伊藤カイジは呆然としていた。
「え・・・・?」
どうやら眠ってしまったようで、目を覚ましたら意味不明な光景が広がっていた。おかげで酔いはどこかへ吹き飛んだ。先程まで新宿の焼き肉店で宴会をしていたはずだったのだが、もしかしてまだ夢なのかもしれない。
とりあえず辺りを見回してみるカイジ。
石組の建物が周りを囲むように建っている。ここは広場だろうか。燦々と陽が照りつけていて随分と長閑だ。
目の前には奇妙な格好をした外国人と思しき女性と、これまた奇妙な生物がこちらを窺っている。
やはり、これは夢だと、そう結論付ける。
なにしろここは外国のようだし、みたこともない奇天烈な生物までいる。間違いなく、夢だと。
しかし、そこはかとないリアリティに些か不安になるカイジ。とりあえず目の前の女性に尋ねる。
「えっーと・・・・これは夢ですよね・・・?」
途端にしまったっと顔をしかめるカイジ。相手は外国人である、言葉が通じない。しかし、夢であるなら関係ないのか、と思い改める。
「夢……ですか?」
どうやら言葉が通じたようで安心する。
「いや・・・なんでもない・・・夢ならいいんだ・・・」
カイジはニヒルに笑うと、ふたたび目を瞑る。「さっさと続きの夢がみたいぜ・・・」などと呟きながら。
「ぷいにゅ~!」
「だめですよ! アリア社長!」
カイジが気味の悪い笑みを浮かべて目を閉じた直後、アリア社長がその顔に飛びかかって、またもや舐め回しはじめた。
カイジはアリア社長の勢いで噴水の縁に頭をぶつける。
「うぐぐぐっ・・・!」
痛みに呻き声をあげるカイジ。瞬間、顔面が青ざめる。馬鹿みたいに顔を舐め回しているアリア社長も視界に入らない。
「痛い・・・? え・・・? あぁ・・・? ってことはこれが現実・・・・?」
「ぷいにゅぷいにゅ?」
やっと顔を舐めるのをやめたアリア社長はアリシアのもとへと戻る。
アリシアはなにやら目の前で混乱している男性、カイジに声をかけようとするものの、当の本人は独り言をぶつぶつ呟いていて少し怖い。よくよく顔を見てみると、随分と鼻が高くシャープな顔立ちをしている。左目の下に切り傷があり、それらが相まって荒々しい印象を受けた。
アリシアはお詫びとばかりに、とりあえずハンカチを渡そうと声をかけた。
「あのー大丈夫ですか? これよかったら使ってください」
「え・・・? ああ、どうも・・・・」
「ごめんなさい、アリア社長が御迷惑をおかけして」
「社長・・・・? へ・・・・?」
「この火星猫、うちの会社の社長なんです」
ざわ・・・
ざわ・・・
社長・・・・っ? ・・・・どういうことだ・・・?
もしかして、ハメられたか・・・?
オレがあの沼を攻略したからか・・・・? だから兵藤の野郎が俺を流した・・・・? こんな外国に・・・・っ!?
いや・・・・それはあり得ないか・・・・
第一、オレはもう金は残ってない・・・45組を救うのにほぼ全額使っちまってるんだ、つまり無一文・・・
そんなやつ放っておいたって、どうという事はないはずだ・・・
じゃあ遠藤か・・・? いやあんな手紙を寄越すくらいだ・・・・もうオレと会う気はないだろう・・・・
・・・とすると、気でも狂っちまったのか・・・・? オレは・・・・っ!?
おいおい・・・・っ 嘘だろっ・・・!?
畜生っ・・・! なんなんだ・・・・!
ふざけろっ・・・・! なんだってオレがこんな目に・・・・っ!
オレだけがこんな理不尽な目にっ・・・・! こんな幻覚みたいなっ・・・・!
カイジ、混乱・・・・っ! 分けのわからないこの状況に悪態をつき、自らの自我を疑いにかかる・・・・!
「・・・・・・・・」
座り込んで顔を青ざめながら沈黙するカイジに、どうすべきか戸惑うアリシア。病気かもしれないと思いいたるまで数分、慌てたアリシアはすぐさまカイジに尋ねる。
「あの、どこか痛いのですか?」
「え・・・?」
「随分と苦しそうなので、なにか怪我か病気でもしているのかと……」
「あの、すみません・・・・」
「はい、なんでしょうか?」
「ここは・・・・何処ですか・・・?」
「?」
「・・・・いや・・・・恥ずかしながら・・・ここが何処だか分からないんです・・・」
カイジは自我を疑うという不毛な作業はやめて、とりあえず現状を把握することに努めようとした。多分、ここは外国のどこかだろう。あの地獄のような地下でもなんでもないことは確かだ。大使館にでも助けを求めれば少なくとも日本に帰ることくらいはできるはずだろう。
それならっ・・・目の前のこの女性に頼る他ねえな・・・
コミュニケーションの一つや二つとっておかないとまずい・・・今後のためにも・・・
姑息・・・・! 自らを案じてくれる女性をすでに利用しようという魂胆・・・・・っ!
