ネオ・ヴェネツィアで数年に一度開かれるお祭り《舟の火送り》
浮き足立つウンディーネたちと同様、カイジも浮かれ気味であった・・
しかし、前夜祭で訪れた浮き島で思いもよらぬ事態に遭遇する・・・・・・!
それはイレギュラーな存在において避けては通れぬ自己への回帰・・・・!
想起に次ぐ想起・・・・省察に次ぐ省察・・・・
そんな数多くの機会を無視し続けたカイジを襲ったものは
懐古の念・・・・っ!
この悪魔的な想念は、共に暮らす人たちとの宿命的な隔絶をカイジに植えつける・・・・・!
無意味な思考上の詮索をカイジに強要する・・・・!
とはいえそんなものは迷妄なのだ・・・・! どこの馬の骨ともつかぬ降って沸いた虚妄の詐欺師なのだ・・・・!
しかし今のカイジにはそれが払えないっ・・・・!
払えないのであった・・・・っ!
浮き島からARIAカンパニーに戻ったカイジは、一人デッキで物思いに沈んでいた。
ネオ・ヴェネツィアにおいて最も天空に近い場所でカイジが感じたのは、あの地獄のような日々へのノスタルジーであった。
浸かりすぎていた・・・・この空気に・・・
それゆえ忘れていたっ・・・・オレが何者であるかを・・・!
そしてそのノスタルジーは、当然の帰結として現在の境遇に対する懐疑へと変わっていく。
カイジはARIAカンパニーに入社したその日から、過去と現在を目の前に並べて真剣に考えるということをしてこなかった。もちろん、その延長線上にある未来についてもなおさらのことである。折に触れて、過去を回想する機会は確かにあったが、その先に進んで今一度、自分の置かれた境遇を吟味するには至らなかったのだ。
精一杯に生きていくという標榜を掲げたはいいが、その実、それは惰性的な生活への免罪符に過ぎない。思考を伴わない生活は、栄養の不足した若木のようなもので、嵐の前に一瞬でなぎ倒されてしまう。その瞬間が、このときカイジには訪れていたのだった。
違う・・・・そんなもん明白じゃねえか・・・
オレとあの人たちは違うんだ・・・・! 出自から経験、考え方までも・・・まるで別の世界の人間のように違うじゃねえか・・・・・
そうさっ・・・・! もともと別の星の人間だっ・・・ハハハ・・・
・・・・・・・
それに考えてみりゃ・・・・なんの脈絡もなく意味不明に放り出された・・・
つまりあり得るんだ・・・っ! 同じようにあそこに戻ることだって・・・・
だったらっ・・・・・・・・ぐっ・・・・
でも・・・・・・くそっ・・・・・!
滝つぼの木の葉のように沈んでは浮かびを繰り返す思考。しかし、本質的なものはただ一つであった。それゆえにカイジは迷っていた。要するに恐れていたのだ、自分の処遇と猶予について、そしてそれらに伴う感情の置き場についても。
とどのつまりオレは・・――
「……カイジさん?」
「・・・・っ!」
「どうしたんですか? こんな暗いところで」
「え・・・い、いや別に・・・・」
灯里たちが帰ってきたことによって水を差された格好になったが、幾分安堵するカイジ。しかし、カイジはここではっきりさせておく必要があったのかもしれない。少なくともそうしておけば、本質の周りを漂う瑣末な雑事に悩まされることはない。
「カイジさん、どうして先に帰っちゃったんです? みんな心配してましたよ」
「あ、ああ・・・・・ちょっとな・・・・」
「体調悪いんですか?元気ないみたいだし……」
「違うっ違うっ・・・・! そんなんじゃないって・・・・ハハハっ・・・」
「そうですか……あっそうだっ!これお土産です、藍華ちゃんと私から」
灯里はりんご飴とわた菓子を取り出すとそういった。
「はあ・・・・どうも・・・」
「通りませんでしたか? もう屋台が出てましたよ! 賑わってたなあ~~」
「・・・・・・・・」
「明日は夜、サン・マルコ広場に集合するんだそうです。晃さんたちも来るらしくて――」
「すまんが・・・やっぱり少し気分が悪いから・・・・・もう寝るわ・・・・」
「あ、はい……本当に大丈夫ですか?」
「ああ心配ないって・・・・これ明日頂きますんで・・・じゃおやすみ・・・・」
そう残すと、カイジはドアを開けて中へ入っていった。
