朝の活気が街中に溢れだし、観光客の姿があちらこちらに見えはじめた頃、カイジはサン・マルコ広場へ続く河岸を歩いていた。
この辺りでは見かけないクヌギやケヤキの色づきかけた落ち葉がさやさやと風にゆられて足元に舞っている。どこからか運ばれてきたのだろうか。カイジはその一枚を手にとって、もてあそんでみた。しかし、すぐに飽きてふわっと掌からこぼれ落とす。カイジは鼻で笑うと、あたたかな日差しを投げかける太陽を仰ぎ見た。
いい天気だ・・・・・・まったくいい天気だ・・・・・
カイジは微かに口元に笑みを浮かべると、そんな自分に照れたように視線を海の向こうの荘厳な建物、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂に移した。聖堂のドームから飛び立った鳩が日差しに白く照り輝いて羽ばたいている。まるで一枚の絵画のような光景だ。
カイジは、その幻想的な一瞬を切り取るかのように、両手の指で四角を形作ってカメラのように覗き込んだ。
「パシャッ・・・・!」
カイジはそう呟くと、晴れやかな顔をして大きく伸びをした。
ネオ・ヴェネツィア絶好の一枚・・・・・頂いたぜ・・・・
「カイジくん、なにしてるの?」
くっ・・・・・!
その一言で、カイジの心に吹いていた爽やかな風が、唐突に生暖かいどんよりとしたものに変わってしまった。それは、形容しがたいがなにかふわふわとした恥ずかしい粒子を多量に含んでいるように思われた。秋なのに春みたいだった。
「いや・・・・別に・・・・」
痛々しすぎる現実逃避から帰ったきたカイジの前方には、首を傾げて不思議そうな顔をしているアテナが立っている。
アテナはカイジの隣まで戻ってくると、俯いている相手の顔を横から覗き込んだ。
「カイジくん、顔赤いよ。大丈夫?」
「うるせえな・・・・ほっとけよ・・」
「そうなの? でも、さっきは何してたの?」
カイジはその問いを黙殺すると、ずんずんと早歩きで進みだした。その後ろを慌ててアテナが追いかける
「待って。なんで先に行くの。さっき一緒に行くって言ったよ」
「・・・・・」
ぴたりと立ち止まったカイジは苦虫を噛み潰したような表情で、再び隣に来たアテナを見つめた。アテナの何も考えてなさそうな表情が、わずかに綻ぶ。
カイジはため息をついた。
クソッ・・・・能天気・・・コイツはホント、ノーテンキ・・・っ!
どうせ何を言っても暖簾に腕押しっ・・・! もういい・・・・
「?」
「好きにしてくれ・・・・・」
「カイジくん方向音痴じゃない? 手つなぐ?」
「つながねえよっ・・・・アホか・・・・っ!」
「ふふっ」
カイジはあきらめた。
昼間から、妙齢の女性と一緒に妙齢の女性の誕生日プレゼントを買いに行くという、鼻血が出るようなうれしはずかしイベントを回避するのは、もう絶望的だとあきらめた。性に合わないどころの騒ぎではないが、こうなったら腹をくくるしかないとあきらめた。そして、今日一日、天然ドジの子とひっきりなしにふざけた会話を続けることになるのだろうと心底あきらめた。
はあ・・・・なんでこんなことに・・・・・
水無のやつがあんな顔するもんだから・・・・反則だろっ・・・アレは・・・っ!
