水先案内録カイジ:ARIA×賭博黙示録カイジ   作:ゼリー

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よろしくお願いします。


第9話~薔薇~

 透き通るような日差しが初夏のネオ・ヴェネツィアを彩る。街角に咲いたアザレアは道行く人々の視線を奪い、どこか誇らしげだ。徐々に濃度が増していくように感じられる空気を集めて、涼風が海面を撫でている。ネオ・アドリア海を挟んだ向こうの島々は爽やかな緑を宿して目に涼しい。

 カイジは燕雀の喧しい囀り声で目を覚ました。

 少し重い瞼をこすりながら、キッチンで濃いめのコーヒーを淹れ、2階のバルコニーへと出る。少し前に新人が入社したことにより3階の部屋を明け渡したカイジは、2階の事務所兼客間で寝泊まりしていた。その新人である水無灯里は、どうやらまだ寝ているようである。

 カイジはいつものようにコーヒーを飲みながら清々しい朝の海を眺めていた。煙草に火をつけ胸一杯に吸い込む。紫煙を吐きだすとコーヒーに口をつける。

 

これは・・・あれだな・・・・・

毎朝のことながら・・・・・そう・・

・・・・優雅ってやつだな・・・・・フフっ・・・

 

 澄ました顔をしてコーヒーカップを口元に運び、円を描くように匂い立たせてから飲み干す。……噴飯ものである。且つ、不愉快である。しかし、当の本人はいたって平生、いたって優雅なのである。

 吸殻を灰皿へ押しつけ、戻ろうとしたカイジは、何気なくデッキを見下ろした。一瞬、いつものARIAカンパニーだと思い視線を外したが、遅れて違和感に気付き、もう一度振り向き下をみる。

 

「は・・・・?」

 

 寝起きの思考が一瞬でクリアになる。危うく持っていたコーヒーカップを落とすところであった。

 

まだ・・・寝ぼけてんのかな・・・・

 

 そう結論付けたカイジは、一度キッチンに戻ってコーヒーカップを洗い、制服に着替えて再度デッキに出た。大きく息を吸って吐くと、恐る恐る下を眺める。

 

    ざわ・・・

       ざわ・・・

 

「え・・・・?」

 

いやいや・・・・・・え・・・・!?

 

 途端に踵を返したカイジは、ものすごい速さで屋内の階段下を覗きこむ。視線の先には海水によって浸水した1階部分があった。

 

「や、やべえ・・・こ、洪水だっ・・・・!おいっ・・・・誰か・・・・っ!津波だっ・・・逃げないとっ・・・・!」

 

社長と水無はまだ上かっ・・・・!

 

 逡巡も束の間、カイジはすぐさま階段を駆け上がり、扉をノックする。

 

「社長っ・・・・水無・・・っ!起きろっ・・・!大変だっ・・・!」

 

 一刻を争う事態に扉を強打するカイジ。部屋の中では叩く音で目を覚ましたのか、くぐもった灯里の声が聞こえてきた。

 

「どうしたんですか?」

「緊急事態だっ・・・洪水なんだ・・・・!早く脱出しないとっ・・・・!」

「え……!? どういうことですか!?」

「んなことわかんねえよっ・・・!いいからっさっさと起きろっ・・・!」

「はいっ!」

 

 火急を伝えるとカイジは階段を下りて、もう一度1階部分を確認する。非常に焦ってはいたものの、よく確認すると水位は上がっていないようである。最悪の事態は避けられそうだと、カイジはひとまず安心した。階上でどたばたと足音が聞こえ、灯里が急いで降りてきた。

 

「カイジさん!」

「・・・・下、見てみろ・・・!」

 

 そう言って階段の先を指さすカイジ。灯里はつられるように階下を覗きこむ。

 

「はひ―――~~っ!?」

「さっき起きたらこの状態だった・・・・まあ、水面があの状態のままだからとりあえず脱出することはできそうだ・・・・」

「そうですか……よかった。でも、どうして浸水したんだろう?夜に雨でも降ったのかな~」

「・・・・さあな・・・津波かもしれない・・・ここで油売ってる暇はねえ・・・・社長は・・?」

「それが……私がいくら緊急事態だって言っても起きてくれないんです」

「はあ・・・・?死んでんじゃねえの・・・・・?」

「違いますっ!ベットの上でごろごろしてるんですよ」

「っち・・・・あのデブっ・・・!」

「もう一度起こしてきますね」

「いやいいっ・・・・オレがいくよ・・・・部屋入らせてもらうぞ・・・」

「はひっ」

 

 階段を上がり勢いよく扉を開け放つと、灯里の言った通りアリア社長はベットの上で丸い身体を転がしていた。カイジがやってきたことに気付くと転がるのをやめてぷいにゅうと鳴いたが、すぐにまた転がりはじめた。その様子にカイジは一瞬、

 

・・・・コイツは放っておいてもいいんじゃないか・・・・?