悪魔・・・っ! 悪魔の所業・・・!
だが・・・それでいい!
「いやぁ・・・ははは・・・そのぉ・・・ちょっと迷子っていうか・・・ははは・・」
「それは大変! どこか目印になるような場所は覚えていますか?」
よし・・・! これならいけるっ・・・・!
「えっと・・・役所だとか・・・大使館だとか・・・」
「それならサン・マルコ広場のあたりかしら。宇宙港も近いし、この町の中枢ですから」
「ああ・・! そこっ・・・! 多分、間違いなく・・・そこっ・・・!」
威勢よく起き上がり、叫ぶカイジ。
突然立ち上がったカイジに驚くアリシアとアリア社長。
「ぷ、ぷいにゅう~!?」
「じゃあ、案内……しましょうか?」
「いいんですか・・・っ!? ・・・・ありがとうございますっ・・・!」
カイジ、平身低頭・・・!全力で頭を垂れる・・・!
「お昼ごはんはもう食べました?」
「いや、まだですけど・・・・・」
「先程、アリア社長が御迷惑をおかけしてしまって・・・よかったら案内がてらお詫びも兼ねて御馳走させていただけませんか?」
「は・・・?」
顔だけ上げてポカンとするカイジ。
何を企んでやがる・・・この女・・・
飯を奢るだと・・・っ!? 見知らぬ男に・・・?
あり得ない・・・・っ! まずその選択はあり得ない・・・!
裏があるのか・・・・? ここがどこだか分からない以上・・・慎重に行くか・・・
幸い・・・腹は減ってない・・・断固拒否だっ・・・!
「お気持ちは大変うれしいが・・・・いま、お腹減っていなくて・・・」
至って弱腰・・・!
「そうですか、残念です。それじゃあサン・マルコ広場まで行きましょうか」
「はぁ・・・おねがいします・・・」
「ぷいにゅう~!」
カイジ・・・! 遂に足を踏み出すっ・・・・このネオ・ヴェネツィアでの第一歩・・・・っ!
これが始まり・・・!
水先案内録カイジの
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・
広場を出てサン・マルコ広場を目指す一行。長閑な春日和の中二人と一匹は歩く。
「そう言えば、自己紹介がまだでしたね」
そういって微笑むアリシア。
「私はARIAカンパニーで
「ぷいにゅ!」
「あ、ああ・・・・オレはカイジ・・・伊藤開司だ・・・」
二人は握手を交わす。
思わぬ手の柔らかさにカイジ、赤面・・・っ!
改めて目の前の女性を見れば、昨今、稀にみる美人・・・・っ!
これは直視できない・・・! 無頼漢には眩しすぎたっ・・・!
それもそのはず・・・何年も女性との関わりを持たず博打三昧・・・っ!
哀れなギャンブルジャンキー・・・・・!
カイジは自らのうろたえぶりを隠すために、横を歩く奇妙な生物について尋ねてみた。
「この・・・アリア社長は豚なのか・・・?」
「ぷぷぷいにゅ!」
「あらあら、ふふふ。違いますよ。
「へぇ~、そいつはすごいな・・・」
「水先案内店では青い瞳を持つ猫は特別なんです。航海の安全を祈願する風習ですね。それで観光会社では青い猫を象徴とするんですけど、ARIAカンパニーでは社長なんです」
「あくあねこか・・・・初めて聞いたな・・・」
「カイジさんは何処のご出身ですか?」
「オレは日本だが・・・」
「そうなんですか! それじゃあ知らなくてもしょうがないですね」
「はぁ・・・・」
日本ではみかけない猫だもんな・・・外国には結構いるのか・・・
いよいよここが外国であることが明確になってきたな・・・っ
さっきから歩いていて景色もまるでみたことのない様だし・・・・・
周りを歩いている奴らもほぼ外国人っ・・・・・中には東洋人らしき奴もいるようだが・・・・・
くそおっ・・・・! 何故オレはこんなところにいるんだ・・・っ!
静かに激昂するカイジ。今まで様々な艱難辛苦を舐めてきたカイジであったが、ここまで突拍子もない状況は初めてゆえに仕方がないだろう。
「そろそろ着きますよ」
「っ・・・ああっ・・・」
カイジは言葉をかけられ我にかえる。辺りを見回すと確かに中枢部なのだろう、広場は混雑していた。
「はい、着きました。ここがサン・マルコ広場です」
「ぷいにゅ!」
いつの間にかカイジの頭の上に乗っていたアリア社長が飛び降りる。
「・・・本当にすまなかった・・・恩に着るっ・・・」
「いえいえ、困った時はお互い様ですから」
「にゅ!」
大輪の向日葵を思わせる弾ける笑顔であった。
っ・・・・! ありがてぇ・・・! バカっ・・・バカ野郎っ・・・・良い人じゃねえか・・・っ! 美人のやさしいお姉さん・・・じゃねえかっ・・・!
