パタン。
二人が部屋を去ると、提督と長門はどちらともなく溜息を吐いた。
「金剛は朝から明るいな」
「そうだな。明るいのは良い事でもあるのだが」
「・・朝食時の会話は出来なかったね」
「また秘書艦当番は来る。今回は仕方ない」
「おや、諦め良いね長門さん」
「まぁその、2日目だからな」
「でも次回は9日後だよ?」
「!!!!!」
「・・・長門さん?」
「・・・」
「なっ!?長門!?長門落ち着け、落ち着くんだ!」
「迂闊だった・・・」
しょぼんとする長門を見て、提督はカレンダーを見ながら声を掛けた。
「今度比叡が2連続で秘書艦する時、長門は2連休だろ?」
「そうだが・・」
「ならその時、二人で外出でもしようか?」
「!」
「何故顔を赤らめる?」
「とっ、とと、泊まるのか?」
「いや、日帰りで」
「そうか・・」
「なんで複雑な顔をする?」
長門はジト目で提督を見た。こぉのニブチン!
「うん。それが賢明だね」
「まだ工場の立ち上げには時間がかかるからな」
朝食も終わり、勤務を始めた後、提督は長門からル級に伝えた内容を聞いて頷いた。
「要件を言わずとも来てくれたのは、長門に対する信頼だね」
「私は別に何もしてないのだが・・」
「言った事は守る、時間は正確、騙さない」
「そんな事は当たり前だろう?」
「信頼ってのは、過去にやった事の積み重ねなんだよ」
「うーん・・理屈はともかく、実感はあまり無いな」
「それで良いよ。長門は長門だよ」
「まぁ良い。とにかく、1500時に会議室へ一緒に連れて行く」
「解った。私は会場に居る事にするよ」
「そうだな。その方が傍から見て自然だな」
「よし、じゃあそっちはそれで行こう。さて、ここでの今日のメインイベントは・・」
長門が首をコキコキと鳴らした。
「2日分の書類だな」
提督は書類の束を見て溜息を吐いた。
「しかも、昨日分も今日分も多いなあ・・」
長門が肩をすくめた。
「週末かつ月の後半だからな」
「よし、長門さん」
「なんだ?」
「流れ作業体制で行こう」
長門は渋い顔をしたが、
「・・仕方ない。1400時には済まさねばならないしな」
「それは事実上、午前中だけだと思うんだ」
「うむ。では、終わったら昼飯としよう!」
「げっ!?なっ、長門さん・・食事は大切ですよ?」
「遅れたくなければさっさとやろう!椅子を持って来るぞ!」
流れ作業。
普通、提督の仕事は書類を見て判断し、OKなら承認の判を押す。
この判を押す作業を秘書艦に任せるのが流れ作業である。
なぜか。
提督は判を綺麗に押すのがとても苦手なのである。
いっつも左半分は押し過ぎて滲み、右半分は押しが足りず掠れる。
普段は秘書艦がチェックして、あまりにも酷い物は押し直させている。
しかし、前に押した時と位置と角度をピタリと一致させないと2重になってしまう。
だから時間がかかってしょうがない。
普通、司令官や提督は承認自体の判断に悩むが、ここまで押印に悩んでるのは提督位である。
「よし、始めようか」
秘書艦席から椅子を持って来た長門は、判を持って提督と並んで座る。
長門は眉間に皺を寄せ、判を握りしめた。
なぜなら。
「よし、うむ、良いね、ダメ、良い、ダメ、よし、いいね」
「ハッ!ヨッ!ハッ!ハッ!ヨイサッ!」
さすがに文月の速度には劣るものの、提督も速読出来る即断の人なのである。
よって、押印する側もテンポ良く応じねばならないが、どうしても時間差は生じてしまう。
だから提督との間には押印待ちの書類ケースを作り、提督がケースに入れ、長門が取り出す。
それでも提督のペースに余り遅れずについて行ける実力が必要である。
よって、この作業が出来る秘書艦は、今の所長門と加賀の二人だけである。
そして3時間後。
「はいよ!これで終わり!」
「ハイ!ハイ!ハイ!・・・よし、押し忘れは無いな」
「やっぱり長門が押してくれるとサクサク終わるねえ」
「判断はそんなに早いのにどうして押印はいつまでも遅いんだ?」
「実は昔、右肘に矢を受けてしまってな・・」
「そうなのか?知らなかった」
「冗談ですよ?」
長門が深い溜息を吐いた時、昼食時間を告げるチャイムの音が響いた。
「お疲れ様。昼を食べた後は待ち合わせまでゆっくりすると良い」
長門は首を回しながら返事をした。
「そうだな。そうさせてもらう。では昼御飯を持って来る」
「あ、手がしんどかったら、食堂で食べても良いぞ?」
「・・いや、持って来る」
「そうか」
パタンと扉を閉めつつ、長門は思った。
食事時間位しか提督と二人きりでお喋りなんて出来ないからな。特権は使わせてもらう。
食後、食器を返して戻ってきた長門は、秘書席の机上を見てジト目になった。
席に座ると何かをしていたが、やがて意を決したように提督席にやって来た。
「・・・提督」
「ん?」
「ゆっくりさせてくれるんじゃなかったのか?」
「ゆっくりすれば良いと思うよ?」
長門はバッと付箋紙を提督に突き付けた。
「ならば!どうして!これがある!」
提督がにこっと笑った。
「だって、昨日は忙しくて渡せなかったから」
付箋紙。
提督から長門に愛をこめて渡される暗号の書かれた紙である。
最初は1文字後にずらすといった可愛いルールだったが、最近はかなりの難度である。
悩み始めたが最後、あっという間に日が暮れる事もザラだ。
「きょ、今日は乗らないぞ!ゆっくりするんだ!」
「そーお?」
「そうだ!」
長門は付箋紙を提督の机にパシッと置くと、秘書艦席に戻った。
「残念だなー、気付いたら面白いのになー」
「くっ!」
長門は拳を固めた。いつものペースに嵌められてはいけない。
どういう事かというと、
気になる
↓
提督が同情を誘う悪魔の文句を並べる
↓
ほだされてドツボ
↓
突き返すが気になって仕方ない
↓
再度ドツボ
↓
最後の最後で閃くか、提督がそっとヒントを出す
↓
半日無駄にする
である。
長門がフンと鼻を鳴らして秘書艦席に戻ると、
「今日のは1時間で終わる位、簡単な物なんだけどなー」
と、ぽつりと囁く声がした。
くっ!
そんな甘言には騙されない。
騙されないぞ!
前回は終業寸前まで全力で考えたから知恵熱まで出てしまったのだ。
絶対パワーアップしてるに決まってる。
「折角作ったのに・・付き合ってくれないんだね」
くっ!
同情を誘おうとしてもそうはいかない!ダメだ!
フンと一息つく。
チッ、チッ、チッ。
静かになった部屋で柱時計の音だけが静かに鳴り響く。
今は・・1305時か。
ル級との約束は1450時に小浜。ここから小浜までは余裕を見て20分。
・・・あと1時間25分、か。
書類仕事は午前中で終わってしまった。
こんな時に限って誰も来ない。もう少しゆっくり押印すれば良かった。