銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第八十七話:撤退数百光年 宇宙暦796年10月17日~22日 惑星シュテンダール進駐軍司令部~ベルンハイム星系

 第一二艦隊司令部に通信を送り、司令官ウラディミール・ボロディン中将を呼び出した。繋がるのとほぼ同時にスクリーンにボロディン中将が姿を現す。将官会議の時にはやや乱れ気味だった髪や髭が綺麗に整えてられていることに少し驚いた。同盟軍で最もダンディな提督と言われるだけのことはある。

 

「どうだったかね?」

 

 いつものゆったりした口調で問うボロディン中将に、総司令部との交渉結果を伝えるのは忍びなかった。しかし、言わなければならない。意を決して口を開く。

 

「総司令官閣下はお昼寝中でした。総参謀長閣下より起床後に返答するとの伝言をいただきました」

 

 結果だけを簡潔に伝えた。背負い込みすぎて倒れてしまったアンドリューのこと、ヤマムラ軍医少佐の悪意、グリーンヒル大将の黒い思惑などは、俺が一人で抱え込んでいればいい。

 

「そうか、昼寝中か。昼寝中なら仕方がない」

 

 ボロディン中将は噛みしめるように、「昼寝中」という言葉を繰り返した。

 

「ご苦労だった。総司令部及び他艦隊に撤退を通知した後に、もう一度艦隊将官会議を開く。撤収作業は部下に任せて、少し休みなさい」

 

 温かいボロディン中将の言葉に涙が出そうになる。これで泣いたら、今日で四度目だ。こんなに涙もろくなるなんて、俺はどれだけ心が弱っているのだろうか。ぐっとこらえて通信を切った。

 

 三〇分後、ビデオ会議用のスクリーンの中には、第一二艦隊の将官達の顔が映っていた。ボロディン中将と俺の口から交渉結果を聞かされた彼らは、怒りも狼狽もせず、あらかじめわかっていたかのように受け入れた。

 

「総司令部から通告があった。『第一二艦隊の指揮権を剥奪する。副司令官に指揮権を譲渡して、急ぎ総司令部まで出頭せよ』とのことだ」

 

 ボロディン中将は自分が指揮権を剥奪されたことを将官達に伝えた。指揮権を剥奪された人物が軍隊を指揮することは、反乱行為も同然である。第一二艦隊が犯したタブーの巨大さをあらためて認識させられて、体が震えてしまう。

 

「小官のところには、『ボロディン中将から即座に指揮権を継承せよ。ボロディン中将が拒んだ場合は拘束せよ』という命令がきました。総司令官は急にお目覚めになったようですな」

 

 副司令官ヤオ・フアシン少将は、総司令部の素早い対応を皮肉った。

 

「ヤオ提督。あなた、拒否の返事をしませんでした?」

「ほう、よくご存知ですな」

「ええ、私のところに『第一二艦隊司令官代理に任ず。即座に司令官と副司令官を拘束し、第一二艦隊を掌握せよ』なんて命令が来ましてねえ。見なかったことにしましたけど」

 

 第一二艦隊の少将五人の中で最先任の後方支援集団司令官アーイシャー・シャルマ少将は、プリントアウトした命令文を皆に示す。

 

「良く考えたら律儀に返事することはありませんでしたな。『昼寝中につき、起床後に返答する』とでも答えておけば良かった」

「あら、受諾か拒否か選べるような命令じゃないでしょ?」

「そう言えば、そうでした」

 

 ヤオ少将とシャルマ少将は、総司令部の命令をネタに笑い合っている。第一二艦隊司令官は指揮権を剥奪され、副司令官と少将中の先任者も総司令部の命令を拒否した。公然と反旗を翻したばかりなのに、どうしてこんなに楽しそうなのだろうか。

 

 他の将官達もヤオ少将やシャルマ少将に負けず劣らず楽しそうだった。ボロディン中将だけは、いつもの穏やかな表情を崩さない。

 

「次に送られてくるのは、討伐軍ってとこかな」

「総司令部直轄の予備部隊は約二万隻。そのうち五〇〇〇隻は輸送船団の護衛に出ている。一万五〇〇〇隻もあれば、討伐軍としては不足のない数だろう」

「数だけはな。イゼルローンのモグラどもが率いる寄せ集めに、栄光ある第一二艦隊が負けると思うか?」

「誰が率いるかも問題だ」

「階級的にはロボス元帥しかおらんのではないか?」

「それなら願ってもない。全員でアイアースめがけて総突撃してやろう。総司令官と参謀どもを宇宙の藻屑にしてやれば、少しは気も晴れるというものだ」

 