「どうしちゃったんですかねカイジさん……昼間はなんともなさそうだったのに」
「ぷいにゅう~~」
「明日の火送り大丈夫かな……」
「にゅう」
心配そうにドアを見つめる灯里とアリア社長。体調が悪いというよりは、なにか思い悩んでいるように、灯里には感じられた。浮き島を散策しているときはそんな気配を微塵も感じなかっただけに不思議でしょうがなかったが、考えてみればカイジについて知らないことばかりな自分がそう簡単に相手の気分を推し量れるわけではないと思い改めた。
「明日になってもまだ元気がないようだったら、私の用事に巻き込んじゃいましょうっ!」
「ぷいにゅうっ!」
そう積極的に捉えることにして、灯里とアリア社長も就寝の準備に向かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
翌朝、カイジは随分早くに目覚めた。
昨夜は不安と疑心によってなかなか寝付けなかったカイジではあったが、だからといってゆっくり寝ていられるわけでもなく、なにか正体不明なものに追われるような切迫した夢に目を覚まし、一時的に浅い眠りにつく、その繰り返しであった。結果、寝不足気味であり、目はどんよりと曇ってその下にはくまが刻まれていた。もともとの怪しさに加えて、もはや廃人にしか見えない風貌である。
カイジは重い体に気力を入れようとデッキに出てコーヒーを飲みながら、沖合いを見つめた。曇天の下、朝の漁だろうか、漁船がいくつも点在していた。
魚獲ってらあ・・・・・・・朝早くからご苦労様・・・・・・
わざわざこんな日まで労働とは・・・・・
ん・・・・・? こんな日・・・・・
うっ・・・! ・・そうか・・・・
寝覚めで散漫になっていた思考が徐々にクリアになっていくにつれて、昨夜の感覚も甦ってくる。不安、焦燥、葛藤。すぐさまカイジの心は、卑屈なそれへと変貌を遂げてしまった。
カイジは欄干に額を押し付けて目を強く瞑った。
・・・・・余計なことをっ・・・・・
しかし・・・・・それでも頭には入れておかなくちゃ駄目っ・・・・
そうじゃなきゃ納得がつかない・・・・
でももしかしたら・・・・・・いやいやっそんなことは・・・・
・・・・・・くそっ・・・・!
次々に湧き上がる想念に混乱するカイジ。しかし、一歩も本質へは近づいておらず堂々巡り状態であった。
カイジは、欄干から顔を上げると軽く頭を振った。すると、頭の奥のほうが鈍く痛んでいるのを感じた。睡眠不足と精神の磨耗によって心身ともに疲労を感じたカイジは、もう一度眠ろうと考え、混乱する頭を抱えてふらふらとドアを開けた。コーヒーカップをキッチンへ置いて、寝床であるソファーへ向かう。しかし、そこでカイジは足を止めた。
水無と社長には顔を合わせたくねえな・・・・・・
・・・仕方ねえ・・・・・
そう思うが早いか、カイジは財布を取ると薄墨色をした空模様の外へと出て行った。
カイジがふらふらと外出してから数刻後、目を覚ました灯里は着替えを済ませると寝ぼけ眼のアリア社長を伴って二階へと降りてきた。
「おはようございますっ! ……ってあれ?」
「にゅう?」
平生であれば気の抜けた声で返事が来るはずの朝が、その日は妙に静まりかえっていた。一応、デッキも確認してみたが、見当たらない。
「カイジさん、出掛けたみたいですね」
「ぷいにゅう」
「具合悪そうだったけど大丈夫なのかな」
灯里は桟橋へと続くドアを見つめながら呟いた。
「街へ買い物に行くときに探してみましょうか」
「にゅっ」
「それじゃあ朝ごはんですね。カイジさん、朝ごはん食べたのかな~~」
カイジを案じながらも、灯里は朝食の準備を始めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秋の気配が近づいているとはいえ、まだまだ暑さの残る晩夏ではあったが、太陽の翳った日は随分と過ごしやすくなっていた。アリシアは、自宅に鍵をかけると空を見上げた。薄い雲が何層にも重なったような天気である。祭りが催されている今日は降らないで欲しいと願いながら、アリシアはARIAカンパニーへと向かった。
