7年前、旧鎮守府での事。
時雨は敷波が事務方になって以来、毎日のように遠征の合間を縫って敷波の部屋に行ったが、
「ごめんね。敷波ちゃんは今日もまだ帰って来てないよ」
「毎日遅いから、私達も心配してるの。あ、お茶飲んでいかない?」
と、同室の子達から聞き、とぼとぼと帰る日が続いた。
2週間もすると部屋に上がって世間話をする関係にはなったが、やはり敷波が居ないと寂しかった。
敷波が事務方になって1ヶ月ほど経った。
表向き、鎮守府は平静を取り戻したし、大本営が乗り込んでくるなんて事も無かった。
しかし。
ある日、時雨は唸りながら食堂で夕食の焼き鮭を箸でつんつんと突いていた。
食欲がない。敷波は大丈夫だろうか。このまま心配してたら僕が先に倒れてしまう。
いけないいけない。それじゃ敷波が心配するじゃないか。でも、大丈夫なのかな・・
その時。
「おっ!時雨じゃん!久しぶりぃ!」
バッと振り返ると、そこに敷波が居た。
一瞬固まり、次に渾身の力で敷波にぎゅむっと抱き付く時雨。
「ぐほっ!しっ!時雨・・・くるしい・・・お、折れる・・折れちゃうよぉぉぉおお」
「あっ!ごっ!ごめん!」
「ふえーい。でも久しぶりだね。隣良い?」
時雨は首を縦に振り過ぎてぐきりと筋を違えてしまった。
「イタタタタ・・・」
「あんなに激しく振るからだよ・・・はい」
敷波がくれたおしぼりを肩にあてる。気持ちいい。
「じ、事務方はどうだい?忙しいって聞いてるけど」
「何度も部屋に来てくれたんでしょ。ほんとごめんね。最近まで日を超える頃に帰ってたからさ」
「そんな有様なのかい・・・ほ、ほら、もし疲れたなら交代するよ」
すると敷波はふんすと鼻から息を出し、
「敷波さんはそんなにヤワじゃないの!負けるつもりなんてないからね!」
といい、続けて、
「それに、これから楽になるんだよっ」
と言った。
「どういう事だい?」
「うん。提督が帰って来たから」
時雨の表情がぱあっと明るくなった。提督が帰って来たって事は!
「じゃあ、もうすぐ事務方は解散なんだね?また一緒に海に出られるんだね!」
しかし、敷波は頭を掻きながら言った。
「それが、事務方は今後も継続しようって決めたんだよ」
「ど・・どうしてだい!?」
敷波は時雨の耳元まで顔を寄せた。
「あのね」
「うん」
「文月の差配と、私達が書く書類の方が、提督がやってた頃より上手なんだって」
「は?」
「それを最近、大本営から褒められててさ。止められなくなっちゃったのよね」
時雨の顔からすうっと表情がなくなった。
「それなら・・・提督を教育的指導すれば良いじゃないか。僕・・行くよ?」
「時雨、すっごく怖いよ。般若背負ってるよ。それに、アタシも満更でもないんだ」
「何でだい?」
「だってアタシ達の仕事を、大本営に認めてもらったんだよ?」
「あ・・・」
「大本営に褒められるなんて、よっぽどの戦果をあげないとありえないじゃん」
確かにそうだと時雨も思った。
出撃にしろ遠征にしろ、成果が良い時に褒めてくれるのは先輩艦娘。
余程の時でも秘書艦や提督だ。
大本営に褒められるとなると、それこそ討伐で奇跡的な勝利を成し遂げたとかでないと・・・
なるほど。
時雨は頷いた。
そう考えると、事務作業とはいえ嬉しいかもしれない。
「だからアタシは、事務方に残るつもりだよ」
それでも、時雨は心配そうに言った。
「さっき、少しはマシになるって言ったけど、ちゃんと休めるのかい?」
「今後は大丈夫だと思うよ。だからまた休みが重なったらお出かけしようよ!」
「・・・」
時雨はじわっと涙が出た。もうずっとずっと遊びに行ってない気がしていたからだ。
この会話でさえ1カ月ぶりなのだから。
「泣く程嬉しいかね?そうかそうか・・・・え?マジ?嘘、な、泣かないでよ時雨ぇ・・・」
慌てて頭を撫でる敷波と、唇を真一文字に結んでこらえる時雨。
通り過ぎる艦娘達はそれを見て微笑んだ。
敷波、焼き鮭でも横取りしたの?
