が高くなったのである。債務不履行による経済破綻がいよいよ現実味を帯びてきた。ハイネセン株式市場の下落は留まるところを知らず、景気は後退から転落に移行しつつある。
帝国軍と経済破綻の脅威は同盟社会を悲観論一色に塗り潰し、マスコミは今すぐにでも侵略軍や大恐慌がやってくるかのような記事を流して煽り立てる。主戦論が盛り上がっていた四か月前と比べると、まるで別の国のように思えた。
帝国領遠征軍の敗北によって絶望に叩き落とされた市民は、連立与党や軍部の拙劣な戦争指導を激しく非難した。若手参謀グループが正規の手続きを経ずに出兵案を最高評議会に持ち込んだこと、出兵案が可決された理由が連立与党の選挙対策であったこと、遠征軍総司令部や民主化支援機構の横暴ぶりなどが判明すると、非難の声はいっそう大きくなった。
遠征推進派の政治家、遠征軍総司令部、民主化支援機構は今やすべての市民を敵に回した感がある。とりわけ強い憎悪の対象となったのは、出兵案を提出して遠征軍の作戦指導を全面的に取り仕切ったとされる若手参謀グループ、遠征を支持した評議員、連日メディアに出演して遠征の旗振り役となった民主化支援機構の首脳陣だった。彼らはテレビや新聞では連日のように批判され、ネットでは徹底的な罵倒の対象となった。
俺が手に取った高級紙「ハイネセン・ジャーナル」には、若手参謀グループの中心人物アンドリュー・フォーク准将が転換性ヒステリーを患っていたという記事が掲載されていた。遠征軍関係者を名乗る複数の人物の証言を引きつつ、彼の幼児性や独善性などを散々に書き立てている。医療関係者なる人物の言葉は、俺をいらつかせたヤマムラ軍医少佐の説明そのままであった。見るに耐えないその記事は最後にこう結ばれていた。
「驚くべきことに遠征軍の作戦指導を担っていたのは、チョコレートを欲しがって泣きわめく幼児同然のメンタリティの持ち主であった。小児性ヒステリーの秀才軍人の暴走が一五〇〇万の将兵を死に追いやったのである」
読み終えた瞬間に体中が灼熱したように熱くなり、指が小刻みに震えた。俺がハイネセン・ジャーナルを破り捨てなかったのは、病院の待合室の備品だったからだ。
俺の親友であるアンドリューは、野心に駆られて仲間とともに出兵案を持ち込み、総司令官の老いに付け込んで総司令部を専断し、前線部隊を窮地に陥れて敗北を招いたということになっていた。実際、前線部隊に送られた指示の多くはアンドリューの名前で出されている。傍から見れば、一人で総司令部を仕切っていたように思えるだろう。最大の戦犯扱いされたアンドリューは、ロボス元帥らの分まで責任を背負わされ、彼らが受けるべき非難まで引き受けている。
穏健反戦派の進歩党と近いハイネセン・ジャーナルは、最もリベラルで良識的な新聞と言われる。そんな新聞でもアンドリューに関しては、根も葉もない誹謗中傷を書き立てても構わないと思っているのだ。他のマスコミがどれだけ酷いかは説明するまでもないだろう。
「エリヤ・フィリップスさん」
看護師の声で我に返った。今日はハイネセン国防中央病院の精神科で診察を受ける日なのだ。怒りを必死でこらえながら、ハイネセン・ジャーナルを新聞架に戻す。
診察室に入ると、担当医のリンドヴァル軍医少佐が待っていた。第三六戦隊衛生部長の職を解かれた彼女は、現在はいくつかの軍病院で非常勤医師として勤務している。いつものように思考記録表をリンドヴァル軍医少佐に見せ、話し合いながら思考のバランスを修正していった。ダーシャがいなくなった後、俺の思考は恐ろしくマイナスに向いているのだ。
「ところで今日はいつになくイライラなさってませんか?」
「そうですか?」
「ええ。普段はもっと落ち着いてらっしゃいますよね」
やはり分かる人には分かるのか。精神医療の専門家に話してみたらすっきりするかも知れない。そう考えた俺は思いきって待合室で読んだ新聞のことやアンドリューと最後に話した時のことをリンドヴァル軍医少佐に話してみた。
最初から最後まで一貫して渋い顔で聞いていたリンドヴァル軍医少佐は、俺が話し終えるとデスクの上の端末を叩いて何やら調べていた。
