曰く、人間には自分の人生を最低だと思う日が来るとのことだ。
クシャトリアにとってジュナザードに出会った瞬間から、人生は一気に崖下まで一直線。
それからどん底のどん底といっていい生活が続いているわけであるが、ジュナザードに出会ったその日が最低の最低。不幸の底の底だというのならば、今は少しはマシになっているのだろう。
少なくとも日毎ジュナザードに死ぬような修行を強いられることはないし、それなりに自由な時間もある。
闇から押し付けられる仕事は目が回り過ぎた挙句に飛び出すほどのものだが、不可能なわけではない。死ぬ気で頑張れば一時間ゆっくりと珈琲を飲みながら読書に浸る時間をとることもできる。
というわけで幼き日に最低の最低を経験した自分にとって、これからの人生で訪れる不幸などは所詮劣化品ばかり。恐れるに足らずだ。
〝自分の人生を最低だと思う日が来る〟
リミが押し付けてきた漫画の登場人物の残した名言である。
現実と夢の狭間で下らないことに思考を費やしていると、とうとう意識を落としているのがだるくなり、クシャトリアは渋々と目を開けた。
鼻につくのは薬品の臭い。お世辞にも裕福とはいえない病室。そして近くに感じられる達人の気配。
クシャトリアは直ぐに自分がどうしてこのような場所にいるのか、ここがどこなのかに当たりを付けた。
「――――どうやら世話になったようですね、岬越寺秋雨殿」
「おやおや。こういうのは医者の側が『目が覚めたようだね』と言ってから現状を説明するのがお約束というものだよ。シルクァッド・サヤップ・クシャトリア君。……ううむ。こうして君の名を口にしてみると中々どうして長いね、君の名前」
「名付け親は主に師匠だ。文句はそちらに言ってくれ」
「はははは。まさか、人の名前にケチをつけるほど私は人でなしじゃないさ。サヤップ・クシャトリア……翼もつ騎士。大抵の武人の異名は戦い方や流派によって決まるが、君の異名は名前を直訳したものなのだね」
「なにか気になることでもありましたか? 哲学する柔術家殿」
「大したことじゃないさ。ただ君も知っているかもしれないが、うちの弟子一号……兼一君は若いのに読書が趣味という今時珍しい若者でね。いつだったかも新しく学校に転任してきた教諭に、貸して貰った書物を楽しく読んでいたものさ」
「…………」
思い起こされるのは一影より荒涼高校潜入を命じられ直ぐのこと。
任務に入ったクシャトリアは白浜兼一に近づくため、彼の趣味で興味を引かせた。
「確かその教諭の名前は――――内藤翼だったかな?」
武術のみならず芸術、医術、果ては音楽まで極めた才気煥発の偉人。哲学する柔術家、岬越寺秋雨。その評判に偽りなしといったところだろう。
よもや僅かなヒントからクシャトリアの正体にまで感付くとは。ここまでくると素直に驚嘆する。
だがクシャトリアも任務で潜入している以上、そうそう正体を暴露するわけにもいかない。
潜入も不必要になっているが、一影の許可があるまでは面倒でもあの学校に留まる必要がある。
「共通の趣味をもつ先生と出会えて御宅の兼一君もラッキーでしたね」
心を閉ざす。ジュナザードの眼力から逃れるため必死になって獲得した閉心術だ。如何な岬越寺秋雨といえど、心を閉ざしたクシャトリアの内心を読むことは出来ない。
ただ岬越寺秋雨もさほど熱心に探りをいれてきたわけではないが、ふっと笑うと。
「君もとうに把握していることだろうが、医者の義務として念のために説明しよう。洞窟から脱出した後に倒れた君を――――」
「所属が所属なので一般病院に送るわけにもいかないから、梁山泊に連れて行き岬越寺殿が治療を担当した。敵である俺を助けたのは活人拳としてのスタンスから、あともう一つは俺が兼一君を庇ったお礼。そんなところでしょう?