それから4年が過ぎ、ソロル鎮守府に引っ越した後。
事務方の応援を呼びかけた提督に凄まじい迫力で応募し、晴れて時雨は事務方になった。
提督から翌朝9時に事務棟に行ってと言われたので、その10分前に時雨は事務棟の前に立っていた。
期待に胸膨らませながら事務棟に入ろうとした時、丁度後ろから来た敷波が発した声に呼び止められた。
「へっ?応援が来るって聞いてたけど・・・時雨なの?」
時雨は少しむすっとしつつ振り返った。
「僕が来たら・・・迷惑だったかな」
しかし、敷波は眉間にしわを寄せ、真剣な表情でぐいっと時雨の腕を取ると、
「ちょ、ちょっと来て」
と言って強引に引っ張っていった。
事務棟の近くにある木立に時雨の身を隠し、辺りを気にしながら敷波は言った。
「どんな酷いミスをしたの?もみ消してあげる。応援は最初から1人少なかったって言っとくから」
時雨は敷波の尋常ではない迫力と台詞に気圧されながら答えた。
「と、特に何も失敗してないよ。敷波と一緒に仕事したかっただけさ」
敷波は驚愕の表情をした後、理解したのか、あちゃーという顔をして拳を額に当てた。
「・・・ええとね、時雨」
「うん」
「来てくれるのは嬉しいんだけど」
「うん」
「前の鎮守府でも、正直しんどい時は何回かあったのね」
「うん」
「でね・・・」
「うん」
「アレが増えたじゃない」
敷波が指差した先は教室棟の方だった。
「そうだね。校庭とか、演習施設があってびっくりしたよ」
敷波は指の先を時雨に変え、ずいっと寄った。
「何で、よりによって、こんな超忙しくなる時に来たの!」
時雨は困惑しながら答えた。
「だ、だって、誰か手伝ってくれって提督が言ったのは昨晩だったんだよ?」
敷波は目を見開いた。
「はあ!?て、提督、まさか、それだけしか言わなかったの?」
「うん・・い、忙しくなりそうだから手伝って欲しいって」
「なりそう!?既に忙しいどころか史上最悪の修羅場なんだってば!来ちゃだめだって!」
時雨はくすっと笑うと、
「なら僕は、やっと敷波を手伝えるんだね。良かった」
と言った。
敷波はきょとんとした顔になると、溜息を吐き、
「・・・・もぉ~、知らないからね~」
と言いつつ、手を引いて事務棟に案内してくれた。
敷波は時雨が1度決めたら梃子でも動かないのを知っていた。
だが、敷波が顔を赤らめ、時雨に見えないようにしていたのを、時雨はしっかり見ていた。
喜んでくれている。時雨はそう理解した。
ただ、そういう事をあえて言わないのが時雨である。
ガチャ。
「文月さん、応援に来てくれた時雨だよ」
時雨の手を引いて現れた敷波の声に、文月は見ていた書類を机に置いて立ち上がると、
「文月です。事務方になってくれてありがとうございます。よろしくお願いしますね~」
と、深々と頭を下げた。
「い、え、いやいやいや、ぼ、僕は時雨、よろしくお願いするよ。あの、頭を上げてくれないかな」
時雨は先程の敷波、今の文月の様子を見て、ちりちりと嫌な予感がし始めた。
一体どれだけ悲惨な職場なんだろう。
でも、それなら尚更友人を手伝い、窮地を救わねばならない。
結局、その後事務棟の扉を叩いたのは初雪と霰、それに黒潮だった。
皆、全く説明は聞いておらず、「大変そうだから手伝いに来たよ?」という程度の認識だった。
ゆえに文月は
「お父さん、もう少し事情をちゃんと説明しないとダメです。めっ!」
と、珍しく提督を説教しに行った。
もっとも、提督は
「文月は辛くても我慢する子だから心配で心配で・・・人手はあったほうが良いだろ?」
と、膝の上に乗せられてナデナデされ、あっさり丸め込まれて帰ってきたのは秘密である。
そして着任早々、時雨は事務方の事情をイヤというほど知る事になる。
誤字を訂正しました。ご指摘ありがとうございます。