「ああ、やっぱり」
リンドヴァル軍医少佐は何やら納得したような表情になった。
「どうしたんですか?」
「ずいぶんでたらめな事言ってるなあと思って、ヤマムラ軍医少佐の経歴調べたんですよ。思ったとおりでした。この人、精神科医じゃなくて歯科医ですよ。産業医資格持ってないから、将兵のメンタル管理やストレス対策に関する基礎的な素養もありません。メンタルの問題については素人、いや発言を聞く限りでは素人以下です。相談員資格を持ってらっしゃる閣下の方が知識はずっとあるはずですよ」
「でも、アンドリューを見た瞬間に診断下してましたよ。自信ありげだったから、てっきりプロなのかと」
「だから、素人以下なんですよ」
リンドヴァル軍医少佐は苦々しさを隠そうともしなかった。
「まず、転換性ヒステリーなんて言葉は、普通は使いません。転換性障害と言います。一五世紀も前に使われなくなった言葉を良くもまあ引っ張り出してきたものだと感心しますね。まあ、漫画や小説なんかで使われるのは見かけますが」
転換性ヒステリーがそんな昔に死語になった言葉だとは思わなかった。
「説明も全部でたらめ。転換性障害は若いほど発症しやすい傾向がありますが、性格的な傾向はありません。ヒステリーという言葉が連想させるような自己顕示性や自己中心性とは一切関係無いのです。強度のストレスに晒されて臨界点を超えたら、誰だってかかりうる疾患ですよ。体質とかそんなのも関係ありません」
「確かに当時の彼は総司令部の矢面に立たされてました。ストレスも大きかったと思います」
「そもそも、ヒステリーって言葉も精神医学の世界では一五世紀前に使われなくなりました。変な誤解を生みますからね。ヤマムラさんみたいな人のおかげで、今でも使われてると勘違いしてる人が多いのですが」
「では、なぜ彼はその程度の知識で断言してしまったのでしょうか?」
「素人以下だから平気で断言できるんです。まともな精神科医なら見た瞬間に診断下したりはしませんよ。外に現れる症状だけでは判別がつきかねる疾患が多いんで、診断を確定するにも慎重にならざるを得ないのです」
「なるほど。先生が俺の病名をはっきりさせたのも大分経ってからでしたね」
「情報が出揃ってない段階で診断を確定させたら、取り返しの付かないことになるかもしれませんから」
プロの立場からの意見は実に説得力があった。あの時、ヤマムラ軍医少佐に対して感じた不快感はやはり正しかったのだ。そして、世間がアンドリューに貼り付けようとしてるレッテルは医学的な根拠が無い。
「どうしてそんなでたらめなヤマムラ軍医少佐の主張がまかり通ってしまったんでしょうか?」
「戦隊レベル以上の衛生部には、メンタルケア指導のために必ず精神医学の専門家が一人以上は配置されます。総司令部にもいたはずです。まともな専門家がチェックしたら、ヤマムラさんの主張は絶対に通さないでしょう。故意にヤマムラさんの主張を通したのではないでしょうか。ヤマムラさんが別の誰かにあの主張を吹きこまれた可能性だってありますね」
「ヤマムラ軍医少佐の独断ではないってことですか?」
医学的根拠が無いヤマムラ軍医少佐の主張が通ってしまった背景を想像するだけで気分が悪くなった。アンドリューがヒステリーという俗語から想像されるような狂人でなければ困る人間がどこかにいるのだ。それが誰なのかは、簡単に想像できた。
もやもやした気持ちを抱えながらリンドヴァル軍医少佐のもとを退出して、待合室に戻る。今度は外科の診察を待つのだ。一つの病院で何でも済んでしまうのが軍病院の良いところである。
「病気入院中の宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥は公務の継続が困難との理由から、近く辞任する意向を示しました」
備え付けの大画面テレビが流すニュースにイラッとさせられる。ロボス元帥はアムリッツァ会戦の敗戦直後から病気で入院していた。それと同時に出兵案が提出された四か月前からロボス元帥の心身が衰弱していたこと、作戦指導における役割が薄かったことを伝える報道が流れだした。要するに「ロボス元帥は病気にかかっていたために、若手参謀グループの独走を許した」というシナリオが組まれているのだ。