 

と考えたが、思い改め声をかける。

 

「おい社長っ・・・・!起きろっ・・・!」

「ぷいにゅう」

「いいからっ・・・!とりあえず起きろって・・・っ!」

「ぷいにゅぷい~」

「はあ・・・?だからっ・・・ああもうっ・・・!洪水なんだってっ・・・!」

「にゅ~っぷいぷいにゅう」

「え・・・?」

「ぷいにゅう――」

 

 カイジが3階へ向かってすぐ、普段と変わらぬ様子でアリシアが出社してきた。ゴンドラを外の階段横へつけて上がってくると、いつもの様に挨拶をする。

 

「おはよう、灯里ちゃん」

「アリシアさん!たったっ大変ですー!」

「うん?」

「洪水です!床上浸水です!」

「うん」

「早く逃げないと……ってあり?驚かない……?」

「うん」

 

 アリシアは入って来た時から笑顔を崩さずに頷くだけである。灯里は訝ったが、思えばアリシアはここまでゴンドラで漕いできており、また、今の様子から特別急いでいるわけでもなくいつもと同じである。

 

「……アリシアさん?ってそういえば普通に出社してますもんね……」

「そっか、灯里ちゃんは初体験だったわね“アクア・アルタ”」

「アクア……アルタ?」

 

 聞き慣れない言葉に眉をひそめた灯里は、靴を脱いで1階へと降りていくアリシアの後を追う。1階には迷い込んだ小魚が何匹か泳いでいた。

 

「そう、毎年この時期に起こる高潮現象のことよ」

「高潮……」

「南風と潮の干満に気圧の変化が重なって起こるの」

「へ~そうなんですか。じゃあ洪水とか津波ってわけではないんですね」

「ええ、ふふふ。アクア・アルタの間は街の機能がほぼマヒするから、みんな家でのんびり過ごすの」

「ほへ~、大変ですね~」

「そうそう、あと注意が一つ。ゴンドラは危ないから乗っちゃダメよ、乗りあげたらそれこそ大変なんだから」

「はーーい」

「それはそうと、カイジくんは?」

「あっ、そうだ!カイジさんにも伝えなくちゃ!」

「あらあら、カイジくんも勘違いしちゃったのね」

 

 2人が階段を上がると、丁度カイジとアリア社長も降りてくるところであった。

 

「どうもおはようございます・・・・・!」

「おはようっカイジくん」

「カイジさん高潮だったみたいですよ!」

「ごめんねカイジくん、言っておけばよかったわね」

「はあ・・・。さっき社長から聞きました・・・・オレはてっきり・・・」

「ぷいにゅう」

「私も驚いちゃいました、でもよかったですね~~何事もなくて」

「ああ・・・・」

「あらあら、ふふふ。そういうことだから、街から水が引くまでは開店休業状態になると思うわ」

「分かりました・・・・っ!」

「それじゃあ今日はみんなでのんびり過ごしましょうねっ」

 

 

・・・・・・・・・・・

 

 

 ARIAカンパニーの面々は開店休業ということで、バルコニーにテーブルとイスを用意して思い思いの時間を過ごしていた。キーボードをたたく灯里の横では、アリシアが姿勢良くイスに座り雑誌を読んでいる。アリア社長は手すりにぶら下がりながら奇天烈な鳴き声を上げて、誰かしらの興味を引こうと必死だ。

 カイジはというと、少し離れた位置で煙草を吸いながら虚空を眺めていた。

 

ああ~・・・・ギャンブルしてえな・・・・

そういやまだしっかり探してなかったな・・・・アクアにあるのかどうか・・・

いやいやダメだろっ・・・・馬鹿かオレは・・・・せっかく真面目に生きてるってのに・・・・っ!

かぁ~~っ救えねえ・・・・・ん?

 

 ぼーっと煙草を吹かしているカイジの目に河岸沿いを歩く人々の姿が映った。膝下まで水に浸かりながらも、人々はどこか楽しげに歩いている。カイジが気になったのは、歩く人々の胸に薔薇があしらわれていることだった。それも皆、女性である。ネオ・ヴェネツィアでは今、あれが流行っているのだろうかと考えていると、灯里の声が聞こえてきた。

 

「アリシアさん、ゴンドラ協会の会合の時間そろそろじゃないですか?」

「あらあら、ついのんびりしちゃったわ……ありがとう灯里ちゃん。カイジくん――」

「はい・・?」

「これから私、ゴンドラ協会の用事でちょっと出てくるわね。夕方頃までには戻ると思うから」

「わかりました・・・いってらっしゃい・・・・っ!」

「いってらっしゃーい」

「ぷいにゅう~」

「ふふふ、いってきまーす」

 

 アリシアが出掛けると、カイジと灯里は昼ごはんの用意を始める。いい機会なので、本日は晴天の下、バルコニーでランチをすることとなった。あれから数カ月、カイジの料理の腕はお世辞にも上手いとは言えないものの、上達していることは確かであった。それは灯里も同じで、2人で切磋琢磨しながら日々食材と格闘しているのだ。

 茹で上がったパスタをソースと絡めて皿に盛り付ける。それをコンソメで味付けしたオニオンスープとパプリカの朱色が印象的なサラダと共にテーブルへ並べた。

 