 将官達の話を聞いて、討伐軍を送られる可能性もあることに気づき、血の気が引いていった。

 

「いやいや、総司令部から来るとは限らん。隣接する艦隊が討伐を命ぜられることもありうる」

「第五艦隊か第九艦隊ということか。ビュコック提督の第五艦隊はしぶとい。第九艦隊だとやりやすいのだが」

「あそこは航空戦隊が強力だぞ?それに前衛を担うのはあのモートン提督だ。接近戦に持ち込まれたら厄介ではないか?」

「そうなんだよなあ。艦載機の火力を封じる方法を考えないと」

「距離を開けて、対艦ミサイルで敵の艦列を削り取っていくしかあるまい。あちらは航空母艦が多い分、対艦火力が弱い」

「速度のある巡航艦部隊で長駆突撃し、向こうが艦載機を発進させる前に速攻で叩くのもありだろう。司令官のアル・サレム提督は部隊運用能力は高いが、戦術即応能力は今ひとつだ。付け入る隙はある」

 

 いつの間にか、将官達は第九艦隊と戦うという前提で話を進めている。しかも、すごくうきうきしているように見える。わけがわからない。

 

「貴官ら、いい加減にしないか」

 

 ずっと黙って聞いていた第八三戦隊司令官バビンスキー准将が苦々しげに、将官達をたしなめる。この艦隊に常識を保っている人がまだいることがわかって安心した。

 

「なぜ、第九艦隊とのみ戦うつもりでいるのか。第五艦隊が来る可能性、あるいは両方来る可能性も考慮すべきであろう。しぶといからといって、避けて通ってはいかん」

 

 六〇過ぎの老提督の一言に椅子から滑り落ちそうになってしまった。

 

 それもそうだとうなずいて、第五艦隊を破る方法を熱心に話し合う将官達を見ていると、不思議と緊張がほぐれていく。彼らのような大胆不敵さは、人間離れしていてまったく理解できない。しかし、今のような窮地にあっては、とても眩しく見えた。

 

 雑談に終始した第一二艦隊将官会議が三〇分ほどで終わると、俺はさっそくシュテンダール撤収作戦にとりかかった。

 

 まず、シュテンダール進駐軍参謀会議を招集する。進駐軍参謀部は第三六戦隊の参謀部を兼ねているため、事実上は第三六戦隊参謀会議である。情報部はシュテンダールとその周辺宙域に関する分析、作戦部は作戦案を提示。後方部は後方支援体制、人事部は人事管理の側面からの分析。チームでシュテンダール撤収作戦を組み上げていった。

 

 参謀会議が終わると、今度は進駐軍指揮官会議だ。第三六戦隊に所属する部隊の指揮官とビデオ会議を行う。艦艇部隊からの出席者は第三〇四巡航群司令と第三六戦隊副司令官を兼ねるポターニン大佐の他、戦艦群司令一人、巡航群司令一人、駆逐群司令三人、揚陸群司令一人。地上部隊からの出席者は陸戦隊歩兵旅団長四人、陸戦隊航空群司令一人。臨時配属された支援部隊からの出席者は輸送群司令一人、工兵旅団長一人、兵站支援旅団長一人、憲兵旅団長一人、通信支援隊長一人、医療支援隊長一人。その他、オブザーバーとして参謀長チュン・ウー・チェン大佐が参加。司令部の方針を伝え、各指揮官の意見を聞きながら、撤収作戦の調整を行う。

 

 指揮官会議が終わった後は、民主化支援機構シュテンダール駐在部代表マックス・ヨナソンと協議した。遠征継続派の牙城である民主化支援機構の人間が、シュテンダール放棄とイゼルローンへの撤退をあっさり受け入れるとは思っていなかった。最悪の場合、シュテンダール駐在部の主要メンバーから『自分の意志でシュテンダールに残る』という念書を取ってから、シュテンダールに置き去りにするつもりでいた。

 

 ところがヨナソンは撤収をあっさり受け入れた。民主化支援機構の理事を務める社会学者の学閥に属しているというだけの理由でシュテンダール駐在部代表に登用された彼は、殉じるべき理想も背負うべき支持者も持ち合わせていなかった。本国とシュテンダール住民の要求を断れない彼の弱腰にはさんざん迷惑させられたが、最後の最後で助けられた。