「空気が澄んでいて気持ちがいいわ。買い物日和だね」
「・・・・・」
「ほらみてカイジくん。あそこで、おじさんが魚釣りをしているよ。何が釣れるのかな」
「・・・・・」
「わあ! 大きな雲! ねえ、あれお鍋に見えない? いやゾウさんかしら――」
「・・・・・」
とめどなくお喋りするアテナを無視しながら、カイジは先ほどのことを思い返していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「カイジさん」
「な、なんだよ・・・・」
「誕生日プレゼント……買いたくないんですか?」
カイジは、デッキの上に出てきた灯里が存外深刻そうな顔をしていることに驚いた。そのため、うまく返事ができなかった。
「きっと、ううん。絶対喜びますよ、晃さん」
「なんでお前にわかるんだよ・・・・んなこと・・・」
「わかりますよ! 誰だってプレゼントを貰ったら嬉しいんですっ。それが親しい人だったらなおさらです」
「親しい人ってお前なあ・・・・オレと晃は別に・・・」
カイジは苦笑した。
自分と晃は親しい間柄ではない。ただの、ちょっと交わる機会が多い同業種の知り合い程度だと思っている。だから、灯里の発言はしっくりこなかった。
とはいえ、誕生日プレゼントを買うのはやぶさかではなかった。しかし、それをわざわざアテナと一緒に買いに行く必要がどこにあるのか。それとこれとは別の話だ。ネットで注文すれば
と、以上のようなことを考えていたカイジだったが、本当はただ物凄く恥ずかしかっただけである。ようするに、適当な御託を並べて言い訳を探していたのだ。
「そもそも親しい人だからって誕生日プレゼントを渡さなきゃならねえ・・・・なんて道理があるのかよ・・・・ないだろ・・・・」
「カイジさん……」
「うっ・・・・」
灯里は悲しげに目を伏せて、胸の前で祈るように手を握っていた。
なんちゅう顔してんだっ・・・・悪者っ・・・これじゃあ俺が悪者っ・・・・
「お、おい・・・水無・・・」
灯里は上目遣いにカイジを見て、もう一度「絶対喜ぶと思います」と告げた。
「だからアテナさんと一緒にプレゼントを選びに行ってきてください」
「ぷいにゅう~」
脚にしがみついているアリア社長も追い打ちをかけるように鳴く。
灯里の真剣な表情や眼差しは、晩夏の火送りの日を思い起こさせた。
カイジは大きくため息をつく。もはや断れる状況ではなかった。
「わかったわかった・・・・行くよ・・・・行けばいいんだろっ・・・・」
「カイジさん!」
「くそっ・・・・なんでオレがプレゼントなんて・・・・っ」
胸に飛び込んできたアリア社長を抱きしめながら顔を輝かせて喜ぶ灯里を尻目に、カイジは眉を寄せた。
笑ってやがるっ・・・! さっきまであんなに泣きそうな顔してたのに・・・
演技かっ・・・くそっ・・・・謀ったなコイツ・・・・!
無論、そんなわけがあるまい。
カイジもわかってはいたが、どうにも騙されたような気持ちがして納得がいかなかった。
「じゃああとは頼むぞ・・・・店のほう・・・・」
「はひっ! 任せてください!」
「へっ・・・オレがいないと大変だろうなあ・・・あーかわいそっ・・・」
「大丈夫ですっ。カイジさんの分も頑張りますからっ」
「どうだかな・・・・サボったりするんだろうなあ・・・・」
「しませんよ! ほらっ、それじゃあアテナさんを呼びに行きましょう!」
そう言ってカイジの後ろに回り込むとその背を押してデッキの上を歩いていく灯里。
カイジは鬱陶しそうにしながらも、されるがままに店のドアを開けて中へ入る。しょんぼりと肩を落としているアテナを見ると声をかけた。
「ほれ・・・! なにしょぼくれてやがるんだよ・・・・行くぞ・・・」
「え?」
「行くんだよ・・・・プレゼントを買いにっ・・・! 置いてくぞっ・・・!」
「……一緒に?」
「嫌なら一人でいけよ・・・・」
「ううん、いこっ。一緒に」
なんでこんなことにっ・・・・さっさと終わらせてやるっ・・・・
「いってらっしゃーーい!」
「ぷいにゅうー」
こうしてカイジは、灯里とアリア社長の元気良い声に送られながら、アテナを伴ってARIAカンパニーを出立したのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
甘いっ・・・・オレは甘すぎるっ・・・・婦女子なんて放っておくのが男子たるものの務めじゃねえのか・・・・・そうだろっ・・・!?