途中、水路脇の遊歩道を歩いていると、目先の小さな橋から見覚えのあるゴンドラの舳先が姿を現した。
「おっ、アリシアっ」
続いて現れたのは果たして晃であった。
「あらあら、晃ちゃん。奇遇ね」
「そうだな。これから仕事か?」
そう言うと晃はゴンドラを水路端に寄せた。
「ううん、一度ARIAカンパニーに寄ってからゴンドラ協会の会合なの」
「ふぅん。……乗ってくか? ARIAカンパニーまで」
「いいの? 仕事なんじゃないの晃ちゃん」
「まあな。丁度、お客様との待ち合わせ場所に向かうところだ。方向が同じだし、ついでだ」
「ふふふ、それじゃあお願いしようかしら」
アリシアは晃の手を借りてゴンドラに乗り込む。ゴンドラは静かに水面を滑り始めた。
少しすると、大きな水路に出た。そこにはすでに多くのゴンドラが行き交っている。個人はもちろん、配達や移動式店舗、ウンディーネの姿も見えた。
「……いつもより人が多いな」
「そうね、やっぱりお祭りの影響かしら」
「だろうな。雨が降らなければいいが……それはそうと、今夜灯里ちゃんたちも来るんだろ?」
「ええ、もちろん」
「そうか。てことはカイジも来るんだな? あいつ道端で会ってもコソコソしやがって、今日はたっぷり語り合おうと思ってたんだ」
「……カイジくん、来るとは思うんだけど……」
「? けど、なんだ?」
アリシアは眉を寄せると頬に手を当てた。
「うん。ほら、昨日の花火。晃ちゃんも誘ったけど用事があるって来られなかったでしょ」
「ああ。確か藍華が浮かれてたな。浮き島に行ったんだってな」
「そうなの。その帰りのときに――」
昨日の夜、花火を観賞し終えた一行は、前夜祭ということで出店が連なるサン・マルコ広場を覗いてみることにした。浮き島に住む暁も、祭りの間は地上の友人の家に泊まることにしていたらしく、是非とも一緒にと張り切っていた。帰りのロープウェイでは、そんな話で盛り上がっていたのだが、いざ降りて広場へ向かおうという段階になって、突然、思いつめた表情のカイジが先に帰ると申し出たのだ。そして、それきり何も言わずに歩いて去ってしまったのである。
アリシアは、花火が終わった直後から何も喋らずに考え込んでいるカイジが気になってはいたのだが、どうすることも出来ず、結局、今朝になって一度様子を見にいこうと思ったのである。
「なるほどな……しかし、いつも仏頂面なあいつのことだから単に気分でも悪かっただけじゃないのか?」
「うん。それでも、ね」
「……ったく、親切なんだかお節介なんだか分からないな」
「ふふふっ、それは晃ちゃんも同じでしょ」
アリシアはにっこりと微笑むと晃の顔を見上げた。
「なっ、私は単純に――」
「ここでいいわ。ありがとうっ」
「う、うむ」
アリシアは立ち上がると遊歩道へと足を乗せる。そうして振り返ると晃に向けて手を振った。
「お仕事頑張ってね。それじゃあまた今夜」
「ああ。遅れるなよっ」
アリシアは返事の代りに微笑むと、河岸の方へと歩いていった。
晃はしばしその後姿を見送っていたが、頭を軽くかくと客との待ち合わせ場所であるサン・マルコ広場へと急いだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝食を済ませた灯里が後片付けをしていると、桟橋を歩く足音が聞こえ、すぐにドアが開いた。アリア社長が元気よく鳴いてドアのほうへ飛んでいく。
「おはようございます、アリア社長」
「ぷいにゅうっ!」
「あらあら、今朝も元気いっぱいですね」
「アリシアさんっ、おはようございます!」
「おはよう灯里ちゃん」
「あれ? そういえば今日ってゴンドラ協会の会合でしたよね」
「うん、そうなんだけど……」
アリシアはそういうと、辺りを気にするそぶりをしてから灯里に尋ねる。
「カイジくんの姿が無いけれど、どこかへ行っているのかしら?」
「はい。なんだか朝早くに出掛けたみたいですね」
「そう……」
「昨日から元気が無いようなんですカイジさん。それで一緒に買い物にでも行こうかと思っていたんですけど……」
「私もちょっと気になって寄ってみたのよ。花火のときから少し変だと思ったから」
「はい……」
