史上最凶最悪の師匠とその弟子   作:RYUZEN

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第37話  名将の心得

 偶然付き添いを頼まれた刀狩の依頼に、偶然緒方が梁山泊に宣戦布告したタイミングで、偶然に梁山泊の達人の一人とミッションがバッティングする。

 これを全て単なる偶然と片付けるほどクシャトリアは能天気ではない。ここまで偶然が重なればそれはもはや必然だ。

 大方梁山泊との戦争を望む美雲が、自分の弟子に達人の対武器戦と武器術を見せる為にこれを仕組んだのだろう。

 

(相変わらず食えない人だよ)

 

 櫛灘美雲という人間がいなければクシャトリアはいなかった。

 これは決して比喩表現ではない。美雲の所に預けられるという心が安らぐ時間がなければ、ジュナザードの下での地獄に耐え切れず、肉体が無事でも精神が壊れていただろう。

 その意味で櫛灘美雲はクシャトリアにとっては命の恩人だ。だがその命の恩人はジュナザードほどでないにしても、こうして自分を困らせて楽しがる節があるのが頭の痛いところである。

 

「剣と兵器の申し子、香坂流武器術の継承者。こんな所で梁山泊の達人と出逢うなんて光栄の至り。だがこちらも仕事でね。その刀を闇の武器組のところへ持ち帰らないといけない。出来れば退いてくれると嬉しいんだが?」

 

「だ…め。ボクもその刀に用があって来…た。刀を置いて行け。さもなければその首級頂戴す…る」

 

 香坂しぐれから噴き出した鋭利な刃物のようなそれにクシャトリアは目を見張らせる。

 なんの飾り気もない相手の命を奪うことだけを追求し尽くした限りなく純粋なる殺意。その規模ときたら気当たりを受け流す修行を積んだクシャトリアですら僅かに肌がささくれるほどだ。

 千影などは心の底に沈めたはずの本能的恐怖を呼び覚まされ、クシャトリアの背後に隠れてしまっている。

 

(驚いた。活人拳、いや武器使いだから活人剣か。活人剣の使い手がここまでの殺気を放つとは。色んな意味で驚きだ)

 

 強烈な殺意を嗅ぎ取って、クシャトリアの魂に焼き付いた魔物が眠りから覚めつつある。

 魔物の名前は生存本能。今日に至るまでシルクァッド・サヤップ・クシャトリアを地獄から生還させ続けた、生物なら誰もが持つ欲求だ。特A級という頂きまで上り詰め、肩を並べる武人が数えられるほどになった今、クシャトリアの内に眠るものが目覚める機会は少ない。

 何故ならば人並み外れた生存本能が目覚めるには、命の危険が必要不可欠なのである。特A級の達人に命の危険を抱かせるのは同じ特A級の達人か、それ以上の怪物だけだ。

 そしてクシャトリアの魔物を目覚めさせた香坂しぐれは確実に特A級の達人。闇に堕ちれば一人を脱落させてでも八煌断罪刃に選ばれるほどの逸材だ。その武人が殺意を放つなら、クシャトリアに命の危険を感じさせるには十分すぎる。

 張りつめた一触即発の雰囲気の中、無手と武器の達人は睨みあう。そして、

 

「な~んちゃっ……た」

 

「へ?」

 

 断頭台のように張りつめた空気が一気に雲散した。

 ついさっきまで鋭利な刃物ほどの殺意を放っていた香坂しぐれは、完全に殺意を引込めてしまっている。変わりに放たれているのは活人剣の武人らしい、殺意なき純粋な闘志だ。

 余りのことに先程までの殺意が冗談だったと理解するのにクシャトリアは1.5秒を擁した。

 

「なんちゃった? そこはなんちゃってじゃないのか?」

 

「ボクの家ではそうなん…だ」

 

「へ、へぇ~。日本は不思議が沢山あるんだな」

 

 香坂しぐれにはクシャトリアを倒して刀を奪う気はあっても、クシャトリアと千影を殺す気はないということだ。余りにも殺人拳に浸り過ぎたクシャトリアからしたら、闘志を向けられつつも殺意はないというのは少しばかり戸惑いがある。どうにもしっくりこないとでもいうのだろうか。

