龍田達の打ち合わせ中。事務方応接室。
カチ、コチ、カチ。
相模谷はカバンから契約書らしき書類を取り出し、隅から隅まで目を走らせていた。
恐らくは解約時の違約金など、特約事項を探しているのだろうが、龍田が見落とす筈が無い。
というより契約時にそんな不利な条件を盛り込ませる筈が無い。
相模谷が口を開きかけたその時。
ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!
ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!ポーン!
時計が1400時を告げた。
完全にタイミングを邪魔された相模谷は溜息をついてから口を開きなおした。
「あ、あの、先程は不躾な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」
「気にしてないですよ~」
「とっ、当社と致しましては、こっ、ここで契約を解除されてしまいますと、非常に、その」
「なんですか~?」
「ふっ、敷設費用などが、回収出来なくなりますので、こ、困るのです」
龍田がニコニコ顔から、ふっと薄く目を開けた。
「気にしないですよ~」
「ひぃぃぃっ!」
取りつく島も無いというのはこういう事だなあと夕張は溜息を吐いた。
可哀想だが文月や龍田が協力する必要性は0である。
あとはじっくり待って相手が自壊するのを待てば良いからである。
一方、相模谷に残されたリミットは極僅かで、しかも妥協点は龍田達の気分次第だ。
撤退を飲まずに済ませる起死回生の1手があるとすれば・・・
「す、すみません。あ、あの、契約の継続を」
「高過ぎるので嫌です~」
「りょ、料金はその、最大限検討させて頂きますので」
その時、文月がニコニコ顔を止め、ぼうっと光の無い目を開けると相模谷に向けた。
「先日、うちの夕張はそのようにご相談した筈ですが?」
「ひぃぃぃぃぃっ!?」
「あんなに何度も打合せしたのに、こんな料金出してくるなんて信じられないです~」
「あ、ああああああの、社内規定ではこの金額になってしまいまして」
「知った事じゃないです~」
「い、一両日中には訂正案をお持ちしますので」
「今決めてください」
「い、今!?」
「・・もう解約通知返送します~」
「そっ!それはご勘弁を!」
「じゃあ幾らにするんですか~?」
「あ、あああのあの、し、支店長に決済を貰わないと」
その時、龍田が口を開いた。
「田山ちゃんじゃ話にならないわよ?二宮ちゃんに電話してあげましょうか~?」
「せっ!せん!専務をご存じなんですか!?」
「はい~」
だが、ここで相模谷は致命的なミスを犯してしまった。
「・・・ほんとに御存じなんですよね?」
ピシッ。
部屋の空気が凍りついた。
夕張は目を閉じた。相模谷さん、それはダメだわ。交渉素人の私でも地雷だと解るわ。
ハッタリを警戒するマニュアル通りなんでしょうけど、時と場合と相手を選ばないと・・・
私はもう怖くて二人のほうを見られないわ。
龍田はふっと息を吐くと、懐から携帯を取り出し、黙って操作し始めた。
「あ、あの?」
「・・・あ、二宮ちゃ~ん?龍田だよ~。赤羽のフィリピーナちゃんと和解出来た~?」
夕張は口に含んだコーヒーをむせ返した。辛うじて吹き出さなかったが鼻に逆流した!
ツーンと来て痛くて涙出て来たけど咳き込んだら殺される!
「・・そう。良いのよ御礼なんて。ところで少しお話を聞いてくれないかしら」
あ、終わった相模谷。
「私がね、二宮ちゃんとお友達なのよって言ったら、嘘つくなって怒られちゃったの」
相模谷が手を宙に浮かせて首を振り、違いますというポーズを取ってるが手遅れだ。
「私が嘘つきじゃないって事、説明して頂けないかしら?そう、ありがと~」
冥福を祈るわ、相模谷。
「あとね、電気代、使わない分を外したら割引を全部解除されてしまったの。そうよ~」
酷いトドメだ。
龍田は相模谷に携帯をすっと差しだした。
「自分の耳で確かめなさいな~」
カチ、コチ、カチ。
カタカタと震えながら電話を受け取った相模谷は一声聞いて直立不動になった。
「あの・・・はいっ!本社第2営業部1課の相模谷です!はい、溝口課長です。はい・・」
夕張は同情の目を相模谷に向けた。現実とは余りに残酷だ。
「いえ!にゅ、入社14年目で・・・いえ、そのような事は決して・・・はい・・」
電話の先の怒声がここまで聞こえる。専務怒り狂ってるわね・・・
「・・えっ、そ、それで良いので・・・ひっ!もっ、申し訳ありません!」
せめて社員で居続けられる事を祈ってあげよう。
「わ、解りました。直ちに、はい、特殊契約にて対応致します。申し訳ありま・・・あ」
一方的に切られた電話を呆然と眺めた後、ハンカチで本体をキュッと拭くと龍田に返した。
そして契約欄に丁度1ケタ少ない金額を書きこみ、
「申し訳ありませんでした。専務が了承されましたので、こちらで」
といって差し出したのである。
龍田は金額の上1ケタを1から3に書き直すと、
「これで良いわ」
と返した。
呆然と見返す相模谷に続けて、続けて言った。
「あと、特別高圧は本当に不要よ。100Vと200V系の待機だけで良いわ」
「えっ・・・よろしいのですか?」
費用が取れない以上、高コストになる特別高圧のメンテが不要になるのは渡りに船だ。
「あと、会社で困ったら、二宮ちゃんにミーナちゃんの話聞きましたって言いなさいな」
「み、ミーナちゃん、ですか?」
「ええ。ミーナちゃんよ。右の口元のほくろが可愛いんですって」
「・・・ええとそれは、あの、フィリピンパブの・・・」
「二宮ちゃんが酔っ払って火遊びしたら認知するしないのって大火事になっちゃったの」
夕張は再びコーヒーでむせ込んだ。さっきより鼻に入って超痛い!