自分の流されやすさに苛立ちを隠せないカイジ。しかし、どうにも灯里には逆らえないところがあり、それは火送りの日の彼女の真摯な気持ちが影響しているようであった。あんな風に気持ちを吐露して、好意を表明されればどうしたって頼みには甘くなってしまうというものである。
「ねえ聞いてる?」
「あ・・・? 聞いてなかった・・・・まったく・・・」
「もうっ、人が話してるんだからちゃんと聞かなきゃダメだよ」
カイジが物思いに沈んでいる間、何度も話しかけていたアテナが口を尖らせて言った。
「どんなものをプレゼントしたいとか、何か考えてるの?」
「いや・・・・全然・・・」
「うーん、それじゃあ考えるところから始めないとね」
「適当に選んでくれ・・・それでいい・・・・」
「カイジくんっ」
アテナが幾分か鋭い調子で言った。カイジは驚いて体をびくりと震わせる。
「な、なになにっ・・・・? いきなりデカい声出すなよ・・・っ」
「ちゃんと自分で決めないとダメだよ。誕生日プレゼントなんだから心を込めて選ぶの。それじゃなきゃ意味ないよ。他人が選んだ物を貰ったって嬉しくない」
「お、おう・・・・」
「わかった?」
「はい・・・」
素直に返事をするカイジ。いつもどこか抜けた調子のアテナがひどく真面目な表情だったのが意外だったらしい。
アテナは納得したのかころりと表情を変えた。穏やかに言う。
「じゃあ、考えましょう」
「はい・・・」
二人は晃へのプレゼントを、ああでもないこうでもない、と意見を交換しながら町の中心部へと歩いていく。
日はまだ高い。風は凪いで、空気は澄んでいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネオ・ヴェネツィアの主要なショッピング施設を歩き回り、足の疲れもピークに達しようとしていたころ、ようやく二人は納得のいくプレゼントを買うことができた。時刻は15時過ぎ。空はまだ明るい。
カイジとアテナの二人は、心地よい達成感と疲労を抱えながら目についた喫茶店のテラス席に腰を落ち着けた。すぐ近くを水路が走っていて、水先案内人の朗らかな声とともにゴンドラが小さな橋をくぐり抜けていた。
「……絶対、晃ちゃん喜ぶだろうな」
「お姉さんっ・・・・コーラッ・・・! キンキンに冷えたやつちょうだい・・・!」
しんみりとした調子で、でもどこか嬉しそうに呟くアテナをよそに、かなり大きな声で注文を告げるカイジ。
「おいアテナ・・・・お前も早く注文してくれ・・・・」
「え? あっ、ごめん! えっと私は……えーっと」
「すみません・・・・この人のは後でいいんで・・・・先にオレのだけ頼む・・・」
女性店員にそう言うと、カイジは煙草に火をつけた。アテナはあたふたとメニューをめくっている。店員がいなくなったことには気づいていないようだった。しばらくして、「ラテ・マキアートください」と顔を上げたときには、丁度カイジのコーラが到着していた。
「もうっ、ヒドイよ。さきに注文しちゃうなんて」
「おそすぎるお前が悪いだろ・・・・・うまい! うますぎるッ・・・やっぱりこれ・・・疲れた体に炭酸と糖分ッ・・・・コーラ一択っ・・・」
そんなこんなでアテナのドリンクもやってきて、二人は本日の成果をしめやかに祝した。グラスとカップをコツンと打ち合わせる。
しばらくのあいだとりとめのない話をしていた二人であったが、少しの間のあと、アテナが誰にともなくといった様子で呟いた。
「みんな忙しそうだけど、当日、ちゃんと集まれればいいな」
「いつだっけ・・・?」
「今月の29日」
アテナの返事に、カイジは一瞬考えこんだが、すぐに表情を明るくさせた
「たしか・・・その日はこの時間くらいから空いてたはずだぞ・・・・」
「うんっ。一応アリシアちゃんからそういうふうに聞いてるんだけどね」
「なんだよ・・・」
アテナの表情は事情とは反対に曇っている。