 

 帝国軍がオーディンを出発したという情報は、住民の間にも既に広まっていた。帝国軍司令官のラインハルト・フォン・ローエングラム元帥は、「反乱軍と交際した者の罪は一切問わない。反乱軍から利益供与を受けた者の罪は問わない。受け取った物品の所有権はすべて保証する。また、占領地復興のために経済支援を行う」という詔勅を皇帝から引き出して、住民を安堵させた。フェザーン・マルクの件もあって、帝国軍は気前が良いという印象を植え付けることに成功していた。

 

 既にシュテンダールの民心は帝国になびいていた。このような状況で配給停止や現地調達を行えば、確実に暴動が起きていたに違いない。そうなれば、俺達はこの惑星の地上で一三〇万人の暴徒に囲まれたまま、帝国軍を迎えていたことだろう。この段階でボロディン中将が撤退を決断してくれて、本当に助かった。

 

 進駐軍に所属する宇宙船は第三六戦隊所属の軍用艦艇六五四隻、輸送部隊の艦艇一三三隻。民主化支援機構に所属する艦艇は借り受けた民間船七五隻。素早く味方と合流するため、輸送部隊と民主化支援機構の艦艇のうち、機動性に欠ける大型船九九隻を放棄する。

 

 また、素早く人員収容を済ませるため、積み込みに時間が掛かる車両、大気圏内航空機、重火器、建築機械、医療設備、通信設備その他の器材はすべて放棄する。

 

 ただ捨てていくだけでは芸がないと思い、「友好の印」と称して住民にすべて押し付けることにした。譲渡文書を作成して、所有権が住民にあることも明示する。ありがたいことに住民が受け取った物品の所有権をすべて保証すると、詔勅で言っている。どんな権力者であっても、皇帝の詔勅が保証したものを取り上げることはできない。また、現皇帝フリードリヒ四世には、一度出した詔勅を取り下げるような行動力はない。住民に譲渡した物がラインハルトや領主の懐に入る可能性が無くなるというだけで、一矢報いた気になれる。

 

 譲渡する際に住民に頼んで感謝状も書いてもらった。「友好のために供与した。政府の方針に従った」という体裁を作れば、恣意的に官有物を処分したという批判を避けるのに役立つ。生きてハイネセンに帰ることができたなら、この感謝状が意味を持つかもしれない。帰れたらの話であるが。

 

 わがままで欲深いシュテンダールの住民もさすがにこのプレゼントには驚いたらしい。同盟軍が来る前に独占企業としてシュテンダール経済を支配していた皇帝私領行政府と二つの男爵家は、いずれも二〇隻程度の中小型船を運用していたに過ぎない。俺達が供与した大型船九九隻はこの星の経済規模では破格だった。それに加えて、辺境の農場労働者がどんなに頑張っても一生買えないような器材まで惜しげもなく引き渡したのである。住民はすっかり機嫌を良くした。

 

 譲渡された物の分配や運搬に忙殺された住民は、不穏な動きを見せなくなった。最後まで配給を続けたこともあって、撤収を終えるまでの二日間は無事に過ぎていった。一〇月一九日、自由惑星同盟シュテンダール進駐軍一一万と民主化支援機構の要員一万は、住民の歓呼を背に一人も欠けること無く撤収に成功した。

 

 

 

 俺達は第二分艦隊の本隊と合流すべく、全速でベルンドルフ星系に向かった。疲弊しきっていた将兵もすっかり生気を取り戻している。しかし、彼らは乏しい食事と不眠不休の撤収作業で体力を消耗した。今は祖国に帰れるという希望で頑張れているが、そう遠くないうちに体が言うことをきかなくなるはずだ。

 

 食糧の残量は乏しいにも関わらず、第三六戦隊に所属していない人員まで抱え込んでるせいで、消費量は増大した。戦闘員はカロリー換算で三〇%カット、非戦闘員は五〇%カットした食事を支給して凌いでいる。燃料もイゼルローンまで保つかどうか、ギリギリだった。

 