 クシャトリアはジュナザードのように常に殺し合いを求める武術的狂気は持ち合わせていない。だが刀を渡してお引き取り願うという魅力的な選択が諸々の事情で出来ない以上、戦う他ないのだ。

 己の武器である拳を握ると、背後にいる千影に兄弟子として口を開く。

 

「千影。これより対武器戦の実戦を見せる。よく見ておくように。……ただ相手が相手だ、悪いお手本を見せることはできないが、そこは自分の想像力で補ってくれ」

 

「はい、先生」

 

 流石に千影は師の教育が行き届いている。武器を己の手足とする武器使いの制空圏は、武器のリーチ分だけ無手の武術家の制空圏よりも巨大になる傾向がある。その例に漏れず、香坂しぐれの制空圏はクシャトリアどころか、その背後にいた千影まですっぽりと覆っていた。

 その制空圏の広大さを視た千影は、自分の身長ほどもある刀を抱えたまま、香坂しぐれの制空圏の外へと出ていく。

 

「さて。そちらも頭の上に乗っけている鼠を降ろせ。戦いに巻き込んで、ペットを死なせたくないだろう?」

 

「優しいんだ…な。お前……」

 

「無駄な殺生は主義じゃないだけだ」

 

 殺人拳にどっぷり浸かっておいて、今更不殺を騙るわけではない。ただ闇でのた打ち回る悪鬼にも一欠けらの矜持くらいはあるだけだ。

 それに経験上、活人拳の使い手は自分の痛みより他者の痛みに怒る者が多い。わざわざ彼女のペットらしい鼠を傷つけて怒りを買うこともない。

 しぐれと対峙しながらクシャトリアは美雲から譲られた手甲を宙に放ると、慣れた動きでそれを両腕に装着する。

 

「いざ!」

 

 無手にて挑むクシャトリアに剣と兵器の申し子がとった武器は――――背中に背負う日本刀だった。いや人を斬る事に追及し尽くしたそれは日本刀というより人斬り包丁と称した方が相応しいかもしれない。

 大剣すら弾くクシャトリアの手甲も、達人の一振りをまともに受ければどうなるかは語るまでもない。が、まともに受けられないならば、まともに受けないのみ。

 突きの際に腕を回転させ渦を生み出すことで、風すら置き去りにする刃を受け流す。並みの剣士相手ならこれだけで決着がついていたかもしれないが、言うまでもなく香坂しぐれは並みの剣士などではない。

 クシャトリアが渦で刃を受け流したのならば、しぐれは極限まで力を抜いて、柳のような動きで受け流す。クシャトリアの突きはしぐれを霞めただけで終わり、今度はしぐれが逆襲とばかりに音速の刃を振るった。

 

「っと。危ない危ない」

 

 はらりと数本の髪の毛が落ちた。服の肩が切れ、そこからスーツの中に着込んだワイシャツが覗く。

 クシャトリアは斬撃を完全に回避しきった。おまけにしぐれは殺さぬよう刀を返し切断力のない背面で刃を振ったのである。だというのにこの様。直撃を喰らえば痛いではすまないだろう。だがなまじ目が良すぎるせいで、当たっても死にはしないだろうという安心がクシャトリアの動きを鈍らせてしまう。相手に殺意がないとやる気が出ないのは昔からの欠点だ。

 動揺をよそにしぐれは休む間など与えてはくれない。驚くべき事にしぐれは刀から両手を離した。剣士が自ら刀から手を離すなど正気の沙汰とは思えない行為だが、香坂しぐれはただの剣士ではない。剣士でもある武器術の使い手だ。

 

「香坂流…五月雨手裏剣」

 

 刀から手を離した一瞬で、しぐれは無数の手裏剣を投げつける。完全に円形に見えるほど高速回転する手裏剣はさながら極小の竜巻だ。弾丸並みの速度のそれが直線的ではなく変幻自在の軌道を描きながらクシャトリアに向かってくる。

 しかもただ全ての手裏剣が馬鹿正直に対象に向かうのではなく、一部の手裏剣は意図的に対象ではなく対象の逃げ場となるであろう場所に飛んでいた。ある一定の領域に達した武術家同士の戦いは殴り合いや斬り合いというよりも、囲碁のような陣取り合戦となるものだが、それは無手と武器使いの戦いにおいても例外ではない。

 

(兵器の申し子は伊達じゃないか! 手裏剣術も剣術並みに達人とは恐れ入った!)