「いつもね、埋まることが多いの。前もって空けておいても、どうしても外せない用事ができちゃうことって、やっぱりあるから」
「ふぅん・・・・」
「去年もそうだったんだ」
「へえ・・・」
「うーん……昔は3人一緒に必ずお祝いしてたんだけどなあ」
遠い目をしてアテナはため息をついた。カイジは黙って煙草をふかしながらその様子を眺めている。
「大人になるってそういうことだけど……でもね、特別な時は一緒に過ごしたいなって、そう思うの。わがままなのかな」
「えらく悲観的だな・・・・まだ今年もうまくいかないって決まったわけじゃないだろ・・」
「……うん、でも……」
いつもふわふわと微笑んでいることが多いアテナだけに、暗い顔を見るのはカイジとしても気分がいいものではなかった。だから、なんの根拠もなかったが、とりあえずカイジは「なんとかなるだろ・・・」と声をかけて心配を吹き飛ばすように笑った。
「そうかな……けどカイジくんがそう言うと、なんだかそんな気がしてくる。不思議」
「いや・・・保証はできないけどな・・・あとから文句は言うなよ・・・ハハハッ・・・・!」
「っ! あはははっ」
「ハハハッ・・・!」
「あははは」
「ウフフッ・・・・!」
二人で馬鹿みたいに笑っていた。ゴンドラに乗っていた観光客が不審な視線を送っている。女性店員が気味悪げに空いたグラスを下げた。二人はようやく笑いを収めた。
「もしダメでも・・・来年がある・・・・そんな気持ちでいこう・・・」
「それはちょっとヤだなあ」
二人は喫茶店を後にした。プレゼントで財布をからっぽにしていたカイジは、情けないことにコーラの代金すら払えずアテナに奢らせるという恥をかいた。余談だが、借りを先延ばしにしたくなかったカイジは、その日の夜にわざわざオレンジぷらねっとまで返しに行ったという。
「帰るか・・・・」
「うん。今日はありがとう、カイジくん」
「・・・・こっちこそ助かったよ・・・・一人じゃたぶん無理だった・・・・」
「……うれしいな、カイジくんがそう言ってくると。誘ってよかった」
「アリシアさんに感謝だな・・・・っ!」
「ふふっ、そうだね」
目じりを下げてはにかんだアテナは、晃への誕生日プレゼントの入った紙袋を大切そうに抱えながら、オレンジぷらねっとへと帰っていった。
カイジはマルボロをくわえると、アテナの後姿をぼんやりと見つめた。いくら無頼漢といえど、大仰な二つ名を背負った馴染みの三人の仲の良さを軽薄なものだとは思わなかった。太く固い絆で三人は結ばれていたのだ。叶うのなら誰一人欠けることなく、短時間でもいいから誕生日を一緒に過ごさせてやりたいと、そう思った。そうあるべきだった。
柄でもねえ・・・・なんでオレがこんなこと・・・・
カイジは自分のずいぶんとぬるい考えに羞恥を感じた。しかし、そう感じていながらも、じつのところ無意識のうちでは別段不愉快でもなかったということにカイジは気づかなかった。
まあいいか・・・・これでアリシアさんの顔も立ったことだし・・・・
踵を返して帰路につく。カイジのその足取りは、疲れていながらも軽やかだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ぷいにゅう~~っ」
「社長・・・美味いのはわかったから・・・っ! オレの膝の上からどいてくださいよっ・・」
「あらあら、うふふ」
「アリア社長は本当にカイジさんが好きですねえ」
和気あいあいとディナーを囲むARIAカンパニーの面々。今晩は一週間ぶりにアリシアを交えての食事ということもあって、テーブルには豪勢な料理が並んでいた。当代随一の水先案内人であるアリシアは常に時間に追われる立場にあったが、できる限りカイジたちと食卓を囲むようにしていた。それが忙しい彼女にとってのリラックス法でもあったのだ。
アリシアはいたずらっぽい笑みを浮かべると、唐突にこんなことを言った。