市民やマスコミが求めていたのは、怒りをぶつける対象だった。それがロボス元帥でもアンドリューでも構わない。市民の怒りがアンドリュー、そして彼が倒れた後に総司令部を代表して表に出るようになったリディア・セリオ大佐に向かえば、ロボス元帥に対する追及は甘くなる。ロボス元帥の忠臣であるアンドリューがロボス元帥を無視して動けるはずは無いのだが、それを知っている者は軍部のごく一部に限られる。
ロボス元帥の司令部以外での勤務歴を持たないアンドリューの人間性は、軍部でもあまり知られていなかった。裏方に徹してきたため、世間的な知名度も皆無に近い。セリオ大佐もアンドリューとほぼ同じような経歴の持ち主であった。この二人を中心とする若手参謀グループを君側の奸とするシナリオを信じる者は、遠征軍に参加した高級軍人の中にも多かった。
前例から判断すれば、これほどの大敗を引き起こした総司令部首脳陣は間違いなく軍法会議に告発される。作戦指導を徹底的に検証し、不運によって負けたのか、不適切な作戦指導によって負けたのかを明らかにするためである。
総司令部の作戦指導が不適切だったという証拠は山のようにある。俺が証人台に立ってもいい。しかし、どうも風向きが危うくなっている。ここに来て総司令部に対する擁護論が出てきた。総司令部を取り仕切っていた若手参謀グループの責任と、総司令官や総参謀長を含めた総司令部全体の責任を切り分けて考えるべきではないかと言うのだ。出どころはロボス派ではなく、シトレ派であった。
現在の軍部ではシトレ派、トリューニヒト派、ロボス派、最近台頭してきた国家救済戦線派の四派閥が敗戦後の主導権を巡って激しく争っていた。
トリューニヒト派は遠征に関わらなかったおかげで勢力を温存することに成功した。しかし、露骨に非協力な姿勢でひんしゅくを買っており、功績をほとんど立てていないこともあって、発言力はあまり伸びていない。遠征を主導したロボス派、総司令部に多くの人員を送り込んだシトレ派の敗戦責任を追及することで勢力拡大を図っていた。
シトレ派は指導者シドニー・シトレ元帥の引責辞任が決まっているにも関わらず、遠征で活躍したおかげで大きく発言力を伸ばした。最大の功労者で大将昇進が内定している第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将と第一三艦隊司令官ヤン・ウェンリー中将を前面に押し立てて第一派閥にのし上がったが、総司令部首脳陣に名を連ねるドワイト・グリーンヒル大将やアレックス・キャゼルヌ少将らの敗戦責任問題という爆弾を抱えているために盤石とはいえない。
遠征を主導したロボス派は発言力を完全に失った。指導者のラザール・ロボス元帥は近く引責辞任する見通しだ。功績によって大将昇進が内定した第三艦隊司令官シャルル・ルフェーブル中将はロボス元帥の旧知という理由で派閥に属しているに過ぎず、派閥重鎮の後方勤務本部長ハンス・ランナーベック大将、地上軍総監ケネス・ペイン大将、宇宙艦隊副参謀長ステファン・コーネフ中将らは敗戦責任を問われる立場であり、新指導者には成り得ない。指導者を欠くロボス派は敗戦責任を回避して、少しでも多くの現有ポストを維持しようと躍起になっていた。
シビリアンコントロールの否定と軍による国家革新を唱える国家救済会議派は、軍を振り回した政治家、政治家と結託して軍を私物化した高級軍人に対する不信感の高まりを背景に、第四派閥として名乗りを上げた。彼らはロボス派とシトレ派の敗戦責任を激しく追及するとともに、トリューニヒト派を政治家の手先として批判している。派閥の政治的理念に強い影響を与えた統一正義党代表マルタン・ラロシュが遠征推進派に加わっていたこと、そして有力な指導者を欠いていることなどがネックだった。