 

 日本で武士が修得するべしとされた武芸十八般といえば棒術、杖術、短刀術、剣術、弓術、槍術、手裏剣術、十手術、薙刀術、鎖鎌術、捕手術、含針術、柔術、馬術、水術、抜刀術、隠形術、砲術などがあげられるが、香坂流武器術を修めた香坂しぐれは無手の柔術など以外は全て同レベルで修得していると考えてよいだろう。

 見た目から判断するにまだ三十にも達していないというのにこの技量。末恐ろしいものだ。年齢に関してはクシャトリアも人の事を言えた義理はないが。

 

「無数の手裏剣が相手ならば……無数の体で相手しよう!」

 

 体内を巡る気を練り上げ、それをもって己自身を形作る。気当たりを用いた技術のその究極系、気当たりにより完全に自分と同一の気配をもつ残像だ。

 勿論完全同一の気配をもとうとそれは気当たりが生み出した幻。蜃気楼のようなもの。弟子クラスのような格下相手なら、高速移動を駆使して完全に分身したように振る舞うことはできるが、同レベルの達人相手にそんなことはできはしない。

 生み出された残像は本物のように攻撃するかもしれないが、その残像には実体などありはせず、残像の攻撃を喰らっても傷一つ受けはしないだろう。

 だがそれで十分だ。どの残像が本物なのか分からないのならば、一つの本物の攻撃を躱すために全ての残像の繰り出す攻撃に対処しなければならないのだから。

 クシャトリアの気当たりで生み出された寸分変わらぬ二つのシルクァッド・サヤップ・クシャトリアの影。手裏剣を強引に叩き落としながら三人のクシャトリアがしぐれに襲い掛かる。

 

「っ!」

 

 気当たりで残像をも生み出したことには、さしものしぐれも驚愕したようだ。本気になれば残像は十以上は出現させられるジュナザードに対抗するために会得した残像は、視覚は勿論のこと武術家としての第六感でも初見で見抜くことは不可能な代物である。

 更に言えばクシャトリアとしぐれの実力はほぼ拮抗している。実力の拮抗した相手による一つの本物と同時に二つのによる一斉攻撃。如何な兵器の申し子といえど苦戦は免れまい。

 が、その考えが甘かったことをクシャトリアは悟ることになる。

 しぐれの刀としぐれ自身が混ざり合ったように同色に染まっていく。元々手足のように使っていた刀が、完全に香坂しぐれそのものとなっていった。

 この感覚をクシャトリアは何度か見た事があった。故にクシャトリアはそれが来る前に全力で回避することができた。

 

〝心刃合錬斬〟

 

 武器を己の手足とする極意の先にある奥義。武器と己を一体化する、真の達人のみが体得できる武器術の到達点が一つだ。

 残像などものともせず、しぐれの一斬は完全に本物のクシャトリアを見切っていた。もしも知り合いの伝手で『心刃合錬斬』を見た事が無ければ、今頃クシャトリアの体には刀の峰で殴りつけられた痕がくっきり浮かんでいたことだろう。

 

「驚いたな。俺の残像を一瞬で看破するなんて、一体全体どんな魔法を使った?」

 

「臭…い」

 

「なに? ――――そうか。手裏剣に塗ってあった痺れ薬。あれを喰らうようなヘマはしなかったが、匂いだけは手甲に付着していたわけか」

 

 自分の手甲にこびり付いている花粉の匂いを嗅ぎ取る。手裏剣に痺れ薬を塗っておく用意周到さもそうだが、残像を見た一瞬で視覚でも第六感でもなく、嗅覚で本物と偽物を判別することを選択するという決断力も見事なものだ。

 気当たりによる残像は視覚を騙し、第六感すら欺く。しかしさしもの気当たりも手甲にこびり付いた匂いまで再現することはできない。

 にしても恐るべきは香坂しぐれの嗅覚。

 達人であれば五感といえるもの全てが常人の及ばぬ領域にまで高められているものだが、僅かな痺れ薬の臭いをかぎ取るほどとは相当なものだ。

 

(これ以上は些か危険、か)

 

