冷静かつ慎重に、隙無く近づいてくる樋上に対して、クシャトリアはじりじりと後ずさるしかない。
心を落ち着かせて冷静に『樋上』という男を俯瞰してみると、ハッキリと彼の周囲に円形の結界染みたようなものが視えてくる。
あれがなんなのか、どういう技なのかは具体的には分からない。だが武術家として、或いは生命の第六感があの技の正体を教えてくれていた。
「ジュナザード、主が弟子にとって生きているだけはあるのう。未だ緊湊に至っていないというのに、感覚的に制空圏を察知するとは悪くない素質じゃ。
じゃがお前ともあろう男が読み違えたのう。わしの弟子候補と戦うには早すぎたようじゃ。壊すのには惜しい才じゃが、お主の弟子であればまぁ良かろう」
「…………………」
美雲にそう言われても、ジュナザードが特に反論することはなかった。マンゴーを食べながら、黙ってクシャトリアと樋上の死合いを見ている。
師匠の性根を知っているクシャトリアからしたら野次を飛ばされるより、沈黙される方が恐ろしい。
敗北すれば先ず死ぬだろう、と改めてクシャトリアは再確認した。
「はっ――――!」
いつまでも向かってこないクシャトリアに痺れを切らした樋上が踏みこんでくる。
ただでさえ体格で劣る自分は耐久力で不利だというのに、樋上の結界――――美雲の口振りによれば制空圏――――に取り込まれれば、怒涛の連続攻撃で抵抗する力すらなくボロボロにされるだろう。
兎にも角にもやられるわけにはいかない。クシャトリアは全力で樋上から後退していった。
耐久力では体格のある樋上が勝るが、速度ならジャングルで鍛えたクシャトリアに分がある。
狭い室内であるにも拘らず、子供の小躯故の小回りとすばしっこさで制空圏から逃れていった。
「逃げ足の速い。だが逃げてばかりじゃ勝てないぞ!」
(……ごもっとも)
追う方と追われる方。どちらが有利なのかは状況による。
だがこの狭い室内での追走劇ならば逃げ場所が少ないため圧倒的に追う側の有利だ。いつまでも逃げることに徹していたら、逆に自分の体力が尽きてしまう。
(樋上の『制空圏』とかいうもの。それを崩さなければ勝ち目はない)
確かにクシャトリアは緊湊に至っておらず、未だに開展にいる武術家。対して樋上はまだ漸く至ったばかりとはいえ緊湊に至った武術家。
総合的な差でいえば僅かなもの。兵法次第で幾らでも逆転できるものだが、ある一定の領域に至っているか至っていないかの差は大きい。
「だが制空圏だって無敵じゃない!」
「くるか」
逃げてもいずれ死ぬなら、リスクがあったとしても攻めるしかない。
クシャトリアは後退から一転して全速力で樋上に目掛けて突進する。だが樋上の制空圏に入る直前で、直角で横合いに曲がり、樋上の背中に回し蹴りを入れる。
前から駄目なら後ろからと思っての行動だったが、それも通用することはなかった。
「鋭い蹴りだ。だがその蹴りでも私の制空圏は……崩れない!」
「っ!」
クシャトリアの蹴りを掴んだ樋上は、その足を離す事なくクシャトリアの顔面に両手で止めを刺してきた。
これを喰らう訳にはいかない。咄嗟に横に転がり、それを回避して空いた片方の足で樋上の顔面を蹴り払う。
「ちっ!」
蹴りを防ぐのに樋上が手を離す。それと同時にクシャトリアは飛び起きて、また全速力で後退した。
「だから逃げてばかりじゃ勝てないと、何度も言っているだろう。今度は逃がさない。覚悟して貰おう」
樋上の両目が妖しい光を発する。両手を広げ、前面の退路を塞ぎながら近付いてくる。
クシャトリアは樋上が近付くごとに後ろへ退いていくが、
「!」
遂に背中が壁に突き当たった。
「追い詰めたぞ」
「……!」
部屋の角に追い詰められたクシャトリアには、もはや後ろどころか左右にも逃げ場はない。肝心の前は樋上の制空圏が完全に塞いでいる。
今のクシャトリアは蜘蛛の巣にかかったトンボも同じだ。そして獲物を糸で絡め取った蜘蛛は、優位に立ちながらも油断なく慎重にこちらの喉元を食い破ろうとしている。
(どうする、この状況……)
逃げる、降参するという選択肢がない以上、クシャトリアがとれるコマンドは少ない。
自決などは論外だ。命乞いだって意味はない。攻撃か防御か、どちらか一つを選ぶしかないのだ。
クシャトリアからしたら防御を選びたいが、自分のような小躯が制空圏に飛び込んで意識を失わずにいられるか怪しいものがある。
これでもう少し自分が、せめて高校生くらいの年齢で尚且つタフならば、一か八かで制空圏に飛び込んで、強引に近付いていくなんて根性論的作戦もとれたのだが、今のクシャトリアではそれも出来ない。
だとすれば残るのは、
(奴の制空圏を破るしかない!)