「うわぁ~上出来ですね!」

「ククク・・・・・・ま、待てよ・・・っ!社長まだ食べるなよっ・・・!」

「にゅにゅう~~」

「手を合わせてからだろうがっ・・・!おいっコラ・・水無もなにフォーク持ってんだっ・・・・!」

「だって~~」

「クソっ・・なってねえ・・・・っ!そりゃなってねえよマナーがっ・・・!」

「いただきまーす!」

「ぷいにゅ~!」

「っち・・・いただきます・・・!っておいおまっ・・・スパゲティは啜るなよっ・・・!啜るのはな・・饂飩か蕎麦と相場が――」

 

 その後もカイジがぶつぶつと小言をのたまう賑やかな食事風景であった。しかしカイジ、散々藍華に注意された食事作法をあたかも自分の品性であるかのように押し付けているのは流石である。流石の無法者だ。実に汚い、やり方が。

 

「ふぅ、美味しかったですね」

「ああ・・・・そろそろ次のステップに進むのもアリだな・・例えば・・・ピザっ・・・!」

「ほへ~~それは大きく出ましたねっカイジさん」

「ここは引いちゃダメなんだ・・・・進むっ・・・!進んで攻めるっ・・・・!」

「?」

「一歩引いてオムライスなんて作ってみろ・・・・錆びるっ・・・間違いなくっ・・!」

「錆びる……?」

「そうだ・・・・今まで積み上げてきたものが瓦解するっ・・・・ここは一か八かでも進むべきなんだ・・・新たなフェイズに・・・!」

「え、ええと……どういうこと?」

「へ・・・?どういうことっておまえ・・・」

 

・・・・はっ・・・!やっちまった・・・!引いてるのは水無じゃねえか・・・!

ポカン状態・・・阿呆面で心底わからねえって顔してやがる・・・!

・・・散々社長に言われたのに・・・ついついズレちまう・・・

社長が言ってたな・・オレと水無はハマらない・・・・今まさにその瞬間っ・・・!

・・・・・・っ・・・

・・・逸らすっ・・・・主流を・・会話のメインストリームを戻すために・・気を逸らすっ・・!

 

「~♪」

「?」

 

錯誤っ・・・・! 圧倒的錯誤っ・・・・!

カイジっ・・・! 口笛を吹いて誤魔化すという前時代的発想っ・・・!

それでもカイジは真剣・・・! 真剣にキャッチーなメロディを奏でている・・・!

通用しないっ・・・! いくらなんでもそれでは未来に通用しないっ・・・!

凡ての望みが断たれたかに思われたっ・・・・!

 

「ほへ~~いい曲ですね。なんていう曲ですか?」

「~♪・・・あ、ああ・・これはだな――」

 

が、しかしっ・・・! 覿面っ・・・・恐ろしいことに覿面するっ・・・!

この場に限っては・・・・否、この少女に限っては通じてしまうっ・・・・!

悪手・・・愚直・・・瑕疵・・・! そんなもの意に介さずに・・・!

垂らされた蜘蛛の糸・・・っ! カイジっ・・・手繰るっ・・全力で・・・!

 

「――へ~~、その人たちってまだ活動してるんですか?」

「そりゃあ・・・・っく・・!」

「?」

 

掘っちまったっ・・・・墓穴・・・!

ていうか食いつきすぎだろ・・・!どうするっ・・・・!

そうだっ・・・第九っ・・・これなら時代を飛び越えられるだろっ・・・!

 

 カイジがあさっての思考方向から導き出された応えを奏でようとしたその時、1階の方から、先に食べ終えていたアリア社長の大きな鳴き声が聞こえてきた。

 カイジは天啓だとばかりに席を立つ。

 

「な、なんだなんだー・・・オレちょっと様子を見てくる・・・!」

「どうしたんでしょうかねアリア社長……私もいきます」

「え・・・?あ・・そう・・・」

 

 2人が1階に駆けつけると、そこには大粒の涙を流しながら鳴いているアリア社長がいた。アリア社長の目の前には、お菓子の箱が水面に浮かんだり沈んだりしている。箱の中身が飛び出しているものもあり、もう食べられない無残な状態であった。

 

「びえええっ~~」

「あらら・・・・」

「買いだめしておいたお菓子を落としちゃったんですね」

「っていうか社長・・・おまえまだ食う気だったのかよ・・・」

「びええええ~~っ!」

「うるせえな・・・・そんなに泣くなよ・・・たかだかお菓子だろうが・・・」

「……ぷいにゅうっ」

「はいはいそうですか・・・・」

「アリア社長、他のお菓子ならまだありますよ?」

「にゅう!!」

「それじゃあ水が引いたら買いに行きましょう?」

「にゅにゅ!」

「うーーん、困ったなぁ」

 

 灯里の提案に対し首を横に振るアリア社長。灯里はどこの店も休みだろうなと呟きながら思案している。

びしょ濡れになったお菓子の箱を片付けると、カイジはアリア社長の腹を摘まんだ。

 

「丁度いいじゃん・・・・この腹を引っ込めようぜ社長っ・・・!」

「ぷいにゅう!」

「っつてもなあ・・仕方がないだろっ・・・アクアなんちゃらで店が開いてないんだから・・・」

「にゅう……」

「ダメダメっ・・・そんな顔してもダメなものはダメなんだよっ・・・・社長ツキがなかったなっ・・・ハハハっ・・」

「――向こう街のあのお店なら開いてるかも?」

「へ・・・・?・・・おいおい冗談は髪だけに――」

「にゅう!!」

「行ってみますか?」

「ぷいにゅう!」

 