椅子に座って黙り込む二人。てっきりここにいると思っていたアリシアは、余計に心配を募らせた。街へ出るほどの元気があるのなら、と自分を安心させることは出来なかった。
「昨夜の様子はどうだった?」
「う~~ん、やっぱり元気が無かったですね。身体の調子が良くないというより、私には悩んでいるように見えました」
「……もしかして――」
「でもでもっ、お祭りで元気になるかもしれないですよ?」
「ふふふ、そうね」
アリシアは言いかけた言葉を飲み込む。そうして、ある予感から胸騒ぎはしていたものの、取り繕うように眉間のしわを緩めて笑った。
「集合場所と時間は伝えてある?」
「はい、一応ですけど……」
「うんっ、それなら大丈夫よきっと」
「そうですよね。私これから買い物に街へ出るんですけど、そのとき探してみるつもりです」
「ありがとう灯里ちゃん、お願いします」
「いえっ。あっ、会合の時間大丈夫ですか?」
「あらあらっ、そろそろ出ないと……」
アリシアは立ち上がるとドアを開けてデッキへと出た。灯里とアリア社長も見送るためついていく。
「灯里ちゃん、アリア社長、また夜にね。それじゃあ行ってきますっ」
「行ってらっしゃーーい」
「ぷいにゅ~~う!」
アリシアの乗るゴンドラは、街のほうへ滑っていくとすぐに見えなくなった。
「アリア社長っ、私たちも出掛けましょう」
「にゅっ!」
そして灯里とアリア社長もその後を追うように、街へと繰り出した。
一方その少し前、サン・マルコ広場に到着した晃は、桟橋にゴンドラを着けて予約客を待っていた。時間はそろそろの筈だが、それらしき客はいない。不思議に思って辺りを窺っていると、ある一点で目をとめた。広場の象徴たる獅子の彫像の柱の下、うずくまる様にして頭を抱えている男がいたのだ。ざわざわとした喧噪の中、異様な雰囲気をまとったその男は、間違いなくカイジであった。
咄嗟に駆け寄ろうとしたが、そのとき丁度、予約客のカップルが晃を見つけ声をかけた。
「わあっ、本物の晃さんだっ! 私たちずっと楽しみにしていたんですっ!」
「予約されていたお客様ですか、お待ちしておりました」
「はいっ! 今日はよろしくお願いします!」
「こちらこそ。それでは、ゴンドラはあちらになりますので」
晃は予約客を桟橋のゴンドラへと乗せると、再度、柱の方へ目をやった。客に少しだけ待って貰うことにして声をかけようと思ったのだが、その柱の下には、もうカイジの姿は無かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まったく灯里のやつ! 皆が浮かれているときにこそ差を縮めたり拡げたりするチャンスだってのに。そう思うでしょ後輩ちゃん」
「とか何とか言って藍華先輩も浮かれてますよね」
「ぬなっ! そんなことあるわけないじゃないの」
「先輩、曲がる場所間違ってますよ」
「えっ、あはははは……これは、あれよちょっとした気分転換よ、そうよ!」
「なんですかそれ……。でも、灯里先輩何の用事なんでしょうかね」
「さあね。突拍子もないところあるから分からないわね」
舟の火送りを夜に控えたお祭り最終日の本日、藍華とアリスは合同練習に励んでいた。練習に励むとはいっても、実際はお祭りを前にはやる気持ちを抑えられず、手持ち無沙汰な時間の代替として集まっている、といったところだろう。いつものメンバーである灯里は外せない用事があるらしく、今回参加していなかった。
昼が過ぎた暑い時間帯、気休め程度に吹く風を受けて、藍華は額を拭う。
「ふう、そろそろ休憩にする?」
「もうですか? 藍華先輩まだ一度も正確にコースを巡れてませんが」
「ああもううるさいわねっ! そんなに小言が多いとすぐお婆ちゃんになっちゃうわよっ」
「でっかいお世話です。藍華先輩より若いのでご心配なく」
「ムキィーーっ! と、に、か、く、休憩よ休憩っ! そこの木陰にいきましょ」
月桂樹がせり出した木陰にゴンドラを寄せる。ここは楕円形に広がった水路と水路の接合池で、祭りの影響だろうか、何店か移動式の屋台が出ていた。その周りには、道沿いからも水路からも客が集まっていた。
「どうぞ、紅茶です」