如何な制空圏とて絶対無敵などではないはずだ。
もしそうだとすれば制空圏が使える者は全員無敵ということになっているし、そもそも歴史上で一般兵に打ち取られた豪傑なんて幾らでもいる。歴史に名を残すほどの豪傑が、よもや緊湊に届いていないなんていうこともないだろう。
彼等の死が制空圏が無敵ではないことを現している。
(そうだ……俺は一度、あいつに攻撃を喰らわしている)
あれは死合いが始まったばかりの、未だ樋上が制空圏を張っていなかった戦いでのことだ。
だから厳密には制空圏を破ったわけではないのだが、それならばそもそもどうして最初から制空圏を発動しなかったのかという疑問に行き付く。
クシャトリアを子供と侮っていたから、という可能性もある。だが尊敬する達人に弟子入りできるかどうかの分水嶺で、絶対的優位に立ちながら油断しないような相手がそんな舐めたことをするだろうか。
(いや、しない。つまりは)
まだ樋上という武術家は制空圏を完全には使いこなしていない。そのせいで発動するにも時間がかかったのだ。
今の自分では完全な制空圏を打ち破るのは難しいかもしれない。しかし未だに不安定な制空圏ならば、或いは崩すことも出来る可能性はある。
「カッカッカッ。そうじゃ、殺れ。殺らねば死ぬのはお前自身じゃわいのう」
ジュナザードの言葉、それが終わると同時にクシャトリアがその場で屈みこんだ。
制空圏を発動しているからか樋上が不穏なものを察知したのだろう。クシャトリアを取り押さえるべく近付いてきた。それこそがクシャトリアの狙いとも知らずに。
「秘技……畳返し!」
「なっ!」
ちゃぶ台返しの容量で畳を返して樋上にぶつける。
まったく予想外のことに樋上が呆気にとられ、向かってきた畳を防ぐのに〝両手〟を使った。
「こんなもので……!」
だが畳を振り払った時、そこにはさっきまでいたクシャトリアの姿はない。
瞬間移動したように消えたクシャトリアに樋上は呆然とするが、明かりが映し出した影がクシャトリアの居場所を教えていた。
「上か!?」
そう、畳で樋上の視界を封じた僅かな隙に、クシャトリアは壁を駆けあがり上へ跳んでいたのだ。
前後左右が塞がれたのならば、行く場所は上のみ。
まるで背中に翼が生えているかのように樋上の真上へと躍り出たクシャトリアは、樋上の制空圏が崩れて結界が綻びが出ているのを悟る。
千載一遇の好機。ここを外せば、勝ち目は永久に失われる。
「ここだぁ!
制空圏に空いている穴目掛けて、全体重をのせた蹴りを首筋に叩き込んだ。
「がっは……! お、のれ……」
急所である首に強烈な蹴りを喰らったものの、樋上はどうにか堪え再び制空圏を張り直そうとする。
しかしクシャトリアは敵にそんな時間など与えてはやらなかった。
「カッ、カァアアアアアアアアアッ!!」
樋上という一人の人間が完全に動きを停止するまで、急所という急所に攻撃を続ける。
何十秒、または何分ほどそうしていたのかはクシャトリアにも分からない。だが、
「それまでじゃわいのう」
肩に手を置かれ、それが自分の師匠のものだと分かると漸くクシャトリアは攻撃の手を止めた。
「ぐ、師匠……」
「残念じゃったのう女宿の。我が弟子クシャトリアは絶望的な生と死の狭間に追い込んでこそ。それを読めなんだアンタの負けじゃわいのう」
「別にそこで転がっている男はわしの弟子じゃなく、あくまで弟子候補。わしが櫛灘流を教え込んだ本物の弟子であれば、ここで伸びていたのは主の弟子の方だったろう」
「カーカッカッカッカッ! 九拳の一人ともあろうものが負け惜しみかいのう!」
げらげらとさも面白可笑しそうに笑う師匠と、能面のように無表情の櫛灘美雲。自分の師匠は通常運転だが、美雲の方はジュナザードに対して苛立ちを覚えているようだった。
彼女から発せられる冷たい殺意に、クシャトリアなど意識を手放してしまいたいくらいだというのに、まったく動じずに挑発する師匠は流石と言う他ない。見習いたいとも思わないが。
「じゃがお前の言う通り負けは負け。賭けに従い、お前の弟子は暫くわしが預かる。クシャトリアと言ったか。そちも異存はなかろうな?」
「……もう、諦めていますから」
それにこの人の方が師匠のジュナザードと比べればマシかもしれない。
勿論より最悪という可能性も皆無ではないが、幾らなんでもジュナザードより酷い師匠が他にいるとは思えなかった。
だから諦め半分、期待半分でクシャトリアは頷く。
「クシャトリアよ。励んでくるのじゃぞ」
さも好々爺みたいに餞別の言葉を送るジュナザードだが、クシャトリアには師が何を言いたいのか分かる。
櫛灘流に伝わる二十代そこそこで時を止める永年益寿の秘伝。それを少しでも探ってこいと言っているのだ。
「……努力します」
断言するのも恐ろしくて出来なかったので、仕方なくクシャトリアは政治家みたいな曖昧な返事を返した。