 途端に元気になったアリア社長と顔を見合わせる灯里。カイジは頭を掻きながら溜息をついた。

 

「ゴンドラに乗らなければ大丈夫ですよねっ」

「ぷいにゅう!」

「甘やかしすぎだろ・・・・」

「いいじゃないですか~~私も水びたしの街を散策してみたいし!」

「にゅうにゅう~!」

「はぁ・・・んじゃ勝手に行ってきてくれ・・・・」

 

 カイジは呆れた顔をして手を胸の前でひらひらさせている。そんなカイジの頭の上に復活したアリア社長が飛び乗った。カイジはいつものように引きはがそうとするが、これまたいつものようにかわされてしまう。

 

「おいおい・・・・嬉しいのは分かるがいちいちオレの上に乗るなよっ・・・」

「ぷいにゅ~~にゅう」

「勘弁して下さいよっ社長・・・水無が行くってんだからいいだろ・・・」

「ぷいにゅう!」

「ああそうですか・・・じゃあ仲良く2人で行けばいいじゃないっスか・・・」

「どうしたんですか?」

「え・・・ああ、社長も付いていくってさ・・・」

「そうなんですか?……それじゃあ3人で行きませんか!」

「ぷいにゅう!」

「いやオレはいいよ・・・」

「え~~きっと楽しいですよ~……」

 

 その後、行く行かないの押し問答が続けられ、面倒くさくなったカイジは後から行くから先に向かっててくれと告げて2人を送り出すことにした。

 カイジとしては、浸水したネオ・ヴェネツィアを眺め歩くことに異議はなかったのだが、ピクニックよろしく3人でぞろぞろ歩くのはなんとなく気恥ずかしかった。それにアリア社長を連れて小さいゴンドラを引くのは間抜けみたいで阿呆らしい、さらに、まったくハマらない灯里と歩いても自分が疲れる。それならば折をみて、後々独りで散歩するのが得策だろう、カイジはそう考えていた。

 

「それじゃあ行ってきますね!」

「にゅう!」

「ああ・・・気をつけて歩けよ・・・踏み外して水路に落ちたら馬鹿みたいだからな・・」

「はひっ!……カイジさんも後から――」

 

 カイジは残りの言葉を聞かずにさっさと扉を閉めてしまった。アリア社長がなにやら喚いていたが、無視していると灯里が連れていったのか徐々に静かになっていった。

 ほっと溜息をついたカイジは胸ポケットから煙草を取り出して咥え、バルコニーへと出た。イスに座りテーブルに肘をついて煙草を燻らせていると、頭の芯が鈍くなっていき眠気が押し寄せてきた。

 

特にやることもないし・・たまには昼寝でもしてみるか・・・・

 

カイジは煙草の火を消すと瞼を閉じてテーブルに身体を預けた。そのまま、寄せては返す静かな波音を子守唄にまどろみの世界へと落ちていった……。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

 

『ボッコロの日』

 ネオ・ヴェネツィアではサン・マルコの祝日の日に、愛する人に薔薇を贈るという習慣がある。この日は薔薇を贈られたすべての女性がその薔薇に負けない程の笑顔を綻ばせるのだ。これはヴェネツィアの習慣を模したもので、その起源は遥か過去に遡る。

 

 下級貴族の青年であるタンクレディは、当時のヴェネツィアの最高権力者であった総督の娘であるブカーナに恋をした。しかし総督は身分の違いからか、その恋を許してはくれなかった。どうすべきか頭を悩ませたタンクレディは自分が戦に出て功績を残すことで2人の仲を認めてもらおうとする。

 実際、戦地に赴いた彼は素晴らしい戦果を残す。それを伝え聞いた総督は彼の栄誉を讃えて、2人の仲を了承することにした。しかし、栄誉を胸にヴェネツィアへ凱旋するはずであったタンクレディは不幸にも凶刃によって戦死してしまうのだ。

 彼が倒れたその場所は、一面に白い薔薇が咲き誇っていた。死ぬ間際、タンクレディは一輪の白い薔薇を手折り、愛するブカーナの元へと戦友へ託した。戦友から、血によって深紅に染め抜かれた薔薇を受け取ったブカーナは、その時初めて、愛する人の死を知ったのだった……。

 

 このロマンチックな実話を元に行事化されたボッコロの日は、アクアのネオ・ヴェネツィアにも伝承された。カイジが目にしたのは、永遠の愛の証である紅い薔薇を受け取った女性たちというわけだ。ただ、このボッコロの日は男性が愛する女性に薔薇を贈るだけではなく、友人同士や尊敬する人間、親愛を示す間柄など、相手に対する自分の気持ちを伝える日でもあるのだ。

 そんな日であるとは露知らず、カイジは午後の日差しの中、気持ちよさそうに寝ていた。日はだいぶ傾いており、灯里達が会社をでてから随分経っている。みている夢の内容からかカイジが机の上で腕をシャカシャカしていると、会合を終えたアリシアが帰ってきた。階段横にゴンドラをつけたアリシアは、載っている荷物はそのままにして一度バルコニーへと上がってきた。