「アテナちゃんから聞いたわよ~。カイジくんとデート楽しかったって」
思わずカイジは真顔で「は・・・?」と呟いた。スプーンを持った手が中空に固まっている。
「えー! カイジさんデートだったんですか!?」
「ぷいにゅー」
「うふふ」
「・・・・・」
少し間をおいて、ようやく気を取り直したのか、カイジはいたって冷静に言った。
「よしてくださいよ・・・・・アリシアさんも人が悪いっスね・・・・」
「あらあら、ごめんなさいね。でも、楽しかったのは本当だと思うわ。アテナちゃんの声、すごく弾んでたから」
「そうっスか・・・まあ・・・とりあえずプレゼントは買えました・・・アリシアさんとアテナのおかげっス・・・」
「晃ちゃん、きっと喜ぶわ」
「カイジさん、やりましたね!」
「ぷいにゅう!」
「ははは・・・・」
なんともこそばゆい会話にカイジは苦笑いでお茶を濁した。
「それで当日は大丈夫そうっスか・・・・? 一応予定では夕方は空いてますけど・・・」
「ええ。いまのところは問題なさそうよ」
「よかったですねえ。忙しい三人がぴったり同じ時間にオフなんて、これは奇跡ですよ!」
「ふふふ、灯里ちゃんは大げさね。でも、たしかにそうかもしれないわね」
「そうですよ! きっと神様も晃さんの誕生日を祝福しているんじゃないでしょうか」
おいおい神様って・・・・マジかコイツ・・・・!
これまで何度も灯里の突拍子もない発言には驚かされてきたカイジであったが、ついには神まで引っ張ってきたその類まれなる楽天さに呆れて物も言えなくなってしまった。そしてもはやそのユルさに感動すら覚えるのであった。
それはともかく、ほの暖かい歓談は夜遅くまで続いた。
互いに切磋琢磨しながら楽しいときもつらいときもともに分かち合ってきた幼馴染の誕生日をみんなで祝えることは、アリシアにとって本当に嬉しいことらしかった。いつにも増してはしゃいでいるアリシアを前に灯里やアリア社長も嬉しそうだったし、そして、なんだかんだと言いつつも、カイジだってまんざらではなかった。誕生日を祝うだの祝われるだのなんて遠い昔の出来事だったが、色褪せた過去の中から、じんわりと無垢な頃の記憶がよみがえってくるようであった。
やさしげな笑みを浮かべるアリシアに、カイジは力強く言った。
「ぜひ楽しんできてください・・・・っ!」
「うんっ」
晃の誕生日はもうすぐそこだった。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・
楽しみにしていないと言えば嘘になる。でも心の奥底では、「どうせ今年も……」という投げやりな気持ちが沈んでいた。もう私たちは大人なんだ。あの頃みたいに気楽に生きることはできない。私が自由をねだれば、その分誰かに迷惑がかかる。それも多大な迷惑だろう。いつの間にか、気が付けばそれだけの立場に置かれていたのだ。人の上に立つということは、立っている自分の足元に対して責任を持つということ。綺麗ごとじゃすまされない。自分の為、そして周りの為にも、己を殺して職務を全うしなければならないのだ。たとえ大事な日だって、あきらめなければならないことだってあるのだ。どんなに寂しくとも……。
でも――だからその日、全員であの頃みたいに集まれると聞いて、心底嬉しかった。自慢じゃないが水先案内人の中でもトップに位する三人だからこそ、たとえ短時間でも、ちょうどその日に集まれるのは奇跡的ともいえた。普段から頑張っている私へのご褒美だとしたら、神様は粋な計らいをするものだ。
もう私たちは小さな女の子じゃない。水の三大妖精と呼ばれていることにだって誇りを感じる。べつに、あの頃に戻りたいって思っているわけでじゃなくて――けれど、それでも、やっぱり三人で会いたい日はあるんだ。本当は私の誕生日なんかどうだっていい。ただ、三人であの頃みたいに、シングルだった頃みたいに、一緒に笑いあえたら……それだけでいいんだ。だって、それがどれほど尊いことなのか、どれほど大切なことなのか、どれほどかけがえのないことなのか……。