 不足していたのは体力と物資だけではない。俺達が撤退を通告した一〇時間後にイゼルローンの総司令部が第一二艦隊に対して通信回線を封鎖した。他艦隊も第一二艦隊との交信を禁止されたらしく、味方からの情報が一切得られなくなっていた。第一二艦隊以外の味方と情報交換できないため、どの星域に同盟軍がいて、どの星域に帝国軍がいるか、さっぱりわからない。航路気象情報が得られないのも困る。知らず知らずのうちに恒星風、恒星フレア、宇宙線、磁気嵐などに出くわしてしまったら、そこで足止めを食ってしまう。総司令部の打ってくる手の嫌らしさには、いちいち感心させられる。

 

 兵の体力、そして物資の残量との時間勝負。情報が得られない。そんな状況でいつ敵地になるかわからない辺境星域を数百光年も横断しなければならない。第三六戦隊司令部の部隊運用能力、五月に司令官に就任してから鍛えてきた将兵の力量が問われる。

 

 アンドリューが推薦してくれた作戦部長代理クリス・ニールセン少佐はまだ二五歳と若く、さほど才気に富むわけでもなかったが、運用責任者としてこの困難な作業に必死で取り組んでくれた。指揮下の群司令七人も指揮下の部隊をよくまとめて一隻も脱落させなかった。

 

 みんな頑張っている。あとは統率者たる俺次第だ。失敗は許されない。心臓が痛む。胃が痛む。吐き気がする。一分が一時間、一時間が永遠のように感じられる。弱気は見せられない。笑顔を作り、背筋を伸ばす。

 

 苦労の甲斐あって、第三六戦隊は敵に遭遇することなく、航路障害にもぶつからずに、予定通り三日かけて二二日の正午にベルンハイム星系に到着し、第二分艦隊との合流を果たした。

 

「ご苦労だった、フィリップス准将」

 

 スクリーンに映った参謀長ジャン=ジャック・ジェリコー准将は、かなり疲れているように見えた。もっとも、それは俺も変わりなかっただろうけど。

 

「着いたばかりだが、休んではいられない。二時間後に第五二戦隊が到着次第、レムスフェルト星系に向かう。本隊と合流した後にイゼルローンを目指す」

「第五二戦隊だけですか?」

 

 第一二艦隊の第二分艦隊には、第三四、第三六、第五二、第五六の四個戦隊が所属している。第三四戦隊は分艦隊司令官のクレッソン少将が率いる部隊、第三六戦隊は俺の部隊。それに加えて第五二戦隊が到着しても、全戦隊は揃わない。第五六戦隊を置いて出発するというのはおかしい。

 

「第五六戦隊と通信が途絶して三六時間が経過した。何度も呼びかけたが、一度も返信がない。脱落したと見るべきだろう」

 

 脱落。その不吉な言葉に寒気を感じた。敵に遭遇したのか、事故に遭ったのかはわからない。しかし、理由はどうあれ敵地同然での星域での脱落は死に等しい。単なる通信トラブルであってほしい。第五六戦隊は何の支障もなくこちらに向かっていると信じたい。

 

「待つわけにはいかないんですか?予定を一時間延長して、三時間待てば来るかもしれませんよ?」

「今の一時間が我々にとってどんな意味を持つか、分からない君ではないだろう?」

「しかし、第五六戦隊には一〇万人近い仲間がいるんですよ?見捨てて行けますか?」

「今、このベルンハイム星域には艦艇部隊、地上部隊、支援部隊合わせて三〇万人の仲間がいる。第二分艦隊の仲間だ。そして、私は第二分艦隊の参謀長だ」

 

 ジェリコー准将は俺から目をそらし、つぶやくように言った。強い口調で言われたら反発を感じたかもしれない。しかし、ジェリコー准将からは後ろめたさがはっきりと感じられた。信念を押し通すこともできなければ、詭弁を弄して自己正当化することもできない。そんな参謀長にこれ以上強く言えるはずもなかった。

 

「申し訳ありません」

「いや、第五六戦隊を見捨てたのは事実だ。我々は仲間を見捨てながら生き延びようとしている。現時点で第一二艦隊の一割が二四時間以上連絡を絶っている」

 

 第一二艦隊に所属する艦艇は一万四一五七隻。その一割は約一四〇〇隻。乗り組んでいる将兵は一七~一八万人ほど。同乗している地上部隊、支援部隊、民主化支援機構の人員を加えると、それより一〇万人は多くなる。三〇万人近い人間がたった数日で行方不明というのは、衝撃的だった。

 

「フィリップス准将。早くイゼルローンに戻ろう。そうすれば、脱落する仲間が少なく済む」

「わかりました」

 

 ジェリコー准将は弱々しい敬礼をすると、通信を切った。

 