何その核爆弾級スキャンダル!
龍田と文月はニコニコ笑うと、揃って言った。
「すぐに正式な書面で送って来てね」
「かっ!かしこまりましたっ!それでは失礼させて頂きます!」
平身低頭で感謝の目すら見せる相模谷が帰って行った。
文月と龍田も相模谷の後を追ったが、夕張は部屋に残り、そっと鼻をかんだ。
たった1時間の打ち合わせで契約額が朝提示された額の1/3に減っちゃった。
発電機導入しなくても龍田さんが乗り込めば増額分を打ち消せたんじゃなかろうか?
しかし、最後の最後でとどめを刺さず、専務が良いと言った金額の3倍に上げた。
さらに専務のウィークポイントを教えた。おそらくあれでクビも左遷も無いだろう。
相模谷を助けた理由は、そうする事で今後ずっと龍田に頭が上がらなくなるからだ。
電力会社との関係は結局は切る事は出来ない。切れなくはないが不便だ。
ならばこちらの言う事を聞く人が担当になっていれば僥倖だ。
夕張はそっとソファの背もたれに身を預けた。
龍田先生は理想の商売相手を探すんじゃなくて、望む商売相手に「してしまう」のね。
私には到底出来ないわ。
夕張は置時計を見た。
カチ、コチ。
もし、相模谷が間抜けで本当に解約へ突き進んだら?
現状なら、うちは当面は全く問題なく自家発電機で運用出来る。
だが、電力会社としてはロスコスト回収の為に是が非でも再契約したがるだろう。
それこそ、担当の首なんてあっさり変えるだろう。
そういう意味では互いに最善の結果になった訳だけど・・・・
夕張はふと思った。
どうして龍田はパブのホステスと電力会社専務の核爆弾級スキャンダルを知っていたのだろう。
そして解決に協力したような口ぶりだったけど、何をしたんだろう。
だが次の瞬間、龍田の薄目を開けた横顔を思い出した。
いけないいけない。深入りすれば私にあの目が向けられる。
横で見てても震えがくる程怖かった。
変に口にすればあっさりドラム缶の墓に入れられて冷たい海の底に沈められそうだ。
まだ生きていたいから深入りしません!
そこで初めて、工廠長の言った事を思い出した。
「好奇心は猫をも殺すというぞ。同席は勧めん。忠告したぞい」
そうね。工廠長は精一杯止めてくれたのね。
それ以上一言でも余計な事を言えば消されかねないものね。
良く解ったわ工廠長。もう同席しません。今日の事は誰にも話しません。
「あら~、お疲れさま~鼻大丈夫?」
夕張がふと見ると、いつもの龍田が戸口に立っていた。
「あ、はい。お陰様で。お見送りに加われなくてすみませんでした」
「良いのよ~。あ、事務方で通知書を預かっても良いかしら。計算に使いたいんですって」
「ええ、後はお任せして良いですか?」
「文月ちゃんが対応するわ~」
「あ、あの、龍田先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、久しぶりに実地訓練出来て楽しかったわ~」
ひらひらと手を振って去っていく龍田が見えなくなると、夕張は言葉を反芻した。
え・・・・訓練?本気じゃないって事?
今更になって夕張は冷汗が吹き出てきた。
絶対敵に回してはならないし、味方である限り最も頼りになる。
数回深呼吸をした後、夕張はようやく席を立った。