「ありがとうございます・・・・! 優しいおねえさん、アリシアさんっ・・・! それじゃあ・・・・さよなら・・・っ!」
「あらあら、ふふふ。はい、きをつけて、さようなら」
「ぷいにゅ~!」
カイジは広場の中央に向かって駆けていった。
「なんだか不思議な方でしたね、カイジさん。ほっとけないていうか」
「ぷいにゅう・・・っ!」
「ふふふ、喋り方も独特で面白かったですものね」
「さっ!アリア社長、買い物に行きますよ!」
「ぷいにゅ!」
一方、アリシアとアリア社長も踵を返して市場の方へ向かっていったのだった。
・・・・・・・・・
・・・・・
・・
広場の中央付近に佇むカイジ。
とりあえず、その辺の誰かに大使館でも役所でも場所を訊くか・・・
やっぱりさっきのお姉さんに教えてもらうべきだったか・・・・?
疑心暗鬼であったカイジは結局、アリシアの最後の笑顔をみるまで信用できなかった。しかし、そうも言ってられない。もう終わったことである。この状況を打破するためにもほかの誰かに訊くしかないだろう。
「あのぉ~・・・すいません・・・・っ!」
・・・・・・・・・・・
役所の場所を教えてもらったカイジであったが、その脳裏には先程の言葉が巡っていた。
――大使館? そんなものはないよ、アクアは国境がないからね。
国境がない・・・・はぁ・・・? そんなわけないだろっ・・・・! みすぼらしいからってバカにしやがってっ・・・・クソがっ・・・
いくら平和な世界だろうと国境がないなんてこたぁ・・・ねえだろっ・・・!
まあいい・・・とりあえずここに入って聞きゃあわかんだろ・・・
カイジはぶつぶつ言いながら役所の扉をくぐった。
――夕刻。
カイジは広場の港側にある、サン・マルコの獅子の彫像の下で
空腹と、夕闇の風の冷たさで涙が零れてくる。
くそっ・・・! くそっ・・・! くそったれっ・・・・っ!!
なんってこった・・・! やっぱりオレは頭がおかくなったのか・・・!?
マンホーム・・・? 火星・・・? アクア・・・? はあ・・・!? なんだよそれ・・・・っ?
2301年・・・? なんだなんだ・・・? 未来かっ・・・ここはっ・・・!
タイムトラベルって・・・アホかっ・・・・!?
クソっ・・・・!
カイジは役所で大使館の場所と日本に帰る手立てを尋ねた。しかし、対応にあたった係員は不思議そうな眼でカイジを見つめていた。焦ったカイジは、とりあえず記憶喪失の振りをしてなんとかごまかそうとする。
すると担当者に大層心配され、病院を勧められたが、それはこの後で行くからと押し通し、とりあえず件の場所を尋ねる。するとまた不思議そうな眼を向けられた。
――ここはアクアですから大使館は存在しませんよ
ざわ・・・
ざわ・・・
同じ台詞を吐かれ少々イラツくカイジであったが、辛抱強く担当者にアクアについて尋ねた。担当者は記憶喪失なのを簡単に信じたのか、懇切丁寧にマンホームとアクアについて、そしてこのネオ・ヴェネツィアについて語ってくれた。最初は鼻で笑っていたが、様々な資料や窓から観える宇宙船を見せられた結果、カイジは次第に顔色が失せ、呆然としいった。
担当者の説明がすべて終わると、カイジは一言も喋らずに幽霊のようにその場を去っていった。
そして、現在に至る。
どうすりゃいいんだ・・・っ! こんなことってあり得るのかよっ・・・
意味不明っ・・・・意味不明すぎるだろうがっ・・・!
涙を流しながら顔を歪め、一人ぽつんと座っているカイジ。広場の人々は仕事帰りやら買い物帰りで家路を急ぐ人々ばかりである。誰も悄然と佇む男を気に留めない。
潮風が無頼漢の身体を静かに撫でる。
はあ・・・もしかしたら本当に夢かもしれない・・・・
もう一度寝てみるか・・・・そうすりゃ・・・戻れるかもしれない・・・
カイジ、ここにきて思考停止・・・! 一寸先のことすら考えることを止め、受け身・・・っ! 圧倒的受動っ・・・!
何も解決しない・・・! それでは、道は開けない・・・! 明日はやってこない・・・!
しかし一日にカイジのキャパシティを超えた尋常じゃない出来事が有り過ぎたのも事実。心身を休めるため空腹も寒さも忘れてまどろむ。
そこへ現れる二つの人影。近くの街燈に背を向けてカイジの前に立っている。
「カイジさん、カイジさん」
「ぷいにゅう!」
カイジの肩を揺らす二つの影は、アリシアとアリア社長であった。
第1話 終・・・・・・・・・・・・・・