 こんな時に一人でいると、憂鬱になってしまう。こういう時はマイペースなチュン大佐を呼ぶに限る。どんな時でも変わらない人を見ていれば、少しホッとする。

 

 五分後、チュン大佐が司令室に現れた。いつもパンで膨らんでいる胸ポケットに何も入っていないことに気づき、ただでさえ落ち込んでいた気分がさらに落ち込んでしまう。そう言えば、ここ数日はチュン大佐がポケットから潰れたパンを取り出して食べているところを見ていない。

 

「どうなさいましたか、閣下」

「味方の一割が脱落したって聞いてね。辛かった」

 

 自分が弱っているのはわかっている。しかし、総司令部には反逆者として見捨てられ、他の味方がどうなっているのかもわからず、第一二艦隊の仲間がどんどん脱落していって、物資と兵の体力がいつ尽きるともしれない中、敵地同然の場所を横断する部隊の指揮をとるというのは、とてもきつい仕事だった。

 

「実戦だったら一割なんてすぐ死ぬけどね。初めて艦艇部隊を指揮したゲベル・バルカルでは、部下の三割を失った。でも、戦う前からどこに行ったのかわからなくなるのは別の怖さがある。他にもいろいろ憂鬱だよ」

「嫌な戦いです。敵と戦う前に味方と戦わねばならないとは」

「そうだね。どこにいるかもわからない敵より、孤立させられてしまったという事実の方がずっと怖い」

 

 総司令部からは回線を遮断された。他の艦隊からも連絡がまったく入ってこない。第一二艦隊の味方はこの宇宙にいない。その事実を痛感させられる。

 

 今頃、味方の他の艦隊はどうなっているんだろうか?ダーシャのいる第一〇艦隊。イレーシュ大佐のいる第三艦隊。アルマのいる第九艦隊。ブレツェリ大佐のいる第七艦隊。スコット准将が指揮する第二輸送業務集団。シェーンコップ准将やリンツがいる第一三艦隊。第五艦隊、第八艦隊にも知り合いはいる。

 

 彼らはうまく逃げているのかな。それとも、総司令部の指示を守ったまま、帝国軍に各個撃破されているのか。

 

「生きて帰りましょう。死ぬにはあまりに馬鹿馬鹿しすぎる戦いです」

 

 いつもと同じようにのんびりした口調だった。チュン大佐のポケットにパンは入っていないけど、それ以外はいつもと同じだ。この苦しい戦いで参謀長の重責を担っているのに、平常心を失っていない。彼がパートナーになってくれたことに、あらためて感謝した。俺に足りない強さは、彼が補ってくれる。

 

「そうだね。みんなで生きて帰ろう。そうしたら、参謀長から潰れたパンをまた貰える」

「まったく、閣下は食い意地が汚いですね」

「そういう参謀長は食べ方が汚いよね」

 

 邪気のないチュン大佐の微笑みにつられて、俺も笑ってしまった。

 

「閣下、通信端末から呼び出し音が鳴っています」

「第二分艦隊司令部からだ。何かあったのかな」

 

 通信端末のスイッチを入れると、スクリーンに参謀長ジェリコー准将が現れた。さっきとはうって変わって表情が明るくなっている。

 

「フィリップス准将、非常用回線をこのチャンネルに合わせなさい」

 

 彼は声を弾ませて、チャンネル番号が書かれたメモを示した。非常用回線はメインの回線が使えない時に使用される音声のみの回線だ。メイン回線と違って映像情報が伝えられないため、送れる情報量が格段に少なく、使い勝手は良くない。

 

 メインの回線が生きているのに非常用を使えと言うのも妙な話だが、とりあえずジェリコー准将が示した番号を書き取った。そして、司令室の隅に置かれている非常用通信機のチャンネルを合わせる。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。聞こえるかな」

 

 この声はテレビで聞いたことがある。第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将の声だ。驚いてスクリーンの中のジェリコー准将を見る。彼は微笑んでうなづいた。

 

「聞こえると言いなさい」

 

 促されて返事をする。

 

「聞こえます」

 

 大きなノイズが非常用通信から流れてきた。久しぶりに聞いた味方の声なのに、ノイズが入るなんてもどかしい。一分ほどしてノイズが消えた。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。第五艦隊は分艦隊単位の集結を完了した。現在はイゼルローンに向けて後退しつつ、艦隊単位での集結を目指している」