 物音で、大金を腕にかき集める夢から徐々に引き戻されていくカイジ。

 

「っていうか金持ちっ・・・・・!億万長者っ・・・・!・・・・・・っは・・!?」

「あらあら、ふふふ。ただいま、カイジくん」

「え・・っ?あ、ああ・・・・おかえりなさい・・っ!」

「お昼寝かしら?…‥ここ」

 

 そう言いながらアリシアは自分の口元を指さす。盛大に垂れているよだれに気がついたカイジは、あたふたしながら袖で拭った。

 

「へへへっ・・・・あ、あの~会合終わったんですか・・・?」

「ええ、さっき。それでお願いがあるんだけど、いいかしら?」

「はい・・?なんですか・・・?」

「ごめんね~、ゴンドラに積んである薔薇を一緒に運んでほしいの」

 

 振り返ったアリシアの目線の先には、籠に入った大量の薔薇があった。

 

「ああっ・・・!なんですかあれっ・・・!?」

「うふふ、お得意先や付き合い先からいっぱいもらっちゃったの」

「へ~~っへ~~っ・・・・!・・・・でもどうして・・・・?」

「それはね今日がボッコロの日だからよ」

「ぼっ・・・ころ・・・?」

 

 カイジは薔薇を運び入れながら、アリシアからボッコロの日について簡単に説明を受けた。話がロマンスのくだりになると、表面上は真剣に聞いていたカイジも、内心眉唾ものだなと苦笑していた。同時に、自分にはあまり関係ない話だなとも思っていた。

 

とはいうものの・・・これだけの薔薇を見てしまって何もしないのは従業員としてどうなんだ・・・・・?

 

 薔薇が詰まった籠は結構な重さがあり、それだけでアリシアの多大なる人望が窺い知れる。カイジはアリシアに対して特別な感情を抱いているわけではなかったが、特に愛していなくても薔薇を贈っていいようである。

 最後の籠を運び入れながら考えるカイジ。そうして結論を出した。

 

それなら・・・贈るべきだろっ・・・少しでも恩を返すためにっ・・・・!

感謝の辞を示すべきだろっ・・・・!

 

「アリシアさんっ・・・!ちょっと出てきてもいいっスかっ・・・?」

「え、ええ。でも街じゅう水びたしよ……?」

「あの~~・・・浸水した街を見てみたくなっちゃって・・・駄目っスかね・・・?」

「ふふふ。ディナーまでには帰ってきてね?」

「はいっ・・・・!」

 

 ズボンの裾をたくし上げ財布を握り締めたカイジは、アリシアの微笑を背中で受けながら、浸水したネオ・ヴェネツィアの街へと繰り出した。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

こりゃ思った以上に歩きにくいな・・・・

自分で言っておいて落ちたら世話ねえし・・・・気を付けるか・・・・

 

 天文的、地理的、気象的といった諸要因で起きる高潮現象は、当時のヴェネツィアにおいてアックア・アルタ(acqua alta)と呼ばれ、中世の頃には都市部を完全に破壊するほどの脅威であった。

 ここネオ・ヴェネツィアではその脅威もなりを潜め、水面に反射する街並みが幻想的な光景を生みだしている。楕円形の広場へと足を踏み出せば、雲の合間の浮き島が、見上げれば頭上に、俯けば足元にたゆたっている。

 

おおっ・・・!綺麗じゃんっ・・・・!

 

 美学的センスを持ち合わせているかどうか疑わしいカイジもこれには嘆息せざるを得なかった。目的を忘れただただ、美しい光景を眺め歩くカイジ。あちこち足の赴くまま逍遥していたが、ふと、胸に深紅の薔薇を携えた女性が目の前を通ると気を引き締めた。

 

ダメっダメっ・・・!何やってんだオレは・・・・っ!

とりあえず花屋を探すか・・・・・

 

 水深が深い場所に用意された即席の板橋の上を、辺りを見回しながら歩く。アリシアが言っていた通り、ほぼすべての店が営業を停止していた。

 

それでも薔薇がなきゃはじまらねえ日だしな・・・・花屋はやってるだろ・・・

・・・・・っん・・・?・・・・あれはっ・・・・!?

 

 板橋が尽き、石組の橋を渡っていると、右手の水路から見覚えのある人間がゴンドラを漕いでこちらへ向かってくる。その人物はカイジに気がつくと声をかけた。

 

「ん?カイジ君じゃないか、奇遇だな。どうした?こんな日に」

「・・・・・・・・」

 

 しかし、無言で渡りきろうとするカイジ。カイジは、藍華の水先案内訓練の為に同乗した一件以来、非常に苦手としているのがこの晃であった。街で見かけてもカイジから声をかける事は一切なく、相手が気付かぬように身を小さくしてやり過ごしていた。それでも偶然ばったりという場合は、いたしかたなく、逆鱗に触れぬよう当たり障りのない会話で適当にあしらうことにしていた。

 今回は後者である。そしてそれ以前にカイジは、全然気が付いていません私オーラを纏って先を急ごうとした。

 

「お、おい、カイジっ!この距離で聞こえないってことはないだろ!」

「・・・・・・・っち」

 

 カイジは小さく舌打ちすると、晃の方へ身体を向ける。

 