「あら、ありがとう」
アリスは持参した水筒からよく冷えたアイスティを紙コップに注いだ。二人とも、暑さからか一息に飲み干すと、小さくため息をついた。
「後輩ちゃん、おかわりっ! ……まだまだ蒸すわね~~」
「どうぞ。でも、夜はもう涼しいくらいですよ」
「そうねぇ。昨日の浮き島なんか……あっ」
「別に構いませんよ、私も楽しかったですから」
「両手袋パーティーだっけ?」
「はい、勉強になることも多かったですし……同期の方たちと仲良くもなれて楽しかったです」
藍華はアリスの顔をまじまじと見つめると穏やかに言った。
「……後輩ちゃん、ちょっと変わったわよね」
「? ……そうですか?」
「うん、具体的にどうこうってことじゃないんだけど」
「……?」
「とにかく変わったのよ、いい方向に」
「……そう、かもしれませんね」
アリスはそう呟くと少し俯いて微かに頬を赤らめた。藍華はそんなアリスの様子ににんまり笑うと茶化すようにいった。
「さては後輩ちゃん、なにかあったわね」
「べ、別になんにもありませんよっ」
「あやしぃーー……はっ! もしかして恋してるとか」
「そ、そんなんじゃないですよっ! ただ……」
「ただ? こりゃっ、白状せい」
肩をつかまれて揺すりながら藍華に迫られたアリスは、対人関係で悩んでいたこと、そして、少し前にそれを解決に導いてくれたカイジとの会話についても話した。もし自分が変わったというのであれば、その出来事が起因しているのではないかという憶測も遠慮がちにだが言及した。
「そっか……ごめんね、気付けなくて」
「いいんです、むしろ気付かせたくなかったくらいですし」
「ふふっ、なによそれ」
ついこの間までのアリスに若干の暗い一面を感じていた藍華ではあったが、それはアリスの性格によるものと思っていただけにこの告白には少々驚いた。しかし、今となっては自他共に認識できるほど、明るくなっていることに間違いはない。それだけで藍華は満足であった。
「それにしてもカイジがねえ~~」
「意外ですか?」
「んん~~。意外っていえば意外だし、納得といえば納得って感じね」
二人は広げた水筒や紙コップお菓子などのお茶会セットを片付けると、練習再開のため狭い水路へと向かう。
漕ぎ始めたアリスが進行方向をみながら口を開いた。
「灯里先輩が言ってたこと分かる気がします。どうみても悪人面って感じですけど、なんていうか人がいいって思うんです、カイジさん」
「そうかしら? ヘタレでお人好しって感じじゃない?」
「それは……言えてますね……」
「あははっ」
楽しそうに笑うと、藍華は大きく伸びをして続けた。
「なんかさ、灯里とカイジって似てる気がするのよねえ。一緒にいると妙に居心地がイイところとか、ほっとけないところとか。それにズレてるところもね。カイジに言うと、あいつ多分イヤな顔するだろうけど」
「……確かに、いわれてみれば」
「でしょ? そういうところじゃないの、後輩ちゃんの言う人がいいってのは」
「はい、そんな気がします。灯里さんには申し訳ないような気もしますが」
そういって二人は笑う。
ゴンドラは街の奥へと進んでいく。閑静な生活水路を抜けると、祭りの気配が賑やかな広場に差し掛かった。すると、藍華がふと話し始めた。
「ちょっと思い出したんだけど、昨日カイジ元気無かったのよね」
「いつも元気があるようには見えませんが」
「まあね。でもなあんか気になるのよねえ~~」
「あっ……」
「普段から胡散臭いマイナスオーラ漂わしてるんだけど、昨日の帰りは――」
「あれっ……」
「切羽詰ったような――」
「先輩っ!」
「にゃっ! 何よ急に、ビックリしたわね」
「あそこ見てください」
腕を組んでしきりに考え込む藍華に、アリスが声を上げて注意を促した。藍華はアリスが指差す方向に目を向ける。
「……噂をすればなんとやらね」
広場とその隣を流れる水路の向こう側に件のカイジがふらふらと歩いていた。明らかに尋常ではない雰囲気である。壁に手をつきながらゆっくり歩いているとおもえば、急に立ち止まって辺りを見回すと、下を向いて頭を左右に振り始めた。そして、ばっと顔を上げると、小走りになり近くの路地へと消えていった。