 別に追い詰められているわけではない。だがこれ以上やるのならばクシャトリアも完全に殺る気を出さざるを得なくなる。というよりも殺人拳の担い手であるクシャトリアは、本気を出すには拳に殺意をのせなければならない。

 だが香坂しぐれはクシャトリアを倒す気ではいるが殺す気ではない。こちらに殺意のない相手と達人未満を殺めるのはクシャトリアの主義に反する事だ。

 かといって、みすみす撤退を許してくれるほど甘い相手ではないだろう。

 

「そちらが奥義を見せたのならば、こちらも面白いものを見せよう」

 

 丁度良いタイミングでもあった。かねてより緒方と共同開発していた例の技。それをより洗練させるためにも、いつかは自分自身で使わなければと思っていた所だ。

 香坂しぐれであれば技の実験台として申し分ない。

 

「静動轟一ッ!」

 

「……! それ…は」

 

 静の気と動の気、対極にあり決して交わることのない二つの気が『シルクァッド・サヤップ・クシャトリア』という器の中で溶け合い融合していく。

 静の気と動の気の同時発動。これは言うなれば密閉空間で火薬を爆発させ続けるようなもの。一時的に正確無比にして強力無比な攻撃を繰り出せるようだが、その反面、長く発動していれば肉体と精神が崩壊する。

 緒方の弟子であった朝宮龍斗が使用し再起不能になったという曰くつきだ。達人とはいえ使用には相当の危険を伴う。

 だがクシャトリアはこと気の扱いに関してはエキスパート。朝宮龍斗とは違い、自分の肉体と精神が崩壊しないですむギリギリのタイミングは心得ている。

 

「……ゆくぞ」

 

 心の中を荒れ狂う気を内部で抑えつけながら、クシャトリアは猛獣のように猛々しく、学者のように理知的に技を繰り出した。

 静の気らしい鉄壁の制空圏を張りながら、暴風の如き拳の連打でしぐれの制空圏を崩していく。

 しかし香坂しぐれも武器術を極めた真の達人。再びその姿が己の刀と重なり合っていった。

 

――――心刃合錬斬。

 

 己と武器とを完全に一つとする、武器術の一つの到達点。

 されど香坂しぐれが武器と己を一つにするというのであれば、今のクシャトリアは静と動を轟一させている。相容れぬものを強引に融合させた気の奔流、武器と己の同一に劣るものではない。

 

「静動轟一・地転蹴り(トゥンダンアン・グリンタナ)!」

 

 刃の一閃と蹴りが空中でぶつかり合い、周囲に突風を撒き散らした。

 技の速度は互角。しかし動の気の爆発分だけ破壊力でクシャトリアが勝った。しぐれの脇腹に受け切れなかった蹴りが霞める。

 ここが攻め時と判断したクシャトリアは更に追撃をかけるべく、地面に両掌を叩きつけた。

 

「秘技・地脈返し」

 

 地面に流し込まれた力が、大地をガムテープのようにめくり上げる。地面を返したことで香坂しぐれの退路を塞いだ。後はひたすらに突撃して畳み掛けるのみ。クシャトリアはしぐれを潰すために飛びかかった。

 だがここでクシャトリアにとっても想定外の事が起こる。

 

「っ! 闘忠丸、危な…い!」

 

 地脈返し、その広範囲な技は香坂しぐれのみならず、礼儀正しく地面に座り込んでいたペットの鼠まで巻き込んでしまっていた。

 香坂しぐれのペットの闘忠丸は鼠だてらに優れた力量をもつ武人。天敵の猫が来ようと返り討ちにするだけの実力をもっている。しかし特A級の達人の技を回避するのは難しい。

 しぐれが鼠を守る為に生まれた隙、そこへクシャトリアの突きが叩き込まれた。

 

「……流石」

 

 静動轟一を止めて、元の静の気のみの発動に戻す。

 やはり梁山泊は伊達ではない。あれだけ隙を見せたのに見事に鼠を守り切り、しかも咄嗟に体を回して致命傷を避けた。回避力においてはクシャトリアを上回っている。

 鼠を傷つけられかけたしぐれは、僅かに怒りの籠った目を向けていた。

 

(香坂しぐれの首級か)

 

 倒すのならば予期せぬ一撃を浴びせられた今が好機だろう。しかし、

 

「退くぞ、千影」

 