――いまだからこそ、私はその輝く価値がわかったんだ。忙しい日々に見過ごされてきた、その本当の価値が。
うん。だから、私は本当に、嬉しかったんだ――。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・
暑くも寒くもない、肌に触れる風が心地よいこの時期は、どこの観光地であろうとも人出があるわけだが、それはネオ・ヴェネツィアでこそ顕著であった。地球ではもう見られない在りし日のヴェネツィアの姿を一目見ようと、星間飛行で多くの人間がこの町を訪れる。広場に、路地に、教会に、市場に、橋に、そして水路や川には多くの観光客がひしめき合っていた。当然、アイドル稼業である水先案内人の需要は高まるばかり。町を巡る水路には各企業の水先案内人たちが、目を輝かせて首をあちこちに振る客を乗せて、必死に観光案内をこなしていた。
しかしながら、この時期に水先案内人が忙しくなるとは言っても、業界のトップである水の三大妖精ともなれば普段となんら変わることはない。
「ふぅ……とりあえず午前の予約はこれでおしまいかな」
そう言って腕時計をのぞいた
近くのカフェで軽食でも取ろう、そう思ってゴンドラを遊歩道への石段に寄せたとき、晃は見知った顔を発見した。どうやら、その相手もこちらへ気づいたらしい。失礼なことに、あからさまに眉を寄せていた。おそらくこの町で水の三大妖精のひとりに向かってそんな顔をするのはこの男くらいであろう。
乙女に対してあんな表情をするなんて……これは許しておけないな。
咄嗟に足早で視界から消えようとする相手に、晃はゾッとするような猫撫で声をあげた。
「待てカイジ。さもないと、どうなるかわからんぞ」
ギクリと体を硬直させたその男、カイジは盛大なため息を吐くとやれやれとばかりに肩をすくめた。
「腹の立つ挨拶だな。私にばったり会えてうれしくないのか?」
カイジは鼻で笑ってから、可哀そうなものを見るような目をした。晃は自分で言ってて恥ずかしくなったのか、あるいはカイジの反応に憤ったのか、顔を赤らめてずんずんと石段を上がっていく。
「やあ、カイジ。なにしてるんだ? 暇だろ? 暇ならランチに付き合いたまえ。な?」
「何か言わせろっ・・・・・!」
カイジの目の前まで来ると、晃はわずかに見上げる姿勢をとった。いまさらながら、晃はカイジの背の高さを意外に思った。普段の頼りなさから、勝手に低く見積もりすぎていたらしい。この身長差は悪くないな、なぜかそんなことを晃はふと考えた。
カイジはくわえていた火のついてない煙草をボックスの中に戻した。
「オレもメシにいく・・・・が、お前と行くつもりはないっ・・・・・断固・・・・っ!」
「なぜだ?」
「は・・・? なぜって・・・・それは聞くなよ・・・・お断りっ・・それで終いだろ・・・・」
「断る理由が気になるんだ」
「いや・・・・それはだな・・・・まあなんというか・・・・つまりその・・・・」
「よし! じゃあ、美味いフォカッチャを出す店を教えてやろう。特別だぞ?」
「バカッ・・・まだオレは・・・・おいっ引っ張るな・・・・伸びちゃうだろうがっ・・・」
結局、断り切れなかったカイジを連れて、晃は細い路地に店を構えるレストランを訪れた。店内はランチタイム終了ギリギリとあって閑散としていた。二人は店の奥、水路沿いに張り出した出窓のそばに座った。窓から見える秋の空はきれいに晴れ渡っている。
名物だというフォカッチャや牛肉のトマト煮、サラダなどを注文して、食前に紅茶を頼んだ。
「この時間にランチってことは、そっちもかなり忙しいんだな」
「まあな・・・・といっても本当に忙しいのはアリシアさんなんだが・・・・」
「そりゃそうだ。灯里ちゃんはどうだ? プリマへの道は」