「行っちゃった……。なんか様子おかしくなかったですか?」
「ええ、どうみてもヤバかったわね」
「めちゃめちゃ挙動不審でした。大丈夫でしょうかカイジさん」
「あれはどうみても大丈夫じゃないでしょ」
「……今日の夜ってカイジさん来るんですよね?」
「ええ、行くって言ってたわ。……そこで様子をみましょうか」
「そうですね……」
呆れが混じった苦笑いの二人は、そう決めると再び水路を進み始めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「見当たりませんね~~」
「ぷいにゅう~~」
大運河に架かるリアルト橋を渡った先の市場を歩く灯里とアリア社長。お昼をとってから、結構な時間探し回っていたが、一向にカイジを見つけられないでいた。
午前中に街へ出た灯里とアリア社長は、用事を済ませるべく、ブティックやアクセサリーを扱う店が立ち並ぶアーケードへと向かった。その中の呉服店で、本日のお祭り用に注文しておいた浴衣を受け取るはずだったのだが、手違いで少し遅れているらしかった。次の便で到着するため、日没前に取りに来て欲しいと言われた灯里は、祭りの雰囲気に賑わう街を散策しながらカイジを探すことにしたのであった。
リアルト市場を抜けた灯里たちは、時間に限りがあることから当ても無く歩くのをやめて、各地区にそれぞれある広場を一つ一つ回ってみることにした。が、しかし、3ヶ所ほど広場を訪れてみたが、やはり見つからなかった。非常に多くの入り組んだ路地や水路を要するこの街で、一人の人間を探すことは容易ではない。
灯里は首筋の汗を拭うと、水路を眺めるように置かれた広場のベンチに腰を下ろした。
「はあ~~っ、ちょっと疲れましたねぇ」
「にゅう……」
「夕暮れまでは――まだ、時間ありますね」
「ぷいにゅっぷいにゅうっ!」
「ど、どうしたんですかアリア社長!」
突然、ベンチから身を乗り出して騒ぐアリア社長。灯里はもしかして、と広場の中心のほうへ目を移す。
「居たんですかっ!? ……ってアイスキャンディー屋じゃないですかぁ」
「にゅう!」
「暑いですもんね~~。それじゃあ休憩ということで、食べちゃいましょうか?」
「ぷいにゅうっ!」
「買ってきますから、待っててくださいねっ」
アリア社長をベンチに残し、灯里はアイスを買いに広場の中心へ向かった。パラソルを掲げたその店の周りには子どもたちが群がっている。順番を待って、アイスキャンディーを買うと、またベンチへ戻った。
すると、アリア社長の隣に誰か女性が座っていた。
「あれっ、アテナさんっ!」
アテナはくるりと振り向くと微笑んだ。
「こんにちは、灯里ちゃん」
「こんにちはっ、偶然ですね~~」
「うん、そうねえ」
「ぷいにゅうっ!!」
アテナと灯里によって突入しかけた緩慢な会話は、アイスを早く寄越せと言わんばかりのアリア社長の鳴き声に遮られた。
「ああ、そうでしたっ! はい、どうぞ。アテナさんもどうですか? 余分に買っておいたんですアリア社長のために」
「えっ、いいの?」
「はいっ、いいですよねアリア社長」
「……ぷい~~、にゅうっ」
少し考えた後、しぶしぶ首を縦に振るアリア社長。
「ありがとう、頂くわ」
3人そろってベンチに腰掛け、和やかにアイスを頬張る。
灯里とアテナは、この夏、藍華とともに灯里がアリスの寮を訪れたときに知り合いになっていた。幾度かオレンジぷらねっとにお邪魔するうち泊りがけになることがあったのだが、カイジがそうであったように、アテナの常軌を逸したドジ振りに灯里はよく驚かされた。そして、その度に注意をするアリスとしょぼくれるアテナが、見かけの雰囲気とは裏腹にとても仲の良い先輩後輩に映ったのが印象的であった。
「アテナさん、お散歩ですか?」
「ううん、丁度終わったところなの」
アテナはそう言いながら、目の前の水路に停めてあるゴンドラを指差した。
「お仕事だったんですね。お疲れ様ですっ」
「ふふっ。灯里ちゃんたちは、お散歩?」
「いえ、買い物の途中なんです……あっ、それとカイジさんを探してたんです」
「カイジくんを?」
「はい。ちょっと事情がありまして――」