「おっ・・・こりゃ偶然だなっ・・・・凄いねその薔薇、流石晃っ・・人望が篤いっていうかなんていうか・・・ハハハっ・・・んじゃ・・・」

 

 へらへらしながらまくし立てると、手をあげて去ろうとするカイジ。勿論、晃はここで、御機嫌ようさようなら、と言って見過ごす程の奥床しさは持ち合わせていない。

 

「お前今舌打ちしたな……?聞こえたぞ。どういう了見だそれは……まったく」

 

 指先を額に付けて呆れた声を出す晃。

 

クソっ・・地獄耳がっ・・・褒めてんだから素直に喜べっての・・・・

しかし厄介な奴に出くわしたなこれは・・・・

・・・・・まあいいか、とりあえずコイツに花屋の場所でも訊いておこう・・・

 

「ハハハっ・・・それより晃・・今日開いてる花屋の場所知らねえか・・・・?」

「それよりってお前なっ…‥!……はあ。それで、何だって?」

 

そこは聞こえねえのかよっ・・・・!

 

「・・今開店してる花屋の場所知ってるか・・・?」

「……ほお」

 

 なにやら不敵な笑みを浮かべてカイジを見上げる晃。カイジは居心地悪そうにもぞもぞやっていたが、話を続ける。

 

「で・・知ってんのか知らねえのか・・・どっちなんだよ・・・」

「ふーーん……あのカイジ君がねえ~~薔薇ねえ……ふふっ」

「うわっ・・・気味悪っ・・・・」

「すわっ!誰が気持ち悪いって!?しばくぞコラ」

「そこまで言ってねえし・・まだ薔薇を買うとも言ってねえだろ・・・・・」

「でも薔薇なんだろ?」

「・・・・・っち・・・もういいっス・・それじゃあ・・」

 

 今度こそカイジは手をあげて去ろうとする。無駄な時間を過ごしてしまったなと足早に石橋を下っていったが、晃が再度カイジを呼び止めた。

 

「まあ、待て。からかって悪かったな…‥知ってるぞ薔薇売ってるところ」

「・・・・薔薇かどうかはおいとくが・・どこだ・・・・?」

「さっき通った場所に薔薇の露天商がいてな、どこだったか忘れたが引き返せば分かると思う」

「おいおい、それじゃあ意味ねえよ・・・」

「からかったお詫びってことで案内してやるぞ……この晃様のゴンドラに乗る機会なんて滅多にないからな、喜べっ」

「遠慮しま――」

 

 即決で断ろうとするカイジに、容赦ない眼光を浴びせる晃。

 

「乗るっ乗るっ・・・乗らせてください・・・っ!」

「うむ。人の好意は受け取るものだぞカイジ君……ほら、掴まれっ」

「悪いな・・・」

「よしっ!それじゃあ行くぞ」

「ああ・・・・お願いします・・・」

 

 苦笑するカイジを乗せたゴンドラは水没した街をゆっくりと進んでいった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

 

 普段と違うネオ・ヴェネツィアの街並みをゴンドラの上から眺めるのは非常に新鮮である。カイジは晃のゴンドラの上ということも忘れて鏡のような世界に没頭していた。あまりにも無我で眺めていたため、話しかけてきていた晃への反応が遅れた。

 

「――と思わないか?」

「・・・・・っえ?・・・あ、ああそうだな・・・」

「オメー今、聞いてなかっただろ!?」

「・・・はい・・・全く・・・」

「ボッコロの日で浮かれてんのは分かるが、ひとの話くらいはちゃんと聞けよな」

「・・・・・・え・・わりい・・・なんだって・・・?」

「……いっぺんマジで死んどくか?」

「すいませんっごめんなさいっ・・・・!街が綺麗で、ついっ・・・・!」

「ったく……で、薔薇はアリシアにあげるのか?」

「はあ・・・?な、なんでそうなるんだよ・・・・」

「だってそれ以外に贈る相手いないだろ?」

「そ、それよりさ・・・・・ホント凄いな、その薔薇っ・・・誰から貰ったんだ・・・?」

「お前、誤魔化すの下手すぎ……全部、ウンディーネ関係だよ」

「へえ~~っ・・・・!今乗ってても分かったけど上手いもんな晃・・・それだけ憧れとか人望もあるってことか・・・」

「……どうだかな」

「・・・・・ん?」

「……」

 

 広場では子どもたちが遊んでいた。それを見守るのは両親だろうか、母親の方は胸に真っ赤な薔薇をつけていた。喫茶店の2階部分では、窓ガラスの向こう側で、今まさに愛する人へ薔薇を贈る青年の姿があった。その斜向かいの路地では老夫婦が仲睦まじく一本の薔薇を見つめながら帰路についている。皆、悉く笑顔であった。

 

「――時々、思うんだ」

 

 ゴンドラを確かな手さばきで漕ぐ晃は、周りを見ながらぽつりと漏らした。

 

「こんな日には特に……私の人望なんかはさ、ウンディーネとしての技量があって初めて生まれたんだってことに気付かされるんだ」

「・・・・・・?」

「ガサツさだったり横柄な私の態度はその人望があって許されてるんだなって……だってそうだろ?大した実力もなくてそんな態度だったら誰も寄って来ないし、こんなに薔薇だって貰えない」