ロボス派は責任回避に全力をあげている。シトレ派は敗戦責任の追及を求めてはいるものの自派への飛び火は避けたい。敗戦責任の徹底追求を望むトリューニヒト派と国家救済会議派は、政治的スタンスの違いから足並みを揃えることができない。敗戦責任の部分的追及という落とし所を見付けたシトレ派にロボス派が乗って、暗黙の連携が成立しつつあった。
何とも気分の悪い話である。それでも訴追の可能性がある分だけ、軍人はマシなのかもしれない。遠征を推進した前議長ロイヤル・サンフォードや前情報交通委員長コーネリア・ウィンザーらは未だに議席を保っている。民主化支援機構は解体されたが、首脳陣は何事も無かったかのように元の所属組織に戻っていった。戻れなかった者もいずれは新しいポストを得るだろう。失政自体は違法ではないのだから、彼らを裁けないのは当然だ。
国家保安局は不正行為をはたらいて遠征継続決議を引き出したとの疑いで、中央情報局とフェザーン駐在高等弁務官事務所に対する捜査を開始した。単なる背任行為であれば、刑事警察の国家刑事局が担当するはずだ。治安警察の国家保安局が動き出したという事実は、遠征継続派の不正が国家秩序に対する敵対行為として裁かれる可能性が生じたことを意味する。これが軍部以外の遠征継続派を断罪する糸口になるかもしれなかった。
中央情報局やフェザーン駐在高等弁務官事務所とともに不正行為をはたらいた国防委員会情報部に対する追及は、遅々として進んでいない。情報部幹部の個人的な不正を告発するのであれば憲兵司令部、組織ぐるみの不正を告発するのであれば国防委員会監察総監部の担当だが、どちらも及び腰であった。情報部は政界中枢との繋がりが深く、国防委員長ですら手出しできない聖域とされる。バックにいるアルバネーゼ退役大将も影響力こそ低下したものの、安全保障諮問会議委員の地位を保っていた。
うんざりするような状況にあって、第一二艦隊の名誉が保たれたのは唯一の救いである。司令官ボロディン中将が部下を逃がすために戦ったこと、残存部隊がアムリッツァで全軍の殿軍となったことがクローズアップされ、最も英雄的な戦いをした艦隊として賞賛を浴びたのだ。指揮権が剥奪されたことに触れる部分を削除した上で公開されたボロディン中将の最後の命令は、同盟中の涙を誘った。
一時は反逆者扱いされた第一二艦隊が英雄として賞賛されることになったのは、遠征軍総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将の尽力によるところが大きい。彼はロボス元帥を説き伏せて、第三艦隊、第五艦隊、第一三艦隊を援軍に送ってくれた。遠征終了後に「ボロディン中将の更迭は誤りだった」と公式に謝罪し、第一二艦隊の功績を事あるごとにアピールしてくれた。何らかの政治的理由が背後にあることは疑いないが、それでも構わなかった。
政治的な都合で作られた英雄であっても、与えられる勲章や昇進は本物だ。死んだ者は名誉、遺族は遺族年金と心の慰めを得ることができる。総司令部の無責任な作戦指導を許す気にはなれないが、第一二艦隊の苦闘が多少なりとも報われたことは嬉しい。「反逆者だから死後の名誉進級は無し。遺族年金も支給しない」なんてことになってたら、死んだ部下に顔向けできなかった。
「よっこらしょ」
左隣から聞こえたその声とともに、強烈な異臭が鼻孔を蹂躙した。何事かと思って見てみると、軍服姿の老人が大きな紙袋を抱えて座っていた。どうやら、その紙袋が異臭の発生源らしい。
「おお、すまんのう」
軽く頭を下げた老人の顔を見て驚いた。メディアで引っ張りだこになっているアムリッツァの英雄シャルル・ルフェーブル中将だ。第一二艦隊を救援してくれた三提督の一人でもある。ロボス派ではあるが、総司令部にいる政治軍人とは全く違う実戦派提督だ。
「これはシュールストレミングと言うてなあ。塩漬けのニシンの缶詰じゃよ。臭いはきついが、野菜と一緒にパンに挟むとうまいんじゃぞ」
どうやら、ルフェーブル中将は俺が臭いに驚いてると思ったらしく、紙袋の中身について説明してくれた。
「お見舞いですか?」
「うむ。古い馴染みが入院しておってな。そいつの好物なんじゃよ」