 

 ビュコック中将の声は第五艦隊の動静を伝えていた。占領地はどうしたのだろうか。ビュコック中将も抗命覚悟で撤退したのだろうか。

 

 もう一度スクリーンの中のジェリコー准将の顔を見る。彼の目は潤んでいた。

 

「ビュコック中将はこうやって、我々に情報を伝えてくださっている。つい先ほど、ボロディン中将がお気づきになり、第一二艦隊の全部隊にチャンネルを開くように指示なさったのだ」

 

 第一二艦隊との交信は総司令部に禁止されている。だから、ビュコック中将は非常用回線のテストを装って第一二艦隊に情報を伝えようとしてるのだ。すべてに見放されたと思っていた俺は、老提督の善意に胸が熱くなった。

 

「参謀長。我が戦隊の群司令全員にこのチャンネルを開くように連絡してくれ。みんなに聞かせてやりたい」

「了解しました」

 

 チュン大佐に指示を出した後、ビュコック中将のさらなる言葉に耳を傾ける。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。総司令部は一〇月一八日に全軍に解放区放棄を指示した。集結しつつ、解放区奪回を目指す帝国軍を引きずり込んで迎え撃つようにとの指示じゃ」

 

 総司令部は俺達が無断撤退した一日後に占領地の放棄を決定した。俺達がやったことは無駄ではなかった。その事実が嬉しくなって、涙がこぼれてくる。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。第三艦隊、第八艦隊、第一〇艦隊、第一三艦隊は解放区からの撤収をほぼ完了して、第五艦隊と同様に後退しつつ戦力を集結している」

 

 第一三艦隊司令官ヤン中将、第八艦隊参謀長デミレル少将はあのビラが帝国の謀略であることを理解していた。だいぶ前から撤収の用意を進めていたと思われる。前の歴史でも彼らの艦隊はアムリッツァまでの後退に成功している。

 

 第一〇艦隊司令官ウランフ中将はヤン中将とはシトレ派の同志である。注意を促されて撤収を準備していたのだろう。シトレ派のビュコック中将もヤン中将の忠告で撤収を準備していた可能性が高い。

 

 第三艦隊司令官ルフェーブル中将がこんなに早く撤収できたのは意外だった。この人は士官学校を出てから半世紀近く経っているのに、一度も地上勤務を経験したことがないという生粋の軍艦乗りだ。ベテランの勘で危険を察知したのかもしれない。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。第九艦隊は撤収作業がやや遅れているが、明日には完了する見通しだ。第七艦隊は解放区で発生した暴動のため、完了の見通しが立っていない」

 

 第九艦隊の担当区域には、妹のアルマが所属する第八強襲空挺連隊が駐屯している。義父になる予定のブレツェリ大佐は第七艦隊に所属している。彼らはうまく逃げられるだろうか。心配になってしまう。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。今のところ、同盟軍は敵と遭遇しておらん。だが、敵は辺境星域外縁のアーデンシュタット星系を一〇月二一日に通過している。油断は禁物じゃな」

 

 アーデンシュタット星系はシュテンダールが属する恒星系だった。つまり、帝国軍は俺達がシュテンダールから撤収した一九日の二日後にアーデンシュタット星系に到達した。間一髪だったということになる。予想以上に進軍が早い。やはり、あの時点での無断撤退は正しかった。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。ボルヒェン星系とシェーデン星系では、現在磁気嵐が発生中じゃ」

 

 ボルヒェン星系は第二分艦隊が一八時間後に到達する予定の星系だった。何の備えもなしに通ったら、航行に支障をきたしかねない。数時間の遅れでも、強行軍に近い進軍をしている敵に捕捉されてしまう可能性がある。ビュコック中将の情報のおかげで助かった。

 

「……こちらはマイクのテスト中だ。皆を代表して感謝する」

 

 涙が止まらなかった。俺達は孤立していない。味方がいる。それが何よりも心強い。

 

「……なあ、参謀長。これでは使い物にならん。こまめなテストが必要じゃな」

 

 そのわざとらしい声を最後にビュコック中将の声は途切れた。涙で何も見えない。最近の俺はすっかり涙腺が緩くなってしまった。

 

「世の中は捨てたものではありませんね」

「そうだね。勇気が湧いてきた」

 

 涙を拭きながら、チュン大佐に答えた。メインスクリーンの中では、ジェリコー准将が顔にベレー帽を押し当てて泣いていた。


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