「あ、ああ・・・・」

 

うわ~~っ・・・・いきなりのおセンチモードかよ・・・・?面倒くせえ~~・・・

そういうのは彼氏とか上司に聞いてもらえよ・・・・

しかし・・・珍しいな・・・・

 

「本当の私っていうのはこんなに薔薇を頂ける人間なのか……というより、貰うに値しない人間なんじゃないか、そういうことを考えるんだ……時々な」

「・・・・・」

「はははっ……すまんな、変な話してっ」

「いや、別に・・・・・」

「今の話は忘れてくれ」

「・・・・・」

 

 その後、何を喋るわけでもなくゴンドラは水の上を滑っていった。いつもの喧しい会話は愉快ではなかったが、カイジとしては今の無言の方がそれよりも心持が悪かった。

 薔薇の露天商がいる広場に着く頃には、日が沈みかけており早くも街燈には明かりが灯されていた。

 

「ほら、着いたぞ」

「やっとかっ・・・」

「それじゃあ私はこれで――」

「ちょっと待っててくれ・・・・」

 

 カイジはそう言い残すと、ゴンドラを降り薔薇の露天商の方へ走っていく。薔薇を買ったカイジは引き返してまた晃の方へ戻ってきた。

 

「なんだ?……言っとくが会社まで送り届けたりはしないぞ?自分の足で帰――」

「さっきの話だが・・・・・ウンディーネとして培ってきたすべてを含めて本当のお前だと思うぜ・・・・ほらこれ・・」

 

 一輪の薔薇を晃の方へと向けるカイジ。

 

「一応な・・・・助けてもらったこともあるしお礼って感じだ・・・・他意はない・・」

 

晃は差しだされた薔薇を穴のあくほど見つめて微動だにしない。

 

っておいっ・・・・!早く受け取れよっ・・・・・!

恥ずかしいじゃねえかっ・・・・・・!

クソっ・・・似合わねえことするんもんじゃねえな・・・・・

 

「何を悩んでるか知らねえが・・・当たり前のことだし、それがすべてだろっ・・・・・・ていうかいらないの・・・・?これ・・・」

「……いや頂くよ。まさかカイジ君が薔薇をくれるとは思っていなかったからな……ふふふっ、ありがとうっ。……そうだな……全部含めて私だよな」

「ああ・・・・・それじゃあこれで・・・・送ってもらって助かったよ、じゃあな・・・」

 

 カイジは今度こそ晃に別れを告げた。広場を横切っていくカイジの背中に晃が声をかけたが、カイジは俯きながら足早に去っていってしまった。

 

「はぁ……まったくあいつは」

 

 溜息をつく晃。そしてその唇にはすぐにやわらかな笑みが湛えられた……。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

余計な時間を過ごしちまったな・・・・早く帰らないとアリシアさんに怒られるな・・

まあ・・・それはそれでアリだが・・・・・

・・とりあえず早く帰るか・・・・

 

 すっかり日が暮れた街を水をかき分けながら進む。

 少し歩くと、サン・マルコ広場へとでた。夜のサン・マルコ広場はアクア・アルタによってがらりと変わった別世界であった。宇宙港や寺院から降り注ぐ橙色の光が、水面に映って静かに揺れている。足を踏み出すのも憚られるほど神性な雰囲気を醸し出していた。

 カイジは広場を半分に分けるよう設置された板橋を、河岸の方へ向かって歩いていく。と、石柱の台座部分に誰かがいるのが横目に見受けられた。

 

「あっ・・・・・・!」

 

やっべえ・・・・エンカウントしちまった・・・・っ!

 

「あーー!カイジさん!」

「ぷいにゅう!」

「もうっ!どこ行ってたんですか?待ってたんですよ~~お菓子は先に買っちゃいましたけど」

「ごめんっごめんっ・・・・探したけどお前ら見つかんなくってさ~~・・・・ハハハっ・・」

「にゅう~~!ぷいにゅう!」

「なっ・・・う、嘘じゃねえよっ・・・!」

「にゅっぷいにゅ~~!」

「えっ・・!?なんでお前そんなことっ・・・・!?」

「にゅ~~」

「猫の情報網っておまっ・・・・そんなのありかよ・・・」

「?……どうしたんですか?」

「いやっいやっ・・・・何でもないっ何でもないっ・・・」

「……?」

「そ、それよりもこれ・・・・お前らにも・・・・」

 

 カイジはそう言うと、紙袋の中から薔薇を取りだして2人へ差し出した。

 

「水無には従業員同士これからもよろしくってことで・・・・あと練習でも世話になってるしな・・・・社長のはついでだ・・・・」

「わあ~~っ!薔薇だ~~っ!もしかしてこれボッコロの日だから……ですか?」

「なんだ知ってたのか・・・・・そういうこと・・・」

「さっきここで露天商の人に話してもらったんです、ボッコロの日の由来……ありがとうございますっ!えへへ~~嬉しいなっ」

「ぷいにゅう~!」

「んじゃそろそろ帰るぞ・・・アリシアさんが夕食作って待っててくれてるからな・・・」

「はひっ!」

「にゅう!」

 