こんな臭いものを病室に持ち込まれたらさぞ迷惑だろうと思ったが、今をときめく名将にそんな突っ込みを入れられるはずもない。周囲の人々も同じように考えているようだ。病院職員ですら困った顔でルフェーブル中将を見てるだけであった。
「遠征でお怪我なさったのですか?」
「いや、病気じゃよ」
いくら好物と言っても、この臭いは病人にはきついのではなかろうか。無神経なのか、天然なのか良くわからない。
「ところで君はどこの部隊だね?」
ルフェーブル中将は俺の困惑をよそに所属を聞いてきた。軍服を着ていればワッペンで所属がわかるが、今の俺は私服である。また、俺は軍服と私服ではだいぶ雰囲気が変わるから、面識がない人には私服姿の俺がエリヤ・フィリップスだというのはわかりづらい。
「第一二艦隊にいました」
「そうか、それは大変じゃったなあ」
俺の返答を聞いた老提督の顔に同情の色が浮かぶ。
「閣下のおかげをもちまして、何とか生きて帰ることが出来ました」
「礼には及ばんよ。同じ軍艦乗り同士、助け合うのは当然じゃ。わしが困った時は君に助けてもらう。お互い様じゃて」
「恐れ入ります」
「軍艦乗りの仁義など、どこにも無い戦いじゃった。どこを見回しても打算ばかり。軍艦乗りになって五〇年近くになるが、これほど酷い戦いは無かった。第一二艦隊を救えたことで、わしも少しは救われた気持ちになったんじゃよ」
ルフェーブル中将は目を軽くつぶり、しんみりとした口調で語る。
「ラザールの奴も昔はいい軍艦乗りでなあ。艦長だった時はそれはもう見事な操艦ぶりじゃった。提督になると、まるで自分ですべての艦を操艦しているかのように動かしてみせたもんじゃ。見ているだけで心が沸き立った。古のリン・パオやアッシュビーを見た者も同じように思ったのじゃろうな」
その言葉は俺ではなく、失われた過去に向けられていたのは明らかだった。
「政治なんぞに手を染め始めた頃から、ラザールは艦をうまく動かせなくなった。姑息な計算があの男の才能を曇らせてしまったんじゃな。アムリッツァではタンムーズの時よりもずっとうまく艦を動かせた。やっと軍艦乗りの心を取り戻してくれたかと思っておったが」
半世紀を軍艦乗りとして生きた男のため息からは、至高の軍艦乗りだった男を惜しむ気持ちが痛いほどに伝わってくる。
「第一二艦隊は良い軍艦乗りの多い艦隊じゃった。ほとんど死んでしまったが、ヤオ少将、コルデラ少将、バビンスキー准将、フィリップス准将などはまだ生きておる。君も彼らのような軍艦乗りになるんじゃぞ」
「フィリップス准将ですか?」
おそらく同盟軍屈指の用兵家であろう人物の口から自分の名前が出てきたことに驚いて、つい問い返してしまった。
「どうしたんじゃ?」
「いや、なんか意外で」
「若い者ほど若い者を軽く見る傾向があるが、それではいかんぞ。第一二艦隊にいたなら、あの状況で第二分艦隊の指揮を引き継ぐことがどれほど難しいか分かるじゃろ?あれだけ持ちこたえたら大したもんじゃ」
ルフェーブル中将は俺をたしなめるように言った。アムリッツァ終盤の指揮は終わってみると悔いばかりが残る。できるだけのことはやったが、それは自分のさほど高くない能力の範囲でできることだった。こんなに高く評価されてるとは思わなかった。
「確かに難しい戦いですね」
「君は士官かね?」
「はい」
「ならば、七年か八年もすれば駆逐艦の艦長になるはずじゃ。一五年経てば戦艦艦長か駆逐隊司令、二二年か二三年経てば群司令。ひょっとしたら提督になるかもしれん。階梯が上がるたびに、過去に経験した戦いの意味もわかってくるだろうて。フィリップス准将の本当の苦労もな。確かに彼の用兵はミスも多いが、後知恵で思いつく正解なんて、その場に立てば選べんような選択肢ばかりじゃよ」
歴戦の老提督らしい重みのある訓戒だった。「後知恵で思いつくような正解は、その場に立てば選べない」というのは、前の歴史の知識と今の人生の経験を比べて感じたことでもある。ルフェーブル中将は俺よりもずっと、後知恵の無意味さをわかっているのだろう。俺をいったい何歳だと思ってるのかという疑問はあるが、それは考えないことにする。