 クシャトリアはあっさりと撤退を決断した。

 

「クシャトリア兄?」

 

「殺さぬよう鼠を降ろさせておいてこの始末。これで首級をとったら笑い物だ」

 

「逃げるの…か?」

 

「貴女も鼠を早く医者に見せたいだろう。ここは無効試合としておこう。決着はいずれ――――つけないで済むことを祈ってるよ。殺意をもたずに来る相手は苦手だから、出来る限り戦いたくない」

 

 それだけ言うとクシャトリアは千影を抱えて撤退する。

 彼女のペットの鼠は命に別状はないにしても傷を負っていた。死合いの中、自分の身を危険に晒してでも守ろうとしたペットである。医者に診せるのを優先し、追ってくることはないだろう。

 

「む。やられ…た」

 

 己を超える速度で全力で遠ざかっていくクシャトリアを見据え、しぐれは少しだけ悔しそうに呟いた。

 

 

 

 

 ジャングルファイトはシラットの神髄。故に青々と茂る木々の間を縫って全力疾走することなど、シラットを極めた武術家であるクシャトリアには造作もないことだ。

 戦いの中、純粋なスピードなら自分の方が勝っていると判断し、一目散に撤退したのは正解だったといえるだろう。周囲1㎞を見渡しても香坂しぐれの姿はない。少しひやひやしたが完全に撒けたようだ。

 

「良かったんですか? 逃げて」

 

 乱暴に抱えられ世界一恐ろしい絶叫マシーンより上下に揺られた千影は、頭に葉っぱをつけながら恨めし気に口を開いた。

 相手が相手だったとはいえ、少しばかり配慮して撤退するべきだったかもしれない。帰りに甘い物でも買ってやらなければ、これは機嫌を直してくれないだろう。

 

「確かに香坂しぐれの首級は目的の日本刀の百億倍は価値があるものだ。これを獲ることができたなら、俺の名声は鰻登りだろう。

 だがやるべきことをやり終えたら速やかに退くのが名将の戦というものだ。何某の刀を奪取するという当初の目的は果たしているわけだからね。あれ以上、戦うのは余計というものだ」

 

「名将、ですか?」

 

「孫子くらいは読んでいるだろう。神童なんだから」

 

「……はい」

 

 千影にはこう言ったがクシャトリアが香坂しぐれとの戦いを避けたのには二つほど理由がある。

 もしもクシャトリアと香坂しぐれが本格的に死合えば、それは宣戦布告で緊張状態にある闇と梁山泊の戦端を開く切欠となるだろう。そうすれば否応なく梁山泊の目は戦端を開いたシルクァッド・サヤップ・クシャトリアに注目するはずだ。

 梁山泊にはただでさえジュナザードと肩を並べる風林寺隼人という怪物もいる。そんな達人たちの矢面に立つなど御免蒙ることだ。

 そしてもう一つは、

 

(静動轟一、やはり危険な技だ)

 

 あのまま戦っていれば、そろそろ肉体と精神の崩壊が始まりかけていただろう。静動轟一で得た優勢など一時的なもの。香坂しぐれがそれを看破し、持久戦に持ち込めば逆にクシャトリアが窮地に追い込まれていたかもしれない。

 

(しかしこれで静動轟一がどういうものなのかも体感できた。暫くは静動轟一の研究を行って……実戦で使うのはもう少し後だな)

 

 ふとクシャトリアは想いだす。

 

「そういえばもうそろそろ一か月たつなぁ」

 

「一か月?」

 

「こっちの話しだよ」

 

 小頃音リミを無人島に置き去りにして丁度三十一日。生きていれば今頃は原始人みたくしぶとくなっている頃だろう。

 そこではたと気づいた。今日が丁度一か月目で、既に日は落ちあと数時間もすれば一日は終わる。そして日本からティダードまではどんなに急いでも飛行機だけで数時間はかかるだろう。そうなるとクシャトリアがどれだけ急いでも一か月後に迎えに行くという約束を果たすのは不可能ということになってしまう。

 

「ま、不測の事態に対応できるようになって武術家としては一人前か」

 

 これもまた修行の内と、ティダードに電話して別の誰かに行って貰うという選択を冷酷に切り捨てると、クシャトリアと千影は帰路についた。

 


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