 会社への帰り道、灯里はずっとにやけた顔でふわふわとした台詞を呟いていた。社長の乗るゴンドラを引いていたカイジは、恥ずかしい奴だなと思いながらも心は軽かった。あまり贈り物をしたことのないカイジにとって、薔薇を贈るという初めての経験は照れもあったがそれ以上に温かいものに感じられたのだった。

 河岸沿いを歩き3人はARIAカンパニーまで帰ってくる。桟橋を渡ると会社の前には、なにやらもじもじとしている藍華がドアを見つめていた。

 

「あれっ?藍華ちゃん?」

「ぎゃーーすっ!……って灯里か。もう脅かさないでよ、あーーびっくりした」

 

いやいや水音で気付けよ・・・・・

 

「どうしたの?藍華ちゃん?」

「あはははっ、別に何でもないわよっ」

「あっ、藍華ちゃんその薔薇」

「はぁ……アリシアさんに渡しに来たんだけどちょっと心の準備がね」

「とりあえず社長も腹すかしてるし・・・・中はいるぞ・・・」

「アンタいたのね」

「ずっと目の前にいただろっ・・・・・・!」

「にゅ~」

 

 緊張の面持ちの藍華を連れだって3人はやっと会社へ戻ってきた。外階段を上り、客間へ入ると食指を刺激するいい匂いが立ち込めていた。

 アリシアが奥から顔を覗かせる。

 

「あらあら、みんなおかえりなさい」

「ただいまですっ!」

「ぷいにゅう!」

「ただいまっ・・・・戻りましたっ・・・!」

「アリシアさん、おじゃまします……」

 

 食卓にはすでに料理が並べられていた。後はスープを温めれば完成といったところだろうか。

 カイジは遅くなってしまった事を詫びた。

 

「アリシアさんすいません・・・・遅くなっちゃって・・・・」

「ふふふ、いいのよ。いまスープを温めるているから少しだけ待ってね」

「はいっ・・・・」

 

 未だテーブルの前でもじもじしていた藍華は、灯里に声をかけられ意を決したようにアリシアに向かった。

 

「あ、あのっ、アリシアさんっ!」

 

 緊張からか、声が少し上ずっていた。アリシアは笑顔で返答する。

 

「なあに藍華ちゃん?藍華ちゃんの分もあるから安心してね」

「え?あ、ありがとうございます……じゃなくてっ……その」

「?」

「こ、これっ……どうぞっ!」

「あらあら、ありがとうっ……綺麗な薔薇ね」

「はいっ……これからもよろしくお願いしますっ!」

「うふふ、こちらこそよろしくお願いね」

 

 藍華は頬を少し赤らめて、恥ずかしそうに笑っていた。

 

「あっ・・・・オレからもこれ・・・・・っ!」

 

 少し遅れて、カイジが差し出したのは真紅の薔薇が何輪も詰まった花束であった。

 

「わざわざさっき買いに行ってくれたのね……ありがとうございますっ」

 

 美しく咲き誇る薔薇以上に可憐なアリシアの笑顔で、薔薇以上に顔が真っ赤になったカイジは、言葉をどもらせながらもじもじしている。

 

「キモイわよカイジ」

「・・・・・・・っく・・・・う、うるせえ・・」

「見てくださいアリシアさんっ!私とアリア社長もカイジさんに薔薇貰っちゃったんですよっ」

 

 灯里はそう言うと、一輪の薔薇を大切そうに両手に包みこんだ。アリア社長は茎の部分を口にくわえてポーズをとっている。

 

「あらあら、ふふふ。よかったわね2人とも」

「はいっ!」

「ぷいにゅう~」

「カイジ~~随分と色男ね、やるじゃない」

「うるせえなっ・・・!特に意味はないっての・・・・ただの感謝だ・・・」

「とかいって顔赤くしちゃってまあ、ほほほ」

「言ってろっ・・・・・・・・・ほらっこれ・・・・お前にもやるよ・・・」

 

 カイジは紙袋から新たに一輪薔薇を取りだし、藍華へと渡す。

 

「水無と同じで一応世話になってるからな・・・・」

「え、私に……!?……あ、ありがと……」

「クククっ・・・・・お前こそ顔真っ赤じゃねえか・・・・・っ!」

「……ううっ」

「わ~~っ!藍華ちゃん顔まっか~~っ!」

「にゅうっ!」

「う、うるさいっお黙りっ!」

「ハハハっ・・・・・!」

「でも凄いね~~っ!ずーーっと昔の切ないお話が、こうやって今のみんなに満開の笑顔を運んでくれるなんて……なんだかとってもロマンチックだねっ」

「恥ずかしいセリフ禁止っ!」

「ええーーーーっ」

「ふふふっ……それじゃあスープも温まったみたいだし、ご飯にしましょうね!」

「はーーひっ!」

 

 

 

 カイジは食卓につき、自然と緩む涙腺を隠しながら再び思った。こんなにも素晴らしい時を、精一杯生きていこうと。そして、大切にしていこうと。

 

 

 水没した街が愛で溢れかえる日はこうして過ぎていった。様々な人間の心の距離を縮めていきながら・・・・・・・。

 

 

 

第9話 終・・・・・・・・・・・・・

 


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