銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(旧版)   作:甘蜜柑

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第六話:未知に飛び立つ日 宇宙暦788年5月16日 エル・ファシル星系政庁

 ヤンは俺なんか眼中にないかのようにふらふらと歩いていた。軍人とは思えない歩調だけど、連日の激務で疲れているのだろう。並んで歩くなんて畏れ多い。数歩さがってついていく。

 

 控室からヤンの部屋は遠いらしく、かなり長い距離を歩いていた。その間、ヤンは一言も言葉を発していない。小心者の俺は沈黙に弱い。いつもなら「嫌われてるんじゃないか」と心配するところだが、ヤン相手ならその心配はない。彼は社交辞令を嫌うと本に書いていた。すれ違う人が「見ていたよ」「頑張れよ」と声をかけても、ヤンは一切返事をしない。凡庸な感想だけど、夢の中でもヤンはヤンだ。無茶苦茶な展開の中でもヤンだけはお約束通りに動いてくれるありがたい存在だ。

 

「私はこれから寝る。荷物を整理しておいてくれ」

 

 部屋に入ると、ヤンはそう言ってソファーに横になり毛布をかぶった。すぐにスースーと寝息が聞こえてくる。口を挟む隙も与えない早業だった。

 

「ひどいな、これ…」

 

 部屋を見回した俺はあまりの惨状に呆れた。弁当やインスタント食品の容器が無操作に床に捨てられていた。書類はわざとぶちまけたかのように部屋中に散らばっている。下着や靴下も脱ぎっぱなし。床が見えない。机の上には本が山のように積まれて塔のようだ。本の塔の間に鎮座する事務用端末は電源がつけっぱなし。いちいち電源を切るのが面倒なのだろう。端末のキーボードの周りにはビニール袋や紙くずが積み重なっている。

 

 ヤンは整理整頓をしないというのも本で読んだ。かのユリアン・ミンツがヤンの養子になった時も最初に部屋の片付けをしたという。知識としては知っていても、ヤンが散らかした部屋を実際に見るとドン引きしてしまう。単に散らかってるというレベルではない。ゴミ溜めだ。ヤンがさっさと寝てしまったのは正解だった。これを見れば、誰だってツッコミを入れずにはいられないだろう。名将は引き際をわきまえているというが、日常でもヤンの引き際は絶妙だった。

 

 どこから手を付けていいかわからなかったが、出発は明日の正午だ。迷っている時間などない。まず、机の上を片付けることから始める。紙くずをゴミ袋に放り込んでいると、フライドチキンの食べかすが出てきた。

 

「うわっ…」

 

 思わず顔をしかめてしまう。さすがにこれはないと思った。なんか酸っぱい臭いがすると思ったけど、気のせいじゃなかったんだな。この分だと部屋のあちこちに腐った食べかすがあるに違いない。

 

 普通に考えたら、ここまで部屋を汚くしたのに荷物の整理を他人に押し付け、自分だけさっさと寝てしまうなんて最悪のダメ人間だ。何も知らなかったら、「なんて自分勝手な奴なんだ」と腹を立てたに違いない。しかし、これがヤンであればむしろ当然のことだと納得できる。

 

 彼はいつも寝てばかりいたが、いざ戦いになると不眠不休で指揮をとっても判断がまったく狂わなかったそうだ。彼にはこれから脱出船団を指揮するという大仕事が待ち受けている。荷造りなどという些事を他人に委ね、自分の体力を温存するのがヤンの意図だろう。ヤンにとっては体力も戦時に備えて節約すべき戦力なのだ。なんと合理的なのだろうか。俺とは生きる次元が違いすぎる。

 小者には小者にふさわしい役割があった。ヤンを荷造りなどという些事に煩わされないようにする。それが今の俺が成すべきことだ。頑張らねば、と思った。

 

 なぜか棚の上にあるパンツ。なぜか弁当の容器の中に鎮座している携帯端末。そういったものを見るたびに心が挫けそうになった。自分は何をしているのかと思った。ユリアン・ミンツもこういう思いを何度となくしたのだろうか。「ヤン神話の伝道者」「八月党にゴリ押しされてる」ぐらいにしか思っていなかったし、彼がバーラト自治区の為政者としてやったことを思うと、良いイメージは抱けなかった。しかし、ようやく彼の真価を理解できたような気がする。

 

 ゴミと荷物を分別し、貨物として運ぶべき荷物を箱に詰め、手回り品をカバンに詰める。そんな作業をひとり進めていくうちにどんどん頭がボーっとしていった。

 

「起きてくださーい」

 

 女性の声が聞こえる。いつの間に寝てしまっていたのだろうか。ぼんやり考えていると、体を揺すられる感触がする。

 

「もうすぐ出発ですよー」

 

 出発!?もうそんな時間なのか。驚いて目を開けると、係員っぽい制服を着た若い女性がいた。年齢は俺と同じ二〇歳ぐらい。金髪のショートカット。可愛らしい小顔に黒縁のメガネが良く似合っている。びっくりするぐらい細いけど、病的という感じは全くなくてとても活発そうだ。

 

「おはようございます。あと二〇分で宇宙港に出発しますよ」

 

 あと二〇分!?俺が寝てる間に政庁を引き払う準備しちゃったのか?一番忙しい修羅場だったのにずっと寝てたなんて。まるで役立たずじゃないか。

 

「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんですか…」

「一等兵は疲れているようだから、出発直前まで寝かしておいてくれって中尉がおっしゃったんですよ」

「ヤン中尉が…!?」

 

 上半身を起こす。今気づいたが、俺はソファーで寝ていたようだ。毛布もかかっている。この部屋にはソファーは一つしかない。俺はヤンと入れ替わりでソファーで寝ていたことになる。つまり、ソファーに寝かせてくれたのは…

 

「行きますよ。これ、一等兵の荷物。着替えと洗面用具を用意しました」

 

 小さなカバンを差し出されて我に返る。そういえば、とっさにエアバイク奪って脱走したから、何も持ってなかったんだよな。精一杯の笑顔を作ってお礼を言うと、カバンを受け取る。

 

「走れます?時間がないんで」

「は、はい!」

 

 軽やかに翔けていく女性。ついていく俺。誰もいない廊下に二人の足音だけが響く。こんな勢いで走ったのは何十年ぶりだろうか。驚くほど体が軽い。走っても走っても息切れがしない。まともに体が動くという感覚を久々に思い出す。さすが二〇歳の肉体だ。

 

「エレベーターは使えません!階段使います!」

「はい!」

 

 飛ぶように階段を駆け下りていく女性。俺もつられて駆け下りる。女性の身軽さに驚いたが、それについていける自分にも驚きを感じる。ただ走ってるだけなのにすげえ楽しい。いつの間にか顔が笑っているのに気づく。

 

 階段を降り切ると再び廊下に出た。女性の走るペースが上がっていく。俺もつられてペースを上げる。あっという間にロビーを抜けて玄関を出る。

 

「あれです!」

 

 女性が指さした先には小型バスが止まっていた。エル・ファシル星系政庁とこれでお別れとか思うと、感慨深いものがある。たった一日いただけだけど、逃亡者にならなかった人生の初日を過ごした場所だ。これが夢の終点なのか始まりなのかはわからない。夢が続くのならば、俺の人生は未知の領域へと踏み込む。願わくば始まりであって欲しい。そう思った。


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