「おお、いかん。わしとしたことが偉そうに説教を垂れてしまったわい。年をとると説教臭くなっていかん」
急にルフェーブル中将の表情が柔らかくなる。どうやら照れ屋であるらしい。
「いろいろ教えていただき、ありがとうございました」
「まあ、君はわしみたいな年寄りと違ってまだまだ先がある。頑張んなさい」
そう言うと、ルフェーブル中将は立ち上がって俺の肩をポンと叩いた。そして、病棟へと向かっていく。老提督の姿が見えなくなった頃に看護師から呼び出された。
外科の医師からトレーニングの一部解禁を言い渡されて、良い気分で診察室を出た。今日はお祝いに甘いものを食べようと考えながら待合室に向かう途中、ヘルメットや防弾ベストを身につけ、ライフルを構えた軍人が廊下を走って行くのが見えた。軍病院の警備兵にしては、少々重装備過ぎる。
首を傾げながら待合室に入ると、重装備の歩兵が並んで病棟への入口を封鎖していた。玄関にも歩兵が並び、指揮官らしき人物が携帯端末でしきりに連絡を取っている。あまりに物々しい雰囲気に驚いた俺は、一番近くにいた歩兵にIDカードを見せて何が起きたのかを質問をした。
「小官はテリー・グレン軍曹です!フィリップス准将閣下にお目にかかれて光栄であります!」
「何が起きたか説明してくれるかい?」
「入院患者を狙ったテロが発生したのであります!」
「テロ?」
「はい、病室が狙撃されたのです!」
病室が狙撃された。そのグレン軍曹の返答はあまりにも現実離れしていた。
「誰が狙撃されたんだ?」
「小官は聞かされておりません」
「ご苦労だった」
軍人が公務中に答えられないと言ったのなら、いくら食い下がっても答えは得られない。敬礼してグレン軍曹と別れると、トイレに向かった。前に立っている兵士にIDカードを見せて断りを入れてから、個室に入って鍵を締める。それから、携帯端末を取り出して憲兵隊時代からの知人で現在は憲兵司令部警務部次長を務めるヒューレン中佐に通信を入れた。
「お久しぶりですね、フィリップス提督」
「時間がないから、単刀直入に用件を言うよ。国防中央病院にいる。入院患者が狙撃されたらしい。そちらに報告は入ってるかい?」
「入ってますとも」
「誰が狙撃されたの?」
「宇宙艦隊司令長官ですよ」
「ロボス元帥が!?」
ロボス元帥は病気で入院しているとされていたが、入院先は明かされていなかった。居場所がわかったら、襲撃されかねないからである。秘密のはずの病室が直接狙撃されたというのは、由々しき事態であった。
「ええ。病室にも護衛が常駐して厳戒態勢を敷いていたんですが、窓を開けた瞬間に狙われました」
「ロボス元帥の容態は!?」
「無傷です」
思わず舌打ちした後に、死亡もしくはそれに近い重傷を負うことを期待していた自分に気づく。
「……暗殺を警戒してたはずなのに、窓を開けるなんて随分不用心だね」
無傷で残念だなんて言えるはずもないが、無傷で良かったとも言いたくない。その心理が今の質問を口にさせた。
「見舞客が持ち込んだ差し入れの臭いがきつかったんで、元帥閣下が自ら窓を開けさせたそうです」
「その見舞客ってルフェーブル中将じゃない?」
「良くご存知ですね」
入院中の宇宙艦隊司令長官が第三艦隊司令官の見舞いを受けている最中に狙撃される。軍部のVIP二人が絡んだ大事件に身震いがした。
「待合室で臭い紙袋持ってたの見かけたからね。ロボス元帥もルフェーブル中将も本当に間が悪いというか」
そこまで言って、ふと疑問を感じた。本当に間が悪かったのだろうか?ルフェーブル中将が臭いのきついシュールストレミングをたまたま持ち込んだ時に、たまたま暗殺者が狙撃したなんて都合のいいことが起きるものだろうか?
ルフェーブル中将がシュールストレミングを持ち込むことを暗殺者が事前に知っていた可能性もある。いや、暗殺者が狙撃していることを知っててルフェーブル中将が持ち込んだ可能性、彼らが最初から……。
首を大きく横に振って、頭の中から悪い考えを振り払った。あの老提督がそんな陰謀に関わってるなど、想像したくもなかった。一体、この国はどうなってしまうのだろうか。トイレの個室の中でため息をついた。