「カイジくんなら、さっき見たけど」
「えーーっ! ホントですか!?」
「う、うん。お客様が居たから声はかけられなくて手を振ったんだけど、見えてなかったみたいで、ふらふらと行っちゃったの」
「そうですか……。どの辺りだったか覚えてますか?」
「確かファーヴァ川沿いを歩いてたの、真横を通ったから間違いないわ」
「ファーヴァ……ってことはこの辺通ってだったんだ」
がっくりとうな垂れる灯里。そんな様子を見たアテナは付け加えるように言った。
「もしかすると、あのまま川沿いを歩いていたらサン・マルコ広場に出るんじゃないかしら。見かけたのガイドが終わる頃だから、まだ着いてはいないと思うわ」
「っ! 追いつけるかもしれないですっ。聞きましたアリア社長っ? 行ってみましょう!」
もう一本アイスを催促しようかどうか迷っていたアリア社長は、突然声をかけられて思わず「にゅっ」と鳴く。そうして、ベンチから降りた。
アテナは灯里の慌しい様子を見て、気になったことを口に出した。
「カイジくん、どうかしたの?」
「ちょっと昨日から様子が変で……、それで今日は朝から街へ出たっきりなんです」
「そう……」
「それじゃあ探してみますっ! アテナさん、ありがとうございましたっ」
「え、あっうん。こちらこそアイスありがとう」
灯里は立ち上がり頭を下げると、アリア社長を伴って小走りで駆けていく。ふと、アテナはその背中に声をかけた。
「カイジくん、今夜来るわよねっ?」
「はいっ、きっと来ると思いますっ」
振り返って笑顔で返事をすると、灯里たちは再びカイジを探しに走り出した。
ベンチに残されたアテナは灯里の笑顔に安心すると、首を傾け空を仰ぎ見た。曇り気味だった空模様は、いつしかところどころ薄い陽光が差し始めていた。
アテナの情報を頼りに、サン・マルコ広場へ向かう灯里とアリア社長。翳った陽が顔を出し始めたとはいえ、薄暗い路地などはすでに灯りが点される時刻となっていた。カッレを抜けて、目的地へ近づいていくと疎らだった人影が徐々に増えていく。少し大きな通り、河岸や海辺には出店が連なるように賑わっていた。皆、この祭りの日に思い思いのときを楽しんでいるようである。サン・マルコ広場の鐘楼がようやく目の前に見えるという頃には、走って進むことが出来ないほどの人だかりであった。
「すごい人ですね……ここにいるのかな」
「ぷいにゅう」
灯里たちはひしめく人々の中を縫うように進んでいく。
二つの広場の角に立つ鐘楼の辺りであろうか、灯里の腕に抱かれたアリア社長が大きく鳴きながらある方向を指した。釣られるように灯里もそちらへ目をやる。示された場所がすぐには分からなかったが、じっと見ていると雑踏の間、緑のチェックシャツがはためいた。カイジであった。
「カイジさんっ!」
灯里は、その後姿をとらえようと追いかけ始めた。しかし、多くの人に遮られ、思うように進まない。その間もカイジは、ふらふらと歩いていく。どうやら、小広場を抜けて河岸沿いに出ようとしているらしかった。
「カイジさーーんっ!」
仕方なくそう呼んでみたが、聞こえているのかいないのか、カイジは一瞬立ち止まるとまた歩き始めてしまった。そして、人々の頭の間にちらちら見えていたその後姿は、騒がしい雑踏の中に消えてしまった。
「見失っちゃいましたね……」
「にゅう」
「でも、方向的に会社へ戻ろうとしてるみたいでしたカイジさん」
「ぷいにゅう」
同意するように頷くアリア社長。追いついて話が出来なかったのは残念であったが、姿だけでも確認できたことに灯里は少し安心した。会社に戻ればおそらく会えるだろう、そう思いながら空を見上げる。まだらになった雲は、晩夏の夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。その奥に見える空は、すでに宵を忍ばせている。
「それじゃあ浴衣を取りに行って、すぐに会社へ戻りましょうっ」
「にゅっ」
灯里とアリア社長は、賑やかな祭りの街を呉服店へと急いだ。
後編へ続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・