「あー・・・・あいつがプリマになっている姿は・・・・ちょっとまだ想像できねえ・・・」
「ふふっ、そうか。藍華のやつもまだまだだなあ。アテナのとこの子が一番早いかもしれないな」
「アリスか・・・・クソ生意気だが・・・・まあ見所がないわけではない・・・・」
「なんでそんなに偉そうなんだよ、おまえは」
料理が届いた。
フォカッチャを頬張ったカイジは、そのあまりの熱さに舌を火傷したり、飲んでいたスープに噎せて、被害を受けた晃に殴られたりと賑やかな食事であった。
食後のコーヒーがやって来た。二人は一息つきながら、会話を続ける。どことなく楽しげな晃の様子に、誕生日が近くて浮かれてんなコイツ、とカイジは思ったようだった。
特にサプライズを企画しているわけでもないからか、カイジはその話を振った。
「そういえば集まるんだろ29日・・・・・大丈夫なのか予定は・・・・」
「うむ、おかげさまでな」
晃は思わず出てしまったかのような笑みを浮かべて答えた。
「あらら・・・めっちゃ嬉しそうじゃん・・・・ハハハ・・・・」
「むむっ。べ、べつにそんなことはないぞ」
「いや顔に書いてあるから・・・・浮かれてるの丸出しだから・・・・」
「そ、そう? おかしいな。私はクールビューティなんだが……」
「自分で言ってちゃ世話ねえぜ・・・・くーるびゅーてぃさん・・・・っ!」
「う、うるさい」
頬を朱色に染めると、晃はストローの空き袋をカイジに投げつける。カイジは悠々とキャッチしようとしたが、それはものの見事に片目に直撃して悶えるハメになった。
「とにかくっ・・・・アテナもアリシアさんも楽しみにしていたからな・・・・遅れずに集まれよ・・・・」
「なんだカイジ、気にかけてくれてるのか?」
「ち、ちげえよ・・・・ただオレは、二人がものすごく楽しみにしているみたいだったから――」
「わかってるよ。ありがとう」
「お、おう・・・」
「そのついでと言ってはなんだけど……もしかしてカイジからもプレゼントがあったりして?」
「あるが・・・・?」
「え……あるの?」
カイジは平然と頷いていたが、いささか予想外だったのか晃は口をぽかんと開けて驚いていた。
そういえば、そういうやつだったなカイジって。
あの時だって……私、かなりびっくりしたっけ。
晃はネオ・ヴェネツィアがアクア・アルタで水没したボッコロの日を思い出して、頬を緩ませた。女々しいかもしれないが、あのバラはドライフラワーにしてちゃんと保存してある。べつに深い意味はないが、なんとなくそうしたかったのだ。
晃はふわりと微笑んだ。
「そっか。じゃあ楽しみにしてる」
「おいおい・・・・過度な期待はするなよ・・・・オレだって高給取りじゃねえんだから・・・っ!」
「……なあカイジ。そういうときは黙って親指を立てるくらいが、イイ男だと思わないか?」
「はあ・・・・?」
「ごめん、なんでもない。忘れてくれ」
レストランを出ると大きく伸びをする。カイジを誘ってよかった、晃は素直にそう思った。それに、わかってはいたがアリシアやアテナが楽しみにしてくれていることにも、胸が暖かくなるようだった。
これでまだまだ頑張れる。
カイジの言った通りだな、たぶん私は浮かれているらしい。でも、いいんだ、これで。だって嬉しんだから、本当に。
よしっ、午後も張り切っていこう!
遅れて店から出てきたカイジの背中を叩く。
「まだちょっと時間があるぞ私は! ARIAカンパニーまで送って行ってあげよう」
ふたたび顔をしかめたカイジを笑い飛ばして、晃はゴンドラに乗り込む。なんだか久しぶりに笑った気がした。誕生日が、三人で会える日が待ち遠しかった。それはもう間近だった。
そして、その日、晃はカイジを送る途中に寄った姫屋で、誕生日の半休が急遽潰れてしまったことを知るのだった。
後編へ続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・