まぁ感謝はしていますよ。朝目覚めたらビッグロックの監獄の中っていうのも洒落になりませんからね」
「心配しなくてもそんなことはしないよ。君ほどの達人になると、しっかりと戦いで負かしてからでないと牢獄の役目を果たしてくれないだろうしねぇ」
「…………成程。つまりビッグロックとは――――」
「
静寂を打ち破る途轍もなく騒々しい声が病室に響き渡る。病院内ではお静かに、という常識に唾を吐く所業に、医者である秋雨は苦笑するだけだった。
ドタドタと足音を鳴らしながら、クシャトリアのいる病室にリミが飛び込んでくる。
「師匠! いつもニコニコあなたの隣に這い寄る愛弟子、リミがお見舞いにや――――どぶぅらぁ!?」
弾丸をも弾く手甲がリミの脳天にクリーンヒットし、リミがすっ転んだ。手甲の方は器用に秋雨がキャッチして、置いてあった場所に戻した。
「すまん。意図的に手元が狂った」
「う、うぅ……。い、意図的ってわざとってことじゃないですか! 女の子の顔に物を投げつける人は将来DV夫になる確率が高いんですお! ソースはこの前見たドラマ」
「心配するな。俺も男、死合い以外で女性を殴るような下種じゃない」
「な、ならリミは!?」
「内弟子に女の子も糞もないだろう」
「ガーン!」
肉体的ダメージに精神ダメージの追加攻撃でリミは完全にKOした。ジャイアンにいじめられたのび太くんのように、地面にのの字を書いて落ち込む。
それを見かねてクシャトリアはポンと優しくリミの肩に手を置いた。
「リミ……。そう落ち込むな」
「ぐ、師匠?」
「これ俺が寝てた間の修行メニュー。今日中にやっておけ」
「ぎゃぁああああああああああああああああああああああああ!」
修行メニューと口に出した途端、リミは脱兎のごとく病室から逃げて行った。
まだ弟子クラスだというのに妙手にも迫る反射神経である。危機回避能力を高めていった甲斐があったというものだ。
「素直な子だな。なんだかんだで師を心から尊敬し愛している……良い弟子だ。ただどことなく危うい所もあるように見えるが?」
「リミは一途だからな。まったく寄り道せずに、家に帰るだけの日々が毎日続けば心に支障をきたすこともあるだろう」
「そちらの悩みかね? いやはや、若き青春というのはいいものだねぇ」
岬越寺秋雨がしみじみと頷く。このくらいの年齢になると、青少年の恋愛事は人生を潤す楽しみの一つなのだろう。
主にリミ関連でクシャトリアにも覚えがある。
「白浜兼一君も青春真っ盛りじゃないので? ほら、無敵超人の孫娘の風林寺美羽と」
「う~ん。あの二人はなんだかんだで強い絆で結ばれた相思相愛の間柄と睨んでいるが、何分二人とも恋愛方面には奥手だからねぇ。私もアドバイスしたことがあったのだが、あんまり兼一君の役に立っていないようだし」
哲学する柔術家のことだ。恋愛相談なんて俗な悩みに宇宙法則だか物理法則を入り混じて助言したのだろう。
読書好きな趣味から分かる通り白浜兼一は典型的な文系。物理法則などで恋愛を説明されてもチンプンカンプンだったに違いない。
「ついでに長老は『美羽と結婚するのは自分を倒してから』なんて言うものだから、あれは成就するまで長いだろうね」
「おいおい」
無敵超人を倒すほどの武人となれば、それはもはや特A級をも超えた超人だ。
達人ですらまともな方法では到達不可能な頂きだというのに、超人となれば一体どのような地獄を超えればいいのか。
「ま、それはさておき。取り敢えず梁山泊に病人を襲うような人間はいないから、傷が癒えるまでは療養していくといい」
「……言葉に甘えさせて貰うよ」
幸い秋雨の処置が良かったので、直ぐに戦線復帰は叶うだろう。ただその前に闇と連絡をとらなければなるまい。
クシャトリアは電話を探して立ち上がった。